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青梅と言えば、いまや昭和レトロを売りにしている。<br /><br />JR青梅駅構内のレトロの写真も色々変わっている。私共は普段は車で行くので、墓参り用の花を買いに駅前の花屋さんに寄るだけで、駅構内の様子はもう何年も見ていない。<br />駅から旧青梅街道に出て、駅前通りを歩くと、レトロ感のある映画ポスターが見られて、昔の姿は何処へやら、様変わりの通りになった。<br /><br />故郷を出て、50年も過ぎると、我が町も変わってしまい、やむないことなのだが、何となく違和感を持ってしまう。<br /><br />さて、2022年4月21日(木)に2泊3日の予定で青梅を訪れた。<br />コロナ禍でノビノビにした両家の墓参りを3年ぶりに済ませるのが、この旅の目的だった。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社の前景

青梅:曽祖父が戦死した長男の遺書に由って、村の鎮守様・千ヶ瀬神社に石灯篭を奉納した話。

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2022/04/21 - 2022/04/21

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旅行記グループ 日本の小旅行

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jijidaruma

jijidarumaさん

青梅と言えば、いまや昭和レトロを売りにしている。

JR青梅駅構内のレトロの写真も色々変わっている。私共は普段は車で行くので、墓参り用の花を買いに駅前の花屋さんに寄るだけで、駅構内の様子はもう何年も見ていない。
駅から旧青梅街道に出て、駅前通りを歩くと、レトロ感のある映画ポスターが見られて、昔の姿は何処へやら、様変わりの通りになった。

故郷を出て、50年も過ぎると、我が町も変わってしまい、やむないことなのだが、何となく違和感を持ってしまう。

さて、2022年4月21日(木)に2泊3日の予定で青梅を訪れた。
コロナ禍でノビノビにした両家の墓参りを3年ぶりに済ませるのが、この旅の目的だった。

写真は千ヶ瀬神社の前景

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 片道凡そ3時間を走り、首都圏中央連絡道・青梅ICで高速を降りて、最初に訪れたのは、私共の母校である青梅市立第二中学校傍の「千ヶ瀬(ちがせ)神社」である。<br />千ヶ瀬神社はJR青梅線「東青梅駅」から徒歩10分ほどの距離に、青梅街道(都道5号線)の道から多摩川の河岸段丘(かがんだんきゅう:川の流れに沿ってつくられた階段状の地形のこと)で言えば、丁度一段下に位置している。<br /><br />千ヶ瀬河辺下(かべした)通りという青梅二中前の通りは、相変わらず狭いから気をつかう走行になる。左手に中学のグランドが見えると直ぐに神社の表参道入口鳥居があり、それをくぐって参道(車も通る一般道である)を行く。<br />参道右手に住宅地、左手に青梅二中の校舎、グランドがあるが、まだ授業中のようで生徒の姿は見えない。<br /><br />表参道は左右が桜並木(左右に20本ほどが残る)で300mほどの直線の道が社殿前に至る。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:参道の桜並木・・・奥に社殿が見える。

    片道凡そ3時間を走り、首都圏中央連絡道・青梅ICで高速を降りて、最初に訪れたのは、私共の母校である青梅市立第二中学校傍の「千ヶ瀬(ちがせ)神社」である。
    千ヶ瀬神社はJR青梅線「東青梅駅」から徒歩10分ほどの距離に、青梅街道(都道5号線)の道から多摩川の河岸段丘(かがんだんきゅう:川の流れに沿ってつくられた階段状の地形のこと)で言えば、丁度一段下に位置している。

    千ヶ瀬河辺下(かべした)通りという青梅二中前の通りは、相変わらず狭いから気をつかう走行になる。左手に中学のグランドが見えると直ぐに神社の表参道入口鳥居があり、それをくぐって参道(車も通る一般道である)を行く。
    参道右手に住宅地、左手に青梅二中の校舎、グランドがあるが、まだ授業中のようで生徒の姿は見えない。

    表参道は左右が桜並木(左右に20本ほどが残る)で300mほどの直線の道が社殿前に至る。

    写真は千ヶ瀬神社:参道の桜並木・・・奥に社殿が見える。

  • 参道が行き着いた所はT字路で、その突き当りが千ヶ瀬神社の境内になっている。神社に面する道は皆公道で、その狭い道が左右に伸びていて、住居やアパートが並んでいる。<br /><br />13時頃に神社前の駐車場に停めた。<br />その横には地域の祭りに練り歩く山車(だし)が入った建物があった。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:左手に駐車した車と山車の倉庫がある。

    参道が行き着いた所はT字路で、その突き当りが千ヶ瀬神社の境内になっている。神社に面する道は皆公道で、その狭い道が左右に伸びていて、住居やアパートが並んでいる。

    13時頃に神社前の駐車場に停めた。
    その横には地域の祭りに練り歩く山車(だし)が入った建物があった。

    写真は千ヶ瀬神社:左手に駐車した車と山車の倉庫がある。

  • 【青梅市:曽祖父理平が戦死した長男雄太郎の遺書に由って、村の鎮守様・千ヶ瀬神社に石灯篭(いしどうろう)を奉納した話】<br /><br />千ヶ瀬神社の境内面積は580坪(1,914平方メートル)と云われているが、山際の斜面にくっついて建てられている社殿などの様子を見ると、現在の境内は思ったより狭く見える。<br /><br />かつての神社が所有した境内は、抜けてきた参道の長さを思えば、また左右の学校・住宅などを考えると、結構な広さを持っていたに違いないと思ったが。<br /><br />(後に宮司の高野さんに電話で確認したら、元々、神域はそう広いものではなく、一帯は宮司の高野家の地所だったそうだ。その後、学校用土地などの必要が生じた為、手放してしまったとか) <br /><br />写真は鎮守様・千ヶ瀬神社の正面

    イチオシ

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    【青梅市:曽祖父理平が戦死した長男雄太郎の遺書に由って、村の鎮守様・千ヶ瀬神社に石灯篭(いしどうろう)を奉納した話】

    千ヶ瀬神社の境内面積は580坪(1,914平方メートル)と云われているが、山際の斜面にくっついて建てられている社殿などの様子を見ると、現在の境内は思ったより狭く見える。

    かつての神社が所有した境内は、抜けてきた参道の長さを思えば、また左右の学校・住宅などを考えると、結構な広さを持っていたに違いないと思ったが。

    (後に宮司の高野さんに電話で確認したら、元々、神域はそう広いものではなく、一帯は宮司の高野家の地所だったそうだ。その後、学校用土地などの必要が生じた為、手放してしまったとか) 

    写真は鎮守様・千ヶ瀬神社の正面

  • 社殿の裏手は古くからの木々が神域を作っているが、社務所のようなものが右にあり、宮司さんの家も傍にあるようだ。<br />社殿前はやや広く、昔のイメージはもっと木々があって、全体に暗い感じを持っていたが、今は意外と明るくすっきりしたものだった。<br /><br />数年前に拝殿階段、石段など改装したので全体の景観もきれいなものだ。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:数年前に拝殿階段、石段など改装した。

    社殿の裏手は古くからの木々が神域を作っているが、社務所のようなものが右にあり、宮司さんの家も傍にあるようだ。
    社殿前はやや広く、昔のイメージはもっと木々があって、全体に暗い感じを持っていたが、今は意外と明るくすっきりしたものだった。

    数年前に拝殿階段、石段など改装したので全体の景観もきれいなものだ。

    写真は千ヶ瀬神社:数年前に拝殿階段、石段など改装した。

  • 石段の右に銀杏の木、手水舎(てみずや)、左に大正15年の神社拝殿改装記念碑が建ち、更に左手に立つ石碑は旧千ヶ瀬村山車の完成記念の石碑だ。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:拝殿の階段、石段の改装前はこのようなものだった。これでも明るい感じだが。

    石段の右に銀杏の木、手水舎(てみずや)、左に大正15年の神社拝殿改装記念碑が建ち、更に左手に立つ石碑は旧千ヶ瀬村山車の完成記念の石碑だ。

    写真は千ヶ瀬神社:拝殿の階段、石段の改装前はこのようなものだった。これでも明るい感じだが。

  • 石段上の左右に曽祖父が奉納したと云う石灯籠一対があり、石垣の上にツツジの花がちょっぴり華やかさを出していた。<br /><br />拝殿前の賽銭箱に些少を家内と共に入れて、健康長寿、家内安全、子孫繁栄を祈る。<br />(子供の頃に友人たちと、この神社で賽銭泥棒を見つけて、駐在さんに知らせた事を、急に思いだして、可笑しくなった)<br /><br />そういえば、こんな歌があった。<br />村祭(?村の鎮守の神様の~)byひまわり?変更前後の歌詞付き|文部省唱歌 |Mura Matsuri - YouTube<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:石垣の上にツツジの花

    石段上の左右に曽祖父が奉納したと云う石灯籠一対があり、石垣の上にツツジの花がちょっぴり華やかさを出していた。

    拝殿前の賽銭箱に些少を家内と共に入れて、健康長寿、家内安全、子孫繁栄を祈る。
    (子供の頃に友人たちと、この神社で賽銭泥棒を見つけて、駐在さんに知らせた事を、急に思いだして、可笑しくなった)

    そういえば、こんな歌があった。
    村祭(?村の鎮守の神様の~)byひまわり?変更前後の歌詞付き|文部省唱歌 |Mura Matsuri - YouTube

    写真は千ヶ瀬神社:石垣の上にツツジの花

  • 【千ヶ瀬(ちがせ)神社】<br />〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町2-117<br />社務所(宮司・高野さん)Tel:0428-22-0316<br />〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町1-119<br /><br />千ヶ瀬神社は「氏神様(うじがみさま)」、「産土様(うぶすなさま)」、「鎮守様(ちんじゅさま)」と呼ばれた。<br /><br />村人には子供が生まれるとお宮参り、七五三、我が子の成長の祈願、成人祝、結婚式、新年の祈願、家内安全、交通安全、厄払い等などで古くから親しんだ、かけがえのない存在でした。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:大正15年の神社拝殿改装記念碑

    【千ヶ瀬(ちがせ)神社】
    〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町2-117
    社務所(宮司・高野さん)Tel:0428-22-0316
    〒198-0043 東京都青梅市千ヶ瀬町1-119

    千ヶ瀬神社は「氏神様(うじがみさま)」、「産土様(うぶすなさま)」、「鎮守様(ちんじゅさま)」と呼ばれた。

    村人には子供が生まれるとお宮参り、七五三、我が子の成長の祈願、成人祝、結婚式、新年の祈願、家内安全、交通安全、厄払い等などで古くから親しんだ、かけがえのない存在でした。

    写真は千ヶ瀬神社:大正15年の神社拝殿改装記念碑

  • 御祭神:<br />豊宇気姫命(とようけひめのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、他2柱 、<br /><br />境内社:神明社(天照大神)、その横左から順に春日神社、八雲神社、浅間神社<br /><br />社宝:応安の棟札、明治維新の時、江戸城無血開城を為した事で知られる幕臣・勝海舟(かつ かいしゅう)筆の幟一対(のぼりいっつい)などがある。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:旧千ヶ瀬村山車の完成記念の石碑

    御祭神:
    豊宇気姫命(とようけひめのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、他2柱 、

    境内社:神明社(天照大神)、その横左から順に春日神社、八雲神社、浅間神社

    社宝:応安の棟札、明治維新の時、江戸城無血開城を為した事で知られる幕臣・勝海舟(かつ かいしゅう)筆の幟一対(のぼりいっつい)などがある。

    写真は千ヶ瀬神社:旧千ヶ瀬村山車の完成記念の石碑

  • 御由緒:<br />千ヶ瀬神社は古くは大社権現稲荷大明神、江戸時代には稲荷社と称した。<br />慶安2年(1649年)には江戸幕府より社領1石5斗の御朱印状を拝領したとされている。<br />千ヶ瀬村の鎮守で、神官高野氏の祖先出雲太郎(古事記や日本書紀に出てくる出雲の国の豪族、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の子孫と称す)が、この地に至り、出雲神社を創建したのが始まりと伝えられている。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:拝殿の扁額

    御由緒:
    千ヶ瀬神社は古くは大社権現稲荷大明神、江戸時代には稲荷社と称した。
    慶安2年(1649年)には江戸幕府より社領1石5斗の御朱印状を拝領したとされている。
    千ヶ瀬村の鎮守で、神官高野氏の祖先出雲太郎(古事記や日本書紀に出てくる出雲の国の豪族、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の子孫と称す)が、この地に至り、出雲神社を創建したのが始まりと伝えられている。

    写真は千ヶ瀬神社:拝殿の扁額

  • 慶長12年(1607年)4月神官の邸宅が火災に被り、社記古文書等殆どが焼失したため 、神社創建後の変遷は詳らかでない。<br />明治7年(1874年)村内の神明大神宮(神明社)を合祀し、明治16年(1883年)千ヶ瀬神社と改称した。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:拝殿の後の<本殿>

    慶長12年(1607年)4月神官の邸宅が火災に被り、社記古文書等殆どが焼失したため 、神社創建後の変遷は詳らかでない。
    明治7年(1874年)村内の神明大神宮(神明社)を合祀し、明治16年(1883年)千ヶ瀬神社と改称した。

    写真は千ヶ瀬神社:拝殿の後の<本殿>

  • 実は母の祖父(私にとっては曽祖父だが)が、かつての千ヶ瀬村の鎮守様、千ヶ瀬神社の正面階段上にある一対の石灯籠を奉納したと、2019年10月に弟から概略を聞いていたので、一度見に行きたかったのだ。<br /><br />76歳の年になるまで、この事を知らなかったのも少々迂闊(うかつ)なことだが、70歳過ぎてから、若くして亡くなった母の事や我が家の親族史を調べて、友人の主宰した同人誌に6年間、投稿させてもらったから、こうした事柄は興味がある。<br /><br />千ヶ瀬神社を預かる方の弟さん夫妻に偶々出会って、奉納の経緯を聞いてみました。<br />わざわざお兄さんの宮司高野さんにも聞いて頂いたが、社務所にも記録が残っていないとの事で、残念ながら分からなかった。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠

    実は母の祖父(私にとっては曽祖父だが)が、かつての千ヶ瀬村の鎮守様、千ヶ瀬神社の正面階段上にある一対の石灯籠を奉納したと、2019年10月に弟から概略を聞いていたので、一度見に行きたかったのだ。

    76歳の年になるまで、この事を知らなかったのも少々迂闊(うかつ)なことだが、70歳過ぎてから、若くして亡くなった母の事や我が家の親族史を調べて、友人の主宰した同人誌に6年間、投稿させてもらったから、こうした事柄は興味がある。

    千ヶ瀬神社を預かる方の弟さん夫妻に偶々出会って、奉納の経緯を聞いてみました。
    わざわざお兄さんの宮司高野さんにも聞いて頂いたが、社務所にも記録が残っていないとの事で、残念ながら分からなかった。

    写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠

  • ともあれ、鎮守様の千ヶ瀬神社に詣で、思っていたよりも小さく見えた左右の石灯籠を写真に撮って、拝んできた。<br />千ヶ瀬神社の全体を撮ってみると、小さいかと思った石灯籠は高さ2mぐらいで私の背より高く、社殿の姿に丁度治まりの良い大きさに見えた。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠

    ともあれ、鎮守様の千ヶ瀬神社に詣で、思っていたよりも小さく見えた左右の石灯籠を写真に撮って、拝んできた。
    千ヶ瀬神社の全体を撮ってみると、小さいかと思った石灯籠は高さ2mぐらいで私の背より高く、社殿の姿に丁度治まりの良い大きさに見えた。

    写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠

  • 一般的に石灯籠は<br />①宝珠(ほうじゅ)、<br />②笠(かさ)、<br />③火袋(ひふくろ)、<br />④中台(ちゅうだい)、<br />⑤竿(さお)、<br />⑥基礎(きそ)、若しくは地輪(ちりん)、最下部には基壇(きだん)となっているのだそうだが、<br />曽祖父の奉納した灯籠は厳格には形式を守っていないようである。<br /><br />元からこの形式で作ったのか、途中で火袋(ひふくろ)の分が壊れてしまって、今のようなものをのせてしまったのか、この辺はもう分からない。<br /><br />写真は参考に:石灯籠(春日灯籠)

    一般的に石灯籠は
    ①宝珠(ほうじゅ)、
    ②笠(かさ)、
    ③火袋(ひふくろ)、
    ④中台(ちゅうだい)、
    ⑤竿(さお)、
    ⑥基礎(きそ)、若しくは地輪(ちりん)、最下部には基壇(きだん)となっているのだそうだが、
    曽祖父の奉納した灯籠は厳格には形式を守っていないようである。

    元からこの形式で作ったのか、途中で火袋(ひふくろ)の分が壊れてしまって、今のようなものをのせてしまったのか、この辺はもう分からない。

    写真は参考に:石灯籠(春日灯籠)

  • 灯籠の機能は「灯を保護する燈火具」で、神や仏に献上される灯を燈す常設の装置だが、曽祖父の奉納したものには、笠(かさ)の下にあるべき丸い窓や日月の形にくり抜いた火口といった部分や火をつける火袋(ひふくろ)といったものが無いように見えた。<br /><br />石灯籠について調べてみると、三郷市香取神社の上口の三つ穴灯篭や、鹿島神宮の三つ穴灯篭∵が似ているように見えたが、いずれも火袋があるようだった。<br /><br />写真は参考に:石灯籠(鹿島神宮の三つ穴灯篭∵)

    灯籠の機能は「灯を保護する燈火具」で、神や仏に献上される灯を燈す常設の装置だが、曽祖父の奉納したものには、笠(かさ)の下にあるべき丸い窓や日月の形にくり抜いた火口といった部分や火をつける火袋(ひふくろ)といったものが無いように見えた。

    石灯籠について調べてみると、三郷市香取神社の上口の三つ穴灯篭や、鹿島神宮の三つ穴灯篭∵が似ているように見えたが、いずれも火袋があるようだった。

    写真は参考に:石灯籠(鹿島神宮の三つ穴灯篭∵)

  • (帰宅後に、宮司の高野さんに電話で確認したところ、奉納時からこの姿の灯籠で、火袋が無いのは奉納主や石工の裁量でやったのでしょうと言われた。<br />また、灯籠が壊れて今の形になったのではないが、何年か前に灯籠の一部が欠けて、修理した記憶があるとの事だった。見る限りでは今も欠けた所が残っていたが、修理した後にまた欠けたのだろう。<br /><br />江戸時代に名主・村役人を務めた旧家を継いだ曽祖父は、明治維新から以降、一族郎党を養うために、生糸作りや黒八丈(黒色無地の絹布)作りに苦心して上手くいかなかったと聞くから、資金的には十分な状況ではなかったのだろう)<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠④中台(ちゅうだい)に文字が刻まれていた。

    (帰宅後に、宮司の高野さんに電話で確認したところ、奉納時からこの姿の灯籠で、火袋が無いのは奉納主や石工の裁量でやったのでしょうと言われた。
    また、灯籠が壊れて今の形になったのではないが、何年か前に灯籠の一部が欠けて、修理した記憶があるとの事だった。見る限りでは今も欠けた所が残っていたが、修理した後にまた欠けたのだろう。

    江戸時代に名主・村役人を務めた旧家を継いだ曽祖父は、明治維新から以降、一族郎党を養うために、生糸作りや黒八丈(黒色無地の絹布)作りに苦心して上手くいかなかったと聞くから、資金的には十分な状況ではなかったのだろう)

    写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠④中台(ちゅうだい)に文字が刻まれていた。

  • 石灯籠に彫り込んだ文字は(石工の技術が悪かったのか、材質に問題なのか)歳月と共に薄くなっていたが、奉納者である曽祖父理平と次男傳吉の名前と、由縁、つまり(日露戦争の旅順戦で第三回総攻撃が行われた203高地で戦死した)戒名は「建功院英機良雄居士」、陸軍歩兵軍曹、勲7等、功7級の長男雄太郎(明治14年~明治37年(1904年、享年23歳)の遺書に由って石灯籠を建立し、奉納した・・・と読むことができた。<br />雄太郎は戦死を覚悟し、その魂の帰る場所に村の鎮守を選んだのだろう。<br /><br />先年、大学の体育館に付属した道場が新築され、寄付金を納めた。寄付金額に相応した金属製の名札を壁に付けてもらったが、それに比べると、曽祖父の思いをこの石灯籠に刻んだ文字の方が好ましく思えた。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠④中台(ちゅうだい)に文字が刻まれていた。

    イチオシ

    石灯籠に彫り込んだ文字は(石工の技術が悪かったのか、材質に問題なのか)歳月と共に薄くなっていたが、奉納者である曽祖父理平と次男傳吉の名前と、由縁、つまり(日露戦争の旅順戦で第三回総攻撃が行われた203高地で戦死した)戒名は「建功院英機良雄居士」、陸軍歩兵軍曹、勲7等、功7級の長男雄太郎(明治14年~明治37年(1904年、享年23歳)の遺書に由って石灯籠を建立し、奉納した・・・と読むことができた。
    雄太郎は戦死を覚悟し、その魂の帰る場所に村の鎮守を選んだのだろう。

    先年、大学の体育館に付属した道場が新築され、寄付金を納めた。寄付金額に相応した金属製の名札を壁に付けてもらったが、それに比べると、曽祖父の思いをこの石灯籠に刻んだ文字の方が好ましく思えた。

    写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠④中台(ちゅうだい)に文字が刻まれていた。

  • 写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠・・・別の面は文字が良く判別できなかった。

    写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠・・・別の面は文字が良く判別できなかった。

  • 写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠・・別の面は文字が良く判別できなかった。

    写真は千ヶ瀬神社:曽祖父が奉納した一対の石灯籠・・別の面は文字が良く判別できなかった。

  • なお、我が家の菩提寺、宗建寺(そうけんじ)には先祖代々の墓石の横に、「建功院英機良雄居士」の立派な墓石が並んで建っている。<br /><br />この事も曽祖父の長男の戦死を悼む思いが察せられる。<br />その墓石には雄太郎の履歴、戦歴が詳細に彫られていて判読できた。当時、各戦役で亡くなった戦死者の栄誉を称え、地域の寺々には先祖代々の墓石の他に戦死者の立派な墓石が建てられたものだ。<br /><br />以前、この墓石に興味があり、写真を撮り、墓石に刻まれた文字を拡大して読んだ。そして以下のように纏めた。<br /><br />写真は我が家の菩提寺、宗建寺にある「建功院英機良雄居士」の立派な墓石・・・この墓碑の側面に雄太郎の履歴が刻まれている。

    なお、我が家の菩提寺、宗建寺(そうけんじ)には先祖代々の墓石の横に、「建功院英機良雄居士」の立派な墓石が並んで建っている。

    この事も曽祖父の長男の戦死を悼む思いが察せられる。
    その墓石には雄太郎の履歴、戦歴が詳細に彫られていて判読できた。当時、各戦役で亡くなった戦死者の栄誉を称え、地域の寺々には先祖代々の墓石の他に戦死者の立派な墓石が建てられたものだ。

    以前、この墓石に興味があり、写真を撮り、墓石に刻まれた文字を拡大して読んだ。そして以下のように纏めた。

    写真は我が家の菩提寺、宗建寺にある「建功院英機良雄居士」の立派な墓石・・・この墓碑の側面に雄太郎の履歴が刻まれている。

  • 【故陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 XX雄太郎 履歴】<br />雄太郎は明治十四年三月十五日、東京府武蔵国西多摩郡調布村千ヶ瀬、XX氏邸に生まれる。父を理平という。雄太郎はその長男なり。父母に仕え、郷土の皆はその孝を称える。<br />丁年(ていねん:一人前に成長しての意味)に及んで、徴兵検査に合格。明治三十四年十二月一日に東京麻布・第一師団第一連隊・第三中隊に入営す。<br />明治三十六年十一月三十日に帰休。<br />日露の役(戦争)、起るに及んで動員令に接し、明治三十七年三月十日予備を以て入営し、出征*第三軍に属し、三月十九日出発。清国孫家明子に上陸す。<br />爾来(じらい:それからの意味)、警戒、捜索等の任務に服す。又、南山及び石展盤溝等の戦に奮戦して功あり、同三十七年九月十八日、歩兵伍長に昇任す。<br />旅順攻囲軍の203高地を攻撃するに際し、雄太郎は中隊の突撃隊に任ぜられ、奮然、衆に先んじ、敵陣に突入し、頑強なる敵を駆逐し、殆んど同地を占領せんとする一刹那、敵弾に当りて、遂に戦死す。<br />実に明治三十七年十一月二十八日なり。後ににその功を表賞(ひょうしょう:褒め称えるという意味)し、軍曹に昇任し、勲七等功七級を賜る。<br /><br />写真は建功院英機良雄居士(俗名雄太郎)の写真・・・日露戦争の旅順203高地にて明治37年11月28日戦死・・・尚、理平の長女ツルの長女だった我が母静子は、この家に相続人が途絶えたこともあって、大正12年10月、祖母スヱの養女になっている。それで理平長男の雄太郎(戦死)、次男傳吉(病死)は、母の兄になった。

    【故陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 XX雄太郎 履歴】
    雄太郎は明治十四年三月十五日、東京府武蔵国西多摩郡調布村千ヶ瀬、XX氏邸に生まれる。父を理平という。雄太郎はその長男なり。父母に仕え、郷土の皆はその孝を称える。
    丁年(ていねん:一人前に成長しての意味)に及んで、徴兵検査に合格。明治三十四年十二月一日に東京麻布・第一師団第一連隊・第三中隊に入営す。
    明治三十六年十一月三十日に帰休。
    日露の役(戦争)、起るに及んで動員令に接し、明治三十七年三月十日予備を以て入営し、出征*第三軍に属し、三月十九日出発。清国孫家明子に上陸す。
    爾来(じらい:それからの意味)、警戒、捜索等の任務に服す。又、南山及び石展盤溝等の戦に奮戦して功あり、同三十七年九月十八日、歩兵伍長に昇任す。
    旅順攻囲軍の203高地を攻撃するに際し、雄太郎は中隊の突撃隊に任ぜられ、奮然、衆に先んじ、敵陣に突入し、頑強なる敵を駆逐し、殆んど同地を占領せんとする一刹那、敵弾に当りて、遂に戦死す。
    実に明治三十七年十一月二十八日なり。後ににその功を表賞(ひょうしょう:褒め称えるという意味)し、軍曹に昇任し、勲七等功七級を賜る。

    写真は建功院英機良雄居士(俗名雄太郎)の写真・・・日露戦争の旅順203高地にて明治37年11月28日戦死・・・尚、理平の長女ツルの長女だった我が母静子は、この家に相続人が途絶えたこともあって、大正12年10月、祖母スヱの養女になっている。それで理平長男の雄太郎(戦死)、次男傳吉(病死)は、母の兄になった。

  • *旅順攻撃と第三軍(以下はWikiの抜粋):<br /><br />第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)の司令長官は乃木希典陸軍大将(のぎまれすけ)で、その旗下の第1師団(将校を含む兵力6869名)・歩兵第1旅団(東京)・歩兵第1連隊・第三中隊は旅順攻囲戦で各総攻撃に参加した。<br />第一回総攻撃(明治37年8月19日~24日)<br />第二回総攻撃前半戦(明治37年9月19日~22日)<br />第二回総攻撃後半戦(明治37年10月26日~30日)<br />第三回総攻撃(明治37年11月26日~12月6日)<br />第三回総攻撃:<br />明治37年(1904年)11月26日に開始され、二龍山以東の一戸堡塁、東鶏冠山、松樹山にいたる旧囲壁(ロシア軍は要塞の主防御線をコンクリートで周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなり、あらゆる方角からの攻撃に備えがあった)への攻撃を繰り返したが、日本の各師団はことごとく目標を達成できなかった。<br />日露戦史に残る、2,600余名からなる白襷隊(しろだすきたい:夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する名称)の奇襲攻撃もこの時に行われた。日本側は4,500名の死傷者を出し、失敗に終わった。<br /><br />写真は日露戦争:旅順203高地の戦いMap

    *旅順攻撃と第三軍(以下はWikiの抜粋):

    第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)の司令長官は乃木希典陸軍大将(のぎまれすけ)で、その旗下の第1師団(将校を含む兵力6869名)・歩兵第1旅団(東京)・歩兵第1連隊・第三中隊は旅順攻囲戦で各総攻撃に参加した。
    第一回総攻撃(明治37年8月19日~24日)
    第二回総攻撃前半戦(明治37年9月19日~22日)
    第二回総攻撃後半戦(明治37年10月26日~30日)
    第三回総攻撃(明治37年11月26日~12月6日)
    第三回総攻撃:
    明治37年(1904年)11月26日に開始され、二龍山以東の一戸堡塁、東鶏冠山、松樹山にいたる旧囲壁(ロシア軍は要塞の主防御線をコンクリートで周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなり、あらゆる方角からの攻撃に備えがあった)への攻撃を繰り返したが、日本の各師団はことごとく目標を達成できなかった。
    日露戦史に残る、2,600余名からなる白襷隊(しろだすきたい:夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する名称)の奇襲攻撃もこの時に行われた。日本側は4,500名の死傷者を出し、失敗に終わった。

    写真は日露戦争:旅順203高地の戦いMap

  • <11月27日~28日、203高地攻撃><br /><br />11月27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した。<br /><br />翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し、現在地の確保で精一杯になる。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐさまロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。<br /><br />写真は日露戦争:旅順二〇三高地の戦い・奉納画

    <11月27日~28日、203高地攻撃>

    11月27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した。

    翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し、現在地の確保で精一杯になる。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐさまロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。

    写真は日露戦争:旅順二〇三高地の戦い・奉納画

  • 一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類(てらだ しゃくるい)大佐が重傷を負い、まもなく戦死する。(多分、雄太郎もこの頃に戦死したのだろう)それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。<br /><br />11月28日から12月6日までの203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千人を投入し、戦死者5,052名、負傷者11,884名、合計16,936名という信じがたい犠牲者をだした。<br /><br />・・・・・・・・・・<br /><br />写真は日露戦争:映画ポスター・二百三高地

    一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類(てらだ しゃくるい)大佐が重傷を負い、まもなく戦死する。(多分、雄太郎もこの頃に戦死したのだろう)それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。

    11月28日から12月6日までの203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千人を投入し、戦死者5,052名、負傷者11,884名、合計16,936名という信じがたい犠牲者をだした。

    ・・・・・・・・・・

    写真は日露戦争:映画ポスター・二百三高地

  • 長く村人、地域の人達の信仰の対象であった鎮守様・千ヶ瀬神社には、社殿の東西に御神木・朝日夕日と称する椎の樹(シイノキ)二株の巨木が青々と茂り、大正15年に改装したと云う社殿もまだ十分に美しく、神域は面積580坪の中に、社殿、神輿庫(神輿が鎮座している)、手水舎、境内社(神明社(天照大神)、八雲神社、浅間神社、春日神社)などが見られる。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:境内社の神明社と御神木・夕日の御蔭

    長く村人、地域の人達の信仰の対象であった鎮守様・千ヶ瀬神社には、社殿の東西に御神木・朝日夕日と称する椎の樹(シイノキ)二株の巨木が青々と茂り、大正15年に改装したと云う社殿もまだ十分に美しく、神域は面積580坪の中に、社殿、神輿庫(神輿が鎮座している)、手水舎、境内社(神明社(天照大神)、八雲神社、浅間神社、春日神社)などが見られる。

    写真は千ヶ瀬神社:境内社の神明社と御神木・夕日の御蔭

  • 写真は千ヶ瀬神社:境内社の左から八雲神社、浅間神社、春日神社。

    写真は千ヶ瀬神社:境内社の左から八雲神社、浅間神社、春日神社。

  • 社殿の東西に出雲太郎が植えたと伝えられる*御神木は誰が付けたか好ましい「朝日夕日」と称する椎の樹(シイノキ)二株があった。<br />残念ながら「夕日の御蔭(みかげ)」は文明12年(1480年)に大風で折れ、枯れてしまった。現在の椎の樹はその後に植えられたものだと云う。神明社を覆うように椎の樹が横に樹形を伸ばし、太い二本の丸太でこれを支えている。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:境内社の神明社と御神木・夕日の御蔭

    イチオシ

    社殿の東西に出雲太郎が植えたと伝えられる*御神木は誰が付けたか好ましい「朝日夕日」と称する椎の樹(シイノキ)二株があった。
    残念ながら「夕日の御蔭(みかげ)」は文明12年(1480年)に大風で折れ、枯れてしまった。現在の椎の樹はその後に植えられたものだと云う。神明社を覆うように椎の樹が横に樹形を伸ばし、太い二本の丸太でこれを支えている。

    写真は千ヶ瀬神社:境内社の神明社と御神木・夕日の御蔭

  • 写真は千ヶ瀬神社:御神木・夕日の御蔭の拡大

    写真は千ヶ瀬神社:御神木・夕日の御蔭の拡大

  • これに対して、「朝日の御蔭(みかげ)」は現在も青々と茂り、青梅市一の巨木・古木として昭和32年(1857年)に青梅市の天然記念物に指定された。<br /><br />『青梅文化財・史跡・天然記念物』によると、河岸段丘の崖下であることで日だまりに恵まれ、背後の南向き斜面が冬の寒風をさえぎることもあって、このように大きく生長することができたと云う。<br /><br />このシイノキは、幹周7.2m、樹高23mで、実際の樹齢は300年程度とされる。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:御神木・朝日の御蔭

    イチオシ

    これに対して、「朝日の御蔭(みかげ)」は現在も青々と茂り、青梅市一の巨木・古木として昭和32年(1857年)に青梅市の天然記念物に指定された。

    『青梅文化財・史跡・天然記念物』によると、河岸段丘の崖下であることで日だまりに恵まれ、背後の南向き斜面が冬の寒風をさえぎることもあって、このように大きく生長することができたと云う。

    このシイノキは、幹周7.2m、樹高23mで、実際の樹齢は300年程度とされる。

    写真は千ヶ瀬神社:御神木・朝日の御蔭

  • 写真は千ヶ瀬神社:御神木・朝日の御蔭・・・説明版

    写真は千ヶ瀬神社:御神木・朝日の御蔭・・・説明版

  • 因みに「千ヶ瀬神社:御神木・朝日の御蔭」のような表現をした場所があるか、検索してみたら、以下が出て来た。<br /><br />*御蔭を御影と書いて、「朝日・夕日の御影(みかげ)」と称した巨木は長野県飯田市の立石(たていし)地区に2本の杉が今も残っているとの事だ。<br />(〒399-2433 長野県飯田市市立石502、立石659-2)<br /><br />立石の雄スギ雌スギは三穂地区の立石と呼ばれる集落の中央に、東西約400m離れて堂々と立っている2本の杉の巨木を呼んでいる。雄スギは「夕日御影杉」、雌スギは「朝日御影杉」とも呼ばれているそうだ。<br /><br />これは、春秋の彼岸(春分・秋分の日)、朝日が昇る頃に雌スギの影が雄スギの元に、夕日が沈む頃には雄スギの影が雌スギの元に届くことから呼ばれるようになったとか。なかなか詩的な言い伝えである。<br /><br />写真は参考に:立石の雌杉

    因みに「千ヶ瀬神社:御神木・朝日の御蔭」のような表現をした場所があるか、検索してみたら、以下が出て来た。

    *御蔭を御影と書いて、「朝日・夕日の御影(みかげ)」と称した巨木は長野県飯田市の立石(たていし)地区に2本の杉が今も残っているとの事だ。
    (〒399-2433 長野県飯田市市立石502、立石659-2)

    立石の雄スギ雌スギは三穂地区の立石と呼ばれる集落の中央に、東西約400m離れて堂々と立っている2本の杉の巨木を呼んでいる。雄スギは「夕日御影杉」、雌スギは「朝日御影杉」とも呼ばれているそうだ。

    これは、春秋の彼岸(春分・秋分の日)、朝日が昇る頃に雌スギの影が雄スギの元に、夕日が沈む頃には雄スギの影が雌スギの元に届くことから呼ばれるようになったとか。なかなか詩的な言い伝えである。

    写真は参考に:立石の雌杉

  • 長野県の天然記念物にも指定されており、東西に並ぶ姿から「夫婦杉」とも呼ぶ。樹齢1000年を超える雄スギ(幹回り9.8m、樹高41.6m)と、樹齢1000年を超える雌スギ(幹回り9.0m、樹高40.3m)も根がしっかり張り、巨大で長野県第11位(全国第32位)の巨木だそうだ。<br /><br />立石の雄スギ雌スギ(雄スギ) - YouTube<br />立石の雄スギ雌スギ(雌スギ) - YouTube<br /><br />写真は参考に:立石の雄杉

    長野県の天然記念物にも指定されており、東西に並ぶ姿から「夫婦杉」とも呼ぶ。樹齢1000年を超える雄スギ(幹回り9.8m、樹高41.6m)と、樹齢1000年を超える雌スギ(幹回り9.0m、樹高40.3m)も根がしっかり張り、巨大で長野県第11位(全国第32位)の巨木だそうだ。

    立石の雄スギ雌スギ(雄スギ) - YouTube
    立石の雄スギ雌スギ(雌スギ) - YouTube

    写真は参考に:立石の雄杉

  • 写真は参考に:立石の夫婦杉・・・影が伸びている。

    写真は参考に:立石の夫婦杉・・・影が伸びている。

  • 写真は千ヶ瀬神社:参道を帰る。13時半になると、学校から生徒が帰りだした。

    写真は千ヶ瀬神社:参道を帰る。13時半になると、学校から生徒が帰りだした。

  • 写真は千ヶ瀬神社:参道を帰る。学校から生徒が帰りだした。

    写真は千ヶ瀬神社:参道を帰る。学校から生徒が帰りだした。

  • 青梅駅前のいつもの花屋で花束を購入し、多摩川の両岸に其々の菩提寺があるのだが、そこにある先祖代々の墓に花を献じ、長い御無沙汰を詫びた。<br /><br />写真は千ヶ瀬神社:参道入口、鳥居前で・・・桜の季節も良さそうだ。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2022年7月15日Wiki/Hp参考、編集・追記)

    青梅駅前のいつもの花屋で花束を購入し、多摩川の両岸に其々の菩提寺があるのだが、そこにある先祖代々の墓に花を献じ、長い御無沙汰を詫びた。

    写真は千ヶ瀬神社:参道入口、鳥居前で・・・桜の季節も良さそうだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2022年7月15日Wiki/Hp参考、編集・追記)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ねんきん老人さん 2024/01/25 09:05:45
    羨ましい墓参のあり方
     jijidaruma さん、おはようございます。
     jijidaruma さんは青梅のご出身でしたか。 高校時代、奥多摩に遊びに行くときに青梅を通り、初めて「青海」を「おうめ」と読むことを知りました。 今回のご旅行記を拝読すると、「千ケ瀬」「河辺下」など、にわかには読めない地名が出てきて、昔の人々が永年の地名にあとから漢字を充てたのか、あるいは意味を伴った漢字を無理に読んでそれが地名になったのか、などと、ご旅行記の本筋には関係のない興味を持ちました。
     さて、ご旅行の主目的はお墓参りだったそうですが、読み進むにつれてjijidaruma さんのご家系が並々ならぬ名家の流れを形作っておられることを知りました。 私のように、俺の墓に花を持ってくるのはせいぜい孫までで、その先は俺がこの世に存在したことすら知らない世代になるんだと思っている凡俗とは世界が違うのですね。
     そしてさらに読めば読むほど、曾祖父様、雄太郎様はじめご一統様の存在感に満ちた人生が今もなおjijidaruma さんに受け継がれているご様子に崇敬と羨望を覚えました。
     私も今や老境に入り、医師からもそれなりのことを言われている身で、自分の人生は何だったのかと考えることが多くなりましたが、何をどう捉えてもそよ風に翻弄されて消えてゆく木の葉ほどの意味もない存在だったと、思い返しております。
     今回のjijidaruma さんの丹念な調べで、曾祖父理平様、そのご長男雄太郎様、さらにご家族様方の有意な人生がまた鮮やかに蘇り、今後も永く人々の道しるべとなることを確信いたしました。
     jijidaruma さんの精緻なご研究と実踏に敬意を表します。

    ねんきん老人

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2024/01/26 02:43:54
    Re: 羨ましい墓参のあり方
    ねんきん老人さん、
    今晩は。いつもご興味を持って頂き有り難うございます。
    また、過分なお褒めを頂き、恐縮しております。

    東京は西の果て・・・とよく故郷を書くと、この言葉から始めます。今住んでいる千葉の某地からちょうど100km(50+50)の距離ですが、昔はあまり思わなかったのですが、近年は故郷がいやに遠く感じるようになりました。
    ねんきんさんの高校時代も奥多摩に遊ぶと言っても、交通は不便で、結構大変だったことでしょう。
    実家は弟が継ぎましたが、両親が亡くなると、墓参りぐらいが主になりました。ただ、私共は二人とも青梅市に合併した、かつて調布村と称した多摩川の両岸に実家がありました。だから一度に両家の墓参りが出来るのです。
    多摩川の両岸地域と云う事で千ヶ瀬、河辺下(文中に書いた)、あるいは長淵といった名前が残ったのでしょう。

    以前実家の蔵を壊す時に中から取り出した古文書、大きな享保雛や押し入れにあった亡母の写真アルバム、日記を見つけました。兄弟姉妹5人が居りますが、一番次男の私が歴史や亡母の日記などに興味をもっていたので、それらを持ち帰り、段ボールの中に入れたままにしておりました。
    漸く70代に入ってから、急にその事が気になり、調べ始めたのが最初です。
    1枚の大叔父の写真を見つけた事をきっかけで、数年の間、読めぬ字に苦労しつつも、何とか形を作りました。ご先祖さまや両親、親族にちょっとした貢献ができたようです。

    本編の千ヶ瀬村の鎮守様、千ヶ瀬神社は勿論子供のころから知っていたし、その祭りも楽しんだものですが、ご先祖様が石灯籠を奉納した謂れを全く知らずに育ったことは、何とも残念なものでした。
    弟からの情報で調べてみれば、靖国神社にも祀られているけど、こうした地元の神社にその痕跡を残したかった親子の思いを家族史の1章として作れたことは良かったと思っています。
    親族史も戸籍から調べてみると、様々に家の存続のために、養子・養女をとった様子が見て取れて、家系を大事にしてきたことが伺われます。

    <墓に花を持ってくるのはせいぜい孫まで>・・・これは私も納得です。
    娘2人と孫たち5人には、本編を含めて、書き留めた資料を各1セットを残しましたが、さてどうなりますか?

    偏に風の前の塵に同じ(平家物語)

    それではまた。
    jijidaruma

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