吉備津彦さんのクチコミ(64ページ)全1,398件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
投稿日 2013年11月04日
総合評価:3.0
広島への出張で利用しました。9階に宿泊。2泊しました。朝食は1日目が和食と洋食を選べるタイプで和食を頂きました。2日目はバイキングでした。食事は東京のガーデンパレスと比べると落ちます。懇親会の会場もガーデンパレスでしたが食事はイマイチでした。
- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用目的
- ビジネス
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 7,500円未満
-
投稿日 2013年11月04日
総合評価:5.0
1706年(宝永3年)広島藩主浅野綱長により、広島城鬼門の方角に浅野長政の位牌堂を建立したのが始まりである。1810年(文化7年)浅野重晟・斉賢父子が、新たな位牌堂を建立した。1835年(天保6年)浅野斉粛が祖先追悼の為現在地に社殿を建立し、二葉御社と称した。1873年(明治6年)饒津神社と改称した。
1945年(昭和20年)広島原爆の爆風により本殿や唐門が瞬く間に破壊され、直後に本殿より出火、他の建物も類焼した。この時、石灯籠、手水桶などの石造物が残るだけ、樹木は10数本の松の木を残すのみという甚大な被害を受けた。また、境内の楠の大樹は、トンネルのようになって県道に覆いかぶさった状態になった。また原爆で傷つき市中心部から逃れてきた多数の被爆者の避難所となったが、人々の多くはこの境内で落命した。被爆後、京橋川を渡ってこの神社近くに避難し野宿した原民喜は、戦後発表した小説「夏の花」において、被爆当日の夜の状況を描写している。
戦後、仮殿、本殿が再建された。1984年(昭和59年)6月、本殿、拝殿、瑞垣が戦前の姿に復元された。2000年(平成12年)唐門も再建され(大きさは全国2位)、2005年(平成17年)唐門の前に木製の鳥居が再建された。
被曝した大きな狛犬、手水鉢、石段、灯籠(倒壊のため石の一部が欠けている。)がある。
石造物の手水鉢や唐門周辺の敷石が欠落・ひび割れ・変形しているのは、それぞれ手水舎の建物や唐門が焼け落ち、その炎熱による損傷であり、石灯篭の被害も見える。昭和59年、本殿拝殿社務所などを復興したが、傷んだ石造物は補修せず原爆被災の証としてそのまま残されている。
平成15年には饒津神社の歴史とともに歩んだ被爆松の最後の一本が枯れ、切株の一部は保存展示されている。- 旅行時期
- 2013年10月
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
88箇所遍路道、結願の大窪寺に行く前にほっとひと息できる道の駅です
投稿日 2013年11月03日
-
投稿日 2013年11月01日
-
投稿日 2013年10月18日
-
投稿日 2013年10月23日
-
投稿日 2013年10月21日
総合評価:5.0
私学の雄、言わずと知れた福沢諭吉が創設者した慶応大学。名前の由来は江戸時代慶応時代に創設された大学です。草創期の雰囲気を残す三田演説館、レトロな旧図書館、そしてガラス張りの最新の建物が混在するキャンパスです。
- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2013年10月21日
総合評価:5.0
三田演説館は日本最初の演説会堂である。福澤先生の建造にかかり、開館は明治8年5月1日。当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位していたが、大正13年、現在地―三田構内南西の小丘稲荷山上に移築され、さらに昭和22年5月修復がほどこされて、同40年には開館以来まさに90年を閲し、10月22、23両日にわたって記念の行事が行われた。しかも、この間、大正4年東京府からはやくも史蹟に指定され、また昭和35年3月には東京都重宝(建造物)の指定をうけ、さらに同42年6月には重要文化財に指定されている。
演説といえばいまでこそ知らぬ者はいないけれども、わが国で初めてそれが試みられたのは実に明冶6年のことで福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始したものである。そして、翌7年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説会堂であった。構えは木造瓦葺、洋風、なまこ壁で、床面積58坪余(192.16平方メートル)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34平方メートル)になる。聴衆400、500名を容れるに足り、ちようどそのころアメリカにいっていた富田鉄之助に依頼して種々の会堂の図面をとりよせ、それを参考に二千数百円を投じて造られたという。
後年、福澤先生はこれにつき、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存す可きものにして、幸に無事に保存することを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」(「福澤全集緒言」)といっておられるが、あえて五百年といわず、今日すでに立派な名所となって、見学者も少なくない。ことに、近年しきりに明治建築の保存がさけばれているとき、この建物はその意味においてもはなはだ貴重といわなければなるまい。三田演説館はひとり慶應義塾にとってのみならず、日本の誇るべき文化財の1つである。
なおこの建物は平成7年12月より1年4か月かけて解体修復が施され、平成9年4月に完成した。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2013年10月20日
総合評価:5.0
道の駅「笠岡ベイファーム」は広大な笠岡湾干拓地内にあり、岡山県内16番目の 道の駅としてオープンしました。春は菜の花、夏はひまわり、秋は秋桜が美しい。ただいま秋桜が満開です。秋桜畑には一段高い展望台が設けられており秋桜畑を一望できます。秋桜畑の沈む夕陽がまた美しい。
- 旅行時期
- 2013年10月
- バリアフリー:
- 5.0
- トイレの快適度:
- 5.0
- お土産の品数:
- 5.0
-
言わずと知れた忠臣蔵の聖地、内匠頭、妻阿久里、赤穂浪士のお墓に吉良上野介の首洗いの井戸もあります。
投稿日 2013年10月20日
総合評価:5.0
人気の観光スポット平日でも線香の煙は絶えません。赤穂浪士のお墓コーナーがあり火の付いた線香を販売しています。
慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に今川義元の菩提を弔うために門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。この縁で元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られることになった。毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、その妻阿久里の墓、元禄15年(1702年)12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓がある。
赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔がある。48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。
墓地には石段を登って門をくぐり抜けるようになっていますが裏側にスロープがあり車椅子の方にも配慮されています。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2013年10月20日
総合評価:2.5
展示作品が少なすぎる。台風で庭の盆栽を移動させているからとの理由で庭には立入り禁止。小雨は降っていましたが傘をさしてでも観たいのに。これなら閉館にすべきでしょう。それか入館料は無料にすべき。まったく融通の効かない美術館です。次回来た時に見てくれと入場券をくれましtが遠く岡山からですからもう二度と行く気はありません。
写真撮影も一切禁止。もっと盆栽を広めたいならフレンドリーな美術館になって欲しい。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 1.0
-
投稿日 2013年10月18日
-
投稿日 2013年10月18日
総合評価:4.0
武蔵国一宮が江戸ではなく大宮に在る所に歴史を感じさせます。大宮の地名も氷川神社が由来である。
東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は大宮氷川神社とも呼ばれる。
神社の境内は見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。現在の神池は、見沼の名残である。埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布する。
富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。なお、この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが別のものである。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
田安門は東日本大震災で屋根瓦のずれや漆喰壁の剥落等の被害を受けたので工事中です
投稿日 2013年09月22日
総合評価:4.0
門名の由来は、門内には田安台といって,はじめ百姓地で田安大明神があったので門名に称としたという。江戸城経営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女の隠遁所となった。有名な千姫,春日局や英勝院の屋敷などもここにあった。
享保15年(1730)八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興した。
また宗武の子松平定信(白河楽翁)はこの地で生まれている。現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家,東側一帯を清水家が所有していた。
現在は田安門から北の丸公園へ常時出入りできる。- 旅行時期
- 2013年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2013年09月20日
-
投稿日 2013年09月17日
-
投稿日 2013年09月17日
-
投稿日 2013年09月16日
総合評価:4.0
当寺の歴史は南北朝時代の正平2年(1347年)京都妙顕寺の座主であった大覚大僧正が法華堂(本堂)を建立したことに始まる。牛窓は古来より風待ち・潮待ちの港として栄えた。江戸時代には朝鮮通信使が寄港し当寺に滞在し、岡山藩の饗応を受けた。牛窓では毎年10月第4日曜日に通信使の風俗を模したという「唐子踊り」が少年によって舞われている。
室町時代の明応元年(1492年)に再建された本堂は番神堂、中門と共に国の重要文化財に指定されている。
通信使が使用した客殿には、小堀遠州の手によるといわれる庭園がある(見学は要予約)。
平成6年(1994年)10月11日、「朝鮮通信使遺跡」として広島県福山市鞆町・福禅寺、静岡市清水区興津・清見寺とともに史跡に指定された。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
大阪城落城の炎を太閤未亡人ねねがこの場所から観たと伝説の残る高台寺
投稿日 2013年09月15日
-
投稿日 2013年08月20日
総合評価:4.5
子供の下宿に宿泊する予定でしたが宿泊できなくなり当日るるぶのサイトで探しチャックアウト12時までの素泊まりプランで宿泊しました。朝、皇居を散策してHOTELに戻りシャワーを浴びてから成田空港へ向かいました。ゆったりプランで良かったです。
- 旅行時期
- 2013年08月
- 1人1泊予算
- 15,000円未満
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 客室:
- 5.0
- 接客対応:
- 5.0
- 風呂:
- 4.0