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【セピア色の思い出:VIP来独に備え、”事前学習”でフランクフルトの町をぐるぐると回り、本番の日を迎えた】                   <br />      <br />”事前学習”の1日目は家族と共に Düsseldorfデュッセルドルフを愛車のメルセデス・ベンツ230で出発し、 =>フランクフルトの手前にあるIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の町に1泊した。                 <br /><br />2日目はFrankfurtフランクフルト駅にスイス・チューリッヒから列車で来独されるVIPの出迎えに使う駐車場、宿泊ホテルや市内の訪問先ルートの確認を行い、さらにフランクフルト郊外にある在フランクフルトの邦銀3行の支店長との昼食会を予定しているGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフへのルートの試走など行った。    <br /><br />勿論当時は今のようにナビも無いから、住所録とMapが頼りで、一方通行の多いフランクフルト市内は少々面倒な町だったから、納得できるまで同じ道を走った。<br />(ただ、VIPの事ゆえ、気ままな指示が出て来るだろうが、その時はその時だと思っていた)  <br /><br />=>その後はRheinライン下りをしながら、デュッセルドルフに戻った。<br /><br />・・・家族を巻き込んだ1泊2日の小旅行でした。 <br /><br />そして、その数日後、VIPフルアテンドの本番を迎えました。<br /><br />以下の旅行記は駐在員のイロハ、”事前学習”=予行練習と、緊張の3日間を過ごした”VIP来独のフルアテンド”の記録です。<br /><br />写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)のHexenturm魔女の塔、Torbogenアーチ付きの楼門。

セピア色の思い出:VIP来独に備え、”事前学習”でフランクフルトの町をぐるぐると回り、本番の日を迎えた。

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1983/07/09 - 1983/07/10

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旅行記グループ セピア色の思い出

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jijidaruma

jijidarumaさん

【セピア色の思い出:VIP来独に備え、”事前学習”でフランクフルトの町をぐるぐると回り、本番の日を迎えた】             
    
”事前学習”の1日目は家族と共に Düsseldorfデュッセルドルフを愛車のメルセデス・ベンツ230で出発し、 =>フランクフルトの手前にあるIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の町に1泊した。    

2日目はFrankfurtフランクフルト駅にスイス・チューリッヒから列車で来独されるVIPの出迎えに使う駐車場、宿泊ホテルや市内の訪問先ルートの確認を行い、さらにフランクフルト郊外にある在フランクフルトの邦銀3行の支店長との昼食会を予定しているGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフへのルートの試走など行った。   

勿論当時は今のようにナビも無いから、住所録とMapが頼りで、一方通行の多いフランクフルト市内は少々面倒な町だったから、納得できるまで同じ道を走った。
(ただ、VIPの事ゆえ、気ままな指示が出て来るだろうが、その時はその時だと思っていた)

=>その後はRheinライン下りをしながら、デュッセルドルフに戻った。

・・・家族を巻き込んだ1泊2日の小旅行でした。

そして、その数日後、VIPフルアテンドの本番を迎えました。

以下の旅行記は駐在員のイロハ、”事前学習”=予行練習と、緊張の3日間を過ごした”VIP来独のフルアテンド”の記録です。

写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)のHexenturm魔女の塔、Torbogenアーチ付きの楼門。

旅行の満足度
5.0
同行者
家族旅行
旅行の手配内容
個別手配
  • 話はちょっとズレますが、まほうのべるさんが先年、ドイツへ1泊3日の旅をされた。「弾丸の如く!」の旅にちょっと驚きましたが、コロナ明けで思いきっての旅はそれでも満足・十分の旅であった様子、何よりでした。<br /><br />その旅で、べるさんが「いの一番」に訪ねたIdsteinイトシュタインの町、私はこの町を日本人が観光目的で選ばれたことに珍しい思いがしたものですが、最近のSNSで見る寄稿の様子では、今は結構人気のある町になったようだ。<br />https://4travel.jp/travelogue/11838980<br /><br />べるさんの旅行記を拝見すると、歴史のある旧市街はなかなか興味深いもので、小さな町の美しい木組み建築の町並み(木組みの家街道に属す)は、ドイツの旅には外せない町かも知れないと思った。<br /><br />最近になって、さつまおごじょさんが北欧とバルト3国の旅をするにあたり、最初に訪れたのがドイツ、しかも、べるさんと示し合わせたように、このIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)でしたから、<ドイツ党>の私自身がその訪問記を少々驚きながら拝読したものです。<br />https://4travel.jp/travelogue/11926801<br /><br />まほうのべるさんの<ドイツへ1泊3日の旅、弾丸の如く!(2023年7月)>を拝見してからもう2年以上の時が経ちました。<br />実はこの旅に触発されて、本編を書きだしたものの、古い話ですから資料を見つけるのに時間が経過し、なかなか投稿まで行かずに、下書き(原稿)のままにしていました。<br /><br />新たに2024年、さつまおごじょさんがご投稿されたので、これはいかん!何とか完成しようと、老骨にムチを入れたのです(苦笑)。<br /><br />写真は手持ちの観光本Touring Atlasツーリング・アトラス ’77~78 表紙・・・ライン川と有名な古城群

    話はちょっとズレますが、まほうのべるさんが先年、ドイツへ1泊3日の旅をされた。「弾丸の如く!」の旅にちょっと驚きましたが、コロナ明けで思いきっての旅はそれでも満足・十分の旅であった様子、何よりでした。

    その旅で、べるさんが「いの一番」に訪ねたIdsteinイトシュタインの町、私はこの町を日本人が観光目的で選ばれたことに珍しい思いがしたものですが、最近のSNSで見る寄稿の様子では、今は結構人気のある町になったようだ。
    https://4travel.jp/travelogue/11838980

    べるさんの旅行記を拝見すると、歴史のある旧市街はなかなか興味深いもので、小さな町の美しい木組み建築の町並み(木組みの家街道に属す)は、ドイツの旅には外せない町かも知れないと思った。

    最近になって、さつまおごじょさんが北欧とバルト3国の旅をするにあたり、最初に訪れたのがドイツ、しかも、べるさんと示し合わせたように、このIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)でしたから、<ドイツ党>の私自身がその訪問記を少々驚きながら拝読したものです。
    https://4travel.jp/travelogue/11926801

    まほうのべるさんの<ドイツへ1泊3日の旅、弾丸の如く!(2023年7月)>を拝見してからもう2年以上の時が経ちました。
    実はこの旅に触発されて、本編を書きだしたものの、古い話ですから資料を見つけるのに時間が経過し、なかなか投稿まで行かずに、下書き(原稿)のままにしていました。

    新たに2024年、さつまおごじょさんがご投稿されたので、これはいかん!何とか完成しようと、老骨にムチを入れたのです(苦笑)。

    写真は手持ちの観光本Touring Atlasツーリング・アトラス ’77~78 表紙・・・ライン川と有名な古城群

  • Idsteinイトシュタインは、ドイツの旅で常用する、私の持つ古いドイツの観光本Aral Auto Buchアラル・オート観光案内書(1974・75年版=650頁)には全く掲載が無い。<br /><br />ただ、別のドイツ観光街道(総数150ルート以上があるとか)を中心に纏めた観光本Touring Atlas Buchツーリング・アトラス観光案内書(1977・78年版=248頁+町村名の索引など100頁以上)には「TaunusrouteタウヌスルートのHochtaunusstrasse高タウヌス街道(写真参照)」として掲載されていました。<br />そのページではIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の町の説明と共に、白い壁のRathaus庁舎、Torbogenアーチ付きの楼門の写真が見えます。<br /><br />時代を感じますが、べるさんやさつまおごじょさんの写真(木組みの家並み)の様な色彩豊かな、美しい建物群はなく、町の中心にある庁舎の壁もオレンジ色ではない地味な真っ白でした。<br /><br />例えば、Land Nordrhein-Westfalenノルトライン・ヴェストファーレン州の州都 Düsseldorfデュッセルドルフから南下するアウトバーンNo.3に乗れば、<br />・・・と言っても個々の町の詳細説明はなく、タウヌス地方の町々を街道の観光地として写真付きで掲載し、総括的な地域の美しさ、自然と水の恵み、保養地として魅力だけでなく、フランクフルトという大都市に近い住宅地としても推奨しているのですが・・・。人口25千人。<br /><br />写真は観光本Touring  Atlasツーリング・アトラス ’77~78・・・Taunus Routeタウヌス ・ルート 

    Idsteinイトシュタインは、ドイツの旅で常用する、私の持つ古いドイツの観光本Aral Auto Buchアラル・オート観光案内書(1974・75年版=650頁)には全く掲載が無い。

    ただ、別のドイツ観光街道(総数150ルート以上があるとか)を中心に纏めた観光本Touring Atlas Buchツーリング・アトラス観光案内書(1977・78年版=248頁+町村名の索引など100頁以上)には「TaunusrouteタウヌスルートのHochtaunusstrasse高タウヌス街道(写真参照)」として掲載されていました。
    そのページではIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の町の説明と共に、白い壁のRathaus庁舎、Torbogenアーチ付きの楼門の写真が見えます。

    時代を感じますが、べるさんやさつまおごじょさんの写真(木組みの家並み)の様な色彩豊かな、美しい建物群はなく、町の中心にある庁舎の壁もオレンジ色ではない地味な真っ白でした。

    例えば、Land Nordrhein-Westfalenノルトライン・ヴェストファーレン州の州都 Düsseldorfデュッセルドルフから南下するアウトバーンNo.3に乗れば、
    ・・・と言っても個々の町の詳細説明はなく、タウヌス地方の町々を街道の観光地として写真付きで掲載し、総括的な地域の美しさ、自然と水の恵み、保養地として魅力だけでなく、フランクフルトという大都市に近い住宅地としても推奨しているのですが・・・。人口25千人。

    写真は観光本Touring Atlasツーリング・アトラス ’77~78・・・Taunus Routeタウヌス ・ルート 

  • フランクフルト近郊のタウヌス地方には珠玉のような町々があり、素晴らしいです。この一帯を訪れる日本人観光客は、かつては殆どいなかった覚えがありますが、また訪れる際の参考に、以下を書き加えておきましょう。<br /><br />Kronberg im Taunusクロンベルク・イム・タウヌス、<br />Bad Homburg vor der Höheバート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ、<br />Eppsteinエップシュタイン、<br />Kelkheim (Taunus)ケルクハイム、<br />Königstein im Taunusケーニヒシュタイン・イム・タウヌス、<br />Frankfurt-Höchstフランクフルト・ヘキスト(=ヘーヒスト)<br />などです。<br /><br />写真は観光本Touring  Atlasツーリング・アトラス ’77~78・・・タウヌス ・ルート <br />

    フランクフルト近郊のタウヌス地方には珠玉のような町々があり、素晴らしいです。この一帯を訪れる日本人観光客は、かつては殆どいなかった覚えがありますが、また訪れる際の参考に、以下を書き加えておきましょう。

    Kronberg im Taunusクロンベルク・イム・タウヌス、
    Bad Homburg vor der Höheバート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ、
    Eppsteinエップシュタイン、
    Kelkheim (Taunus)ケルクハイム、
    Königstein im Taunusケーニヒシュタイン・イム・タウヌス、
    Frankfurt-Höchstフランクフルト・ヘキスト(=ヘーヒスト)
    などです。

    写真は観光本Touring Atlasツーリング・アトラス ’77~78・・・タウヌス ・ルート 

  • さて、イトシュタインは最初の文献記録(1102年に Etichensteinエチシェンシュタイン という表記で初めて文献に記録された)から1721年までGraf von Nassau-Idsteinナッサウ・イトシュタイン伯爵および他のナッサウ家の宮廷都市であったと云うから、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。<br /><br />「Haus Nassauナッサウ家」はライン川の中流、ナッサウに12世紀終わり頃に勃興したライン地方の貴族、君主の家系で、1代限りながら神聖ローマ帝国の君主Adolf von Nassau皇帝アドルフ(ローマ王:1250年~1298年)を出している。<br /><br />更に言えば、現在のオランダ王家であるHuis Oranje-Nassauオラニエ・ナッサウ家、ルクセンブルク大公家であるNassau-Weilburgナッサウ・ヴァイルブルク家はともに同家の流れをくんでいる。<br /><br />参考写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス):1655年に出版されたマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたイトシュタインです・・・中央に高々とHexenturm魔女の塔が見え、右手にSchloss城(Haus Nassauナッサウ家の城)に堀割というか水城の様子が見てとれる。<br />

    さて、イトシュタインは最初の文献記録(1102年に Etichensteinエチシェンシュタイン という表記で初めて文献に記録された)から1721年までGraf von Nassau-Idsteinナッサウ・イトシュタイン伯爵および他のナッサウ家の宮廷都市であったと云うから、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。

    「Haus Nassauナッサウ家」はライン川の中流、ナッサウに12世紀終わり頃に勃興したライン地方の貴族、君主の家系で、1代限りながら神聖ローマ帝国の君主Adolf von Nassau皇帝アドルフ(ローマ王:1250年~1298年)を出している。

    更に言えば、現在のオランダ王家であるHuis Oranje-Nassauオラニエ・ナッサウ家、ルクセンブルク大公家であるNassau-Weilburgナッサウ・ヴァイルブルク家はともに同家の流れをくんでいる。

    参考写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス):1655年に出版されたマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたイトシュタインです・・・中央に高々とHexenturm魔女の塔が見え、右手にSchloss城(Haus Nassauナッサウ家の城)に堀割というか水城の様子が見てとれる。

  • そういえば、これまたちょっと話が飛ぶのですが、ナッサウ家とオランダ王家の話を思い出した。<br />2016年の秋にライン、モーゼル、アール、ミュンスターラントの水城を巡った時、ミュンスターから西に86kmの距離にある町Bad Bentheimバート・ベントハイムを訪れた。<br /><br />もうオランダ国境にも近い場所で、北西ドイツ地域で最大と云われるHöhenburg平山城(要塞)である「Burg Bentheimベントハイム城」を見学した。<br />ベントハイム城はオランダ国境に10kmの距離にあるので、街中の家々もヴェストファーレン風というのか、オランダの色合いも見えた。<br /><br />ベントハイム城の城主はFürsten zu Bentheim und Steinfurtベントハイム・シュタインフルト侯爵で、城内2階に賓客用Schlafgemach寝室があり、夏の離宮風に1901年、ネオロココ様式の客室に改装されていた。とりわけ、天蓋、ベッド、椅子、戸棚、鏡等々の家具は見事な雰囲気がある。<br />ここでの最高位の賓客は<オランダ王家のEmmaエンマ王妃>でした。王妃は死ぬ1934年まで、度々この地で夏を過ごしたと云う。<br />ベントハイム・シュタインフルト侯爵家とオランダ王家がたいへん親しい関係であったのは次の理由によるものだった。<br /><br />エンマ王妃(1858~1934年)はEmma von Waldeck-Pyrmontエンマ・ヴァルデック・ピルモントといい、ドイツのヴァルデック侯国(首都はBad Arolsenバート・アーロルゼン) の王女でした。オランダ王兼ルクセンブルク大公ウィレム3世の2度目の王妃となり、夫の没後、王太后としてオランダの摂政(在位:1890~1898年)を務めた。<br />エンマ王妃の姉Paulineパウリーネが、ベントハイム・シュタインフルト侯爵アレクシス2世と結婚していたから気軽に、訪問されたのだろう。<br /><br />参考写真はBurg Bentheimベントハイム城の俯瞰(2016年の秋)<br /><br />・・・・・・・・・・・・<br /><br />先年のべるさんの旅行記を拝見し、セピア色した思い出がよみがえりました。<br />いつもなら、家内が詳細な行程などを記載していますが、今回はアルバムの付記ぐらいで、色々と思い出しながら、当時のアルバムとイトシュタイン(タウヌス)の資料をスキャンして、記録を再現してみました。<br />

    そういえば、これまたちょっと話が飛ぶのですが、ナッサウ家とオランダ王家の話を思い出した。
    2016年の秋にライン、モーゼル、アール、ミュンスターラントの水城を巡った時、ミュンスターから西に86kmの距離にある町Bad Bentheimバート・ベントハイムを訪れた。

    もうオランダ国境にも近い場所で、北西ドイツ地域で最大と云われるHöhenburg平山城(要塞)である「Burg Bentheimベントハイム城」を見学した。
    ベントハイム城はオランダ国境に10kmの距離にあるので、街中の家々もヴェストファーレン風というのか、オランダの色合いも見えた。

    ベントハイム城の城主はFürsten zu Bentheim und Steinfurtベントハイム・シュタインフルト侯爵で、城内2階に賓客用Schlafgemach寝室があり、夏の離宮風に1901年、ネオロココ様式の客室に改装されていた。とりわけ、天蓋、ベッド、椅子、戸棚、鏡等々の家具は見事な雰囲気がある。
    ここでの最高位の賓客は<オランダ王家のEmmaエンマ王妃>でした。王妃は死ぬ1934年まで、度々この地で夏を過ごしたと云う。
    ベントハイム・シュタインフルト侯爵家とオランダ王家がたいへん親しい関係であったのは次の理由によるものだった。

    エンマ王妃(1858~1934年)はEmma von Waldeck-Pyrmontエンマ・ヴァルデック・ピルモントといい、ドイツのヴァルデック侯国(首都はBad Arolsenバート・アーロルゼン) の王女でした。オランダ王兼ルクセンブルク大公ウィレム3世の2度目の王妃となり、夫の没後、王太后としてオランダの摂政(在位:1890~1898年)を務めた。
    エンマ王妃の姉Paulineパウリーネが、ベントハイム・シュタインフルト侯爵アレクシス2世と結婚していたから気軽に、訪問されたのだろう。

    参考写真はBurg Bentheimベントハイム城の俯瞰(2016年の秋)

    ・・・・・・・・・・・・

    先年のべるさんの旅行記を拝見し、セピア色した思い出がよみがえりました。
    いつもなら、家内が詳細な行程などを記載していますが、今回はアルバムの付記ぐらいで、色々と思い出しながら、当時のアルバムとイトシュタイン(タウヌス)の資料をスキャンして、記録を再現してみました。

  • 【セピア色した思い出:VIP来独に備えて、”事前学習”でフランクフルトの町をぐるぐると回り、本番の日を迎えた】<br /><br />”事前学習”の1泊2日の小旅行、1983年7月9日(土)~10日(日)の1日目は家族と共に Düsseldorfデュッセルドルフを愛車のメルセデス・ベンツ230で出発し、<br />=>フランクフルトの手前38kmにあるIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の町に1泊して、夕闇が迫る旧市街を巡った。<br /><br />写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス):右上から時計回りで、イトシュタインのSchloss城=イトシュタイン宮殿に向かう橋のたもと、旧市街の木組み建築の町並み、Hexenturm魔女の塔

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    【セピア色した思い出:VIP来独に備えて、”事前学習”でフランクフルトの町をぐるぐると回り、本番の日を迎えた】

    ”事前学習”の1泊2日の小旅行、1983年7月9日(土)~10日(日)の1日目は家族と共に Düsseldorfデュッセルドルフを愛車のメルセデス・ベンツ230で出発し、
    =>フランクフルトの手前38kmにあるIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の町に1泊して、夕闇が迫る旧市街を巡った。

    写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス):右上から時計回りで、イトシュタインのSchloss城=イトシュタイン宮殿に向かう橋のたもと、旧市街の木組み建築の町並み、Hexenturm魔女の塔

    イトシュタイン旧市街(Idsteiner Altstadt) 散歩・街歩き

  • 2016年10月に、イトシュタインは「Hochschulstadt ホーホシュールシュタット」(大学都市にはHochschule Fresenius・・・1848年創立、私立でドイツ各地に校舎を持ち、現在の学生数は17千人・・・、Volkshochschule Rheingau-Taunus)の肩書きを得ている。<br /><br />訪れた当時はこの町にHochschulという大学めいたものがあるとは知らなかった。<br /><br />写真は イトシュタイン(タウヌス):イトシュタイン宮殿に向かう橋のたもとで、次女に撮ってもらった一枚だがピントが微妙に・・・。

    2016年10月に、イトシュタインは「Hochschulstadt ホーホシュールシュタット」(大学都市にはHochschule Fresenius・・・1848年創立、私立でドイツ各地に校舎を持ち、現在の学生数は17千人・・・、Volkshochschule Rheingau-Taunus)の肩書きを得ている。

    訪れた当時はこの町にHochschulという大学めいたものがあるとは知らなかった。

    写真は イトシュタイン(タウヌス):イトシュタイン宮殿に向かう橋のたもとで、次女に撮ってもらった一枚だがピントが微妙に・・・。

  • König Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)庁舎の建物、魔女の塔、石造りの土台に木組みが乗っかるお城のような建物(*アーチ付きの楼門)が並ぶ風景はなかなか重厚な景色だ。<br />*Torbogenトアーボーゲン(楼門)は旧市街(手前)と城塞地区(奥)とを分ける門である。<br />多くの歴史的建造物が、第二次世界大戦の戦禍を免れたと云うから、この町はツイテいる。<br /><br />ケーニヒ・アドルフ・プラッツはかつてナッサウ家から輩出された唯一の神聖ローマ皇帝アドルフに因んで名づけられたと云う。<br />周辺一帯を見事な装飾が施された木組みの家並みが囲んで、町一番の美しい広場になっている。<br /><br />写真は イトシュタイン(タウヌス):左からKönig Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)Rathaus庁舎、Torbogenトアーボーゲン(アーチ付きの楼門)の2枚

    König Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)庁舎の建物、魔女の塔、石造りの土台に木組みが乗っかるお城のような建物(*アーチ付きの楼門)が並ぶ風景はなかなか重厚な景色だ。
    *Torbogenトアーボーゲン(楼門)は旧市街(手前)と城塞地区(奥)とを分ける門である。
    多くの歴史的建造物が、第二次世界大戦の戦禍を免れたと云うから、この町はツイテいる。

    ケーニヒ・アドルフ・プラッツはかつてナッサウ家から輩出された唯一の神聖ローマ皇帝アドルフに因んで名づけられたと云う。
    周辺一帯を見事な装飾が施された木組みの家並みが囲んで、町一番の美しい広場になっている。

    写真は イトシュタイン(タウヌス):左からKönig Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)Rathaus庁舎、Torbogenトアーボーゲン(アーチ付きの楼門)の2枚

  • イトシュタインの最も古く(1170年築)、代表的な建物である「Hexenturmヘクセントゥルム魔女の塔」=城につきものの「Bergfriedベルクフリート天守閣」の塔の高さ 42 m、壁の厚さ 3 m 以上、直径約 12 m という。<br /><br />いわゆる魔女の塔についていえば、17世紀にプロテスタントのナッサウ・イトシュタイン伯ヨハネス(1603~ 1677年)の治世下で起こった。<br />この町の「Hexenverfolgung魔女狩り」は39人の犠牲者を出したと云う。<br /><br />当時の忌み嫌われた魔女たちは現代になって漸く、その名誉を回復し、魔女の塔の根元にある石壁に、魔女として殺害された人々の追悼プレート(1996年完工)が掲げられている。<br /><br />写真は イトシュタイン(タウヌス):上のHexenturm魔女の塔は旧市街の中心に、旧城傍に1170年に建てられたと云われ、イトシュタイン最古の建造物である。下はイトシュタインTorbogenアーチ付きの楼門

    イトシュタインの最も古く(1170年築)、代表的な建物である「Hexenturmヘクセントゥルム魔女の塔」=城につきものの「Bergfriedベルクフリート天守閣」の塔の高さ 42 m、壁の厚さ 3 m 以上、直径約 12 m という。

    いわゆる魔女の塔についていえば、17世紀にプロテスタントのナッサウ・イトシュタイン伯ヨハネス(1603~ 1677年)の治世下で起こった。
    この町の「Hexenverfolgung魔女狩り」は39人の犠牲者を出したと云う。

    当時の忌み嫌われた魔女たちは現代になって漸く、その名誉を回復し、魔女の塔の根元にある石壁に、魔女として殺害された人々の追悼プレート(1996年完工)が掲げられている。

    写真は イトシュタイン(タウヌス):上のHexenturm魔女の塔は旧市街の中心に、旧城傍に1170年に建てられたと云われ、イトシュタイン最古の建造物である。下はイトシュタインTorbogenアーチ付きの楼門

  • イトシュタインの町は「Deutsche Fachwerkstraßeドイツ木組みの家街道(1990年創設)」、および「ドイツ・Limesリメス街道(2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスが造らせた国境線=ローマ領の境界線、防衛線、総延長550km)2005年7月に遺産登録」沿いに位置している。<br /><br />写真はイトシュタイン(タウヌス):近郊Map

    イトシュタインの町は「Deutsche Fachwerkstraßeドイツ木組みの家街道(1990年創設)」、および「ドイツ・Limesリメス街道(2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスが造らせた国境線=ローマ領の境界線、防衛線、総延長550km)2005年7月に遺産登録」沿いに位置している。

    写真はイトシュタイン(タウヌス):近郊Map

  • 写真は イトシュタイン(タウヌス)の冊子:ケーニヒ・アドルフ・プラッツに面した木組みの家が並ぶ旧市街、中でもKillingerhausキリンガーハウス(1615年)はおそらくイトシュタインの木組みの家の中で1番美しい建物であろう。最も多彩な木製彫刻が見られる。<br />左手の隠れた方に独特“傾いた家”のSchiefes Hausがシーフェス・ハウスがある。傾いた原因は建設中の資材不足なのだそうだが、木組みの家街道を走り各地を訪ねると、意外にそれらの町々で見ることがある。

    写真は イトシュタイン(タウヌス)の冊子:ケーニヒ・アドルフ・プラッツに面した木組みの家が並ぶ旧市街、中でもKillingerhausキリンガーハウス(1615年)はおそらくイトシュタインの木組みの家の中で1番美しい建物であろう。最も多彩な木製彫刻が見られる。
    左手の隠れた方に独特“傾いた家”のSchiefes Hausがシーフェス・ハウスがある。傾いた原因は建設中の資材不足なのだそうだが、木組みの家街道を走り各地を訪ねると、意外にそれらの町々で見ることがある。

  • Schlossシュロス(城=宮殿)は元々は11世紀に築城されているが、1614年から1634年にルートヴィヒ伯とその息子であるヨハン伯のために古い建物を取り込んでルネサンス様式で改築された。<br /><br />宮殿はその麓で合流する2本の川の間の岩山の上に建っている。宮殿自体は第二次大戦後の1946年からGymnasium Pestalozzischuleギムナジウム・ペスタロッツィシューレという名の学校になっている。<br /><br />写真はイトシュタイン(タウヌス)の冊子・俯瞰図:旧市街は海抜280 m のなだらかな山の上にある・・・中央に魔女の塔、右にSchloss城=宮殿、左に庁舎とアーチ付きの楼門、楼門の後に大学、魔女の塔の後に地区裁判所がある。

    Schlossシュロス(城=宮殿)は元々は11世紀に築城されているが、1614年から1634年にルートヴィヒ伯とその息子であるヨハン伯のために古い建物を取り込んでルネサンス様式で改築された。

    宮殿はその麓で合流する2本の川の間の岩山の上に建っている。宮殿自体は第二次大戦後の1946年からGymnasium Pestalozzischuleギムナジウム・ペスタロッツィシューレという名の学校になっている。

    写真はイトシュタイン(タウヌス)の冊子・俯瞰図:旧市街は海抜280 m のなだらかな山の上にある・・・中央に魔女の塔、右にSchloss城=宮殿、左に庁舎とアーチ付きの楼門、楼門の後に大学、魔女の塔の後に地区裁判所がある。

    イトシュタイン魔女の塔(Hexenturm Idstein) 建造物

  • 写真は イトシュタイン(タウヌス):「Haus Töpferテプファーハウス」として知られているHöerhofヘールホーフは1620年から1626年に宮廷建築家のハインリヒ・ヘールによって建設され、主に狩りの館および営林署として利用された。<br />1911年から1955年までドイツの印象画家のErnst Töpferエルンスト・テプファー(1877~ 1955 年)がここに住んだことで、その名が付いた。<br />現在、Höerhofヘールホーフを検索して見ると、魅力的なレストラン兼ホテルになっていた。(4星の木組み建築のホテル内部はモダン:住所はOBERGASSE 26)<br /><br />*この時に宿泊したホテルはいまや分からないのだが、当時はホテルが多くあったわけではなく、宿泊先は庁舎近くのホテルだった記憶があるし、木組み建築好きもあって、多分、Höerhofヘールホーフに泊まったのだろう。<br /><br />右下のUnionskircheウニオンス教会は見た目の外観と異なり、内部の壮麗さは見事なものである。元々13世紀に参事会教会として建設され、14世紀半ばにゴシック様式で改築された。<br /><br />

    写真は イトシュタイン(タウヌス):「Haus Töpferテプファーハウス」として知られているHöerhofヘールホーフは1620年から1626年に宮廷建築家のハインリヒ・ヘールによって建設され、主に狩りの館および営林署として利用された。
    1911年から1955年までドイツの印象画家のErnst Töpferエルンスト・テプファー(1877~ 1955 年)がここに住んだことで、その名が付いた。
    現在、Höerhofヘールホーフを検索して見ると、魅力的なレストラン兼ホテルになっていた。(4星の木組み建築のホテル内部はモダン:住所はOBERGASSE 26)

    *この時に宿泊したホテルはいまや分からないのだが、当時はホテルが多くあったわけではなく、宿泊先は庁舎近くのホテルだった記憶があるし、木組み建築好きもあって、多分、Höerhofヘールホーフに泊まったのだろう。

    右下のUnionskircheウニオンス教会は見た目の外観と異なり、内部の壮麗さは見事なものである。元々13世紀に参事会教会として建設され、14世紀半ばにゴシック様式で改築された。

  • 【(番外編)ナチ時代のAktion T4=T4作戦と、イトシュタインのカルメンホーフ知育施設で行われた「安楽死」プログラム】<br /><br />このナチ時代のAktion T4=T4作戦に関した旅行記は本編に付随して知って、番外編として書いてみた。一応、ご参考までに。<br /><br />https://4travel.jp/travelogue/11932642<br /><br />参考写真はT4作戦の施設Map

    【(番外編)ナチ時代のAktion T4=T4作戦と、イトシュタインのカルメンホーフ知育施設で行われた「安楽死」プログラム】

    このナチ時代のAktion T4=T4作戦に関した旅行記は本編に付随して知って、番外編として書いてみた。一応、ご参考までに。

    https://4travel.jp/travelogue/11932642

    参考写真はT4作戦の施設Map

  • 参考写真はHeilerziehungsanstalt Kalmenhofカールメンホーフ養護施設(Krankenhaus Idsteinイドシュタイン病院)1906年絵葉書

    参考写真はHeilerziehungsanstalt Kalmenhofカールメンホーフ養護施設(Krankenhaus Idsteinイドシュタイン病院)1906年絵葉書

  • 2日目の1983年7月10日(日)はFrankfurtフランクフルト駅にスイスから列車で来独されるVIPの出迎えの駐車場、宿泊ホテル、市内の訪問先ルートの確認、<br />=>さらにフランクフルト郊外にある、昼食会を予定しているレストランGutsschänke  Neuhofグートシェンケ・ノイホフへのルートの試走など行った<br /><br />この時は数日後に日本からT副社長(かつて日銀フランクフルト駐在所長で、後に監事)、N国際金融部長(ロンドン駐在経験あり)の御二人が来独され、14日から16日までフランクフルトに滞在、メインバンクの来独中のI取締役とフランクフルト支店長などとの夕食会、ドイツの投資銀行表敬訪問、日本の銀行の各フランクフルト支店長との昼食会等をアテンドした。<br /><br />第二回目のドイツ駐在前は、私は東京の財務部資金課(資金調達)に勤務していて、T副社長(その頃は財務担当専務だった)が日銀出身の頭取がいた大手地方銀行の本店を訪問される際に単独で随行した事があったので、T副社長とは一応面識があり、人柄なども認識していた。<br /><br />それでもドイツ法人社長から、私の前任の先輩駐在員が今回のようなT副社長の来独があった時、少々道案内にヘマをして、お叱りを受けたと聞き、私もVIP来独にそれなりの心構えでいた。<br /><br />実際、VIP来独時にはデュッセルドルフから社有車メルセデス・ベンツ260に乗って、私自身がVIPの運転手役・案内役も務め、たいへん緊張した3日を過ごしたものだ。<br /><br />一方通行の多いフランクフルトの市内は勿論、近郊の昼食会の為のレストランなどへの道順を知っておくために、同じ道を何度も走り、つまりVIP来独前に<事前学習>を行うために、家族と共にイトシュタインに1泊したのでした。<br /><br />フランクフルトを走り周り、何とか道順などを頭にいれて自信を持てた後、ライン下りをしながらデュッセルドルフに戻ったのです。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />写真はFrankfurtフランクフルト:Aral市街図 Map

    2日目の1983年7月10日(日)はFrankfurtフランクフルト駅にスイスから列車で来独されるVIPの出迎えの駐車場、宿泊ホテル、市内の訪問先ルートの確認、
    =>さらにフランクフルト郊外にある、昼食会を予定しているレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフへのルートの試走など行った

    この時は数日後に日本からT副社長(かつて日銀フランクフルト駐在所長で、後に監事)、N国際金融部長(ロンドン駐在経験あり)の御二人が来独され、14日から16日までフランクフルトに滞在、メインバンクの来独中のI取締役とフランクフルト支店長などとの夕食会、ドイツの投資銀行表敬訪問、日本の銀行の各フランクフルト支店長との昼食会等をアテンドした。

    第二回目のドイツ駐在前は、私は東京の財務部資金課(資金調達)に勤務していて、T副社長(その頃は財務担当専務だった)が日銀出身の頭取がいた大手地方銀行の本店を訪問される際に単独で随行した事があったので、T副社長とは一応面識があり、人柄なども認識していた。

    それでもドイツ法人社長から、私の前任の先輩駐在員が今回のようなT副社長の来独があった時、少々道案内にヘマをして、お叱りを受けたと聞き、私もVIP来独にそれなりの心構えでいた。

    実際、VIP来独時にはデュッセルドルフから社有車メルセデス・ベンツ260に乗って、私自身がVIPの運転手役・案内役も務め、たいへん緊張した3日を過ごしたものだ。

    一方通行の多いフランクフルトの市内は勿論、近郊の昼食会の為のレストランなどへの道順を知っておくために、同じ道を何度も走り、つまりVIP来独前に<事前学習>を行うために、家族と共にイトシュタインに1泊したのでした。

    フランクフルトを走り周り、何とか道順などを頭にいれて自信を持てた後、ライン下りをしながらデュッセルドルフに戻ったのです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    写真はFrankfurtフランクフルト:Aral市街図 Map

  • 写真はFrankfurtフランクフルトとライン下り:左上から時計回りに、ゲーテ像と共に、オペラハウス前で、ライン川畔のヨハネスベルク城の俯瞰、ゲーテ像と共に。

    写真はFrankfurtフランクフルトとライン下り:左上から時計回りに、ゲーテ像と共に、オペラハウス前で、ライン川畔のヨハネスベルク城の俯瞰、ゲーテ像と共に。

    旧オペラ座 劇場・ホール・ショー

  • 写真はFrankfurtフランクフルト:オペラハウス前で

    写真はFrankfurtフランクフルト:オペラハウス前で

  • 写真はFrankfurtフランクフルト:ゲーテ像と娘たち・・・考えてみたら、その後ここを訪れていない。つまり意外なのだが、このゲーテ像を撮ったのはこの時だけだったようだ。

    イチオシ

    写真はFrankfurtフランクフルト:ゲーテ像と娘たち・・・考えてみたら、その後ここを訪れていない。つまり意外なのだが、このゲーテ像を撮ったのはこの時だけだったようだ。

  • フランクフルト市内を徹底して走り周り、納得した所で、その後はRheinライン下りをしながら、デュッセルドルフに戻った。・・・1泊2日の小旅行をしたわけだ。<br /><br />ライン下りをする際は何時も参考にする世界遺産ライン川流域観光の冊子は実に詳細な説明があって、助かる。<br /><br />写真は世界遺産ライン川流域観光のMapの表紙・・・(左岸)570kmの距離にある東京都青梅市の姉妹都市Boppardボッパルトの大蛇行、ラインフェルス城址、550kmのOberweselオーバーヴェーゼル(右岸)ネズミ城、ローレライの岩壁と蛇行、伝説の7人の乙女(=妖精=7つの飢えた岩)、546kmの位置にある川中のDie Pfalzプファルツ城(正式にはBurg Pfalzgrafenstein プファルツ伯城・・・ライン川を就航する船舶の通行税を徴収する目的で建てられた)など。

    フランクフルト市内を徹底して走り周り、納得した所で、その後はRheinライン下りをしながら、デュッセルドルフに戻った。・・・1泊2日の小旅行をしたわけだ。

    ライン下りをする際は何時も参考にする世界遺産ライン川流域観光の冊子は実に詳細な説明があって、助かる。

    写真は世界遺産ライン川流域観光のMapの表紙・・・(左岸)570kmの距離にある東京都青梅市の姉妹都市Boppardボッパルトの大蛇行、ラインフェルス城址、550kmのOberweselオーバーヴェーゼル(右岸)ネズミ城、ローレライの岩壁と蛇行、伝説の7人の乙女(=妖精=7つの飢えた岩)、546kmの位置にある川中のDie Pfalzプファルツ城(正式にはBurg Pfalzgrafenstein プファルツ伯城・・・ライン川を就航する船舶の通行税を徴収する目的で建てられた)など。

    ライン渓谷中流上部 滝・河川・湖

  • 【ラインガウの銘醸、 “ワインの使者”の騎馬像が立つヨハニスベルク城にはブドウ畑とライン川を見下ろすテラスレストランがある】<br /><br />なだらかなブドウ畑が丘の上まで続き、一帯は葡萄の葉が風にそよいでいる。Geisenheim-Johannisbergガイゼンハイム・ヨハニスベルクに12時着。<br /><br />≪Schloss Johannisbergヨハニスベルク城≫<br />817年、カール大帝がこの地に葡萄の植付け令を発して以来、ブドウ畑のこの山にベネディクト派によって、Sankt Johannザンクト・ヨハン礼拝堂が建ち、やがて修道院となった。<br />その後、この丘の建物をヨハニスベルクと呼ぶようになったと云う。<br />Rheingauラインガウのリースリンク・白ワインの中でも最優良ワインを産出する事で有名で、内庭にはフルダへの“ワインの使者”の騎馬像があり、ワインの製法にまつわる、謂れを今に伝えている。<br /><br /><昼食:ヨハニスベルク城のテラスレストランで><br />ブドウ畑とライン川を見下ろすテラスレストランは最高の場所で、素晴らしいものだ。この日、此処で食べた“*Blutwurstブルートヴルスト(血のソーセージ)”の味が忘れられない。<br /><br />*Blutwurstブルートヴルスト(血のソーセージ)は血液を材料として加えたソーセージのこと。赤身肉で作ったソーセージと比べると色が黒ずみ、血の風味が独特の強い癖として感じられるが、家畜を無駄なく利用する食品として、ヨーロッパや東アジアの牧畜の盛んな地域で古くから作られてきた。<br /><br />尚、2006年5月16日(火)に再訪したが、レストランは改装されていた。<br />観光客も多くなったのか、全てがきれいになり、大きな窓ガラスに四方を囲まれ、日差しも充分に取り入れた明るい、上品なレストランになっていた。<br />メニューも大きく変っていて、ソーセージのような軽い料理は無く、通常のレストランメニューになっていたのは残念!でした。<br /><br />写真はライン下り:ヨハネスベルク城とテラスレストランGutsschänke グートシェンケで食べたハムやソーセージの軽食。

    イチオシ

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    【ラインガウの銘醸、 “ワインの使者”の騎馬像が立つヨハニスベルク城にはブドウ畑とライン川を見下ろすテラスレストランがある】

    なだらかなブドウ畑が丘の上まで続き、一帯は葡萄の葉が風にそよいでいる。Geisenheim-Johannisbergガイゼンハイム・ヨハニスベルクに12時着。

    ≪Schloss Johannisbergヨハニスベルク城≫
    817年、カール大帝がこの地に葡萄の植付け令を発して以来、ブドウ畑のこの山にベネディクト派によって、Sankt Johannザンクト・ヨハン礼拝堂が建ち、やがて修道院となった。
    その後、この丘の建物をヨハニスベルクと呼ぶようになったと云う。
    Rheingauラインガウのリースリンク・白ワインの中でも最優良ワインを産出する事で有名で、内庭にはフルダへの“ワインの使者”の騎馬像があり、ワインの製法にまつわる、謂れを今に伝えている。

    <昼食:ヨハニスベルク城のテラスレストランで>
    ブドウ畑とライン川を見下ろすテラスレストランは最高の場所で、素晴らしいものだ。この日、此処で食べた“*Blutwurstブルートヴルスト(血のソーセージ)”の味が忘れられない。

    *Blutwurstブルートヴルスト(血のソーセージ)は血液を材料として加えたソーセージのこと。赤身肉で作ったソーセージと比べると色が黒ずみ、血の風味が独特の強い癖として感じられるが、家畜を無駄なく利用する食品として、ヨーロッパや東アジアの牧畜の盛んな地域で古くから作られてきた。

    尚、2006年5月16日(火)に再訪したが、レストランは改装されていた。
    観光客も多くなったのか、全てがきれいになり、大きな窓ガラスに四方を囲まれ、日差しも充分に取り入れた明るい、上品なレストランになっていた。
    メニューも大きく変っていて、ソーセージのような軽い料理は無く、通常のレストランメニューになっていたのは残念!でした。

    写真はライン下り:ヨハネスベルク城とテラスレストランGutsschänke グートシェンケで食べたハムやソーセージの軽食。

    Schloss Johannisberg 城・宮殿

  • 参考写真はライン下り:Schloss Johannisbergヨハネスベルク城、葡萄畑、ライン川の俯瞰・・・この素晴らしい景観が好きで、ライン川近辺に来ると、必ず立ち寄ったものだ。

    参考写真はライン下り:Schloss Johannisbergヨハネスベルク城、葡萄畑、ライン川の俯瞰・・・この素晴らしい景観が好きで、ライン川近辺に来ると、必ず立ち寄ったものだ。

  • 写真はライン下り:左上から時計回りに、ヨハネスブルク城のレストランGutsschänke グートシェンケの内部、ヨハネスベルク城と葡萄畑、レストラン グートシェンケのテラス、Die Pfalzプファルツ城(正式にはBurg Pfalzgrafenstein プファルツ伯城)

    写真はライン下り:左上から時計回りに、ヨハネスブルク城のレストランGutsschänke グートシェンケの内部、ヨハネスベルク城と葡萄畑、レストラン グートシェンケのテラス、Die Pfalzプファルツ城(正式にはBurg Pfalzgrafenstein プファルツ伯城)

  • 写真はヨハネスベルク城のレストランGutsschänke グートシェンケの内部

    写真はヨハネスベルク城のレストランGutsschänke グートシェンケの内部

  • Schloss Johannisbergヨハニスベルク城に立寄れば、必ず思い出すのはこの伝説である。<br /><br /><伝説:ヨハニスベルク城の“ワインの使者”><br /><br />その昔、Fuldaフルダの領主アボット公に葡萄の収穫の許可を求めに、使者が旅立ったものの、使者は旅の途中で病に倒れた。<br /><br />この使者が葡萄の収穫の許可を得て、ヨハニスベルク城に帰った時は、ヨハニスベルクの葡萄は収穫の時期を過ぎて、木についたまま乾し葡萄状になっていたそうだ。中にはカビの為、腐ったようにみえるものもあった。<br /><br />修道士達はこれらの葡萄を収穫し、ワインを造ったところ、これが美しい黄金色のワインに変じ、香りも芳醇で、まろやかな甘みの美酒が出来たと云う。<br /><br />その後、ワインの製法が一段と飛躍し、現在の最高級酒である、極甘口の貴腐ワインが誕生したと。<br />“Beerenausleseベーレンアウスレーゼ”“Trockenbeerenausleseトロッケンベーレンアウスレーゼ”“Eisweinアイスヴァイン”等の世界三大貴腐ワインの一つを生んだという話である。<br /><br />・・・・・・・<br /><br />写真は2016年10月17日(月)、霧に包まれたRheingauラインガウ・Schloss Johannisbergヨハネスベルク城の「フルダへの“ワインの使者”の騎馬像」を久しぶりに訪ねた。

    Schloss Johannisbergヨハニスベルク城に立寄れば、必ず思い出すのはこの伝説である。

    <伝説:ヨハニスベルク城の“ワインの使者”>

    その昔、Fuldaフルダの領主アボット公に葡萄の収穫の許可を求めに、使者が旅立ったものの、使者は旅の途中で病に倒れた。

    この使者が葡萄の収穫の許可を得て、ヨハニスベルク城に帰った時は、ヨハニスベルクの葡萄は収穫の時期を過ぎて、木についたまま乾し葡萄状になっていたそうだ。中にはカビの為、腐ったようにみえるものもあった。

    修道士達はこれらの葡萄を収穫し、ワインを造ったところ、これが美しい黄金色のワインに変じ、香りも芳醇で、まろやかな甘みの美酒が出来たと云う。

    その後、ワインの製法が一段と飛躍し、現在の最高級酒である、極甘口の貴腐ワインが誕生したと。
    “Beerenausleseベーレンアウスレーゼ”“Trockenbeerenausleseトロッケンベーレンアウスレーゼ”“Eisweinアイスヴァイン”等の世界三大貴腐ワインの一つを生んだという話である。

    ・・・・・・・

    写真は2016年10月17日(月)、霧に包まれたRheingauラインガウ・Schloss Johannisbergヨハネスベルク城の「フルダへの“ワインの使者”の騎馬像」を久しぶりに訪ねた。

  • Die Pfalzプファルツ城はライン川の中州にある平らな岩島にライン川の通行税を徴収するために、1326年にルートヴィヒ4世によって築かれたと云う。<br />川中に相応しく、小さな五角形の軍艦の形状した城郭である。<br />レンガと漆喰で造られた白い城壁の高さは12mもあり、城壁上には矢狭間や石落としを供えているそうだが、この道を何度も通っているが一度もこの中島に渡って城を近くで見たことが無い。<br />1866年の普墺戦争後は徴税をしない事となり、その後1960年代まではライン川航行船のために信号塔として利用されて来たと云う。<br /><br />現在は城内に博物館があり、Kaubカウプの町から渡し船の便があるそうだ。<br />何度この写真を撮ったろうか。<br />・・・が、古城好きのくせに、わざわざ渡し船に乗り、城内の博物館などを見たことは一度も無い。<br /><br />写真は途中のライン川の中州に出現するDie Pfalzプファルツ城(正式にはBurg Pfalzgrafenstein プファルツ伯城という)

    Die Pfalzプファルツ城はライン川の中州にある平らな岩島にライン川の通行税を徴収するために、1326年にルートヴィヒ4世によって築かれたと云う。
    川中に相応しく、小さな五角形の軍艦の形状した城郭である。
    レンガと漆喰で造られた白い城壁の高さは12mもあり、城壁上には矢狭間や石落としを供えているそうだが、この道を何度も通っているが一度もこの中島に渡って城を近くで見たことが無い。
    1866年の普墺戦争後は徴税をしない事となり、その後1960年代まではライン川航行船のために信号塔として利用されて来たと云う。

    現在は城内に博物館があり、Kaubカウプの町から渡し船の便があるそうだ。
    何度この写真を撮ったろうか。
    ・・・が、古城好きのくせに、わざわざ渡し船に乗り、城内の博物館などを見たことは一度も無い。

    写真は途中のライン川の中州に出現するDie Pfalzプファルツ城(正式にはBurg Pfalzgrafenstein プファルツ伯城という)

    プファルツ城 城・宮殿

  • 【セピア色の思い出:VIP来独に備え、家族を巻き込んだ”事前学習”をして、数日後にVIPフルアテンドの本番を迎えた。】<br /><br />家族を巻き込んでの1泊2日、事前学習の小旅行については先に述べた。<br /><br />勿論、その数日後、フルアテンドの本番を迎えました。<br /><br />以下の旅行記は駐在員のイロハ、”事前学習”=予行練習と、緊張の3日間を過ごした”VIP来独のフルアテンド”の記録です。<br /><br />アテンド当日の1983年7月14日はデュッセルドルフから片道225kmを、社有車のメルセデス・ベンツ2600ccで走り、フランクフルト中央駅にスイスから列車で来独されたVIPの出迎えに赴き、中央駅出口でピックアップし、まずは宿泊先の5星ホテルSteigenberger Frankfurter Hofシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフにご案内し、チェックインして頂いた。<br /><br />写真FrankfurtフランクフルトとレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフのMap

    【セピア色の思い出:VIP来独に備え、家族を巻き込んだ”事前学習”をして、数日後にVIPフルアテンドの本番を迎えた。】

    家族を巻き込んでの1泊2日、事前学習の小旅行については先に述べた。

    勿論、その数日後、フルアテンドの本番を迎えました。

    以下の旅行記は駐在員のイロハ、”事前学習”=予行練習と、緊張の3日間を過ごした”VIP来独のフルアテンド”の記録です。

    アテンド当日の1983年7月14日はデュッセルドルフから片道225kmを、社有車のメルセデス・ベンツ2600ccで走り、フランクフルト中央駅にスイスから列車で来独されたVIPの出迎えに赴き、中央駅出口でピックアップし、まずは宿泊先の5星ホテルSteigenberger Frankfurter Hofシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフにご案内し、チェックインして頂いた。

    写真FrankfurtフランクフルトとレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフのMap

  • VIP来独のご予定は<br />14日(木)20:00 当社メインバンクのA行との夕食会(A行の御招待:中華店)<br />15日(金)10:00 ドイツの投資銀行B行表敬訪問<br />      12:00 フランクフルトの邦銀3行ACDの支店長を御招待した昼食会<br />16日(土)11:25 フランクフルト空港からロンドンに出発。<br />17日(日)      ロンドン支店で本社から社長を迎え、「欧州・東欧会議」(各国法人、支店、駐在員事務所のトップが参集した)に出席。<br /><br />写真はフランクフルトのオペラハウス前でN部長と(気さくなT副社長はカメラ片手にしばしば私共を撮った。ご帰国後、焼き増し写真がN部長経由で送られてきた)。

    VIP来独のご予定は
    14日(木)20:00 当社メインバンクのA行との夕食会(A行の御招待:中華店)
    15日(金)10:00 ドイツの投資銀行B行表敬訪問
          12:00 フランクフルトの邦銀3行ACDの支店長を御招待した昼食会
    16日(土)11:25 フランクフルト空港からロンドンに出発。
    17日(日)     ロンドン支店で本社から社長を迎え、「欧州・東欧会議」(各国法人、支店、駐在員事務所のトップが参集した)に出席。

    写真はフランクフルトのオペラハウス前でN部長と(気さくなT副社長はカメラ片手にしばしば私共を撮った。ご帰国後、焼き増し写真がN部長経由で送られてきた)。

  • 当時、私は39歳、二度目のドイツ勤務中で、通算7年のドイツ経験者であった。<br />そんな私もけっこう緊張した記憶が残っている。<br /><br />特に、外債発行といった、当時欧州金融市場から資金調達をするのは、本社財務部門でも国際金融部の所管で、国内金融機関を調達先にしていた財務部資金課出身の私には、一般常識程度の知識しかなく、細かな話についていく自信はなかった。<br /><br />写真はFrankfurtフランクフルト市内の夕食会、レストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフの昼食会など<br /><br />

    当時、私は39歳、二度目のドイツ勤務中で、通算7年のドイツ経験者であった。
    そんな私もけっこう緊張した記憶が残っている。

    特に、外債発行といった、当時欧州金融市場から資金調達をするのは、本社財務部門でも国際金融部の所管で、国内金融機関を調達先にしていた財務部資金課出身の私には、一般常識程度の知識しかなく、細かな話についていく自信はなかった。

    写真はFrankfurtフランクフルト市内の夕食会、レストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフの昼食会など

  • ≪Hofgut Neuhofホーフグート・ノイホフ (Gutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ)≫<br />D-63303 Dreieich-  Götzenhain ドライアイヒ-ゲッツェンハイン <br /><br />Frankfurtフランクフルトから12 km、Offenbachオッフェンバッハから10 kmの距離にある。フランクフルト国際空港までは凡そ車で20分。アウトバーンA661/A5にも便が良い場所にあるレストランである。<br /><br />グートシェンケ・ノイホフの敷地には、高級車ばかりが並んでいた。<br />このレストランはドイツ風の田舎屋的なレストランで、大変趣のある店でした。<br /><br />歴史を遡ると、ホーフグート・ノイホフ は1500年頃、Ysenburgイーゼンブルク公の宮廷所有地(御料地)として創立された。1700年以降、戦争などの被害を経て、Graf Johann Philipp von Ysenburg-Büdingen ヨハン・フィリップ・フォン・イーゼンブルク=ビューディンゲン伯爵のもとで立派な御料地として再建された。<br /><br />参考写真レストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:ロゴ

    ≪Hofgut Neuhofホーフグート・ノイホフ (Gutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ)≫
    D-63303 Dreieich- Götzenhain ドライアイヒ-ゲッツェンハイン

    Frankfurtフランクフルトから12 km、Offenbachオッフェンバッハから10 kmの距離にある。フランクフルト国際空港までは凡そ車で20分。アウトバーンA661/A5にも便が良い場所にあるレストランである。

    グートシェンケ・ノイホフの敷地には、高級車ばかりが並んでいた。
    このレストランはドイツ風の田舎屋的なレストランで、大変趣のある店でした。

    歴史を遡ると、ホーフグート・ノイホフ は1500年頃、Ysenburgイーゼンブルク公の宮廷所有地(御料地)として創立された。1700年以降、戦争などの被害を経て、Graf Johann Philipp von Ysenburg-Büdingen ヨハン・フィリップ・フォン・イーゼンブルク=ビューディンゲン伯爵のもとで立派な御料地として再建された。

    参考写真レストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:ロゴ

  • 現在、Golf-Club Neuhofノイホフゴルフ場を併設している。<br />昼食会の翌年、1984年創設された。<br />現在は27ホールと規模が大きいゴルフ場になっている。<br /><br />参考写真はGolfclub-Neuhofゴルフクラブ・ノイホフ:俯瞰・・・すごく立派なゴルフ場ができたものだ。

    現在、Golf-Club Neuhofノイホフゴルフ場を併設している。
    昼食会の翌年、1984年創設された。
    現在は27ホールと規模が大きいゴルフ場になっている。

    参考写真はGolfclub-Neuhofゴルフクラブ・ノイホフ:俯瞰・・・すごく立派なゴルフ場ができたものだ。

  • 多分かつての駐在時に度々グートシェンケ・ノイホフで楽しまれたのだろう。<br />日銀でもドイツ畑ともいえるT副社長の御趣向はなかなか好ましく、たいへん素晴らしい場所をご指定になったものだ。<br /><br />尚、日本銀行には役員として、総裁、副総裁(2人)、審議委員(6人)、監事(3人以内)、理事(6人以内)、参与(若干人)が置かれている。このうち、総裁、副総裁および審議委員が、最高意思決定機関である政策委員会を構成します。<br />一般企業の社長、副社長などの役員、監査役のような方たちである。<br />海外駐在事務所はニューヨーク、ロンドン、 フランクフルト、香港など、世界の主たる金融市場の数か所に置かれている。<br /><br />写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:中庭にてN国際金融部長と(T副社長に撮って頂いた)。

    多分かつての駐在時に度々グートシェンケ・ノイホフで楽しまれたのだろう。
    日銀でもドイツ畑ともいえるT副社長の御趣向はなかなか好ましく、たいへん素晴らしい場所をご指定になったものだ。

    尚、日本銀行には役員として、総裁、副総裁(2人)、審議委員(6人)、監事(3人以内)、理事(6人以内)、参与(若干人)が置かれている。このうち、総裁、副総裁および審議委員が、最高意思決定機関である政策委員会を構成します。
    一般企業の社長、副社長などの役員、監査役のような方たちである。
    海外駐在事務所はニューヨーク、ロンドン、 フランクフルト、香港など、世界の主たる金融市場の数か所に置かれている。

    写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:中庭にてN国際金融部長と(T副社長に撮って頂いた)。

  • 残念ながら、当日の会食の写真はない。昼食会のメニューもない。<br />無い無い尽くしで、参考写真に頼った。<br /><br />(あの頃、食事風景を写真に撮るのは、異例であったかもしれない。デジカメなどもなかったし、カメラ好きであった副社長が、もっぱら私共に気をつかって写真を撮られていた。確か、N部長もカメラを持参していなかった)<br /><br />参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:①Haupteingang本館入口

    残念ながら、当日の会食の写真はない。昼食会のメニューもない。
    無い無い尽くしで、参考写真に頼った。

    (あの頃、食事風景を写真に撮るのは、異例であったかもしれない。デジカメなどもなかったし、カメラ好きであった副社長が、もっぱら私共に気をつかって写真を撮られていた。確か、N部長もカメラを持参していなかった)

    参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:①Haupteingang本館入口

  • 写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:N国際金融部長と共に(T副社長に撮って頂いた)。

    写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:N国際金融部長と共に(T副社長に撮って頂いた)。

  • 参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:②Frankfurterzimmerフランクフルターの間

    参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:②Frankfurterzimmerフランクフルターの間

  • 参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:②小さな魅力的なレストラン

    参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:②小さな魅力的なレストラン

  • 参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:③レストランとWeiherバイハー(池、小沼の意)の風景<br /><br />

    参考写真はレストランGutsschänke Neuhofグートシェンケ・ノイホフ:③レストランとWeiherバイハー(池、小沼の意)の風景

  • <Steigenberger Frankfurter Hofシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフ><br />D- 60311 Frankfurt 、Am Kaiserplatz、 Bethmannstrasse 33<br />5星・全303室<br />フランクフルトを代表する老舗ホテル(かつて市の迎賓館であった)で、1876年創業のシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフはフランクフルトの金融街の歴史的な中心部にある。<br /><br />かつて皇帝戴冠式が行われた聖バルトロメウス大聖堂からわずか1kmにある。<br />フランクフルト中央駅から徒歩 11 分、フランクフルト国際空港 (FRA) から車で 23 分<br /><br />尚、7月14日(木)~16日(土)、本社の外債発行で来独されたT副社長(日本銀行出身でかつてフランクフルト駐在事務所長、後に監事)とN国際金融部長が2泊された。当然ながら、私もこちらに宿泊したが、余裕が無かったようで、部屋の写真も残ってない。<br /><br />1983年7月15日、日銀のフランクフルト駐在事務所の御招待で、このホテルのグルメレストランで夕食会が持たれ、御一緒した。<br /><br />写真はシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフのレストラン:N国際金融部長、日銀駐在員の方と共に(T副社長に撮って頂いた)。

    <Steigenberger Frankfurter Hofシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフ>
    D- 60311 Frankfurt 、Am Kaiserplatz、 Bethmannstrasse 33
    5星・全303室
    フランクフルトを代表する老舗ホテル(かつて市の迎賓館であった)で、1876年創業のシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフはフランクフルトの金融街の歴史的な中心部にある。

    かつて皇帝戴冠式が行われた聖バルトロメウス大聖堂からわずか1kmにある。
    フランクフルト中央駅から徒歩 11 分、フランクフルト国際空港 (FRA) から車で 23 分

    尚、7月14日(木)~16日(土)、本社の外債発行で来独されたT副社長(日本銀行出身でかつてフランクフルト駐在事務所長、後に監事)とN国際金融部長が2泊された。当然ながら、私もこちらに宿泊したが、余裕が無かったようで、部屋の写真も残ってない。

    1983年7月15日、日銀のフランクフルト駐在事務所の御招待で、このホテルのグルメレストランで夕食会が持たれ、御一緒した。

    写真はシュタイゲンベルガ―フランクフルターホフのレストラン:N国際金融部長、日銀駐在員の方と共に(T副社長に撮って頂いた)。

    シュタイゲンベルガー アイコン フランクフルター ホフ ホテル

  • <レストランHaus Wertheimヴェルトハイムの家><br />D-60311 Frankfurt、4Fahrtor 1、Am Römerberg、 <br /><br />旧市街のレーマー広場を南に行き、マイン川にかかるアイゼルナー橋の手前、右手にある1600年頃に建てられた木組み建築の家=ヴェルトハイムの家がある。<br />此処は伝統的なドイツ料理のレストランで、1階にレストランの入口がある。<br /><br />多分、フランクフルト観光で立寄られると、このレストランで食事をすることもあるのではと思う。<br /><br />レンガ色の木枠が美しい建物は歴史的価値から保護されている。レストラン内の装飾はステンドグラスや錫製品、Westerwaldヴェスターヴァルト焼きのジョッキなどが飾られており、一見ごちゃごちゃした感じだが、じっくり見るとなかなか面白く、雰囲気がある。<br /><br />1983年7月15日、このレストラン ヴェルトハイムの家で来独されたT副社長と、後輩にあたる日銀のフランクフルト駐在事務所の方々と和やかな二次会がもたれ、御一緒した。<br /><br />シュタイゲンベルガ―フランクフルターホフのレストランでの夕食会の後の流れで、副社長の意向(多分かつての駐在時に度々ここで楽しまれたのだろう)もあり、レストラン ヴェルトハイムに若手の日銀の方々を招じてワインなどを飲んだのだ。<br /><br />写真はHaus Wertheymハウス ヴェルトハイムの全景<br /><br />

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    <レストランHaus Wertheimヴェルトハイムの家>
    D-60311 Frankfurt、4Fahrtor 1、Am Römerberg、

    旧市街のレーマー広場を南に行き、マイン川にかかるアイゼルナー橋の手前、右手にある1600年頃に建てられた木組み建築の家=ヴェルトハイムの家がある。
    此処は伝統的なドイツ料理のレストランで、1階にレストランの入口がある。

    多分、フランクフルト観光で立寄られると、このレストランで食事をすることもあるのではと思う。

    レンガ色の木枠が美しい建物は歴史的価値から保護されている。レストラン内の装飾はステンドグラスや錫製品、Westerwaldヴェスターヴァルト焼きのジョッキなどが飾られており、一見ごちゃごちゃした感じだが、じっくり見るとなかなか面白く、雰囲気がある。

    1983年7月15日、このレストラン ヴェルトハイムの家で来独されたT副社長と、後輩にあたる日銀のフランクフルト駐在事務所の方々と和やかな二次会がもたれ、御一緒した。

    シュタイゲンベルガ―フランクフルターホフのレストランでの夕食会の後の流れで、副社長の意向(多分かつての駐在時に度々ここで楽しまれたのだろう)もあり、レストラン ヴェルトハイムに若手の日銀の方々を招じてワインなどを飲んだのだ。

    写真はHaus Wertheymハウス ヴェルトハイムの全景

    ハウス ヴェルトハイム 地元の料理

  • 日銀のフランクフルト駐在事務所の方々は私と同じくらいの年齢に見えた。<br /><br />写真はHaus Wertheymハウス ヴェルトハイム:日銀の方々と(T副社長に撮って頂いた)。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />7月16日(土)、VIP御一行をフランクフルト空港に社有車で御送りし、御二人はBA11:25発で、ロンドンに向かった。<br /><br />翌17日(日)、ロンドン支店で本社から社長を迎え、「欧州・東欧会議」(各国法人、支店、駐在員事務所のトップが参集した)が開かれることになっていたので、御二人は外債関連の報告を兼ねて、会議に参加された。<br /><br />様々な会食も、街中の走行も予行演習のお蔭で、幸い遅滞なく、トラブルも無く、フランクフルト空港にVIPお二人を御見送りして、無事、アテンドは終了した。<br /><br />「ご苦労様!」とのねぎらいの言葉を受けて、ホッとしたものの、デュッセルドルフまで片道225km!帰りの道は遠く感じた。<br />フランクフルト空港から社有車のメルセデス・ベンツ260でアウトバーンA3にのって、ゆっくりゆっくりと会社に戻った。<br /><br />まだやらねばならない仕事があった。<br />土曜日なので誰もいない通信室に入り、任務完了のテレックス(当時はまだロンドン店経由の専用線が通信手段で、本社から通信部員が派遣されていた)を本社にとりあえずの報告を入れた。<br />それが終わると、本社ビルの地下駐車場に置いてあったメルセデス・ベンツ230の私用車に乗り自宅に帰った。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />その夜は約束していた20:30に、友人のSさんご夫妻を我が家一家そろって訪問し、夕食会が持たれた。<br />この日はSさんの叔母さんは夏の長い休暇をとっていて、不在でした。<br /><br />この頃は御二人はまだ結婚前で、Sさん自身は時々、ブレーメンから叔母さん宅に来訪していた。S夫人(彼女は日本人で、最初の駐在時、私の秘書役でした)は、当時Sさんの叔母さん宅に下宿していて、Sさんと知り合ったわけだ。<br /><br />甥であるSさんはブレーメンの裁判官(後にブレーメン州最高裁判事)でしたが、たいへん気さくな方で、私共の下手なドイツ語を理解しようとしてくれた。<br />あれやこれやのお互いの近況、休暇の予定などが会話に上った。<br />とりわけ、VIP来独前の予行演習(事前学習)のことは、あまりに日本的なのでしょう、Sさんも大いに関心を持たれ、話題を提供する事となった。<br /><br />真夜中の24:30まで、楽しいままにお邪魔してしまった。<br />子供たちは疲れてソファーでもう眠ってしまっていたが、起こして帰宅した。<br /><br />私にとっては、長い長い3日間でした。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2026年02月28日Wiki/HP参考、訳・編集追記)

    日銀のフランクフルト駐在事務所の方々は私と同じくらいの年齢に見えた。

    写真はHaus Wertheymハウス ヴェルトハイム:日銀の方々と(T副社長に撮って頂いた)。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    7月16日(土)、VIP御一行をフランクフルト空港に社有車で御送りし、御二人はBA11:25発で、ロンドンに向かった。

    翌17日(日)、ロンドン支店で本社から社長を迎え、「欧州・東欧会議」(各国法人、支店、駐在員事務所のトップが参集した)が開かれることになっていたので、御二人は外債関連の報告を兼ねて、会議に参加された。

    様々な会食も、街中の走行も予行演習のお蔭で、幸い遅滞なく、トラブルも無く、フランクフルト空港にVIPお二人を御見送りして、無事、アテンドは終了した。

    「ご苦労様!」とのねぎらいの言葉を受けて、ホッとしたものの、デュッセルドルフまで片道225km!帰りの道は遠く感じた。
    フランクフルト空港から社有車のメルセデス・ベンツ260でアウトバーンA3にのって、ゆっくりゆっくりと会社に戻った。

    まだやらねばならない仕事があった。
    土曜日なので誰もいない通信室に入り、任務完了のテレックス(当時はまだロンドン店経由の専用線が通信手段で、本社から通信部員が派遣されていた)を本社にとりあえずの報告を入れた。
    それが終わると、本社ビルの地下駐車場に置いてあったメルセデス・ベンツ230の私用車に乗り自宅に帰った。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    その夜は約束していた20:30に、友人のSさんご夫妻を我が家一家そろって訪問し、夕食会が持たれた。
    この日はSさんの叔母さんは夏の長い休暇をとっていて、不在でした。

    この頃は御二人はまだ結婚前で、Sさん自身は時々、ブレーメンから叔母さん宅に来訪していた。S夫人(彼女は日本人で、最初の駐在時、私の秘書役でした)は、当時Sさんの叔母さん宅に下宿していて、Sさんと知り合ったわけだ。

    甥であるSさんはブレーメンの裁判官(後にブレーメン州最高裁判事)でしたが、たいへん気さくな方で、私共の下手なドイツ語を理解しようとしてくれた。
    あれやこれやのお互いの近況、休暇の予定などが会話に上った。
    とりわけ、VIP来独前の予行演習(事前学習)のことは、あまりに日本的なのでしょう、Sさんも大いに関心を持たれ、話題を提供する事となった。

    真夜中の24:30まで、楽しいままにお邪魔してしまった。
    子供たちは疲れてソファーでもう眠ってしまっていたが、起こして帰宅した。

    私にとっては、長い長い3日間でした。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2026年02月28日Wiki/HP参考、訳・編集追記)

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