1974/09/01 - 1974/09/01
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jijidarumaさん
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ドイツで体験学習されておられるbeachさんのボンの旅行記を
見ていて、「セピア色の思い出」が浮かんだ。
まだ若く、初めてドイツの土を踏んだ30歳の頃の事だ。
1974年1月19日に赴任し、漸く少し慣れた時期で、6ヶ月という
単身生活も終了し、本格的に駐在員生活を始めていた。
この間、南ドイツ、キームゼー湖畔にあったPrienプリーンのゲーテ
語学校に2ヶ月の学習(2月、3月の寒い時期)、4月から会社の実務
・前任者との引継ぎを行い、業務の独り立ちも認められ、家族の
呼び寄せを本社に申請して許可された。
尚、プリーンは世に名高いバイエルン王ルードヴィヒ二世の建てた
新宮殿ヘレンキームゼー城(第三番目で、最後の宮殿)がある
ヘレンインゼル(男島)への観光船が発着する所、観光地である。
写真は1974.09.01.来独して間もない家族4人、ゾーリンゲンの
ブルク城(上の写真二枚)、ボンのベートーヴェンの生誕の家
(下の写真左)、ライン川畔のケルン(下の写真右)を巡った。
- 旅行の満足度
- 4.5
-
市内のドイツ人夫妻の下宿先を出て、デュッセルドルフの南地区、
殆ど日本人がいない場所に立つ3階建ての1棟の2階部分に部屋を借りた。
3階にはデュッセルドルフ大学の講師夫妻(後にフライブルク大学の教授)、
1階にP&C(Peek & Cloppenburg衣料品販売)の会計部長の一家が
居られ、こちらには我が家の娘たちと同じ年頃の男の子2人、女の子
1人がいて、通った幼稚園も同じでたいへん親しくさせて頂いた。
そして7月12日(少しフライング気味で1週間早いのも本社側の上司
のお蔭だ)に来独した家内や娘たち4歳と2歳との生活が始まった。
2歳の娘は6ヶ月の間に完全に私の顔を忘れていて、空港に迎えた私を
この人は誰という顔をしていた。
思えば、私も家内もそして娘たちもドイツの生活に向き合い、
たいへんだったが、幸い教養ある隣人、ドイツ人たちの親切をうけて、
なんとかドイツ生活になじんでいった。
その頃からもう46年が過ぎ、私共も喜寿の祝を先日祝ってもらった。
娘達も当時の私共をおおきく越え、50歳、48歳とよい歳になった。
写真はAral 観光本1974年・関連都市図(デュッセルドルフからゾーリンゲン、ボン、ケルンの地図) -
イチオシ
<セピア色の思い出:1974年(昭和49年)9月1日(日)、上司のアウディ車に乗って、来独間もない家族と初めてゾーリンゲン、ボン、ケルンを巡る。>
1974年(昭和49年)9月1日(日)、駐在先の副社長のアウディ車
(5人乗り)に乗って、日本人秘書のO嬢と一緒に来独して間もない家族
4人をゾーリンゲンのブルク城、ボンのベートーヴェンの生誕の家、
ライン川畔のケルンなどへご案内頂いた。
1月19日に赴任して、まだドイツの自動車免許試験に合格していなかった私
(この年の12月10日に免許を取得した。この免許証はいまだに有効で、
ドイツの旅に使用している)と、7月12日に来独してから殆ど観光もして
いなかった家族に、上司らしい気配りをしてもらったのだ。
写真は1974.09.01.来独して間もない家族4人、ゾーリンゲンの
ブルク城(上の写真二枚)、ボンのベートーヴェンの生誕の家
(下の写真左)、ライン川畔のケルン(下の写真右)を巡った。 -
デュッセルドルフ近郊の都市としては20 km南東に「刃物の町ゾーリンゲン」
(車で凡そ40分)、35km南に「大聖堂で知られるケルン」、さらに25km南
に「西ドイツの首都ボン」があり、週末に気軽に回遊でき、大小を問わず
ドイツ的な魅力的な町が多い。
5人乗りのアウディ車に運転席と助手席に副社長と私が乗り、後部座席に
私の秘書のOさん、4歳の長女、家内が2歳の次女を膝にのせて出発した。
写真はSchloss Burg ブルク城の絵葉書。 -
最初はデュッセルドルフから東方向にSolingen an der Wupperヴッパー川
沿いの刃物の町ゾーリンゲンを訪ねた。
この町の近くの小高い丘にある古城が最初の目的地だった。
その後、私が「古城大好き」となった、最初の一歩は此処だったようだ。
日本人学校の児童たちも一度は校外学習で訪れるSchloss Burgブルク城である。現在、中世の博物館になっている。
Schloss Burg an der Wupperブルク城 アン・デアー・ヴッパー
D-42659 Solingen 、Schlossplatz 2
写真はSchloss Burg ブルク城・城門入口の絵葉書。 -
面白いことに、ドイツ語の意味はSchlossシュロスも城、Burgブルクも城で、
強いて分ければ前者は平時の居住用の城・宮殿であり、後者は戦時における
防衛・戦闘の城といえようか。ここではブルク城と書いたが、見るからに
かつての騎士の砦、山城の形状に私には見える。
ただ、かつての城郭の変遷を読むと、城は度々の改築により、軍事的な外観
は徐々に宮殿的な要素が入り、Schlossシュロスの形状に変っていった。
その再建された後から、城郭は「シュロス」という名が使用されるように
なったものの、Burgブルクという名前も周辺の集落Oberburg上ブルク、
Unterburg下ブルクのために保持されたと云う。
写真はゾーリンゲンのSchloss Burgブルク城:天守閣 -
というのも、現在のBurg an der Wupperブルク アン・デアー・ヴッパー
は1975年の市町村合併でゾーリンゲンの一地区(2014年の人口1500人)
になっているが、元来はノルトライン・ヴェストファーレン州の前述の
2集落を持つ、小さな村でした。
この地域の意向も勘案して、現在の名前は「Schloss Burgブルク城」と
なったようです。Schloss Burgという呼称は検索してもドイツの他に例が
見られず、大変稀な呼称と言えるようだ。
だから、例えば「Burg Solingenゾーリンゲン城」とでも称した方が
分かりやすかったかもしれない。こんなことを言うと叱られてしまうが。
写真はケルン大聖堂、城門入口とブルク城の絵葉書。 -
<ブルク城の歴史>
この城は中世にはHerzogtum Bergベルク公国に属した。
ベルク公国は神聖ローマ帝国の領邦国家で、首都はデュッセルドルフに
置かれた。12世紀に成立し、17世紀まで独立国家としての地位を保った。
その領域はおおよそRheinライン川(全長1,233km)と、その右岸支流で
あるRuhrルール川(全長217km)、Siegジーク川(全長152.7km)に
囲まれた地域に広がっており、現在のドイツ、ノルトライン・
ヴェストファーレン州の一部に相当する。 (当該地図を参照)
ベルク公国の居城は当初はAltenbergアルテンベルク(Bergisches Land
ベルギシェ地方)のBurg Bergeベルゲ城に置かれていたが、1133年に
Graf Adolf Ⅱ. von Bergベルク伯アドルフ2世はゾーリンゲン南東の
ヴッパー川沿いの小高い丘に同一名のベルク城の建設を開始し、ここに
居城を移した。
その後、ゾーリンゲンはベルク城のお膝元にある町として発展し、1374年
に都市権を得た。1380年にベルク伯Wilhelm II. von Bergヴィルヘルム2世
により居城がデュッセルドルフに移された後も、ベルク城は式典や防衛の
ために使用されたが、三十年戦争で町と共に大きな被害を受け、19世紀に
入ると城の復興が試みられることとなった。(Wiki)
・・・・・
写真はお土産のコルク人形、ブルク城の天守閣、ライン川とケルン大聖堂、副社長と私の秘書Oさん。 -
ついでに言えば、Bergische Landベルギシェ地方ゾーリンゲンの町は
世界に名だたる双子のマークで有名なZwilling Henckelsツヴィリング・
ヘンケルス の本拠である。
初めてドイツに駐在した際にツヴィリング・ヘンケルス製品を購入し、
その切れ味と堅牢な品質の良さにドイツ魂を感じたものだ。
お土産に購入したのは勿論だが、我が家はいまだに当時のものが現役だ。
写真はZwilling Henckelsツヴィリング・ヘンケルス社より頂いた立派なパンフレットの表紙(1984年10月)。 -
また、これもついでの事になるが、ナチス親衛隊将校Adolf Eichmann
アドルフ・アイヒマンはゾーリンゲンの町の出身だ。
当時、ユダヤ人移送局長官として、アウシュヴィッツ強制収容所への
ユダヤ人大量移送に関わった。
「ユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト)」に関与し、数百万人に
およぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担ったと云われている。
第二次大戦後、アルゼンチンに逃亡し、潜伏していたのをイスラエル諜報
特務庁(通称モサド)によって探し出され、1961年4月より「人道に対する
罪や戦争犯罪の責任」などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、
死刑判決が下され、1962年5月に絞首刑に処された。(Wiki)
写真はAdolf_Eichmann1942年のアイヒマン親衛隊中佐
実に品の良い温厚そうな表情を見せているのだが・・・・
人間は環境で変わってしまうという事なのだろうか!
・・・・・・・・・・・・ -
Koelnケルンの南約25 km に位置するBonnボンはドイツが東西に分断されていた時代、1949年から1990年まで西ドイツの首都であった。
ボンはケルト人の集落から始まったらしい。紀元前1世紀になるとローマ帝国の軍団駐屯地となった。13世紀より19世紀の初めまでケルン大司教の居住地であったことが特筆され、ボンの町の性格を表している。
また、偉大な作曲家ベートーヴェンの生誕地であり、46歳と若くして亡くなったシューマンの終焉の地としても知られている。
写真ドイツの地図ベートーベンの家 博物館・美術館・ギャラリー
-
が、ボンの観光名所はBonngasse20ボン横丁20番地にあるベートーヴェン
の生家に尽きる。
この建物はベートーヴェンの博物館となっている。
もう昔のイメージとは違ったBeethoven-Hausベートーヴェン・ハウス(生家、今は博物館)だが。
写真はベートーヴェン・ハウス:ドイツ発行のEuro1.44Briefmarke普通切手
・・・・・ -
HARIBOハリボー本社がボンにある事は意外に知られていない。
ベートーヴェンの生家だけではないわけだ。
ゾーリンゲンで世界に名だたる双子のマークで有名なZwilling Henckels
ツヴィリング・ヘンケルス を紹介したので、ハリボーも紹介するべきだろう。
ハリボーは1922年にドイツ・ボンにてHans Riegelハンス・リーゲル が
設立した。社名は「Hansハンス」、「Riegelリーゲル」、「Bonnボン」
から語頭の2文字ずつを取って名付けられたそうだから、ボンにとっては
税収、雇用以上に有意義なことだろう。
ハンス・リーゲルは子供の咀嚼力を強めるキャンディとしてグミを開発
した製菓会社で、今もなお、世界一の販売数、売上を誇る世界最大の
グミの製造会社だそうだ。
写真は毎年土産に購入するハリボー -
グミは当時の娘たちの歯に良いからと、かかりつけのドイツ人歯医者に
勧められたものである。今は孫たちが大いに好んでいて、(日本でも
勿論買えるが)ドイツの土産として持参すると喜んでくれる。
ハリボー社の宣伝文句は、1935年に作られた
「Haribo macht Kinder froh und Erwachsene ebenso」
(ハリボーは子供達を幸せにする、そして大人も)である。
これは事実だ!と、私も同意する。
写真は土産のハリボーGummy -
ライン川畔のKoelnケルンはこの日の小旅行の最終地で、有名なケルン大
聖堂も訪れることなく、ただライン川の流れと一緒に撮っただけだ。
現在のケルンはドイツでベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次ぐ4番目に
大きな都市(人口100万人)だそうで、州都であるデュッセルドルフ
(人口62万人)に差をつけている。これは駐在員生活をおくった一人と
して意外でした。
もっともルール工業地帯を背景に貿易・経済でドイツ第一位の地位は不変だ。
かつてローマ帝国の植民地・軍団駐屯地でもあったケルン市内にはたいそう
立派なKoelner Domケルン大聖堂 があり、ローマ・ゲルマン博物館、
ケルンの水つまりオーデコロン4711の生産でも知られている。
州都であるデュッセルドルフとケルンの間にはお互いに対抗心があると
云われる。
特にカーニバルのパレードの盛大さを競い、サッカーチームの一戦には
気合が入る。その上、地ビールではケルンの人々はケルシュを好み、
デュッセルドルフの人々はアルトビールを好む。
しかも自分たちの飲む地ビールが美味いと言ってひかない。
勿論、私はアルトビール派である。
・・・・・
写真はケルン大聖堂の絵葉書ケルン大聖堂 寺院・教会
-
イチオシ
デュッセルドルフから車で案内しながらの近郊巡りは、この日の体験が
あったので、その後も同じような順路を辿る事も多かった。
1974年9月1日以降も、ケルンはカーニバルのパレード見物に家族と、
大聖堂は日本からのお客と共に度々訪れた。
2006年5月、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”を第一に、
“ライン・モーゼル川の流域等”を旅した。
ローマ以来の歴史的都市とアイフェル地方巡ると称して、5月9日(火)
には久しぶりにケルン大聖堂と、新しくできたチョコレート
博物館を二人で訪ねた。観光的にはますます繁栄している様子だった。
写真は2006年5月9日(火)、ケルン大聖堂とチョコレート博物館で。
「セピア色の思い出」は様々に思い起こすこともあって、ツイ、
古いアルバムに目を通した。
1974年から46年、2006年からでも14年だ、時の流れは速いが、歳とる事
もこのところ実に速い気がする。
米寿の88歳まではシャンとして過ごしたいものだ。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- M-koku1さん 2020/08/11 22:20:37
- ゾーリンゲンの刃物
- jijidarumaさん
赴任当時のセピア色の思い出 駐在員あるあるだなあと思いながら読んでいました。
2歳のお嬢ちゃまですら忘れてしまうのですものね、我が家の3週間の娘が8か月ぶりにあった父親に 顔見知りして泣いてしまったのも 当然ですよね。
ゾーリンゲンの刃物は 昔ほど日本で騒がれなくなってきましたが、それは燕市などが頑張っているせいなのでしょうか。私もドイツ土産はゾーリンゲンに ビールジョッキ! ふただけが錫のものを買ってきましたが、今も飾り棚に飾ったままで、誰も使おうとしてくれません。(涙)フルーツナイフと包丁とはさみは今でも重宝して使っていますよ。
ドイツの運転免許証は 期限がないんですか?
イギリスの運転免許証は70歳までです。
アメリカではイギリスの免許証で運転できたので、とても便利でしたが、ペラペラの紙から今は写真付きになっているようなので、なんとなく使わなくなってしまっています。
それにしても毎日お暑いですね!
40度近いって ドバイじゃないんだから なんて思ってます。
お盆も関係ないって感じの毎日ですが、どうぞ暑さに負けずお過ごしくださいませ。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/08/11 23:43:27
- Re: ゾーリンゲンの刃物
- M-koku1さん、
今晩は。いつもありがとうございます。
セピア色の思い出シリーズにようこそ!
旅行記の終了と共に、古い時期の旅行記にするか、単発のセピア色の
思い出シリーズにするか考えましたが、気楽な方を選びました。
実はゾーリンゲンの刃物もそのテーマの一つでしたが、捨てられない
シュミット帽に変更。ところが、シュミットさんとは何者?から
書かないと、殆どの方はご存知なさそうで、北海大洪水(高潮被害)
のことを調べる事に。意外と時間がかかり、簡単のものが複雑化しました。
次回か、その次にゾーリンゲンの刃物をテーマにします(笑)。
どうしても最初の駐在は若い時期で、単身期間(この時は6ヶ月の
”試用”期間)が長くなりますので、娘に妙な顔をされてもやむなしですね。
(私は娘よりももっとひどく、生母を4歳になる頃に亡くしていますが、
母の事を全く覚えていません。70代になって、がぜん目覚めて母の
残した日記、手紙類を読みだし、その歴史を同人誌に書いたぐらいです。
其の家族・親族史の連載も6年、この8月に完結し、漸く少し親孝行を
した思いです)
ドイツの自動車免許は一度取得すると、後は自己責任なのでしょうね。
日本の如く、いろいろ理由を付けて、既得権大事に何度も免許更新を
させるのは無駄なのかもしれません。
残暑どころか、酷暑が続きます。
御からだ御大切にお過ごしください。
jijidaruma
-
- beachさん 2020/04/16 06:42:16
- 色褪せない素敵な思い出!
- jijidarumaさん
こんばんは。
改めまして、冒頭にてお引き立て賜りありがとうございます。
セピア色の思い出シリーズ、毎回感慨深く読ませて頂いています。このシリーズを読むと、以前にもコメントにて書かせていただきましたが、「デュッセルドルフ(ドイツ)と日本、先人の礎があってこそ、今も尚日本人にとって住みやすい街、日独の良好な関係性が続いている」ということを実感します。
Solingenといえば「Zwilling Henckels」!昨年の一時帰国の際に母親にお土産のリクエストを聞いたところ「ゾーリンゲンの包丁!」と即答でした。気持ち奮発しましたが、長く使えそうなので重宝して欲しいなと^^
そして、今回の旅行記で思わずクスっと笑ってしまった部分。
「Haribo macht Kinder froh und Erwachsene ebenso」→これは事実だ!
jijidarumaさんも、当然のごとくHARIBOが好きという事が判明して嬉しい気分でした(笑)。
ドイツはまだ外出制限中ですが、来週からは段階的に緩和とのことです。しかしながら依然として油断大敵ですね…。どうぞjijidarumaさんもご自愛ください。
そして思い出の旅行記も楽しみにしております!
beach
- jijidarumaさん からの返信 2020/04/16 17:18:53
- Re: 色褪せない素敵な思い出!
- beachさん、
今日は。いつもありがとうございます。
セピア色の思い出は時々、口コミを含めてこうした旅行記に書いております。
当時はデジカメが無く、写真も少ないので適宜引っ張り出して、なんとか形を整えています。beachさんの旅行記は私の思い出をとても刺激してくれますので、ついつい古いアルバムに戻る事になってしまいます。ありがとうございます。
ドイツ好きの方が反応してくれるのは一番嬉しいですね。
お母上の「ゾーリンゲンの包丁!」との即答、我が意を得たりです(笑)。
でも、まさか大事にしまっていないでしょうね。
私共もかつて父母にお土産をあげると、昔の人だけに大事にしまっていました。まー、赴任の際は羽田空港に両親、兄弟姉妹、親族がバスを仕立て、友人、会社の上司、同僚も大勢で見送り、万歳三唱までして頂きましたから、そうした海外赴任の様子を見た両親が、この土産を大事にしてしまうのはよく分かるのです。
土産と言えば、私の赴任に大いにご尽力いただいた上司にはお土産に錫製のビール飲みセットを贈りました。その上司はビール・酒好きで「大いに重宝したよ」と、後々まで喜んでおられました。
「ゾーリンゲンの包丁!」から錫製品を思い出しましたが、「ゾーリンゲン」に関しては、娘の日本人学校中学卒業で家内が恒例の卒業委員をやり、卒業生2クラス40人ぐらいの保護者たちの土産用に家内達が案を出し、数量の要望を纏めて、「ゾーリンゲン」を大量に購入しました。
当時、少々ドイツ語が達者になっていた家内が交渉役で、当時の Schadowplatzシャドー広場の16番地にあったゾーリンゲンの店で、大量に万能ハサミ、ジャガイモ剥き、バターナイフ、ツルばさみ、パン切り包丁などを購入した事がありました。店長も喜んで特別に割引をして下さり、また交渉役の家内に立派なハサミを贈呈し、更に140頁の製品カタログを手渡し、何時でもまた相談に乗りますからと言われたそうです。役得です^^。
また、セピア色の思い出の「種」が出てきました(笑)。
ドイツはまだ外出制限中の様子、武漢ウイルス騒ぎは生命の危険もあるだけに、ほんとに困った事です。終息の目途がたつまで、beachさんも日々お気をつけて、ドイツ生活をのんびり、ゆったりお楽しみください。
beachさんがまだ未掲載の旅行記や、一つの分野にスポットを当てたものなど、適宜、拝見したいものです。
それではまた。
jijidaruma
-
- ハッピーねこさん 2020/04/11 17:36:48
- 素敵な日々ですね
- jijidarumaさん、こんにちは。
1974年のセピア色の思い出の日々にお邪魔しました。
ドイツでのお暮し、大変なこともおありでしたでしょうが、ご家族揃って貴重なご経験をたくさんされた有意義なお時間だったことでしょう。
半年ぶりに再会された2歳のお嬢さんが空港でjijidarumaさんをお分かりにならなかったこと、私は勝手に微笑ましく思ってしまうのですが、お父様としてはショックでしたか??
この最初のご旅行でjijidarumaさんは古城に目覚められ、ご家族にとってもドイツでの最初のドライブは思い出深いものでしょう。
余談ですが私にとっても、その当時に取得された自動車免許証が現在も有効なこと、ハリボの本社がボンであることと社名の由来、ケルンがドイツで人口第4位の都市であること(フランクフルトだと思っていました)など、この思い出の記の中に多くの驚きや新たに知り得たことが詰まっていましたこと、お礼申し上げます。
ハッピーねこ
- jijidarumaさん からの返信 2020/04/12 14:04:14
- Re: 素敵な日々ですね
- ハッピーねこさん、
今日は。
いつもありがとうございます。
文字通りのセピア色の写真ですが、私は髪も黒々、後の白髪の
気配も全然ありません(笑)。
時々、皆様の旅行記を拝見しながら、突然のように当時を思い出し、
こうして一つの旅行記に仕上げでいます。
昔はデジカメもないので、写真は貴重で少ないのですが、今は印刷機に
スキャン機能があり、便利に利用させてもらっています。
2歳の次女は長女に教えられて、物覚えも早かったので、顔を忘れる
とは思ってもいなかったので、ショックというよりびっくりでした。
それで週末に、近郊には電車で、免許を取ってからは少し遠くに家族
でよく出かけて、父であることを大いにアピールしたものです。
免許証はもうセピア色で、ドイツはちょっと斜めを向いて写真を
撮ります。笑ってしまうのは、サインが下手!かつ、姓・名の順に
書いてしまった事でしょう。それでも、今もちゃんとレンタカー会社
に提示すると、係員がニヤッと笑って、手続きしてくれます。
相変わらず、武漢ウイルス騒ぎは終息の目途がたちませんね。
ドイツの旅は先の楽しみにとっておき、いろいろ溜まったことを
整理しています。
ハッピーねこさんも日々お気をつけて、生活をお楽しみください。
ではまた。
jijidaruma
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