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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(62ページ)全1,843件

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  • 沖縄県と兵庫県の深い繋がりの証です。

    投稿日 2016年07月14日

    沖縄 兵庫友愛スポーツセンター跡地 那覇

    総合評価:5.0

    奥武山公園、沖縄県のスポーツの聖地として有名な場所ですが、その一角に?沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地?の看板が立っています。昭和20(1945)年1月に大阪府の内務部長から沖縄県知事に着任された?沖縄の島守?島田叡知事。沖縄県で今なお慕われている政治家のひとりです。兵庫県立第二中学・第三高等学校・東京帝国大学と歩まれたエリートであり、かつ野球の?花形選手?でもあった二刀流でした。残念ながら島田知事は大戦末期の混乱の中、行方不明となりその後の消息はわかっていません。しかし出身地の兵庫県、そして沖縄県民への祖国愛・同胞愛は間違いなく人の心を掴みました。

    戦後沖縄は米軍の統治下で27年間不便な生活を余儀なくされました。その中には兵庫県へと移住を決意した方々も少なからずいたそうです。そのような密接な関係がある両県に於いて、沖縄の返還を間近に控えた頃兵庫県では沖縄の人々と苦楽を共にし、心のふれあいを深め、お互いに励まし合おうという素朴な願いが生まれ、次第に県民の共感と参加を得ながら野火のように広がり、全県的な友愛運動にまで発展しました。その結果昭和47(1972)年11月には両県知事によって兵庫・沖縄友愛提携調印式が行われ、ました。その後友愛運動は沖縄に青少年施設を贈るための友愛募金運動が活発になり、さらに沖縄を深く理解するための沖縄展の開催、友愛の船の派遣をはじめ、数々の事業や交流が行われるようになりました。そして兵庫県民すべての友愛募金が見事に実を結び、昭和50(1975)年6月18日沖縄・兵庫友愛スポーツセンターが完成し、沖縄県へと贈呈されました。残念ながら沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは築後32年経った平成19(2007)年4月施設の劣化が進み閉鎖された後解体されました。しかしその思いを残すべく?沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地?の看板が残され、付近には兵庫県の県木である?クスノキ?が植樹されて現在に至っています。

    昨年平成27(2015)年6月には沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地に?島田叡氏顕彰碑?が建立され、その功績を多くの方に知らせる役目を担っています。

    何かと密接な繋がりのある沖縄県と兵庫県、その関係を生み出したひとりの慈愛に満ち溢れた政治家のことは一度その人物像を知った人なら誰も忘れることなどないと改めて思いました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    於く武山公園内にあります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日の夕方では誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    芝生敷きですが段差はありません。
    見ごたえ:
    5.0
    両県の深い繋がりを肌で感じることができます。

  • 後方支援の部隊が正規歩兵部隊同様の熾烈な地上戦に投入されました。

    投稿日 2016年07月15日

    魂魄 (独立二十八大隊) 宜野湾・北谷・中城

    総合評価:5.0

    西原の塔敷地内に佇む独立第28大隊慰霊碑?魂魄?。独立第28大隊とは海上挺進基地第28大隊が戦況の悪化に伴い、昭和20(1945)年2月17日に改編され、臨時編成された陸戦部隊のひとつです。昭和19(1944)年9月に香川県善通寺で編成され、鹿児島を経て同年11月に沖縄入りし具志頭に駐屯します。志堅原や具志頭に宿営し、奥武島や具志頭白水川の四式肉薄攻撃艇(通称マルレ)の基地整備や後方支援業務を行っていました。

    陸戦部隊となった後は第24師団歩兵第89連隊に配属され、しばらくは島尻に駐屯し続けました。昭和20(1945)年4月29日南風原村大名へと前進し、5月3日の第二次総攻撃に於いて第89連隊とともに攻勢に出るも大隊長が負傷し、第1中隊が全滅する被害を被ります。そして5月8日には指揮下の第22連隊第3大隊とともに壊滅的被害を被ります。その後部隊は解散し、生き残った者は第22連隊に組み込まれます。そして敗戦が避けられなくなった6月17日には第22連隊司令部も玉砕し、900人もの大部隊は生存者も少なく部隊の動向や末期の様子も不明なまま時代の波に埋もれて行きました。

    歩兵からは明らかに劣る資質や装備しか持たない後方要員、すなわちツルハシを持って壕を作るのが専門の兵士に、武器らしい武器も渡さず戦闘最前線に?送り出した?というより?放置した?ことでどんな結果が待っているのかを?期待?する方が無茶な話だと思います。

    幸いなことに大隊幹部の遺族の手によって、部隊が熾烈な戦いに挑んだこの西原の地に平成7(1995)年4月に?魂魄?と名付けられた慰霊塔が建立され、史実を知ろうとしている方々に?独立第28大隊?の?存在と足跡?を静かに語りかけているように思えます。小さな碑ではあるものの、大隊が存在した史実を確かに受け取った・・・そう思いました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    西原の塔敷地内。
    人混みの少なさ:
    5.0
    どなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    舗装はされています。
    見ごたえ:
    5.0
    なにか引き込まれるものを感じます。

  • 西原での戦闘で壊滅的被害を被った部隊将兵の慰霊碑です。

    投稿日 2016年07月15日

    歩兵第89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑 宜野湾・北谷・中城

    総合評価:5.0

    西原の塔敷地内にひっそりと佇むひとつの慰霊碑があります。第24師団歩兵第89連隊第1大隊、大隊長の名前を取って丸地大隊と慰霊碑には刻まれています。

    昭和20(1945)年5月4日未明運玉森に大隊本部を置いた第一大隊は、予定より早く攻撃に取り掛かりますがそのことが結果的に命取りとなってしまいます。後方砲兵部隊から砲撃を前線部隊の前方に落として煙幕を張り、それに塗れて攻撃に出る手筈だったようですが、全身開始が予定時間より早かったこと、或いは射程距離の見誤りなどといった理由から味方である第一大隊の場所に着弾させるという?最悪の展開?からの攻撃開始となりました。

    日が昇るまでの戦闘は成功として捉えられているものの、あたりが明るくなってからは米軍の猛烈な攻撃の前に釘付けとなってしまいます。連隊本部への伝令を出すものの、その後航空機爆撃を含めた攻撃のもとではなす術がなく、結果としてほぼ壊滅状態となりました。

    第一大隊長丸地軍治大尉も負傷自決を遂げ生き残った者は10名程だったそうです。

    最近になってその第24師団歩兵89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑が熾烈な戦いを繰り広げて多くの犠牲者を出したこの西原の地に建立されました。建立者が書かれていなかったようなのでいつ誰の手によってということはわからないものの、戦禍に斃れた大隊が70余年前に確かにここに存在したことを静かに参拝者に語り掛けているように思います。軍関係の慰霊碑には必ずと言っていい程戦果について書かれているものが多く、逆にそれが参拝者を遠ざけているようにも思います。

    碑文を敢えて書かない方がストレートに建立者の意図が、参拝者にわかるのかも。そういう意味では新たな発見をした慰霊塔のひとつだったと思います。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    西原の塔敷地内にあります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    どなたにも会いませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    足元は舗装されています。
    見ごたえ:
    5.0
    碑に刻まれた文字から思いが伝わってきました。

  • 沖縄戦を戦った主力部隊である歩兵第89連隊を顕彰するために建立されました。

    投稿日 2016年07月15日

    歩兵第八十九連隊顯彰碑 宜野湾・北谷・中城

    総合評価:5.0

    西原の塔敷地内の一角にひっそりと佇む第八十九連隊(山三四七六部隊)顕彰碑は、昭和56(1981)年3月21日に遺族と戦友から構成された八九会によって建立されました。昭和14(1939)年に満州で創設された歩兵第89連隊は、兵員補充を北海道旭川で行っていました。昭和19(1944)年第24師団隷下の歩兵部隊のひとつとして来沖し、昭和20(1945)年3月にはじまる沖縄戦に於いて日本軍の主力歩兵部隊として善戦しますが、米軍の圧倒的な兵力火力の前に徐々に劣勢となり、遂に6月17日に新垣の司令部壕にて金山均連隊長以下将兵が玉砕しその歴史を閉じました。

    数ある沖縄島での熾烈な戦闘の中でも、この西原の地が戦場となった昭和20(1945)年5月4日の第32軍総攻撃の際には現地徴兵された防衛隊員を含めた多くの将兵が戦没されました。

    第89連隊関係の慰霊碑は結構数があります。しかしこの西原の地は防衛隊員と共に将兵が米軍を迎え撃った戦場であり、その際の生存者や戦没者遺族から見ると?特別な場所?なのではないでしょうか。書かれている碑文の中にもその思いが秘められていることは容易に知ることができ建立者の想いを伺い知ることができた気がします。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    西原の塔敷地内にあります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた時はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    舗装はされています。
    見ごたえ:
    5.0
    碑に込められた想いを知ることができます。

  • 沖縄戦に於いて最初に米軍を迎え撃った部隊の慰霊碑です。

    投稿日 2016年07月15日

    観世音の像 宜野湾・北谷・中城

    総合評価:5.0

    第62師団歩兵63旅団独立歩兵第11大隊という名称の部隊です。昭和13年に満州で編成された後、敦賀連隊区が徴兵・召集を管轄しました。その後敦賀連隊区は京都師管区に吸収されることとなりますが、編成上福井・滋賀・京都出身の兵士がたくさんおられました。

    昭和20(1945)年4月1日に始まったアメリカ軍の沖縄島上陸から数日後、独立歩兵第12大隊とともに米軍を迎え撃ち、遅滞作戦を遂行しました。一定の成果は挙げたものの戦力は半減し、その状態で沖縄戦初期の激戦のひとつとされる?課嘉数の戦い?に挑みました。

    その後の戦いに於いて犠牲者の数は増えて行き、5月の小波津の戦いの頃には大隊長が変わっています。そして沖縄戦末期の昭和20(1945)年6月20日、摩文仁の丘近郊で玉砕されその歴史を閉じました。

    1,300人という構成人員を持ちながら、あまり転戦の情報などが定かではない要素が多々ある第11大隊ですが、慰霊碑はこの西原町の他にふたつあります。京都霊山護国神社と滋賀県護国神社、これが大隊を構成し戦没された方の縁の地であることは説明するまでもありません。他人には足跡がわからなくても、生存者並びに遺族の手によって縁の場所に慰霊碑が建立された…。そのことだけでも知ることがある事実を改めて感じました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    西原の塔敷地内。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰にも会いませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    舗装はしてあります。
    見ごたえ:
    5.0
    観音像に込めた気持ちが伝わってきます。

  • 旧西原村で亡くなった村民・軍人・軍属を合祀した慰霊塔です。

    投稿日 2016年07月15日

    西原の塔 宜野湾・北谷・中城

    総合評価:5.0

    日清・日露・日華事変等で戦死された方々を祀る忠魂碑に端を発し、沖縄戦によって破壊されたのをきっかけにして、昭和30(1955)年沖縄協会の援助と村民の全面的な協力のもと忠魂碑の全面改修を行って?西原村慰霊塔?と呼称を変更し、1,700余名を合祀しました。その後昭和43(1968)年には再度改修を加え、?西原の塔?と呼称を変更し合祀数を2,000余名とします。

    そして徐々にではあるものの沖縄戦に於ける西原村内で戦没した県外出身者・村外本県出身者の確認が進められると同時に村内出身者の軍人・軍属・一般戦闘協力者・村出身外地戦没者の遺族台帳の整備を進めてきた結果、現在では7,068名が合祀されています。

    西原町は昭和60(1985)年には?西原町非核反戦平和都市?を宣言し、より積極的な各種平和事業を推進している市町村として国内外に知られています。

    熾烈な地上戦の戦場と化した旧西原村では、村民の47%が犠牲となりましたが、その史実を踏まえた上での?立場を問わない戦没者?を祀ることによって平和の大切さを掲げることは、戦争によって亡くなられた人々はすべて同じだと言うことに他ならないと思います。

    軍は悪者と決めつける考えでは、人の命の尊さに差をつけているようで、私のような知識のない人間にはあまり良い気はしません。そういう意味ではすごく重みを感じる?非核反戦平和都市?宣言であり、西原の塔建立の謂れのように思いました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    那覇中心部より車で30分位。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた時は誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    舗装がしてあります。
    見ごたえ:
    5.0
    塔建立の謂れにその奥深さを感じました。

  • 西原村ご出身で外地に於いて戦没された方を祀っています。

    投稿日 2016年07月16日

    外地戦没者之碑 宜野湾・北谷・中城

    総合評価:5.0

    西原の塔敷地内にある?外地戦没者之碑?は、旧西原村ご出身で徴兵され外地に於いて戦没された方々の御霊をお祀りしています。主体となられたのは引揚者の方々の手によると碑文には書いてありました。

    西原町にはこの霊域だけでも多くの慰霊穂が所狭しと並んでいます。平和宣言都市と高らかに宣言した西原町の?想い?がよくわかる場所であり、一度訪れる価値はある場所だと思います。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    西原の塔敷地内です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    どなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    芝生敷きではありますが段差はありません。
    見ごたえ:
    5.0
    平和宣言都市の心意気を感じました。

  • 沖縄県道7号線と国道331号線の交差点にあるコンビニです。

    投稿日 2016年07月14日

    糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    糸満市米須にあるファミリーマート糸満米須店、界隈にコンビニがなく糸満に宿泊すると必ず利用します。タバコやアルコールも取り扱っており、食事なしの宿泊をされた場合、軽食の購入もできます。場所的に主要道路の交差点にあることから、南部周遊の途中に一服入れたりすることもでき、何かと利用頻度は高いように思います。

    また6月23日の慰霊の日に行われる平和大行進の道中にあることもあり、休憩所としてお店を利用してもらっていることもあり、当日の午前中は結構混雑し、道路にしばらく出られないこともあるので注意が必要です。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    ひめゆりの塔から車ですぐ。
    お買い得度:
    4.0
    コンビニなのでそれなりの値段はします。
    サービス:
    5.0
    マニュアル化された気持ちの良いものです。
    品揃え:
    5.0
    時間帯にもよりますが、結構良いと思います。
    バリアフリー:
    5.0
    自動ドア完備です。

  • 識名霊園近くにあるスーパーマーケットです。

    投稿日 2016年07月12日

    サンエー (V21食品館繁多川店) 那覇

    総合評価:5.0

    サンエーV21食品館繁多川店は、繁多川公民館から那覇市中心部へと少し進んだ場所にあります。食品館と付いているように主として食品を扱うお店ですが、沖縄県を根拠地としたスーパーサンエー系列のお店であるため、価格帯は手頃なものが多く扱っておられます。

    夏の沖縄では水分の補充が欠かせないため、結構飲み物代にも費用が掛かります。自販機と同じものをより安く仕入れられるので、何かと使い勝手があるお店だと思います。買い物袋は有料なので?myバック?の持参は欠かせません。9:00〜24:00の営業なので、夜にちょっと買い物するだけでも使い勝手は多くあるように思えました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    識名霊園から車で5分程。
    お買い得度:
    5.0
    スーパーなのでお得商品が結構あります。
    サービス:
    5.0
    マニュアル通りの良い感じです。
    品揃え:
    5.0
    午前中だったので結構豊富でした。
    バリアフリー:
    5.0
    自動ドア完備です。

  • 沖縄戦の最中沖縄県庁が避難していました。

    投稿日 2016年07月09日

    県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 那覇

    総合評価:5.0

    那覇市真地の高台にある識名霊園。その東側に付近の繁多川の住民が?シッポウジヌガマ?と呼ぶ四方地の神が祀られている壕がひっそりとありました。沖縄戦の最中昭和20(1945)年4月中旬頃戦災を避けるために島田叡知事をはじめとした県庁職員や荒井退造沖縄県警察部長をはじめとする警察職員が、現松山公園にあった県庁舎から避難して来ました。

    折りしも本当中部では米軍と日本軍が激しい戦闘を繰り広げている最中、このシッポウジヌガマに於いて市町村長会議を行うべく各自治体の首長に招集がかかります。そして砲弾が雨のように降り注ぐ中、昭和20(1945)年4月27日には県内17市町村長が集合し、壕内で沖縄県政最後の市町村長会議が開かれます。

    その後戦況の悪化とともに首里の第32軍司令部が南部へと撤退することに従い、県庁も同行することになりました。昭和20(1945)年6月初旬のことでした。糸満市糸州の轟壕へと県庁が移動するまでの僅か約1ヶ月間このシッポウジヌガマが県庁壕となりました。火炎放射器で焼かれた跡も残っているこの場所は、多くの遺骨をはじめとする遺品が出土しました。平成22(2010)年には那覇市がこの?県庁壕?と?警察部壕?を文化財指定するとのことが新聞に取り上げられました。しかしその反面壕に?ゴミ?を投げ込む不埒な輩も多く、県庁壕保存のため平成23(2011)年1月より入口に鍵がつけられることになりました。

    現在入口の鍵は、那覇市役所文化財課と繁多川公民館で貸し出しておられます。市役所で借りると往復の移動距離があるため繁多川公民館でお借りしましたが、現在一般の方には貸し出しておられないということも聞きました。一時は那覇市役所のみで貸し出されていたそうですが、現実的に壕を参拝する高齢者の方の便宜を図るため繁多川公民館で扱われるようになったそうです。要は?確固たる目的?がある方に対して貸し出すとのことのようです。なんとか?例外的?に借りることはできましたが、実際にはそのようになっていることはご理解下さい。

    壕としては大きなものであり、入口の狭さを除けば大人が立って十分歩ける高さがあります。元々ヘルメットをかぶらなければ入れないような狭いところには、ひとりでは入らないようにしているものの、つい高さに油断したのか一回ですが頭をぶつけました。そして両手を自由にするためデジカメを首に掛けていると石にぶつけてしまい破損…、油断大敵と自分自身を戒めた場所でもあります。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    奥武山公園から車で20分くらい。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れたときには誰もいませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    段差は普通にあります。
    見ごたえ:
    5.0
    内部はかなりどっしりした感があります。

  • 那覇市の公民館です。

    投稿日 2016年07月09日

    繁多川公民館 那覇

    総合評価:5.0

    那覇市繁多川にある繁多川公民館は、繁多川地区に於ける地域に根付いた文化活動の拠点として色々な口座や活動を開催している公民館です。今回は県庁壕の鍵を借りるために訪れましたが、事前に調べていた内容とは違っており、少し借りるまでに時間を要しました。

    道さえわかっていれば5分程で県庁壕へと辿りつくことができるのですが、場所を勘違いしていたことや聞けばわかると言ったあんちょこな考えがあったため1時間ほどの時間を要しました。

    なんとか県庁壕までたどり着き、一通り見学を済ませた後鍵を返しに繁多川公民館へと戻りますが、丁度昼休みの時間とかぶってしまい少し申し訳なく思いました。定期的に題材を変えて付近一帯の戦跡についての陳列をされておられるようで、訪ねたときは県庁壕と島田知事の足跡について、手作りでわかりやすい地図と写真などを用いて解説されていました。

    観光客にはほとんど縁がない場所かもしれませんが、沖縄県の公的機関ではこのようなローカルな展示が行われていることが多々あるようで参考になることが多いように思います。

    旅行時期
    2016年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    奥武山公園から車で15分くらい。
    人混みの少なさ:
    5.0
    利用者は少しおられました。
    バリアフリー:
    5.0
    エレベーター完備で考えられています。
    見ごたえ:
    5.0
    沖縄県庁の足跡はなかなかのものでした

  • 沖縄戦に於ける日本軍中心部隊として戦いました。

    投稿日 2016年07月09日

    歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    第24師団歩兵第89連隊。旭川で編成され、沖縄戦を戦った日本軍の主力部隊のひとつです。昭和20(1945)年4月沖縄島での地上戦が始まると運玉森陣地にて米軍と交戦しました。その後第32軍司令部のある首里近郊で激しい戦いを繰り広げ、善戦するも米軍の圧倒的な火器兵力の前に次第に押される形となり、5月下旬司令部の南下撤退に伴い糸満市新垣のこの司令部壕へと入ることとなります。

    沖縄島南部へと撤退をした日本軍を追従する米軍の動きは大変早かったとされ、昭和20(1945)年6月15日にはこの新垣の司令部壕も取り囲まれ指揮下部隊との連絡も途絶しました。その状況下で6月19日には連隊長金山均大佐は最後の時を決断し、第24師団司令部に決別の打電を入れた後自決。連隊司令部に所属していた多くの将兵も全員壕内外で自決若しくは戦死し歩兵第89連隊は玉砕します。

    金山大佐は自決前に?連隊旗?を壕内で奉焼したそうですが、この金山大佐自決壕は米軍制圧後10日間にも渡って燃え続けたとされています。そのため内部に残っていただろう遺品の数々は灰燼と化し、ほとんどのものが焼けてしまったがために記録すら残っていないというのが現実だそうです。

    なぜそこまで米軍が執拗に攻撃を加えたか?これは付近で数日前に起こった米軍司令官サイモンバクナー中将の戦死によるものだという説が濃厚です。ただ?軍?という規律ある組織の中で?弔い合戦?のごとくここまでやるのか…ということは理解し難いことでもあります。

    この歩兵第89連隊玉砕終焉之地は、公的機関が調べ上げた沖縄戦慰霊碑の所在地一覧の中でも間違いが多くあるもののひとつです。潮平の浄土寺にあるものは?終焉之地?の碑ではなく、永代供養の?供養塔?でしかありません。興味のない方にはどうでもいいことなのかも知れませんが、やはり事実誤認であることには間違いないため敢えて訂正します。

    旅行時期
    2016年06月

  • 沖縄戦末期第24師団第一野戦病院新城分院が置かれていました。

    投稿日 2016年07月08日

    ヌヌマチガマ 知念・玉城・八重瀬

    総合評価:4.0

    沖縄での地上戦が始まる寸前の昭和20(1945)年3月、看護補助要員として学徒看護隊として従軍した沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒看護隊は、現八重瀬公園に構築された陸軍第24師団野戦病院へと配属されました。4月となり沖縄島中部にて戦闘が始まる、前線から多くの負傷兵が送られてくることとなり、手狭になった第一病院壕の分院としてこのヌヌマチガマが新城(あらぐすく)分院として利用されることとなり、白梅学徒数名が移動してきました。その後戦況の悪化とともに首里城に置かれていた第32軍司令部が南部に撤退する際に、第24師団野戦病院も同行することになり、新城分院も閉鎖され身動きの取れない重症患者は処置されたとの記録が残されています。

    南部への撤退時に一度八重瀬にて学徒隊に解散命令が出されたもののすぐに撤回され、負傷兵に肩を貸すなどして国吉の現在の白梅之塔付近の壕に集まりました。しかし絶対的な火力兵力を持つ米軍は、学徒隊が潜んでいる壕に馬乗り攻撃を仕掛け、それによって多くの犠牲者を出しました。また相前後して出された解散命令によって砲弾の飛び交う戦場を彷徨うことにより犠牲者を増やす結果となっています。

    犠牲者も多いものの生存者も多かったひめゆり学徒に関しては、足跡等明確なものとなっていましたが、その他全部で21あった学徒隊に関してはほとんど知られないままになっていました。白梅学徒隊もそのうちのひとつではあったものの、八重瀬町等の働きかけもあり、足跡が看板表記されるようになり、つい最近ではあるものの一般的にも認知されるようになりました。しかしその反面?戦時中の追体験?と称した入壕体験のマナーの悪さからトラブルが絶えなかったこともあり、新城分院壕の東側のガラピ壕は埋土をされて利用できなくなり、西側のヌヌマチガマは指定管理者を定められ、個人での入壕ができなくなりました。

    勿論管理という面では必要なことではあるものの、壕内からの出土品を勝手に展示をしていたことや、扉を設けて勝手に入壕できなくしていたなど、?私物化?と取られても仕方がないことが露見し、問題になっていました。昨年夏まで独占的にヌヌマチガマの入壕ガイドを取り扱っていた団体が、抗議の意味を込めてか今なお入壕についてうたっている看板を撤去していないことは、何も知らずに訪れた方々の?関心?すら奪いかねないもののように思えます。しかし団体の受付しかしないというのも?手っ取り早い儲け方?と取られても仕方がないところもあり、何らかの個人での見学を受け入れる手段は講じるべきではないか?そう思います。

    ヌヌマチガマは白梅学徒看護隊がこの場所で70余年前に間違いなく従軍し、看護業務を行っていたかけがえのない戦跡のひとつである史実を、個人の考えて?追体験?を願う人々に伝えるべきではないか・・・そう思えてなりません。

    旅行時期
    2016年07月
    利用した際の同行者
    一人旅

  • 白梅学徒の沖縄県立第二高等女学校がありました。

    投稿日 2016年07月08日

    松山公園 那覇

    総合評価:5.0

    那覇市中心部にある松山公園に建立されている?白梅の乙女たち?のブロンズ像は、白梅学徒看護隊を構成した沖縄県立第二高等女学校が建っていた跡地に建立されています。昭和19(1944)年10月10日の十・十空襲で校舎が全焼してしまった後は、隣接していた沖縄県庁舎等を間借りして勉強を続けられましたが、翌昭和20(1945)年3月には学徒看護隊として第24師団第一野戦病院へと従軍され戦場を彷徨い、多くの犠牲者を出しました。

    戦後戦災で焼けてしまった学び舎は、復興されることもなく自然廃校となり、現在に至っています。

    学校が復興しなかった学徒隊の足跡が時の流れに埋もれていく中、白梅学徒隊の足跡は八重瀬町等の協力もあり、野戦病院壕として利用していた場所を?明示する?看板等が取り付けられるようになり、比較的容易に知ることができるようになりました。その原点がこの?沖縄県立第二高等女学校跡?だと思います。

    銅像のような姿は想像できませんが、ここに学徒看護隊を構成した?二高女?があった1世紀前の史実に、学徒動員されたうら若き少女達への思いを新たにしました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅

  • 70回目の慰霊祭が行われていました。

    投稿日 2016年06月25日

    白梅の塔 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    平和祈念公園の戦没者追悼式の後に向かいました。訪れる人もない場所とはうって変わり車を止める場所すらありません。なんとか停めて遠巻きながら見させて頂きました。

    白梅の塔慰霊祭は今回が70回目だと言うことでした。勿論慰霊祭としての形式ばったところもありましたが、やはりテレビの中での人だと思っていた白梅同窓会長中山キクさんが、参列の御礼と同窓会をはじめとする白梅の塔賛助会の今後の心意気を述べられたことには心が熱くなりました。

    最後の締めくくりは沖縄県立第二高等女学校の校歌斉唱。慌てて手作りのプログラムを貰って、口パクながら最後に参加をさせて頂きました。

    旅行時期
    2016年06月

  • ハンバーグ食べたい…。

    投稿日 2016年06月30日

    知念・玉城・八重瀬

    総合評価:5.0

    慰霊の日一日を満喫した後、ドライブを兼ねて夕食を食べに行きました。今日は奥武島に泊まるのですが付近の飲食店は既にクローズ。かといって糸満市街へと向かうと同じ道を走らなくてはならないため、わざと一筆書きに走れるようにした場所が?ガスト沖縄南風原店?でした。南風原といっても津嘉山なのでいつもうろちょろしている場所は違うものの、少し待ち時間はあったもののすぐにテーブルには案内されました。

    なんとなくハンバーグが食べたくなって、注文したオーダーが?チーズハンバーグ?。いつものごとく?グルメでない人?に徹しましたが、ゆっくりできるので満腹です♪後からスープセットはいらなかったかな…と思いながらもドリンクバーと共に堪能できました。またいつの日かこよ〜っと思います。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    一人当たり予算
    1,500円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園から車で30分程です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    それなrの値段はします。
    サービス:
    5.0
    マニュアル通りです。
    雰囲気:
    4.0
    人は多いので良すぎることはありません…。
    料理・味:
    5.0
    慣れた味はお気に入り。
    バリアフリー:
    3.0
    確か階段がありました。
    観光客向け度:
    3.0
    好き好きあると思います。

  • 閉園中ではありますが、特定の日は入れるのかも知れません…。

    投稿日 2016年06月30日

    豊見城市城跡公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    豊見城城址公園、三山時代の15世紀頃に後の南山王となる汪応祖の手により漫湖沿岸の高台に築いたグスク(城)が発祥とされています。しばらく豊見城按司の居城として栄えたものの、三山統一の戦いの過程に於いて中山王尚巴志の攻撃を受けて1429年に落城し、南山は滅びたとされています。

    1719年には尚敬王の冊封副使として来琉した徐葆光が漢詩に詠み、1853年に琉球に来航したペリー艦立ち寄った記録が残されています。三重の郭からなるグスクは五つの城門があったと言われており、城内には水や雨を司る龍神が祀られている豊見瀬嶽(とみせうたき)があり、約300年前には竜舟競渡や雨乞いなどの儀式が行なわれたとの記録が残っています。しかし沖縄戦によって城郭は破壊され、昭和30年代まで残って城壁や石門も豊見城城跡公園の整備のためほとんどの遺構を失ったそうです。

    その後平成15(2003)年9月30日付で城跡公園は閉園となり、その後長きに渡って放置されていました。年に一度だけ?ハーリー由来祭り?が豊見御嶽で開催される聖域だという表記が多いものの、近年?空手道場?としての再開発事業が始まりました。それに伴うのかどうなのかはわかりませんが、6月23日の?慰霊の日?には慰霊祭が執り行われることにより部分的な立ち入りが可能だということが書かれています。公的機関を含め問い合わせ先は記載されておらず、現地確認を行ったに過ぎないものの、工事現場入り口には確かに参拝者向けの案内が書かれていました。

    既に?豊見城城跡公園?と書かれていた看板は取り外されており、一見するだけではこの場所が城跡公園跡だということもわからなくなっています。
    戦時中この地には第24師団第二野戦病院壕が掘られ、ふじ(積徳)学徒隊が看護補助要員として従軍していた場所でした。昭和57(1982)年に慰霊碑が建立されるにあたり壕内も整備され往時を偲ぶことができる貴重な場所のひとつでした。しかし城跡公園の閉鎖によりそれも不可能となり、13年もの間ほとんど整地もされぬまま荒れ放題になっていることは残念に思います。豊見城市としては戦争遺構として残したい考えはあるようなので、一日も早い再開を望む次第です。

    公園だった遺構も多々残ってはいますが、やはりとよみ大橋や漫湖を望む景色はしばし見惚れるくらい魅力のあるものでした。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    旧海軍司令部壕から車で5分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    人影は見えませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    足元はあまりよくはありません。
    見ごたえ:
    5.0
    本当にくることができて感動してしまいました。

  • 間違いなく学徒はいました。

    投稿日 2016年06月30日

    第24師団第二野戦病院壕 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    現在閉鎖中の豊見城城跡公園。その敷地内には沖縄戦末期に第24師団第2野戦病院壕が構築され、私立積徳高等女学校生徒から構成された?ふじ(積徳)学徒看護隊?25名が配属されました。昭和20(1945)年3月23日の沖縄に於ける地上戦が始まる寸前に看護補助要員として配属となり、沖縄戦が始まると前線から毎日多くの重傷を負った傷病兵が絶え間なく送られてくるようになり、休む暇もなく看護業務にあたりました。

    5月下旬には戦況の悪化とともに首里に置かれていた第32軍司令部が南部に撤退し、それに伴って野戦病院も南部に撤退、糸洲の壕に入ることになります。

    僅か2ヶ月の野戦病院壕ではあったものの、その後の学徒隊や野戦病院の運命を担った重要な場所であったことには違いありません。数の問題ではないことはわかっていても、多くの犠牲者を出した学徒隊の中で3名だった?ふじ(積徳)学徒隊?。戦後生存者が語ることをされなかったこともあり、話題にのぼるようになったのもつい最近のことだと聞いています。

    平成15(2003)年9月に豊見城城跡公園が閉園となり、慰霊碑が建立された昭和57(1982)年に整備された野戦病院壕も10余年もの間放置されたおり、一見した限りではとても入壕出来るような状態ではありませんでした。口コミで知った?慰霊の日の部分開放?の情報に基いて回りましたが、どこまで許可をされているのかはわからないところもあります。

    城址公園跡地には現在空手道場の建設が進んでいます。豊見城市の予定では旧海軍司令部壕とともに市内の主要戦跡として保存を進め、平和学習の一端を担うようにする旨が発表されており、見るからに危険そうな第24師団第二野戦病院壕が再び?戦争を考える者?の学習の場となって復帰して欲しい…そんな風に思いました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    旧海軍司令部壕から車で5分程。
    人混みの少なさ:
    5.0
    人が訪れている気配はありません。
    バリアフリー:
    3.0
    舗装はしてありませんでした。
    見ごたえ:
    5.0
    入口から覗いたでも重い雰囲気が伺えます。

  • 学徒や病院関係の生存者の想いを最も強く感じた慰霊塔です。

    投稿日 2016年06月30日

    旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    常時は閉鎖されている旧豊見城城址公園内にあります。非公式情報で沖縄慰霊の日(6月23日)は慰霊祭が行われるため、入場ができると聞き尋ねました。
    沖縄戦が始まる寸前の昭和20(1945)年3月23日、私立積徳高等女学校生徒から構成された?ふじ(積徳)学徒看護隊?は、この地にあった第24師団第二野戦病院に配属されることになりました。隊長は長野県出身の小池勇助軍医少佐(当時)。56名の学徒のうち従軍か除隊かの選択の後31名が除隊、残った25名が従軍しやがて始まる沖縄での地上戦により、前線から運ばれてくる多くの傷病兵の看護補助要員として日夜を問わず働いていました。

    戦況の悪化に伴い首里の第32軍司令部の南下撤退に伴い野戦病院にも撤退命令が出され、昭和20(1945)年5月27日にこの豊見城を離れ糸満市糸洲の壕へと向かうことになります。6月に入ると米軍の攻撃は激しさを増して行き、第32軍司令官の自決によって日本軍の組織的抵抗が終了する直前には、多くの学徒隊に対し解散命令が出され砲弾の飛び交う戦場に放り出される形で多くの犠牲者を出しました。その中でこのふじ学徒隊では解散命令が出されたのは6月26日のこととされています。他の学徒隊への解散命令が出されたのは6月17日前後が多い中で、なぜ10日ものずれがあったのでしょうか?これが実は隊長の配慮だったことはあまり知られていない事実でした。

    命令を受け取った小池隊長は、戦闘の真っただ中に学徒を放り出すことなど言語道断とし、命令を握り潰します。そして状況が落ち着くのを見計らい解散命令を出します。鬼畜米英の教育の元学徒隊の中にも動揺が広がります。中には部隊と運命を共にする覚悟を語る学徒もいた中で、最後の小池隊長の訓示が始まります。「日本は負けた」「こうなることならばあなた方(学徒隊)を預からなかった。親御さんに申し訳ない」と深々と頭を下げた小池隊長は「生きるのは恥ではありません。死ぬことが最も恥ずべきことです」と言いながら学徒すべての手を握ってお礼を言いながら見送ったとされています。

    しかし集団での行動に慣れてしまっている学徒の中には、部隊から離れることができず近くに潜んでいた者もおり、米兵を通り過ごした後落としていった?タバコ?を隊長に渡そうと壕へ戻った者もいたそうです。しかしそこで見たものは変わり果てた隊長の姿でした…。

    多くの犠牲者を出した学徒隊でしたが、ふじ学徒に関しては3名の戦死者に留まりました。勿論数の大小で語れるものではありませんが、悲劇的な末路を取らざるを得なかった学徒隊が語られるに対し、ふじ学徒のことはあまり語られることはありません。また戦死者の3名のうち1名は戦後心の病から自死された方を加えての数ということになります。

    これら奇跡的とも言われる結果を生み出したのは、やはり戦時中にあって?人の心?を持った小池勇助軍医中佐(戦死特進)がいたからに他ならないように思えてなりません。また金沢大医局から軍医として従軍された島尾中尉、彼もまた立場上隊長から重症患者の?処置命令?を受けざるを得なかったにしろ、最終的には命令に背き青酸カリではなく?乾パンと手榴弾?を枕元に置いて命令には従わなかった。しかしそれを知っていた(だろう)小池隊長も肯定もしなかったが否定もしなかったというやり取りが学徒の生存者の記述に見ることができます。

    戦争が終わってもなかなか進まない沖縄の復興の時期も年月が経ち、昭和47(1972)年5月15日には日本へ復帰しました。ふじ学徒看護隊の生存者は、命の恩人である小池隊長の回忌法要には、お墓のある長野県へ参られるなど交流が続いていたそうです。また復員後医局へと戻られた島尾軍医は呼吸器科医として勤務されつつも、戦時中この豊見城の野戦病院での出来事が常に頭から離れなかったと語られており、学徒隊生存者を窓口に慰霊碑の建立を願っておられました。そしてやっと昭和57(1982)年8月、第24師団第二野戦病院跡地の丘に?旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑?が建立されましたが、その功労者である島尾先生はその慰霊碑を見ることができませんでした。

    このような経緯があって建立された?旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑?ではあるものの、平成15(2003)年9月に豊見城城跡公園が閉園してから放置されていると同時に、参拝手順すらわからない状態で10余年も月日が経ちました。現在は旧城址公園敷地内に空手道場が建てられており、その完成の折には園地の整備も含めて考えられているようなことを聞きました。今回私が訪れられたことは本当に問題ないのかどうかは確信は持てません。しかし参道の案内も掲げられていたことは事実なので、学徒の足跡を辿る意味でも紹介することにしました。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    旧海軍司令部壕から車で5分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    私より早く人が訪れた形跡はありません。
    バリアフリー:
    3.0
    芝生敷きになっていました。
    見ごたえ:
    5.0
    やっと来られた満足感とこの碑に込められた気持ちに胸が熱くなりました。

  • 街中の緑あふれる公園には・・・。

    投稿日 2016年06月25日

    松山公園 那覇

    総合評価:5.0

    那覇市中心部那覇商業高校の隣にある大きな公園です。1901年には沖縄県立沖縄病院が、1923年には沖縄県立第二高等女学校が移転開校した場所でもあります。十・十空襲で学校は焼けてしまい、僅かに焼け残った知事官舎にて学業を続けたものの、時代は沖縄戦へと突入していく中で第二高等女学校の生徒から構成された?白梅学徒看護隊?の悲劇へと繋がっていきました。

    沖縄県立沖縄病院跡は僅かに碑が残るだけですが、沖縄県立第二高等女学校跡地には?白梅の乙女たち?のブロンズ像が建立されています。

    白梅学徒看護隊はここにあった沖縄県立第二高等女学校で学んでいた事実を知ることは、その後の経歴を知る上で忘れてはならないことのように思えます。

    ちなみに松山公園駐車場は、バスを含めた長時間駐車の問題から平成28(2016)年7月1日から有料化されるため、現在工事が行われています。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    空港から車で10分程。
    人混みの少なさ:
    5.0
    混雑はしていません。
    バリアフリー:
    4.0
    考えられているところはあるものの、バリアフリー化まではいっていません。
    見ごたえ:
    5.0
    歴史ある公園として圧倒されました。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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5国・地域渡航

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非日常生活の出来事を体験できて、日頃の鬱憤を晴らせる場。

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