日本軍の秘密兵器として開発されました。
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- 旅行時期:2016/02(約8年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
知念・玉城・八重瀬 クチコミ:57件
ひとことで言うならば大砲になると思います。正式名称は?八九式十五糎加農(はちきゅうしきじゅうごせんちかのん)?といい、1920年代から30年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の加農(加農砲)で、一般的には八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう)と言われていました。
支那事変(日中戦争)・ノモンハン事件・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力重加農として、独立重砲兵部隊が運用したものであり、開発は昭和4(1929)年(皇紀2589年)10月に正式制定されました。大陸での成果は大きなものがあったようですが、攻城戦向きで機動性が低い重加農の運用自体は戦況の悪化とともに難しくなっていったといわれています。沖縄戦に導入された際は第32軍第5砲兵司令部隷下の独立重砲兵第100大隊が洞窟陣地を利用し、約18kmという射程距離を生かして発射地点を特定されないように不規則砲撃を加えていたそうです。
しかし沖縄戦の戦況悪化により、発射地点がほぼ特定されるようになると小回りがきかないものゆえ、一発の砲撃によって猛烈な反撃を受けるようになり、大里の平川壕にて運用されていたもののひとつは埋没、ひとつは掘り出されて部隊とともに転戦し、真栄里で独立重砲兵第100大隊が玉砕するまで行動を供にしたそうです。
この掘り出されて戦線を供にしたものは、米軍資料館や陸自那覇駐屯地で展示された後、靖国神社の遊就館1階玄関ホールで展示されて現在に至っています。そしてこの大里農村環境改善センターに保存されているものは、平成15(2003)年に平川壕の地中より発掘されたものになります。付属の砲架車・ジャッキおよび九四式三十七粍砲の残骸とともに60年近く土の中に埋もれていたものにしては保存状態が良く、そのまま野外展示されていますが、やはりそのまま野晒しになっている現状ではそのうちに鉄屑になってしまうのではないかと危惧します。この加農砲を掘り起こす際に平川壕は破壊され原型をとどめていません。確かに負の遺産である?武器?を残すことには賛否両論があるのはわかるものの、その?負の遺産?を後世に伝えるべく壕を破壊してでも掘り出したのであれば、やはり?保存?という方向での取扱いをしなければいけないのではないでしょうか。
日本陸軍の秘密兵器として敵国戦車や艦艇を破壊し、兵士を死に至らしめたものではあれど、あまりにも大きな反動によって一発撃つことによって容赦ない反撃を食らい多くの将兵や軍属が亡くなった事実を忘れてはならないと思います。現地を訪れて大里庁舎の受付にてこの加農砲のありかを聞いたときに「知らない」と言う回答が返ってきました。マニアックなのは私なのかも知れません。しかし加農砲展示の由来書きに書かれていることを疑わざるを得ない事実であったのは確かです。そう言う意味でももう少し考えて頂きたいように思いながらその場を後にした私でした。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 南城市役所大里庁舎すぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- アスファルトは敷いてあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 射程距離18kmってどんなものだろう・・・。
クチコミ投稿日:2016/06/09
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