1982/04/11 - 1982/04/11
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jijidarumaさん
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東西ドイツが再統一(1990年10月3日)される以前、旧西ドイツ時代で北と言うと、ハンブルグとブレーメンの特別州にニーダーザクセン州、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州を指した。
日本人観光客にはハンブルグ、ブレーメンとメルヘン街道沿いの町が知られている。
写真は1982.04.11.北ドイツ巡り・ハンブルク:エルベ川沿いの港湾、アルスター湖畔、ビスマルク記念碑、ニコラウス教会前で。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
【ドイツの北の気質はkaltbluetigカルトブルーティク・・・冷淡?!】
北の人はとっつきにくい、愛想が無い、冷たい、冷淡に感じるとか・・・旅をする、その町に住んでみると、人によっていろいろな体験があって、なかなかこうだと決められないものだ。
北でもブレーメンにはそんな言葉からはかけ離れた、好人物のドイツの友人がおりますので、勿論一般的なものではないでしょう。
写真は1982.04.11.北ドイツ巡り・ハンブルク:ドイツの春の絵、白鳥たちと、内アルスター湖畔・・・思えば、私共はハンブルクの町中を私的に見て回った時間は少ない。 -
イチオシ
北ドイツも、当社のハンブルク支店や関係会社に出張した事もあるし、旅行で何度か、一帯を車で走っていますが、大都市を外れた地場の方々の印象は悪くはありませんでした。
それでも、南ドイツを代表するバイエルンと違って、お客のもてなし方はやや落ちるのは否めない所です。
これも長い冬を過ごす所為かなと・・。
どこの国でも、やはり北に行くほど勤勉、堅実、しっかり者、南の方はおおらかで、お人よしといった傾向があるのでしょうかね。
まー、この事は結論付ける必要もないのですが・・・。
写真は1982.04.11.北ドイツ巡り・ハンブルク:エルベ川沿いの港湾、アルスター湖畔、ビスマルク記念碑、ニコラウス教会前で。ハンブルク港 海岸・海
-
ただ、デュッセルドルフというドイツの中部に属する人が、ある時、【ドイツの北の気質はkaltbluetigカルトブルーティク・・・冷淡?!】ともとれる発言をしたことがある。
ドイツ人同士でも、北の人間に対して、ある種のイメージを持っている様子があるのだと、その時は感じたものです。
南のバイエルン人に、北の人の気質を語らせたら、何というのでしょうか?!
写真は1982.04.11.北ドイツ巡り・ハンブルク:街並み、内アルスター湖畔のホテル群、市役所、内アルスター湖畔のホテル。 -
イチオシ
さて、デュッセルドルフのOberkasselオーバーカッセル地区で家を借りる際に、前住人の方と、部屋の内壁の塗装問題でトラブリました。
この点は<日本人らしくなかった>かもしれません(笑)。
きちんと塗装をしていなかったので、前住人にクレームしたのです。何処の国でも退去の際にこの種のトラブルが起きやすいのです。
塗装費用を節約するために、ご自分でやるケースはドイツ人には多いですが、私共のケースでも、天井の壁塗りなどを手抜きし、見た目にも塗り方にムラがあったので、承服できない旨、通告したのだった。
写真は1978.11.XX.Muetter Helfen Kindern e.V.幼稚園の遠足でKrefeld Zooクレフェルト動物園に、1979.03.29.次女:幼稚園最後の日に皆で記念撮影、家内のお手製のシュークリームなどで御別れ。 -
写真は1979.03.29.次女:幼稚園最後の日に家内のお手製のシュークリームなどで御別れ会。
・・・
*お世話になった幼稚園(保育園に近いものだったと思うが)は以下のようなもので、第1回の駐在で初めて子供たちを通園させた教会附属のボニファチウス幼稚園(ビルク地区)とは違いました。
「母親たちの相互扶助施設」のようなものかと思いましたが、外国人、とりわけオーバーカッセル地区に多かった日本人にも門戸を開いてくれて、ありがたいものでした。
名前:Muetter helfen Kindern e.V.
住所:D40547 Duesseldorf ・ Niederkassel、Niederkasseler Str. 18
電話:0211-579474
1979年4月から日本人学校1年生になる日本人5名の為に幼稚園では御別れ会を開いてくれました。
1979年3月29日、幼稚園最後の日に次女(長女も特別参加した)は御別れ会に出席した。家内はこの日のためにボニファチウス幼稚園でも喜ばれた、お手製のシュークリームをたくさん作って差し入れした。
日本人のお母さん方も春巻き、肉まん、ジュースなどを持ち寄って御別れ会を盛り上げたのでした。
(メアレ先生、トビヤス先生、エルケ先生と子供たちが二十数名、参加した)
・・・ -
日本でもそうですが、ドイツでも通常、家の賃借契約には、賃借人が期間を終了し、出ていく場合には、住居内の「原状復帰義務」があります。
前住者のドイツ人の場合はこの原状復帰義務違反があり、契約時に大家に保証金を入れていた前住者はこの保証金を没収され、塗装をそのままに受け入れた私の方の保証金の一部にするか、あるいは私側の意志で新たに塗装する場合はその費用の一部の補償にまわすことになります。
写真は1979.01.02.雪化粧のKaiser-Friedrich-Ringカイザー・フリードリヒ・リンク104の我が家前(1978年10月30日に転居)と通りの様子。
1979.02.26.カーニバル見物を止め、デュッセルドルフから北にあるミュンスター地方の古城Burg Gemenゲーメン城を訪ねた。城の周囲の水堀は凍っていました。 -
困った事に、このご夫婦は新しく家を購入し、もうそちらに引っ越していたので、御主人も新しい家の整備や塗装などに手間暇をかけて多忙のようでした。
資金的には保証金DM500はすぐに戻してもらいたかったのでしょう。
この奥さんは地元デュッセルドルフの方で娘さんが近くの*幼稚園に通っていました。私共がこちらの部屋に越す前に何度かお会いして、その幼稚園の紹介やら、いろいろと親切にしていただきました。日本人学校のあるオーバーカッセル地区だけに、日本人の友達も多いようで、親日的でした。
写真は1979.01.02.雪化粧のオーバーカッセル:広大なライン川畔、我が家近くの土手を利用してソリで皆が滑る滑る。 -
何度か、やり取りがありました。
ある時、会社に奥さんから電話があり、「なんとか、なりませんか?」というお願いがあった。こちらも、親日的で人の良い奥さんのお願いとはいえ、こちらに分のある話なので、断りました。
奥さんは前述したように地元の生まれ、ご主人はハンサムな、細身で、あまり大きな人ではなかった記憶がありますが、北の出身(ハンブルグ?)でした。
電話のやり取りで、少々面食らったのは、奥さんが電話で言うのには「うちの主人はkaltbluetigカルトブルーティク・・・直訳だと冷淡、冷酷、冷血な!・・・で」と、私に愚痴った事です。
多分、辞書に載った訳ほど強い意味ではなく、冷静、付き合い下手、金に細かい?!と言ったことなのでしょうか?
それにしても、ちょっと可笑しく、ビックリしたのでした。
写真は1979.02.23.カイザー・フリードリヒ通り104番地の居間:幼稚園のカーニバル衣装、次女はマドロス帽、長女はシュミット帽を被って、パンダ君は私のちょん切られたネクタイ(Rozenmontagローゼンモンターク・・・カーニバルの季節には女性陣が男性のネクタイを切る習慣がある・・・その日は古いネクタイを付けていくのだが)をして。
1979.02.26.市内Ratingenラーティンゲンにある名物店「Restaurant Seitenblickザイテンブリック Wasserburg Haus zum Hausかつての水城ハウス ツーム ハウス」で夕食。 -
この話は結局、最終的には公認会計士であった大家さん(女性)が、上で書いたように、塗装の不備を認め、前住人の保証金は没収し、私の保証金に上乗せすることで解決を図りました。
もし、業者に塗装のやり直しをさせていたら、高い費用を彼らも負担することになったと思います。(因みに1985年に二度目の駐在が終わり、帰国する際には結構な額がかかり、その時の保証金は相殺されてしまった)
当方もライン川に沿った場所に建つ家が環境的にもとても気にいったこともあり、あえて塗装のやり直しまでは望みませんでした。
それでも大家さんにはうるさい日本人が入ってきたという印象を与えたようです(笑)。
写真は1979.03.03.ドイツ生活最後のお雛祭りもした。転居時は家具も頂いたものなどで間に合わせた。 -
イチオシ
この話は最初の駐在時のことで、赴任当初はデュッセルドルフの南、ビルク地区に住宅設営をしました。
5年近く住んでいたのですが、私どもが親しくしていた階下の家族の弟夫婦が、私どもの大家から、私共の住んでいた部屋を買い取り、ここに転居したい旨の話が出てきたのです。
もちろん契約期間中でもあり、転居する必要もなかったのですが、本社側から帰国の話が出てこないこともあり、親しくさせてもらった階下の奥様も家内と共に転居先を見つけるのに親身になって頂いたし、次女が来春に日本人学校に入学する事になっていて、長女と次女、二人の娘の通学(長女は1年生の時から市電に乗ってオーバーカッセルまで通っていた)を考慮し、思い切って引っ越しすることにしたのでした。
そして、日本人学校のあるオーバーカッセル地区のカイザー・フリードリヒ・リンク104番地に新たな移転先を見つけたのです。
写真は1979.04.08.春のカイザー・フリードリヒ通りの我が家、
1979.05.19.オランダのVenloフェンロに向かう前に。
1979.05.18.次女の仲良しWagner家ニコールとSchroeder家ダニエラをお母さんと共にお招き、 -
写真は1979.04.10.日本人学校に通学、Am Deichアム・ダイヒの道を行く、04.13.娘たちは庭でおままごと(この日、後任者が来独した)
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写真は1979.04.新しい住居:子供部屋はレンギョウや洋ナシの白い花が咲く庭に向いた部屋、日本から一緒のパンダなど。
-
オーバーカッセル地区はライン川を挟んで、旧市街の地域とは反対側にあり、旧市街からライン川を渡るオーバーカッセル橋を越え、左右にライン川沿いに分かれていく通りがあり、向かって左がKaiser-Wilhelm-Ringカイザー(皇帝)・ヴィルヘルム・リンク、向かって右が Kaiser-Friedrich-Ringカイザー(皇帝)・フリードリヒ・リンクの通りになり、お屋敷の続く良い場所でした。
1978年10月末に転居したカイザー・フリードリヒ・リンクは右手のライン川沿いに行く道でした。
大きく蛇行するライン川の向こう岸Duesseldorf・Oberkasselオーバーカッセル地区には日本人学校があり、この為、学齢期の子供を持つ日本人駐在員家族が住む地域になっていた。
写真はD-Oberkassel-Bruecke panoramaデュッセルドルフのオーバーカッセル橋のパノラマ。
中央にオーバーカッセル橋。左右にカイザー(皇帝)・ヴィルヘルム・リンクとカイザー(皇帝)・フリードリヒ・リンクの通りがある。 -
カイザー・フリードリヒ・リンク104番地の3階建ての建物はドイツ人大家が住居と会計事務所で多くを占有し、日本人駐在員の銀行員家族がライン川に面した2階に、私どもは裏側の庭に面した1階(地階)でした。
さすがに日本人の多い地区だけあって、この家にはもう1組日本人駐在員家族が我が家の横に住み、日本人の3家族がいたのです。
写真は1979.07.01.カイザー・フリードリヒ通り104番地の住居の表と裏(真ん中写真)、この通りは立派な家並みが続き、Theodor-Heuss-Brueckeテオドール・ホイス橋に至る。
右下はライン川畔の草原で自転車乗りする娘。 -
この話にはまだ後があり、折角、11月に引っ越しをしたのに、新年早々に本社から帰国が発令され、後任者と引き継ぎ完了した8月に帰国しました。
駐在期間も5年が過ぎる頃で、日本の本社の赴任前の上司(部長から本部長に昇進されていた)にクリスマスカードで帰国のお願いをしていた。
それがあってか、一気に帰国が決まりました。(こんな形で決まるのなら、もう少し早く上司に手紙でお願いすべきだったと思ったものでした)
住居の方はおよそ10ヶ月という、割に合わない?短いものになってしまった。それでも帰国の嬉しさの方が勝っていました。
写真は1979.07.01.カイザー・フリードリヒ通り、この通りは立派な家並みが続きます -
1979年8月11日、5年7ヶ月のデュッセルドルフ駐在から、駐在中に漸く出来上がっていた成田空港(1978年5月開港)に帰国し、父達の出迎えを受けた。
写真は1979.07.01.カイザー・フリードリヒ通り、この通りは立派な、住んでみたい家並みが続きます -
2006年5月に21年ぶりに懐かしの地を再訪し、このあたりも訪れました。
この通り一帯や、この家の印象は全く変わっていなかったのですが、この家の大家が亡くなったのか、表札名も変わり、しかも日本人家族は誰も住んでいませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真は1979.07.08.Theodor-Heuss-Brueckeテオドール・ホイス橋から見たカイザー・フリードリヒ通り、ライン川畔の草原を散歩する人々、テオドール・ホイス橋上の娘達と景観。 -
写真は1979.07.08.テオドール・ホイス橋から見たライン川畔の菜園・・・ライン川が増水するとこの辺まで水が来る事もある。ライン川を航行する輸送船。
-
デュッセルドルフの旧市街側から、オーバーカッセル地区には、ライン川に3本の橋が架かっている。ライン川の下流から言うと、①テオドール・ホイス橋、②オーバーカッセル橋、③ライン・クニー橋である。
写真は①テオドール・ホイス橋とヨットハーバー:全長1270.9 m -
写真は②オーバーカッセル橋 _(Rheinturmラインの塔からの景観):全長614.72m
-
写真は③Rhein-Kniebruecke_vom_Rheinturmラインの塔からの景観、中央にライン・クニー橋がビルク地区からオーバーカッセル地区に架かっている:全長1519m
-
追記1:
気質とは異なりますが、「話す訛り」について。
次のお話(Wikipedia)がある。;
バーデン・ヴュルテンベルク州の南部・Schwabenシュヴァーベン地方の方言はドイツ語の中でも「訛りが強い」と云われ、文化的にも黒い森に抱かれた独特の風土は、一般にドイツの中でも特異であると認識されている。
そのため、ドイツでは伝統的に「シュヴァーベン人」といえば、「田舎者」の代名詞なのだと云う。
面白いことに一方で、「シュヴァーベン人」を【分をわきまえた、倹約精神の象徴】としても引き合いに出されると言う。
2008年9月のリーマン・ブラザーズ(ドイツ系ユダヤ人が創始者)破綻の際、ドイツのメルケル首相(当時)は「欧米の窮状の理由を知りたければ、『シュヴァーベンの主婦』に聞くがいい」と言った。
写真はHaus_Kaiser-Friedrich-Ringカイザー・フリードリヒ・リンク_8番地の家・・・以下の建物はListe der Baudenkmaeler in Oberkassel オーバーカッセル地区の記念建造物になっている。
参考に以下に4つの建物(各通りの2件)を抜粋して、掲載した。 -
写真はHaus_Kaiser-Friedrich-Ringカイザー・フリードリヒ・リンク_10番地の家
-
追記2:
田舎者(怠け者)が順にあざ笑う;
ヨーロッパの中で西の果てにあるスペイン、つまり欧州の「田舎者つまり怠け者」だと云われるスペイン北部の人が、しばしば“怠け者”だとあざ笑うのはスペイン南部のアンダルシアの人だ。
そのアンダルシア人からも、“怠け者”だと云われるメキシコ人、さらにそのメキシコ人にも“怠け者だ”だと云われるのはユカタン半島の人たちだそうだ。
この伝でいけば、債務超過でユーロ体制を揺るがしているギリシャの北と南はお互いにどうなのか?
写真はHaus_Kaiser-Wilhelm-Ringカイザー・ヴィルヘルム・リンク_4_und_5、4番と5番地の家 -
追記3:
ヨーロッパの北と南の地理的な差について;
ヨーロッパの北と南では、ラテン的な明るさ、陽気さをもった国・南のイタリアが代表的で、北欧の国々とは明らかに違って見えます。
ドイツの中の話は別にして、ドイツとイタリア、スペイン、ポルトガル、フランスなどを頭に浮かべてみると、勤勉さや陽気な“怠け者”の違いはやはり地理的な南北に関連しているように思われます。
自殺者の数も寒い所から暑い所へ行くにしたがって低くなる・・・そんな統計もあるとか。これにも何となく納得するのは私だけですか?
写真はHaus_Kaiser-Wilhelm-Ringカイザー・ヴィルヘルム・リンク_14番地の家
・・・・・・・・・・・・・・
(2022年4月10日Wiki参考、編集・追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- Mugieさん 2022/10/12 18:28:03
- こんにちは。
- 私が以前勤めていた会社の本社はハノーバーにあったのですが、ハノーバーの人たちはミュンヘンとか南の人は言葉がちょっとキツくてアグレッシブだと言ってました。
日本で例えるなら関西みたいな感じかな、と勝手にイメージしてました(笑)
ハノーバーはドイツの真ん中あたりですが、あまり陽気な人はいないですが、話していくと打ち解けられたように思います。
すみません、雑談でした。
ムギー
- jijidarumaさん からの返信 2022/10/13 14:05:28
- Re: こんにちは。=>コメントにツイ、長々と反応しました。
- ムギーさん、
今日は。コメントありがとうございました。
以前のドイツ企業本社はハノーバーだった由、ニーダーザクセン州の州都ですから、良い所ですね。専らメッセ(見本市)が知られていて、関係した部署の機械の見本市に陣中見舞いと称して何度か出かけています。
歴史的には【エリザベス2世女王が崩御されたバルモラル城は、かつてヴィクトリア女王が購入したものだ。】で投稿していますが、ヴィクトリア女王はエリザベス2世の高祖母にあたり、18世紀、英国国王を兼ねたハノーバー(ハノーファー)王家につながる方でした。
そのこともあって、興味深い町でもありました。
観光で巡っても、明らかにドイツ北部と南部では明るさに差があって、面白いですね。
ドイツ語の家庭教師だったデュッセルドルフ大学の学生は親切で、明るかったし、いろいろと助けてもらいました。実家が南部バイエルン州ニュルンベルクの近郊にあって、何度か訪ねて家族同士の交流もできました。とりわけ母上に気に入られた思いが残ります。
北のブレーメンには長い付き合いになった友人夫妻(奥方が日本人で、かつてドイツ法人で私の秘書)がいます。こちらはブレーメン州最高裁判事だった方で、職業柄、お堅いですが、じっくりした物言いは好ましく、酒も好きで時にジョークも言われる茶目っ気もあって和んだものでした。
所謂、関西人と東京人といったように、ドイツ人気質も様々でしたね。
コメントにツイ、長々と反応しました。今年もドイツ行きは断念したのですが、行っていたら20回目の感傷旅行が出来ていたのに、とても残念です。
それではまた。
jijidaruma
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