1984/12/25 - 1984/12/26
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今年も日本各地はクリスマスの季節になった。
2009年冬の旅ではドイツのいろいろな都市のクリスマスも見てきた。
いずれもジジババになっても、華やかで楽しいものだった。
私共にとって、そうしたクリスマスの中でもいまだに話題になるクリスマスがある。
もう40年近い昔、私共が40代初めの頃の事で、セピア色の思い出になってしまった。
資料は手元のアルバムの少ない写真のみだが、何とか思い出しながら、時間をかけて以下のような旅行記にしてみた。
・・・・・
1984年12月、クリスマス休み(12月25日と26日)を迎えるにあたり、さて今年はどう過ごそうかと思っていた。
暇になると見るのは、「Gast im Schlossガスト・イム・シュロス(古城ホテルの滞在)」の小冊子である。古城巡りや古城ホテルが好きな私、数十ある古城ホテルリストのすでに8割方に、宿泊や食事で訪ねていた。残る2割の中で小さな館のような、古城ホテルが気になっていた。
モーゼル流域は何度も走行していたが、モーゼル川沿いの道から南側の台地に上り、台地上を走る道をあまり走った記憶がない。それもあって、フンスリュック地方の山間地にひっそりとたたずむ、小さな古城ホテル ベルクミューレ(山間の水車)に興味を覚えて、1泊2日の小旅行となる計画を立てた。
写真参考は当夜のイメージがぴったりの雪の絵葉書を記念に頂いた・・・古城ホテル ベルクミューレの雪景色はこんな様子。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
<クリスマスの小旅行:行程>
1984年12月25日(火)、9:35にDuesseldorfデュッセルドルフを出発。
途中、昼食をSeehotel Maria Laachゼーホテル(湖畔ホテル)マリア・ラーハで食べた。
その後、モーゼル川中流域にあるBernkastel・Kuesベルンカステル・クースの町を訪ね、クリスマスの旧市街を散策した。
ナビの無い頃で、山間のホテルを探すのは少々時間がかかった。
夕方の17:00に、Historische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレ(山間の水車)=>古城ホテル ベルクミューレ到着。
クリスマスの夕食は19:00に予約してあり、22時まで3時間楽しい時間を過ごした。
12月26日(水)、辺り一面の雪化粧、朝食後、雪かきをしてから、
10:35にホテルを出て、デュッセルドルフに向かった。
・・・・・デュッセルドルフからベルクミューレまで凡そ片道230km、往復で約500kmを走る計算だ。
写真はHunsrueck_Regionフンスリュック地方:古城ホテル ベルクミューレへのMap -
Eifelアイフェル地方のKloster(Abtei)Maria Laachマリア・ラーハ僧院をちょっと訪ねた。中は丁度、イエスが誕生したことを祝うクリスマス・ミサの最中だったので、遠慮して外構だけを見てまわった。
(尚、2016年秋に再訪したので、参考に後掲した)
【Eifelアイフェル地方のKloster(Abtei)Maria Laachマリア・ラーハ僧院】
Eifelアイフェル地方のMendigメンディンクという町があるが、その町から北4kmにあるLaacher See ラーハ湖の南西に立つBenediktinerklosterベネディクト派の僧院である。
1093年から1216年、湖と共に在る僧院としてPfalzgrafen Heinrich II. von Laachプファルツ宮中伯ハインリヒ・ラーハ2世と妻Adelheidアーデルハイトによって建てられた。
1859年、13世紀からの大回廊を改装した。
見事な西の入口、いわゆる“パラダイス”はアルプスの北における唯一のものとして評価が高い。“パラダイス”の中央に“Loewenbrunnenライオン=命の泉”がある。
6塔あるラーハ大聖堂はアーチ型のバシリカをもつ後期ロマネスク様式の僧院教会で、ドイツにおける最も素晴らしい建築の一つとされている。
ラーハ湖の周辺一帯2000haは自然保護地域になっている。
元々、デュッセルドルフから走ると、モーゼル地方の観光地に至るまでの中間ぐらいにあるので、ラーハ湖畔にあったゼーホテルで「昼食」をとった。
僧院横にあるホテル・レストランだから、さすがにこの日はお客様が多い。
込み合うレストラン内で、サービスもいまいちで残念でした。
*昼食:Seehotel Maria Laachゼーホテル(湖畔ホテル) マリア・ラーハ
D-56653Maria Laach 、Am Laacher See
家族4人の昼食代はDM105(@DM1=100円)、クリスマス時期は少々高い。
写真は左上から時計回りで、マリア・ラーハ僧院の正面、Loewenbrunnenライオン=命の泉のある中庭、私共と正面、ゼーホテル(湖畔ホテル)マリア・ラーハマリアラーハ修道院 寺院・教会
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当時、地方のクリスマスは今のように華やかなものではなかったようだ。
現在の方が異常に盛大になり、観光化してしまった。
ベルンカステル・クースというモーゼル流域で有名な観光地でも、クリスマス市は早々と終わってしまったのか、何の姿も無い(通常、ドイツのクリスマス市は12月23日までの開催が多いということもあるし、それぞれの家で家族そろってクリスマスの日を迎えるのが普通だから当然だろう)。
ベルンカステル・クースでは人口6,500人、モーゼル川流域で最も美しい町と言っても良く、私共もたいへん好んだ町です。
その市庁舎前にクリスマスツリーが立ち、イルミネーションが少々、静かなクリスマスの風情を見せていた。
写真は手元にあった州都Duesseldorfデュッセルドルフの旧市街のクリスマスの絵葉書ヨハン ヴィルヘルム2世(通称ヤン ヴェレム)の騎馬像 モニュメント・記念碑
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写真参考:2016年秋、Mosel-Weinstrasseモーゼルワイン街道の道標・・・良く目につく道標なので、旅の最中に見かけると、必ず一枚撮る。
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イチオシ
モーゼル川中流域にあるBernkastel・Kuesベルンカステル・クースの町に至る。
旧市街も人の通りも少なくて、静かである。
寒々としたモーゼル川沿いを歩くと、*教会音楽の権威者、オルガニストの「Hermann Schroederヘルマン・シュレーダー(1904年~1984年)」 の広場があり、彼の功績を顕彰する泉がたっていた。
4面に葡萄の産地ならではの葡萄や、*伝説の「ベルンカステラー・ドクトール」の場面をモチーフとした銅で作られた3mほどの泉だ。
写真は左上から時計回りで、“Hermann Schroederヘルマン・シュレーダー の広場”に彼の功績を顕彰する泉(家内の面が伝説の場面)、モーゼル川畔で向こう岸の町クースをバックに家内と娘たちを撮った。
*伝説「ドクター・ワイン:Bernkasteler Doctorベルンカステラー・ドクトール」
トリアー選帝侯・大司教ボーエムント2世(在位 1354-1362)が、Bernkastel-Kuesベルンカステル・クースのBurg Landshutランズフート城に滞在中、深刻な病気に罹り、この病には効く薬もなく、手の施しようがなかった時、モーゼル川沿いの、この町のワイン醸造農家が謁見を許されて、病気快癒を願って、自分の最高の畑で取れたブドウで作った小さな樽入りのワインを献呈したそうです。
ワインを飲んだ、その後数日で選帝侯・大司教ボーエムント2世は病も癒え、「これぞ本物のDoktorドクトールじゃ」と云ったということです。
この時から、この小さなブドウ畑は「ドクトール」と呼ばれるようになったそうだ。
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*Hermann Schroederヘルマン・シュレーダーはドイツの教会音楽家、オルガニスト、作曲家、合唱指揮者である。ただ、私もそうだが、ヘルマン・シュレーダーという音楽家はあまり日本では知られていないそうだ。
Wikiの抜粋によれば、
ヘルマン・シュレーダーは1904年3月26日にモーゼル・ワインで有名な町、ベルンカステルで生まれた。ライフワークの大部分をライン地方で過ごした。彼の母親の家族はベートーヴェンと共通の祖先を持っていた。
1926年から1930年までケルン音楽大学で学び、卒業後は教師として働き始め、その傍ら、作曲も始めた。各地でオルガニストとして、また合唱指揮者として活動したと云う。
1940年、彼はトリアー大聖堂のオルガニストになった。終戦までこの職に留まり、1946年にはトリアー音楽院の校長に就任した。
1948年からケルン音楽大学で音楽理論を教え、1958年に同大学の教授に就任した。彼はまた、バッハ・フェライン・ケルンやライン・カンマー合唱団など、さまざまなセミプロのアンサンブルを指揮した。
1984年10月7日、80歳で死去。
1952年、デュッセルドルフ市ロベルト・シューマン賞
1956年、ラインラント・プファルツ州芸術賞。
・・・・・
写真参考は2006年5月懐かしの地再訪:葡萄の産地ならではの葡萄をモチーフとした銅で作られた3mほどの泉・・・ブレーメンの音楽隊の像と同じで、泉像前に来ると必ず撮って帰った。 -
写真参考は2010年10月29日“Hermann Schroederヘルマン・シュレーダー の広場”に彼の功績を顕彰する泉(家内の面が伝説の場面)
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<Mosel-Weinstrasseモーゼルワイン街道>
ライン川に流れ込むMoselモーゼル川とその支流Saarザール川、Ruwerルーヴァ川沿いの地域を指す。古代ローマ人がこの地でワインをつくっていたと言われ、ドイツワインの発祥の地とうたわれている。
産出はほぼ白ワインのみで、ここはドイツで最も優れた白ワインが生まれる地域である。特に二つの銘酒の産地がある。一つはPiesportピースポートを中心とする、Kluesselrath、Trittenheim、Leiwen、Neumagen-Dhronの村々がある。“Goldtroepfchenゴールド・トレプヒェン”が最高酒として名高い。
もう一つはBernkastel-Kusベルンカステル・クースの地区である。ここにも、“Doktor Grabenドクトル・グラーベン”等の銘酒がある。
全体に共通する、優れた点は香りが高く、軽めのコクとフルーティーな酸味の中にかすかな発泡性が加わった爽やかな味である。
また、世界のぶどう産地の中でも畑の傾斜が最も厳しく機械が使えないため、ぶどうの手入れを人間の手で行うことが多いと言われている。
栽培面積;11785ha (リースリング54%、ミュラートゥルガウ21%)
写真参考は2010年10月29日“Hermann Schroederヘルマン・シュレーダー の広場”に彼の功績を顕彰する泉(裏面は葡萄の産地ならではの葡萄をモチーフとしたもの) -
左上の写真の切妻の3階建て横の道を登って行くと、海抜235mの山上にBurg Landshutランツフート城(城址)があり、そこまで登って行けます。
急坂なので結構膝にきますけど。
写真は左上から時計回りで、マルクト広場に面した小さな切妻の3階建て、ワイン酒場であるSpitzhaeuschenシュピッツハゥシェン(1416年創建)、ヘルマン・シュレーダー の広場に彼の功績を顕彰する泉(ブドウの収穫の場面)、独特の赤茶色で縁取ったルネサンス様式の美しい木組みの4階建て市庁舎(1608年)と大天使ミカエルの像の泉(1606年・町の守護聖人)、*Burg Landshutランツフート城(城址)が山上に見える。
*Burg Landshutランツフート城(城址)について:
この城の最初(993年)の所有者はドイツ皇妃が妹であった、ルクセンブルク家のAdalberoアダルベロでした。
1238年、Salm (Mosel) ザルム伯の手に渡り、その後はトリアーの大司教Heinrich von Vinstingenヴィンスティンゲン家のハインリッヒに売り渡された。
ハインリッヒの後任のトリアー選帝侯・大司教Boemund von Warsbergバルスベルク家のボーエムント2世(在位1354-1362)はベルンカステルの地を好み、ランツフート城の支柱を強化し、美しい部屋を設け、強固な石組み、堂々とした塔、堅い守りとなる胸壁の造作に大金を費やしたと云う。
その後、1692年に火災で焼失するまで、トリアー選帝侯・大司教の夏の宮殿でした。
・・・・・市庁舎 (ベルンカステル クース) 建造物
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写真参考:モーゼル川・ベルンカステル・クース山上に残るランズフート城址
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イチオシ
【Historische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレ(山間の水車)】
D- 55483 Horbruch-Hunsrueck、 An der Landstrasse 190、
全18室、4星。
クリスマスのHistorische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレ(山間の水車)=>古城ホテル ベルクミューレの外は、夕刻から降り始めた雪で白くなり出した。
クリスマスの夜を迎えた館は、予想もしなかった雪景色に包まれている。
文字通りホワイトクリスマスであった。
レストランの暖炉の薪がパチパチと燃える音を聞きながら、かつて体験したことがないクリスマスの夕べが始まった。
こんなこともあるから旅行は楽しい。
(明日の雪道走行の困難さもこの時は考えもしなかったが、幸い朝からの太陽で直ぐに雪は解けてしまい、問題はなかった)
写真は左上から時計回りで、古城ホテル ベルクミューレのクリスマスメニューの表紙、当夜のイメージがぴったりの雪の絵葉書を記念に頂いた、家内と娘達。 -
この時の写真はこの一枚だけ、当時は食事をカメラで撮ることはなかったからだが。思えばもったいないことをした。
レストランは宿泊客や近在の方々で満席のようだ。
さて、ドイツ人に「お宅のクリスマスはいつも何を作るのか?」と尋ねると、肉料理(豚、ガチョウ、チキン、ジビエ(ウサギやキジ(雉雉))を中心に、「鴨肉のロースト」や、「アヒルの丸焼き」が定番だといった、様々な答えを聞く。
私共は食べたことがありませんが、ドイツ北部では「鯉料理」がクリスマスの定番であるとか。
写真は古城ホテル ベルクミューレのクリスマスメニューの表紙。 -
【1984年クリスマスのFestessen祝宴:古城ホテル ベルクミューレにて】
古城ホテル ベルクミューレのクリスマスで頂いた夕食メニューは、普段私共が接するドイツ語の活字体文字ではなく、写真の様にいわゆる「ヒゲ文字」あるいは「亀の子文字」と云われるものでした。ドイツ語は英語と同じようにラテン字体を用いるほか、前述したようなドイツ語特有の字体を使用している。
レストラン、若しくはシェフの特有のシャレ、粋、思い入れなのでしょうが、見た目に歴史や字体の美しさも感じる「ヒゲ文字」は、外国人の私共には目の前のひとつの単語すら実に難しく、理解できないものでした。
当時はデジカメのような便利なものも無いし、料理毎に写真を撮るという事を意識してやったことが無かった。写真があれば、まだ料理内容も思い出すこともできたかもしれませんが・・・。
この為、じっと文字をにらんで、様々に想像して、しかもPCで補助検索しながら、何とか手元にあった当夜のメニューを訳してみました。
以前母が残した日記の言葉が理解できなかったように、メニューの中にはどうしても読めない文字がいくつかありました。
その点は御許し頂いて、勝手ながら意訳!いえ誤訳!をさせて頂きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真は古城ホテル ベルクミューレのクリスマスメニュー。 -
【Festessen : Am 1.Weihnachtstag 1984】
1984年のクリスマスの祝宴
・・・・
Als Aperitif reichen wir Ihnen
Warmer Viez mit Flachenbrot ,
Griebenschmalz , Salinensalz .
本日の食前酒には平たいパンとグリーブラード(Schmalzbrot豚脂パン と呼ばれる)、塩を添え、温かい*ヴィエズ(リンゴ酒)を提供します。
*家内の記録で、日本的な湯飲み茶碗の様な器で飲む暖かい食前酒(リンゴ酒)はとても美味しい飲みものでしたとある。想像するにラインラント・プファルツ州西部とザールラント州北部で、Viezヴィエズと称される(通常、強い酸性含有量を持つ)リンゴ酒または洋ナシ酒に付けられた名前の酒であったと思う。
皆さんが好んで飲まれる、クリスマスマーケットで提供されるGlühwein (グリューワイン)のようなものを考えると理解しやすい。
・・・
Fasanesuppe mit Kräuterklößchen
雉(キジ)肉のスープにハーブ入り肉団子が入って。
*Der Fasanデア・ファザーンというドイツ語は雉(キジ)ですが、1984年のクリスマスの夕食のメニューに出てきました。
このFasanという単語が分からないので、給仕さんに聞いたところ、何やら説明してくれましたが、その説明にもイメージが湧きませんので、困りました。
隣の席にはやはりクリスマスを祝って、子供連れの家族が居て、私と給仕さんのやり取りを聞いていたのでしょう。お父さんが、長男に「あれを持ってきたら」と言ってくれました。彼が車から持ってきたのは、絵本でした。そして、その中のキジの絵を指し示してくれたのです。
私も家族も「そうか!」と皆納得し、お隣の家族に大いに感謝したのでした。
それでクリスマスメニューを楽しく、とても美味しく頂けたのです。
・・・
参考写真:初歩のドイツ語・昇龍堂出版・奈良文夫著・1967年版【ドイツ語のドイツ字体:「ヒゲ文字」あるいは「亀の子文字」】 -
Rapunzel
mit ?oel Dressing
und geräucherten Gänse Bruststreifen
*ラプンツェル、
?オイルドレッシングをかけ、ガチョウの胸肉燻製の薄切りを添え。
*ラプンツェルとはレタスと訳される事が多いのですが、 本当はノヂシャという植物の事です。ヨーロッパ原産で、葉をサラダに使います。妊娠中の女性が食べるのに良いとされているそうです。ノヂシャという植物が一般的に知られていなくて馴染みがないため、和訳の際に誰もが知っているレタスにしたのだと云われている。別名「小鳥のサラダ菜」。
・・・
Schweinefilet
im Mangoldblaetter eingebuellt
und im Blätterteig gebacken,, dazu schmecken Pfifferlinge im Kartoffelkoerbchen.
フダンソウ(不断草=Swiss chardスイスチャードの和名)の葉で包まれ、パイ生地で焼かれた豚ヒレ肉、ジャガイモのバスケット入れに美味しいアンズタケを添えて。
*Pfifferlinge (アンズダケ)
・・・
Zimteis
mit Holundersorbet im Baumkuchenring
シナモンアイスクリーム、
バウムクーヘンリンクにライラックのシャーベット添え。
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Frohe Weihnachten
und ein gutes Neues Jahr
メリークリスマスそして新年あけましておめでとうございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真参考は古城ホテル ベルクミューレのレストラン・・・上が暖炉のある2階、手前が1階のレストラン、奥に一段下がったレストランでは水車が回るのが見える。 -
イチオシ
尚、クリスマスメニューは一人DM48のコース、
26日にホテルに支払ったのは総計DM451.5(@DM1=100円)だったと記録が残っている。
写真参考は当夜のイメージがぴったりの雪の絵葉書を記念に頂いた・・・古城ホテル ベルクミューレの雪景色はこんな様子。 -
写真参考:古城ホテル ベルクミューレの部屋はしゃれていた。
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写真は左上から時計回りで、ランツフート城址に登って、ベルンカステルの旧市街や葡萄畑を望んだもの、フンスリュック高地街道の観光マップを描いた絵葉書、デュッセルドルフのクリスマスカード。
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写真はドイツの古城ホテル&レストラン・・・文字通り鄙(ひな)には稀な古城ホテル ベルクミューレの紹介ページ
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写真はドイツの古城ホテル&レストラン・・・古城ホテル ベルクミューレの紹介ページ
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写真は1984年Gast im Schlossガスト イム シュロス(古城ホテルの滞在)の冊子・・・Historische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレ(山間の水車)=>古城ホテル ベルクミューレの紹介ページ(右上)
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イチオシ
【2006年春・ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅】
期間 : 2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
目的地: 今回の旅の目的地は二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”が第一です。
そして週末や休暇の帰途に、何度も立ち寄った“ライン・モーゼル川の流域等”を懐かしむ旅です。
<使用レンタカー>
メルセデス・ベンツ C-220-D 2200CC ディーゼル オートマチック :
写真は2006年5月懐かしの地再訪:左上から時計回りで、
古城ホテルHistorische Schlossmuehleヒストリッシェ・シュロスミューレ(以前はBergmuehleベルクミューレと称した)、
レンタカー:メルセデスC220-D 、ライン流域の有名なBurg Katzブルグカッツ=猫城(1370年カッツェンエルンボーゲン家が築城)と城下のメルセデス、
ライン川Bingenビンゲンから対岸のRuedesheimリューデスハイムにAutofaehreフェリーで渡る(3分の乗車時間、左の白い車が私のレンタカー)、
メットラッファのヴィレロイ・ボッホ陶磁器美術館にて、
クロフの自然のいたずら(ザール川の蛇行)。 -
05.11(木)快晴25℃ 、230km(今日で通算1015kmと予想の半分を超えた)
*9:15Burg Daunダウン城をスタート。B421=>9km、Daun/Mehrenで、A1・E44・A602=>56km Trier、B49・51=>9km、モーゼル川とSaarザール川の合流点・Konzコンツから、ザール川沿いに走ります。B51=>15km、Saarburgザールブルク=>25km、今日の第一目的地・メットラッファには11:00。Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ・Porzellan Museum陶磁器美術館を見学。=>7km、Cloef“Schlemenstreich der Natur・自然のいたずら(ザール川の蛇行)“。クロフを14:10出発。B51=>25km、Saarburgの城址(10世紀)、
写真は2006年5月懐かしの地再訪:アルバムの表紙に冊子を切り抜いて貼ってみた。 -
今日の第一目的地・Mettlachメットラッファ(人口3500人)はフランスやルクセンブルグの国境にも近い小さな町で、Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ の企業城下町でもあり、Porzellan Museum陶磁器美術館を見学した。
マイセンに遅れること39年後の1748年に現在のフランス・ロレーヌ地方(かつてのドイツ領)に創業した。その後、ルクセンブルク王国にも工場を設立し、ハプスブルク家の援助を受け、王室御用達の窯として発展する。
1836年、同業者であり、ライバルでもあるヴィレロイ家と合併し、「ヴィレロイ&ボッホ」となり、ドイツ・メットラッファに本社を構えた。
いち早く機械化と量産体制を進め、グラス・リネン類までトータルコーディネートする世界三大陶磁器メーカーの一つとなる。
日常使用に耐える堅牢さで人気を得ている窯である。
我が家もドイツ時代、その後の旅でも好んで購入し、いまだ現役である。
<陶磁器美術館>には様々な色合い、デザインによるテーブルセッティングがとても美しく飾られている。まるで、あるお宅の居間、テラス、台所のテーブルように。最近のデザインはしゃれた、モダンなものが多いと思うが、やはり中には伝統的なモチーフのもの(例えば、緑の線で縁取られた、サクランボのモチーフの紅茶セット)も有る。
探してみましたが、我が家のモチーフは見つかりません。
奥まった広間は、創業期からの歴史の変遷を陶磁器の作品で見せていくもので、大変興味深いもの。
<ドイツの陶磁器>
2001年には古城街道を走り、ドレスデン近くの【Meissenマイセン】を、2005年もメルヘン街道沿いにある、【Fuerstenbergフュルステンベルク】とドイツの誇る陶磁器を見てきましたが、今年はVilleroy&Bochヴィレロイ・ボッホを訪ねた。
18世紀後半、ドイツでの磁器窯隆盛の時代、「ドイツの七名窯」に挙げられた、歴史ある由緒ある名窯は、第一にヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meissenマイセンであり、Hoechstヘキスト・Fuerstenbergフュルステンベルク・KPM Berlinベルリン・Nymphenburgニュンフェンブルグ・Frankentahlフランケンタール・Ludwigsburgルードヴィクスブルグです。
その後、18世紀の半ばから、ドイツ各地に磁器窯が造られ、ドイツに於いて、マイセンがキングなら、ドレスデンはクイーンと例えられているDP Dresdenドレスデンや、Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ、Rosentahlローゼンタール、Hutschenreutherフッチェンロイター、Kahlaカーラ等が創業されている。
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写真は2006年5月懐かしの地再訪:Mettlachメットラッファ・Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ のPorzellan Museum陶磁器美術館 -
メットラッファから7km、10分と近い隣町のOrscholzオルショルツのCloefクロフからの眺望は素晴らしいと、Aral Auto Buch (1974/75版の観光本)に写真入りで記載されていて、ザール川が“Schlemenstreich der Natur・自然のいたずら“と言われる、輪のようになった蛇行の様子が眼下に見られると書いてある。
第二目的地・クロフは駐車場から、森の中を数百メートルを歩くと、眺望小屋があり、眼下に、緑の半島が横たわっていた。
右手のザール川は上流Saarbrueckenザールブルュッケンから流れきて、左手のザール川は下流のSaarburgザールブルグに流れていくわけだ。
川はここで、ぐるりと大きく輪を描きながら、蛇行しているのが良く見える。なるほど “自然のいたずら“とは上手い表現だ。
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写真は2006年5月懐かしの地再訪:Cloefクロフからの眺望・“Schlemenstreich der Natur・自然のいたずら“ -
B407=>Irschイルシュ、Zerfツェルフ、Kellケル、Reinfeldラインフェルト、32km、この道はHunsrueck Hoehenstrasseフンスリュック高原街道と称し、陸の孤島とも言われるフンスリュック地方を走り、森の中の、山の中の町や村々をつないでいる。アイフェルの山の道と同様にアップダウンのある道でしたが、こんな道でも、地元の連中は100kmを越すようなスピードで走り、ちんたら走っている?!私のメルセデスを追い抜いていく。
B327=>Malbornマルボルン、Thalfangタールファンク、Morbachモルバッハ 29km、=>Hochscheidホッホシャイド 11km、L?=>2km Horbruch-Hunsrueckホルブルッフ・フンスリュック 16時に早々到着。
古城ホテルHistorische Schlossmuehleヒストリッシェ・シュロスミューレに1泊、夕食。
写真は2006年5月懐かしの地再訪:モーゼル地方とフンスリュック地方のMap -
1984年のクリスマスの滞在から、22年ぶりとなるHistorische Schlossmuehleヒストリッシェ・シュロスミューレ(以前はHistorische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレと称した)は2度目の訪問になる。
思い出のヒストリッシェ・シュロスミューレはいつも走るモーゼル川畔のBernkastel-Kuesベルンカステル・クースからも近い。この場合はモーゼル川沿いの道から南側の台地に上り、台地上を走る道を行く。
この日はザール川流域から走り始めて、フンスリュック高原街道を走って来て、フンスリュック地方の山間地にひっそりとたたずむ、小さな古城ホテル ヒストリッシェ・シュロスミューレを訪ねた。
ホテルは山陰の見つけにくい場所にありました。
村道を走ると、丘の陰に隠れているようにこの館はある。
グレーの屋根、クリーム色・・・昔と変わらぬ佇まいでその館は立っていました。玄関前には以前には無かった、冠を被った小さな女の子とカエルの噴水(多分童話のカエルの王様をイメージした)があって、このホテルのメルヘンチックな特徴を最初から見せている。
館の玄関を入ると、直ぐロビーから、しゃれたレストランがあり、その一段下がった席の窓からは水車が回っている様子が見て取れる。
レストランのある本館から、それにつながる棟の階段を上がった通路には、童話の本や、人形、衣装、陶器の置物等のショップも設けられている。
ちょっと太目のお嬢さんに案内された、2階の一番奥まった部屋は、水車小屋に因んだ「Haferstubeハーファーシュトゥーベ(麦の部屋)」の名でした。他の部屋にもフクロウ、ノスリといった鳥の名前等が付いているようである。
こぢんまりした部屋ですが、女の子が喜びそうな家具が置かれ、きれいな装飾がされている。オーナーの奥方アンネ・リラー夫人のアイデアー・デザインなのでしょう。
部屋の窓からは直ぐ下に小さな池が見える。辺りは野原と林に囲まれた、ほんとに静かな風景だ。
ホテルのパンフレットに【自然の光や、刻一刻変化する雲の動きを眺め、小さな小川の静かなせせらぎの流れに、貴方の頭の中を真っ白に自由にし、心に風を取り込んでください。】と書かれている。
旅初めてのゆったりとした時間を庭に出て、味わう事としよう。庭にも陶器の子供たちの人形が飾られ、パラソルの下にテーブルが置かれている。
若いカップルが池の側のロッキングチェアーで本を読んでいる。後で聞いたところでは、ケルンの新婚さんだそうだ。
池や館の周りを一回りして、テーブルに座り、“ココアとコーヒー”で一休み。
心に風を取り込めたようだ。 (17:15~18:00、Euro 6.5)
写真は2006年5月懐かしの地再訪:小さな古城ホテル ヒストリッシェ・シュロスミューレの外観、庭園や池など・・・写真左下は裏手の館の側面を写したものだが、2階奥の部屋が宿泊した「Haferstubeハーファーシュトゥーベ(麦の部屋)」である。 -
イチオシ
【Historische Schlossmuehleヒストリッシェ・シュロスミューレ(歴史的・城の水車と呼ぶ古城ホテル)】
D- 55483 Horbruch-Hunsrueck 、An der Landstrasse 190、
全18室、4星。 Haferstube(麦)の部屋=Euro 120(@1Euro=145円)
TEL:49(0)6543-4041
ライン川の中流の町、マインツからライン川の支流モーゼル川上流の町、トリアーにかけて、弧を描いて流れるモーゼル川を挟んで、なだらかな丘陵地帯が続く。
この丘陵の南、陸の孤島とも言われる、フンスリュック地方の中ほどにこのHistorische Schlossmuehleヒストリッシェ・シュロスミューレ(歴史的・城の水車)と呼ぶ古城ホテルがある。
(昔はHistorische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレ(歴史的・山間の水車と称していた。この表現の方が実際はぴったりするが、聞こえの良い名前にしたようである)
1804年に館が建てられたが、近くの水車小屋を移築して、小麦の粉をひいていたとか。1973年にホテルに改造し、鄙にはまれなシャレタ、ホテル・レストランにしたもの。
作家グレアム・グリーン(1904~91年、世界的名声をもつ英国人作家:第三の男、ハバナの男、密使などの作品)が此処に一週間滞在し、“ドイツ日記“を書いたそうだ。
私共にとっては、1984年のクリスマス(12月25~26日)に家族旅行で1泊した古城ホテル。夕刻から雪が降り始めて、泊まったホテルは文字通りのホワイトクリスマスだったという、思い出深いホテルである。
ホテルのレストランはゴー・ミョー、アラルで13点。
このプチホテルはオーナー兼シェフの奥様Anne Lillerアンネ・リラー夫人のインテリアセンスが見事なもので、それだけでも魅力的な、楽しいホテルでした。
・・・・・
【Wiesenkräutermärchenヴィーゼンクロイターメルヘン= 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本】
2006年5月11日、ラインラント・プファルツ州の陸の孤島とも云われているHunsrueckフンスリュック地方にある古城ホテルHistorische Schlossmuehleヒストリッシェ・シュロスミューレ(以前はHistorische Bergmuehleヒストリッシェ・ベルクミューレと称した)を訪れた際に頂いた本である。
1996年に出版されたRüdiger Lillerリュディガー・リラーによる素晴らしい、ハーブレシピ付きの書となっている。
メルヘンチックな絵表紙、最初の頁に加えて、各種薬草17頁、絵に合わせた文章17頁、レシピ紹介文とレシピ10頁、1996年に初版、版権・住所の頁、裏表紙の絵など総数52。
写真参考(スキャン)は2006年5月懐かしの地再訪:<Wiesenkräutermärchen 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本> -
著作者など:
ホテルのオーナー兼シェフのRüdiger Lillerリュディガー・リラー氏がレセプト(レシピ)の提供、
Anne Lillerアンネ・リラー夫人が本のアイデアー(企画)、野菜の知識の提供をし、多分文章も書いたのだろう。
画家・イラストレーターのAnita Büscherアニタ・ビュッシャーさんが絵を描いている。つまり三人の共著本でした。
写真はWiesenkräutermärchen 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本の裏表紙(企画者・著者、ホテルオーナー兼シェフ、画家・イラストレーター) -
【画家、イラストレーターのAnita Büscherアニタ・ビュッシャーさん】
<彼女の履歴と職歴>
1940年のクリスマスにOggersheim am Rheinオッガースハイム・アム・ラインで生まれた。彼女は、幼少期を西プファルツ地方の田舎で過ごし、マンハイム長年住みました。その後はシュトゥットガルト、ハイルブロン近郊のSchloss Weilerヴァイラー城、そして最後はドイツワイン街道のKönigsbachケーニヒスバッハに住み、2012年のイースターに72歳でケーニヒスバッハで亡くなりました。
1974年以来、ドイツ、フランス、オランダ、スイス、オーストリアで70回以上の個展を開催した。作品である書籍やカレンダー、その他の出版物の出版を行い、国際絵画コンクールなどの入賞も多数あり、ポスター、パンフレット、広告などのコンクールでも入賞した。
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(2023年12月19日Wiki・HP参考、訳・編集加筆)
写真はWiesenkräutermärchen 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本のの一頁・・・Bärenklauベーレンクラウ(熊の爪)はハナウド( Heracleum )のことで、 茎の高さは0.5~2mになる。茎は太く中空で長い毛があり、直立して上部は分枝する。葉柄の基部は鞘状にふくらむ。セリ科 の 属 の一つ。 -
写真はWiesenkräutermärchen 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本の一頁・・・Himbeersprossenヨーロッパキイチゴの発芽。
尚、Himbeereヒンベーレ(ヨーロッパキイチゴ:木苺)はバラ科キイチゴ属の1種およびその果実。ラズベリーの1種である。ヨーロピアンラズベリー ともいう。 -
写真参考は2006年5月懐かしの地再訪:<Wiesenkräutermärchen 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本>・・・Wiesenkräutersuppe野原の薬草(ハーブ)のスープ _rezeptレゼプト(レシピ)
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【夕食:古城ホテル ヒストリッシェ・シュロスミューレのレストランで】
19:00~22:00、Euro137(@1Euro=145円)
19時にホテルのレストランへ降りていく。
洗練された空間であるレストランの2階、予約席は暖炉の前でホテルの配慮を感じた。暖炉は鏡や陶器の人形、蝋燭立て、ブランデー、グラスなどで飾られていた。
泊まり客なのか、地元の方なのかは、判然としませんが、2組の若い男女のグループ、4組ぐらいの夫婦が今日のゲストのようである。
レストランの木の壁には、『ゴー・ミョー、アラルの13点の格付け』が額に入って、掲示されている。2階、1階そして、水車が見える一段下の細長い場所に席が設けられており、しゃれたテーブルセッティングで整われたテーブル席が、全部で十数ほど用意されていた。
さて、オーダーです。
今夕のメニューは「Unsere Gemuesegarten-Menue(我が家の野菜畑というメニュー)3品・Euro35)」を家内が、
私は「Das Kuenstler-Menue(芸術家のメニュー)4品・Euro55)」です。
ア・ラ・カルトでも頼むことができ、このメニューの其々の一品毎に値段がついているので、それを頼めば良い訳だ。
①アペリティーフ:
今夜は珍しく、お奨めの“Bluetenzauber(花々の魔法)”をお願いしました。
これは自家製のライラックをジュースにして、辛口モーゼル・リースリング・ゼクト---ドイツではシャンパンをこう呼びますが---と混ぜたもの。聞くだけでも美味しそうですが、大変イケルものでした。(Euro13)
ワインは“Melsheimerメルズハイマー、2005年Rieslingリースリング、Qualitaetswein、Trocken辛口、Mosel-Saar-Ruwer(モーゼル・ザール・ルーヴァ)”の白です。(ZellツェルとTraben-Trarbachトラーベン・トラーバッハの間、Reilライルの醸造所Melsheimerメルズハイマーは19世紀中頃からワイン造りを始めたという。フルーティーで、酸味も程よいワインでした:Euro 23)
②シェフの御挨拶:
“Amuse”はしゃれた絵柄の皿に、“小さなトマトと茸に、鹿肉のテリーヌ”がでてきました。本日の夕食の素晴らしさを予感させる味です。
写真は2006年5月懐かしの地再訪:予約席はホテルの配慮を感じた暖炉の前で。 -
<家内のUnsere Gemuesegarten-Menue(我が家の野菜畑メニュー)>
①前菜
“小麦の焼き菓子にズッキーニやトマトを添えたもの”
②スープ
次が白い碗に入った“炒ったブナの実が入った、パセリのスープ”
③メイン
“ライン地方のシュパーゲル料理、新ジャガとオランダ風ソース“
と見事に野菜尽くめでした。
<私のDas Kuenstler-Menue(芸術家のメニュー)>
①このメニューもこれまた、凝った前菜
”子牛肉のレバームースに、鶉の卵、少々のサラダ、それに葡萄汁のゼリーを添えたもの“、
②スープ
上が広がった、茶色の深めの皿に”雛菊の小さな花がのった、キャベツの緑のスープ“、
③メイン
白に金で縁取りされた大きな皿に”ヘラオオバコのシロップをかけた、鴨の胸肉。アーモンド・ブロッコリ、パン小麦の麺添え“でした。
④最後のデザート
これも金色に縁取った皿の上に、ガラスの皿をのせ、その中に”鶏の形のカップに入った、甘いカラメル焼きのクリーム、美味しいラバーバのアイス、キウイ添え“が出てきました。
アンネ・リラー夫人の好み、拘りで統一された、すてきな食器が使用されていたのに驚いた。其々の料理はたいへんセンスのある、まろやかな味付けで、私共好みの美味しさでした。
たいへん満足した夕食も終わり、旅の半分が過ぎました。
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写真は2006年5月懐かしの地再訪:我が家の野菜畑というメニューと芸術家のメニューを楽しんだ夕べ。 -
何故、ここがゴー・ミョー、アラルで13点と格付けされているのか?!理解できないもので、明らかに星一つのレストランに匹敵すると言っても良いのではと・・・スタッフのちょっと太ったお嬢さんにそう言って、味を誉めた所為か、本を1冊頂きました。
『お料理にご興味がおありならば、是非これを!』と言って、くださったのですが、『Wiesenkräutermärchen 野原の薬草(ハーブ)をメルヘン風に描いた楽しい本』は大変美しい色合い、独特のメルヘンチックな表紙、挿絵の立派な本でした。
拝見すると、ホテルのオーナー兼シェフのRüdiger Lillerリュディガー・リラー氏のレシピの提供、奥様Anne Lillerアンネ・リラー夫人が本のアイデアー、野菜の知識の提供をし、画家・イラストレーターのAnita Büscherアニタ・ビュッシャーさんが絵を描いている、三人の共著本でした。
中には童話と共に、巻末には例えば、キャベツのスープ、雛菊のサラダ、鴨の胸肉料理、ジャガイモのピューレ、西洋夏雪草のシャーベットなどのレシピが有りますが、これはオーナーシェフのRüdiger Lillerリュディガー・リラー氏の提供したレシピです。
ホテルのパンフレット・HPもそうですが、館の各所や、部屋にもこの絵のモチーフが一杯である。二人の御子さん達、息子さんとも思われるAlexander Lillerアレクサンダー・リラー氏、Anita Buescherアニタ・ビュッシャーさん共著の「*Dareiosの不思議な旅」といった冊子も置いてある。
*Dareiosダレイオス1世の事か?・・・アケメネス朝ペルシアの王
写真は2006年5月懐かしの地再訪:右上から翌朝出発前に撮ったゴー・ミョー13点の格付け証、水車が見られる席で記念に撮った、昨夜の2階暖炉前の席を、Napoleonstubeナポレオンシュトゥーべでの朝食にも感心した。 -
05.12 (金) 快晴 26℃ 、156km(ここまでの合計1171km)
Horbruchを9:30にスタート。B327・50->2+5km、Morbach-Wederath、B50->3km、L?->14km モーゼル川に向い、ブドウ畑の丘を下っていく。Muelheim で“ドイツモーゼルワイン街道”川の左岸を走るB53に入る。モーゼル上流に。
*Napoleonstubeナポレオンシュトゥーべでの朝食は、Hutschenreutherフッチェンロイターの食器で統一されたテーブルで、豊かなドイツの朝食を頂く。
隣の書斎部屋ではオーナー夫妻がお食事中らしい。後から新婚さんが来ただけなので、昨夜の泊り客は2組であったようだ。
食事の後、レストランで写真を撮っていると、オーナーが費用の清算の為に来る。『料理の美味しさはゴー・ミョー、アラルの格付け13点を充分、超えたものだ』と申し上げるとオーナーシェフは大変喜んでくれた。我々の話し声を聞いて、アンネ夫人も会話に参加することに。
『素晴らしい食器を使った、テーブルセッティングや、館内の飾りの美しさにとても感心している』とか、『1984年のクリスマスにここに泊まったが、なんとその夜はホワイトクリスマスになったのですよ』『そう云えば、あの時のご家族でしたかね!?なにやら、思い出すわ』と親しく、楽しい会話になる。
『我々は2年前、60歳で年金生活に入り、20年前のドイツ駐在時代を懐かしんで、毎年ドイツの各地を旅しているのですよ』オーナー曰く、『私も1973年、30歳の時からここでホテル・レストランを始めて、もう人生の半分ともなる33年だ。先年、病気をして、すっかりスマートになった。そろそろ引退を考えてもいるのだが、2人の子供はこの仕事は継ぐ気がない。そんなこんなで、なかなか辞められないですよ』それを受けて、夫人が『63歳の主人が元気なうちに、孫の5人の中で、一番向いていそうな子に、引き継いでもらいたいと思っています』と・・・。
20年前にお会いした印象はお嬢さんのような、若々しい美人であったアンネ夫人、初めて見るご主人とご一緒のところは、上手に年を重ねた美男美女でした。
ご一緒に写真を取らせて頂き、『道中お気をつけて』の声を聞きながら、ホテルを9:30にスタートした。
前述の言葉から思えば、私共と同い年の1943年生まれのシェフ、孫5人との事ゆえ、この点も同じだった。
写真参考:Napoleonstubeナポレオンシュトゥーべ(ナポレオンの間)・・・朝食の間 -
さてそのホテルも、同年輩のご主人が一時闘病生活をしたと言い、この先の経営に不安もあると言っていましたし、孫娘がホテル経営に興味を持っているので、それに期待しているのだとも・・・。
その後はどうしているのか・・・。
(2018年の地域新聞に、オーナーRüdiger Lillerリュディガー・リラー氏がホテルの売却を希望しているとの記事が出ていた。
その後はコロナ禍の影響もあっただろうと推測するのだが、2023年にグーグルで検索すると、残念だがホテルは<閉業>と表記されていた。実に残念なことだ)
写真は2006年5月懐かしの地再訪:2006年古城ホテル シュロスミューレ(古城ホテル ベルクミューレを改名)で頂いたAnita Büscherアニタ・ビュッシャーさん作のカレンダー2007年版 -
<Eifelアイフェル地方のKloster(Abtei)Maria Laachマリア・ラーハ僧院>
1984年12月25日のクリスマスにマリア・ラーハ僧院を訪れたが、クリスマスのミサの最中だったので、遠慮して外構のみの参観に止めた。
2016年10月20日(木)、秋も深い、雨の降る寒い日だった。リベンジの意味もあって、久しぶりに再訪することとなったマリア・ラーハ僧院である。
(この僧院については1984年の説明を参考)
写真はKloster(Abtei)Maria Laachマリア・ラーハ僧院:6塔あるラーハ大聖堂の正面 -
写真はマリア・ラーハ僧院:聖母マリアとミラの聖ニコライを祭る僧院教会には迫力あるキリストのモザイク画のある大聖壇がある。
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写真はマリア・ラーハ僧院:祈りの彫像
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写真はマリア・ラーハ僧院:バジリカのガラスの中に、13世紀の僧院建設者であったプファルツ宮中伯ハインリヒ・ラーハ2世が木彫りを施した蓋で覆った石棺に生きるがごとく、大事に敬われていたのが印象的であった。
-
この日、アールワイン街道の拠点Bad Neuenahr-Ahrweilerバード・ノイエンアール・アールヴァィラーという保養地に向かう途中に、マリア・ラーハ僧院を久しぶりに再訪したのだ。
この時は時間がずれて「お茶」になった。
<お茶:Seehotel Maria Laachゼーホテル(湖畔ホテル)マリア・ラーハ>
D-56653Maria Laach 、Am Laacher See
14:50~15:30 Euro18(2,320円)
1865年創業、僧院教会附属のホテルは4星・全69室と中規模。
現代的なホテルである。
ラーハ湖畔に面したホテルで、美しい庭園を眺めながらお茶を楽しみました。
写真参考:2016.10.20.See Hotel Maria Laach ゼーホテル(湖畔ホテル) マリア・ラーハ -
写真参考:2016.10.20.See Hotel Maria Laach ゼーホテル(湖畔ホテル) マリア・ラーハの庭と湖水の眺望
-
美しく改装されたゼーホテルのレストランでお茶の時間を楽しんだ。
その味にたいへん感心し、にこやかなサービスに満足した。
今日の飲み物はKaennchenケンシェン(ポット)でダージリンの紅茶4.9X2=Euro9.8、この日のケーキはケーキのショーケースまで行って注文、いろいろとあって目移りしたが、結局食べ慣れているリンゴと木苺3.5X2=Euro 7にしました。
美味しいケーキに十分な量の紅茶、スタッフのサービスも良く、満足でした。
写真参考:2016.10.20.See Hotel Maria Laach ゼーホテル(湖畔ホテル) マリア・ラーハでお茶
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(2023年12月20日Wiki・HP参考、訳・編集追記) -
2023年のクリスマスから、新しい年である2024年を迎えます。
この写真は我が家の両方を兼ねた装いです(笑)。
・・・家内からひと言あり、新年は別の装いとなるらしいです。
因みに今年は暑い夏の所為か、柚子が良くなりました。
真ん中の柚子は細い枝に7個が付いています。
1m80ぐらいの木に総数190個(昨年は80)が取れました。
娘達や友人に配って、柚子湯用、柚子のジャム用に利用してもらいます。
本年も皆様のお立ち寄りに感謝します。
ありがとうございました。
メリークリスマス!
そして、
良き新年をお迎えください。
jijidaruma
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