1983/04/01 - 1984/01/31
41位(同エリア431件中)
jijidarumaさん
- jijidarumaさんTOP
- 旅行記575冊
- クチコミ659件
- Q&A回答107件
- 1,009,625アクセス
- フォロワー107人
<ドイツでBatikバティック(ろうけつ染め)を学ぶ>
:Volkshochschule in Unterrathウンターラート市民教育センター
さて、今日の話はドイツ時代の事に遡る。
ドイツ駐在を機に家内は日本人と群れることは最小限に留め、たいして言葉もできないままに、積極的にドイツ社会に入るように努力していた。
デュッセルドルフというヨーロッパ最大の日本人社会(企業社会)があると、日本人は苦労無く、日々過ぎて行ってしまいます。
私共の知人だった某都銀の一家がその典型でした。日本の会社生活をそのまま、ドイツに持ち込んでいるような感じでした。
しかし、それでは折角の駐在生活も何も得るものが無かったと思います。
写真は絹:スカーフ・ハラン(植物)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
最初の駐在(1974~79年)ではデュッセルドルフの南に位置するBilkビルクに設営しました。
まず家内が直面したのは子供たちのボニファティウス教会附属幼稚園入園であり、通園する際の先生方やお母さん方とのお付き合いでした。
その内、慣れてくると、市内中心まで出かけて料理学校に通い、作った事の無いドイツ料理やドイツのケーキに挑戦した。その成果は幼稚園で親しくなったお母さん方や子供たちを自宅にご招待できるほどになっていた。
写真は1983年4月のある日、VHSVolkshochschule in Unterrathウンターラート市民教育センターにて:ろうけつ染め展示室で。
*時計周りに、①ウンターラート市民教育センターの庭園前で、②Frau Follzフォルツ夫人、③作品の展示、④次女ウンターラート郵便局で国際便を投函、 -
イチオシ
週2度の夜に、デュッセルドルフ大学生に来宅して頂き、ドイツ語の個人学習をお願いしましたが、日中の疲れで眠くなり、私本人の学習から何時の間にやら家内の学習へとかわってしまいました。
この点、家内の前向きさにはとてもかないません。
さらに、日本からの出張者、友人や、当地の会社関係の方も自宅で夕食の接待も出来ていた。
写真は1983年4月のある日、VHSVolkshochschule in Unterrathウンターラート市民教育センターにて:ろうけつ染め展示室で。
*時計周りに、①とても親切な、ろうけつ染めの先生Frau Thiniusティ二ウス、②後列:左からFrau Nussbaumヌスバウム夫人、Frau Toeppeツェッペ夫人(妹)、Frau Follzフォルツ夫人、Frau Stormシュトーム夫人、前列:左から先生Frau Thiniusティ二ウス、Frau Luekeリュッケ夫人、③左からヌスバウム夫人、Frau Eschエッシュ夫人、家内、ツェッペ夫人(姉)、リュッケ夫人、ツェッペ夫人(妹)、④左から家内、フォルツ夫人、先生ティ二ウス夫妻。 -
また、家内は時間を見ては近所のVolkshochschule 市民教育センターの陶器制作コースに入って、見よう見真似で皿など、様々な作品を作っていた。
日本で市民教育センターと同じ例を探せば「市民講座」に当たるのでしょうが、ドイツと日本では参加者の年齢層は似ているものの、社会層、講師の層と、いささか異っているような気があります。
日本は市民講座より、地域のサークル活動の集まりが数限りなくあり、市民会館などはサークル活動、それも似たようなものがいくつもあって、場所とりに四苦八苦の様子だとか・・・高齢者・とりわけ主婦の方々は幾つも掛け持ちで参加すると聞きます。
写真は1983年4月のある日、VHSVolkshochschule in Unterrathウンターラート市民教育センターにて:ろうけつ染め講習に出る。
*時計周りに、①左から一つ一つの作業が丁寧で、細かい図柄が得意なリュッケ夫人、細かい花柄をいとも簡単に多彩な色彩をおりまぜて染め上げる超ベテランのフォルツ夫人(VHSの講座4、5年の経験者)、②初めて講座体験に来た家内に手本を本屋に手紙で取り寄せてくれた親切なエッシュ夫人、③スカーフやマフラーを100枚、クッションカバーを30枚以上作ったと云う熱心なヌスバウム夫人、④いつもやさしい笑顔で話かけて下さるツェッペ夫人(姉妹)。 -
写真は絹:スカーフ・木の実柄
-
写真は絹:スカーフ・ポインセチア
-
2度目の駐在(1982~85年)も1度目と同じように殆ど日本人のいない地域に住居を設営した。
そこはデュッセルドルフ空港に近いUnterrathウンターラートと云う地区でしたが、そこにもVolkshochschule 市民教育センターがあって、地域の住民向けに色々な講座が設けられていました。
写真は1983年6月4日(土)VHSの展覧会:Flohmarktフローマルクト”蚤の市”ろうけつ染め -
イチオシ
赴任して、子供たちが日本人学校への通学に慣れ出してくると、早速、家内はセンターに一人で出かけて行って、コース選択をして申し込んできた。
上述したように日本人が住んでいない地域であったので、センターに学ぶ日本人は誰もいない状況で、家内がドイツ語でいう「Batikバティック=ろうけつ染め」のコースを選んだ時もクラス仲間はドイツの老人・主婦たちばかりでした。
写真は1983年6月4日(土)VHSの展覧会:Flohmarktフローマルクト”蚤の市”ろうけつ染め -
写真は木綿布:魚
-
写真は絹:雄鶏
-
作品はその1983~4年当時のものですが、家内の作品は同じコースのドイツ人にも好まれて、その図柄を同じように作ってみたいと、よく言われたという。
面白い事に市民講座だけあって、年に何回か、近くの公園で作品を展示していた。売り物ではなかったが、確か、Flohmarktフローマルクト”蚤の市”の一角に展示していたと思う。
この日は私もメンバーさん宅から作品を運ぶ手伝いに、車で駆り出された思い出が残っている。
写真は1983年6月4日(土)VHSの展覧会:Flohmarktフローマルクト”蚤の市”ろうけつ染め -
写真は絹:スカーフ・アルファベット
-
写真は絹:スカーフ・ハラン(植物)
-
写真は木綿布:水を汲む少女
-
写真は木綿布:馬
-
写真は木綿布:雄鶏
-
写真は木綿布:農村風景・夏・・・春が無いのだが。
-
帰国してから数年は、ろうけつ染めのコースでリーダー格の老女姉妹ツェッペさんたちから毎年クリスマスカードが届いた。
勿論、素敵なろうけつ染めのカードだった。
写真は1983年12月11日(日)VHSの展覧会:ろうけつ染め・・・Guentherギュンター氏と出会う。
センターにはろうけつ染めのコースとは別に「絵のコース」もあり、80代のお爺さんHerr Otto Guentherオットー・ギュンター 氏に”蚤の市”で知り合いになりました。
第二次大戦のドイツ敗戦後、Schlesienシュレージェン(旧ドイツ領、現ポーランド領に戦後変更され、ドイツ人たちは財産を没収され、追放された)から引き揚げてきた人々は当地デュッセルドルフ(ドイツで最も就業機会のあったルール工業地帯の中心地)にも多く、その一人であった老人は言葉に訛りがあって、電話だと聞きにくいものがありました。 -
イチオシ
何故か気に入られて、ご自宅に招かれました。
部屋の壁は自作の絵画で飾られ、それほど上手な絵ではありませんが、年齢を感じさせぬ力強い作品で印象深いものでした。
庭師だったという彼の85歳(だったと思う)の誕生パーティーにも夫婦で招かれたりしました。パーティーはレストランで開かれ、一族・友人・知人が数十名参集していて、彼から皆に紹介され、皆さんに温かく迎えられました。
日本には1985年5月31日に帰国して翌年の春、姪御さんからのお手紙で亡くなられた事を知り、ヘタな弔文を送った事を思い出しました。
御手紙にはOtto Guentherオットー・ギュンター氏は1986年3月3日 享年87歳で死去されたとあった。
写真は1984年1月28日ギュンター氏のご自宅に招かれた。 -
ろうけつ染めのコースに限らず、現地での出会いはたくさんありました。
それは単に現地滞在が長いか、短いかではなく、当人たちの気構えで、いかようにもなるものでしょう。
家内は私以上にドイツ社会に溶け込んでいたように思います。
最初の駐在で同じ建物に住んでいた3家族、3階のデュッセルドルフ大学の講師(後にフライブルク大学の教授)Stegieシュテギー博士夫妻や、1階の子供たちが年齢も同じだったC&A勤務のReckertレッカートさん一家などとの付き合いが円滑に上手く行ったのも家内の力に負うところが大きい。
また、ろうけつ染めグループの皆さん、ギュンターさんも家内とのつながりでしたが、そうしたものは会社生活ではまず得られないもので、家内の”凄さ”を感じたものです。
写真は木綿布:農村風景・秋 -
家内はドイツ赴任というチャンスを生かし、興味を持って何でも吸収し、このドイツ時代があって、今の私共があると、よく申します。
若かったから、めげなかったし、いろいろなトラブルにあっても、気分転換もうまくできたのでしょう。
思えば、私のドイツ生活では、チョンボもしたし、上司との対立もあった、しかも大きな不祥事にも直面し、その始末や会社再建など、いろいろありました。
幸い家族共々、ドイツを嫌いになることもなく、私のサラリーマン生活の原点はドイツにあったと思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真は木綿布:農村風景・冬 -
ギュンター氏にからんで、Schlesienシュレージェンの話が出たので、
以下に追記しました。シュレージェン問題の一助になりますように。
ドイツ第6回、バイエルン州;バイエルン王国の周遊
:アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る
2008年4月17日(木)~5月1日(木)
4.18(金) 快晴 16℃、 137km
Landshutランツフートの町(人口62千人)は1839年以来、ニーダーバイエルン地方政府の政庁所在地であり、800年の歴史ある町でもある。
ミュンヘン空港から、北東50kmほどにある。
中世の面影は今も色濃く残り、ドイツでも有数の美しい町と云われてきた。又、神聖ローマ帝国Ludwig伯爵の息子Georgゲオルク公爵が1475年に夢のような結婚式を催した事で広く知られている。
写真はBayern:Schlossバイエルン州のお城の地図 -
“Landshuter Hochzeitランツフート結婚式”と呼ばれているが、美しい花嫁(Jadwigaヤドヴィガ・ポーランド王女)の姿と見事な嫁入り道具の行列に、参集した市民たちは歓呼の声で迎えたと伝えられている。
この当時の祝宴を再現し、今も4年毎に行われている、この町の祭りはAralの観光書でも“Maerchenhochzeitメルヘンのような婚礼”と表現されていて、祭りの期間は大勢の観光客が訪れるそうだ。
一度のその季節に訪れたいものだが。
写真は古都Landshutランツフートの丘の上に立つBurg Trausnitzトラウスニッツ城 -
Residenz宮殿向かいのRathaus市庁舎には観光事務所があり、いくつか資料を頂く。
その横にはFoyer-Kleine Galerie小ギャラリーロビーがあり、何やら展示をしている。垂れ幕を読むとSchlesien問題(後記参照)のようだ。
ポーランド内に残るドイツ人や歴史的建造物の維持・支援運動を行うドイツ側の団体が催している展示である。民族と領地・国境線に絡むもので、厄介な問題といえる。日本でもロシア・韓国・中国・台湾との様々な領地・国境線に絡む厄介な問題は今も目の前にある。
笑顔の良い小父さんが私どもに親切に説明をしてくれた。
彼の名はSiegfried Wernerジークフリート・ベルナー氏、ランツフートの市民である。
15分ほどお相手をして頂き、家内と写真を一緒に撮る。
“運動の良い結果を祈ります。帰国しましたら、写真を送りますよ。”と申し上げて、お別れです。
・・・・・・・・・・・・・・・
<Schlesienシュレージェン問題とは?!>
シュレージェンは古来より係争の地である。古くはスラブ人が支配し、10世紀の終わりにはポーランド領となった。その後、次第に力をつけた諸侯によって細分化されてしまう。
12~15世紀には、ドイツ諸侯がエルベ川以東のスラブ人居住地に軍事的意味合いの強い植民政策を実施し、領土の拡大を図る。
Brandenburgブランデンブルグ辺境伯領はその一つで、1134年エルベ川西岸からオーデル流域一帯に成立し、13世紀の頃より、十字軍の役割も終わった、Deutscher Ordenドイツ騎士団(このドイツ騎士団は元来、十字軍期に成立した三大宗教騎士団の一つ。)は騎士団の目的を東方殖民に切り替えて、後のプロイセンの地をキリスト教化し、これを騎士団領とした。こうしてドイツ人の東方殖民がシュレージェンにも入ってきたが、ポーランドが弱体化した為、14世紀にはチェコの宗主権下に置かれる。
1415年以降は大国プロイセン王家、そしてドイツ皇帝への発展の基となる地となった、ホーエンツォレルン家の所領となる。
16世紀になると、シュレージェン諸侯領はチェコに併合。更に1620年にはオーストリアの直轄領(オーストリア・シュレージェン)となり、1740年にはマリア・テレジア女帝がプロセインのフリードリヒ大王にシュレージェンを奪われ、オーストリア継承戦争(1740~48年;つまり第一次・第二次シュレージェン戦争)となった。七年戦争(1756~63年;英仏の植民地戦争)では、これに乗じたオーストリアがシュレージェンを奪回するが、再びプロセインが奪い返す。-----同地方が機業や鉱産で豊かな地方であり、経済的にも重要なオーデル川を有し、南部ベーメン(ボヘミア・現チェコ)との境界に軍事的に重要な山脈が位置したこともあり、この地を争う背景があった。
(私の感想:まことに歴史の変遷は激しく、高校程度の世界史の知識ではとてもついていけない。)
ドイツ第二帝国が第一次世界大戦で負けると、住民投票でシュレージェンの大部分はポーランド領となってしまう。1939年第二次世界大戦勃発でポーランド領部分はナチス占領下となり、大戦末期にソ連軍がこの地を占領して、以後はポーランド領となった。
Wernerベルナー氏に頂いたLandsmannschaft Schlesien、Nieder-Oberschlesien、Orts-und Kreisverband Landshut e.V発行のパンフレットの一部を抜粋して読むと-----、
≪シュレージェン地方≫は
第一次大戦前には面積4万平方キロもあり、プロイセンの最も大きな地方と言うのみならず、ドイツ帝国(バイエルン王国)内での大きな国ともいえた。
1905年末には490万人のドイツ人が住み、第二次大戦後は3733平方キロとドイツ人919千人がポーランドに、316平方キロと48千人が同様にチェコに分離された。
その面積はオランダ・ベルギー・ルクセンブルグを合わせた広さや現ドイツのBaden-Wuerttemberg州よりも大きい地方である。
EU・欧州連合ができて、ポーランドも2004年に参加したので、オーデル・ナイセ国境線はいまや開かれた国境線であり、ドイツ・ポーランドという、二つの民主国家は良き隣人に変わり、お互いになんの制限も無く、国境を行き来できるようになった。
しかし、我々シュレージェン人は一つの家族であり、とりわけ、取り残されたシュレージェン住民への責任があり、我が故郷に対する権利があることを思い、1990年以来、志ある人々を組織化してきた。
そして現在、ドイツには統一支援団体組織(本部;ボン・Koenigswinter)ができている。目下、多数の代弁者をポーランド議会などに送り込んできている。しかも、シュレージェン人は人材も豊富であり、この地の出身者で各分野のノーベル賞を授与されたのは13名に及ぶ。
今もOberschlesienのドイツ人住民は80万人を数える。
ドイツ連邦共和国はシュレージェンの一部はザクセン州に入ると明白に認めている。また、ザクセンの一部にあるシュレージェン地域ではシュレージェンの旗を掲げていると-----。
(注)この地域からのドイツ(旧西ドイツ)への引揚者・移住者は多く、ポーランド領のシュレージェン地方に親戚・友人を多く持っているため、取り残された?!(スターリン・ロシアにより、強制的にオーデル・ナイセ国境線を引かれたことに、今も異議を唱えている。)人達への思い入れは強い。Duesseldorf時代の知人Otto Guentherオットー・ギュンター(1986.3.3. 享年87歳で死去)氏も確かこの地域の引揚者であった記憶がある。 (作成:2008.07.09.) 】
写真はシュレージェン地方の地図の前でSiegfried Wernerジークフリート・ベルナー氏と
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
セピア色の思い出
-
前の旅行記
セピア色の思い出:ポルトガル・ロカ岬の帰途、レストランRefugio da Rocaリフュージオ ロカで美味...
1982/12/28~
ロカ岬
-
次の旅行記
セピア色の思い出:ゴスラーちゃんはドイツのアンティーク・ドール、もう40年我が家の居間に鎮座している。
1983/04/01~
ゴスラー
-
セピア色の思い出:リヒテンシュタイン・雪景色のファドゥーツ城
1974/02/22~
ファドゥーツ
-
セピア色の思い出:古くなったが、捨てられないドイツ思い出の品、革鞄やシュミット帽など
1974/05/01~
デュッセルドルフ
-
セピア色の思い出:1974年9月1日、上司のアウディ車に乗って、来独間もない家族と初めてゾーリンゲン、ボン、...
1974/09/01~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
-
セピア色の思い出:ドイツの年輩の小児科医は次女の『耳の形』を見て、これは『Wolfsohr狼の耳』と言って、...
1975/03/23~
デュッセルドルフ
-
セピア色の思い出:39年前に走ったロマンチック街道:南独、オーストリア、スイス巡り(その1)
1975/08/09~
ロマンチック街道周辺
-
セピア色の思い出:39年前に走ったロマンチック街道から南独、オーストリア、スイス巡り(その2)
1975/08/09~
スイス
-
セピア色の思い出:ドイツで家内は古いソファーと椅子の布地を改装した。
1976/02/27~
デュッセルドルフ
-
セピア色の思い出:ドイツ流≪キツネ狩り≫、現代の狩猟スポーツの催しを初めて見る機会があった。
1976/10/23~
ヘッセン州
-
セピア色の思い出:冬のミュンスター 1976・77年の年末・年始の旅
1976/12/31~
ミュンスター
-
セピア色の思い出:ドイツの団子(だんご)、”クネーデル”料理を食べましたか?
1977/06/16~
ニュルンベルク
-
セピア色の思い出:1978年イースター(復活祭)の休みにフランスの古城に泊まり、パリ見物をした。
1978/03/24~
オーヴェル=シュル=オワーズ
-
セピア色の思い出:家内のお手製のシュークリームはドイツの子供たちにも大人気だった。
1978/06/30~
デュッセルドルフ
-
セピア色の思い出:アイフェル山中の古城ホテル ダス ブルクハウスで35歳の誕生日をケーキで祝った。
1978/10/14~
ラインラント・プファルツ州
-
セピア色の思い出:「豚の丸焼きパーティ」
1979/07/21~
エッセン
-
セピア色の思い出:日本に帰国する前にドイツ最後の夏季休暇旅行で南ドイツのお気に入りの地を巡った。
1979/07/28~
ベルヒテスガーデン
-
セピア色の思い出:ドイツの北の気質は冷淡なの?!
1982/04/11~
ハンブルク
-
セピア色の思い出:お金を貸してください!
1982/06/13~
デュッセルドルフ
-
セピア色の思い出:ポルトガル・ロカ岬の帰途、レストランRefugio da Rocaリフュージオ ロカで美味...
1982/12/28~
ロカ岬
-
セピア色の思い出:1983年4月ドイツでBatikバティック(ろうけつ染め)を学ぶ
1983/04/01~
デュッセルドルフ
-
セピア色の思い出:ゴスラーちゃんはドイツのアンティーク・ドール、もう40年我が家の居間に鎮座している。
1983/04/01~
ゴスラー
-
セピア色の思い出:オランダ小旅行(マルケン島、フォレンダム、大堤防、ハーレム、コイケンコフ)
1983/04/30~
その他の観光地
-
セピア色の思い出:シャクナゲの並木が花盛りだったベルギーのマナーハウスHostellerie Shamroc...
1983/05/21~
その他の都市
-
セピア色の思い出:ジュリアナ女王が度々訪れた由緒あるホテル プリンセス ジュリアナ
1983/05/22~
その他の都市
-
セピア色の思い出:ブラッセル駐在の旧友H君一家と1泊2日の予定でライン・モーゼルを巡った。
1983/08/12~
ライン川流域周辺
-
セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行
1984/04/20~
ロワールの古城周辺
-
セピア色の思い出:1984年夏の休暇の最終日にミヒェルシュタットとフュルシュテナウ城を訪れた。
1984/08/03~
ミッヒェルシュタット
-
セピア色の思い出:メリークリスマス!ベルクミューレの名の小さな古城ホテルでホワイトクリスマスを過ごした。
1984/12/25~
ラインラント・プファルツ州
-
≪セピア色の思い出:72歳の同窓会がきっかけで交友関係が再び始まる≫
2015/11/26~
横浜
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (4)
-
- sanaboさん 2020/07/10 22:37:42
- 素晴らしい奥様ですね。
- jijidarumaさん、こんばんは
お料理上手でご聡明な奥様のご様子は今までもjijidarumaさんの旅行記から
窺い知ることができましたが、ドイツ駐在中には内助の功のみならず
積極的にドイツ人社会に溶け込まれご交流を楽しまれたのですね。
ろうけつ染めの作品はユニークな表情の魚や雄鶏、水を汲む少女などの
図柄が大変素晴らしく、ご趣味とは思えないプロ級の腕前に目を見張り
驚嘆いたしました。
素敵な素晴らしい奥様ですね。jijidarumaさんのお幸せそうな笑顔が
目に浮かびました。
ここのところ、コロナ感染者数がまた増え始めて心配ですね。
引き続きお気をつけてお元気でお過ごしくださいませ。
sanabo
- jijidarumaさん からの返信 2020/07/11 00:16:26
- Re: 素晴らしい奥様ですね。
- sanaboさん、
今晩は。久しぶりですね。
ご多用のところ、コメント頂きありがとうございます。
お互い、武漢ウイルスで旅の予定が無くなり、困りましたね。
私共はもう喜寿なのに、これから2年は旅も難しそうで、大変なことです。
さて、この旅行記は前文があって、一種の“終活”の流れで、「家内の歴史」のファイルに入れる為、「ろうけつ染め」について書き留めたものです。
(このファイルには料理、ケーキや子供時代の事など様々な話を入れています)
この家内を大いにヨイショ!(笑)した一文を中学時代の恩師(90歳で矍鑠としている家内の担任)に送りましたら、ご自分も短大で「ろうけつ染め」を教えたから、興味深かったようです。嬉しそうな電話を頂きました。
その先生も“終活”だといって、手元にあるタッパーウェアを段ボール箱にいっぱい送ってきました。今日もお礼の電話で、家内と長々とやっていました。
セピア色の思い出も家内から聞き書きすれば、たくさんあるのでしょうが、旅行記ばかりを書いているから、そちらがおろそかになりそうで、“終活”もどうなりますやら・・・。
それではまた。ありがとうございました。
jijidaruma
-
- M-koku1さん 2020/07/09 22:29:05
- 昔の写真とは思えないほど 写真がきれい
- ”高校程度の世界史の知識ではとてもついていけない。”
はい jijidarumaさんの旅行記を読むたびにそう思います。
それにしても 本当に同時期に ヨーロッパにいらしたんですね。
私も奥様と同じような傾向があり 沢山のイギリス人のお友達を得ることができましたが、 日本人社会のママ集団から逃れることは なかなか難しかったです。
今でもロンドン会と称して 年に一回 集まっています。
日本人学校に子供が入ると どうしてもお付き合いは深くなります。
現地校のときは それなりにご近所さんと仲が良かったのですが・・・
1982年には第一回目のドイツ旅行に行きました。
ライン川クルーズに一週間でした。
ケルンからリューデスハイムまでに一週間使ったんですよ!
古城がたくさん見られて 本当に楽しい記憶です。
これがヨーロッパの楽しみ方だと味をしめ
帰国するまで 何回もドイツ旅行に行きました。
懐かしいなあ
バティックはインドネシアの民芸かと思っていました。
ドイツの方たちも なさるんですね。
そういう身につける手作業のグループに参加すればよかった・・・
ローカルのセンターでは 英語ばかり習っていました。
失敗 失敗・・・
コロナの感染者が増えてきましたね!
再びおとなしくした方がいいのでしょうか・・・
ではまた
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/07/09 23:45:09
- Re: 昔の写真とは思えないほど 写真がきれい
- M-koku1さん、
今晩は。いつもありがとうございます。
<セピア色の思い出シリーズ>は普通、写真の色が変わってしまう事が多いのですが、82~85年の第二回駐在時期の写真は上手に焼き付けたのか、いまだに色あせしていません。それに比べて74~79年の第一回駐在時期の写真は残念なものです。例えば、78年にドーバーを越えて、初めてイギリス観光に行った際の写真は
口コミに載せた「セピア色の思い出:エディンバラ城のMilitary Tattooを見に行った。」のように文字通りセピア色です。
ロンドン会ですか!ドイツはデュッセルドルフ会があるようですよ。
日本人会、企業別、日本人学校、婦人会などいろいろですね。
娘たちは日本人学校の集まりには行っていますね。特に長女は
そこで同年の婿を探してきましたから(笑)、有難味はあるでしょう。
<1982年には第一回目のドイツ旅行に行きました。>
私と同様にセピア色の思い出になりますね。旅行記に書かれたことがありますか?見た記憶がないから、シリーズもので掲載されたら、面白いでしょう。
それにしても、ライン川クルーズに一週間とはビックリです。
西洋人的な旅の仕方が身に付かれている様な・・・、私などは相変わらず
(ドイツの友人に笑われる)非滞在型の旅ばかり、貧乏性です。
先日、バティック:市民教育センターにてろうけつ染めを学んだという一文を纏め、中学時代の恩師(90歳で矍鑠としている家内の担任)に送りましたら、大変喜んで電話をいただきました。ご自分も高校・短大時代の先生に進んだ際、教え子にろうけつ染めを教えたと、ながい、楽し気な電話を家内としていました。
いろんな縁を繋いでいます。
それではまた。ありがとうございました。
jijidaruma
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
デュッセルドルフ(ドイツ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ セピア色の思い出
4
23