1983/08/12 - 1983/08/14
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jijidarumaさん
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1983年8月12日(金)~14日(日)、ベルギー・ブラッセル駐在中のH君が家族でデュッセルドルフに来訪した。
学生時代の旧友H君一家はこの月の23日に日本に帰国する事となっていた。帰国前に一度会おうという事と、ついでにライン川・モーゼル川を巡りたいと云う要望で、私と家内は娘(中2、小6)を家に残して13日から1泊で御一緒したのだった。
写真はケルン大聖堂(左上)、ラインフェルス城(下左右)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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12日(金)、H家はデュッセルドルフの我が家に来訪した。我が家で夕食を共にした写真が残っていないから、その日の詳細は不明ながら、家内のメモでは「3年ぶりに再会。長男のR君は1歳4ヶ月、奥様のS子さんのお腹にも新たな命が宿り、もう7ヶ月だとか、皆さんお元気だ」と書かれている。
H君は大学時代、クラスが同じで、同じ高校の1年後輩であった。
彼はまじめな現役、私は運動ばかりで1浪、1留したから、あまり授業にも出ない学生だった。
それで、試験が近づくと、彼のきれいな字で纏められたノートをその都度借りて、彼女(今の家内だが)にノートを写してもらっていた。二人のお蔭で優の数もそん色ない数(申し訳ないがH君よりも多かった)になって、就職に際しても大変有難味を感じたものだった。
彼が車の会社に入り、私が1年遅れで商社に入った。欧州(ドイツ)勤務は私の方が早く、この頃は二度目の駐在中でした。
積もる話、駐在中の苦労話が続き、深夜の零時半まで話し込んでしまった夜、翌朝からの旅もあって、H家は市内のホテルに戻って行きました。
写真はライン川流域と古城群:ラインフェルス城からリューデスハイムまでの図デュッセルドルフ空港 (DUS) 空港
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イチオシ
翌日の13日(土)、9時半にホテルに迎えに行く。
まずは近くのKoelnケルンを訪れ、ケルン大聖堂の見学から旅はスタートした。
見上げる大聖堂の大きさ、その尖塔の上の「雲が動くたびに、尖塔が揺れているような錯覚を覚えた」と、H君が言う。
アウトバーンを走って、ライン川・Koblenzコブレンツ(ラインの源泉から591km、因みにデュッセルドルフは743km、ケルンは688kmの距離にある)に至る。
最初の写真は車を止めて、対岸に見えるBurg Lahneckラーンエック城を背景に撮っているから、ライン川の下流に向かって左岸を走る、いわゆるRheingoldstrasseラインゴールドの道(ラインの左岸城巡り)を走っている。
最初に見物したのはRomantischer Rheinロマンティシャーラインと古城群の中でも世に知られたSchloss Rheinfelsラインフェルス城(St.Goarザンクト・ゴアー、556kmの距離)です。
懐かしのラインフェルス城は正しくは城址だが、今はその敷地内に古城ホテルが営まれている。城址も以前より補修がされて、きれいになり、展望台からのライン川の流れ、猫城、ネズミ城、ローレライの岩壁などの眺望も良い。
写真はケルン大聖堂(左上)、ラインフェルス城(下左右)ケルン大聖堂 寺院・教会
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この城はGraf Diether V. von Katzenelnbogenディーター・カッツェンエルンボーゲン5世伯により1245年、ライン川のZollburg通行税徴収の目的で築城された。ライン川地方でも強固な城塞の一つで、1688年からのプファルツ継承戦争でも仏軍の攻撃を撃退する。フランス軍28千人に対し、守る城兵は3千人で大激戦になった。この時の戦いで仏軍は4千人の戦死、傷ついた者6.5千人。これに対して城兵の死者564名、傷ついた者885名であったと伝えられている。
しかし1792年、フランス革命後のフランスの侵入、ナポレオンの侵攻時には、既に近代的な砲撃に対抗できずに1794年、城は陥落する。
現在も大部分が当時のままの廃墟だが、ドイツ最大の廃城、大要塞として観光客を迎えている。対岸にはBurg Katzブルグカッツ=猫城(1370年カッツェンエルンボーゲン家が築城)が見える。
<Rheingoldstrasseラインゴールドの道・ラインの左岸城巡り>
【コブレンツからB9に沿って“ライン川を遡る”道、ラインラント・プファルツ州になる。
シュトルツェンフェルズ城、王様の椅子(Rhens)、Kloster Jakobsbergヤコブスベルグ僧院、生まれ故郷の東京都・青梅市と姉妹提携しているBoppardボッパルトの町。Rheinfelsラインフェルス城(St.Goar)、Oberweselオーバーヴェーゼルのシェーンブルグ城、フェルステンベルグ城址、ハイムブルグ城、ゾーネック城、ライヒェンシュタイン城、ラインシュタイン城、ネズミの塔、Burg Kloppクロップ城(Bingen)と様々な城がある。】
写真はラインフェルス城(2016年秋) -
1973年以来、古城ホテルとなったラインフェルス城には家族で宿泊し、また日本からのお客さんの観光に、何度もお連れした場所である。
その当時に比べると、今は観光客の人気も高く、予約が無いと昼食もできないような混雑ぶりで、驚くほど様変わりしている。
現在、ホテル・レストランの本館(かつては本館の36室のみ)に加え、新館のヴィラが道路をまたぐ橋を渡った裏手にある。
今は全64室と規模も大きいが宿泊するならば、本館に限る。
・・・・・
私共の古い思い出では1977年12月23日~26日、クリスマス時期に古城ホテル ラインフェルス城に3泊した事がある。
<Schloss Rheinfels古城ホテル ラインフェルス城>
D-56329 St. Goar am Rhein 、Schlossberg 47
4S星・全64室(現在のベース)。
写真はラインフェルス城(1977.12.23.~26.)Hotel Schloss Rheinfels ホテル
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(2002年にユネスコ世界遺産選定された)
中部ライン渓谷のローレライの向かいに立つラインフェルス城はSt.Goarザンクト・ゴアーの町とライン川を見下ろす川面から115mの山上にある古城ホテルである。正式にはRomantik Hotel Schloss Rheinfelsロマンチックホテル加盟の古城ホテル ラインフェルス城と呼ばれる。
(かつてはSchlosshotel “Auf Burg Rheinfels”と称した)
写真はラインフェルス城(1977.12.23.~26.):クリスマス時期に夕食を頂いた個室は絶好のポイントでした。 -
写真はラインフェルス城:今は城址に馬場を設け、馬上試合も催されるようだ。
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さらに上流に進む。
Oberweselオーバーヴェーゼルの何度か泊まった古城ホテルAuf Schoenburgシェーンブルグ城(550kmの距離)を見上げ、今年はもう3度目になるライン川の中州の関所・Die Pfalzプファルツ城(通行税徴収の目的で築城された。
14世紀に築かれた頃は五角形の塔だけで、後に舟のような形の外側部分が補強された。中州に渡る舟がKaubカウプから出ている。いまだに内部はみた事が無い。546kmの距離)も川岸から写真に撮った。
写真はライン川:猫城(上)、中州のDie Pfalzプファルツ城プファルツ城 城・宮殿
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その後、Bingenビンゲン(Naheナーエ川とライン川の合流点に出来た町で、ワインの集散地として栄えた。529kmの距離)でライン川を離れて、Hunsrueckフンスリュック・Soonwaldゾーンの森にある古城ホテルBurghotel Stromburgブルグホテル・シュトロームブルグ城に案内し、1泊した。
写真は古城ホテル シュトロームブルグ城の周辺地図 -
イチオシ
<Burghotel Stromburg ブルグホテル・シュトロームブルグ城>
D-55442 Stromberg 、 Schlossberg 1、
全14室、4星、シュトロームブルグ城の歴史は11世紀半ばに遡る。
最初はシュトロームブルグ伯という騎士領主が建てた城で、その後は皇帝家の所有になり、17世紀には30年戦争を経て、プファルツ継承戦争ではフランス軍に壊滅され、城の大部分が今日まで廃墟のままとなっている。
写真はライン川の中州・プファルツ城(左上)、1泊した古城ホテル シュトロームブルグ城とテラスでの朝食(右上、下左右) -
以前より菩提樹が大きくなり、鬱蒼としている城内、カスターニアン(栗)の大木の立つ高台からの眺望も今もすこぶる良い。
ゼラニウムの花に囲まれ、テラスでの朝食は気分も良く、話も弾む。
(家に残した娘たちはどうしているか?気になったが)
写真は森の中の古城ホテル シュトロームブルグ城:俯瞰 -
1983年に泊まった頃は、郷土料理が主体のドイツ料理で当時、ゴー・ミョーでは13点でした。
その後2006年に泊まった際、古城ホテルは大改装されて、グルメシェフのJohann Laferの経営するホテル・仏料理レストランになり、高級ホテルに変貌していた。2006年版ミシュランで星1つ、ゴー・ミョーで15点。
写真は1983年当時の古城ホテル シュトロームブルグ城:絵葉書(上右城、町上右、下左玄関、右下レストラン) -
写真は1泊した古城ホテル シュトロームブルグ城(中央上下、下左レストラン右玄関)、左右はツグミ横丁の様子と看板が面白い。
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ライン川のフェリーは予想以上に多くある。
私はコブレンツからはBoppardボッパルト、St.Goarザンクト・ゴアー、Oberweselオーバーヴェーゼル、Bingenビンゲンのフェリーを利用する事が多かった。
特にビンゲンのフェリーがライン川観光船の船着場があるので、フェリーの乗客が最も多い所で、船も大きく、順繰りに左右の均衡を保たせながら、車の停車位置を割り振っていく。
車に乗ったまま、エンジンを切り、ブレーキをかける。フェリーは凡そ3分の乗車時間だが、ライン川を上り下りする運搬船、観光船を上手く避けながら進み、Ruedesheimリューデスハイムの桟橋に至る。
接岸とともに、エンジンをかけた車は船員の指示に従って、順次上陸して行く。前方の高台にドイツ統一の記念碑・ゲルマニアの女神がニーダーバルトの丘に立っているのが見える。
写真はラインフェルス城が背景に入るザンクト・ゴアーハウゼンの町(左上・ローレライ“妖精の岩”の町、
ビンゲンから対岸のRuedesheimリューデスハイムに渡るフェリー船上(右下・写真中央に車に乗るH君たちが車内に見える)、Marksburgマルクスブルク城内見学後にレストラン内で(左下)、Bingen-Rudesheimer Fahrgastschiffahrt 船系
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イチオシ
シュトロームブルグ城からやって来たビンゲン、フェリーで渡った対岸の町リューデスハイムは、B42の道をコブレンツに向かう道になり、ライン川の下流に向かって右岸を走る。
その前にまずは車を駐車して、リューデスハイムのDrosselgasseツグミ横丁を見物する。
狭いから横丁なのだが、所狭しと、ワイン酒場やホテル・レストランが並び、音楽が鳴って、朝から酒酔い気分になる横丁なのだ。
天使がワイングラスを片手に持った看板、「神に感謝すべき狭い横丁!」の文字が見える看板、緑の葡萄が垂れ下がる看板などが見える。
写真はRuedesheimリューデスハイムのDrosselgasseツグミ横丁でつぐみ横丁 散歩・街歩き
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B42の国道はライン川沿いに走る。いわゆるRheingauer-Riesling-Route”ラインガウ・リースリング・ルート(ライン右岸城巡り)になる
Burg Gutenfelsグーテンフェルス城、Burg Katz猫城、Loreleyfelsenローレライ“妖精の岩”を見ながら通過していく。
写真はローレライの岩壁と山頂ローレライの岩 自然・景勝地
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<Rheingauer-Riesling-Routeラインガウ・リースリング・ルート:ライン右岸城巡り>
【B42の道をコブレンツに向かう道、こちらはヘッセン州だ。
Mauseturmねずみの塔、Niederwald:ドイツ統一の記念碑・ゲルマニアの女神、Ehrenfels城址、Assmannshausen赤ワインの町、ノーリッヒ城址(Lorch)、
Die Pfalzプファルツ城、Burg Gutenfels、Burg Katzブルグカッツ=猫城、Loreleyfelsenローレライ“妖精の岩”と132mのその山頂、Burg Mausブルクマウス=ネズミ城、白い塔をもつリーベンシュタイン城址とこげ茶色にくすんだシュテレンベルグ城址、リーベンエック城(Spay)などの城、
Marksburgマルクスブルグ城、ラーンエック城、Festung Ehrenbreitsteinエーレンブライトシュタイン要塞(“栄誉の砦”)】
写真はライン川:中ラインルート図 -
目的地のMarksburgマルクスブルグ城がBraubachブラゥバッハ(580kmの距離)の後背、山上150mに、クリーム色の高い塔を中心にして、堂々たる姿で立っている。
中腹の駐車場から階段を上がると、Zugbruecke、Fuchstor、Schartentorと城門が出て来る。城門内で入場券を買い、ガイドツアーに参加した。
①騎乗のままで走り登る階段、②大砲の展示、③ワイン倉:この時代、1日1人あたり、2.5Lを飲んだそうだ。④台所、⑤貴婦人の間:子供の揺り籠、糸紬、ベッド。⑥騎士の間:城主の生活空間。⑦教会、⑧兵器庫:12の兵士の立像が並びローマ時代からこの中世に至る甲冑を着た兵士の変遷を展示している。その他槍、弓などの武器も展示されていた。⑨Bergfried天守閣:40mの高さの“Butterfasstuermeバターを造る桶“の形の塔。1400年、塔の上部はネコの肘伯が付け加えたと云う。⑩拷問の部屋:恐ろしい拷問の器具、刑罰の道具などが置かれている。その昔は馬が数頭飼育された場所だという。
この城でも面白い事に、中世のトイレの場所が公開されていて、モーゼルのエルツ城を思い出す。
50分のツアーは古城好きにとって、とても興味深く、中世の雰囲気が伝わってくる城である。
この城は1231年に完成し、その後の歴史の激しい波に洗われたにも拘らず、現存する中世の城の中で、最も完全な姿を残しているそうだ。
現在は「ドイツ古城協会の本部」になっている。
写真はライン川:Marksburgマルクスブルグ城を川側よりマルクスブルク城 城・宮殿
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<Romantischer Rheinロマンティシャーラインと古城群>
【このライン川は中世の800年間を通じて、帝国領域の中央を流れ、ヨーロッパの南北を結びつける重要な交易路だった。川の通行税という利権を狙って、近隣の諸侯・大司教はこぞってライン流域に進出し、ロマンティシャーラインに数々の城を建てている。
このライン地方の城砦は何処も1618~48年の30年戦争(新旧キリスト教の宗教戦争)や、1688~97年プファルツ継承戦争、1792年後のフランス革命軍・ナポレオンの侵入によって、大きな損害を受けた。
特に1688年以降のフランスの侵攻による戦いで、多くの城が落城し、破壊され、廃城となってしまったのは残念な事だ。】
・・・・・
写真はライン川流域図・表紙・・・1970年代半ばから使用している地図で、古城群、町や村、中州、観光名所の説明、ローレライの難所(伝説のDie 7Jungfrauen7人の乙女岩=Hungersteine腹を空かせた岩)、フェリー(W.F.の記号で表示)の場所、ライン川源泉からの距離数を知ることができる。
当地観光には必ず携行するものだ。 -
モーゼル川・コッヘム観光を目的にコブレンツでライン川を西岸に渡り、モーゼル川に沿って走り出す。
写真はコブレンツ・ライン川とモーゼル川の合流点ドイツの角:対岸の栄誉の砦からの眺望ドイチェス エック 自然・景勝地
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写真はモーゼル川流域図と古城群・表紙・・・これは2016年の旅で手に入れたものだ。ライン川のもの同様に便利だ。
右下に丘の上のCochemコッヘム城(Reichsburg帝国城)の写真がある。 -
途中の町で、緑地に上に黄色の3つの葡萄、中央にモーゼルの川の蛇行のデザイン、そして黄色の文字でMoselweinstrasseモーゼルワイン街道と記された看板を道端で見つけた。
ドイツはこの種の看板が立っていて楽しいが、車で走っていると意外に見つからないのだ。
写真はモーゼル川・コッヘム観光:モーセルワイン街道の看板(右上)、コッヘム城見学(左上、右下)、コッヘム市内の噴水(左下)、トゥーラント城(アルケン)の遠望(中央下) -
コブレンツのDeutsches Eckドイツの角から25km、Alkenアルケンの山上にBurg Thurantトゥーラント城が見えて来る。ここも遠望で終了。
この城からの眺望は良さそうだが、いまだに登った事が無い。
歴史的は1197年オットー四世の弟であるプファルツ伯ハインリヒが築城。1689年のプファルツ継承戦争で仏軍に壊された。今は一部を長期滞在者用の古城ホテルにしていると云う。葡萄畑の丘の上に、“Doppelburg双子の城の異名”もある、左右に塔をもつ城の形状は好ましい。
写真はモーゼル川:Burg Thurantトゥーラント城(アルケン)の遠望 -
この街道の目玉はCochemコッヘム城=Reichsburgライヒスブルグ城(帝国城)であり、ドイツの古城ではエルツ城に次ぐ名城と云われる。
円錐形の山上に建つ城は、4個の城門、城壁、壕に守られ、守るに易く、攻めるに難い城と云われた。強大な天守閣は壁の厚さが3.6mもあり、1000年の歴史と共にある。
その山城の姿は、モーゼル川畔の何処から撮っても、見事で良いものである。
写真はモーゼル川:丘の上のCochemコッヘム城(Reichsburg帝国城)ライヒスブルク城(コッヘム城) 城・宮殿
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この城はライン地方のプファルツ伯の居城であったが、その後Hohenstaufenホーエンシュタウフェン家出身の皇帝の帝国城となり、最終的には選帝候・トリアーの大司教の所有になる。
1689年、プファルツ継承戦争ではルイ14世率いるフランス軍の猛攻撃を受け、ライン・モーゼル川の殆どの城と同じく、破壊されてしまう。
1877年に、漸くベルリンの枢密顧問官ラフェネーにより8年をかけて、14世紀の新ゴシック様式の中世風城塞に復元された。内装は19世紀のドイツ上流階級の邸宅に見られるもので、現在、コッヘム城は町が所有している。
人口5千人の小さな街の中心にある、Alt-Cochem旧市街にはバロック様式の市庁舎、マルクト広場、木組みの切妻のある家々があって、美しい。
ここもモーゼルワインの産地として有名で、観光客も多い。
写真はモーゼル川:2016年秋・丘の上のCochemコッヘム城 -
S子さんとR君はお疲れで、さすがに上りがキツイ、山上のコッヘム城(コブレンツから50kmの距離)見学はやめにして車に残り、3人で城の見学をした。
コッヘム城のガイドツアー(40分)は初めてで、
まず①食堂に案内される。壁・ドアー・家具と見事な木彫り装飾が施されて、デルフト焼きの陶器が納められた戸棚は大きく、格別な趣である。面白い事に左右のバランスを保つ為、戸棚の右の戸は見せかけの戸を造ったそうだ。
②ゴッシク部屋はゴシック様式の天井がある為の名。婦人用の小部屋である。デルフト焼きタイルが張られた、暖炉が備えられている。
③ロマネスク部屋は16世紀のニュールンベルグのタイル張り暖炉があり、城から脱出する秘密のドアーがある。
④城門上の廊下は天守閣と周りの建物を繋いでいて、横木の梁には“美しいものは、利用する際、無思慮に強いてはならない”との格言が焼き付けられている。天井から釣り下がった、ランプは半身女像の小シャンデリアで、中世には魔除けのシンボルであったそうな。
⑤狩猟の間には獲物が壁に掛けられ、騎士たちの一日分のワインが入る錫のマグカップが置いてある。
⑥騎士の間は城一番の広さ。太い円柱が天井を支えている。大暖炉があり、大きな二枚の絵が展示されている。
⑦武具の間、ここにはビックリするほどの大きな甲冑がある。なんと2.38mの巨人の甲冑である。今まで見た甲冑でも最大のものだ。
⑧バルコニーから、巻上げ機と綱を使って、鎖をモーゼル川にたらして、川の通行を支配した(関税の徴収の為)と云う。城は川面より100mの高さにあり、バルコニー上から見た、川畔を走る車の小さい事、震えがくるほどだ。
⑨城中の庭には50mの深い井戸が掘られている。案内人がバケツの水を落として、水面に落ちる音を聞かせ、深さを実感させてくれた。
・・・・・
このコッヘム城見学を最後に、日本での再会を約し、トリアー、ルクセンブルク経由でベルギー・ブラッセルに戻るH君一家を見送って、私共も娘たちの待つデュッセルドルフに帰った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真はモーゼル川:2016年秋に見つけたモーゼルワイン街道の看板
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