2019/09/13 - 2019/09/14
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jijidarumaさん
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私共の故郷は東京都青梅市である。
「東京の西多摩・西の果て、東京のチベット」と口さがない連中に言われたのも大昔の事になるが、今でも時々、法事や墓参りで青梅を訪れる事がある。
偶々、青梅の観光スポット ランキングを見る機会があって、その口コミ95件の内、第60位にランクされていたのが、我が家や分家・姻族の菩提寺である宗建寺でした。そんなものかと思ったが、口コミを読んでみると殆ど簡単である。それで書かれていない「義賊 裏宿七兵衛」の事などを書いてみたくなった。
青梅宿は関東山地と武蔵野台地にまたがり、東京の西部地区(東京から約50km)にある人口13万人の都市である。
市中を多摩川が東流し、中心市街は多摩川の谷口集落であり、青梅街道の宿場町として出来上がった町である。
多摩川が作った河岸段丘が川沿いの左右の両岸に出来て、人がそこに住みついてきた。
写真は青梅:宗建寺・弁財天をお祀りする御堂「妙音殿」
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
青梅市には寺社が多い。
とりわけ寺院数が多く、その故か全都的にみても文化財保有率が抜群に高い。『新編武蔵風土記稿』(文化・文政期〈1804~29年〉に調査)が書かれた時代の39ヶ村が、現在の青梅市域であるから、当時は1村に平均2.5ヶ寺があった事になる。 (青梅市史より)
写真は東京都青梅市市章。
「青」の文字を飛ぶ鳥に図案化し、周りに梅のもようを配して、市の飛躍発展を象徴したものです。 -
<青梅街道と青梅宿>
青梅街道は、甲州街道の内藤新宿の追分で分岐し、武蔵野台地を西方に向かって横断し、多摩川上流の青梅宿に至る脇往還です。青梅宿からさらに多摩川に沿って奥多摩の山峡の道を進み、甲斐の国に入り、大菩薩峠を越え、酒折宿で再び甲州街道に合流します。
青梅街道の主要部分は内藤新宿から青梅宿までで、青梅宿から先の宿駅はありませんが、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、「甲州裏街道」とも呼ばれた。道程で甲州街道より二里短く関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用された。但し、塩山近くに萩原口留番所があり、小規模な関所が実質存在した。
青梅街道の呼称は江戸時代、青梅への道という意味で使われた用例はあっても、公式な呼称はなく、青梅街道として広く呼称されるようになったのは明治以降と云われている。
慶長11年(1606年)11月、江戸城の大改修に当たって、白壁用の石灰が大量に必要となった為、幕府は青梅の上成木村と北小曽木村から産出し、上納することを八王子代官である大久保長安に命じました。この時、上成木村と北小曽木村の山地から採れる石灰を運搬するため、江戸と青梅宿の約11里(約43km)を直接結びつける道として、大久保長安の指揮の下に整備されました。
青梅街道が別称「御白土街道」と呼ばれているのはこの所以に依ります。
内藤新宿から青梅宿までの間に石灰の継ぎ立て宿として中野、田無、小川(明暦2年・1656年、小川新田開発後)及び箱根ヶ崎に宿(伝馬宿)がありました。青梅街道はこのように御用白土の運搬用の脇往還として成立しながら、後に甲州道中を補助する機能を果たしたものです。
江戸時代中期以降は石灰の輸送が衰微し、地廻り経済が発達してくると多摩地域の物資を江戸市中へ運ぶ交通路として注目されるようになり、また、奥多摩又は甲斐国への旅人の通行、さらには御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても賑わうようになったのです。
天正18年(1590)家康が関東に入国してまもなく、八王子に代官所が設置され、初代の代官に大久保石見守長安が任命された。
多摩川の中・上流域支配と同時に設置した陣屋が、青梅宿西端の森下に設けられた。延享元年(1744)に廃止されるまで約150年間続いた。
ここ森下陣屋跡は、右に左に鍵の手のように曲がる枡形になっており、この先は裏宿と呼ばれ、ここまでが青梅宿である。
尚、後述の「義賊 裏宿七兵衛」が裏宿に住んでいたので、その名が付いた。
写真は東京都青梅市街歩き図(宗建寺は中央右下、8番傍にある)青梅駅 駅
-
<宗建寺(そうけんじ)>;
臨済宗建長寺派仙桃山 宗建寺
〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町6-734
山号・・・仙桃山、
寺号・・・宗建禅寺、
本尊(ほんぞん)=毘沙門天王(びしゃもんてんのう)
本山(ほんざん)=鎌倉の巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)
宗派(しゅうは)・・・臨済宗建長寺派(りんざいしゅうけんちょうじは)
写真は青梅:宗建寺・山門 -
青梅市千ヶ瀬町にある臨済宗建長寺派の寺院で、仙桃山宗建寺と号する。
開山は浄土宗の一蓮社尭誉宗公上人(宝徳二年、1450年寂)で、二世より臨済宗に改宗した。慶安二年(1649年)、一石七斗の朱印状を寄せられている。
また山門にかかっている山号額は当山十二世大祐和尚(だいゆうおしょう)の時、元文元年(げんぶんがんねん)(1736年)に書かれたもの。
写真は青梅:宗建寺・山門と鐘楼 -
明和年間(1764~1771年)大祐和尚により現在の堂宇が再建された。
仙桃山の扁額の懸かる山門を潜ると右手は客殿、庫裡、本堂とつづき、左手は鐘楼、さらに左は広い墓所となっている。境内の奥、本堂前は整備された美しい庭園となっている。
また、庭園左奥の一段高い所に、弁財天を祀る「妙音殿」が立っている。
本堂には多摩青梅七福神の毘沙門天が安置され、当寺の本尊である。
写真は青梅:宗建寺・御堂から本堂を見る青梅・宗建寺には「義賊 裏宿七兵衛」の墓があるのを御存じか? by jijidarumaさん宗建寺 寺・神社・教会
-
その昔、寺は山の中に立てられたので、その山の名をとって山号として呼んでいたが、その名残で町中の寺にも山号がついた。
『仙桃山(せんとうさん)』は、昔『千島山』と号していたものを『仙洞山』と改めましたが、京都の仙洞御所と同名の為、さらに『洞』を『桃』に改め、今に至ったと伝えられている。
一説には桃の木がたくさん有ったので、名付けたという説もある。
写真は青梅:宗建寺・寺号 -
イチオシ
この日は1泊泊り、93歳で亡くなった母(私の生母は私が3歳の頃に急逝し、後添いに母の13歳下の妹が入った。叔母であり、継母でもある)の7回忌に出席した。
写真は青梅:宗建寺・本堂の斜め前にある実に見事な槙(マキ) -
毘沙門天はその昔インドの神様で「ヴァイシュヴァナ」といい財宝・福徳をつかさどり、夜叉を従えて北方を守る神様でした。
今では四天王の中でも最強神として、財宝・福徳にくわえ護国そして戦勝の神様としての信仰をあつめている。
その姿は、甲冑を身にまとい、手には戟(げき:槍の一種)、一方の手には宝塔(ほうとう:大事な教えの入った塔)を持っている。
毘沙門天は別名「多聞天(たもんてん)」いわれ一言も聞き漏らさない大智者の一面があると云う。
写真は青梅:宗建寺・ご本尊の毘沙門天像 -
≪青梅:菩提寺の宗建寺に義賊 裏宿七兵衛の墓がある≫
青梅市千ヶ瀬町の宗建寺境内、ここには中里介山(なかざと かいざん)の長編小説『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』で知られている裏宿七兵衛(うらじゅく しちべえ)の墓がある。
小説『大菩薩峠』では義賊として描かれていますが、元文7年(1739年)に七兵衛なるものを首領とする盗賊団が捕えられ、処刑された記録が昭和26年(1951年)になって発見されて、実在人物であったことが分かった。
何時の頃からか、我が家の菩提寺の宗建寺に、義賊 裏宿七兵衛の墓が出来て、一種の観光名所になった。
写真は青梅:宗建寺・境内図 -
【義賊 裏宿七兵衛うらじゅく しちべえ】
;青梅の昔話;奥多摩民話の会編・第一集「奥多摩の昔話」より引用・編集;
昔、亨保から元文の頃,青梅の町外れの裏宿というところに七兵衛(しちべえ)という百姓が住んでおりました。
七兵衛は、足が並はずれて速く、一夜に十数里(数十km)を歩き、すげ傘を胸に当てて走っても地に落ちず、一反(いったんは凡そ10m)の布を引いて走ってもその端が地につかなかったといいます。
七兵衛は、昼間は畑を耕し、夜は早くから戸を閉めて近所の者とのつきあいも一切なかったものだから、村人は七兵衛をまじめな男だ、とばかり思っておりました。
ところが七兵衛は夜になると盗みに出かけるのでした。近隣はけっして荒らさず、快速をきかして遠く甲斐(かい)、相模(さがみ)、秩父(ちちぶ)まで飛んで一仕事し、朝までには青梅へ帰って何食わぬ顔をしていました。
盗んだお金は、当時、うち続く飢饉(ききん)にあえぐ貧しい人々にそっとばらまいてしまい、自分では何の道楽もなかったから、近所の者もあやしまず、捕らわれるまでだれも七兵衛の大罪(たいざい)を知る者はいませんでした。
やがて、七兵衛は捕らわれ、「大柳の渡し(かつて青梅と対岸の駒木野を結んだ渡し」があった大柳川原(おおやながわら)で処刑されると、笹の門(現在の青梅市住江町と西分町のさかい、五叉路(ごさろ)のあたり)で晒(さらし)首にされました。
その夜ふけに風が吹き荒れ、豪雨となり、七兵衛の首は側の別当沢(べっとうざわ)を流れて、宗建寺(そうけんじ)のかたわらへ流れつきました。
それを哀れんだ住職がひろいあげて、寺へ葬りました。
写真は青梅:宗建寺・裏宿七兵衛の墓 -
さて、裏宿七兵衛についての記録は「谷合氏見聞録」にあるのみです。
昭和二十六年八月に郷土史家清水利氏により、青梅市二俣尾の旧名主谷合家の土蔵の中から「谷合氏見聞録」が発見され、裏宿七兵衛の実在が確認されたのです。
谷合氏見聞録では、「元文四年(1739年=八代将軍将軍吉宗治下)十月四日の項に、代官手代の長谷川儀助、火方奉行の配下奥村藤九郎が村山三ツ木村(現在の武蔵村山市三ツ木)に来て、裏宿七兵衛(青梅七兵衛)、小作(おざく)大蔵(羽村の惣右衛門)ほか一味四人が召し捕りになり、十一月に処刑された」・・と記されているだけである。
それまでは青梅の古刹、宗建寺の過去帳に記された、「五月三日 法山祖幢信士 年号不知 裏宿人也 俗名七兵衛 由来不可尋 永々回向可致者也」が唯一の手がかりだった。即ち、「裏宿の人、俗名・七兵衛・・・由来を尋ねず。永く供養すべき者なり・・・」と。
(注;谷合氏は永禄六年(1563年)、三田弾正少弼綱秀が二俣尾村の辛垣城にて没落の際、綱秀の遺児を預かって土着したといわれる三田の旧臣・谷合太郎重久信を祖とする(「谷合氏見聞録」)。
「谷合氏見聞録」は元禄十一年(1698年)から寛保四年(1744年)までの四十六年の記録である。それは綱吉の後、家宣、家継、吉宗の期間になる。赤穂浪士の討ち入り、富士山の大噴火、江戸から近在の火事、米価の推移、代官の異動などを、事細かに記録しているのだが、盗賊についての記述は裏宿七兵衛の処刑された元文時代に限られている。これは大岡越前を登用した吉宗の時代の治安の良さを窺える)
七兵衛の死後、七兵衛の屋敷跡や所有地の畑は耕しても作物ができず、家を建てたりすると祟りがあると云われて、長い間空き地になっていました。
屋敷跡は七兵衛公園と言う児童公園となり、昭和三十五年(1960年)には七兵衛の供養碑が建てられています。
また、青梅図書館脇の土地には、大正5年(1916年)に西多摩郡役所が建てられましたが、怪我や病気や、いろいろと困った出来事が続いたため、敷地の一隅(いちぐう)に七兵衛の祟りを鎮めるべく、昭和七年五月三日(1932年)に地蔵堂が建立された。これを今は七兵衛地蔵と呼んでいます。
七兵衛地蔵尊は足、腰の病、旅道中、交通安全にご利益があるとされています。
しかも、青梅の仲町の裏宿には「七兵衛通り」がある。
本物の義賊であったかは分からないが、盗賊の名が“通りの名”になるのは妙だが、青梅での人気の高さを窺える。
青梅市千ヶ瀬町の宗建寺境内にある七兵衛のお墓には、近年、青梅マラソンに参加する人や、お相撲さんで足を怪我した人など祈願に訪れたりしている。
今でも地元では義賊 裏宿七兵衛は手厚く供養されていて、毎年6月8日には大祭が行われているそうだ。
参考:中里介山の長編小説『大菩薩峠』:
写真は青梅:裏宿七兵衛地蔵尊 -
我が家の菩提寺に義賊 裏宿七兵衛の墓がある事は長い間、知りませんでした。
父が私共の母校の小学校校長時代、部下に宗建寺の住職が居られて(住職だけでは食えなかった?!)、寺の過去帳から、裏宿七兵衛の墓を見つけたそうです。知恵者の住職はその墓を見事に観光名所にしてしまいました。
この寺の境内や池、墓地内は当時の子供にとっては格好の遊び場でした。
境内で三角ベースの野球遊びをし、池では小魚やザリガニ、カエルなどを獲り、墓地内でカクレンボをしていて、住職によく叱れたものです。
その頃、小さかった私は高い墓石に登って、降りられなくなり、思わず手を離して飛び降りたが、着地に失敗し、頭をひどく打った事もあった。
大人たちに罰あたり奴!と叱られてしまった。
小学1年の遠足(小作の東京都畜産試験場:1946年創立)の写真に、頭に包帯を巻き、学帽を被った姿が残っている。
上述した義賊 裏宿七兵衛の因縁話で、「西多摩郡役所が建てられましたが、怪我や病気や、いろいろと困った出来事が続いた」と書いたが、我が家の次男傅吉(戸籍上は養女に入った母の兄にあたる)は西多摩郡役所に勤務していて、大正十二年(1923年)に享年二十七歳で病死した。長男雄太郎は明治三十七年(1904年)日露戦争の旅順・203高地で戦死(享年二十三歳)していたから、我が家には相続するべき人がいなくなったので、大正12年(1923年)満15歳の母を祖母の養女に迎え、後に父を婿にとったから、義賊 裏宿七兵衛の因縁話もいやに身近に思えたものだ。
何時の世も義賊・英雄・正義の体現者への待望論があって、また、平将門や菅原道真といった悲運?!の人の”祟り”に尊敬も込めて、恐れ入ったのでしょうし、その恐れを神社や地蔵尊といった形に変えて、敬ってきたのでしょう。
東京の三多摩地域といった、この辺りは江戸幕府の直轄領であった”天領”であり、各代官役所が置かれ、治安維持をしていたようです。江戸と言う大消費都市があり、比較的恵まれた層が居た地域と言ってよいでしょう。
それらの富を奪い、貧者に施したという事実は分かりませんが、鬼平犯科帳に出てくるような極悪非道の盗賊であったとも思われません。
というのも、裏宿七兵衛の処刑後、その妻(子供の事は分かりません)は多摩川の上流、妻の出身地であった澤井村(現青梅市)に”お預け”の処置になったと云います。
七兵衛にとって、”農閑期の出稼ぎ”のような盗賊稼業であったかもしれません。
尚、参考に引用すると、歌舞伎、落語や小説、映画・TVに出て来る「義賊 鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう じろきち:寛政9年(1797年)~天保3年(1832年)」は、江戸時代後期(文化文政時代)に活躍?した実在人物で、本業は小男の鳶職であったといわれる。
「鼠賊白状記」と呼ばれる鼠小僧自身の自白調書が残り、それによれば、尋問に対し、10年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金三千両余りと鼠小僧は供述したと云う。大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施したとされ、後世に義賊として伝説の人となった。鼠小僧は市中引き回しの上での獄門となったが、墓は東京・両国回向院にあり、参拝客も多い。(Wikiの抜粋)
参考;
中里介山・1885年(明治18年)~ 1944年(昭和19年)享年59歳;
桜沢一昭(中里介山の姪の息子にあたる)『中里介山の原郷』、不二出版、1987年7月、
桜沢一昭『中里介山と大菩薩峠』(同成社、1997年)、
写真は青梅:裏宿七兵衛供養塔 -
さらに墓地の中には東京都指定旧跡とされている「根岸典則の墓石」もある。
≪江戸中期:青梅を代表する文化人 根岸典則(ねぎし つねのり)のこと≫
根岸典則(宝暦八年(1758年)~天保二年(1831年)は江戸中期、青梅・本町の縞問屋、根岸喜右衛門の長子として生まれた青梅を代表する文化人の一人である。若くして文学に興味を持ち、日野大納言資枝(京都の歌人、ひの すけき)のもとで和歌を習い、また儒学を儒学者荻生徂徠(おぎゅう そらい)の学統である井上金峨(いのうえ きんが)に学んだ。
また、鎌倉にて禅の指導を受けるなど、学問に非常に幅広く精通していた。
晩年には家業を養子の喜則に譲り、典則自身は隠居もせず、本の製作や文芸の指導に励んだと云う。著書も多く青梅の風景や生活を漢詩で詠んだ「解谷詩集(かいこく)」、神代から中世までの日本史のエピソードを漢文で綴った「扶桑蒙求(ふそうもうきゅう)」は明治初期の教科書にも載りました。
この根岸典則の墓は、東京都指定旧跡となっている。
・・・・・・・・・・・・・・・
写真は青梅:宗建寺・昭和2年に東京都指定旧跡となっている「根岸典則の墓石」 -
≪青梅:宗建寺・我が家が寄進した御堂「妙音殿」と庚申塔≫
宗建寺境内の池の築山に弁財天をお祀りする御堂「妙音殿」がある。
我が家の菩提寺は宗建寺であるが、建立当時からの檀家で、世話人役を務めたと云う。この弁天様を寄進したのも我が家だそうだ。
我が家の墓誌は初代が元禄7年(1694年)徳山道隣居士・俗名七右衛門の名が彫られている。家に残る過去帳を父が墓誌に写し、刻ましたものである。
それ以前の家系は不明であるが、上述したように、宗建寺の建立当時からの檀家で、名主であった事から世話人役を務めたと云われている。
写真は青梅:宗建寺・弁財天をお祀りする御堂「妙音殿」 -
我が家の古文書目録(青梅市郷土博物館)の
19項に寄附状受取之事:文政13年9月(1830年)が記載されている。
差出人は宗建寺大湫(たいしゅう)とあり、受取人は我が家の小右衛門老母とある。弁天様を寄進したことに対するものだ。
また、127番には母の養父(実の祖父)が宗建寺の本堂屋根改修に付き尽力あったと、大正8年9月(1919年)、臨済宗建長寺派管長より表彰されたとある。
写真は青梅:宗建寺・御堂「妙音殿」内部の弁財天 -
宗建寺の妙音堂にはかつて、たくさんの「三味線のばち」が納められていたそうだ。この写真ではその姿は見えない。
妙音堂に祀られているのは「弁財天様」で、弁財天様は音楽や芸術の神様なのだ。 多くの音楽や芸術を志す人々の心の支えとなり、信仰の対象ともなっていた。
昔の青梅は江戸時代より、*織物業が盛んで、それに支えられた文化芸術も栄え、花街も多くあったそうだ。その花街で芸を磨く芸子さんたちはその技の向上を願い宗建寺の妙音堂に三味線のばちや弦を納めたと云われている。
写真は青梅:宗建寺・妙音堂の弁財天
*青梅は江戸時代初期から織物が盛んで、綿と絹の交織の着物生地「青梅縞(じま)」が、江戸の商人や武家に仕える女性に愛用されていた。
その後も明治、大正、昭和と、青梅は庶民の衣服用に普及した「青梅縞(じま)」、「青梅綿」として知られ、昭和初期には木綿の布団生地「青梅夜具地(やぐじ)」の一大産地になった。
第二次世界大戦で織物産業は大打撃を受けたものの、1950年(昭和25年)頃から日本で発生した景気拡大現象であるガチャマン景気、つまり「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」といった「青梅夜具地」の最盛期を迎えた。
しかし、マットレスや洋掛け布団などの普及により、徐々に「青梅夜具地」は衰退し、現在では、タオルなどの生産のみとなった。
小さい頃、多摩川には染めた布が清流で洗われていて、市内の各所で織物工場が元気に動いていた。家内の家も染色工場・織物工場をやっていて、“赤染め屋”の屋号が残る。
我が家は“紙屋”の屋号だったと聞く、「紙屋御殿」の名も残り、家の御威光やら、地域における存在も大きかったようだ。
明治維新の後、“紙屋”も様々な商いに手を出したようで、生糸、黒八丈(くろ はちじょう:黒八丈は黒色無地の厚手の絹織物で、掛け襟・袖口などに用いる)の織物工場を持ち、下請け工場にも生産させるなど手広くしていたそうだ。
結果として、相場や商売もそう上手くいかずに、多くの土地を手放したらしい。 -
イチオシ
御堂「妙音殿」の参道(階段)の登り口にある丸型の石塔が庚申塔(こうしんとう)です。
(青梅七福神協会HP http://ome7.tokyo/sokenji/ )
中心には焔髪(えんぱつ:髪が逆立ち、炎のような髪の形)と憤怒(ふんぬ)の表情、六腕にそれぞれ武器・宝具を持ち、二匹の邪鬼(じゃき)を踏みつけた青面金剛(しょうめんこんごう)が彫られています。
写真は青梅:宗建寺・妙音堂の弁財天・庚申塔:円形という珍しい形の青面金剛塔・二匹の邪鬼・三匹の猿神 -
その下には三匹の猿神(さるがみ)が刻まれていますが、青面金剛とは打って変わってユニークな造りになっています。これは所謂「見ざる・言わざる・聞かざる」で、さらに珍しいことにそれぞれの動作を、扇を使って表現しています。
写真は青梅:宗建寺・妙音堂の弁財天・庚申塔の三匹の猿神 -
庚申(こうしん)とは「庚申(かのえさる)」の日を表しており、その日の夜には三尸(体内に宿る三匹の虫と言われる)が悪さをすると伝えられています。
そのため古くからこの日には夜を徹する習わしがあり、その守り神として仏家では青面金剛や帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神(さるたひこのかみ)をお祀りしたと伝われています。
写真は青梅:宗建寺・庚申塔:円形という珍しい形の青面金剛塔・二匹の邪鬼 -
尚、プログ:大日魔人(だいひまじん)氏によれば:
青梅宗建寺の庚申塔には背面に「現住圭州維?葬文化九壬申小春庚申日建焉願主常休」とあるのみで石工の銘はありません。造られた年とその類似性から埼玉県岩槻の石工「田中武兵衛」の作である確率は高いと思われます。
(注:「維?葬」は年号の始めにおく語、「小春」は十月、「焉」は文の最後において意味を強める語)http://daihimajin.blog95.fc2.com/blog-entry-21.html
写真は青梅:宗建寺・円形という珍しい形の青面金剛塔にある二匹の邪鬼
・・・・・
私にとっては、ちょっと珍しい日記になりました。
御時間があれば、青梅:宗建寺に御参りいただき、ご覧ください。
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銚子・九十九里・白子
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銚子・九十九里・白子
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香取・佐原
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九十九里
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潮来
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香取・佐原
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この旅行記へのコメント (4)
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- M-koku1さん 2020/12/22 11:56:00
- ファミリーヒストリーですね
- jijidarumaさん
NHKのファミリーヒストリーで取り上げられそうな内容ですね!
1600年代からのルーツがわかっているお宅は、けっこう少ないと思いますよ。
祟りかもしれない役所にもびっくりですが、いくら昔とはいえ、ご親戚の方々が若くして亡くなられているのも、気にかかりました。
この義賊さんのことは全く知りませんでした。遠くの県まで行かなくても、まだまだ興味深いスポットがあちらこちらにあるものなんですね。
さぁ そろそろ年賀状を作らなくては。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/12/22 14:27:19
- Re: ファミリーヒストリーですね
- M-koku1さん、
今日は。いつもありがとうございます。
たまにはこのような日記も身近でご興味が湧いたことでしょう。
先だって、「澤乃井の櫛かんざし美術館」の口コミを書かれていたので、
元・地元の人間が書かなくてどうするといった思いがありました。
もっとも、現在の様々な青梅のスポットは観光的に成功している
ものが多く、私が社会人になって、世の中をうろうろしている間に
青梅も大いに変わりました。
菩提寺だけはその印象が子供の頃から変わっていませんけど、
当時叱られたご住職はとうに亡くなり、そのご子息、孫の世代が
寺を守っています。
祟りと言えば、武漢ウイルス禍もそうなのかもしれせん。
えたいが知れない、未知なるものへの恐怖は今も変わっていない。
地元のTVで先日、若い加藤剛の大岡越前をやっていました。時代劇好きです
から、好んでみますが、義賊・・・小僧の話が主題でした。
そういえば、青梅の「裏宿七兵衛」の話があったと・・・。
又何か、種を見つけて書いてみます。
ではまた。
jijidaruma
- M-koku1さん からの返信 2020/12/22 21:34:41
- Re: ファミリーヒストリーですね
- jijidarumaさん
櫛かんざし美術館の口コミを見てくださってありがとうございます。
御岳渓谷を歩いてきました。
軍畑から御岳までブラブラしてきました。
jijidarumaさんの故郷とは夢にも思っていませんでしたが、東京とは思えないぐらい川の水がきれいで、緑や紅葉の美しいエリアですね!
そのうち旅行記をアップしますが、内容は薄くなると思います。どうぞ悪しからず。
土星と木星の接近が見てもよくわからなかったMより
- jijidarumaさん からの返信 2020/12/22 23:10:01
- Re: ファミリーヒストリーですね
- M-koku1さん、
今晩は。再度のコメント恐縮です。
旅行記を楽しみにしております。
御岳渓谷の軍畑から御岳までは奥多摩らしい景観が残り、良い所です。
「歴史的には宿場地域の青梅宿が市の中心であって、現在の青梅駅周辺一帯がそれである。多摩川と永山丘陵に挟まれたこの一帯は長細い土地で狭く、これに比べて東に開けた扇状地がある河辺・小作駅周辺などは、かつては広々とした畑地や野原が続いていたものである。」・・・なんて今やレトロを売りにしている青梅宿について書いたことがあります。
青梅は遠く、昭和も遠くなっているようです。
万葉集にある、こんな東歌もお勉強されたのでは?
「多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき」
[大意:多摩川にサラす手作りの布のように、サラニサラニどうしてこの子がこんなにひどく可愛いのかしら。](『日本古典文学大系』)
明治22年に町村合併してできた調布村(都下にある調布市ではない)は私が育った村ですが、小学校の頃、昭和26年、更に青梅宿を主とした青梅町と合併して、青梅市になりました。
調布村の名は当地が古くから織物産地として栄え、織物業者も多く、そうした背景から調布と名づけたと云われています。
いろいろと飛びました。ありがとうございました。
jijidaruma
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