1975/08/09 - 1975/08/19
880位(同エリア13965件中)
jijidarumaさん
- jijidarumaさんTOP
- 旅行記575冊
- クチコミ659件
- Q&A回答107件
- 1,010,723アクセス
- フォロワー107人
≪39年前に走ったロマンチック街道から南独、オーストリア、スイス巡り(その2)≫
(1975年8月9日〜8月19日 10泊11日 夏の休暇Urlaub旅行)
シュヴァンガウ =>B310・309 Kemptenケンプテン =>B12・A96 ボーデン湖畔のLindauリンダウ =>B?・A13 Bregenzブレゲンツ =>A13
Liechtensteinリヒテンシュタイン公国・首都Vaduzファドゥーツ;
面積は南北に25km、東西に6kmと狭く、日本の小豆島とほぼ同じだと云う。世界で6番目に小さい国で、首都ファドゥーツも気付かぬうちに通り抜けてしまいそうな町だ。人口は5200人。リヒテンシュタイン公の居城は町を見下ろす高台に立っていて、現在も公と家族たちが住んでいるので見学は出来ないが、ともあれ城の門まで行ってみた。
写真はリヒテンシュタイン公の居城
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
=>A13 スイス領となるハイジの村Maienfeldマイエンフェルトへ。
Maienfeld泊 ;Victor's Bed & Breakfastヴィクター
B&B 5室
CH-7304 Maienfeld 、Bahnhofstrasse 8
マイエンフェルト駅近くで、鉄道が傍を走るホテルでした。18時50分と遅めの到着になり、飛び込みで泊めていただきました。
今ホテルのHPを見ると、当時の面影は殆ど残っていない。マイエンフェルト駅前通りの左手にあった宿屋で、夕食もできましたから、助かりました。
写真は1975.08.14.ケンプテンからリヒテンシュタイン公国への道で・昼食 -
この名前のホテルだったかは手元に資料が残っていないので不明です。
ヴィーナーシュニッツェルを食べた記憶と、娘たちが宿の裏庭にあったお手製のブランコに乗って喜んだ事を良く覚えているのです。
その夕食中に『アルプスの少女ハイジ』に惹かれてやって来たという、日本の若い女性が一人、レストランに入ってきました。このような場所で日本人とばったり会うなどとは思いもよらず、驚きました。
彼女からメニューが分からないからと聞いて来たので、食事もご一緒にとりました。食事が終わって、これからチューリッヒに向かうのだと言う彼女を皆で駅まで送りに行きました。
ほんの一時の出会いでしたが、印象に残るものでした。
http://www.victors-hotel.ch/
今調べてみると、各ホテルはホテル名が変わったのか、ヒットしないものが二、三ありました。マイフェンフェルトのホテルは、元々はZuerichに宿泊予定でした(未定としていた)が、時間がずれて急遽、こちらにしたものです。
ホテルは駅前にあった記憶から、調べてみました。上述したハイジに憧れてやってきた若い方とホテルの食堂で会った事もあり、よく覚えていたのです。
一期一会・・・駐在員としてちょっと恰好つけて、彼女の食事代をもちました。
写真はマイエンフェルト駅 -
⑦8月15日(金) 晴れ ;130km
マイエンフェルトのハイジ:
小さな素朴な村(人口は2500人)だが、この村はアニメ『アルプスの少女ハイジ』でよく知られている。
9:15ホテルから、小道を1kmほど行くと、牧場傍に“Heidi Brunnenハイジの泉”を見つけた。(10:30)
写真は1975.08.15.Maienfeldマイエンフェルト:ハイジの泉 -
1953年に建てられたヨハンナ・シュピリの記念碑は 「ハイジの泉」と名付けられた。
娘たちは大喜びで、水飲み場となっている泉で、花々の咲き乱れる野原で遊びました。
当時の子供たちはハイジに夢中でしたね。ドイツ語版のYOUTUBEを見つけ
て、参考に入れましたが、懐かしいものでした。
写真はマイエンフェルト:ハイジの泉 -
参考;
HEIDI ・Folge:Das Geissleinシリーズ・子山羊
http://www.youtube.com/watch?v=2KiitWIhtd0&feature=related
女流作家Johanna Spyriヨハンナ・シュピリ(1827年〜1901スイスの作家)は、この地を舞台に書き上げた児童文学の名作『Heidiハイジ』(1880年)で世界的に知られている。マイエンフェルト一帯に見るSchloss Brandisブランディス城や村役場、山へと続く小道、水飲み場などの風景は原作そのものです。
夏を過ごした山(アルム)のモデルとなったオクセンベルク(Heidialpハイジアルプ)は往復6時間という距離ですが、冬を過ごした村として描かれたロッフェルス(Heididorfハイジドルフ)までハイキングしながら記念館「ハイジハウス」を訪ねるのが観光の定番コースになっているとか。
Heidi Dorf bei Maienfeld ;Heidihausハイジハウス(ハイジ博物館)
http://www.youtube.com/watch?v=Q9luNKYGXrI&feature=related
写真はマイエンフェルト:Heidihausハイジハウス(ハイジ博物館) -
マイエンフェルト=>A3 Bad Ragazバート・ラガーツ=>A3 左にWalenseeバーレン湖を見て=>A3 Zuerichチューリッヒに11:00に到着。
チューリッヒ観光(11:00~16:15):
スイス北部にあるスイス最大の都市、金融・経済・文化の中心地である。普通にロールスロイスを何台も見かけるところに驚きます。ローマ帝国軍駐屯地があったという町の代表は双頭の塔を持ったGrossmuenster大寺院。
チューリッヒ湖畔の散策。人口37万人。
写真はチューリッヒ湖畔 -
=>A4 Zugツーク=>A4・2 ルツェルン傍のBrunnenブルンネンへ。
Brunnen泊 ;Hotel Eden au Lacホテル・エデン・オ・ラック
4星・39室
CH-6440 Brunnen am Vierwaldstaettersee 、Axenstrasse 15
ルツェルンの東に広がるフィーアヴァルトシュテッテ湖(通称ルツェルン湖)は湖の東側が大きく南へ曲がり、その曲がり角の湖畔に位置するのがブルンネンの町である。ホテル・エデンは風光明媚な湖畔沿いに立つ。
http://www.hoteledenbrunnen.ch/4517.html
写真は1975.08.16.通称ルツェルン湖?! -
⑧8月16日(土) 晴れ ;210km
ブルンネン=>A2 Luzernルツェルン
ルツェルン観光(9:30~14:00):
スイスの中央に位置するルツェルンは美しい湖畔に中世からの建物が並ぶ古都、昔も今もスイスを代表する水の都・観光地である。
中世の市城壁Museggmauerムーゼック城壁、1792年のフランス革命の時に、ルイ16世を守って果てたスイス傭兵の記念碑“瀕死のライオン像”、屋根付きの木橋・カペル橋と110枚の歴史画、旧市街に残る見事な「フレスコ画」・壁画の建物、初めて見たGletschergarten氷河公園・氷河臼など。人口は75千人。
写真は1975.08.16.Luzernルツェルン・カペル橋をバックに -
ロイス川に架かるカペル橋は実に絵になりました。ゼラニウムの花などが橋の欄干、旧市街の噴水、フレスコ画に彩られた建物を飾り、夏のルツェルンは美しかったです。
その後、屋根付きの木橋・カペル橋が何時でしたか、火事で焼けおちた事がありました。あの時、110枚の歴史画も失ったかと思うと残念なことです。
写真は1975.08.16.Luzernルツェルン・カペル橋を後に -
=>B2 Kuessnacht am Rigiキュスナハト:
スイスの伝説の英雄のWilhelm Tellウィルアム・テルが悪代官ゲスラーを射殺した場所に、記念の噴水と立像があった。9千人の村。
写真はウィルアム・テルの立像 -
写真は1975.08.16.Luzernルツェルン・瀕死のライオン
-
=>B(A)2 Altdorfアルトドルフ:
この村は人口8500人。ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜いた場所として、よく知られている。
マルクト広場で起きた出来事とされていて、広場に1895年、ウィリアム・テルと息子の精巧なブロンズ像が建てられた。
英雄の像はとても大きくて、家族一緒の写真を村の方に撮って頂いたら、銅像の足と私達だけが写っていた。
写真は1975.08.16.アルトドルフのテルの銅像 -
1804年、ドイツの大作家・シラーが戯曲『ウィリアム・テル』を発表し、世に知られた。
1829年にはロッシーニが作曲したオペラ『ウィリアム・テル』の為の序曲、ウィリアム・テル序曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=e1l59fXt8fQ
写真はTelldenkmal:ウィリアム・テルと彼の息子の精巧なブロンズ像が建てられた。 -
=>B2・19 Furkapassフルカ峠(2436m)を越える:
後で思えば、よくこんな峠を越えたものだと思う。夏の日差しはまだ高く、登り始めてみると、走っても、走っても、だいぶ登ったと思っても、先にはまだ高い山々が立ちはだかるような思いがして、少しずつ後悔しながら、ひたすら登った。
写真はFurkapassフルカ峠(2436m) -
HospentalホスペンタルからRealpレアルプまでは、氷河が作ったU字形の渓谷を進み、フルカ峠の登り口まで走り易い道が続いている。レアルプを過ぎてから、道は嫌な九十九折りの山道に入って、路肩には石の棒状のものが並んで立ち、谷に落ちないようになっているが、車から見た感じは実に簡単なもので、立つ間隔も広く、安全性が無いに等しい思いがした。
写真はFurkapassフルカ峠周辺の地図 -
走る道路際から、はるか深い谷底が見え、高所に対してお尻がムズムズする感覚が生じた。情けないことに、子供たちに“静かにして!”と声を荒げ、ハンドルをしっかり握る手に汗がにじむ。
(この事があってから、自動車運転用の皮手袋を購入し、今に至るまで使用するようになった。)
写真はフルカ峠の標識 -
後ろから来る車は皆スピードを上げて走り、邪魔だ!とばかりに追い抜いていく。運転が上手い。こちらは冷や汗を背に感じながら前方を見て、お先にどうぞ!と慎重運転に徹した。
写真は1975.08.16.フルカ峠Furkapassを越える・まだ先が長い -
新米の運転手の懸念や恐れをトンと気にせず、車の中で話かけてくる娘たちでしたから・・・今でもこの時の話で、一番相槌を打つのは家内で、余程怖かったようです。
ヨーロッパを凡そ20万kmを走りましたが、この峠道が一番怖かったです。
山岳道路は経験と運転テクニックが必要と思いますが、あちらの方は実に運転が上手です。
”後ろから車が来るたびにぐっと速度を落とし”、怖くて緊張しているから、”窓から手を出しては、先に行ってくれ!“と指示する事も出来ず、ひたすら真っすぐ前方を見ていたものです。
写真はフルカ峠の途中 -
漸く峠の頂上に至る。そこには氷河があり、暫し、車を止めて、広大なGletscher氷河を見て、道路際にある残雪の壁を皆で触った。
娘たちは“冷たい!”と言って楽しんでいた。
そろそろ落ちて行くだろう夕日が山々の残雪に映えて、実に美しい。
写真は1975.08.16.フルカ峠Furkapassを越える・頂上の残雪 -
傾斜最大10%ほどの上り下りのある2000m級のスイス・アルプスの峠道を回遊する気分は、車好きにとっては又別格なのでしょうが、私のような者には鬼門でした。
写真は1975.08.16.フルカ峠を越える・2430mフルカ峠の頂上で -
フルカ峠はスイス・アルプスの高所にある峠(2436m)である。
現在の峠の写真を見ると、舗装も道路幅も広く走り易くなっているように見える。
また、フルカ・オーバーアルプ線はフルカトンネルで峠をバイパスしているから、危険も少なく便利になった。
このトンネルは標高2,100mの高所にあり、1982年に開通した。
写真はFurka_Pass_Glacier氷河 -
スイスという国は観光の為だけではないのでしょうけど、早くから山岳道路や登山電車を通しています。
狭い、山ばかりのような国にとり、必要であったとはいえ、凄い事です。
写真はFurkapass:Hotel Oberwald_Belvedere -
18:10峠を通過し、ホテルOberwald Belvedereオーバーバルト・ベルベデーレの前を麓に向かって下りて行く。
写真はGrimselstrasseグリムゼル峠道 -
Grimselpassグリムゼル峠(2165m)を過ぎ、谷底に下りると、水力発電のような施設があり、そこの広場には山岳道路建設に従事し、亡くなられた方の慰霊碑も建っていました。
今でも冬季期間は通行止めにもなる地域もあるようですから、たいへんな所です。この辺りで太陽は沈み、暗くなった。
写真は1975.08.16.フルカ峠を越える・フルカ峠工事殉難者像 -
ぎりぎりのタイミングで峠を越えた事を知り、漸く、私も家内も緊張感から解放され、思わず万歳を叫んだのです。
写真は1975.08.16.フルカ峠を越える・漸く降りた万歳! -
フルカ峠はスイス・アルプスの高所にある峠(2436m)である。
Ian Flemingイアン・フレミングの長編小説『007』第7作『ゴールドフィンガー』が1964年に映画化された際に、フルカ峠がその舞台の一つとして登場したと云う。
『007』ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー主演)のシリーズ第3作の舞台とは、どの場面なのか?!
写真は第7作『ゴールドフィンガー』の映画ポスター -
映画の粗筋を見ると、“スイス国内をアストンマーチン・DB5で尾行中、フルカ峠で女性がゴールドフィンガーを狙った弾が当たりそうになり、ボンドは彼女の車を追跡して、特殊装備でタイヤをパンクさせる。”
写真はアストンマーチン・DB5 -
『ゴールドフィンガー』に確かにフルカ峠が出てきた。
http://www.youtube.com/watch?v=CB7KIMWck0g
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=lLuNstLjP1c&feature=fvwp
写真は1980年のショーン・コネリーですが・・・。 -
そして、もう真っ暗になった道をひたすら90km先のGrindelwaldグリンデルヴァルトに向かった。
思った以上に峠越えが時間もかかり、ホテル アイガーの予約が心配になり、途中の町の公衆電話からホテルに電話をかけた。
予約は問題ないとの答えでホッとして先を急いだ。
写真はjungfrauregion_sommerユングフラウ地方・夏 -
=>B6 Interlakenインターラーケン20時を経過し、ここから上り坂になる。
=>Grindelwaldグリンデルヴァルト(標高1038m)に21時半の遅い到着になった。
Grindelwald泊 ;Hotel Eigerホテル アイガー
4星・50室
CH - 3818 Grindelwald 、Dorfstrasse 133
ホテル アイガーはグリンデルワルドの中心部にある。
ケーブルカー、電車まで徒歩数分。
ベランダから壮大なEigerアイガー(3970m)が望めました。
http://www.eiger-grindelwald.ch/
写真は1975.08.17.Grindelwaldグリンデルヴァルト(標高1038m)のHotel Eigerから -
⑨8月17日(日)村は晴れ、山頂は曇り ;80km
フルカ峠から暗い道を走り、グリンデルワルトに遅く着いた翌朝、ホテルの部屋から見た景色は素晴しく、よくぞここに来たといった感動でした。
グリンデルヴァルトの村(人口4000人)はEigerアイガー(3970m)の麓に位置している。周囲を高い山に囲まれた村は美しく、遠くに登山電車の道が白く見える。
写真は1975.08.17.Grindelwaldグリンデルヴァルト・ユングフラウ登山電車に向かう -
写真は1975.08.17.Grindelwaldグリンデルヴァルト・登山電車内:娘たちは初めての登山電車に大喜び
-
ユングフラウ登山電車:
グリンデルヴァルトから10:33、 Jungfraubahnユングフラウ鉄道の東回りルートの登山電車に乗り、スイス・アルプスの花、Jungfrauユングフラウ(4158m)に向かう。
放牧の牛が線路に入り込んで、出て行くまで暫時停車することもあって、実に長閑なものだ。ハイキングやトレッキングの人たちの姿も見え、8月半ばにも拘わらず、残雪もいたるところにある。
西回り・東回りルートの登山列車が合流するKleine Scheideggクライネ・シャイデック駅(小さな峠の意)を出発すると、Eigerアイガー(3970m)とMoenchメンヒ(4107 m)両山の山中をトンネルで通過し、ユングフラウの途中にある登山電車の終点Jungfraujochユングフラウヨッホ駅まで登っていく。
この間、全長9.3km、所要時間は約50分程度。
写真はkleine_scheideggクライネ・シャイデック駅 -
スイスの湖畔の景観も捨てがたいですが、やはり、アルプスの高山、とりわけアイガー、メンヒ、ユングフラウの三山を目の当たりに眺めるのは実に良い。
写真は左からMoenchメンヒ、アイガー、ユングフラウ:オーバーラント三山 -
ユングフラウ鉄道は19世紀末から20世紀初頭にかけて建設された。終着駅のユングフラウヨッホは海抜3454mになり、ヨーロッパで最も高い場所にある駅であると云う。
現在は1996年に完成した「スフィンクス展望台(3571m)」があり、高速エレベーターで登ることができる。
ガラス張り(多分雨風を防ぎ、暖かいのだろう)の展望台から世界遺産のアレッチ氷河、ベルナーアルプス、ヴァレーアルプス、ジュラ山脈など360°の大パノラマが楽しむことができるそうだ。
写真は1975.08.17.Jungfraujochユングフラウヨッホで -
当時はそういうものも無く、寒々とした雪で覆われた展望台に出た。身を切るような冷たい風に吹かれ、時折太陽が出て、氷河が輝いて見える。
晴れたかと思えば、あっという間にガスが湧きおこり、山の天気はなんと変わり易い事か。
今まで殆ど会わなかった日本人観光客に、この展望台でばったり、日本の山の様と言ったら言い過ぎか・・・。
写真は1975.08.17.Jungfraujochユングフラウヨッホで:寒々しそう -
雄大な景観、氷河の流れ、登山電車、ホルンの響きに聴きほれた一時など・・・スイスの素晴しさを堪能した一日でした。
写真は1975.08.17.Jungfraujochユングフラウヨッホ登山電車・発着所 -
写真は1975.08.17.ホテルアイガーHotel Eigerから
-
グリンデルヴァルトを16時にスタート。=>A8 Interlakenインターラーケン=>A8 Bernベルンには18時に着いた。
Bern泊 ;Hotel Metropoleメトロポール
3星・59室
CH-3011 Bern 、Zeughausgasse 28
City-Hotelメトロポールは首都ベルンの中心に位置し、駅・Metro公共地下駐車場・国会・ベルン美術館・時計塔・ツェーリンガー噴水などに近く、旧市街の入口にある。
但し、朝食のみのGarni。ホテルチェーン;スイス クオリティ ホテルの傘下にある。
http://www.hotelmetropole.ch/
写真はスイスの首都Bernベルン -
⑩8月18日(月)曇り ;340km
ベルン観光(朝から~13:00):
ベルンの町の俯瞰図を見てみると、旧市街は蛇行したAareアーレ川(295kmを流れてラインに合流する。)に囲まれている先端・・半島部分に旧市街が出来上がっているのが、よく見てとれます。人口128千人。
写真はスイスの首都Bernベルン・1638年 -
旧市街の中心の通りKramgasse(クラム通り)の両側に建ち並ぶ独特の建物は、通りにある見事な噴水と共に実に魅力的な旧市街を形作っていました。
スイスの首都ベルンは1191年、Herzog Berchtold V. von Zaehringenツェーリンゲン大公ベルヒトルト5世により開かれた。美しい旧市街は1983年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。
写真は時計塔:ベルンのシンボル -
ベルン規模の町が一番落ち着いた雰囲気があって、経済的にも文化的にも豊かであり、その旧市街に観光の目ぼしいものが詰まっていて見易いものです。
写真は1975.08.18.ベルン観光・旧市街で -
市内の彫像が美しい泉(水飲み場)巡り;
独特の彫像と色彩に塗られた泉(噴水)がメイン通りに立っている。
パイプ吹きの泉・牢獄塔の前にたつ・・・
アンナ ザイラーの泉・子供たちを食べている、怖い形相をしている・・・
食人鬼の泉・武装した熊がツェーリンゲン王国の旗を掲げ、足元にも小さな熊が葡萄を食べている・・・
ツェーリンゲンの泉・サムソンがライオンの口を開いている・・・
サムソンの泉・目隠しいた女神が右手に剣、左手に秤をもつ・・・
正義の泉・・・といずれも見事なものだ。
写真は1975.08.18.ベルン観光・旧市街で:ベルンの泉 -
ヨーロッパ最長(約6km)のアーケード、牢獄塔、Kramgasse(クラム通り)にある13世紀の城門に作られた時計塔はベルンのシンボル、こちらもシンボルであるベルンの町の名に因んだ熊公園、大聖堂や市庁舎などを見て回った。
アーレ川の法面に作られた熊公園では親熊と子熊がいて、観光客が投げ入れられた好物のニンジンを食べていた。
写真は1975.08.18.ベルン観光・旧市街で:ベルンの泉 -
ベルン=>A1・2 Baselバーゼル
バーゼル観光(14:00~16:00):
スイスの北西部にあり、ドイツとフランスとスイスの3国の国境が接する地点に位置し、市街地はライン川をまたぐ形で広がっている。人口165千人。
スイス最古の大学がある。Basler Muensterミュンスター大寺院が見所。
写真はバーゼル・ミュンスター大寺院 -
バーゼル=>Freiburgフライブルク(16:40通過)=>A5・67 Mannheimマンハイム
Mannheim泊 ;Hotel Basler Hofバスラー ホーフ
3星・45室
D-68165 Mannheim 、Tattersallstrasse 27
バスラー ホーフは駅、給水塔・公園、選帝侯宮殿に近接したホテル。
朝食のみのGarni。
http://www.baslerhof.com/
⑪8月19日(火) ;300km 後半はここまで1,260km
一日の行程が300kmを越えると、観光するのも結構大変です。
昨日のメインはベルン、バーゼルは少々、実は黒い森近くのフライブルクも興味があったのですが、どうしても端折らざるを得ません。
最終日のこの日もマンハイム、マインツは少々、ライン下りの古城群も3箇所・古城ホテルのシェーンブルク城、ラインフェルズ城、そしてコブレンツのエーレンブライトシュタイン要塞をメインとしました。
写真は1975.08.19.Mannheimマンハイム・選帝侯宮殿 -
マンハイム観光:
ユーゲントシュティール様式のWasserturm貯水塔は町のシンボル・公園、マルクト広場の旧市庁舎、選帝侯宮殿。
マンハイムはフランクフルトの南70kmにあり、バーデン・ヴュルテンベルク州最北端にある。1954年に創設されたドイツ観光街道の一つ古城街道のスタート地点にある。
人口は約31万人を擁する大学都市である。
かつてプファルツ選帝侯の宮廷所在地であった。1600年頃のプファルツ選帝侯フリードリヒ4世の時代から、町の中心はライン川とネッカー川に挟まれた馬蹄形の格好をしている。
馬蹄形の中は日本の京都のように碁盤目状に区画され、中心通り以外は数字とアルファベットで住所を表すし、通り名がない。
このスタイルはドイツでこの町だけと珍しい。
マンハイム10:30スタート。=>A6・63 Mainzマインツ:
八角形をしたロマネスク様式の大聖堂。
=>B42・9 Der Rheinライン川の古城巡り:
Auf Schoenburgシェーンブルク城に登る。ライン川畔に建つ古城ホテルの中でも最も人気の高いホテルと言われ、何時か泊ってみたいものだ。
この城はロマンティッシャーライン(世界遺産)の中ほどにあたり、Oberweselオーバーヴェーゼルの町の上にある美しい中世の城である。
写真は1975.08.19.ライン下り:Auf Schoenburgシェーンブルク城で -
対岸にLoreleyローレライの岩山を見る。
このころは日本語のローレライも人魚像もなかった。
また、ローレライの岩山に展望台があるなどとは知らなかった。
定年後の旅で漸く、展望台に上り、ラインの蛇行を見た。
写真は1975.08.19.ライン下り:Loreleyローレライの岩山をバックに -
Burg Katzネコ城、Burg Mausネズミ城、Schloss Rheinfelsラインフェルズ城(こちらも古城ホテル)、Marksburgマルクスブルグ城は現存する中世の城の中で、最も完全な姿を残している。
独特の形状をしたマルクスブルグ城は現在、ドイツ古城教会の本部がある。・・・などなど名前が一致しないままの古城群を遠望しながら、時に停まり、また走った。
写真は1975.08.19.ライン下り:ザンクト・ゴアSt.Goarでネコ城(Burg Katz)を望む -
=>B9・42 Koblenzコブレンツ:
最後にFestung Ehrenbreitsteinエーレンブライトシュタイン要塞“栄誉の砦”に上がって、要塞からの見晴らしを楽しんだ。
Deutsches Eckドイチェス・エック (ドイツの角)と呼ばれる、モーゼル川とライン川の合流の様子が、要塞からは手にとるように見えて、素晴らしいものだ。
要塞“栄誉の砦”は10世紀から、戦略上、重要な要塞として存在していたそうで、1688年のルイ14世率いるフランス軍の大軍が要塞を攻めたが、遂に落ちることがなかったと云う。
116mの丘の上は、19世紀のプロイセンによって、更に広大な要塞が形作られている。要塞には濠、厚い壁の城壁、州の博物館、ユースホステル、第一・二次大戦の戦死者の顕彰碑があり、現在でも外地で戦死した兵士を悼んで顕彰されているそうである。
さて、要塞から見る夕日と共に、この初めての長い休暇旅行も終りだ。
コブレンツ=>A61・46 で140km先のDuesseldorfデュッセルドルフに向かう。
Duesseldorf の自宅に21時に帰る。 総走行距離は2,365kmとなりました。
(2012.05.08.アルバムから昔の旅を回想し、再現した。)
XXXXXXXXXXXXXXXXXXX
写真は1975.08.19.ライン下りの終り:コブレンツ・エーレンブライトシュタイン要塞“栄誉の砦”に上がって -
回想;
2012年5月の旅をするにあたり、久しぶりにオーソドックスなロマンチック街道(Augsburgまで)を走ろうと計画した。
昔のアルバムを辿って見ている内に、この本文のベースとなるものを書きだした。古い地図を引っ張り出して、ルートも思い出しながら・・・家内がアルバムの写真にコメントを書いていたので、これらを利用して加筆し、ドイツの思い出の一章に加えました。
アルバムを見ると、確かになんと!若かった私たちがいます。
当時は何にでも興味を持っていましたから、仕事の厳しさは別にして、思えば充実した日々であったようです。プライベートな時間はゆったりとした、気持ちの良い時間が流れていたように思います。長い夏の休暇は日本ではとても、とても取れませんでしたから。
当時、デュッセルドルフも日本人居住者が3000人くらいだったかと思います。それでもまとまって住む日本人たちに“小東京・日本の小さな植民地”などと揶揄するところもありました。
第二次大戦の同盟国日本というイメージは知識としてはありましたが、田舎に行ってみると、日本人を初めて見る方もいて、ドイツ語を話すのを不思議な思いでみているようでした。
日本の車もまだまだ、産業車両などはとても太刀打ちできないもので、販路を拡大するには、日本企業は長く資金と人材の投入が必要でした。
私の車・オペル車はメルセデスに比べると車体も軽く、長距離の旅は少し疲れましたが、免許も車もドイツが初めてでしたので、車音痴は新車が一番と思い、当時のヨーロッパで一番売れていたレコルド2000を購入したのです。
私の車の免許はBrillentraeger(mit Sehhilfe)眼鏡使用が義務付けられていました。
今思っても、最初であった夏の休暇の旅にしては、よく走っています。
初めての車の長距離旅行は、本文にも書いたように結構緊張した記憶が残っていますが、これに味をしめて、その後も自分でも驚くほど車の旅を繰り返しました。今もって、ドイツ感傷旅行は続いているようです。最初の旅が盛りだくさんで、面白かった所為でしょう。
それにまた、便利なドイツのアウトバーンのお陰とも言えるでしょう。
これほどドイツにはまるとは思いもしませんでしたから、人生は実に不思議なものです。
その後、定年退職してからもドイツ感傷旅行を走り、かつての旅と合わせてみると、ドイツなどの国々を巡った距離は通算20万kmとなっています。
写真はDeutsches Eckドイチェス・エック (ドイツの角) -
私の記憶の中にある、一日走行最長距離は1982年8月にボーデン湖畔のLindauリンダウからDuesseldorfデュッセルドルフの567kmです。
この時も1975年8月の旅に似て、ロマンチック街道とアルペン街道、ボーデン湖、リヒテンシュタイン公国、オーストリア、スイスと走り、凡そ2400kmの距離を走った計算になりました。
次が1983年4月にDuesseldorfデュッセルドルフからBerlinベルリンまでの536kmが最長であったと思います。(この距離は手持ちの観光本Aralの距離表に従いましたが、実際はいずれも600kmを越えていたと思います。)
上の二つの例は途中観光なしで2都市間を走ったものです。
この旅はけっこう貧乏旅行の感じが残ります。泊ったホテルも安いホテル(朝食のみ。今、ホテルを検索しても残っていないホテルもありました。)も多く、電気釜を持参して、ホテル内でご飯もたき、お昼はおにぎり、カップラーメンも食べていました。アルバム写真の中にも野原で昼食の場面もあります。
もっとも子供たちも私共もこれを楽しんでいましたけど・・・。
ともかく、色々見てやろうという気持ちがいっぱいな時期でした。
5歳と3歳の娘たちにとっては小さかった所為か、この旅でアイスを食べたとか、昼食におにぎりを食べたとか、ハイジの泉で遊んだといった・・・記憶ばかりでした。
1982年8月、大きくなってからまた、そのおさらいをしました。ドイツの記憶が良く残ったせいか、二人の娘たちも新婚旅行はドイツに行っています。
さて、写真の娘たちに似た孫娘が其々に出来て、ドイツ(ヨーロッパ)を体験させたいところですが、私共の方がそれまで元気にしていられるか。
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写真はリヒテンシュタイン公国・首都Vaduzファドゥーツの景色
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セピア色の思い出
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この旅行記へのコメント (6)
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- rinnmamaさん 2018/01/09 13:50:04
- 羨ましい欧州赴任滞在・・
- jijidarumaさん、こんにちは
今年も昨年同様宜しくお願い致します。
母の事でお年賀のご挨拶も出来ずに失礼致しました。
さて、この旅行記のお子様の可愛い事・・
この様に旅をされた事は一生の思い出ですね。
海外赴任の御苦労もおありだったとは思いますが、私には羨ましい欧州での生活です。
陸続きですから気軽に移動できる旅は魅力的だった事でしょう。
ただ、陽が落ち始めての山道の運転は気苦労だったことでしょう。。。
お子様に声を荒げた事にも納得ですよ。
我が家の夫など運転していて疲れてきますとうるさい!と怒鳴ります(苦笑)
まだ、優しいjijidarumaさんですよ^^
未踏のスイスですので、有名な地名でも地理が浮かんできません。
9月のスイス~ミラノ間も調べれば良かったのですが、ただ車窓のみを楽しんで終わってしまい心残りです。
ただ、70過ぎたらチロル・スイスに滞在型で旅したいので、また参考にさせて頂きますね。
昨年は体調を崩されたようですが、今年はドイツ旅が実現されるのでしょうか?
また、楽しみにお待ちしております。
寒さも一段と増す時期ですので、ご自愛くださいませ。
rinnmama
- jijidarumaさん からの返信 2018/01/09 17:56:01
- Re: 羨ましい欧州赴任滞在・・
- rinnmama さん、
こんばんは。
母上様は残念でしたね。私の母は39歳で逝きましたが、もう昨年のクリスマスの25日でなんと110歳を数えます。我がパソコン部屋には遺影やら、23歳で撮った写真を掲げてますが、やはり長生きして、私の学生時代、会社時代、そして家族も見守ってもらいたかったですね。
さて、セピア色の思い出の旅行記にお立ち寄り頂き、ご投票、コメントありがとうございました。
思えば、40年以上も昔になる、この旅は若かっただけに無茶をしたようです。娘たちも47歳と45歳、よく似た孫娘とともに元気に家庭を守っています。当時は赤字会社の再建もあって、仕事は結構年以上の働きを期待され、ストレスも大きかったですが、休暇だけは思い切り取らせてもらいました。画面画面を見ると、あの時の状況が浮かびます。
ドイツに駐在しながら、スイス、イタリア、イギリスなど主な国々は車で周りました。運転免許をドイツで取得したことで、そうした旅が出来ました。
そうそう、イギリスやオーストリア、スイスの湖水地方も魅力的ですが、イタリアの北部・コモ湖などの湖水地方も素敵でしたよ。
山を見ながら滞在するのも、湖水地方を巡るのも良いですね。
今年の賀状には「ドイツの旅を再開する」と宣言済みです(笑)。
お互い元気に旅を楽しみましょう。今年も宜しくお願い致します。
jijidaruma
-
- yukiさん 2015/09/08 22:48:18
- jijidaruma さま
- 只今、こちらの旅行記も楽しく拝見しました。
ヨーロッパはいいですね、
39年前のお写真と今が、同じ姿なのには感激しました。
もっとも、何百年も前に作られたものですものね、、!
私はスイスが大好きです。
行くたび息子との思い出が増えて、どの場所も甲乙つけがたく、素晴らしいです。
また遊びに来ます。(o^^o)
カメラちゃん
- jijidarumaさん からの返信 2015/09/09 00:43:25
- ヨーロッパ
- カメラちゃん
こちらにもコメントを頂き、ありがとうございました。
ヨーロッパは確かに、旅をするのが楽しいですね。
スイスの景観は素晴らしく、どこも魅力的ですね。私はとりわけルツェルンが好きですけど。
ドイツは土地勘があるので、日本を旅するよりも気楽に旅ができるのもおかしなことです。
1975年の旅をなぞらえて、1982年8月に大きくなった娘たちと再び走りましたが、今度は孫たちと訪ねたいものです。
それではまた。
jijidaruma
-
- のまどさん 2014/10/01 19:50:01
- 内容の充実した旅行ですね
- jijidarumaさん、こんにちは。
この度はご投票またフォローして頂き、ありがとうございます。私もフォローさせていただきます。
39年前の旅行とのことですが、jijidarumaさんの記憶力の良さに感心します。それにしてもロマンチック街道下りと山越えを含めて10日間で3か国というのはなかなかのチャレンジですね。ドイツで運転を始めたというのは意外でした。
スイスの山越えは山頂からの写真を見ただけでもスリルがあります。私にとって初めて訪れたヨーロッパの国がスイスで、滞在したのがルツェルンなので懐かしく思いました。
私は明日からアイルランドに行くので、てんやわんやしております。そのうち旅行記にいきさつを書きますので、また読んでいただければ幸いです。
また近いうちにお邪魔します。
- jijidarumaさん からの返信 2014/10/01 22:37:29
- RE: 内容の充実した旅行ですね
- のまどさん
フォローとコメントありがとうございます。
アイルランドの秋景色もよさそうですね。お気をつけて行ってらっしゃい。
さて、私の記憶力というよりも、家内がコマメに旅ノートを付けていたおかげです。この習慣はいまだドイツの旅で続いております。
20代の頃はお金が無くて、大学時代の友人が自動車部にいて、彼に習って試験場に行き、一発で落とされました(苦笑)。以来、免許をあきらめていたら、ドイツ勤務になり、現地の社長から駐在員には”実務・語学・そして自動車免許が必須条件”といわれて、たいへん慌てたのでした。
お蔭様といってよいのでしょうね!必須の車でドイツのみならず、ヨーロッパを楽しませてもらえました。
良い旅を!
jijidaruma
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