「東京国立博物館」へのアクセス、JR「上野駅」公園口を出てそのまま直進します。「国立西洋美術館」を右手に見ながら220mほ...
続きを読むど進むと「動物園前交番」があるので、その先を右に曲がります。この時点で正面に「東京国立博物館」が見えます。「大噴水(竹の台噴水)」の脇を通り「東京国立博物館」の前の信号を渡ると右手に、「東京国立博物館」のチケット売場があります。
最初に、「東京国立博物館」の歴史と概要を紐解いてみると、「東京国立博物館」は明治5年(1872年)3月10日に、文部省博物局が湯島聖堂大成殿において最初の博覧会を開催したのを契機に開館した150年の歴史を誇る「博物館」です。「博物館」は開館後間もなく、現在の千代田区内幸町一丁目、帝国ホテル、みずほ銀行本店、NTT東日本などがある一帯の内山下町に移転しました。当初「ジョサイア・コンドル」が設計し、明治15年(1882年)に開館した「旧本館」は大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受けました。その後、昭和13年(1938年)に昭和天皇の即位を記念して開館したのが現在の「本館」です。その後、明治15年(1882年)に上野公園に移り、現在に至っています。その150年の歴史の中で受け継がれてきた収蔵品は約12万件といわれ、「国宝」が89件、「重要文化財」が650件(2024年4月現在)保存され、「総合文化展」では、常時3,000件を展示しています。年間約300回もの展示替えを実施しているため、何度見に行っても新しい発見があり、満足が得られる博物館であることは間違いありません。「東京国立博物館」の展示館は、「本館」、「平成館」、「東洋館」、「法隆寺宝物館」、「表慶館」、「黒田記念館」の全部で6館あります。「本館」では日本美術を、「平成館」では日本の考古を、「東洋館」では東洋美術、「法隆寺宝物館」では法隆寺献納宝物を展示しています。その他に、特別展、催し物の会場となる「表慶館」、そして、「東京国立博物館」の正門に向かって左方向に進むと、敷地外に洋画家「黒田清輝」の作品を展示する「黒田記念館」があります。
それと「東京国立博物館」の前庭や庭園には、野外展示、記念碑、茶室等も多数あり、「本館」、「平成館」などに負けないくらい、こちらも見どころ満載です。私は、全体の地理感覚を掴むために外周にある野外展から見て回りました。それから「本館」、「平成館」、「東洋館」、「法隆寺宝物館」の順で、それぞれの館を鑑賞しました。見学順路については、次の通りになっています。
★Ⅰ_【東京国立博物館での見学順路】
1_《「野外展示、記念碑、茶室等」の見学巡路》
①《エドワード・ジェンナー像》⇒②《朝鮮の石像》⇒③《中国の石像(獅子像)》⇒④《五重塔》⇒⑤《第二回内国勧業博覧会の碑》⇒⑥《町田久成の碑》⇒⑦《春草廬》⇒⑧《転合庵》⇒⑨《六窓庵》⇒⑩《有馬家墓石群》⇒⑪《応挙館》⇒⑫《九条館》⇒⑬《森鴎外総長室跡》⇒⑭《東京国立博物館 町田久成初代館長像》⇒⑮《阿吽のライオン像》⇒⑯《黒田家の江戸屋敷鬼瓦》⇒⑰《黒門》⇒⑱《旧十輪院宝蔵》
2_《「本館」の見学順路》
「本館」の1階は「ジャンル別展示」と「企画展示」、2Fは縄文時代から江戸時代まで、時代を追って展示する「日本美術の流れ」となっています。私は、1Fから見学したので次のようなコースになりました。
≪1F≫ ★「11…」の数字は展示ブースの番号です。
①《11…彫刻》⇒②《12…漆工》⇒③《13-1…金工》⇒④《13-2…刀剣》⇒⑤《13-3…陶磁》⇒⑥《14…特集(おひなさま)》⇒⑦《15…歴史の記録》⇒⑧《16…アイヌと琉球》⇒⑨《17…保存と修理》⇒2Fへ
≪2F≫
⑩《1-1…日本美術のあけぼの―縄文・弥生・古墳》⇒⑪《1-2…仏教の興隆―飛鳥・奈良》⇒⑫《2…国宝室》⇒⑬《3-1…仏教の美術-平安~室町》⇒⑭《3-2…宮廷の美術―平安~室町》⇒⑮《3-3…禅と水墨画―鎌倉~室町》⇒⑯《4…茶の美術》⇒⑰《5・6…武士の装い―平安~江戸》⇒⑱《7…屛風と襖絵―安土桃山~江戸》⇒⑲《8-1…暮らしの調度―安土桃山・江戸》⇒⑳《8-2…書画の展開―安土桃山~江戸》⇒㉑《9…能と歌舞伎》⇒㉒《10…浮世絵と衣装―江戸》
3_《「平成館」の見学順路》
「平成館」は、2Fは全て特別展専用の展示室で、1Fには、日本の考古の「通史展示」と「テーマ別展示」があり、旧石器時代から江戸時代までの日本の歴史を垣間見ることができます。何よりも歴史の教科書で見た埴輪、土偶などが目の前に所狭しと並べられています
≪日本の考古(通史展示)≫
①《1…氷河期の日本列島に暮らした人びと》⇒②《2…自然環境の変化と定住生活》⇒③《3…大陸との交流と稲作のはじまり》⇒④《4…政治的社会の成熟》⇒⑤《5…ヤマト(倭)王権の成立》⇒⑥《6…巨大古墳の時代》⇒⑦《7…地方豪族の台頭》⇒⑧《8…終末期の古墳》⇒⑨《9…律令国家の幕開け》⇒⑩《10…祈りのかたち》⇒⑪《11…中世のあの世とこの世》⇒⑫《12…江戸から掘り出されたモノ》
≪日本の考古(テーマ展示)≫
①《1…重要文化財》⇒②《2…縄文時代の祈りの道具・土偶》⇒③《3…縄文時代の装身具と祈りの道具》⇒④《4…縄文時代の暮らしの道具》⇒⑤《5…弥生時代の暮らしの道具》⇒⑥《6…弥生時代の装身具と祭りの道具》⇒⑦《7…弥生時代の祭りの道具》⇒⑧《8…続縄文文化》⇒⑨《9…須恵器の展開》⇒⑩《10…紀年銘鏡と伝世鏡》⇒⑪《11…古墳発見の石製模造品》⇒⑫《12…古墳時代前期の甲府盆地》⇒⑬《13…古墳時代の祭祀》⇒⑭《14…玉生産の展開》⇒⑮《15…古墳文化の地域性》⇒⑯《16…常総地域の古墳文化》⇒⑰《17…古墳時代の漁具》⇒⑱《18…新沢千塚126号墳》⇒⑲《19…銘文大刀と古墳時代の社会》⇒⑳《20…江田船山古墳》⇒㉑《21…形象埴輪の展開》⇒㉒《22…埴輪と古墳祭祀》⇒㉓《23…古代の貨幣》⇒㉔《24…古代の墓誌》⇒㉕《25…古代の施釉陶器》⇒㉖《26…古代寺院出土の遺宝》⇒㉗《27…経塚》⇒㉘《28…古代中世の灯火》⇒㉙《29…経塚に埋納された経典》⇒㉚《掘り出された江戸の金貨》⇒㉛《大名屋敷のうつわ》
4_《「東洋館」の見学順路》
「東洋館」は、中国、朝鮮半島、東南アジア、西域、インド、エジプトなどの美術と工芸、考古遺物を展示してあります。
①《1…中国の仏像(1F)》⇒②《2…オアシス: 旅の案内所(2F)》⇒③《3…インド・ガンダーラの彫刻(2F)》⇒④《4…中国文明のはじまり(2F)》⇒⑤《5…①中国の青銅器 ②中国 ③墳墓の世界 ④中国の陶磁 ⑤中国の染織(3F)》⇒⑥《6…オアシ:アジアの占い体験(3F)》⇒⑦《7…中国の石刻画芸術(4F)》⇒⑧《8…①中国の絵画 ②中国の書跡 ③中国文人の書斎(4F)》⇒⑨《9…中国の漆工(5F)》⇒⑩《9…中国の漆工(5F)》⇒⑪《10…朝鮮の磨製石器と金属器(5F)》⇒⑫《11…クメールの彫刻(B1F)》⇒⑬《12…①東南アジアの金銅像 ②インド・東南アジアの考古 ②東南アジアの陶磁(B1F)》⇒⑭《13…①アジアの染織 ②インドの細密画 ③アジアの民族文化(B1F)》
5_《「法隆寺宝物館」の見学順路》
「法隆寺宝物館」には、明治11年(1878年)に奈良「法隆寺」から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりを収蔵・展示しています。
≪1F≫
①《1…灌頂幡》⇒②《2…金銅仏、光背、押出仏》⇒③《3…伎楽面(金・土のみの通年展示)》⇒中2Fへ
≪中2F≫
①《国宝「聖徳太子絵伝」のグラフィックパネル》⇒②《国宝「聖徳太子絵伝」の8K映像》⇒③《伎楽面と伎楽装束(復元模造)》⇒2Fへ
≪2F≫
①《1…木・漆工-香木・計量器》⇒②《2…金工》⇒③《3…書跡》⇒④《4…染織》
★Ⅱ_【「野外展示、記念碑、茶室等」の見学】
それでは、早速「東京国立博物館」に入ってみます。まず、チケットを購入します。チケット売場は、「正門」の右側にあり、自動券売機と受付タイプの2種類で、総合文化展観覧料は、一般が1,000円、大学生が500円で高校生以下及び満18歳未満、満70歳以上は、総合文化展について無料です。私は、満70歳以上なので、免許証を入口で提示して入りました。最初に「野外展示、記念碑、茶室等」を見て回ります。
01_「エドワード・ジェンナー像」
入口を出てすぐに右方向に進むと、その奥に「エドワード・ジェンナー像」があります。「エドワード・ジェンナー」は、イギリス人の医師で、牛の乳搾りの女性は、天然痘が流行してもかからないというこの経験則をきっかけに、長年研究を続けた「牛痘ワクチン」を、初めてジェンナー家の使用人の8歳の息子に対して治験し、その効果が確認されたのが1796年のことです。明治29年(1896年)種痘の発明100年を記念して、「大日本私立衛生協会」が制作を依頼したもので、「高村光雲」の弟子「米原雲海」の作品です。台座にはめ込まれた銘板には、漢字で「善那」と書かれています。
02_「朝鮮の石像」
「エドワード・ジェンナー像」の次は、「朝鮮の石像」です。入口まで戻り、「本館」の方に進むと、「朝鮮の石像」があります。「朝鮮の石像」は、正門に最も近いところに設置された朝鮮時代の王や両班(貴族)の墓を守る羊や文官の石像です。
03_「中国の石像」
「朝鮮の石像」の次は、「中国の石像」です。「東洋館」の玄関の両脇に設置された「中国の獅子像」は、正門に最も近いところに設置された「朝鮮の石像」とともに、日本で最初に合板を生産した「新田愛祐」から寄贈された作品です。
04_「五重塔」
「中国の石像」の次は、「五重塔」です。「東洋館」と「本館」の間の道を進むと、「庭園」入口の門があります。門を入るとすぐ右手の小高い丘の上に「五重塔」があります。「五重塔」は、高さ5.7mの銅製の塔で、最上部の相輪には龍が絡み付き、垂木、斗拱の組み物の細部まで入念に作られています。基壇部分には第5代将軍「徳川綱吉」が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。
05_「第二回内国勧業博覧会の碑」
「五重塔」の次は、「第二回内国勧業博覧会の碑」です。「五重塔」の前で道が二又に分かれますので、右方向に進むとすぐに「第二回内国勧業博覧会の碑」があります。明治政府は勧業政策の一環として「博覧会」を開催し、その第1回から第3回の会場が上野公園でした。明治10年(1877年)の「第一回博覧会」では、「本館」北側のバルコニーのあたりに、日本で初めて「美術館」の煉瓦造りの建物が建てられました。この「美術館」の前面に「ジョサイア・コンドル」による設計の「博物館旧本館」が建てられ、明治14年(1891年)の「第二回内国勧業博覧会」で使用されました。
06_「町田久成の碑」
「第二回内国勧業博覧会の碑」の次は、「町田久成の碑」です。「五重塔」の前の二又を今度は左方向に進むと「町田久成の碑」が右手に、「春草廬」が左手にあります。「町田久成の碑」は、初代博物局長(館長)である「町田久成」の顕彰碑です。「町田久成」は天保9年(1838年)に、薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。19歳で江戸に出て学び、慶応元年(1865年)に渡英し、大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志し、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。文化財調査や保護を提唱し、自らの財産を投げうって書や古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力したそうです。
07_「春草廬」
「町田久成の碑」の道を挟んで反対側にあるのが、「春草廬」です。「春草廬」は、「河村瑞賢」が江戸時代の貞享~元禄の頃(17世紀後半)に、摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所です。その後大阪へ、さらに「原三渓」によって横浜の「三渓園」に移され、昭和12年(1937年)に埼玉県所沢市にある「松永安左エ門(耳庵)」の「柳瀬荘」内に移築されました。昭和23年(1948年)に「柳瀬荘」が「東京国立博物館」に寄贈しました。そして、昭和34年(1959年)に「春草廬」は現在の位置に移されました。入母屋の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、能書家として知られる曼殊院の「良尚法親王」の筆で、「原三渓」が「松永安左エ門(耳庵)」に贈ったものです。木造平屋建て、「春草廬」は、入母屋造、茅葺き、座敷は5畳と3畳からなります。
08_「転合庵」
「春草廬」の次は、「転合庵」です。「春草廬」を進むと突き当たりますので、左方向に進むと、左手に「転合庵」の案内板があるので、左折するとすぐに「転合庵」があります。「転合庵」は、「小堀遠州」が「桂宮」から茶入「於大名」を賜ったときに、その披露のために京都の伏見の六地蔵に建てた茶室だそうです。明治11年(1878年)に、京都の大原の「寂光院」にあった「転合庵」を「渡辺清」が譲り受け、東京麻布区霞町に移築しました。その後、「三原繁吉」へと所蔵者が変わっています。「三原繁吉」は茶入「於大名」も入手したそうです。その後、「塩原又策」を経て、妻の「塩原千代」から昭和38年(1963年)に茶入「於大名」とともに「東京国立博物館」に寄贈されました。ちなみに、「茶入」とは 濃茶用の抹茶を入れておく陶器製の容器のことです。
09_《六窓庵》
「転合庵」の次は、「六窓庵」です。「転合庵」から庭園の池沿いの道を右方向に進むと「六窓庵」があります。「六窓庵」は、慶安年間に「金森宗和」によって、奈良の「興福寺慈眼院」に建てられたものです。もとは「興福寺大乗院」内にあり、現在は「奈良国立博物館」に移された「八窓庵」、「東大寺塔頭四聖房」の「隠岐録」とともに「大和の三茶室」といわれました。明治8年(1875年)に博物館が購入しました。解体輸送中に伊豆で船が難破しましたが、幸い材は流失をまぬがれて明治10年(1877年)に「東京国立博物館」に移築されました。
10_「有馬家の墓石」
「六窓庵」の次は、「有馬家墓石群」です。「六窓庵」を出て右手奥に見える「応挙館」へ行く途中の右手にあります。「有馬家の墓石」は、一見するとただの石碑にしか思えず、見過ごしがちなので注意してください。「東京国立博物館」は寛永寺の境内であった土地に建てられたもので、庭園も寛永寺の一部でした。当時の面影を今に伝えるものはわずかしかありませんが、そのひとつが、越前丸岡藩主「有馬家の墓石」だそうです。記録によると明治15年(1882年)から明治19年(1886年)にかけて、公園として整備するために博物館敷地内の墓所が整理されたとあります。しかし、なぜ「有馬家墓石群」の墓石だけがここに残されたのかはわかっていないそうです。
11_「応挙館」
「有馬家墓石群」の次は、左手奥にある「応挙館」です。「応挙館」は、尾張国の天台宗の寺院である「明眼院」の書院として寛保2年(1742年)に建てられたものです。後に東京品川の「益田孝」邸内に移築されました。そして、昭和8年(1933年)に「東京国立博物館」に寄贈され、現在の位置に移されました。室内に描かれている墨画は、天明4年(1784年)に、「円山応挙」が「明眼院」に眼病で滞留していた際に揮亳したものだそうです。松竹梅を描いた床張付が残されています。墨画は保存上の理由から収蔵庫で保管されていますが、平成19年(2007年)に、最新のデジタル画像処理技術と印刷技術を駆使した複製の障壁画が設置され、「円山応挙」揮毫当時の絵画空間が「応挙館」に再現されました。建築様式は、木造平屋建て、入母屋造、瓦葺き、間口15m、奥行き9m、2室、廻り廊下を巡らしています。
12_「九条館」
「応挙館」の次は、「応挙館」の裏手にある「九条館」です。「九条館」は、もと京都御所内の九条邸にあったものを東京赤坂の九条邸に移した建物で、当主の居室として使われていました。昭和9年(1934年)に九条家から寄贈され、現在の位置に移築されました。床張付、襖などには狩野派による楼閣山水図が描かれており、欄間にはカリンの一枚板に藤花菱が透かし彫りされています。建築様式は、木造平屋建て、瓦葺き、寄棟造、間口15m、奥行き10m、2室、廻り廊下を巡らしています。
13_「森鴎外総長室跡」と「町田久成初代館長像」
「九条館」の次は、「平成館」の池の前にある「森鴎外総長室跡」です。「九条館」から「本館」と「平成館」の間の道を抜けると「平成館」が右手にあります。池がありその一番手前にあるのが「森鴎外総長室跡」の説明板です。そのすぐそばには、「町田久成初代館長像」もあります。「町田久成初代館長像」は、庭園内の「町田久成の碑」の項目で説明したので割愛させていただきます。「平成館」とその前庭の一帯は、明治15年(1882年)に「博物館」が上野に移転してから、展示棟に付属する事務棟の建物が多く建てられました。この付近には「帝室博物館」を統括する「総長の居室」があり、「森林太郎」(鴎外)は大正6年(1917年)から大正11年(1922年)に死去するまで、「総長」としてここで執務しました。
14_「阿吽のライオン像」
「平成館」から正門方面へ向かうと右手に「表慶館」があり、正面入口の両側にみどりの「阿吽のライオン像」が鎮座しています。右側が「阿」、左側が「吽」のライオン像です。日本に生息せず想像上の生きものであったライオンは、明治35年(1902年)に「上野動物園」に初めて来たそうです。ちなみに、「阿吽」は、金剛力士像や狛犬にも見られる仏教用語の真言で「万物の始まりと終わりを象徴するもの」とされているそうです。また、「阿吽のライオン像」の製作者は、日本の近代彫刻の先駆者の「大熊氏廣」と「沼田一雅」によるものです。
15_「黒田家の江戸屋敷鬼瓦」と「黒門」
「表慶館」から「法隆寺宝物館」へ向かう途中に、「黒田家の江戸屋敷鬼瓦」と「黒門」があります。「表慶館」から正門方面へ進むと右手に道路沿いの道がありますので、そこを右折するとすぐに「黒田家の江戸屋敷鬼瓦」と「黒門」があります。「黒田家の江戸屋敷鬼瓦」は、千代田区霞が関にあった筑前福岡藩「黒田家」の江戸屋敷の鬼瓦で、複雑な雲文の意匠が特徴です。「黒門」の手前の脇に置かれています。「黒門」は、「旧因州池田屋敷表門」です。旧丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった「鳥取藩池田家江戸上屋敷」の「正門」です。明治時代、当時の「東宮御所正門」として移されたのち、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和29年(1954年)に「東京国立博物館」に移築されました。屋根は入母屋造左右に向唐破風屋根の番所を備え、大名屋敷表門では東京大学の「赤門」と並び称されるものです。「黒門」は、土・日・祝・休日および1月2日・3日の10時00分~16時00分に開放しています。
16_「旧十輪院宝蔵」
「野外展示、記念碑、茶室等」の最後が「旧十輪院宝蔵」です。「黒門」の次はから「旧十輪院宝蔵」です。「黒門」から「法隆寺宝物館」の方へ向かうと、「旧十輪院宝蔵」は、「法隆寺宝物館」を回りこむように進むと右手奥にあります。少々分かりにくいかもしれません。「旧十輪院宝蔵」は、奈良の「元興寺」の別院であった「十輪院」にあった経蔵です。明治15年(1882年)5月に「東京国立博物館」に移築されたものです。鎌倉時代に造られた一間四方の小さな校倉で、内部壁面には大般若経にゆかりの菩薩や十六善神が描かれています。
★Ⅲ_【「本館」の見学】
「野外展示、記念碑、茶室等」を見た後は、いよいよ「本館」の見学です。「本館」のエントランスに入ると目の前にCMやドラマの撮影にも使われている大理石でできた「大階段」があります。右手には、「ジャンル別展示」の入口があります。ここから見学開始です。
01_《11…彫刻》
スタート地点の1階の展示ブース(11室)には、平安時代から鎌倉時代に作られた「彫刻」の仏像や神像が展示されています。展示ブース(11室)に入ったとたんに、厳かな気分になりました。説明文によると江戸時代以前の日本の彫刻は、寺院や神社に安置された仏像、神像、肖像で占められ、日本古来の神祇信仰は自然をご神体としてあがめるアニミズムだったそうです。ちなみに、アニミズムとは、人間以外の生物を含む、木や石など、すべての物のなかに魂が宿っているという思想や信仰のことだそうです。ラテン語で霊魂を意味する「アニマ(anima)」からつくられた用語で、世界各地のさまざまな民族の宗教や風習に見られるそうです。しかし、仏教の伝来以降、仏像の影響を受けて神像がつくられるようになったそうです。その中でも目を引いたのが、14世紀頃の南北朝時代に作られた「千手観音菩薩坐像」です。実に成功にできていて、菩薩像は非常に柔和な表情をしています。この千本の手で人々に幸せをもたらすのですよね。
02_《漆工》
次の展示ブース(12室)では、平安時代から江戸時代に作られた「漆工」が展示されています。このブースでは、日本独自の技である漆芸妓法の「蒔絵」を取り上げています。蒔絵の歴史、魅力や漆芸の美しさに触れられる空間です。その中でも目を引いたのが、重要文化財に指定されている16世紀頃の室町~安土桃山時代に作られた「初瀬山蒔絵硯箱」と18世紀頃の江戸時代に作られた「桜蒔絵硯箱」です。どちらも素晴らしい手の込んだ作品です。
03_《金工》
次の展示ブース(13室)は、部屋が三つに分割されています。手前の展示ブース(13室)では、古代から近世に至る日本の金属工芸品である「金工」が展示されています。仏具や釜、鏡、七宝、金具、置物などに使われた「金工作品」をジャンルと古代・中世・近世という時代の流れのなかで、系統立ててある見やすい展示になっています。「金工」とは、金属を使って加工して作られた工芸品のことです。今回の展示では、多彩な色面により文様や図柄を表す七宝技法の作品でした。その中でも目を引いたのが、18世紀頃の江戸時代に作られた「七宝桜花形透彫把手」で、まるでブローチのように見えました。表面のガラス釉薬が若干色褪せていましたが、完成した当時の色合いを思い浮かべると、桜の花が満開に咲き誇っているような感じです。
04_《刀剣》
二つ目の展示ブース(13室)には、平安時代から江戸時代までの日本の「名刀」が展示してあります。墨田区の「刀剣美術館」にも行きましたが、展示されている数は、「東京国立美術館」の方が多いというのが印象です。重要文化財に指定されている作品が多く、どれもこれも素晴らしいものばかりでした。このブースでは、老若男女を問わず外国人の観光客が目を皿のようにして魅入っていました。
05_《陶磁》
三つ目の展示ブース(13室)には、平安時代から江戸時代までの「陶磁」の歴史を勉強することができます。古代・中世、茶陶、京焼、伊万里と時代の流れに従いながら産地や様式で分類して展示してありました。特に、伊万里焼き京焼など色鮮やかな作品が多く、日本の陶芸の技術の高さを知ることができます。その中でも目を引いたのが、17世紀頃の江戸時代に作られた「野々村仁清」作で、「仁清」印がある「色絵牡丹図水指」です。
06_《おひなさまと日本の人形》
次の展示ブース(14室)では、3月3日の桃の節句にちなみ、恒例となった雛飾りの展示がされていました。ここで雛飾りの源流といわれるが「天児」(あまがつ)と「這子」(ほうこ)ということを初めて知りました。「天児」と「這子」の歴史は遠く平安時代に遡り、小児の祓いの人形だったそうです。嵯峨人形や御所人形などが、煌びやかに並んでいました。
07_《歴史の記録》
次の展示ブース(15室)では、「東京国立博物館」に所蔵されている歴史資料が展示されています。他の展示ブースに比べると少し地味な展示ですが、江戸時代から明治時代の歴史の一幕を垣間見ることができます。その中でも特に目を引いたのが、文久元年に徳川幕府から派遣された修好使一行の写真です。この当時の船でヨーロッパまで行くのは並大抵のことではなかったでしょうね。
08_《アイヌと琉球 アイヌの飾りと琉球の工芸》
次の展示ブース(16室)では、日本列島の南北に位置するアイヌと琉球の独自の文化に関する展示がされています。その中でも特に目を引いたのが、19世紀頃のアイヌの衣装で樹皮から作られた「アットゥシ」、(樹皮衣)と19世紀頃の琉球の衣装である「ドゥジン紺地松皮菱唐花模様錦」(胴衣)です。どちらも多くの人が足を止めて見ていました。そのほか、釣具のほか弓などもあり、狩猟、漁獲、植物採集、交易などをしていたアイヌの人々の暮らしぶり感じられました。
09_《保存と修理》
次の展示ブース(17室)では、「東京国立博物館」が文化財の保存と公開を両立させるため、保存修復事業を継続的に行っている「修理と保存」のコーナーです。「保存と修理」の展示コーナーでは、文化財が修理、保存されている様子や、修復に使用される材料・道具などが展示されています。「東京国立博物館」では、展示や収蔵の環境整備、状態調査と分析、傷んだ作品への修理といった3つのテーマで取り組んでいるそうです。私たちが、ゆっくり鑑賞できるのも、修理と保存が継続的に行われているからですね。
10_《近代の美術》
次の展示ブース(18室)では、明治時代から大正時代の絵画や彫刻、工芸を中心に、昭和にかけての作品が展示してある「近代の美術」です。展示ブースに入ると目の前に二頭の木彫りの彫刻の「牝牡鹿」が目に入ってきます。この作品は、動物彫刻を得意とした「森川杜園」の晩年の大作です。特に目を引いたのが、彫刻「牝牡鹿」の後ろにある、鋭い眼差しで、今にも大空に羽ばたこうとしている「鈴木長吉」作による「鷲置物」です。この「鷲置物」は国の重要文化財に指定されています。
11_《「押出仏ができるまで」と「みどりのライオン 体験コーナー」》
次の展示ブース(19室)には、二つの展示コーナーがあります。「押出仏ができるまで」と「みどりのライオン体験コーナー」です。「押出仏ができるまで」は、6工程に分けて、「押出仏」の素材とそれがどのような作業を経て制作されるかを再現したものです。「みどりのライオン体験コーナー」の名前の由来は「表慶館」のライオン像をマスコットにした教育普及スペースで、作品の制作工程や技法がわかる「トーハクで○○ができるまで」や、e国宝がさらに使いやすくなった「トーハクで国宝をさぐろう」、3Dの作品画像を自由に動かせる「トーハクをまわそう」などの体験コーナーがあります。
≪2階の「日本美術の流れ」へ≫
★次は、「ジャンル別展示」を鑑賞した後は、エントランスホールの「大階段」をのぼると左手奥に「日本美術の流れ」の入口があるのでそこから入ります。
12_《日本美術のあけぼの―縄文・弥生・古墳》
最初の展示ブース(1室-1)である「日本美術のあけぼの―縄文・弥生・古墳」があります。ここでは、主に、仏教文化が定着する以前の「縄文・弥生・古墳時代」を代表する作品が展示してあります。「縄文時代」は土器や土偶、「弥生時代」は土器や銅鐸、「古墳時代」は埴輪や銅鏡などを展示してあります。その中でも目を引いたのが、「縄文時代」では縄文時代(後期)の前2000~前1000年に作られたと推定される「壺形土器」、「弥生時代」では弥生時代(後期)の1~3世紀作られたと推定される「袈裟襷文銅鐸」、そして、「古墳時代」では、茨城県行方市の大日塚古墳出土の6世紀頃に作られ、重要文化財にも指定されている「埴輪 猿」です。
13_《仏教の興隆―飛鳥・奈良》
次の展示ブース(1室-2)「仏教の興隆―飛鳥・奈良」では、日本仏教黎明期の「彫刻」、「書跡」、「典籍」、「工芸」などが展示されています。6世紀半ばの「欽明天皇」の時代には、百済から釈迦金銅仏、経論、幡がもたらされ、しばらくして百済から仏教寺院や仏教美術に関わるさまざまな技術者が来日したそうです。その中でも目を引いたのが、入口を入るとでんと構えている「聖観音菩薩立像(模造)」です。この像は、昭和時代に作られたもので、原品は、7~8世紀の飛鳥~奈良時代のものと推定されます。また、8世紀の奈良時代の作で、国宝に指定されている「興福寺鎮壇具 延金」も目を引きました。ちなみに、「鎮壇」とは、堂塔を築く際に、その土地の神々を鎮)め、建物の末永い無事を祈念して行う祭事で、この時に地中に埋める品々を「鎮壇具」といいます「。興福寺」の鎮壇具は、明治7年(1874年)10月に、中金堂の基壇中から発見されました。「中金堂」の創建時である8世紀前半のものです。
14_《国宝室》
次の展示ブース(2室)には、数々の国宝が展示されています。その中でも興味深いのは、治世の参考となる文章を各種の典籍から選集した全50巻からなる「群書治要」です。さしずめ帝王学に相当するのでしょうか。「群書治要」は、唐の「太宗皇帝」が深い学識を具えた名臣「魏徴」や「虞世南」らに編集させたもので、日本へは奈良時代にもたらされ、帝王学の古典として尊重され、複数の写本によって現在まで伝えられてきたそうです。
15_《仏教の美術-平安~室町》
次は、「仏教の美術―平安~室町」の展示ブース(3室-1)で、平安から室町時代の仏教文化の影響を受けた絵画、書、彫刻、工芸などが展示されています。仏教美術は日本美術を代表するジャンルの一つで、その内容は多岐にわたり、それぞれの時代ごとに特色ある作品が生み出されました。その中でも特に目を引いたのは、12世紀頃の平安時代の作である重要文化財に指定されている「阿弥陀聖衆来迎図」や13世紀頃の鎌倉時代の作である重要美術品に指定されている「紙胎漆塗彩絵華籠」です。
16_《宮廷の美術―平安~室町》
次の「宮廷の美術―平安~室町」の展示ブース(3室-2)では、平安から室町時代の宮廷貴族の美術といった感じの展示が多く見られます。その中でも特に目を引いたのが、14世紀頃の鎌倉時代に作られ、重要文化財に指定されている「為家本時代不同歌合絵」です。
17_《禅と水墨画―鎌倉~室町》
次の「禅と水墨画―鎌倉~室町」の展示ブース(3室-3)では、鎌倉時代に中国から禅宗が入ってくるとともに、「絵画」では、中国宋・元の絵画の影響を受けて水墨画が成立しました。また、中国禅僧の書がもたらされ、「墨蹟」が生まれ、個性豊かな墨蹟や水墨画を楽しむことができます。その中でも特に目を引いたのが、14世紀頃の鎌倉時代に作られ、重要文化財に指定されている「松下達磨図」です。
18_《茶の美術》
次の「茶の美術」の展示ブース(4室)では、日本独自の文化として進化した「茶の湯」のなかで生まれた美術が展示されています。「茶の湯」は、もともと平安時代末期に禅宗とともに中国から伝わった抹茶を飲む風習が「茶の湯」進化したものです。美しい質感の釜や水指など、侘びさびがあり、どれもこれも目を引くものばかりです。その中でも特に目を引いたのが、16世紀頃の室町時代に作られた「車軸釜」です。
19_《武士の装い―平安~江戸》
次の「武士の装い―平安~江戸」の展示ブース(室5と6室)では、平安時代から江戸時代の武士が用いた、甲冑、刀剣、弓馬具、装束などが展示されています。最近話題になった刀剣女子や鎧や刀剣好きにはたまらない展示ブースです。目を引いたのは、入口を入るとすぐ正面には、15世紀頃の室町時代に作られ、重要文化財に指定されている「樫鳥糸肩赤威胴丸」があります。中に誰かがいるような感じで、立派ですがちょっと不気味です。先に進むと15世紀頃の室町時代に作られ、重要文化財に指定されている「黒韋包金桐紋糸巻太刀」、同じく16世紀頃の安土桃山時代に作られ、重要文化財に指定されている「朱漆金蛭巻大小」の刀剣もありました。まさに刀剣ワールドです。
20_《屛風と襖絵―安土桃山~江戸》
次の「屏風と襖絵―安土桃山~江戸」の展示ブース(7室)では、安土桃山時代から江戸時代の屛風、襖絵が展示されています。本来、室内を仕切ることにより場を作り出し、空間を演出する機能をもつ屏風や襖には、権力を象徴し、場を荘厳するなどの目的のために、絵が描かれたり、書が揮毫されたりしたそうです。また、生活に欠かせない家具・調度品としての役割もあったそうです。
21_《暮らしの調度―安土桃山・江戸》
次の「暮らしの調度―安土桃山・江戸」の展示ブース(8室)では、安土桃山から江戸時代の生活に密着した調度が展示してあり、当時の人々の暮らしぶりが伺えます。漆塗りで仕上げた器類や、金粉で文様を描く蒔絵と同じ技法を用いた器などもあり、その技術の高さには、目を見張るものがありました。目を引いたのが、17世紀頃の江戸時代に作られた「色絵花卉文六角壺」と19世紀頃の江戸時代に作られた「吉野山蒔絵棚」でした。どれもこれも眺めているだけでうっとりするほど美しい調度品が数多く展示されています。
22_《書画の展開―安土桃山~江戸》
次の「書画の展開―安土桃山~江戸」の展示ブース(8室)では、安土桃山から江戸時代の作品を展示しています。絵画においては、狩野派を中心に、琳派、南画派、円山派、四条派などの絵師による作品が展示してあります。書は、江戸時代初期の「三筆」(「近衛信尹」、「本阿弥光悦」、「松花堂昭乗」)が新しい書風を打ち立て、黄檗の三筆らがもたらした中国書法が、江戸時代中期以降、唐様の書として流行しました。
23_《能と歌舞伎》
次の「能と歌舞伎 能「高砂」に見る面・装束」の展示ブース(9室)では、能や歌舞伎といった伝統芸能に使用されている衣装や面などが展示されています。テレビモニターの前には多くの外国の観光客が魅入っていました。
24_《浮世絵と衣装―江戸(衣装)》
次の「浮世絵と衣装―江戸(衣装)」の展示ブース(10室)では、江戸時代の小袖、振袖、打掛のほか、帯や櫛、笄、簪など、町方の女性たちのトータルファッションを展示してあり、当時の人々の生活風景を読み取ることができます。ちなみに、小袖は、かつては下着として着用されていましたが、室町時代に表着として使用されるようになったそうです。
25_《浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)》
「本館」最後の「浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)」の展示ブース(10室)では、桜の名所である隅田川や上野、浅草、吉原、飛鳥山、御殿山などのお花見の様子を描いた作品が展示されていました。
★Ⅳ_【「平成館」の見学】
「本館」の次は、連絡通路でつながっている「平成館」へ向かいます。「平成館」は平成11年(1999年)に、現在の上皇陛下のご成婚を記念して開館した展示施設です。場所は本館正面から見て左奥に位置にあります。「本館」と「平成館」は、直接繋がっているので、展示を見て回る際には簡単に移動できて便利です。1階は「考古展示室」、「企画展示室」、「講堂」、「ラウンジ」(休憩スペース)などがあり、2階はすべて特別展専用の展示室になっています。そして、「平成館」の2階の展示室で行われる特別展は常に話題になって多くの人が訪れます。しかし、特別展が注目されがちですが、1階の「考古展示室」に展示されている旧石器時代から江戸時代までの日本の歴史を辿ることのできる考古遺物も貴重なものばかりで、土偶や埴輪など教科書で見たことのあるようなものの実物がずらっと並んでいます。土偶や埴輪は発見された場所や作られた年代により顔や形が異なるので、見比べるとさらに考古遺物に興味が湧いてきます。そして、「土偶」を実際に手に取り持ち上げたり、「銅鐸」を鳴らしたりできるコーナーもあるため、親子連れでも十分楽しめます。私も「銅鐸」を鳴らしましたが、結構大きな音が周囲に鳴り響き、日本人や外国人の観光客に注目され恥ずかしい思いをしました。さらに進むと、「埴輪コーナー」になります。ここでは、人や馬など多彩な形状をした埴輪が並んでおり、中には亀の甲羅のような「陶棺」も展示されていました。「平成館」1階の「考古展示室」は、「通史展示」と「テーマ展示」に分かれています。最初に「テーマ展示」、次に「考古展示室」を見て回りました。それぞれの展示室の作品は、同じようなものが多数ありました。素晴らしいものばかりですが、一つ一つ丁寧に見ると時間がかかってしまうので、どうしようかと考えていたところ、展示室の中央に各時代の代表的なもので、国の重要文化財に指定されている作品を発見しました。周囲にある時代やテーマごとに分かれている各展示品は、早足で見て、中央の作品にスポットライトをあてて見ることにしました。
01_「埴輪 盛装女子」
「テーマ展示」の入口を入ると、まず、6世紀頃の古墳時代に作られた「埴輪 盛装女子」があります。「埴輪 盛装女子」は、群馬県伊勢崎市豊城町の横塚から出土したもので、国の重要文化財に指定されています。この「埴輪 盛装女子」は、女子埴輪の代表的な作品で、全身を華やかに着飾り、女性らしい表情がとても印象的でした。
02_「遮光器土偶」
「埴輪 盛装女子」を先に進むと「遮光器土偶」がありました。「土偶」は、祈りの道具の代表であり、その多くは、妊娠した女性を表わした例が多く、子孫繁栄や豊饒を祈るために作られたと考えられています。その中でも特に印象に残ったのは、前1000年から前400年年の縄文時代の晩期に作られた「遮光器土偶」です。「遮光器土偶」は、青森県つがる市木造亀ヶ岡から出土したもので、妊婦特有のふくよかさが端的に表現されている感じがしました。
03_「扁平鈕式銅鐸」と「ならしてみよう」コーナー
「遮光器土偶」の次は、「扁平鈕式銅鐸」と「ならしてみよう」コーナーです。「扁平鈕式銅鐸」は、前2世紀~前1世紀の弥生時代の中期に作られたもので、讃岐の国(現在の香川県)から出土したものです。銅鐸は、ほとんどが近畿地方で発見されています。「銅鐸」や「銅矛、銅剣、銅戈」などは、祭器で豊作や集落の繁栄を祈るために使われたものだそうです。目を細めて見ると魚、鳥、イノシシが描かれていました。ライトの加減もあるかもしれませんが光輝いていました。
04_「銀象嵌銘大刀」と「石人」
「扁平鈕式銅鐸」と「ならしてみよう」コーナーの次は、「銀象嵌銘大刀」と「石人」です。「銀象嵌銘大刀」は、銘文と鳥・魚・馬形文様を施した大きな刀で、日本古代史上の第一級史料(資料)だそうです。5~6世紀頃の古墳時代に作られたもので、熊本県和水町にある「江田船山古墳」から出土したものです。こんな大きな刀をよく振り回せるものだと感心しました。「石人」は、九州の古墳文化の独特なもので、6世紀頃の古墳時代に作られてもので、福岡県八女市の「岩戸山古墳」から出土したものです。
05_「経塚~56億7000万年のタイムカプセル~」
「銀象嵌銘大刀」と「石人」の次は「経塚~56億7000万年のタイムカプセル~」です。「経塚」は、「末法思想」の影響の下で平安時代に造営されるようになりました。そして、「経塚」からは、経典を保護する経筒やその外容器をはじめ、副納された当時の工芸品が埋納されています。展示されている「経塚」から発見された「経筒」は、平安時代の康和5年(1103年)のもので、山梨県甲州市勝沼町勝沼柏尾白山平にある「柏尾山経塚」から出土しました。ちなみに、「末法思想」とは、仏教の予言に基づく思想のことで、日本では平安時代中期から流行した仏教の歴史観です。「釈迦」の死後,2000年を経ると「末法」の世となり、「仏法」が衰えて世の中が乱みだれるという思想で,日本では永承7年(1052年)から末法の時代が始まると考えられるようになったそうです。
06_「火熨斗」
「経塚~56億7000万年のタイムカプセル~」の次は「火熨斗」です。「火熨斗」は、5世紀頃の古墳時代中期に作られたもので、奈良県橿原市にある「新沢千塚126号墳」から出土したものです。「火熨斗」は、現代のアイロンに相当するもので、炭火を入れて、熱により布類のしわ伸ばしや仕上げに用いるものです。ちなみに、「新沢千塚126号墳」から朝鮮半島由来の金製や銀製の装身具をはじめ、西アジア起源のガラス碗などが多数出土したそうです。
07_「秋草文壺」
「秋草文壺」は、12世紀頃の平安時代に「日本三大古窯」の一つにも数えられている「渥美窯」で作られたもので「国宝」に指定されています。「秋草文壺」は、神奈川県川崎市幸区の南加瀬で、昭和17年(1942年)に農道工事中に偶然に出土したものです。「秋草文壺」の中には、火葬された人骨がわずかに残されており骨臓器と考えられているそうです。ちなみに、「渥美窯」は、愛知県渥美半島(田原市の大部分及び豊橋市の一部)に分布している古窯群です。
08_その他私が気になった展示品
①「模造旋帯文石」…岡山県倉敷市、弥生時代・3世紀
②「石製合子」、京都府八幡市西車塚古墳出土、古墳時代・4世紀
③「鶏形埴輪」…群馬県伊勢崎市 赤堀茶臼山古墳出土、古墳時代・5世紀
④「金銅装眉庇付冑」…福井県永平寺町二本松山古墳出土、古墳時代・5世紀
⑤「画文帯仏獣鏡」…岡山県倉敷市王墓山古墳出土、古墳時代・6世紀
⑥「陶棺」…岡山県美作市野狀出土、古墳(飛鳥)時代・7世紀
⑦「瓦塔」…東京都東村山市多摩湖町出土、奈良時代・8世紀
⑧「し尾」…大阪府柏原市鳥坂寺出土、平安時代・12世紀
⑨「白楽獅子香炉」…常慶作、東京都上野公園東京国立博物館内出土、江戸時代・17世紀
⑩「掘り出された江戸の金貨」…慶長小判、慶長丁銀、寛永通宝
★Ⅳ_【「東洋館」の見学】
「平成館」の次は、「東洋館」です。「東洋館」は、「東京国立博物館」の正門から入ると右手にあります。そして、「東洋館」の正面玄関の両脇に設置された二匹の「中国の獅子像」が出迎えてくれます。玄関を入ると、エントランスホールの正面に受付そして右手に「ミュージアムショップ」があります。「東洋館」には、中国、朝鮮半島、東南アジア、西域、インド、エジプトなどの美術、工芸などの芸術品と考古遺物が展示してあります。まず、「ミュージアムショップ」の奥にある1階 1室の「中国の仏像」からスタートです。 01_「中国の仏像」
「中国の仏像」の展示室では、中国彫刻の最盛期である南北朝時代から唐時代の仏像を中心に展示してあります。その中で、特に目を引いたのは、中国陝西省西安にある「宝慶寺」の石仏群です。「宝慶寺」の石仏群は、どれもこれも重要文化財ばかりで、その作風は石灰岩の一材を堀だし、仏像を浮彫で表現した龕形式と呼ばれるものです。これほどたくさんの龕形式の彫刻群を見ることができるのは、「東洋館」だけだそうです。説明板でそれぞれの仏像の成り立ちや歴史を読むと大変勉強になります。その他、唐時代の長安3年(703年)に作られた「宝慶寺石仏群」の「十一面観音龕」も見ごたえがありました。
02_「インド・ガンダーラ・西アジア・エジプト」
次は、2階にあがると「インド・ガンダーラ・西アジア・エジプト」の展示室の3室になります。「インド・ガンダーラ・西アジア・エジプト」の展示室は、「インド・ガンダーラの彫刻」、「西域の美術」、「西アジア・エジプトの美術」が展示されています。ちなみに、今回展示はありませんでしたが、展示室の3室の前に2室があるそうです。最初2室が分からなかったので、係の人に聞いてみると、2室は企画展示等があるときだけ展示スペースとして使うそうです。まず、3-1室の「インド・ガンダーラの彫刻」
①「インド・ガンダーラの彫刻」
「インド・ガンダーラの彫刻」では、パキスタン北西部の「ガンダーラ」と古代インドの仏教美術が展示してあります。北インドでは「クシャーン朝」(1~3世紀)で仏教美術が隆盛しました。そして、1世紀頃にガンダーラ、マトゥラーにおいて相次いで仏像の制作が始まったそうです。ガンダーラの仏像はギリシャ彫刻の影響を受けているため、彫りが深く写実的なものとなっていました。このなかでも特に目を引いたのが、2~3世紀の「クシャーン朝」の時代につくられた「如来坐像」です。次が3-2室の「西域の美術」です。
②「西域の美術」
「西域の美術」では、20世紀初頭にシルクロードを探検した大谷探検隊の将来品を中心に展示してあります。
ホータン、クムトラ石窟等の出土品など、大谷探検隊の将来品を中心に展示してありました。その中でもホータンで発見された「如来像頭部」、クチャのクムトラ石窟で発見された「菩薩像頭部」、敦煌莫高窟蔵経洞で発見された「二菩薩立像」などが目を引く展示でした。ちなみに、「将来品」とは、将来にわたり保存し,活用を図る必要性・可能性の観点から,保管・管理していくものだそうです。次が3-3室の「西アジア・エジプトの美術」です。
③「西アジア・エジプトの美術」
「西アジア・エジプトの美術」では、人類最古の文明始まりの地として知られるエジプトと西アジアの古代美術が展示してあります。ここでは大きなインパクトのあるものを発見しました。それは、エジプトのテーベで出土され、前945年~前730年頃の第3中間期(第22王朝)時代に作られた「パシェリエンプタハのミイラ」です。「パシェリエンプタハのミイラ」は、明治37年(1904年)に当時のエジプト考古庁長官から「東京国立博物館」の前身である「帝室博物館」に寄贈されたものだそうです。その他、前23世紀頃の古王国時代(第6王朝)に作られた「イニ像浮彫」です。「イニ像浮彫」は、「イニ」という貴族の墓の浮彫で、元は彩色があったそうです。「イニ」は、「神の印璽官」で、王ペピ1世とメルエンラーに仕え、対外遠征などで大きな業績をあげたそうです。私の思い違いかもしれませんが、「イニ像浮彫」は何かの教科書で見たような気がしました。
03_中国文明のはじまり
次は、3階へあがります。3階の4室では「中国文明のはじまり」、5室では「中国の青銅器」、「中国 墳墓の世界」、「中国の陶磁」、「中国の染織」が展示され、一連の中国文明の発展の過程を土器、玉器、出土文字資料、青銅器などで理解します。「中国文明のはじまり」で特に印象に残ったのは、前2600~前2300年頃に作られた「彩陶短頸壺」です。中国では今から1万年以上前の時代に土器の存在が確認されていますが、その時代の土器は、模様や装飾があまりないものでした。紀元前5000年頃になると彩色を施した「彩陶土器」が登場しました。その代表的な「彩陶土器」がこの「彩陶短頸壺」です。
04_中国の青銅器
「中国文明のはじまり」の展示室を抜けると、「中国の青銅器」、「中国 墳墓の世界」、「中国の陶磁」、「中国の染織」の展示コーナーです。「中国の青銅器」では、古代から唐時代にかけて中国の青銅器がどのように変遷したかが理解できます。そして、先祖の祭礼に用いた容器や楽器のほか、武器や馬具を展示してありました。「中国の青銅器」で特に目を引いたのは、前13~前11世紀頃の殷時代に作られた「饕餮文瓿」です。よく見てみると絵柄や文様が描かれ、とても精巧に、しかも堅固に作られているような感じでした。
05_中国 墳墓の世界
「中国 墳墓の世界」では、戦国時代以降、中国文明が成熟していくに従い、王侯貴族は土を丘のように盛った墳墓を造り、その地下には死者が死後の世界でも生前以上に豊かに過ごせるようにと、生活を支える家財の模型や人形などを大量に埋葬するようになりました。「中国 墳墓の世界」で特に目を引いたのが、1世紀~ 2世紀頃の後漢時代に作られた「加彩舞人・楽人」です。死後の世界でも死者が楽しく過ごせるように一緒に埋葬したものでしょう。その他に7世紀~8世紀頃の唐時代に作られた色鮮やかな「三彩駱駝」、同じ時代に作られた墓門を守る獣の「三彩鎮墓獣」や同じく墓を守る「三彩官人」が印象に残りました。
06_中国の陶磁
次が同じ5室にある「中国の陶磁」の展示室です。「中国の陶磁」では、中国唐時代から清時代までの約1300 年の間に作られた様々な陶磁器が展示されています。そんな中でひときわ目を引いたのが、12世紀~13世紀頃の南宋時代に作られた「青磁輪花鉢」です。マリンブルーのような色合いの花鉢で文様も手の込んだ様子が伺えます。
07_中国の染織
次は同じ5室にある「中国の染織」の展示室です。「中国の染織」では、各時代の特色ある䞺絲(綴織)を展示してあります。
08_中国の石刻画芸術
次は、4階7室にある「中国の石刻画芸術」の展示室へ向かいます。4階には8室もありここでは「中国の絵画」、「中国の書跡」、「中国文人の書斎」が展示されています。「中国の石刻画芸術」の展示室には、主に中国山東省の石刻画が展示されています。1世紀~2世紀頃の後漢時代には、中国山東省や河南省南部等では墓の上に祠を、そして、地下には棺などを置く部屋である墓室を石で作ったそうです。その壁や柱、梁などには彫刻が施されていました。石に彫られた絵などの説明文がイラストを交えてあったので理解しやすかったです。その説明文によると祠や墓室の壁、柱、梁などの表面には、先祖を祭るために当時の世界観、故事、生活の様子などを彫刻したということです。
09_中国の絵画
次は、隣の8室の「中国の絵画」の展示室に進みます。「中国の絵画」には、日本の文化の発展にも多大な影響を与えてきた宋・元時代の絵画が展示されています。中でも目を引いたのが、嘉靖30年(1551年)の明時代に描かれた「四万山水図軸」です。4幅それぞれの画面の上部に、数字の「万」から始まる題が書かれているため、、「四万山水」といわれています。松葉やさざなみの非常に緻密なタッチに圧倒されてしまいました。
10_中国の書跡
次も同じ8室にある「中国の書跡」です。「中国の書跡」には、古璽・古印を収録した中国古銅印譜と明・清時代以降の篆刻家らの刻印を収録した中国近人印譜が展示されています。現在も書道で使われている篆書、隷書、草書、行書、楷書などの書体は、時代の流れとともに考案され変化し、新たな書体へと進化して現在の形になりました。作品を見ると均整のとれた字体の素晴らしさが分かります。
11_中国文人の書斎
同じく8室にある「中国文人の書斎」です。「中国文人の書斎」は、多彩な書体や中国の書画芸術から生まれた「文人の書斎」を復元した空間です。中国における宋時代以降の文化は、文人や学者の書斎を中心として育まれてきたといえます。明時代以降、文人の文化は富裕な商人層にも浸透し、筆墨硯紙はもとより、書画を鑑賞する空間そのものにも洗練された趣味が求められたそうです。次は、5階へあがります。
12_中国の漆工
5階の9室は、「中国の漆工」の展示室です。「中国の漆工」の歴史は、古く新石器時代までさかのぼります。ここの展示室では、「中国の漆工」の多種多様な伝統的な技法が理解できます。説明文によるとその装飾技法として、塗り重ねた漆を彫刻する彫漆、貝殻を成形して器体に貼付する螺鈿、漆器に文様を彫って金箔を充填する鎗金、文様部に色漆を施して線彫りの輪郭をほどこす存星などがあるそうです。そんな中で特に気になったのは、15世紀頃の明時代に作られた「花鳥鎗金長方形箱」と延祐2年(1315年)の元時代に作られた「孔雀鎗金経箱」です。箱の表面にデザインされている螺鈿の柄が非常にきめ細やかに描かれていました。
13_清時代の工芸
「中国の漆工」の同じ展示室には「清時代の工芸」があります。清時代に作られた玉器、ガラス、竹工、犀角など、さまざまな材質、技法の工芸品が展示されています。その中でも特に目を引いたのが19世紀頃の清時代に作られた「翡翠香炉」です。その清らかな色合いには心を洗われます。
14_「朝鮮の磨製石器と金属器」
「清時代の工芸」を奥に進むと、10室には朝鮮半島の美術、工芸、考古資料が展示されています。ここでは、「朝鮮の磨製石器と金属器」、「朝鮮時代の美術」、「朝鮮の仏教美術」、「朝鮮の陶磁」、「朝鮮の王たちの興亡」が展示されています。「朝鮮の磨製石器と金属器」には、朝鮮半島の青銅器時代及び初期鉄器の作品を中心に、朝鮮半島の考古資料が展示されています。そのなかでも目を引いたのが、前3世紀~前1世紀頃の初期鉄器~原三国時代に作られた「獣文飾板」です。重要美術品に指定され韓国の慶州で出土したものです。
15_朝鮮の王たちの興亡
次は、同じ展示室にある「朝鮮の王たちの興亡」の展示です。「朝鮮の王たちの興亡」には、朝鮮半島の三国時代に、各地の有力者が覇を競った様を装身具、武器、馬具など王たちの権威を示す金銅製の作品が展示されています。その中でも特に目を引いたのは、5世紀頃の三国時代(加耶)の「金製冠」です。王が被るのにふさわしい作品だと思います。
16_朝鮮の陶磁
次は、同じ展示室にある「朝鮮の陶磁」の展示です。「朝鮮の陶磁」には、製陶技術が発達した原三国時代から白磁などの多様な陶磁器が焼かれた朝鮮時代までの展示があります。特に、朝鮮半島では原三国時代に楽浪の影響を受けて製陶技術が発達しました。そして、ここでは原三国時代から統一新羅時代までの土器のほか、には中国の影響のもとに青磁の生産が始まり、挑戦時代には、粉青沙器、白磁などの生成の歴史の流れを知ることができます。その中でも特に目を引いたのは、15 世紀~16世紀頃の朝鮮時代に作られた「粉青鉄絵魚文瓶」です。「粉青鉄絵魚文瓶」は、韓国忠清南道公州鶴峯里から出土しました。
17_朝鮮の仏教美術
次は、同じ展示室にある「朝鮮の仏教美術」の展示です。「朝鮮の仏教美術」には、三国時代から統一新羅、高麗時代の瓦、仏像、金工品などが展示されています。その中でも特に目を引いたのは、7世紀頃の三国時代に作られた柔和な表情の「菩薩半跏像」と強面でインパクトのある6~7世紀頃の三国時代(高句麗)に作られた「鬼面文軒丸瓦」です。
18_朝鮮時代の美術
次は、同じ展示室にある最後の「朝鮮の仏教美術」の展示です。朝鮮王朝時代の両班(貴族)階級の人々の生活文化に関するものが展示されていました。ちなみに、「両班」は「やんばん」と読みます。そして、「両班」の男性は、書斎を社交の場としていたそうです。一方、女性の部屋には華やかな装飾が施された調度品が置かれていたといわれています。「朝鮮の仏教美術」には、屏風、絵画、書跡などが展示されていました。その中でも特に目を引いたのは、19世紀~20世紀頃の朝鮮時代に作られた、文房を飾る「筆筒」です。
19_クメールの彫刻
次は、エレベーターを利用して地下1階に降ります。地下1階の 11室に展示されているのが
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投稿日:2024/07/12