沖縄戦末期第24師団第一野戦病院新城分院が置かれていました。
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- 旅行時期:2016/07(約9年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
知念・玉城・八重瀬 クチコミ:60件
沖縄での地上戦が始まる寸前の昭和20(1945)年3月、看護補助要員として学徒看護隊として従軍した沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒看護隊は、現八重瀬公園に構築された陸軍第24師団野戦病院へと配属されました。4月となり沖縄島中部にて戦闘が始まる、前線から多くの負傷兵が送られてくることとなり、手狭になった第一病院壕の分院としてこのヌヌマチガマが新城(あらぐすく)分院として利用されることとなり、白梅学徒数名が移動してきました。その後戦況の悪化とともに首里城に置かれていた第32軍司令部が南部に撤退する際に、第24師団野戦病院も同行することになり、新城分院も閉鎖され身動きの取れない重症患者は処置されたとの記録が残されています。
南部への撤退時に一度八重瀬にて学徒隊に解散命令が出されたもののすぐに撤回され、負傷兵に肩を貸すなどして国吉の現在の白梅之塔付近の壕に集まりました。しかし絶対的な火力兵力を持つ米軍は、学徒隊が潜んでいる壕に馬乗り攻撃を仕掛け、それによって多くの犠牲者を出しました。また相前後して出された解散命令によって砲弾の飛び交う戦場を彷徨うことにより犠牲者を増やす結果となっています。
犠牲者も多いものの生存者も多かったひめゆり学徒に関しては、足跡等明確なものとなっていましたが、その他全部で21あった学徒隊に関してはほとんど知られないままになっていました。白梅学徒隊もそのうちのひとつではあったものの、八重瀬町等の働きかけもあり、足跡が看板表記されるようになり、つい最近ではあるものの一般的にも認知されるようになりました。しかしその反面?戦時中の追体験?と称した入壕体験のマナーの悪さからトラブルが絶えなかったこともあり、新城分院壕の東側のガラピ壕は埋土をされて利用できなくなり、西側のヌヌマチガマは指定管理者を定められ、個人での入壕ができなくなりました。
勿論管理という面では必要なことではあるものの、壕内からの出土品を勝手に展示をしていたことや、扉を設けて勝手に入壕できなくしていたなど、?私物化?と取られても仕方がないことが露見し、問題になっていました。昨年夏まで独占的にヌヌマチガマの入壕ガイドを取り扱っていた団体が、抗議の意味を込めてか今なお入壕についてうたっている看板を撤去していないことは、何も知らずに訪れた方々の?関心?すら奪いかねないもののように思えます。しかし団体の受付しかしないというのも?手っ取り早い儲け方?と取られても仕方がないところもあり、何らかの個人での見学を受け入れる手段は講じるべきではないか?そう思います。
ヌヌマチガマは白梅学徒看護隊がこの場所で70余年前に間違いなく従軍し、看護業務を行っていたかけがえのない戦跡のひとつである史実を、個人の考えて?追体験?を願う人々に伝えるべきではないか・・・そう思えてなりません。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
クチコミ投稿日:2016/07/08
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