徳川幕府によって改宗させられたり、富くじを許可/禁止されたりで振り回された、都内有数の古刹
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- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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by ワンダラーさん(男性)
谷根千 クチコミ:23件
宗教施設は、時の権力者の意向で繁栄したり、衰退したりしがちである。
ここ天王寺は、幕府のお膝元に近く、徳川家菩提寺の一つ寛永寺に隣接していた関係もあるのか、将軍家の意向に振り回されがちな宿命があったようだ。
1274年ごろとも、室町時代中期とも言われているようだが、日蓮宗のお寺として「長耀山感應寺」が開山したようだ。
1641年(寛永18年)には、将軍家光の保護を受け、約3万坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となったとされる。
しかし1698年(元禄11年)には幕命で強制的に天台宗に改宗させられた。
これが奏効したのか2年後に幕府から富くじ興行を許可され、大繁盛に向かう。
1833年には日蓮宗帰宗を企画したが、幕府につぶされ、「長耀山感應寺」から「護国山天王寺」へ改号することとなった。
幕府方針が一転し、1842年(天保13年)天保の改革により、富くじ興行が禁止される。
戊辰戦争では、つぶれた幕府のとばっちりで彰義隊の兵火により、庫裏、五重塔以外の堂宇を焼かれるという災難。
権力者が明治政府に変わって間もない1874年(明治7年)天王寺は寺域の一部を当時の東京府に上地され、谷中霊園(甲区)に使われる。神道が国教とされた時代背景では、元々は将軍家光から与えられた3万坪の一部放棄であろうからやむを得ないか。
経緯はよく分からないが、1908年(明治41年)には谷中霊園に残されていた立派な五重塔を当時の東京市に寄付。
ということで、現在の寺域は、台地上の谷中霊園の北側と日暮里に下る斜面で狭くはなったが、天台宗の特別寺という格式は高そうに感じる古刹。
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クチコミ投稿日:2021/05/22
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