1979/07/28 - 1991/08/02
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【セピア色の思い出:日本に帰国する前にドイツ最後の夏季休暇旅行で南ドイツのお気に入りの地を巡った】
・・・・・
思えば、あの夏からもう45年が経ってしまった。
35歳の夏だったから、今はもう80歳である。50代の娘達に<ドイツ備忘録>として残すのも良いことだし、我が身も日々忘れる事も多くなったから、それに抗って【セピア色の思い出】に拘ってみるのも良いだろう。
アルバムは少しセピア色に変わり、さすがに旅の資料(旅行記のような)も残ったものが少ないから、少々てこずった旅行記になった。
・・・・・
待ちに待った後任者Y君が1979年4月13日に来独した。
かつての上司(その後、本部長に昇進していた)に1978年のクリスマスカードで帰国時期についてご配慮をお願いした所、話が一気に進み、新年早々には私の東京本社に戻る人事と後任者が決定した。
ドイツ現地法人側との事前交渉も無しで、決定されたこともあって、私の立場はちょっと微妙で困ったが、押し切って頂いたようだ。
既に私の駐在期間も1974年1月赴任から5年が過ぎようとしていた。
(ドイツ語ということもあって、駐在員の期間は他地域に比べ長かったのは事実だが、当該地は人事から駐在期間明示をもらっていても、あまり効力がないような状況になっていた。先輩にも何故か?長い駐在の方が居られて、ご自身の人生計画もままならなくなっていた方も・・・。だから、私の場合は良き上司に恵まれて、ツイテいたのだろう)
Y君の赴任とともに財経業務など引き継ぎを開始した。通常は私のように業務に入る前にドイツ語学校に入るが、赴任がずれて遅れたこともあって、この時は実務引継ぎ(主に決算業務だが)を先に行い、語学校は後になった。マーこの辺りに無理押ししてもらった影響が出たのだが・・・。
もっとも、Y君は日本のドイツ語学校に通学する機会を得ていたらしい。
後任者Y君は1979年6月7日から2ヶ月間、私と同じように南ドイツ・Chiemseeキームゼー湖畔にあったPrienプリーンのGoethe-Institutゲーテ語学校に入校した。
写真は1979.7.29.Berchtesgadenベルヒテスガーデンの塩工場見学
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 鉄道 船 レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ドイツ最終となる夏季休暇旅行を決めるにあたり、
一つは8月初めに2ヶ月の受講期間が終了するので、Prienプリーンのゲーテ語学校でY君をピックアップする事、
二つにニュルンベルク近郊(Schwanbachシュバンバッハという)にたいへん親しくして頂いた、かつてのドイツ語の家庭教師(この当時はNZに移住していた)のご母堂に帰国の御挨拶をするためであった。
また、今後のドイツ生活で何かのプラスになるかもしれないと、後任Y君の紹介をしようと考えていた。
そんなことから、お気に入りの南ドイツに行程を決めたのだった。
・・・・・・・・・・
帰国が8月10日だから、残り少ないドイツ生活は1ヶ月ほどになる。
ともあれ最後の旅に行く前に、日本人駐在員家族の多くが住むオーバーカッセルで写した写真からスタートしたい。
参考写真はOberkassel_panoramaオーバーカッセルのパノラマ・・・オーバーカッセル橋を渡ると、右にKaiser-Friedrich-Ring皇帝フリードリヒ・リンク(通り)の家並み、左にKaiser-Wilhelm-Ring皇帝ヴィルヘルム・リンク(通り)の家並みが見える。 -
写真は1979.07.01.左上から時計回りで、
Kaiser-Friedrich-Ring皇帝フリードリヒ・リンク(通り)の家並み、
オーバーカッセル橋で家内と私、
07.02.出勤前、6月15日に市内でAudiアウディ車に*追突され、私の愛車オペル(新車からもう凡そ10万km弱を走っていたが)がおしゃかになった。
法務・人事担当ドイツ人部長のアドバイスで医者に行き、念のため首帯を2週間付けていた。今日でその首帯も外せる。
*休暇旅行前の6月15日、帰国する先輩駐在員家族を空港に見送ってから、朝9時、会社に向かった。デュッセルドルフ市内、Hofgartenホフガルテン傍の信号で一時停車中にドイツ人営業マンの運転する大きなアウディ車に追突され、愛車のオペルが全損になってしまった。
この時、追突の反動で前の車(フランスの副総領事が運転していた)に玉突きしてしまった。この為、日独仏の面倒ともいえる「三国交渉」を帰国前にやることになってしまった。新車購入時から加入した弁護士保険の初めての利用、全損の保険処理、慰謝料請求、事故後のレンタカー使用料・医者の通院料の補てんといった様々なことを、この時期に勉強したことになる。
帰国してから1年間は日独の間で法的な書類が行き来し、法律用語などを勉強させられてしまった。 -
写真は1979.07.01.左上から時計回りで、
ライン川畔の広々とした草原で娘達の自転車乗りの練習、
K-F-RingとKaiser-Wilhelm-Ringの家並みなど。 -
写真は1979.07.07.デュッセルドルフのお気に入り:Königsallee王の小道・通称ケーを散策した。
-
写真は1979.07.08.左上から時計回りで、
K-F-Ring通りは長い、
ライン川畔の草原を散歩する人々、
テオドール・ホイス橋からの景観(帰国時期が不明で、次女の小学校入学を控え、思い切って昨年11月に娘達の日本人学校通学に便利だった場所に転居した。
その住居はK-F-Ring通りのテオドール・ホイス橋・・・休日にはこの橋の下で蚤の市が開かれていた・・・に近い場所だった。
2006年春ドイツ再訪で、かつての住居を見に行った。家主の税理士だった彼女は既に死去し、相続がらみで家は売却されていた。かつて日本人駐在員の3家族が住んだこの家も、住人たちの氏名を見ると、日本人の名前はなかった。 -
写真は1979.07.08.左上から時計回りで、
ライン川畔の*小庭園(菜園)・・・洪水の時は小庭園(菜園)まで水がくる、
ライン川は水量もあり、川幅も広いので大きな輸送船も常時航行する。
*Der kleine Garten デァ・クライネガルテン(小庭園):
小庭園とは町などが市民や労働者に敷地を提供し、土日に庭園で野菜栽培をする、果樹を育てる事を奨励した。賃借した人たちが、そこに小さな小屋を設けて、農事作業を楽しんだ。健康にも良く、収穫物を得るといった一石二鳥の政策である。
日本でも最近、見かける。 -
写真は1979.07.15.左上から時計回りで、
帰国(8月10日)前に家族でライン川畔をLörickレーリック方面へ散策・・・レーリックのキャンプ場、プールがあり、
木々も育った土手(堤)が長々とライン川に沿ってある。
ライン川は全長1,233kmであるが、途中、この地が749km(因みに家の近くのテオドール・ホイス橋が746km)であると、ライン川の源泉からの距離を示す看板も立っていた。
尚、右下の道標には「スイスのBaselバーゼルから580km、オランダのRotterdamロッテルダムまで244.5kmの距離がある」と書かれている。 -
【日本に帰国する前にドイツ最後の夏季休暇旅行で南ドイツのお気に入りの地を巡った】
1979.07.28.~08.02.(短い6日間!)
旅行予算:手持ち資金DMドイツ・マルク2,420
1979.07.28.:片道
(電車:674km)デュッセルドルフ 08:29=>ミュンヘン
(レンタカー:150km)ミュンヘン 16:00=>ベルヒテスガーデンのホテル着は記録では22:00となっていた。
少々遅い時間にホテル到着だが、どこで道草を食っていたのか、資料が無い。
指定席課金(DM12)乗車券の値段(DM227)のチケットの写しが残る。
写真は1979.07.28.~29.左上から時計回りで、
デュッセルドルフ=ミュンヘン経由=>ベルヒテスガーデンの指定課金と乗車券のお値段、
ベルヒテスガーデンのホテル前で娘達。 -
イチオシ
ベルヒテスガーデンのホテルは「Königliche Villa王のヴィラ」で当時、「Gast im Schloss古城ホテル案内書」で見つけたもので、ここに4泊した。
ここをベースに近在やミュンヘンなどを訪ねた。
<Hotel Restaurant Café Königliche Villa王のヴィラ(別荘)>
D-8240 Berchtesgaden 、Am Luitpoldparkルイトポルト公園
TEL:08652-5097
全35室。このホテルはバイエルン王国第3代国王MaximilianⅡマクシミリアン2世(1811年~1864年)により1848年に建設され、1918年(第一次大戦でドイツが敗戦し、ドイツ革命がおこり、王国は滅亡した)まで、バイエルン王の夏の宮殿(別荘)として使用されたものである。
バイエルン王の夏の宮殿(別荘)であった証しのように、ホテルの背景には美しいWatzmannヴァッツマン(ドイツで3番目に高い山、2713m)山系を見ることでき、最高の位置にあるホテルだ。
噴水のある庭園、素晴らしいレストラン、テラスレストラン、ワインケラー、カフェ、そして特に興味深いのは「ドイツ紋章博物館」が宮殿内に設けられていたことだろう。
写真は1979.7.28.左上から時計回りで、
Königliche Villa王のヴィラ(別荘)の絵葉書2枚、
ホテル王のヴィラの入口、
「Gast im Schloss古城ホテル案内書」の掲載ページなど。 -
尚、2008年アルペン街道を走った際、4月26日に久しぶりにこのホテルを訪ねてみたが、イタリア料理のレストランになっていてガッカリした。
その時の旅行記にこう書いている。
「昨日、是非行ってみたかった場所がある。近くを車で通りながら、見かけた感じが違っていたので、今日は直接見てみようと思った。
その場所は*Luitpoldparkルイトポルト公園傍の道に沿って建つ、フローレンス風のKönigliche Villa王のヴィラ(1848年)の建物である。
ここは29年前に家族で4泊した古城ホテルでした。
ホテル内に“ドイツ紋章博物館”があり、その膨大なWappen紋章の数に驚いた記憶がある。
現在はイタリアレストランである。
あの紋章たちは何処に行ってしまったのだろうか?!」
* Luitpold von Bayernルイトポルト・フォン・バイエルン(1821~1912年)はノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)で知られるバイエルン王ルートヴィヒ2世の叔父にあたり、1886年6月10日、ルートヴィヒ2世は精神病であると宣言された際に、王国の摂政(Prinzregentプリンツレゲント)となった。国民に人気もあって、各地にその名を付けた場所も多い。
但し、ルイトポルトは1912年に91歳で死去するまで摂政の地位にあった。摂政の地位は長男ルートヴィヒが嗣いだが、彼は翌1913年にルートヴィヒ2世の弟でバイエルン王だったOtto Iオットー1世(1848~1916年)を廃位し、自らルートヴィヒ3世(第6代バイエルン王:在位は1913~1918年)として即位した。
参考写真は1979.7.28.日経旅名人ブックス17・・・ベルヒテスガーデンの観光案内書 -
ベルヒテスガーデンに到着すると、まず目を奪われるのがベルヒテスガーデンを見守るかのようにそびえる大きなWatzmannヴァッツマン山である。
ドイツで3番目に高い山(2713m)とされるヴァッツマン山は、この町の何処にいても見えるので、ベルヒテスガーデンのシンボルとなっている。
そして、ここにも伝説が残る。
【昔からの言い伝えによると、ヴァッツマン右手の最も高い頂上をヴァッツマン王と呼び、二番目に高い左手の頂を王の妃と呼んでいる。そして、中間の7つの頂を彼等の子供たちであると。
その昔、王はたいへん残酷な王であったので、その治下の民は虐げられていました。あまりの事に天の神の怒りをかい、神は王の家族全員を石に変えてしまったと云われる。それらの石がヴァッツマンの峻厳たる山々なんだそうだ。】
:2008.08.03. 「Königssee遊覧船パンフレットの訳より」
参考写真は1979.7.28.日経旅名人ブックス17・・・ベルヒテスガーデンの観光案内書 -
***今昔の姿を比較するのに良いかなと思い、1979年7月をベースにして、2004年5月や2008年4月の写真も入れてみた。
写真は2008.04.26.Königliche Villa王のヴィラ(別荘)の現在:
2008年アルペン街道を走った際、4月26日に久しぶりにHotel Restaurant Café Königliche Villa王のヴィラ(別荘)を訪ねてみたが、イタリア料理のレストランになっていてガッカリした。 -
第二日の29日は湖畔の町 Schönau am Königssee(シェーナウ・アム・ケーニヒスゼー、人口5700人)まで走り、手前の駐車場(DM1.5)に車を停めた。
そこから船着き場まで湖畔通りの土産物屋が並ぶ道を見ながら行く。
左手にTrachtenmodenトラヒテンモーデン Riehl民族衣装のお店リールがあって、様々な魅力的な衣装を陳列していた。
沿道には色濃いダリアやバラの花が咲いている。
近くの小屋に樵の小父さん(人形)が木材を切っている所があったが、コイン(DMドイツマルク1)を投げ入れると人形が木を切り出す。切った丸状の断片にスタンプを押し、日付を書いたものを来場記念にしていたのだ。
長く家の机の上に大事に置いてあった。
遊覧船(往復料金はDM24)に乗って、Watzmannヴァッツマン(2713m)山系を見上げながら、Königsseeケーニヒス湖(王の湖)を行き、St. Bartholomä聖バルトロメー僧院など見物した。
写真は1979.07.29.左上から時計回りで、
Schönau am Königssee(シェーナウ・アム・ケーニヒスゼー)の船着場への道、
丸状の木片を記念に購入、
ヴァッツマン山系を背景に写す。ケーニヒス湖 滝・河川・湖
-
素朴な思い出だが、2008年に再訪した時も相変わらず樵の人形は現役で活動していたから、今日もまた、つい同じことをしてしまった。
記念品は大事に日本に持って帰るのだ。
(値段は切りの良いEuroユーロ 1になっていた)
写真は2008.04.26.Schönau am Königsseeシェーナウ・アム・ケーニヒスゼーを再訪したが、さすがに当時の樵の小父さんの様子は変わっていた。 -
【Königsseeケーニヒス湖(王の湖)巡り】
ドイツで最も美しいと称されるケーニヒス湖はバイエルン州のオーストリアとの国境近くにある淡水湖で、太古に氷河が岩山を削り取り、その跡にできた湖である。
あくまで青く、実に神秘的な湖で、周囲の山々の景観と共に大変美しい。
1909年より電力のボート、手漕ぎボード、ペダル式ボートのみが使用を許されている。電気式遊覧船は湖面を静かにゆるやかに走り、水を汚さない。
遊覧船ではトランペットの吹奏があり、Watzmannヴァッツマン(2713m)東壁の景観美を楽しんで、40分でSt. St. Bartholomä 聖バルトロメー僧院に至る。更に20分でOberseeオーバーゼー(上の湖)に行くこともできる。
Jennerイエナー(1874m)とWatzmannヴァッツマン(2713m)に囲まれた峡谷・Fjordフィヨルドの長さは凡そ8km、幅1.25km。平均の深さ150m、最深200mと云う。海抜は620mに位置する。
この湖はBerchtesgadenベルヒテスガーデン国立公園に属し、国立公園の面積は210平方kmに及ぶ。Kehlsteinケールシュタイン(1834m、ヒットラーの鷲の巣山荘・5月から10月の間、開業)や、イエナー(1874m)の山頂からの眺望は見事なものと云われる。
写真は1979.07.29.左上から時計回りで、
遊覧船では親切なオーストリア人に娘達は席を譲ってもらった、
聖バルトロメー僧院とヴァッツマン山系の絵葉書、
ヴァッツマン山系を見上げているうちに漸く聖バルトロメー僧院が見えてきた。 -
イチオシ
凡そ8kmある峡谷・Fjordフィヨルドを行く遊覧船は途中、船長によるトランペットの吹奏があり、彼はヴァッツマン東壁に向かって吹く、そのエコーを皆で楽しむのだ。
ヴァッツマン東壁の景観美を楽しんでいると、お椀をかぶせたような赤い屋根の*聖バルトロメー僧院が前方にはっきりと見えてきた。
40分で 聖バルトロメー僧院に至る。
更に20分で奥まった所にあるOberseeオーバーゼー(上の湖)に行くこともできるが、今日は僧院までにした。通常の観光客は僧院までの往復を選ぶようだ。
船を下りて、湖畔の周辺を眺めながら、水辺を散策してみる。透明度の高い湖を小さな鴨が泳いでいた。
聖バルトロメー僧院の後背には文字通りと云える「Steinernes Meerシュタイネルネス メアー(石の海)」と称する2000m級の高い山並みが続き、ドイツ・オーストリアの国境線がある。
*聖バルトロメー僧院は1134年に創立された。現在のバロック様式の教会や付属設備などは17世紀のものである。その後、僧院はバイエルン王が“狩猟の館”として使用したと云う。
写真は1979.07.29.左上から時計回りで、
ケーニヒス湖畔で一休み、
聖バルトロメー僧院のレストランで昼食(DM36、ビールは1Lです)、
僧院を背景に元気な家内と娘達、
湖水に面してたつ聖バルトロメー僧院、
聖バルトロメー僧院の木陰で食事を楽しむ観光客たち。ドイツで最も美しいケーニヒス湖に、お椀をかぶせたような赤い屋根の聖バルトロメー僧院が彩を添えている。 by jijidarumaさん聖バルトロメー僧院 寺院・教会
-
写真は1979.07.29.右上から時計回りで、
Echo von Königsseeの絵葉書(遊覧船上で船長が岩壁に向かってトランペットを吹きます。そのエコーを楽しむショー)、
聖バルトロメー僧院で湖や遊覧船を背景に、
岩肌に滝が落ちる、
シェーナウ・アム・ケーニヒスゼーに戻った。 -
写真は1979.07.29.左上から時計回りで、
聖バルトロメー僧院とヴァッツマン(2713m)山系の絵葉書、
ヴァッツマンとケーニヒスゼー湖畔の絵葉書、
子供の顔に見えた舟屋(ボートハウス)に並ぶ遊覧船。 -
写真は2008.04.26.Schönau am Königsseeシェーナウ・アム・ケーニヒスゼーの2泊したHotel Zur Klauseホテル ツア クラウゼ の外観(因みにKlauseの意味は谷間、山峡の意)
(2泊)Hotel Zur Klauseホテル ツア クラウゼ
D-83471 Schönau am Königssee 、Seestraße 6
全17室・3星S、14号室(2階・ 南・東バルコン)
Euro( 84++kurtax 2.6)x2=173.2
TEL:49(0)8652-947860
1862年に開業した4階建ての伝統的なバイエルン風ホテル。
ケーニヒス湖に徒歩50mと近い。最初にあたってみた湖畔にあるHotel Königsseeホテル ケーニヒス湖はこの時期は休業中とのことで、急遽このホテルにしたもの。
ここのレストランも、この時期はまだ休みだ。この季節は料理人たちに休暇を取らせて、オーナー家族だけで営業をしているようだ。
もちろん手抜きは無く、広い部屋、豊かな朝食は文句のないところだった。
・・・・・ -
2008年にも同じように遊覧船に乗った。
往復料金はEuro 23.6であった。
ケーニヒス湖の遊覧船はまず、左手に小さなInsel Christliegerキリストの島を見る。ゆっくり右にカーブを切ると、その左手に画家たちの角・Malerwinkelマーラーヴィンケルという場所がある。ここから見るヴァッツマン山系や湖面と僧院の景観が特別なものだとされている。長い間画家たちを魅了してきていると云う。
次は右手のFalkensteiner Wandファルケンシュタイナー ヴァンド(鷹の岩壁)と呼ばれる岩壁に沿って走る。
この崖は1688年に水難事故が起きた場所であり、大嵐でこの岩壁に打ちつけられた船が沈み、70名の犠牲者を出した事で知られている。
写真は2008.04.26.Königsseeケーニヒス湖巡り:湖水を音も無く動く遊覧船 -
写真は2008.04.26.Königsseeケーニヒス湖巡り:遊覧船の舟屋(ボートハウス)がこんな風に揃っている。行きはWatzmannヴァッツマン号帰りはHochkarterホッホカルター号に乗った。
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周囲をヴァッツマン山系の切り立った岩壁に囲まれた峡谷は音が反響しやすい。St. Bartholomä聖バルトロメー僧院への中間点ぐらいでトランペットの吹奏が行われる。Echowandエコーの壁と呼ばれる岩壁に向かって、船を停めた船長さん(昔のように制服制帽ではないのでちょっと拍子抜けだ)が、おもむろにトランペットの吹奏を始めた。その昔は銃を7度撃ったと云う。
反響した音が美しく響き、何度も反響を繰り返して、消えていく。
乗客は一瞬のエコーの響きに集中し、楽しげだ。
写真は2008.04.26.Königsseeケーニヒス湖巡り:トランペットの吹奏 -
エコーの音に気分が高揚したのだろう。
船客の若い男性が立ち上がり、ドイツ国歌を歌いだした。指揮をしながら歌うと彼の仲間も歌いだし、船客みんなが国歌を歌う。自然でとてもすてきだ。
そして、もう一曲、バイエルンの民謡なのか?!これも皆が楽しげに唱和している。和やかな良いシーンだが、異邦人の私どもは歌うこともできず、ただ楽しそうに歌う人たちを眺めていただけだった。
山肌に雪をかぶったヴァッツマン(2713m・東壁2000m)の黒ぐろとした岩壁から、雨水が滝のように落ちてきたのが見えた。下まで落ちることはなく、途中で消えてしまったように見えた。山の上で降った雨なのか?!
写真は2008.04.26.Königsseeケーニヒス湖巡り:峻厳なヴァッツマン山系 -
写真は2008.04.26.Königsseeケーニヒス湖巡り:懐かしいお椀をかぶせたような赤い屋根のSt. Bartholomä聖バルトロメー僧院は湖面より低いように見えた。
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【ベルヒテスガーデンの白い黄金:子供も大人もちょっとした冒険ができる岩塩工場(岩塩坑)は楽しい。】
トロッコ列車と岩塩工場(岩塩坑)
写真は1979.7.29.左上から時計回りで、
Berchtesgadenベルヒテスガーデンの塩工場見学の絵葉書、
ベルヒテスガーデンのシンボルはこの町の何処にいても見えるWatzmannヴァッツマン山の絵葉書、
レンタカーのオペルでケーニヒスゼーからの帰途、ベルヒテスガーデンに向かう。 -
イチオシ
【Salzbergwerk Berchtesgadenベルヒテスガーデンの岩塩工場(岩塩坑)】
D-83471 Berchtesgaden、 Parkplatz Salzburger Straße 24、
Gästeeinfahrt、 Bergwerkstraße 83
見学代DM26、土産に塩を購入DM3.5。
ベルヒテスガーデンの町から離れた場所にSalzbergwerk岩塩坑がある。
元々は12世紀の起源のものだが、現在のものは1517年から開発された。
1817年にバイエルン王Maximilian I. マクシミリアン1世の命で、ここからRamsauラムザウを経由し、*Bad Reichenhallバート・ライヘンハルに塩水の導入管を29kmにわたって建設し、14トンのブロンズ製ポンプ機で汲み上げ、1927年までの間、送ったと云う。
岩塩坑は山腹から山の中に向かって採掘を行った。
現在はその岩塩坑(トンネル)を見学する観光事業になっている。
岩塩坑の発着所で、全員が見た目には奇妙な集団となる、昔の抗夫が使用した黒い帽子を被り、黒い上着と白のズボンを着て、身支度する。(写真参照)
其の後、乗車したトロッコ列車で地中700mを進む。
ちょっと怖いのは全長30mという地下坑道の木製滑り台を地下の広場まで滑り降りることだ。広場には坑道入口がある。
さらに、地底にある塩水湖を対岸まで、渡し船に乗るなど、坑内をめぐるガイドツアーは面白く、たいへん興味深い。子供たちも私共も珍しい、楽しい体験をした。
*前述したベルヒテスガーデン近くのBad Reichenhallバート・ライヘンハルはSaalachザーラッハ川に沿って発展した保養地である。
古来より、豊富な塩水に恵まれ、塩水を使用した呼吸器系統の病気療養地として広く知られている。
古くはケルト人やローマ軍団の居住地であったが、中世から近年に至るまでSalineザリーネ(製塩場)の拠点として、世に知られた。
町に残るAlte Salineアルテ・ザリーネは1832年バイエルン王ルートヴィヒ1世が建設した、世界で最も美しいと言われるネオ・ロマネスク様式の製塩場である。
塩の博物館を併設している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真は1979.7.29.ベルヒテスガーデンの塩工場見学の様子Salzbergwerk Berchtesgaden 洞穴・鍾乳洞
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写真は1979.07.29.左上から時計回りで、
Hinterseeヒンターゼー(ケーニヒス湖に次いで有名なのが、ベルヒテスガーデン国立公園の奥にあるヒンター湖で、美しい湖と周辺の山系の景観が素晴らしい)に一走り、ヴァッツマン山を背景に、
ベルヒテスガーデンの塩工場見学後の工場前で、
夕闇迫るヒンター湖の景観、
07.30.ミュンヘンのSchloss Nymphenburgニンフェンブルク宮殿(バイエルン選帝侯の夏の宮殿)を娘達と遠目に写した。ヒンター湖 滝・河川・湖
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写真は2008.04.26.風景画家を魅了するHinterseeヒンターゼーの景観
*Hinterseeヒンター湖は Berchtesgadener Land ベルヒテスガーデン地方のRamsauラムザウ地区にあり、ラムザウ教会よりもさらに奥にある。それでヒンター(後ろの意)と名が付いたのかも知れない。
ここには「Zauberwaldツァウバーヴァルト(魔法の森)」と言う異名がある。
ヒンター湖は長さ900m、幅180mと云う山間の小さな湖である。また海抜800mにあり、最も深い所の深さは200m、夏でも水の温度は16℃を越えないそうだ。
湖と周辺を囲む山々の景観は美しく、19世紀のロマン派の画家たちが好んで、この湖畔で絵を描いたのも、もっともと思う。 -
写真は2008.04.26.*ラムザウ教会の春景色を愛でて撮った。この景色は写真のモチーフとして、画家の絵心を刺激する景観と云われる。
*Pfarrkirche St.Sebastian(聖セバスティアン巡礼教会= 通称ラムザウ教会)はベルヒテスガーデン国立公園の中のラムザウ村に1512年に建てられた。
ドイツのカレンダーに必ず載っていると云われているほど、「ラムザウ教会」は有名である。
ベルヒテスガーデンの町から北西に4km走った所にラムザウ教会のある「ラムザウ村」があり、この絵画のような風景を好んだ観光客が訪れる。
ドイツアルプスを背景にヒンター湖から流れ出るラムザウ川の清流と木の橋、ロマンチックなラムザウ教会の景色は、古くから多くの画家により描かれて有名になった。
この白い教会は結婚式に相応しいもっとも美しい教会として、2014年にドイツで1位に選ばれているそうだ。
我が家のPCの壁紙は目下、このラムザウ教会である。
世に名高い歌「Stille Nacht聖し、この夜!(2011年にオーストリア無形文化遺産)」の詩人Josef Mohrヨゼフ・モール(1792年~1848年、オーストリアのOberndorfオベルンドルフ・ザルツブルグの北20km、Salzachザルツァハ川畔にある町の礼拝堂をモチーフにして作詞されたと云う)がラムザウ教会で牧師の助手をしていたとか・・・。
尚、2008年の時、当地の民族衣装を着た、結婚式帰りの三代のご家族や、 Dirndlkleidディルンドルクライドで盛装したご婦人に出会って写真を撮る機会があった。聖セバスティアン教区教会(ラムサウ教会) 寺院・教会
-
写真は2004.05.01.ミュンヘン:*Schloss Nymphenburgニンフェンブルク宮殿(バイエルン選帝侯の夏の宮殿)と庭園、美人画ギャラリー、カフェ・レストラン。
*ミュンヘン市内から少し離れたニンフェンブルグ宮殿へ、美人画ギャラリーを見に行く事となる。
ニンフェンブルグ宮殿は1758年完成のバロック様式の宮殿で、1918年まで、バイエルン王の夏の離宮として、利用された。中でもルードヴィヒ1世が描かせた美人画のギャラリーは素晴らしい。ヘレーネ・ゼドルマイヤーという画はその際立った美しさを“美しいミュンヘンッ娘”という呼び名でミュンヘン市民に愛されているそうだ。
宮殿前のライラックの群落がとてもきれいで、宮殿の裏側には広大な庭園が広がり、そこかしこに植物園、狩猟のロッジ、屋内プール等が点在している。
カフェ・レストランもあり、歩き疲れた私達はアイスコーヒー、チーズ・ケーキ、アップルパイと紅茶・コーヒーなどで休憩した。ニンフェンブルク城 城・宮殿
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写真は2004.05.01.ミュンヘン:久しぶりに見た*新市庁舎と仕掛け時計
*マリエン広場にある、20世紀初頭のネオ・ゴシック様式の新市庁舎にいそぐと、鐘楼の仕掛け時計が11時にスタートするのを待って、大変な人だかりである。
鐘が鳴り、人形が動き出すと、さすがにメーデーで集まった人たちや、バンド演奏者も、人形に目を向ける。馬上試合の動きで、一方が倒されると、一斉に広場の人々から、声があがる。ドイツの仕掛け時計は各地で見るが、実に楽しい。
なにやら、今日はこの為に来たような気がしてくる。ミュンヘン新市庁舎 建造物
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イチオシ
写真は1979.07.30.ドイツ最後の夏季休暇:左上から時計回りで、
München Hofbräuhausミュンヘンのホフブロイハウスで1Lのビール(DM4)のジョッキを両手で持って飲む家内と娘達(食事代はDM30)、
3000人も入ることできると云うホフブロイハウス前で、
市庁舎前で人形使い演奏、
1Lのビール(DM4)のジョッキに驚く私と娘達・・・夏大根の細切りに塩をかけたものをツマミ(DM2.5)に、ビールを飲んだのを思い出した、ホフブロイハウス 地元の料理
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写真は2004.05.01.南ドイツ・オーストリア周遊:ミュンヘンのホフブロイハウス
(18:10~20:20)・・・ニンフェンブルク宮殿から市内に戻って、予定通り、Hofbräuhausホフブロイハウスを訪れた。
文字通り、16世紀から続く宮廷ビール醸造所で、バイエルン王室の御用達であったそうです。あのヒットラーがここでアジ演説をしたことは有名です。
ちょっと早いかとドアを開けてみると、ガンガンとバイエルン音楽が鳴り響き、大勢の人がビールジョッキを片手に歌い、飲んでいます。
ホフブロイハウスの連中が歌っていたのは、次の歌です。
単調な繰り返しで、大声でジョッキを片手にさあー、乾杯です!!!
“Ein Prosit、Ein Prosit、der Gemütlichkeit・・アイン・プロジット、アイン・プロジット、デア・ゲミュートリヒカイト・・さあ乾杯、さあ乾杯、みんなで愉快に乾杯だ!!“ -
イチオシ
写真は2004.05.02.Feldfingフェルダフィングの *3泊したGolfhotel Kaiserin Elisabethゴルフホテル カイザリン エリザベート:左上から時計回りで、
ホテルの庭園にある皇妃エリザベートの座像を囲んで、
奥まった庭園側からホテルを眺める、
スイス風の外観を持ったホテル本棟前で。
* Starnbergerseeシュタルンベルガー湖:(4月30日(金)から3泊)
Golfhotel Kaiserin Elisabethゴルフホテル カイザリン エリザベート
D-82340 Feldafing 、Am Starnberger See、
4星・全66室、 120x3 Euro=360
TEL:49(0)―8157―93090、
シュタルンベルガー湖畔Feldafingフェルダフィングにあるゴルフホテル カイザリン エリザベートは日経BP社の観光本“ドイツ・バイエルン州“で見つけた。
ドイツアルプスの高い山々・・・3000m弱級・・・は暖かな陽気に少しずつ雪を融かしてきていますが、南バイエルンの野から見上げる山々は雪で白々と見える。
そしてこのホテルの庭からも、ドイツアルプスが湖の先に白く遠望できます。
この庭にはオーストリア・ハンガリー帝国のエリザベ-ト皇妃の座像があり、ホテルの正面テラスレストランから良く見える小高くなった場所に置かれています。
ここで皇妃は座りながら、物思いにふけっていたそうです。
子供時代をこの近くのシュタルンベルガー湖畔にあるSchloss Possenhofenポッセンホーフェン城で過ごしたエリザベートはこの地を愛して、オーストリア皇妃になってからも、しばしばこの地を多数の随行員と愛馬と共に訪れた由です。
このホテルで24回の夏を過ごし、それは都度、数週間も滞在したそうです。皇妃のまた従兄弟に当たるバイエルン国王ル-トヴィヒ2世ともこの地でよくお会いになり、1886年6月13日、ル-トヴィヒ2世のSchloss Bergベルク城近くシュタルンベルガー湖畔での不慮の死には、フェルダフィングの地から皇妃は駆けつけたとの話も残っている。
皇妃が最後の夏を過ごされたのは1894年ですが、ホテルのその長い歴史の中で、もっとも著名なお客様と言えましょう。
1898年9月10日午後、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者に鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて暗殺された。享年60歳。
この地はミュンヘンから30kmの近さで、古くからリゾート地として栄えてきたようです。1508年に当地に教会が建てられ、このホテルの原型とも言うべき宿屋がその隣に見られました。その後は19世紀頃、帝国議員がホテルのオーナーになり、更に1856年にはミュンヘンの資本家が買い取り、大きなテラスを持つホテルに改造されました。新しく鉄道が敷かれるとスイス風のスタイルに拡大され、1898年、皇妃が暗殺された後の1905年にはウィーンの王宮の勅許により、ホテル名をホテル・カイザリンエリザベートとすることが許され、今日に至っている。
ホテルの2階には、オリジナル“Sisi-Suite”という部屋があるそうですが、残念ながらのぞいていません。ホテルの本館と別館には65の部屋と1スイートがあり、正式なレストランも、テラス、室内と幾つもあり、また、バイエルン風なレストランやビールバー等もあって、様々な客の要望に対応出来るようにしている。
・・・・・ -
写真は2004.05.02.ホテル カイザリン エリザベート 傍の皇妃エリザベートの小道・・・ホテル近くに“エリザベートの散歩道”が標識で示されており、なだらかな道が湖畔まで、続いている。
オーストリア・バート・イシュルの大理石の小城(写真博物館)の映像で見た、あの独特の急ぎ足で、お供がついて行くのが難しいあの速さでこの道を散歩したのでしょうか?!! -
写真は1979.07.30.左上から時計回りで、
ベルヒテスガーデンの絵葉書、
ミュンヘンの帰途に*保養地バート・ライヘンハル(前・後述参照)を訪れた。 -
Bad Reichenhallバート・ライヘンハルに塩水の泉が発見された後、1617年Maximilian I.マクシミリアン1世公により、後背地の森が豊かなTraunsteinトラウンシュタインに二番目のSalineザリーネ(製塩場)が建設され、町に繁栄をもたらした。このザリーネ(製塩場)は1912年まで製造が続いたと云う。
<バート・ライヘンハル 市内観光>
町をめぐる道路を一回りして、1979年8月以来の再訪となる市内に向かった。
St.Johannes聖ヨハネス教会傍に駐車し、ポスト通りをマルクト広場を目指した。
現在の町はザーラッハ川に沿って発展した保養地である。古来より、豊富な塩水に恵まれ、塩水を使用した呼吸器系統の病気療養地として広く知られている。
古くはケルト人やローマ軍団の居住地であったが、中世から近年に至るまでザリーネ(製塩場)の拠点として、世に知られた。
1834年、町の3分の2を失う大火災が生じたが、その後復興し1890年にはライヘンハルからバート・ライヘンハルとなった。
マルクト広場には新旧二つの市庁舎が建ち、壁面をフラスコ画が描かれていて、大変美しい広場だ。
旧市庁舎は1849年建築、1924年にドイツ人に人気のカール大帝、赤髭王(Barbarossaバルバロッサ:神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の異名)、バイエルン王ルートヴィヒ1世などがフレスコ画で描かれている。
すでに12時近くなっていて、広場を埋めた様々の店も手じまいしている。広場中央にはWittelsbacherbrunnenヴィッテルスバッハ(バイエルン王家)の泉(1905年)が高々と立っていた。
旧市街はこの町の最も古い部分でFlorianiplatzフローリアン広場は独特の切妻壁を持ち、典型的なアルプス地方の家並みを残している。
フローリアン広場の中央に他にあまり見かけない消防士の泉というものがあり、興味深いのは泉の中央に聖フロリアヌスの像(Florian von Lorch、304年頃没:ポーランド、リンツ、煙突掃除人と消防士、石鹸の釜炊き人などの守護聖人)が立っていた事だ。
町の大部分を失った、1834年の大火災の記憶を留めているのだろう。
周辺には13世紀、中世の城壁も一部残っていた。
写真は2008.04.25.保養地バート・ライヘンハル:壁面にフラスコ画が描かれた市庁舎 -
来た道を戻って、旧製塩場の中庭に入った。
全景の写真を撮っただけになったAlte Salineアルテ・ザリーネは1832年バイエルン王ルートヴィヒ1世が建設した、世界で最も美しいと言われるネオ・ロマネスク様式の製塩場である。塩の博物館を併設している。
この町は保養地だけに落ち着いた、洒落た街並みが好ましいものだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真は2008.04.25.Alte Salineアルテ・ザリーネの全景保養地バート・ライヘンハルには歴史的な、美しいザリーネ(製塩場)が残っている。 by jijidarumaさんAlte Saline 博物館・美術館・ギャラリー
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<Roßfeldstraßeロスフェルト街道>
ロスフェルト街道はベルヒテスガーデンとKönigsseeケーニッヒ湖を結ぶ山岳道路である。標高1,500mに位置し、ドイツアルプスの絶景を楽しめる。
地図で見ても、ドイツとオーストリアの国境地帯を回遊する街道だ。
現在はその景観の良さから「Roßfeld Panoramastraßeロスフェルト・パノラマ・シュトラーセ」と称するようになった。
この地域の歴史は古く、かつてはロシアの貴族が避暑地として利用していたことでも知られている。また、第二次世界大戦中には、ナチスの指導者である総統アドルフ・ヒトラーもこの地域を頻繁に訪れ、自身の隠れ家として利用していたと云う。
写真は1979.07.31.天候不順で小雨が降るロスフェルト街道を回遊した。有料(DM4.5)でした。 -
写真は1979.07.31. 左上から時計回りで、今はロスフェルト パノラマ街道と称している。当時はロスフェルト街道と称したが、これを回遊後、ベルヒテスガーデンの旧市街を見物した。
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イチオシ
写真は1979.07.31.ロスフェルト街道を回遊後、ベルヒテスガーデンの旧市街(王様の城、聖ペーター教会 、アーケードに描かれた壁画(世界戦争)、宮殿広場、市庁舎)を見物し、ホテル王のヴィラに戻って、紋章博物館(DM15)を見学した。
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写真は2008.04.25.ベルヒテスガーデンの旧市街:Marktplatzマルクト広場とマルクト広場の泉、
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写真は2008.04.25.ベルヒテスガーデンの旧市街:アーケードに描かれた壁画(世界戦争)
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写真は1979.07.31.旧市街見物後、ホテル王のヴィラの紋章博物館を見学・・・右下にラインラント・プファルツ州の紋章
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王のヴィラの領収書の裏についていたので、気付くのが遅くなった。
このため旅行記も50枚の写真で終わる所が51枚となってしまった。
31日の夕食のメニューは3品で費用合計はDM51.2だった。
写真は1979.07.31.王のヴィラでの夕食メニュー(料理の写真が無いが):
1)スープ:Klare GEMÜSESUPPE 野菜のコンソメスープ、
2)メイン:*コルドンブルー(カツレツ)に pommes fritesポンフリッツ(フライドポテト)とサラダ添え、
3)デザート:*Götterspeise ”Waldmeister”ゲッターシュパイゼ ヴァルトマイスターと称した「車葉草」のゼリーだったのだろう。
いつもながら、料理は訳すのが難しい。もう5年もドイツを訪れていないので、尚更である。正しく理解するためにWiki検索して見ると:
*Cordon bleuコルドン・ブルー(仏語)は何度か食べていたが、久しぶりに目にした単語だ。
コルドン・ブルーは肉を薄く叩き、 ハム または プロシュート(生ハム) と スイスチーズ 等の チーズ で包み、油で揚げるか焼いた「肉の カツレツ 」である。
伝統的には 子牛肉 を用いるが、 豚肉 や 鶏肉 なども使われる。
コルドン・ブルーの起源はおそらく1940年頃にスイスで作られたチーズを詰めたシュニッツェルであり、1949年に初めて料理本に記述が現れる。
*Götterspeise ”Waldmeister”ゲッターシュパイゼ ”ヴァルトマイスター”は1920年からDr. Oetkerドクター・オトカーが作ったクラシックな品で、夏の間に好まれる、さわやかな料理として知られているとある。
Götterspeise神々の食物、つまり美食の意味があり、彼の定番にWaldmeisterクルマバソウ「車葉草」のゼリーがあるらしい。
Waldmeisterの単語が分からずに困ったが、ドイツなどではクルマバソウ「車葉草」はヴァルトマイスター(Waldmeister)と呼ばれ、クマリン(桜の葉に代表される植物の芳香成分の一種)の芳香があるため、ビール、リキュール、ジュースに入れて飲むと云う。
またアイスソース及びアイスクリーム、ケーキ、ゼリー、グミ菓子、キャンディなど菓子類の風味付けにも使われるそうだ。
以上長々と書き加えたが、お分かりいただけたでしょうか? -
写真は1979.08.01.ホテル王のヴィラの支払い・・・宿泊代は1泊DM130x4泊分=520、29日の夕食代DM65.8、31日の夕食代DM51.2、ジュースなどDM10、電話代DM58.5、合計DM705.5となっている。
毎日、観光に出ていて、外出先で食べていたから、ホテルの食事は2度しかしていなかったようだ。
そして、さすがに帰国や追突事故の件もあり、電話を度々したようだ。
尚、外出先での食事代は28日昼食代DM29、29日昼食代DM36、30日昼食代DM30、夕食代DM40、31日昼食代DM40、8月1日夕食代DM56、8月2日昼食代DM33.5、合計DM264.5である。
その他の支払いはレンタカーのガソリン代にDM27、DM35、DM31、合計DM93、
お土産代(洋服やハンカチ、チロル風テープ代、ハンドバック、スカーフ、バイエルンの人形と小物など)合計DM1,050.6、
また、デュッセルドルフに帰る途中の8月1日に、Marktheidenfeldマルクトハイデンフェルトに1泊(DM84)した。 -
写真は1979.08.01. 左上から時計回りで、
王のヴィラの暖炉の間、
ベルリンの紋章、
最後の朝食、
紋章博物館入口で。 -
写真は1979.08.01.左上から時計回りで、
王のヴィラの最後の朝食後、新白鳥城の模型やバイエルン王国のル-ドヴィヒ2世の絵を見る、
ヴァッツマン伝説の絵葉書、
帰国の前日(8月9日)には、後任者Y君と共にデュッセルドルフ旧市街の「大都会」に行き、鉄板焼きを食べた、
王のヴィラのレストランにて。 -
写真は1979.08.01.Y君を迎えに行き、午後1時プリーンのゲーテ語学校でピックアップした、
それからニュルンベルク近郊SchwabachシュヴァーバッハのRufルーフ家に立寄りご母堂のエルザさんに帰国の御挨拶した。彼女は三種類のケーキを作り歓迎してくれた。この日、デュセルフドルフの隣町Duisburgデュイスブルクの友人Frau Wolferzヴォルフェルツ夫人が来訪していて、御紹介を受けて、御一緒に団らんした。
残念ながら、町の水道局勤めの息子さんKarlカール一家はちょうど休暇中で、娘達も同じ年頃の3姉妹Andreaアンドレア、Waltraudヴァルトラウト、Brigittyブリギッテイに会うのを楽しみにしていたから残念がっていた。
庭先にウサギのTomyトミーが元気に飼われていて、娘達は草をあげていた。
ご母堂のエルザさんからは帰国後も度々音信があり、見事な美しい文字で書かれた文章が印象に残っている。
この日、御挨拶後にニュルンベルクを経由、ヴュルツブルクを過ぎ、*Marktheidenfeldマルクトハイデンフェルトに1泊し、翌日、フランクフルトのゲーテ博物館をみて、デュセルフドルフに帰った。
*マルクトハイデンフェルトの町はLandkreis Main-Spessartマイン・シュペッサルト郡に属し、マイン川の蛇行が見られるマインフィーアエック(マインの四角)傍にある。その後のドイツ感傷旅行でもこの辺りを度々訪れた。 -
帰国は8月10日、もう1週間を切った。
既に業務引き継ぎ書も提出済みで、気楽になった。
この時期が一番良い。
写真は1979.08.04. レーリックキャンプ場で、お世話になった先輩*Fさんご家族から趣向をかえたバーベキューでのお招きを頂いた。
右下はライン川に沿ってある土手(堤)で自転車に乗っていて、羊の群れに囲まれて困った次女。
*Fさんは8年上の先輩で機械部門の営業で活躍していたが、思うところがあって、独立してドイツで機械の対日輸出輸入業を始めた。新会社立ち上げにも私自身は表立つことは出来なかったが、様々なアドバイスを彼にしてあげた。
彼にはドイツでの生活が日本より合っていたのか、ドイツ一筋、50年近くなっていた。そのFさんが2023年6月にドイツで急逝(享年86歳)されたと奥様から連絡を受けて、言葉も無かった。
2019年10月に一時帰国したFさんが我が家を来訪されたが、長い長い単身生活での健康に不安を感じて、それを口にしていたが・・・。 -
おまけの参考写真は娘達がお世話になったデュセルフドルフ日本人学校と校歌、懐かしいデュセルフドルフ旧市街、かつてのデュセルフドルフの絵。
(2024年8月18日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- Rolleiguyさん 2024/08/18 15:55:45
- 懐かしの地
- jijidarumaさん、こんにちは。
ドイツが長いjijidarumaさんにとっても、この地は特に思い出深いようですね。
私もバイエルンが好きで、ドイツ人の友人夫妻がミュンヘンに住んでいるので、
何度も出かけました。昔スイスからドイツに行くと、アウトバーンや国道などの
道路端に雑草が生えていて、ドイツはスイスよりも管理が行き届いていないなと思ったのですが、それは一面であり、ひとつひとつの町や村を訪問するにつけ、その蓄積の
重厚さに、目に見えたり、見えなかったりする文化資産の継承が積み重なって、ドイツの歴史になっているのだなと思いました。お金をかければできるものとは違う価値を羨ましく思ったものです。私の職業柄、jijidarumaさんの会社の方たちとは、分野を問わず関わりを多く持ちました。今でも年賀状を交わしている人もいますが、当時は日本の成長期でもあり、若い世代でも多く海外勤務に送り出されて、同世代の人たちとの
交流も刺激になりました。
ケーニヒスゼーには、学生時代に企業研修でマンハイムにいた時に旅行しました。
あの時代も今でも変わらぬ美しさを保っていますね。
コロナで海外旅行が出来ない期間がながくなり、ヨーロッパに行きたいという気持ちが
余り涌かなくなってしまいましたが、体調が万全であれば、ドイツの田舎をゆっくり旅したいものです。絢爛豪華な文化財ではなく、町や村に触れたいなあと思っています。
この暑さではどこにも行きたくありませんが。
残暑はますます厳しくなっています、どうぞご自愛くださいますよう。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2024/08/18 20:02:23
- Re: 懐かしの地
- Rolleiguyさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
残暑お見舞い申しあげます。
当地は台風7号、予想と違って雨も風も少なくすみました。恵みの雨であったのは家内にとって幸いでした。庭木は専ら家内が水やりして、私は蚊に刺されるのが嫌だと、涼しい屋内で過ごしています(苦笑)。
バイエルンの旅は気持ちが実に落ち着きますね。
巡る風景も人々の人情も誠に好ましく、今一度、バイエルンの地を巡りたい、出来れば隣のザルツカンマ―グートも走ってみたいと思っていたら、手元に古いアルバムを引き寄せて見ながら、今回のような思い出の記を書いてしまいました。ケーニヒスゼーで1909年より電力のボートを使用したなどと歴史を知ると、ドイツ人の文化度の高さを思い知らされますね。
思えば、ドイツでの企業活動はトヨタの車でもまだまだ認知度も低い頃、企業戦士はよく頑張りました!そして御行には大変お世話になりました。
会社でも私はドイツ党と呼ばれていましたが、いろいろあったものの、ドイツ駐在で良かったなと、時々家内とも話をしています。
先日も60代の知人からメールがあり、彼のお嬢さん家族の事を書いてきました。彼女の御主人の研究(大学の文化交流:ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学)で家族はミュンヘン在住とのこと。この春にお孫さんのミュンヘン日本人学校運動会を見に訪ねたそうです。南ドイツやウィーンも旅してきたそうです。
以前、彼にハイデルベルクの話(4Traでも投稿)などを数編コピーして送った事があり、お嬢さんに見せたとか。
彼曰く、ドイツ党が増えそうですよと、嬉しいことです(笑)。
2004年に南ドイツからオーストリアを巡った事がありました。写真が少ないですが、今時々、口コミを投稿しています。その内、その懐かしいオーストリアの旅を投稿しますので、又お立ち寄りください。
それではまた。酷暑もまだまだ、皆さま健康第一にお過ごしください。
jijidaruma
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