ワンダラーさんのクチコミ(20ページ)全1,714件
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以前から友人に勧められていたので、谷中に来たついでに寄ったが、コロナ感染で臨時休館中。残念。
投稿日 2021年05月23日
総合評価:4.0
ここ朝倉彫塑館は、以前から友人に勧められていて、訪問したかった美術館。
谷中に来たついでに立ち寄ってみたが、コロナ感染予防対策での緊急事態宣言下で臨時休館中でした。
台東区立の施設なので、「不要不急」とされての自粛臨時休館もやむを得ないかと思うが、残念。よく調べてから来るべきだったと反省。
しかし、建物の屋根の上にも彫刻が載っている姿を見ることができて感激。
道路からよく見えるアトリエ棟の屋根の上には、男性像「砲丸」が載せられている。
(別途、旧アトリエ棟の上には 、「浴光」と題された裸婦像もあるとされる。)
本人が29年もアトリエ兼住居として自分で設計して増改築をしながら利用したとされる建物そのものも、四角い一つの建物ではなく、意匠、色彩ともに上品な個性的な建物群。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
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徳川幕府によって改宗させられたり、富くじを許可/禁止されたりで振り回された、都内有数の古刹
投稿日 2021年05月22日
総合評価:4.0
宗教施設は、時の権力者の意向で繁栄したり、衰退したりしがちである。
ここ天王寺は、幕府のお膝元に近く、徳川家菩提寺の一つ寛永寺に隣接していた関係もあるのか、将軍家の意向に振り回されがちな宿命があったようだ。
1274年ごろとも、室町時代中期とも言われているようだが、日蓮宗のお寺として「長耀山感應寺」が開山したようだ。
1641年(寛永18年)には、将軍家光の保護を受け、約3万坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となったとされる。
しかし1698年(元禄11年)には幕命で強制的に天台宗に改宗させられた。
これが奏効したのか2年後に幕府から富くじ興行を許可され、大繁盛に向かう。
1833年には日蓮宗帰宗を企画したが、幕府につぶされ、「長耀山感應寺」から「護国山天王寺」へ改号することとなった。
幕府方針が一転し、1842年(天保13年)天保の改革により、富くじ興行が禁止される。
戊辰戦争では、つぶれた幕府のとばっちりで彰義隊の兵火により、庫裏、五重塔以外の堂宇を焼かれるという災難。
権力者が明治政府に変わって間もない1874年(明治7年)天王寺は寺域の一部を当時の東京府に上地され、谷中霊園(甲区)に使われる。神道が国教とされた時代背景では、元々は将軍家光から与えられた3万坪の一部放棄であろうからやむを得ないか。
経緯はよく分からないが、1908年(明治41年)には谷中霊園に残されていた立派な五重塔を当時の東京市に寄付。
ということで、現在の寺域は、台地上の谷中霊園の北側と日暮里に下る斜面で狭くはなったが、天台宗の特別寺という格式は高そうに感じる古刹。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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数奇な運命を辿った、谷中のシンボルだった旧東京市の関東一の高さの五重塔
投稿日 2021年05月21日
総合評価:3.5
普通の五重塔は、建立された寺院でその一生を全うする。
落雷などで喪失されなければ、千年でも建ち続ける。
しかし、ここ谷中の五重塔は、数奇な運命を辿り、166年で一生を終えている。
1644年(寛永21年)天王寺の前身の感應寺が五重塔を建立する。
1698年(元禄11年)幕命により感應寺が天台宗に改宗する。
1772年(明和9年)目黒から出火した明和の大火により、五重塔を焼失する。
1791年(寛政3年)感應寺が参道(現在のさくら通り)脇に五重塔を再建する。
1833年(天保4年)感應寺が護国山天王寺と改称する。
1868年(慶応4年)上野の山での彰義隊の戦いによって天王寺は庫裏と五重塔以外焼失。
1874年(明治7年)天王寺は寺域の一部を当時の東京府に上地され、谷中霊園(甲区)になる。
1892年(明治25)年 幸田露伴が小説『 五重塔』の舞台とした。(のちの心中放火に?)
1908年(明治41年)天王寺は、五重塔を当時の東京市に寄贈する。
1957年(昭和32年)谷中霊園内の五重塔が、心中による放火で、心柱を除き焼失した。
焼けたときは既に天王寺所有ではなかったのだから「天王寺五重塔跡」と呼ぶよりも、
「谷中霊園五重塔跡」とか「谷中五重塔跡」と呼ぶべきではなかろうかと感じる。
谷中のシンボルだった五重塔は、高台の墓地の中で、高さ34.12mという威容を誇っていたのであろうと、礎石をながめて感慨に浸る。合掌。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
都営の谷中霊園内なのに、特別に柵で囲われた墓所。順路案内表示も完璧。
投稿日 2021年05月21日
総合評価:4.5
徳川家歴代将軍の霊廟は元々の菩提寺の浄土宗(芝)増上寺が有名で、将軍のうち二代秀忠を含む6名の墓所がある。
初代の家康は別格で神格化されて日光東照宮(遺言で一年間久能山でその後は日光)にあり、三代家光は天海和尚の天台宗に帰依していて家康の近くを遺言したようで東照宮の隣の日光輪王寺にあるという(神仏分離前は一体だった)。
残りの徳川家将軍7人の墓は広義の谷中墓地にある。最後の将軍慶喜以外の6人の墓は、広義の谷中墓地に含まれ、増上寺と同格の菩提寺の地位に昇格したという、天台宗寛永寺の墓地(都営の南東側)にある。
六代家宣以降は、2つの菩提寺墓所に交互に埋葬することで、一件落着。
しかし、最後の将軍慶喜の墓でルールが変わった。
慶喜本人が明治天皇に忠誠を誓って神道に改宗し、神道式葬儀と埋葬を希望したため、寛永寺墓地ではない都営霊園の谷中霊園エリアの中で特別に柵で囲われた墓所に、慶喜と正室、子供、お気に入りの側室までの墓がつくられたという。
この経緯だけ調べても紆余曲折、権力の歴史を感じる墓所だ。
良い点は、順路案内表示が完璧なこと。渋沢栄一の墓は、地番を知っていて苦労して捜すか、スマホで検索して徒歩順路を表示させるかでもしないと、たどり着き難い。
歴史上の人物としては、その業績や知名度、公人としての扱いに天地の差があるように感じる。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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今年一番の話題の人、渋沢栄一は谷中墓地に眠る。徳川慶喜の墓に向いているという。
投稿日 2021年05月20日
総合評価:4.5
歴史上で今年一番の話題の人は、NHK大河ドラマの主役渋沢栄一で、新一万円札の顔にも決まっている。
埼玉県深谷市血洗島の出身ということは、相当に知れ渡ったが、墓地の知名度はまだイマイチの感。
1931年(昭和6年)に、飛鳥山邸で92歳の天寿を全うした亡くなった渋沢栄一は、東京都台東区谷中7-5-24・都営谷中霊園乙11号1側の渋沢家墓所に永眠している。
谷中霊園には、徳川慶喜の墓など、もっと広く立派な墓もあるが、広さは第一級とも感じる。外柵などなく、開けっ広げな人柄を象徴しているかのようにも感じる。
NHKのWebサイトでは、『栄一の墓は、かつての主君であった徳川慶喜(よしのぶ)の墓の方を向いて建てられています。』と解説されている。
https://www.nhk.or.jp/shutoken/shibusawa/yanaka.html- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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「小松宮」とは余り聞かない宮家で、不勉強な者にはミステリアスに感じる彰仁親王
投稿日 2021年05月20日
総合評価:4.0
「小松宮」とは余り聞かない宮家、この銅像の彰仁親王が初代で名乗り、死後は子のいなかった小松宮家は断絶してしまったらしい。
宮家の源流とされる「伏見宮家」の伏見宮邦家親王の第八王子に生まれ、仁和寺第三十世の門跡に就任したが幕末に還俗を命ぜられ、最初は「仁和寺宮嘉彰親王」と名乗り、明治維新で奥羽征討総督などを務め活躍したとされる。
明治3年(1870年)に「東伏見宮」に改め、佐賀の乱の征討総督やの西南戦争の旅団長として出征し乱の鎮定にあたったとされる。
明治14年(1881年)に維新以来の大功労から、世襲宮家から世襲親王家に昇格され翌年に「小松宮(仁和寺に所縁がある小松郷に因む)」に改称を認められたという。
軍事面で優秀であったようで、明治天皇に信頼されたお身内の軍人の第一人者として、上野(恩賜皇宮地)の一等地にこのような立派な騎乗姿の銅像が建立されたのであろう。
太平洋戦争での金属回収では畏れ多く、戦後もGHQに軍国主義者として潰されずに遺ったのは、数奇な運命の銅像に感じる。
近代史は不勉強な小生には、ミステリアスに感じる彰仁親王の銅像。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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「縁結び祈願」を第一に掲げている。カップルは、お見逃しなく。
投稿日 2021年05月19日
総合評価:4.0
上野台の南西の崖に鎮座し、五條天神社と同じ敷地に並立している珍しい神社。
始りは不詳とされ、元は穴稲荷神社があって、1654年に天海の弟子晃海により再興されたとされたという説が有力なようだ。
幕末には上野での黒門・穴稲荷門の戦いがあったという。
明治に入り、1873年に「花園稲荷神社」と改名されたらしい。
台地上の西側に入口があり、石の鳥居に「花園神社」の扁額がかかる。
参道には朱塗りの小さな鳥居が立ち並び、崖の本殿に向かうのが変わった配置のように感じる。
現在「縁結び祈願」を第一に掲げているが、商売繁盛のお稲荷さんが、ここ上野公園の現在の来園客層に合せているように思うのは邪推だろうか?- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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天界大僧正が竹生島に見立てて、ここに弁財天を鎮座させたには大正解だったと感服。
投稿日 2021年05月19日
総合評価:4.0
不忍池弁天堂は、江戸初期の寛永年間につくられた「天台宗東叡山寛永寺」の開山の折に、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されたとされる歴史があるスポット。
寛永寺が建つ上野台と本郷台の間に入り込んでいた東京湾が海退し、跡にできた不忍池を琵琶湖に見立てたという。
その不忍池にあった聖天さまが祀られた小さな島を琵琶湖の竹生島に見立て、島を大きく造成して竹生島の「宝厳寺」に見立てた弁財天のお堂を建立したとされる。
天界大僧正が考案したといわれる江戸最古の七福神「谷中七福神」の一つでもあり、音楽と芸能、さらに長寿や金運にご利益があるとされるので、人気がある江戸六弁天の一つでもあるスポット。
お参りをしつつ、「長寿」や「金運」は、いつの世にも人気が絶えないので、天界大僧正がここに鎮座させたには大正解だったと感服する。- 旅行時期
- 2021年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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都心の貴重な水面。冬でないと、ボート池部分以外が蓮田のよう。ビルやマンションも林立するので水面が狭く感じる。
投稿日 2021年05月19日
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都心部で53haもの広大な公園であるが、反面、施設、建物部分が多く、公園的要素に乏しい。
投稿日 2021年05月19日
総合評価:5.0
都心部の上野台に53haもの広大な面積を持つ公園であるが、森や草地、花壇などの比率は小さく感じる。古くから様々な文化施設や社会教育施設がつくられていて、それなり植栽に囲まれて風景にはなってはいるが、施設比率が高い分、いわゆる自然公園的は要素や、花壇などの庭園要素が乏しく感じられ、歩行者にとっては必要以上に広く感じる舗装道路も多い。
私設以外に見どころと感じる点は、広大な不忍の池があり、台地の斜面、アップダウンなど地形の変化がある点。
都民は、それを承知で文化施設や社会教育施設、お花見などに来訪するが、公園イメージを求めて初めて来る来訪者は、期待外れになる場合もあるように感じる。
願わくは、これ以上建物を増やさないこと。- 旅行時期
- 2021年05月
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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旧寛永寺五重塔 というよりは、「元上野東照宮五重塔」と呼ぶべきでは。動物園では可哀そう。
投稿日 2021年05月18日
総合評価:5.0
元々は、上野東照宮の五重塔であったが、明治時代の神仏分離令の為、東照宮は境内の五重塔を寛永寺に譲渡したという。その後、寛永寺寺域の一部が皇宮地になり、そこが恩賜上野動物園となって、現在は東京都の管理になっている。
東照宮のすぐ脇、動物園敷地の柵内にあるが、「旧寛永寺五重塔」 というよりは、
「元上野東照宮五重塔」と呼ぶべきでは。
それにしても動物園内では可哀そうではないか。
東照宮管理時代の方が長かったのであるから、(所有権は別として)柵の位置を変えて、東照宮境内で一体管理した方が、創建の趣旨に合うように感じる文化財。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻が、 毎夜不忍池の水を飲みに行くというが、見てみたいものだ。
投稿日 2021年05月18日
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家康の歿後間もなく上野東照宮がつくられたのではなく、藤堂高虎が屋敷につくった「東照社」が始まりという。
投稿日 2021年05月18日
総合評価:5.0
家康の歿後間もなく幕府が上野東照宮がつくったのではなく、十数年後に藤堂高虎が自分の屋敷に徳川家康を祭神とする東照社が始まりという。
その後、 1646年に朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。
宮号を授けられた後に、三代将軍・徳川家光公が現存する豪華な社殿を1651年に造営替えをしたとされる。
さすがに徳川幕府の威光を示す神社で、日光東照宮ほどの絢爛さは感じられないが、豪華なつくりになっている。
戊辰戦争や関東大震災、太平洋戦争の東京空襲などで被災しなかったのも、東照大権現のお守りがあったためかと感慨する社殿だ。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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作者は高村光雲とは聞いていたが、連れた「犬」の部分は後藤貞行の作とは知らなかった。
投稿日 2021年05月17日
-
投稿日 2021年05月16日
総合評価:3.0
浄心寺は、1612年に還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されたとされるが、大火があって移転、現在は本郷台の上で、本郷通りに面している。
入口の大きな布袋様が目印。広い間口は主に駐車スペースに使われ、本堂に向かう通路脇は「本郷さくら霊園」という檀信徒以外も宗派を問わずに利用できる霊園(新規受付は停止中?)として利用されているのが特徴といえよう。
山号を湯嶋山、院号を常光院 と称し、浄土宗で阿弥陀如来のご本尊をまつる。
「正念寺」を吸収合併したことで、「白山上の子育桜観音」と呼ばれた十一面観音像も当寺でまつることになったという。「観音菩薩や勢至菩薩は阿弥陀仏の分身として働く」のだそうだ。
江戸三十三観音霊場10番札所でもあり、檀信徒、霊園を含めた参拝者も多い大きなお寺で、手広く活動をしている感じ。
- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
神社は高い位置に鎮座するものが多いが、ここは台地の下にあり珍しい。ツツジは終わってサツキ少々。
投稿日 2021年05月16日
総合評価:4.5
一般的に、神社は高い位置に鎮座するものが多い。しかしここ根津神社は本郷台地の下に鎮座しており、珍しい立地。
この立地は由来にあるらしい。ここは徳川幕府6代将軍家宣が誕生した大名屋敷があった土地で、1706年にそれを記念して社殿が造営されたという。
その権現造りの本殿や楼門、大名屋敷の斜面を利用したツツジ苑などが残っている。
将軍家宣ゆかりの地ということで、お金もかかっていそうな感じ。
ツツジの名所であり以前に訪問した記憶があるが、今年は暖かなせいか4月で終わって、大型連休には残った花だけだったよう。
連休明けに訪問したのでツツジは新芽の緑で、サツキが少々咲いていただけで残念。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
-
投稿日 2021年05月15日
総合評価:4.5
赤塚の乗蓮寺は、東京大仏が鎮座していることで有名であるが、大仏さんは昭和52年の開眼というので、意外と若い。1977年4月というので、満44歳ということか。
そもそも乗蓮寺は板橋仲宿にあったが、首都高速道路の建設で境内の大半を失い、昭和46年から7年の歳月をかけてここ赤塚城旧二の丸跡の地に移転してきてからの建立という。移転により山号も赤塚山になった。大仏さんは、昭和49年から3年かけて完成したという。
奈良、鎌倉に次いで日本で三番目に大きいという東京大仏は、
青銅(ブロンズ)製、32トン、座高8.2メートル(別途蓮台2.3メートル)が2メートルの基壇に載っていて、頭部だけでも3メートルあるという。
しかし、周りにもっと高い樹木があるので、それほどの大きさは感じられない。
この地赤塚城の千葉氏一族、多くの戦歿者、さらに有縁無縁の霊を弔って世界平和を願うという有難い大仏さまに手を合わす。- 旅行時期
- 2021年05月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 4.5
-
投稿日 2021年05月15日
総合評価:3.0
15世紀に赤塚城城主千葉自胤(ちばよりたね)が諏訪大社を勧請し創建したとされ、下赤塚村の鎮守であったとされる。
千葉自胤は、現在の千葉県市川(市河城)から逃げて、ここのすぐ西の赤塚城に来たとされる。赤塚城西の氷川神社と対になる東は鬼門でもあった。諏訪明神は当時から風・水の守護神とされ、五穀豊穣を祈る神として、また武勇の神として広く信仰されていたようだ。、
赤塚城址から谷を挟む台地上で、参道は氷川神社のように立派ではなく、本殿・神楽殿を見ても見劣りして感じるが、境内は広く駐車場もゆとりがある大きさは現代向き。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 2.5
-
南に立派な長い参道があり、長さだけ見ても、繁栄時の勢力が偲ばれる。
投稿日 2021年05月15日
総合評価:4.0
1457年に赤塚城城主千葉自胤(ちばよりたね)が武蔵国一ノ宮の氷川神社から御分霊を勧請したとされ、上赤塚村の鎮守であったとされる。
千葉自胤は、現在の千葉県市川(市河城)から逃げて、ここのすぐ東の赤塚城に来たとされる。
赤塚城址から谷を挟む台地上で、南に長い参道を持つ。この参道の長さだけ見ても単なる村の鎮守さまには納まりきらない繁栄時の勢力が偲ばれる。
現在の本殿・拝殿・神楽殿は、参道の長さ割りには立派には感じないが、それでも仔細に見るとそれなりに風格が感じられる。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
メインは都立公園の赤塚城址と、板橋区立溜池公園、美術館・郷土資料館・池などが並ぶエリア
投稿日 2021年05月15日
総合評価:4.5
都立赤塚公園は赤塚の台地が高島平に落ちる末端の崖の上、下にいくつかのエリアがある。そのメイン部分は都立公園の赤塚城址と、板橋区立の溜池公園、美術館、郷土資料館が合体利用されているエリアで、ビオトープのトンボ池や、大人も釣りができる池など各種の施設を楽しむことができる。
赤塚城址は山頂の本丸部分が草地として整備され、崖部分の植生は保護されている。
崖からの湧水が始まりと思われる池は、トンボ池は干上がっていたが、都内では珍しい大人も無料で釣りができる池は、太公望で賑わっている。23区内とは思えないのどかな風景だ。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.5










































