1974/05/01 - 1974/05/01
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jijidarumaさん
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思い出のある品は小さな贈り物、手紙、アルバムの写真であれ、なかなか捨てがたいものです。
とりわけ30歳で、初めて海外生活を営んだドイツでの様々なものは、何時になっても捨てる事が出来ない。
ドイツ党とか、ドイツ学派とか、ちょっと冷やかしの異称で呼ばれた私、何十年経った今でも重宝して使用する事もある。
写真は1974年当時、西ドイツの首相であったシュミット氏が愛用したシュミット帽子と同じデザインのもの。
- 旅行の満足度
- 4.0
-
イチオシ
ドイツ駐在当初の1974年に購入した「革鞄」は値段もソコソコしたものだが、出張の際に重い書類を携行するには分厚く、丈夫なもので、これを持って出かけると、半人前がなにやら一人前の商社マンになった気分がしたものです。
(実はかつての上司が持っていたのが、これに似た革鞄でした)
写真は1974年、ドイツ駐在当初購入した革鞄。 -
そして、1974年4月、引継ぎを終えた前任者から帰国前に譲られた「革コート」は相当に着古しましたが、見栄えはともかくとして、十分に暖かく現役です。
写真は1974年4月、前任者から帰国前に譲られ、着古した革コート。 -
また、雪の日には重宝した「靴」、これも前任者に頂いたもので、滑らず、暖かく、もし今年も雪が降れば使用したことでしょう。
写真は1974年4月、前任者から帰国前に譲られた靴。雪の日には重宝した。 -
しかも、長めの脚付き「白ワイン用グラス」も前任者からワンセット6個を頂きました。
ワイン好きで、この方に短い2ヶ月の引継ぎ期間ながら、ワインの事にはじまり、ドイツ生活の様々な事をいろいろと教えて頂いた。
ウイスキーグラスはともかく、日本では洒落たワイングラスなどを持っていなかっただけに、海外生活のスタートではたいへんお世話になったグラスである。
この形が好みにあい、更にワンセット6個を追加購入した。
写真は1974年4月、前任者から帰国前に譲られた白ワイン用グラス。上の真中、長めの白ワイン用グラス、ワンセット6個を頂いた。 -
前任者は某大企業の社長の一人娘と結婚された方で、3年上でした。
当時、デュッセルドルフ郊外の家に住み、某大ゴルフ部副将だった学生時代から鳴らしたゴルフはシングルで、当時デュッセルドルフ郊外にあったドイツの名門ゴルフクラブに入会し(普通の日本人駐在員は入会出来ない)、クラブチャンピオンにも何度かなったと云う。
乗用車はMercedes-Benzメルセデス・ベンツ3500ccスポーツタイプの最高級車という凄いのに乗り、奥さまにはBayerische Motoren Werke 、略したBMWベー・エム・ヴェーがありました。
ハンブルク支店駐在からデュッセルドルフ本店に異動し、その日頃の生活から、日本人駐在員たちからは浮いていましたが、後任者の私には実に親切でした。
妊娠していた奥様が先に帰国されたあと、そんな彼でしたから、最後の単身生活で使用していたものを気前よく、貧しげな!!(いや貧しかった)私に譲ったのでしょう。
写真はミュンスターの古城ホテルで:1976年末、1977年始の旅でしたが、革コートを着ています。古城ホテルという楽しみも前任者に教わったのでした。 -
イチオシ
ある日、デュッセルドルフの帽子屋で西ドイツの名宰相と謂われたHelmut Schmidtヘルムート・シュミットBundeskanzler首相が愛用した所謂「シュミット帽」と同じデザインのものを帽子屋で見つけて、一つ購入しました。
TV・雑誌で見るシュミット氏の格好良さについつい魅かれて買ってしまったのですが、実際に被ってみると、どうもおさまりが悪く、似合いません(苦笑)。それで今もきれいなまま、大事にタンスの中に納まっています。
写真は1974年当時、西ドイツの首相であったシュミット氏が愛用したシュミット帽子と同じデザインのもの。 -
学生時代は運動部で、角帽を日頃被った事が多かったから、帽子には全く違和感はなかったのですが、シュミット氏の格好の良さにツィ買ってしまったものの、私にとっては残念ながら、宝の持ち腐れになっています(笑)。
(ついでに言うと、この角帽も油と靴墨、誇り!もとえホコリと汗で、少々のカビ?でがちがちになっていますが、これも捨て去りがたく、持っています^^。本来なれば写真にも載せたいのですが、これはいささか汚く、ドイツとは無関係なので止めておきました)
写真は2ユーロ記念硬貨Deutschland 2018,名宰相と謂われたHelmut Schmidtヘルムート・シュミットの生誕 100周年記念。 -
さて、ドイツ体験も長い知人から、
「写真の大切にされている品々は100%Deutsche Wertarbeit価値あるドイツ製かと思います。1970年代当時のものであれば、現在のように海外でパーツを作らせ調達して、ドイツ国内でアセンブリングしたものではないでしょうね。さぞ頑丈で、使えば使うほど味の出るような高品質かと思います。
思えば当時のドイツ製は車を筆頭にタイプライターでもラジオでも鞄でも万年筆でも、イヤでも壊れないような印象がありました。それに、私にとっても羨ましい思いとなりますのは、やはりシュミット帽!(笑)」と言われた。
写真は名宰相と謂われたHelmut Schmidtヘルムート・シュミットの生誕 100周年記念切手。 -
同時期にドイツで生活した体験者の知人曰く、「ヘルムート・シュミット」という存在に、実際にある期間ドイツに住んでいなければ親しみが沸かないし、その印象も薄いかもしれない。が、やはりシュミット帽!は魅力的なのですよ」と。
写真は2007年(89歳)のシュミット氏 -
確かに、モンブランの万年筆は父に土産にあげて、大いに喜ばれたものです。
近年のモンブランのボールペンの書き心地の良さ、しかもインクが驚異的に長い間、切れません。
ドイツの伝統の品は長く使ってみれば、その良さに納得します。
日本は様々な分野でドイツを手本にすることが多いですが、なぜこうも日本品の存在は軽いのか・・・不思議です。
写真はシュミット帽子姿 -
私にとってもドイツの駐在期間が、シュミット氏の首相在任期間(1974~1982年)とも重なり、切れ味鋭い政治家として印象が強く、親しみが沸くもので、日本の政治家の為体(ていたらく)を見聞きするたびに私にとって「ヘルムート・シュミット」という存在が大きくクローズアップされてきます。
シュミット氏と、彼に似合ったシュミット帽の事を思い出します。
古くなったが、捨てられないドイツ思い出の品、その代表が革鞄、革コート、靴、白ワイン用グラス、そしてシュミット帽といったものなのです。
XXXXX
写真はシュミット夫妻 -
(Wikiから抜粋・編集したシュミット氏の経歴)
Helmut Heinrich Waldemar Schmidtヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・シュミット(1918年12月23日 ~2015年11月10日、享年満96歳)はドイツの政治家。
両親とも教師で、「父がユダヤ人との混血児であったが、当時のナチス政権下で、父が書類を偽造してアーリア人である証明書を得た」と、シュミット自身が告白している。
第二次大戦中、1941年からは東部戦線でソ連軍との戦いに将校として従軍。
1944年、中尉・中隊長として西部戦線に従軍。
1945年4月にリューネブルガー・ハイデでイギリス軍の捕虜となり、8月31日に釈放された。国防軍予備役少佐。
1953年、連邦議会選挙にハンブルク選挙区から初出馬して当選。
1961年12月、シュミット43歳の時、ハンブルク州政府の内務相になり、連邦議会議員を辞任。内相就任間もない*1962年2月16・17日の北海大洪水では、憲法違反の懸念を恐れずにドイツ連邦軍の出動を要請して被害の拡大を防いだ彼の指導力が高く評価され、その名は広く知られるようになった。
写真はシュミット:第二次大戦では従軍配備先は東部戦線(対ソ連) -
1965年に連邦議会に再出馬して当選、すぐに議会幹事会の一員となり、1967年にはSPD連邦議会院内総務の座に就き、1968年には副党首になった。
ドイツ社会民主党(SPD所属。
1974年5月16日、ブラント首相が“ギョーム事件(首相の個人秘書が東独の諜報員であった)”によって辞任した後を受けて、急遽、Bundeskanzler(ブンデスカンツェラー)連邦首相に就任した。第5代連邦首相となったシュミット氏の在任期間は8年(1974~1982年)となる。
その他に国防相(1969~1972年)、経済財務相(1972年)、財務相(1972~1974年)、外務大臣(臨時1982年の2週間)を歴任。
写真はシュミット帽子姿と東独のErich Honeckerホーネッカー(ドイツ民主共和国第3代国家評議会議長(在任:1976年 - 1989年)およびドイツ社会主義統一党書記長) -
1983年からはドイツ随一の高級オピニオン紙として評価が高いDie Zeitディー・ツァイト紙の共同編集者を務める言論人・文化人でもある。
SPD右派で現実主義者とも云われるシュミットだが、原子力発電所の全廃にも反対で、彼のいう“いわゆる地球温暖化に関するヒステリー”にも懐疑的な目を向けている。
また第二次大戦で国防軍の行った戦争犯罪を取り上げた“国防軍の犯罪展”については“危険な極左“と激しく非難し、是々非々の立場を貫いている。
美術愛好家、音楽にも造詣が深く、自身もオルガンやピアノを弾くのが趣味である。
写真はシュミット帽子で北京の天安門広場に。 -
ハンブルクの生まれでそのことに誇りを持ち、現在もハンブルク市民に「herausragender Hanse卓越したハンザ人」と敬愛されている。さまざまな分野の賞を多数受賞しているが、ハンザ同盟都市ハンブルクの市民のしきたり!に従って、ドイツ連邦共和国功労勲章のみは授章の打診が何度もあったが断ったと云う。
写真はシュミット夫妻は愛煙家で、激動のドイツを生きてきた割に長生きですね。 -
1942年に幼馴染のHannelore Glaser ハンネローレ・グラーザー(1919年3月3日~2010年10月21日・享年91歳)と結婚。
シュミットの愛妻家ぶりは有名で、Hannelore Schmidt は“Loki ロキ”という愛称で呼ばれた。
1944年に障害を持って生まれた長男Helmut Walterヘルムート・バルターは1歳になる前に病死。
1947年に長女Susanneズザンネが誕生し、一人娘の彼女は現在Bloomberg TVブルームバーグテレビジョン職員としてロンドンに在住している。
愛妻ロキの死の夜に、シュミットはベルリンに滞在していた。
その時、彼は“日本、ドイツとその近隣諸国”というテーマでベルリンの日独センターで講演していたと云う。
XXX
シュミットとロキご夫妻が眠るお墓もシンプルで、その人柄が出ています。
写真はシュミット夫妻の墓碑、ロキ享年91歳とシュミット享年96歳。 -
*<Sturmfluten an der Nordsee北海大洪水(高潮被害)の纏め>
高潮被害の範囲も広く、ドイツやオランダ、ベルギー、イギリスといった地域が入り、歴史的にも紀元前340年頃から高潮の来襲の記録が見られると云う。
1800年以降も大きなものを数えると、31回の高潮の来襲があり、甚大な被害を受けている。
シュミットがハンブルク州内相時代の功績である北海大洪水、所謂ハンブルク大洪水はSturmflute台風による高潮被害で、1962年2月16・17日に高潮がドイツのエルベ川河口周辺を襲ったものである。
写真は1962年2月16・17日に高潮がドイツのエルベ川河口周辺を襲った。 -
この時、北海に通じるハンブルク・エルベ川畔一帯で死者340人を出した。
Jadebusenヤーデ湾(Oldenburgオルデンブルクの北25km)の東で最も高い高潮は堤防の合計400km以上を損傷した。
St.Pauliザンクト・パウリ(ハンブルクの一地区)で5.70 m、Festung Grauerortグラウエルオルト要塞で同じく5.70 m、Cuxhavenクックスハーフェンで4.95mの高潮を記録した。
写真は所謂ハンブルク大洪水:Sturmflute台風による高潮被害 -
ハンブルク州内務大臣であったシュミットが所謂ハンブルク大洪水で、被害の拡大を防いだことは、ハンブルク市民や全独の高い評価を受けた。
その後、彼の活躍は何度かドラマ化され、俳優のUlrich Tukurウルリッヒ・トゥクルなどがシュミット役を演じている。
写真は所謂ハンブルク大洪水:Sturmflute台風による高潮被害 -
近年の北海大洪水では2013年12月5日Orkan Xaverオルカン(台風)・クザバー(ザビエル)が深刻な高潮被害を引き起こした。
Syltジルト島、Ostfriesischen Inseln東フリジア諸島の土地に損害を与えた。
この時の高潮はSt.Pauliザンクト・パウリ(ハンブルクの一地区)6.09 m、Vegesackフェーゲザック(ブレーメンの一地区)5.16m、 Bremerhavenブレーマーハーフェンで4.99mを記録した。
写真はSturmflutmarke高潮の標_5.81m_1962年2月16日~17日
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(2012年02月06日、2020年8月10日更新)
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