1983/07/09 - 1983/07/10
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jijidarumaさん
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【番外編:Idsteinイトシュタインにもあったナチスの「T4(テーフィア)作戦」の歴史】
1983年7月9日(土)~10日(日)にIdsteinイトシュタインに1泊し、フランクフルト、ライン下りの小旅行をしました。
別編にて小旅行の事を取り上げますが、生来の性分で、別編を書いている時に本編の事を知り、こちらが気になってしまい、先に出来上がりました(苦笑)。
今イトシュタインのアルバム写真を見ると実に懐かしい。
写真はフランクフルトの北にあるIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス):右上から時計回りで、イトシュタインのSchloss城=イトシュタイン宮殿に向かう橋のたもと、旧市街の木組み建築の美しい町並み、Hexenturm魔女の塔
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
イトシュタインは最初の文献記録(1102年に Etichensteinエチシェンシュタイン という表記で初めて文献に記録された)から1721年までGraf von Nassau-Idsteinナッサウ・イトシュタイン伯爵および他のナッサウ家の宮廷都市であったと云うから、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。
Haus Nassauナッサウ家はライン川の中流、Nassauナッサウに12世紀終わり頃に勃興したライン地方の貴族、君主の家系で、1代限りながら神聖ローマ帝国の君主Adolf von Nassau皇帝アドルフ(ローマ王:1250年~1298年)を出している。
更に言えば、現在のオランダ王家であるHuis Oranje-Nassauオラニエ・ナッサウ家、ルクセンブルク大公家であるNassau-Weilburgナッサウ・ヴァイルブルク家はともに同家の流れをくんでいる。
参考写真:1655年に出版されたマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたIdsteinイトシュタイン・・・中央にHexenturm魔女の塔が見え、右手にSchloss城(Haus Nassauナッサウ家の城)に堀割というか水城の様子が見てとれる。 -
イトシュタインの最も古く(1170年築)、代表的な建物である「Hexenturmヘクセントゥルム魔女の塔」=城につきものの「Bergfriedベルクフリート天守閣」の塔の高さ 42 m、壁の厚さ 3 m 以上、直径約 12 m という。
いわゆる魔女の塔についていえば、17世紀にプロテスタントのナッサウ・イトシュタイン伯ヨハネス(1603~ 1677年)の治世下で起こった。この町の「Hexenverfolgung魔女狩り」は39人の犠牲者を出したと云う。
当時の忌み嫌われた魔女たちは現代になって漸く、その名誉を回復し、魔女の塔の根元にある石壁に、魔女として殺害された人々の追悼プレート(1996年完工)が掲げられている。
参考写真:IdsteinイトシュタインにあるGedenktafel魔女狩りの犠牲者を追悼するプレート -
イチオシ
さて、イトシュタインの町の歴史を読むと、過去にあった「魔女狩りの犠牲者」の話以上に、恐ろしい話が残っていました。
その話は、1983年当時、私共が全く知らなかったナチスの「T4(テーフィア)作戦」といった話でした。
また、これに2016年秋に訪れた「ミュンスターの獅子」とあだ名された* Galenガーレン枢機卿が関わっていた事も調べたことがありました。
旅行記や口コミでガーレン枢機卿に言及していますが、ナチスの「T4(テーフィア)作戦」との関わりをサラッと書いただけです。
写真はIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス)の冊子・Hexenturm魔女の塔、Torbogenアーチ付きの楼門。イトシュタイン旧市街(Idsteiner Altstadt) 散歩・街歩き
-
イチオシ
そんな訳で、イトシュタインの町の歴史を読んで驚き、ナチスの「T4(テーフィア)作戦」の話を改めて調べることになり、以下に纏めてみました。
写真は イトシュタイン(タウヌス):左からKönig Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)Rathaus庁舎、Torbogenアーチ付きの楼門の2枚 -
【Aktion T4(アクツィオン テーフィア)=T4作戦 】
T4作戦とは1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた毒ガスによる「強制的な安楽死」政策である。
19世紀末にドイツにSocial Darwinism 社会的ダーウィニズム(社会進化論または社会ダーウィン主義、ヘーゲルなどの社会の進歩についての議論をベースに、生物学において広まりつつあったさまざまな進化論をとりこんでつくられた社会理論の一種)が流入して以降、経済効率性を最重要視して障害者を殺害することを正当化する思想は、優生学と結合しながら着実に地歩を固めていった。ワイマール共和国で社会保障費が増大したこと、特に大恐慌によってドイツ経済が破綻したこととヒトラー政権が1933年に成立したことは、障害者の殺害が正当化される決定的要因になった。
参考写真:T4作戦-Gedenkstele_Tiergartenstr_4ベルリン フィルハーモニー 劇場・ホール・ショー
-
1939年の夏ころから開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「Tiergartenstraße 4ティーアガルテン通り4番地」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。
一次資料にE-Aktion(エー・アクツィオン:E作戦)、もしくはEu-Aktion (オイ・アクツィオン)の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけで7万273人に達し、その後も継続された安楽死政策により15万人から20万人以上が犠牲になったと見積られている。
参考写真:T4作戦-Gedenkstätte-Tiergartenstraße Vorplatz der Berliner Philharmonie -
この件が一般国民に知られてくると、世上に不安が広がりました。
1941年8月、「ミュンスターの獅子」とあだ名された*ガーレン枢機卿はT4作戦を行ったヒトラー政権を公然と非難する説教を公開で行い、これがきっかけとなって、ドイツ国民の間で抗議の声が強まった。
当時のドイツはソ連(現ロシア)侵攻の真最中であり、国内の不安醸成を嫌ったヒトラーは1941年8月にT4作戦を中止した。
参考写真:T4作戦-Gedenkstätte-Tiergartenstr4(2014年) -
*Clemens August Graf von Galenクレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン(1878~1946年:ドイツのミュンスター司教、枢機卿、伯爵)は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権の障害者安楽死計画(T4作戦)実施に公然と批判の声を上げた。(ローマ教皇により2005年に列福された)
https://4travel.jp/os_shisetsu_tips/12525838
参考写真:T4作戦を批判したGalenガーレン司教・枢機卿 -
作戦は中止されたが、この段階で既に7万人以上の障害者が殺害されていた。
また、政府が直接統率しなくなったというだけの話で、障害者の殺害はその後も続いた。T4作戦中止後、障害者の殺害は各地方で個別に判断され、毒ガス殺に代わって餓死や薬物による殺害が中心になった。
T4作戦中止後、行われたAktion Brandtブラント作戦(後述)などかえってT4作戦よりも多くの障害者が殺されるようになった。
T4作戦で使われた障害者殺害の手法は、そのままユダヤ人の絶滅計画( die Endlösung der Judenfrageユダヤ人問題の最終的解決、1942年)にも応用されたので、事実上Holocaustホロコースト(大量虐殺)のモデルケースとなった。
参考写真はT4作戦-施設Map -
T4作戦の施設は、
第一にヘッセン州Landkreis Limburg-Weilburgリムブルク・ヴァイルブルク郡Hadamarハーダマル市の郊外にある精神医学および精神治療のための Vitos Klinik für Psychiatrie und Psychotherapie Hadamar ハーダマル・フィトス・クリニーク(1941年)が知られている。
参考写真はT4作戦-Hadamarハーダマル安楽死施設 (1941年:ヘッセン州フランクフルト北部のクリニーク) -
この病院の付属建造物にハーダマル追悼の場がある。
そこは、国家社会主義の時代にハーダマル安楽死施設として使われていたハーダマル療養・介護施設で殺害された身体障害者や精神障害者を追悼する場である。
参考写真:T4作戦-Hadamar_Gedenkstätte_Schuppen(納屋) -
障害者を安楽死させる施設はドイツ国内(1938年3月12日、オーストリア併合・・・Anschlußアンシュルス・・・を含む)に6つ存在し、
第一のハーダマル安楽死施設以外の5つは次の通り。
Hartheimハルトハイム安楽死施設(オーバーエスターライヒ州リンツ北西のハルトハイム城)、
参考写真:T4作戦-Schloss_Hartheim_2005年 -
参考写真:T4作戦-Schloss_Hartheim_Gaskammer(ガス室)_2018年
-
Grafeneck グラーフェネック安楽死施設(バーデン・ヴュルテンベルク州ウルム南西のグラーフェネック城)、
参考写真:T4作戦-Schloss_Grafeneck -
Brandenburgブランデンブルク安楽死施設(ブランデンブルク州ベルリン南西のゲルデン刑務所)、
参考写真はT4作戦-Zuchthaus Brandenburg-Gördenゲルデン刑務所Hauptgebäude -
参考写真はT4作戦-Gedenkstätte追悼の場_für_die_Opfer犠牲者_der_Euthanasie安楽死- in Brandenburg an der Havel
-
Bernburgベルンブルク安楽死施設(ザクセン・アンハルト州ザーレのクリニーク)、
参考写真はT4作戦-Bernburg_Tötungsgebäude -
Pirna・Sonnensteinピルナ・ゾンネンシュタイン安楽死施設(ザクセン州ドレスデンの南にあるゾンネンシュタイン城)、
参考写真はT4作戦-Schloss Sonnenstein-Pirna
・・・・・ -
イチオシ
ところで、町の歴史を読んで、たいへん驚いたことに
イトシュタインの旧市街の南にあったHeilerziehungsanstalt Kalmenhofカルメンホーフ知育施設はナチス時代に「Euthanasie-Programm安楽死プログラム」に組み込まれていた。
写真はフランクフルトの北にあるIdstein im Taunus イトシュタイン(タウヌス):右上から時計回りで、イトシュタインのSchloss城=イトシュタイン宮殿に向かう橋のたもと、旧市街の木組み建築の美しい町並み、Hexenturm魔女の塔 -
Schlossシュロス(城=宮殿)は元々は11世紀に築城されているが、1614年から1634年にルートヴィヒ伯とその息子であるヨハン伯のために古い建物を取り込んでルネサンス様式で改築された。
宮殿はその麓で合流する2本の川の間の岩山の上に建っている。宮殿自体は第二次大戦後の1946年からGymnasium Pestalozzischuleギムナジウム・ペスタロッツィシューレという名の学校になっている。
写真はイトシュタイン(タウヌス)の冊子・俯瞰図:旧市街は海抜280 m のなだらかな山の上にある・・・中央に魔女の塔、右にSchloss城=宮殿、左に庁舎とアーチ付きの楼門、楼門の後に大学、魔女の塔の後に地区裁判所がある。 -
イトシュタインは「Deutsche Fachwerkstraßeドイツ木組みの家街道(1990年創設)」および「ドイツ・Limesリメス街道(2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスが造らせた国境線=ローマ領の境界線、防衛線、総延長550km)」沿いに位置している。
写真はイトシュタイン(タウヌス)の冊子:近郊Map -
写真は Idstein im Taunusイトシュタイン(タウヌス)の冊子:ケーニヒ・アドルフ・プラッツに面した木組みの家が並ぶ旧市街、中でもKillingerhausキリンガーハウス(1615年)はおそらくイトシュタインの木組みの家の中で1番美しい建物であろう。最も多彩な木製彫刻が見られる。
左手の隠れた方に独特“傾いた家”のSchiefes Hausがシーフェス・ハウスがある。傾いた原因は建設中の資材不足なのだそうだが、木組みの家街道を訪ねると、意外に各地で見ることがある。 -
写真は Idstein im Taunusイトシュタイン(タウヌス)の冊子:魔女の塔からの旧市街の景観
-
写真は Idstein im Taunusイトシュタイン(タウヌス)の冊子:近郊の村落風景
-
*Heilerziehungsanstalt Kalmenhofカルメンホーフ知育施設の住所
D-65510 Idstein、 im Veitenmühlweg 10
参考写真:Idstein im Taunusイトシュタイン(タウヌス)のKalmenhof-Lageplanカルメンホーフ縄張り図 -
参考写真:Kalmenhof-Eingangカルメンホーフ入口の表示板
-
参考写真:Kalmenhof-Heilerziehungsanstalt (Krankenhaus Idstein)カルメンホーフ1906年絵葉書
-
T4-作戦(前述)では、イトシュタインのカルメンホーフは、ヘッセン州フランクフルト北部にあったHadamarハーダマル殺害施設にも近く、ハーダマルへの「中間収容所」として用いられた。
教会をはじめとする公的な抵抗(前述)によりハーダマルでの毒ガスによる殺害が終了した後、*Aktion Brandtブラント作戦に従ってカルメンホーフ自体で殺害が行われた。
患者はここで薬物投与などの方法で殺害された。精確な犠牲者の数は現在も判明しておらず、約1000人が殺害されたと推測されている。
Idsteinのカルメンホーフ知育施設以外にも、ザックリした検索でも各地に施設があったからその被害は想像以上のものだったろう。
Steinhof (Wien)、
Sächsische Krankenhaus Großschweidnitz(Landkreis Görlitz)、
Kloster Irsee bei Kaufbeuren (Allgäu)、
Heil- und Pflegeanstalt Obrawalde (Polen)、
Gauheilanstalt Tiegenhof bei Gnesen(Polen)、
Rhein-Mosel-Fachklinik Andernach 、
Herborn an der Dill(Hessen)、
Stiftung Scheuern (Stadtteil von Nassau)、
Vitos Rheingau=Klinik für Psychiatrie und Psychotherapie Eichberg 、
Vitos Klinikum Weilmünster (Hessen)。
参考写真:Kalmenhof-Heilerziehungsanstalt (カルメンホーフKrankenhaus Idstein) -
ライン川に沿った有名な葡萄畑で知られているEltville am Rheinエルトヴィレ・アム・ラインにも、一見しただけでは、分からない美しい景観の場所にブラント作戦に使用された病院施設があった。
もちろん、今は立派な病院になっているようだが・・・。
Vitos Rheingau=Klinik für Psychiatrie und Psychotherapie Eichberg
D-65346 Eltville am Rhein、Kloster-Eberbach-Str. 4 、
参考写真:Aktion Brandtブラント作戦-Klinik Eichberg bei Eltville am Rheinエルトヴィレ・アム・ライン傍のアイヒベルク クリニーク -
*Karl Franz Friedrich Brandtカール・フランツ・フリードリヒ・ブラント(1904~1948年)は、ドイツの医師、親衛隊員。アドルフ・ヒトラーの主治医。
1939年から精神障害者・身体障害者などの安楽死計画「T4作戦」の責任者となり、多数の人間を殺害した。
「T4作戦」の中止後は「Aktion Brandtブラント作戦」の指揮を執った。
ブラントはナチス親衛隊における最終階級は親衛隊中将、SS武装親衛隊中将。医学博士。戦後、ニュルンベルク裁判で死刑を宣告され、絞首刑に処された。
参考写真:Aktion Brandtブラント作戦を行ったKarl_Brandtカール・ブラント_SS-Arztナチス親衛隊医師
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(2024年9月30日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2024/10/03 21:16:50
- 「T4作戦」、久しぶりに目にしました
- jijidarumaさんこんばんは。
いつもお世話になっています。
「T4作戦」、忘れかけていた懐かしい言葉に出会いました。
と言いますのも、私も随分前に調べたことがありました。
Jijidarumaさんも書いていらっしゃいますが、ミュンスターで『クレメンス・アウグスト・フォン・ガレン司教』の像を見て、調べるうちに「T4作戦」を知りました。
イトシュタインにもT4作戦の施設があったのですね。あの美しい町に、あのおぞましい施設が・・、知りませんでした。
ここのところ齢をとったせいか、旅行記を書いても現代史に触れるのが億劫になっていましたが、jijidarumaさんの旅行記で、久しぶりにそのころの情熱が戻ってきた感じです。ありがとうございました。
私の2017年のミュンスター、ガレン司教の旅行記です。
「それはホロコーストのリハーサルだった」・ヒトラーの安楽死計画を敢然と非難した勇気ある司教
https://4travel.jp/travelogue/11393976
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2024/10/04 01:07:36
- Re: 「T4作戦」、久しぶりに目にしました
- himmelさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
まだまだ、お元気に投稿を続けておられて、素晴らしいことです。
2017年の「それはホロコーストのリハーサルだった」・ヒトラーの安楽死計画を敢然と非難した勇気ある司教・・・を改めて拝読しました。
よく見たら、立ち寄って読みましたとばかりに、「いいね」していました(苦笑)。拝読していなかったら叱られていたような・・・。
再読しても、誠に素晴らしい旅行記で、いつもながら感服しています。
さて、2016年、2019年とミュンスター地方を訪れて、水城、古城群、伝説の多い事に楽しんだ覚えがあります。「T4作戦」とガレン司教の事も「2016年ドイツの秋にライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅に出かけた」際に、聖者たちの場所Xantenクサンテンの列福者の事と一緒に纏めた一文が投稿もせず、手元にありますから、私自身がその事すられ忘れていたようです。
従って、<ガレン司教とナチスの「T4(テーフィア)作戦」との関わりを全く知らなかったのです。>とは誤りで、後で修正しておきます。
何故?言及しなかったのか、多分、「1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち(ベーゼラーガー男爵兄弟)」とか、時代がさかのぼる「爆弾ベルンハルト」と畏怖されたミュンスターのガレン侯爵司教(Christoph Bernhard von Galen クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン、1606年~50年)の事といった話に、興がおもむくまま注力したせいかもしれません。
1983年当時は40歳、駐在業務に追われて、「T4作戦」などの恐ろしい事を知らずにいましたね。
それではまた。ありがとございました。
jijidaruma
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