第24師団歩兵第89連隊。旭川で編成され、沖縄戦を戦った日本軍の主力部隊のひとつです。昭和20(1945)年4月沖縄島での...
続きを読む地上戦が始まると運玉森陣地にて米軍と交戦しました。その後第32軍司令部のある首里近郊で激しい戦いを繰り広げ、善戦するも米軍の圧倒的な火器兵力の前に次第に押される形となり、5月下旬司令部の南下撤退に伴い糸満市新垣のこの司令部壕へと入ることとなります。
沖縄島南部へと撤退をした日本軍を追従する米軍の動きは大変早かったとされ、昭和20(1945)年6月15日にはこの新垣の司令部壕も取り囲まれ指揮下部隊との連絡も途絶しました。その状況下で6月19日には連隊長金山均大佐は最後の時を決断し、第24師団司令部に決別の打電を入れた後自決。連隊司令部に所属していた多くの将兵も全員壕内外で自決若しくは戦死し歩兵第89連隊は玉砕します。
金山大佐は自決前に?連隊旗?を壕内で奉焼したそうですが、この金山大佐自決壕は米軍制圧後10日間にも渡って燃え続けたとされています。そのため内部に残っていただろう遺品の数々は灰燼と化し、ほとんどのものが焼けてしまったがために記録すら残っていないというのが現実だそうです。
なぜそこまで米軍が執拗に攻撃を加えたか?これは付近で数日前に起こった米軍司令官サイモンバクナー中将の戦死によるものだという説が濃厚です。ただ?軍?という規律ある組織の中で?弔い合戦?のごとくここまでやるのか…ということは理解し難いことでもあります。
この歩兵第89連隊玉砕終焉之地は、公的機関が調べ上げた沖縄戦慰霊碑の所在地一覧の中でも間違いが多くあるもののひとつです。潮平の浄土寺にあるものは?終焉之地?の碑ではなく、永代供養の?供養塔?でしかありません。興味のない方にはどうでもいいことなのかも知れませんが、やはり事実誤認であることには間違いないため敢えて訂正します。
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投稿日:2016/07/09