原爆で全焼してしまいましたが再建された由緒正しき神社です。
- 5.0
- 旅行時期:2013/10(約12年前)
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by 吉備津彦さん(男性)
広島市 クチコミ:7件
1706年(宝永3年)広島藩主浅野綱長により、広島城鬼門の方角に浅野長政の位牌堂を建立したのが始まりである。1810年(文化7年)浅野重晟・斉賢父子が、新たな位牌堂を建立した。1835年(天保6年)浅野斉粛が祖先追悼の為現在地に社殿を建立し、二葉御社と称した。1873年(明治6年)饒津神社と改称した。
1945年(昭和20年)広島原爆の爆風により本殿や唐門が瞬く間に破壊され、直後に本殿より出火、他の建物も類焼した。この時、石灯籠、手水桶などの石造物が残るだけ、樹木は10数本の松の木を残すのみという甚大な被害を受けた。また、境内の楠の大樹は、トンネルのようになって県道に覆いかぶさった状態になった。また原爆で傷つき市中心部から逃れてきた多数の被爆者の避難所となったが、人々の多くはこの境内で落命した。被爆後、京橋川を渡ってこの神社近くに避難し野宿した原民喜は、戦後発表した小説「夏の花」において、被爆当日の夜の状況を描写している。
戦後、仮殿、本殿が再建された。1984年(昭和59年)6月、本殿、拝殿、瑞垣が戦前の姿に復元された。2000年(平成12年)唐門も再建され(大きさは全国2位)、2005年(平成17年)唐門の前に木製の鳥居が再建された。
被曝した大きな狛犬、手水鉢、石段、灯籠(倒壊のため石の一部が欠けている。)がある。
石造物の手水鉢や唐門周辺の敷石が欠落・ひび割れ・変形しているのは、それぞれ手水舎の建物や唐門が焼け落ち、その炎熱による損傷であり、石灯篭の被害も見える。昭和59年、本殿拝殿社務所などを復興したが、傷んだ石造物は補修せず原爆被災の証としてそのまま残されている。
平成15年には饒津神社の歴史とともに歩んだ被爆松の最後の一本が枯れ、切株の一部は保存展示されている。
- 施設の満足度
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5.0
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2013/11/04
いいね!:2票
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