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旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑

名所・史跡

糸満・ひめゆり

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旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑 https://4travel.jp/dm_shisetsu/11615481

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施設名
旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑
住所
  • 沖縄県豊見城市字豊見城
アクセス
平和祈念公園駐車場から車30分
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 名所・史跡

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クチコミ(1件)

糸満・ひめゆり 観光 満足度ランキング 103位
3.14
アクセス:
5.00
旧海軍司令部壕から車で5分。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
人混みの少なさ:
5.00
私より早く人が訪れた形跡はありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
バリアフリー:
3.00
芝生敷きになっていました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
見ごたえ:
5.00
やっと来られた満足感とこの碑に込められた気持ちに胸が熱くなりました。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 常時は閉鎖されている旧豊見城城址公園内にあります。非公式情報で沖縄慰霊の日(6月23日)は慰霊祭が行われるため、入場ができ...  続きを読むると聞き尋ねました。
    沖縄戦が始まる寸前の昭和20(1945)年3月23日、私立積徳高等女学校生徒から構成された?ふじ(積徳)学徒看護隊?は、この地にあった第24師団第二野戦病院に配属されることになりました。隊長は長野県出身の小池勇助軍医少佐(当時)。56名の学徒のうち従軍か除隊かの選択の後31名が除隊、残った25名が従軍しやがて始まる沖縄での地上戦により、前線から運ばれてくる多くの傷病兵の看護補助要員として日夜を問わず働いていました。

    戦況の悪化に伴い首里の第32軍司令部の南下撤退に伴い野戦病院にも撤退命令が出され、昭和20(1945)年5月27日にこの豊見城を離れ糸満市糸洲の壕へと向かうことになります。6月に入ると米軍の攻撃は激しさを増して行き、第32軍司令官の自決によって日本軍の組織的抵抗が終了する直前には、多くの学徒隊に対し解散命令が出され砲弾の飛び交う戦場に放り出される形で多くの犠牲者を出しました。その中でこのふじ学徒隊では解散命令が出されたのは6月26日のこととされています。他の学徒隊への解散命令が出されたのは6月17日前後が多い中で、なぜ10日ものずれがあったのでしょうか?これが実は隊長の配慮だったことはあまり知られていない事実でした。

    命令を受け取った小池隊長は、戦闘の真っただ中に学徒を放り出すことなど言語道断とし、命令を握り潰します。そして状況が落ち着くのを見計らい解散命令を出します。鬼畜米英の教育の元学徒隊の中にも動揺が広がります。中には部隊と運命を共にする覚悟を語る学徒もいた中で、最後の小池隊長の訓示が始まります。「日本は負けた」「こうなることならばあなた方(学徒隊)を預からなかった。親御さんに申し訳ない」と深々と頭を下げた小池隊長は「生きるのは恥ではありません。死ぬことが最も恥ずべきことです」と言いながら学徒すべての手を握ってお礼を言いながら見送ったとされています。

    しかし集団での行動に慣れてしまっている学徒の中には、部隊から離れることができず近くに潜んでいた者もおり、米兵を通り過ごした後落としていった?タバコ?を隊長に渡そうと壕へ戻った者もいたそうです。しかしそこで見たものは変わり果てた隊長の姿でした…。

    多くの犠牲者を出した学徒隊でしたが、ふじ学徒に関しては3名の戦死者に留まりました。勿論数の大小で語れるものではありませんが、悲劇的な末路を取らざるを得なかった学徒隊が語られるに対し、ふじ学徒のことはあまり語られることはありません。また戦死者の3名のうち1名は戦後心の病から自死された方を加えての数ということになります。

    これら奇跡的とも言われる結果を生み出したのは、やはり戦時中にあって?人の心?を持った小池勇助軍医中佐(戦死特進)がいたからに他ならないように思えてなりません。また金沢大医局から軍医として従軍された島尾中尉、彼もまた立場上隊長から重症患者の?処置命令?を受けざるを得なかったにしろ、最終的には命令に背き青酸カリではなく?乾パンと手榴弾?を枕元に置いて命令には従わなかった。しかしそれを知っていた(だろう)小池隊長も肯定もしなかったが否定もしなかったというやり取りが学徒の生存者の記述に見ることができます。

    戦争が終わってもなかなか進まない沖縄の復興の時期も年月が経ち、昭和47(1972)年5月15日には日本へ復帰しました。ふじ学徒看護隊の生存者は、命の恩人である小池隊長の回忌法要には、お墓のある長野県へ参られるなど交流が続いていたそうです。また復員後医局へと戻られた島尾軍医は呼吸器科医として勤務されつつも、戦時中この豊見城の野戦病院での出来事が常に頭から離れなかったと語られており、学徒隊生存者を窓口に慰霊碑の建立を願っておられました。そしてやっと昭和57(1982)年8月、第24師団第二野戦病院跡地の丘に?旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑?が建立されましたが、その功労者である島尾先生はその慰霊碑を見ることができませんでした。

    このような経緯があって建立された?旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑?ではあるものの、平成15(2003)年9月に豊見城城跡公園が閉園してから放置されていると同時に、参拝手順すらわからない状態で10余年も月日が経ちました。現在は旧城址公園敷地内に空手道場が建てられており、その完成の折には園地の整備も含めて考えられているようなことを聞きました。今回私が訪れられたことは本当に問題ないのかどうかは確信は持てません。しかし参道の案内も掲げられていたことは事実なので、学徒の足跡を辿る意味でも紹介することにしました。  閉じる

    投稿日:2016/06/30

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  • たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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