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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(63ページ)全1,843件

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  • 基本情報
  • 満員御礼の二日間♪

    投稿日 2016年07月02日

    みん宿ヤポネシア 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    今回の旅2・4泊目に宿泊しました。6月22日はいつも満員ですが、なぜか24日が満員と書かれていました。実は24日の宿泊が決まっておらずダメ元で聞いてみるとまさかのOKの返事。要は民泊が入っているので少しうるさいかも・・・ということでしたが、そういうレアな体験もまたありかとお願いしました。

    受け入れ時はバタバタするとのことから適当に時間を合わせてチェックインすると、まさかの自己紹介参加まで加わることになりました。

    隣県福井県の高校生ならばうちの会社まで知っており、いつもとは違う有意義で楽しい時間が過ごせました。

    翌朝高校生集団は朝から行動して帰路につくため朝は会いませんでしたが、こういう体験ができるのも、理解あるホストファミリーがされているみん宿ヤポネシアならではのことのように思います。

    次回の来沖はまったくの未定ですが、またなにか新しい体験ができるに違いないとワクワクします♪

    旅行時期
    2016年06月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    一人旅
    1人1泊予算
    7,500円未満
    アクセス:
    5.0
    ひめゆりの塔から車で10分程。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    2食付きならば安いとと思います。
    客室:
    5.0
    広くはありませんが使い勝手はいいと思います。
    接客対応:
    5.0
    これでリピータが多くおられます。
    風呂:
    5.0
    広くて使いやすい
    食事・ドリンク:
    5.0
    これもまたリピートの要因です。
    バリアフリー:
    5.0
    南部では数少ないバリアフリー化されています。

  • 所狭しと並んでいる遺品の数々には圧倒されました。

    投稿日 2016年07月06日

    戦争資料記念館 那覇

    総合評価:5.0

    那覇市楚辺の住宅地の一角にあります。自営をされている会社の建物に50年もの間集めてこられた遺品の数々が所狭しと並んでいます。遺骨収集をはじめ戦争の遺物収集活動を長年やってこられて、平和のありがたみを説いてこられましたが今年現役を引退されました。

    遺骨は集まった時点で地方自治体経由で納骨をされていますが、身元のわからない遺物の数々は丁寧に保管されており、建物内の棚や壁に陳列されておられます。

    無骨な方だと思われることが多いようですが、それもまた戦没者と真剣に向き合うと言う気持ちから出ることであり、それによって軽く構えていた自分の浅はかさへの戒めと感じることでもありました。

    仕事の片手間に公開されておられるため、原則見学は土曜日の15:00~と日祝日とされておられますが、必ず電話確認を入れて貰いたいとのことでした。時と場合によっては応相談ということもあるそうです。公立や団体の資料館にも寄付されている多くの出土品は何時間掛けても完全網羅ということは絶対にありません。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    空港から車で15分ほどです。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    無料です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    個別対応をされておられるので訪れたときはひとりでした。
    展示内容:
    5.0
    とりあえず出土品の多さに度肝を抜かれました。
    バリアフリー:
    3.0
    普通の民家ゆえ段差はあります。

  • 火の国といえば…わかりますね。【火乃国之塔】

    投稿日 2016年06月14日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    糸満市摩文仁の丘慰霊碑群の中腹に位置する火乃国之塔は、熊本県のご出身で沖縄戦戦没者1,476名、南方諸地域その他戦没者533名を合祀し、昭和38(1963)年5月5日に建立された都道府県別慰霊塔のひとつです。

    付近一帯に建立された慰霊塔は、多くが地元産の?石?を用いていることに対し、火乃国之塔は有田焼の磁器を用い、将来的な台風被害及び潮害を考慮されています。塔の命名は一般公募によって選ばれ、塔正面にその題字が刻まれています。その下には熊本県ご出身の安永蕗子女史の弔歌?花きよき列島まもり逝きたりと嘆けば炎ゆる緋の仏桑華?が刻まれています。

    塔側面には2,009名の戦没者のお名前が、また台座には熊本県を代表する銀杏の葉型が刻まれており、トータルで故郷を遠く離れた場所で亡くなられた将兵他の御霊を慰めるべく建立したとの謂れが書かれていました。

    付近一帯の慰霊塔は塔そのものには題字が書かれているだけで、その由来や建立の経緯については別の碑板に刻まれているものが多く、その慰霊塔だけの写真ではわからないものですが、この火乃国之塔は塔を囲んでいる副碑にしっかりと書かれておりすぐにわかるものになっています。推測ではあるもののこの碑を建立された熊本県遺族会は戦後70余年経った現在でも、積極的な活動をされておられる遺族会のうちのひとつであり、その活動の模様は遺族会のHPで窺い知ることができます。

    また昭和41(1966)年7月11日にパプアニューギニアのブーゲンビル島(その他周辺諸島を含む)に?民間?での遺骨収集へ向かった?全国初のケース?を行っており、それに同行された沖縄戦遺族会のメンバーの方々が収集された3,600余名のご遺骨が、摩文仁の丘慰霊碑群にある?奥津城?に一部収められています。

    その活動の原動力となっている火乃国之塔であるとは思いますが、訪れた平成28(2016)年4月17日は、数日前に熊本で大地震があったこともあり、どうしてもその模様と被ってしまうところがありました。場違いな思いなのかも知れませんが、慰霊塔に手を合わせ?安らかに?との想いと?熊本のいち早い復興?を願ったのは私だけではなく、多くの方々の想いだろう…とふと感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩35分。園内周遊利用が便利です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた時はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    敷石はしかれていますが、塔までは二つの会談があります。
    見ごたえ:
    5.0
    なにもかもがはっきりと刻まれています。

  • 日本放送協会(NHK)の戦没者を祀る慰霊碑。【沖縄放送局戦没職員慰霊碑】

    投稿日 2016年06月13日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:4.0

    昭和17(1942)年首里に沖縄放送局ラジオ放送が開局し、歴史が始まりました。しかし昭和20(1945)年3月23日、米軍艦載機のロケット弾が放送室・演奏室に被弾し、放送機が破壊されてしまったため放送局としての機能を停止します。それに伴い沖縄放送局は解散し、局長以下10名の?技術課職員?は軍通信隊隷下にはいり送信機の保守・操作・保線作業等に従事し、その他11名の?放送・総務課職員?は北部へ避難します。

    沖縄戦に於いて通信網の途絶から部隊間の連絡が取れなくなり、その結果学徒通信隊の少年を伝令に回すことになり、多くの年端もいかない少年が戦死したことは既に知られているものの、ここにNHKのスタッフが関わっていたとは初めて知りました。確かに無線装置と放送器具は似ているところもあれど、そういう風なやり方があったとは初耳でした。

    結果地上戦にて5名が即死、2名が重傷だったものの戦後まもなく亡くなったそうです。その7名の職員の御霊を慰めるべく昭和39(1964)年5月に建立されたものがこの?沖縄放送局戦没職員慰霊碑?となります。

    公的放送機関としてNHKの放送概念には良く思わない方も多くいらっしゃいます。ある意味私もその一人かも知れません。しかし時代の流れでこのように戦争に参加せざるをえなかった背景には、やはり思想的に出てくることもあるように思います。そのような歴史があったという事実を知るためには、訪れて損はない場所だと思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れたときはどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    足元は良くなっています。
    見ごたえ:
    4.0
    碑文を読んで考えました。

  • 磐梯山を模っています。【ふくしまの塔】

    投稿日 2016年06月13日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    糸満市摩文仁の丘慰霊碑群の頂上手前にある?ふくしまの塔?は、福島県所縁の沖縄戦戦没者942名、南方諸地域戦没者23,947名、その他地域戦没者41,415名の66,304名を合祀し昭和41(1966)年10月26日に建立された都道府県別慰霊碑のひとつです。

    主碑には県下の霊峰磐梯山をモチーフとして模られていますが、当時設計を担当された方はいくつかあった候補の中のひとつとして挙がっていたに過ぎなかったと語っておられます。何度も建立地を訪れて案を練られた結果、最も相応しいものとして原案が採用されました。

    故郷を遠く離れて亡くなられた福島県所縁の戦没者を慰めるにはやはり故郷の清石だということは譲れないことであったようで、主碑にはその清石を用い、その八方には異郷の戦場をしのぶ遥拝所を配したものとなっています。

    主碑には戦没者を、そしてその周りには異郷の戦場という配置はいくつかの慰霊塔で見受けることはできるものですが、その表現の仕方にはそれぞれの個性が見られ、興味深いものがありました。その中で磐梯山を取り上げることは、逆に観光客の方が福島といえば…という答えが出てき易いもののようにも思えます。

    建立の謂れが刻まれている由来碑にはその部分が書かれています。考え方は同じでもその表現の仕方は個々で異なることがわかる碑ゆえ、所縁がなくても訪れてみる価値はあるように思えました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた際はどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    碑に上がるには階段があります。
    見ごたえ:
    5.0
    主碑を見れば一見して福島のものだとわかります。

  • 長野県のご出身で先の大戦に於ける戦没者を祀っています。【信濃の塔】

    投稿日 2016年06月13日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    糸満市摩文仁の丘慰霊碑群の中腹にある信濃の塔は、沖縄戦戦没者1,294名中部南太平洋諸地域戦没者21,811名とその他諸地域戦没者32,300名の55,405名が合祀され、昭和39(1964)年4月1日に建立された都府県別慰霊塔のひとつです。戦没者のみを祀る都道府県別慰霊塔の中で、その他地域として開拓のため満州などへ渡って亡くなられた方々を合祀していることを明記している数少ない塔のひとつです。

    碑文の記載にも多くのことが刻まれており、碑の建立に関する?遥かなる信濃の故山清流より選ばれた銘石に想いを寄せられ、ここ摩文仁の景勝において、波の楽音に守られながら共にふるさとを語り合われんことを希う。心を鎮め、はるかなる彼方を望み、なつかしくもまた哀しき諸霊の冥福を祈る。?と?故郷を遠く離れ北漠に北斗を仰ぎ、南溟は十字の星陰のもと、東は太平洋の海原の崖、西は印度洋の波打つ限りの諸地域に於いて苛烈なる死闘を繰り返し、また言語に絶する気象風土等の悪条件下に於いて再び家郷に帰らず?の碑文に関しては戦争というものを知らない世代に対して、劣悪な環境のもと東西南北の広い範囲で戦いを繰り広げられたことをストレートに伝えているように感じました。

    碑を単独で見る限りそれ程特徴のあるものではありませんが、この碑文の構成には?いかにしてその惨劇?を表現するかの意図がすごく明確にされているように感じます。所縁のない都道府県別慰霊塔を訪れることはされない方も多いとは聞いていますが、碑に纏わる碑文には特異的なものも多くあり、その表現を見ていくことも興味深いことだと思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩25分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた時はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    敷石は敷かれています。
    見ごたえ:
    5.0
    碑文を読んで下さい。

  • 石川県所縁の将兵の御霊を祀っています。【黒百合の塔】

    投稿日 2016年06月13日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の頂上手前にある?黒百合の塔?は、石川県ご出身で第二次世界大戦に於ける沖縄戦戦没者901名と南方諸地域戦没者168名の1,069名を合祀し、昭和37(1962)年11月7日に建立された都道府県別慰霊碑のひとつです。

    石川県の霊峰白山に咲く高山植物?黒百合?から命名されたこの黒百合の塔、昭和37(1962)年5月に石川県町村議会議長会一行の沖縄視察同地で県出身者の戦没者慰霊式を挙行したことをきっかけとして戦没者慰霊塔の建設が提起されました。他の都道府県別慰霊塔は建立の声が出てから時間が掛かっているものが多い中で、この黒百合の塔は約半年で完成しています。

    短期間で提起から建立までが終わったことも関係するのか、慰霊塔の造りには少し粗っぽいところが見られるように思いました。石川県と書かれた石碑の隣にある?建立の由来?は、手書き感が溢れていました。とはいえ粗っぽい造りゆえ手を抜いているのではなく、むしろ他の慰霊碑にはない特徴を出しており、それが参拝者の目を惹くひとつの理由になっているのかも知れません。

    慰霊塔正面には壕がありました。これがどんなものなのかは由来が書かれていないためわかりませんでしたが、やはり慰霊塔の敷地内にあることからなにがしらのゆかりのあるもののようにも思えます。決して広くはない敷地内にあるものの数々にはやはり慰霊の想いを感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩25分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた際はどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    塔へ上がるには階段があります。
    見ごたえ:
    5.0
    シンプルですが内容は濃いように思います。

  • 碑文に終わらない戦争を窺い知ることができます。

    投稿日 2016年06月13日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の頂上付近にある?樺太の碑?は、樺太ご出身の沖縄戦戦没者2,000余名を祀って昭和62(1987)年7月に建立されました。

    樺太ご出身者は北海道旭川にて設立された第24師団第89連隊やその他部隊に配属されますが、多くは史上稀に見る地上戦が行われた沖縄の地で玉砕されました。都道府県別慰霊塔として北海道の?北霊碑?は米須霊域に建立はされているものの、樺太所縁の戦没者は合祀されるのかどうかという問題もあったようで、結果として摩文仁の丘に?個人の手?によって建立されました。

    決して大きくはなく、また際立った特徴もないためそれ程目立つものではありませんが、この樺太の塔建立碑文にはまだ終わらぬ戦争が書かれていました。戦後40年の月日が過ぎようとする中でやっと建立に至った経緯には、どうしても故郷樺太に慰霊塔を建立できなかったことが書かれています。もうひとつの?熾烈な地上戦?に挙げられる戦後の樺太戦に於いて、樺太島自体がソ連に占領されたことに起因します。つまり故郷がなくなってしまったということになります。

    戦争により外地に於いて植民地化支配をしたことは日本軍もやったことには間違いありません。そして敗戦を機に解放され、現在では独立国家となっているのが事実です。しかしこれには過程があり、ポツダム宣言の受諾によって無条件降伏を受け入れた日本は、GHQより植民地支配していた外地の領土の政治的・行政的権限の行使の中止を通告されます。結果として日本の植民地となっていたエリアは解放されるものの、その後昭和27(1952)年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で?連合国と日本の戦闘状態の終結?と?国民主権の回復?が決定され、同時に?領土の放棄または信託統治への移管?が宣言される中で、講和条約にサインしなかったソ連には講和条約に定める?領土の放棄?が該当しないという説があります。つまり日本は(南)樺太の?全ての権利、権原及び請求権?を放棄したもののそれに対しソ連が?調印しなかったこと?により、所有権そのものが今なお宙に浮いている状態であるという解釈です。

    領土問題について今は語る場所ではないので割愛しますが、本来なら故郷に建立されるべき慰霊塔が諸々の理由によって不可能であり、現在の地に決められたとの経緯には、やはり戦争によって翻弄された戦没者が40余年経った建立された時代にも安住の場所が決まらなかった?時代背景?があるように思えました。碑の造りはともかく、今なお続く戦争の影を伝える貴重な慰霊塔ひとつのように思えました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩35分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた時間はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    参道は砂利敷きです。
    見ごたえ:
    5.0
    碑文に惹かれました。

  • 最初はなぜこんな造りなのかと感じます。

    投稿日 2016年06月13日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘を登り切った場所付近にある?安らかに?は、鹿児島県のご出身で沖縄戦で亡くなられた戦没者と富山丸事件での犠牲者を合わせた2,582名を合祀した都道府県別慰霊塔のひとつで昭和39(1964)年11月21日に建立されました。

    塔名である?安らかに?は公募で寄せられた一高校生の当選作を採用し、主碑は鹿児島の古い言葉の?人をもって城となす?から飾り気のない質実剛健な気風を具現し、それに高千穂峰から採取された霊石を埋め込むことによって、永遠に安らかにと祈る気持ちを表しています。

    この?安らかに?の碑をぱっと見ると、なぜ割れた石を繋ぐようにしたのか?不思議な感じがします。しかしこれにも抽象化した?願い?が込められており、戦争の惨禍によってお互いがずたずたに切り離されても、故郷を遠く離れて亡くなられた戦没者と後に残った県民の間には断つことのできない絆があることを表現しているとのことでした。

    一説にはこの?安らかに?の慰霊塔の建立場所には、鹿児島県ご出身の第32軍司令官牛島満大将の影響だと言う方もおられます。本当かどうかは定かではないものの、立地よりその表現するものをとりたいと思います。斬新なデザインゆえ賛否両論はあるようにも思えますが、なしつぶての理由ではなく、碑文にも書かれているその想いにしばらく碑を見つめながらしばらく考え込んでいた私がいました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場より徒歩35分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れたときはどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    参道はタイルが敷かれています。
    見ごたえ:
    5.0
    意味深な塔の形に見惚れました。

  • 山口県ご出身の戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月12日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘中腹部に位置する防長英霊の塔は、山口県のご出身で沖縄戦戦没者1,043名を御霊を祀る目的で昭和41(1966)年11月6日に建立されました。その後昭和51(1976)年の塔建立10周年を迎えるにあたり、南方諸地域で戦没された23,404名の御霊を合祀し、合わせて24,447名の御霊を祀って現在に至ります。

    この防長英霊の塔には、細かな戦地の様子が書かれており、南方諸地域では?本土から補給が途絶え弾薬も尽き悪疫と闘いながら勇戦奮闘されて散華された?と。また沖縄戦では?本土防衛の第一線となり、昭和20年3月25日以降80余日にわたり凄惨苛烈な戦が続けられ、その結果沖縄の大半は焦土と化し、軍人軍属をはじめ一般住民の方々22万名(本県出身者1,043名)が尊い犠牲となられた?との碑文にありました。これは改修されたときに碑文を一部変えられたのだろうとは思います。沖縄戦に於いて沖縄県民の犠牲について記述しているものはないと聞いていたので。

    校倉造りを取り入れられたことには、あまり山口県とは結びつかないようにも思えます。しかし塔内にはご遺族の心が託された愛情あふれる郷土の霊石・遺品が納められ、それも含めて一体化している防長英霊の塔には、やはり戦没者をいにしえよりの校倉造りの塔に祀り、そして敬うという気持ちが間違いなく一観光客にも伝わってきました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場より徒歩20分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れたときはどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    参道は地道です。
    見ごたえ:
    5.0
    校倉造りの慰霊塔は目を惹きます。

  • 佐賀県ご出身の戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月12日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の中腹に位置するはがくれの塔は、佐賀県ご出身の沖縄戦戦没者914名を含む南方諸地域戦没者28,000余名を祀る都道府県別慰霊塔のひとつで、昭和40(1965)年10月17日に建立されました。

    塔名の?はがくれ?は江戸時代、佐賀鍋島藩の武士の修養書「葉隠」にちなんだものから名付けられています。塔の命名には想いを感じさせますが、塔の作りは地物産の名石を用いているものの至ってシンプルな作りとなっています。

    数多くの慰霊塔が立ち並ぶ中で、このシンプルさゆえ記憶に残るものとなっています。凝った作りだけが脳じゃないことを示している・・・そんな風に感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩25分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    訪れた時間にはどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    足元は地道です。
    見ごたえ:
    5.0
    シンプルイズベストの作りに目を惹かれます。

  • 長崎県ご出身の戦没者35,000余名を祀っています。

    投稿日 2016年06月12日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の中央付近に位置する?鎮魂 長崎の碑?は、沖縄戦1,594名を含む第二次世界大戦で戦没された長崎県ご出身の35,000余名を祀って昭和41(1966)年9月に建立された都道府県慰霊塔のひとつです。

    碑石は長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現西海市)雷の浦の蛇紋石を沖縄産の礎石の上に建立されており、遺族から提供を受けた35,000余りの霊石を礎として作られています。

    見た感じ少し碑石が浮いているように見えましたがこれには謂れがあり、故郷を離れて戦没された御霊を慰めるように、長崎県の方向、そして故郷への思慕の気持ちを表現していると書かれていました。

    参拝者の便宜を図っての造りではないでしょうが、都道府県別慰霊塔の中では歴史あるものの分類に入るものの、アワ石コンクリートを敷き詰めた参道は、ご遺族の高齢化を見越して作られているようにも見えました。ただせっかくならば階段ではなくスロープをつけて頂いた方が余計にバリアフリー化できたように思います。

    長崎は沖縄とは違う理由で多くの犠牲者を出したところであり、なかなか戦没者という線引きが難しいことはあるように思います。そのためかなんとなくしっくりとこない気持ちになったことが少し残念に思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩25分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    この時間はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    塔に上がるには階段がありました。
    見ごたえ:
    5.0
    主碑の傾きが目に付きます。

  • しづたまの碑とは…。

    投稿日 2016年06月11日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の頂上手前に位置するしづたまの碑。この建立由来文を見て改めて沖縄の戦いの熾烈さを思い知りました。人が住んでいる地域での史上稀に見る地上戦であった沖縄戦ゆえ、地域に住まわれていた住民の中には戦火により一家全滅の悲劇に見舞われた家族がおられたことは、今までの歩き回りの中でも取り上げられているものもあり、知ってはいたものの、それが留守宅の問題であるとは考えてもいませんでした。つまり戦地となった沖縄や外地にて兵士軍属としての戦没者に加えて留守宅の家族が戦火に見舞われたことにより、後から一家全滅とわかった事実…。その一家全滅した犠牲者の鎮魂を目的として作られたものがこの?しづたまの碑?となります。鎮魂とかいて?しづたま?と呼ぶこの碑は那覇市のくろしお会館敷地内に昭和44(1969)年6月17日に沖縄県遺族連合会の手によって建立されました。しかし建立地が那覇広域都市計画事業壷川土地区画整理事業施行区内に設定されてしまい移転を余儀なくされました。そこでこの摩文仁の丘へと移転し現在に至っています。

    しづたまの碑に祀られている一家全滅の悲劇にあった家族は、約380家族1,500名余りとされています。今まで色々な慰霊碑や慰霊塔を見てきました。その多くはやはり家族など身内の働きかけがあって建立に至っているものが多い中で、この?しづたまの碑?の場合は、下手をすると血縁者全てが亡くなられたことも考えられます。しかし親戚同然の付き合いをしていた地域の繋がりの強さは、沖縄の素晴らしいところのひとつであり、そういうところから建立された碑である(あって欲しい)ため、余計にその存在感の大きさに圧倒されます。

    慰霊碑の存在感を言うことなど、一部外者である観光客の私が語ることではないと思います。しかしこのしづたまの碑こそ、人の心によって支えられている象徴のようにしか思えなかったことこそ私の?ただひとつの本音?に違いはありません。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場より徒歩30分。園内周遊バス利用が便利です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夕方の時刻にはどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    敷板はひかれています。
    見ごたえ:
    5.0
    建立の謂れを読むだけで圧倒されました。

  • 浦添城跡に民間の手によって建立された慰霊塔に始まります。

    投稿日 2016年06月10日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    愛國知祖之塔は先の大戦に於ける愛知県所縁の南方諸地域戦没者51,000名(うち沖縄戦戦没者2,974名)を合祀した慰霊塔です。当初は昭和37(1962)年に沖縄戦の中でも激戦のひとつとして挙げられる前田の戦いが行われた浦添城跡に愛知県沖縄戦遺族会と愛知県沖縄会の方々の手によって建立されました。その後昭和40(1965)年に愛知県が慰霊塔を譲り受け都道府県別慰霊碑として浦添城跡の隣接地に移転し、周辺の環境整備を行います。その後平成元(1989)年8月に浦添城跡が国の史跡指定を受けて発掘調査が行われることになったため、摩文仁の丘の現区画に移設されることとなり、平成6(1994)年11月に旧慰霊塔の移設と新慰霊塔の建立をされました。

    摩文仁の丘に建立された慰霊塔としては最も新しいものであり、新しいだけあって足元には大理石が敷き詰められ、慰霊塔の隣には戦没された方々の場所や人数がわかるように地図が供えられ、愛國地祖之塔を訪れた方ならばその戦没者が永遠に眠る遥か南の彼方に繋がる海の景色に触れることができます。

    この?愛國地祖之塔?の命名は勿論謂れがあり、当時の愛知県知事が書かれた?この祖ありて今日のわれ等あり この祖に報ゆるは 母國をしていよいよ平和に 益ヽ 繁榮せしむるにあるとの念切なるものがある 県民の總意を血涙をもって書す?という言葉によるものです。どちらかというとすぐにどこのものかがわかる慰霊碑が多い中で、少し変わった感じも受けますが、それは当初から都道府県別慰霊碑が摩文仁や米須等沖縄戦終焉の地に建立されたことに対し、沖縄戦途中の激戦地である浦添を選んだことからもわかります。

    現敷地内から見渡す海は確かに?キレイ?の一言に尽きるものの、それだけに徹していない建立の謂れには他のものとは何か違う印象を受けました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩20分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    この日はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    タイルがひかれています。
    見ごたえ:
    5.0
    南方へとつながる海とそこで亡くなった人数に戦時中を垣間見ることができます。

  • 一番最後に建立された都道府県別慰霊碑です。

    投稿日 2016年06月10日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    新潟県のご出身で先の大戦に於ける沖縄戦戦没者1,117名と南方諸地域戦没者40,843名の41,960名を祀る都道府県別慰霊碑のひとつです。建立は昭和50(1975)年12月28日と都道府県別慰霊碑の中では最も遅く建てられました。

    新潟県は地方都市ながら長岡空襲など県内でも戦争被害が多かったこともあり、本土復帰前の沖縄に新潟県戦没者慰霊碑を建立しても維持管理が困難だとされ、消極的だったという話が残っています。そのため新潟県護国神社内に昭和43(1968)年3月?平和の礎?を建立し、新潟県所縁の戦没者を祀ることになり、沖縄での慰霊碑建立はないものとされていたようです。しかし昭和47(1972)年5月15日に沖縄県として日本に復帰後は観光客も増え、沖縄での慰霊塔建立に向けて意見が出されます。その中で決まった現新潟の塔の建立、昭和50(1975)年12月に参道と慰霊塔が完成し、翌昭和51(1976)年1月に除幕式が執り行われます。そして昭和51(1976)年12月にはすべての付帯構造物及び造園工事等が終了し竣工式が執り行われて現在に至ります。

    最も新しい新潟の塔でしたが、昨年平成27(2015)年建立40年を迎えなにかと施設内の劣化が問題となってきました。県民の戦死地域を記した銅板は読めなくなり、由来文を刻んだ碑もないことから、新潟の塔改築の募金依頼が県内で始まりました。無事改修を終えた新潟の塔には、銅板からチタン板に変わった戦死地域の地図や由来文を刻んだ石碑が建立され、祀られている御霊を慰め参拝客を迎えています。

    私にとっては所縁がある場所ではないものの、ブーム的に都道府県別慰霊塔ができたとばかり思っていたことが少し恥ずかしく思えました。真新しい碑を携えた新潟の塔を訪れ、碑との考え方は複雑だったことを改めて感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩20分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    石板が敷かれていました。
    見ごたえ:
    5.0
    新しい碑板が特に目を引きます。

  • 2回の移転を経験している慰霊塔です。

    投稿日 2016年06月10日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    秋田県ご出身の戦没者を祀る都道府県別慰霊塔のひとつです。沖縄戦戦没者432名と南方諸地域戦没者12,000名を合祀し、昭和32(1957)年1月23日に米須霊域の魂魄之塔前に初代の?千秋の塔?が建立されました。その後都道府県別慰霊塔が立ち並ぶ中、昭和37(1962)年1月30日には二代目?千秋の塔?が黎明之塔前に建立されます。そして昭和59(1984)年12月26日に現在の場所に三代目?千秋の塔?が建立され現在に至っています。

    二代目には石碑には神奈川県産根府川石、台座には男鹿産寒風石が使用されたとの記述があるものの三代目は?平和の鳩?と?黒御影石?との記述しかありません。この移設には言及されたものがないものの建立場所から推測するには?他の慰霊塔とのバッティング?があったのではないかとも思います。

    確かに摩文仁の丘入口から比較的近く、海を眺める場所に建立されている現千秋の塔の立地条件から見ると決して悪い場所ではないとは思うものの、やはり建立時期の遅さを考えると祀られた戦没者の方々も遺族の方々も気が気ではなかったのではないでしょうか。そんな?裏事情?に思いを馳せつつ、秋田藩主佐竹氏由来の?千秋?の名前を付けられた碑に歴史を感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩15分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    地道です。
    見ごたえ:
    5.0
    移転を余儀なくされたその事情に思いを馳せました。

  • 埼玉県ご出身の戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月10日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘海側に位置する埼玉の塔は、埼玉県ご出身の沖縄戦戦没者1,040名と南方諸地域戦没者 26,991名を祀る都道府県別慰霊塔のひとつです。昭和41(1966)年11月25日に建立された慰霊塔ですが、大きく他の慰霊塔と異なるものとして背景に映える7つの鉄像にあると思います。例え戦場で命は絶たれても、その平和を願う精神は植物の世界へとかえり、不断の生命を持つ?草?のように生き続けながら平和な人類社会へと導き、そして想像を呼び掛けている姿勢を抽象化したものだとされています。

    白い背景には、文字にならなかった愛する家族への?白紙の遺書?を表現し、台座を取り巻く造園には埼玉を象徴する?勾玉?が形どっています。塔へと向かう参道には県内から持ち込まれた庭石が配置され、故郷遠く離れて亡くなられた戦没者の御霊を、戦没者遺族や県民と永遠に一体化するという意味合いが込められています。

    見た目の立派さを競い合っている都道府県別慰霊塔とよく言われるものの、他には見られない?抽象的な芸術性?を込められた埼玉の塔は、他のものとは異なる訴えかけを感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩20分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    石板は敷かれているものの階段はあります。
    見ごたえ:
    5.0
    まわりの慰霊塔とは趣が異なります。

  • 大阪府所縁の戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月10日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘中腹にある?なにわの塔?は、昭和40(1965)年4月26日に大阪府のご出身の沖縄戦戦没者2,400余名を祀るため建立されました。その後昭和44(1969)年には?なにわの塔?建立5周年を迎えるにあたり南方諸地域戦没者32,600余名を新たに合祀されました。

    その第一次の改修にあたり奉安所、休憩所、周囲の石積工事等行われ、その後も建立年数のキリがいい年に改修をされて現在に至っています。

    この一次改修の時はまさに大阪万博が翌年に開かれることになっており、これをきっかけに南方諸地域戦没者を合祀しており、碑文にはその流れがわかりやすく書かれています。そして終戦40周年となる昭和60(1985)年には施設内の整備工事と常夜燈の設置、平成4(1997)には外壁の補修と休憩所敷地内のタイル敷き工事、平成6(1999)年には建立30周年にあたり塔本体基礎部分、休憩所、奉安所、正面階段等の大改修工事並びにスロープの設置工事を実施されました。

    大阪万博の太陽の塔の作者岡本太郎氏が都道府県別慰霊塔を「品がない」ものと批評されたことがありました。確かにそのように見える慰霊塔も多くあるものの、戦没者遺族の高齢化により参拝が困難になることを見据えて施設内の工事をしていることは、ただ外見だけの改修工事に留まらず、訪れる戦没者遺族のことを考えてされているように思え、好感が持てました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    どなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    スロープも完備しています。
    見ごたえ:
    5.0
    碑の立派なのはもとより参拝者のことを考えたつくりになっています。

  • 日本軍の秘密兵器として開発されました。

    投稿日 2016年06月09日

    大里の大砲 (加農砲) 知念・玉城・八重瀬

    総合評価:5.0

    ひとことで言うならば大砲になると思います。正式名称は?八九式十五糎加農(はちきゅうしきじゅうごせんちかのん)?といい、1920年代から30年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の加農(加農砲)で、一般的には八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう)と言われていました。
    支那事変(日中戦争)・ノモンハン事件・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力重加農として、独立重砲兵部隊が運用したものであり、開発は昭和4(1929)年(皇紀2589年)10月に正式制定されました。大陸での成果は大きなものがあったようですが、攻城戦向きで機動性が低い重加農の運用自体は戦況の悪化とともに難しくなっていったといわれています。沖縄戦に導入された際は第32軍第5砲兵司令部隷下の独立重砲兵第100大隊が洞窟陣地を利用し、約18kmという射程距離を生かして発射地点を特定されないように不規則砲撃を加えていたそうです。

    しかし沖縄戦の戦況悪化により、発射地点がほぼ特定されるようになると小回りがきかないものゆえ、一発の砲撃によって猛烈な反撃を受けるようになり、大里の平川壕にて運用されていたもののひとつは埋没、ひとつは掘り出されて部隊とともに転戦し、真栄里で独立重砲兵第100大隊が玉砕するまで行動を供にしたそうです。

    この掘り出されて戦線を供にしたものは、米軍資料館や陸自那覇駐屯地で展示された後、靖国神社の遊就館1階玄関ホールで展示されて現在に至っています。そしてこの大里農村環境改善センターに保存されているものは、平成15(2003)年に平川壕の地中より発掘されたものになります。付属の砲架車・ジャッキおよび九四式三十七粍砲の残骸とともに60年近く土の中に埋もれていたものにしては保存状態が良く、そのまま野外展示されていますが、やはりそのまま野晒しになっている現状ではそのうちに鉄屑になってしまうのではないかと危惧します。この加農砲を掘り起こす際に平川壕は破壊され原型をとどめていません。確かに負の遺産である?武器?を残すことには賛否両論があるのはわかるものの、その?負の遺産?を後世に伝えるべく壕を破壊してでも掘り出したのであれば、やはり?保存?という方向での取扱いをしなければいけないのではないでしょうか。

    日本陸軍の秘密兵器として敵国戦車や艦艇を破壊し、兵士を死に至らしめたものではあれど、あまりにも大きな反動によって一発撃つことによって容赦ない反撃を食らい多くの将兵や軍属が亡くなった事実を忘れてはならないと思います。現地を訪れて大里庁舎の受付にてこの加農砲のありかを聞いたときに「知らない」と言う回答が返ってきました。マニアックなのは私なのかも知れません。しかし加農砲展示の由来書きに書かれていることを疑わざるを得ない事実であったのは確かです。そう言う意味でももう少し考えて頂きたいように思いながらその場を後にした私でした。

    旅行時期
    2016年02月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    南城市役所大里庁舎すぐ。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    アスファルトは敷いてあります。
    見ごたえ:
    5.0
    射程距離18kmってどんなものだろう・・・。

  • 県の形を表した慰霊塔です。

    投稿日 2016年06月09日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    岐阜県の塔の隣にある岩手の塔は、第二次世界大戦に於ける岩手県所縁の戦没者34,860名を合祀した都道府県別慰霊塔のひとつです。戦没者の内訳は沖縄戦653名、南方諸地域20,697名、アリューシャン列島等その他13,510名と書かれていました。

    昭和41年10月20日に建立された岩手の塔は、高さ3.7m、幅2m、重さ13tの下閉伊産の硅岩(けいがん)でできており、自然石の武骨な風合いをあえて生かして岩手県の形をモチーフにした意図は、岩手県民の県民性を表現するためだったそうです。

    岩手県という土地柄ヘラヘラしている県民性は伺えないことはわかりますが、それを自然由来のもので表現した慰霊碑には、その碑に込めた?真心?が十分に訪問者に伝わっている・・・そんな風に感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰にも会いませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    地道です。
    見ごたえ:
    5.0
    普通の慰霊塔ですが、形にこだわっていることはわかりました。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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5国・地域渡航

41都道府県訪問

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんにとって旅行とは

非日常生活の出来事を体験できて、日頃の鬱憤を晴らせる場。

自分を客観的にみた第一印象

能ある鷹は爪を隠す♪

大好きな場所

夏は風鈴、冬はイルミネーション。そして6月は沖縄。

大好きな理由

触れ合う人々がすべて暖かく接してくれ、大自然を満喫できる場所に思えるので。

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