2022/06/09 - 2022/06/09
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jijidarumaさん
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多古町(たこまち)は関東平野、千葉県の北東部に位置し、香取郡に属する。下総台地と九十九里平野に挟まれ、町の中央部を下総台地に源流を発する栗山川(全長39km)が流れ、横芝光町の九十九里で海に流れ出ている。
多古町は成田空港や成田山新勝寺の門前町がある成田市、水郷の町であり、佐原の商家町や香取神宮の門前町でもある香取市、植木の町と称される匝瑳市(そうさし)、町中に古代の埴輪が置かれた芝山町に隣接するのだが、思った以上に歴史的にも面白い町のようだ。町の人口は14.5千人である。
そして町の花は「紫陽花(アジサイ)」である。
写真は日本寺(にちほんじ)の紫陽花・・・紅額アジサイ
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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先月5月4日に、千葉県匝瑳市(そうさし)の龍頭寺(りゅうとうじ)の樹齢100年を超える大ふじを見た帰りの通り道で、隣町の多古町にある日蓮宗の大学「中村檀林(なかむらだんりん)」と称された「日本寺」にちょっと寄った。
ここが「紫陽花(アジサイ)寺」として近隣では知られていることに気付いた。
それで、6月の紫陽花の季節に日本寺を訪れたのだ。
写真は千葉県多古町観光:日本寺の位置・・・右上参照 -
多古町の歴史について、幾つか特筆すれば、
弥生時代から稲作が盛んであり、現在、多古町で生産される「多古米」はブランド米として知られている。
平安後期には千田荘(ちだのしょう、現在の多古町)は上総(かずさ)下総(しもうさ)両国の中心であったそうだが、治承4年(1180年)に皇嘉門院(こうかもんいん:崇徳天皇の中宮)判官代(ほうがんだい)藤原親政(=平氏の千田親政ちだ ちかまさ)が源頼朝に敗れ、以後千葉氏の所領となった。
写真は千葉県多古町観光:パンフレット中央に日本寺の鐘楼が見られる。 -
江戸時代は徳川家康の江戸入府に伴い、旧武田家遺臣から家康に臣従した保科正光(ほしな まさみつ)が多古に入部し、1万石を領した。
その後、松平(保科)家は高遠藩3万石を経て、その養子の正之(ほしな まさゆき:2代将軍秀忠の庶子、3代将軍家光の異母弟になる)は1643年、23万石の大藩である会津藩主となった。
1635年以後の多古藩は大身旗本だった久松松平家(徳川家康の異父弟の1人松平康俊の系統)の所領となり、1713年に久松松平家が加増を受けて1万2000石の譜代大名となった以後も引き続き多古藩を所領した。
以後、多古藩久松松平家が廃藩置県まで存続した。
明治維新の際は譜代大名乍ら、薩長を中心とした新政府に恭順の意を示し、松平姓を外し、久松藩として新政府軍に加わった。
その功もあって、後に久松家は華族(子爵)に列した。
写真は千葉県多古町観光:パンフレットに中地区の日本寺などについて書かれている。 -
多古町にある「日本寺」は「にちほんじ」と読む。
「日本寺」というと、鋸山(のこぎりやま)にある「日本寺」だと思う方が多い。鋸山は「にほんじ」であるから、日本語は難しく、面倒だ。
因みに鋸山の日本寺は聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀弐年(725年)に開山された。
開山当初は法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至った。従って日蓮宗ではない。
ツツジの季節に訪ねた日本寺の入口から長い参道には杉並木が続き、並木道の両側にずっとアジサイが植えられていた。
アジサイの季節などには駐車場の備えからして、見物客も多いようだ。
写真は多古町の日本寺:入口から長い参道が続く。 -
【「日本寺(にちほんじ)」】
〒289-2257千葉県香取郡多古町南中1820-1
0479-76-3745
日蓮宗の本山(由緒寺院)であり、山号は正東山(しょうとうざん)と称した。
元来は元応元年(1319年)、千葉胤貞(ちば たねさだ:鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第九代当主千葉宗胤の長男)より土地の寄進を受けた、中山法華経寺(なかやまほけきょうじ:千葉県市川市にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。山号は正中山)の3代目住職であった日祐(にちゅう:胤貞の子)上人が「高祐山東福寺」として建立した。
そして建立された「高祐山東福寺」を日祐の師・日常(にちじょう)上人に譲り、日常上人が開基・一世とされたのである。
約270年後の天正十九年(1591年)に「高祐山東福寺」を「正東山日本寺」に改めて現在の日本寺となった。
写真は多古町の日本寺:周辺図 -
イチオシ
日本寺の十世を継いだ広才博学の僧日円(にちえん)により、「中村檀林(なかむらだんりん)が開かれたのは慶長4年(1599年)のことである。
最盛期には36の学坊・・・「観月庵」、「寂光庵」、「鳳林庵」、「浄心庵」、「真如庵」、「精進庵」、「摂心庵」等・・・に千人近くの学僧が学ぶという全国有数の学問所となった。
僧たちは東西に分かれて勉学に励み、春と秋の2回、それぞれ3カ月にわたり「新説」(しんだんぎ)とよばれる論争を繰り広げたと云う。
討論のテーマは日蓮宗の教義はもちろん、世間での出来事、社会問題にまでおよび、席上活躍のめざましかった学僧は、番付表に名札があげられた。
論戦には土地の役人も招かれ、多くの村人が見学に押し寄せたと記録に残る。
開壇の慶長4年(1599年)から、学制発布によって廃檀となる明治8年(1875年)まで、僧侶の養成機関であった中村檀林では、270余年の間に延べ10万人もの僧侶を輩出したと云う。
中村檀林は小西檀林(現・大網白里市正法寺)、飯高檀林(現・匝瑳市飯高寺)と並んで関東三大壇林と称された。
参道や歴代僧侶たちの墓地の周囲には10000株の紫陽花が植えられており「アジサイ寺」として知られてきた。
2013年には境内の森の中にアジサイ庭園が開園し、50種類以上の珍しい品種のアジサイがアジサイの道(散策路)わきに植栽されている。
ツツジの季節に訪ねた山門と夫婦銀杏の木(右手)がある。山門の右手に大きな駐車場があった。
写真は多古町の日本寺:ツツジの季節に訪ねた山門と夫婦銀杏の木 -
私共には珍しい画像が撮れた。
この夫婦銀杏の木には所謂、乳房が見られます。
御存じの方もおられるかと思いますが、その形状から「乳根(ちちね)」、或いは「乳垂れ(ちたれ)」というそうです。
この銀杏の木のコブを女性の乳房に見立てて、「乳垂れイチョウ」「子授けイチョウ」と呼び、日本各地でも母乳が出にくい女性がお参りに行くという信仰の対象となっていたそうだ。
面白いことに、コブの突出している様子は正式な名称も「乳」、英語でも「chichi」と表現するとか。
写真は多古町の日本寺:ツツジの季節に訪ねた夫婦銀杏の木には所謂、乳房が見られる。 -
写真は多古町の日本寺:ツツジの季節に訪ねた鐘楼
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ツツジの季節に訪ねた日本寺の本堂、この時は藤をたくさん見てきた所為で、この境内はサラッと見て終わった。
写真は多古町の日本寺:ツツジの季節に訪ねた本堂正東山日本寺 寺・神社・教会
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今回の旅はここからスタートする。
山門右手に広い駐車場があり、こちらに停めて、参道を行く。
立派な山門は切妻造り、トタン葺き(もとは茅葺)の四脚門で、桃山時代から江戸初期の建築とされている。多古町の指定有形文化財である。
写真は多古町の日本寺:山門前で -
山門に挙げられている「扁額(へんがく:縦130cm、横50cmの杉材)」は*本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)の直筆と云われ、日本三額の一つにあげられている。
*日本史にもよく出て来る本阿弥光悦(永禄元年(1558年)~ 寛永14年(1637年))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人である。
本阿弥光悦の書は近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)と並んで「寛永の三筆」と呼ばれている。
その書流は光悦流の祖と仰がれる。
写真は多古町の日本寺:山門に掲げられた扁額・山号の正東山(しょうとうざん) -
写真は多古町の日本寺:山門前に建つ日本寺の扁額の説明版
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写真は多古町の日本寺:山門前にある山門の説明版
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写真は多古町の日本寺:参道はアジサイの道
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イチオシ
写真は多古町の日本寺:参道の両側はアジサイの花々が並ぶ。
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写真は多古町の日本寺:本堂に向かう道はまだ薄い赤のホンアジサイ(手毬咲き)が迎えてくれる。
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写真は多古町の日本寺:本堂に向かう道は白のホンアジサイ(手毬咲き)の花が迎えてくれる。
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写真は多古町の日本寺:本堂に向かう道は青色のホンアジサイ(手毬咲き)の花が迎えてくれる。
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写真は多古町の日本寺:本堂に向かう道を振り返ると、煙にかすんだ杉並木が。
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お清めの場「手水所(ちょうずどころ)」には中央に身代わり観音様が立つ。自分の身体の悪い所を置かれているタワシでこすると観音様が「身代わり」して、悪い所が無くなると云う。
ともあれ、私共は元気ゆえ、お世話にならなかった。
写真は多古町の日本寺:手水所の身代わり観音 -
日本寺には立派な鐘楼がある。
緻密な木組みの構造をもつ2階建ての「鐘楼」は棟札や手法などからみて、享和三年(1803年)の建立と確認されており、多古町の指定有形文化財となっている。
千葉県における鐘楼建築に多い、入母屋造り(いりもやつくり)、銅版瓦棒葺(どうばんかわらぼうぶき)です。
手前に白い小さな花が咲いた、大きな珊瑚樹(さんごじゅ)があった。
珊瑚樹はレンプクソウ科ガマズミ属の植物で、その花期は6月から7月、白い小さな花を咲かせる。花よりも実が特徴的で真夏の7月から8月頃にサンゴのような赤い実をつける。珊瑚樹の名もこれから来たと云う。
写真は多古町の日本寺:鐘楼と、手前に大きな珊瑚樹がある。 -
本堂の正面軒下に掲げられている、大きな扁額に「正東学庠」と書かれている。
ここでは写真が無いが、この「庠」は「まなびや」と訓読みする。
文字通り「学校」であったということだ。
本堂は中村檀林時代のかつての威容は見られない、こぢんまりとした建物だった。
写真は多古町の日本寺:日蓮宗の本山寺院である正東山(しょうとうざん)日本寺の本堂正面 -
本堂前の石柱には「奮 中村檀林正東山日本寺」と刻まれている。
この「奮」は羽ばたけ!という意味だそうで、中村檀林に学ぶ学僧たちの向学心を激励した事だろう。
写真は多古町の日本寺:本堂前の石柱 -
本堂に上る階段の左右に門番の如く置かれているのは、檀林時代に講堂玄関の柱に掛けられていた木製の「狛犬(こまいぬ)」です。
素人目にも二つともなかなか良い感じの木像である。
写真は多古町の日本寺:階段横に並ぶ木製の狛犬像 -
写真は多古町の日本寺:階段横に並ぶ木製の狛犬像
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階段横にスリッパが置かれていたので、本堂内に入らせて頂く。
正面に日蓮宗の創始者である日蓮聖人(にちれんせいじん)座像が美しい天井下に鎮座していた。
本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ:お釈迦様の別名)との事で、日蓮さんの後に2体が見えた。
写真は多古町の日本寺:聖壇の様子 -
本堂内の正面に日蓮上人座像が鎮座していた。
左手奥に日蓮聖人の最大に理解者であり、日本寺の開基者である富木日常上人(ときにちじょうしょうにん)の座像があるらしい。
こちらは春、夏2回の特別拝観があるようだ。
写真は多古町の日本寺:日蓮上人座像 -
イチオシ
写真は多古町の日本寺:鐘楼と珊瑚樹の遠景
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写真は多古町の日本寺:本堂傍の額アジサイ
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イチオシ
写真は多古町の日本寺:本堂傍の縁取りが特徴的な、赤い紅額アジサイが気に入りました。
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写真は多古町の日本寺:こんな赤い紅額アジサイも。
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水戸藩主・水戸光圀公の足跡が千葉県には多い。
本堂傍に水戸光圀・黄門さまの御手植えの大きなモミジの木が立っている。
樹形も良く、秋の紅葉時期には見事なものになるだろう。
水戸光圀公が学僧の便宜をはかり、当山を起点にして江戸まで1里毎に、塚を建てた。その名残が「三里塚(成田市)」という地名に残っている。
特に知られているのは、成田空港開港までに周辺で行われた「三里塚闘争」で、激しい抗争で警察官3名が死亡した事件も起こった。
その地は三里塚と呼ばれていたが、香取郡多古町の日蓮宗日本寺が江戸までの道程に築いた17の法華塚の3番目に由来すると云う。
このような話は、実は日本寺を訪ねるまで知らなかった。
また、関東三大壇林の一つである*飯高檀林(いいだかだんりん:現・匝瑳市飯高寺はんこうじ)近くにも御手植えの桜が「黄門桜」の名で残っている。
飯高檀林は関東で初めて日蓮宗の檀林(僧侶の学問所)となり、その後、天正19年(1591年)に徳川家より日蓮宗の根本檀林として寺領30石を寄進され、徳川家康、養珠院(ようじゅいん、お万の方と称した家康の側室(紀州徳川家の家祖頼宣、および水戸徳川家の家祖頼房の母)、頼房、光圀、頼宣などの信仰も厚く、その庇護を受け、格式の高い檀林へ発展した。
つまり関東8檀林、関西6檀林あわせて14檀林中、最高位の檀林であったと云う。
口コミご参照:匝瑳(そうさ)の里山に残る全国一の格式を持った飯高檀林(いいだかだんりん:僧侶の学問所)
https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/12927387
写真は多古町の日本寺:本堂傍の水戸光圀・黄門さまの御手植えの大きなモミジ -
モミジの木からさらに左手に進むと、神社が三つ並んだ場所に至る。
中央にあるのが「妙見七面宮(みょうけんしちめんぐう)」で、この「妙見宮」を挟むように、その左右に二つの神社が並んでいる。
それらは「豊田稲荷」と「岡田稲荷」である。何故この名が付いたのか不詳だが、「夫婦稲荷」とも呼ばれ、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、除災得幸の御利益があるとか。
写真は多古町の日本寺:右手の吉田稲荷は朱塗りの門がやや朽ちかけていたが。 -
本堂傍の三神社で、真ん中に鎮座するのがこの「妙見七面宮」である。
日蓮宗の守護神、七面天女大明神を祀っている。また豪族・千葉氏の守護神で、学業成就の神様として崇められた。
それぞれの神社に*「波の伊八」作の彫刻が施され、龍の彫り物、左右の木鼻などが見られるそうだったが、よく分からなかった。
*「波の伊八」は江戸時代に多くの彫刻師の中でも、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた人物だと云う。
同世代に活躍した天才葛飾北斎(かつしかほくさい)の「富嶽三十六景」の代表作のひとつである「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたと云われている。
写真は多古町の日本寺:妙見七面宮 -
写真は多古町の日本寺:「妙見七面宮」と豊田・岡田稲荷の由緒書・看板
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写真は多古町の日本寺:左手にあるのが岡田稲荷
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「アジサイの道=アジサイの庭園」は山門手前から本堂手前までの左奥の杉木立の中に、幾つかの散策路が出来ている。
三神社から「アジサイの道」に向かい、楽しみながら歩く。
とても全体を見るわけにいかないものの、この道は美しいアジサイの花を愛でながら歩けるのだ。
アジサイの道は杉木立が日差しを遮り、アジサイには環境が良いようで、白・青・紫・薄紅と色とりどりのアジサイが咲いている。
また、全国各地のアジサイ同好者から寄進された、珍しいアジサイが多数植えられていて、たいへん見応えがある。
写真は多古町の日本寺:アジサイの道に入る。 -
写真は多古町の日本寺:ちょっと珍しいと撮ったガクアジサイ(額咲き)・・・中央の花の蕾が大部分をしめ、装飾花の額が周囲に僅かに咲いている。
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写真は多古町の日本寺:アジサイの道
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写真は多古町の日本寺:アジサイの道には様々なアジサイが見られる。
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写真は多古町の日本寺:風に揺れて、ピントがずれるので手で押さえてもらって撮ったアジサイでしたが。
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イチオシ
写真は多古町の日本寺:色合いが好ましいアジサイも。
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写真は多古町の日本寺:高々と咲くアジサイ
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写真は多古町の日本寺:淡い黄色のベースに紫色の縁取りを持つアジサイ
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写真は多古町の日本寺:淡い黄色のベースに紫色の縁取りを持つアジサイもなかなか好ましい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、アジサイの花を楽しみ、気分はフレッシュした。
「栗山川に架かる橋では多古の町内で最も古」いものだという飯土井橋(いいどいはし)のたもとにある白石菓子舗に立寄った。
焼きたて香ばしいみたらし団子や、餡が上手いどら焼き、栗まんじゅうなどを購入した。ここは同年輩のご主人が傾注して作る品がとても美味しい店だ。
空腹もあって、帰宅途中のスーパーの駐車場で、まだ暖かい、みたらし団子をほうばってしまった。
(2022年6月13日Wiki・HP参考、編集・追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2022/06/14 07:30:09
- 紫陽花が綺麗ですね
- jijidarumaさん おはようございます
千葉県にもこんな素敵な所があるとは知りませんでした。
歴史の解説も面白く、 ご自分の言葉で述べられているので大変わかりやすい優れた旅行記でした。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2022/06/14 13:36:01
- Re: 紫陽花が綺麗ですね
- pedaruさん、
今日は。いつもありがとうございます。
何やら私も千葉県人ながら、春の目覚め!のように、新聞と共に入って来る地域の情報誌を見ては、県内の(多分知られていないだろう)名所!観光に精出しております。
5月のフジもそうでしたが、アジサイ寺も行ってみれば、知ることも多く、また美しい花を愛でて歩くと、気分も爽快になりますね。
ついでに地元の団子や饅頭の名店(私、甘党でもあります^^)を見つけ、みたらし団子が出来上がるまで、店主ご夫妻とも親しく話しながら、名物をホウバる事となりました。
県内日帰りの旅もまた、良いものです。
それではまた。
jijidaruma
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