1983/04/01 - 1983/04/04
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jijidarumaさん
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【我が家のゴスラーちゃんはドイツのアンティーク・ドール(ビスクドール人形)、もう40年我が家の居間に鎮座している】
1983年4月1日~4日、当時東西Berlinベルリンに分かれ、“陸の孤島”と称されていたベルリン(Oster-Reiseオースターライゼ)に小旅行をした。
その帰途、大好きなドイツの町の一つであるGoslarゴスラー (Land Niedersachsenニーダーザクセン州)を訪れて、ホテルで催されていた蚤の市(独語・Flohmarkt、英語・Flea market)でドイツ製のアンティーク・ドールを購入した。
写真は40年も経て、古びてしまったゴスラーちゃんに新調した洋服を着せた!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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私共がドイツ経済・産業の中心であるデュッセルドルフに駐在した時は、1970、80年代のドイツが東西に分裂していた為、旧東独地域への旅行は難しかった。
その頃、“陸の孤島”であったベルリン(西・東のベルリンに分離統治されていた)に2度旅行しただけであった。
1度は出張で、2度目は感謝祭休日を利用して、家族とOster-Reiseオースターライゼ(二度目の駐在時・1983年4月1日~4日)をした時です。
オースターライゼは家族(中学生の長女と小学生の次女の)4人でDüsseldorfデュッセルドルフ=>Dortmundドルトムント=>Hannoverハノーファー=>Braunschweigブラウンシュヴァイク=>Helmstedtヘルムシュテット(当時、ここに東西ドイツの国境検問所がありました。380kmの距離)=>Berlinベルリンと、往復1247kmの旅でした。
Mercedesメルセデス2300ccの中古に乗って走ったのですが、国境ではトランクから車の下まで検査されて、緊張しました。1時間ほど掛って、東へさらに走る。
東独の道路は西ドイツとは違った貧弱なアウトバーンに思えました。80kmを超えると何処からともなく、東のパトカーが出てきて、高い罰金を取られると聞いていたので、安全・慎重運転をしたものです。
朝6時にスタートし、600kmを走り、午後0時には西ベルリンのホテルAlsterhofアルスターホフに到着しましたから、若かった。・・・と言っても40歳の時でした。
写真は1983年4月1日~4日東西分離時代のベルリン旅行:左上から時計回りに、勝利の塔、ポツダムのサンスーシ宮殿、シャルロッテンブルク宮殿、西ベルリン側に亡命しようとして一命を落とした人たちの十字架(中にはUnbekanntウンベカント=無名の方も)、遠くに見える東ベルリンに立つブランデンブルク門をバックに撮影など。(この旅は次の機会に)ブランデンブルク門 建造物
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ベルリンからの帰途は同じ道を戻り、途中のGoslarゴスラー見物をして帰りました。
春まだ寒い時期で、当時の写真は皆オーバーコートを着ています。
写真はHarzハルツ山地の地図 -
Goslarゴスラーはハルツ山地の西端にあり、4万6千人の世界遺産の町です。
私はこの町の中世の雰囲気が好きで、1976年の5月1日~2日(1泊)、1983年4月4日(ベルリンからの帰途、立ち寄り)の二回、Düsseldorfから凡そ片道350kmのゴスラーに遊びに来ました。その後2005年4月30日の魔女の祭にも訪れている。
写真は1983.04.04.Goslar(Harz) の絵葉書集 -
市庁舎横のHohe Wegホーエ通りをまず皇帝の居城Kaiserpfalzカイザーファルツに向かう。
皇帝居城は11世紀にハインリヒ三世によって建てられました。
しかし、現在の建物は1868年から1879年にかけて復元されたものです。
2階の帝国の間には童話いばら姫やゴスラーの歴史絵巻が壁一面に描かれています。説明がないと何の壁画か分かりませんが数カ国語の説明書を貸してくれます。 但し、日本語はありません。
帝国の間を抜けるとその先に12世紀に建てられた聖ウルリッヒ居城礼拝堂があります。この地下には1056年になくなった皇帝ハインリヒ三世の石棺が納められ、その台座には彼の心臓が祀られています。
カイザーファルツの前には、ドイツ人に最も人気の高い、Friedrich I Barbarossaフリードリヒ一世像・バルバロッサ赤髭王【12世紀】、Wilhelm der Grosseドイツ皇帝ヴィルヘルム一世【1871年帝国の成立】の二つの騎馬像が立って、ゴスラーの町を見下ろしている。
ゴスラーの町の名前の基になったGoseゴーセ川の流れでLohmühle水車が廻り、川沿いの石畳の道や木組みの家々の家並み、それらが木々の緑と一体となって、1000年の古都ゴスラーの魅力となっている。
ハルツにも、ようやく春が到来です。
写真は1983.04.04.ベルリンからの帰途ゴスラー観光:左上から時計回りに、観光絵葉書、Kaiserpfalz 皇帝居城、die Gose(ゴーゼ川)の流れと水車小屋
・・・左手にPuppenmuseum人形博物館がある。皇帝居城 城・宮殿
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ランメルスベルク鉱山の麓にあるゴスラーは「ランメルスベルク鉱山とゴスラーの旧市街」として世界遺産に登録された。
観光写真は1983.04.04.ベルリンからの帰途ゴスラー観光:左上から時計回りに、旧市街にある15~16世紀の建物、マルクト広場と噴水・仕掛け時計、織物ギルド館(Hotel Kaiserworthホテル カイザーボルトは2005年に宿泊した)、市庁舎マルクト広場 (ゴスラー) 広場・公園
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写真は1983.04.04.ベルリンからの帰途ゴスラー観光:左上から時計回りに、マルクト広場に建つ織物ギルド館(Hotel Kaiserworthホテル カイザーボルト)、Domvorhalleドーム フォアハレ(11世紀にハインリヒ三世によって建てられた大聖堂は1820年に老朽化のため取り壊され、北扉口の張出部分だけが残され保存されている。「大聖堂入口の間」という意味の建物)、ゴスラーの俯瞰というべき絵葉書。
ゴスラーのドーム フォアハレ(大聖堂入口の間の意味)は皇帝居城を守る門番の如く在る。 by jijidarumaさんドーム フォアハレ 建造物
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古い歴史のある町には、Puppenmuseum人形博物館がしばしば設けられているが、ゴスラーにも多数の人形を展示してある博物館があった。
写真は1983.04.04.Goslar(Harz) の絵葉書集:左上から時計回りに、ゴスラーの観光場所、仕掛け時計、人形博物館の展示。 -
写真は1983.04.04.ベルリンからの帰途ゴスラー観光:左上から時計回りに、人形博物館、織物ギルド館(Hotel Kaiserworth)、ゴスラーの観光場所と仕掛け時計の様子、
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写真は1983.04.04.ベルリンからの帰途ゴスラー観光:子供たちが興味を持った人形博物館。
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写真は1983.04.04.Goslar(Harz) の絵葉書集:人形博物館の展示
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イチオシ
大好きなGoslarゴスラー (Land Niedersachsenニーダーザクセン州)を訪れて、ホテルで催されていた蚤の市(独語・Flohmarkt、英語・Flea market)でドイツ製のアンティーク・ドールを購入した。
今も人形ゴスラーちゃんは我が家の居間に鎮座し、もう40年の付き合いになる。
写真は2008.12.03.我が家のゴスラーちゃん(ビスクドール)は*アーモンド・マルセルの370のようだ(2008年12月3日撮影) -
先述したように、ゴスラーでたまたま訪れたホテルで催されていたFlohmarktフローマルクト(古物市=蚤の市)で、地元のお婆さんが売っていた古い人形を思い切って、値切りもせず確かDM500(約5万円)で購入した。
古い人形はこの一体のみ販売されていたが、妙に気に入って買ってしまった。
写真は2024.06.26.我が家のゴスラーちゃん(頭と手は陶器製)の衣服がほころびだした事に気付いた。 -
お婆さんの話では「フランス製の人形(今回の調べでドイツの工房製だった)」はもう100年を超えたものだと云う。
頭と手は陶器製、胴から足は革製で出来ていて、可動性の高いものでした。
髪や身に着けた服装も購入当時のままで、40年も経てば、さすがに古びて相当劣化してきていた。
写真は2024.06.26.我が家のゴスラーちゃんの衣服の裾がほころびだした。 -
写真は2024.06.26.我が家のゴスラーちゃんの衣服の袖もほころびだした。
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写真は2024.06.26.我が家のゴスラーちゃんが何とかしてと、陶器製の手を挙げている!
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写真は2024.06.26.我が家のゴスラーちゃんの下着の下・・・胴から足は革製だ。
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写真は2024.06.26.我が家のゴスラーちゃんも年期が入って汚れている。
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イチオシ
さて、2024年6月に入って、人形の衣服の袖辺りが破れてきたのに家内が気付いて、色あせてきた衣類(ペチコートやヘッドドレスは洗濯しただけ)を新しくしようと、人形を裸にしてよく見てみた。
確かに顔・首、胸、両手は陶器製で、胴体から足の部分は革製である。
写真は2024.10.01.我が家のゴスラーちゃんを恥ずかしながら、衣服を脱がせました。 -
調べてみると、首の部分に370 71.2/0X.nfit(写真を撮り拡大して見たが不鮮明だったが)といった数字と文字が見え、いわゆる型番のようなものだろうと推測した。
写真は2024.10.10.我が家のゴスラーちゃん:首の部分に型番らしき番号370と71.2/0X.nfitといった数字と文字があった。 -
【ドイツの工房:Armand Marseilleアーモンド・マルセル370のビスクドール】
そして370の数字を いわゆる*Bisque dollビスクドールの言葉と合わせて検索して見ると、ドイツの工房Armand Marseilleアーモンド・マルセルの作品370タイプであるのが判明した。(同工房には390タイプもある)
写真は2024.10.01.我が家のゴスラーちゃんを仰向けにして撮影。 -
尚、当該人形は身長48cm、体重590g、目はブルー、歯並びは370も390タイプも同じつくり、また、頭頂部の髪の縫い方も370も390も同じつくりで、腿は大腿部分とボタン止め、膝関節は動くよう(可動性が高く)に割れている。
写真は2024.10.01.我が家のゴスラーちゃんをうつぶせにして撮影。 -
*Bisque dollビスクドール(英語、フランス語: Poupée en biscuit)は19世紀にヨーロッパのブルジョア階級の貴婦人・令嬢たちの間で流行した人形である。前身にあたる陶器の人形は1840年代よりドイツで作られていた。
磁器製であったことに端を発して、チャイナドール(ポーセリン人形 ・磁器人形)とも呼ばれる。これらは100年以上が経過した現在、アンティーク・ドールとして人気がある。
写真は2024.10.01.上下の衣服とペチコート。 -
写真は2024.10.01.破れていないペチコートやヘッドドレスは洗濯した。
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写真は2024.10.01.頭を飾るヘッドドレス。
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腿は大腿部分とボタン止め、膝関節は動くよう(可動性が高く)に割れている。
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん:腿は大腿部分とボタン止め -
腿は大腿部分とボタン止め、膝関節は動くよう(可動性が高く)に割れている。
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん:腿は大腿部分とボタン止め -
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん:腕のくぼみも繊細に作られている。
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写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん
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Armand Marseilleアーモンド・マルセルは
ドイツのビスクドールの工房名で、1896年にエドマンド・ノッチとその妻であるエミリーが、父親の家の一部屋を借りて人形工房を始めた事からその歴史が始まりました。
<アーモンド・マルセル年表>
1896年 エドマンド・ノッチとその妻であるエミリーによって人形工房が始められる。
1904年 息子・オットーがセントルイス大賞を受賞する。
1910年 様々な型番で多くの人形を手掛ける。
1924年 独自のベビードール、後のベビードールの元祖を制作する。
1934年 エドマンド・ノッチが亡くなる。
その後、工房は閉鎖される。
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん -
以下は調べた結果をそのまま、転記したもの:
様々な型番号で多くの人形を手掛けてきたアーモンド・マルセルですが、その中で現在でも人気が高いのが370というタイプのビスクドールです。
生産当時も高い人気を誇っていたため、大量生産されており、現存する数が多く中古市場でも比較的入手しやすい値段で取引されています。
しかし、370というタイプには「フローラドーラ」と名付けられて販売されたビスクドールがありました。なぜ名前が付けられていたのかは現在でも謎のままになっていますが、個体によってクオリティに違いのあるアーモンド・マルセルのビスクドールの中でも完成度が高く、スリープアイという人形を横にすると目が閉じる仕掛けが施されています。
この他にも390というタイプはアメリカでの需要拡大に大きく貢献し、アーモンド・マルセルの大ベストセラーとなり、制作され続けました。
アーモンド・マルセルのビスクドールは顔と手足の先が陶器製で、胴体部分は革で出来ているのが特徴で、クロスボディに木毛を詰め、ビスクのヘッドにはアーモンド・マルセルのブランド名が付けられています。
ちなみにその前身となる人形は小さな陶器製の人形と紙が原材料のペーパーマッシュ人形でした。
アーモンド・マルセルは自身のブランドとしてビスクドールを発売していた他、ドイツやアメリカのドールメーカーにビスクドールヘッドを供給していたこともあり、非常に沢山のビスクドールが造られていました。
しかし、エドマンド・ノッチが亡くなった後は彼の息子・オットーが会社に入り、母親のエミリーと共に経営に携わり、第二次世界大戦後にオットーと彼の妻・ヘルゲによって戦争のため生産を停止していた人形生産を再開させていますが、工房は閉鎖となってしまいました。
(参考資料:いわの美術株式会社〒238-0008 神奈川県横須賀市大滝町2丁目21)
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん:腕の可動範囲もこのように動かすことができる。 -
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん
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人形は【ゴスラーちゃん】と名付けて、我が家の居間に鎮座し、もう40年の付き合いになる。
いよいよ、衣類がほころびてきたので、新調することにしたが、その事で、以前から気になっていた、ゴスラーちゃんの出自(しゅつじ)などが判明したから、一緒に育った娘達にも調べた内容を伝えることができる。
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん:手を挙げる、曲げる事も出来る。 -
写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃん:足の後を撮ってみた。
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写真は2024.10.11.我が家のゴスラーちゃんの新しい衣服を作ることに。
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イチオシ
写真は2024.11.02.我が家のゴスラーちゃん:2024年10月31日に新調されました。
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写真は2024.11.02.我が家のゴスラーちゃん:2024年10月31日に新調されました。
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イチオシ
写真は2024.11.02.我が家のゴスラーちゃん:2024年10月31日に新調されました。
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写真は2024.11.03.我が家のゴスラーちゃん:2024年10月31日に新調されました。
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写真は2024.11.03.我が家のゴスラーちゃん:2024年10月31日に新調されました。
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jijidaruma家は娘2人が育ち、孫が5人(うち4人が孫娘)になりました。
我が家はいわゆる女系です。
二人だけとなった私共は、ゴスラーちゃんをお守り替わりに可愛がっています。
写真は2024.11.20.我が家のゴスラーちゃんと共に。
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(2024年11月13日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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