1978/03/24 - 1978/03/27
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jijidarumaさん
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1978年3月24日、早朝の4時20分、ドイツのデュッセルドルフを出発し、フランス・イースター(復活祭)旅行に出かける。
「ドイツ語では「復活祭」をOsternオースターン、英語で Easter(イースター)という」
デュッセルドルフに駐在していた頃は、この休みを利用して3泊4日の小旅行に出かけた。国内旅行もあったが、時には国外に車を走らせた。
先の≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫では、1984年4月20日(金)~23日(月)、40歳の私共が2度目の駐在時にフランスに小旅行をした事を書いた。
(総走行距離1,781km)
今回の≪セピア色の思い出:1978年イースター(復活祭)の休みにフランスの古城に泊まり、パリ見物をした≫旅(総走行距離1,250km)は、最初の駐在時のもので、6年後の1984年とは投稿順序が逆になった。
まー、1978年は1984年の先例になったもので、参考にしたものだ。
ともあれ、1978年は文字通り、写真の多くがセピア色になってしまった。
セピア色の思い出の記憶はもう定かでなく、思い出しつつ書いてみた。
写真は1978.03.24.~27.フランス・イースター旅行:03.24.Chateau de Chantillyシャンティイ宮殿(上段)とChateau de Regard古城ホテル リガード城(下段)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
フランス方面に旅をすると、パリまでの行程はいつもこのルートを走破する。
渋滞を避けるべく、早朝のスタートだから、子供たちも眠そうで、車中、何時の満まにか眠っている。
こちらはいつもながら緊張しながら、慎重に愛車のオペル・レコルドを走らせる。
・・・・・
今のようにナビがある時代と違い、地図と道路上の標識が頼りで走ったのだが、この当時の方が、意外と正確に目的地に至ったから面白い。
最初の駐在時の社長は、メルセデス・ベンツ 2300㏄に乗っていたが、ある時、こんなことを言った。
「デュッセルドルフからパリまで、2時間で走ったよ!」
デュッセルドルフからパリまでの距離は495kmだから、いくらメルセデスで一気に走っても、(途中、2回も国境を越えるから、渋滞もある)そうはいかないと内心思ったが、大学の先輩でもあった上司の自慢話に「へー、凄いですね!」と、ヨイショした事を思い出した(苦笑)。
(因みにデュッセルドルフから首都ベルリンまでの距離は477kmだから、ほぼ同じだが、アウトバーンの本家、道路の良いドイツでも2時間では行けまい。
この方が社長時代、ある機械部門の駐在員が日本の取引先の社長を社有車で案内してオランダを廻り、途中、事故を起こした。結果的にその社長さんは亡くなられてしまった。その駐在員は少し経ってから帰国命令が出て、ひっそりと帰っていった。そんな事まで思い出した)
・・・・・
写真はフランスの古城ホテル1978年仏語版・ガイドブック表紙 -
<1978年3月24日(金)>
曇り時々晴、500km
このデュッセルドルフ=>パリ間のルートはドイツとベルギーの国境、ベルギーとフランスの国境という、2つの国境を通過する。
今と違って、当時は国境とは面倒な所で、緊張もするし、通過するのに時間がかかった。しかも、たいてい国境前は渋滞するのだ。
デュッセルドルフを早朝の4時20分に出発した。
=>A57 アーヘン(ドイツ・Aachen・・ドイツとベルギーの国境の町)
=>E40 リエージュ(ベルギー・Liege)、
5時40分、ベルギー領に入って間もなく、ブレーキをかけた後、異常を示す赤信号が出たままになり、偶々傍を通った親切なパトカーのお巡りさんに見てもらう。
車内の赤信号を見て、彼はすぐに「ガソリンスタンドで見てもらうと良い」とのアドバイスをされた。
6時45分、ガソリンスタンドを見つけ、給油を行うと共に状況をチェックしてもらうと、冷却水が漏れていると指摘された。
7時、スタンドからADAC(ドイツ自動車連盟の略、日本のJAFと同じ組織)に電話し、ラジエーターの水漏れの修理を依頼した。
漸くADACの車がやって来て、結局、9時45分に修理(DM168)が完了した。
まだ旅の初日である。愛車のオペル・レコルドも新車からもう丸3年3ヶ月が経っていたから、こんな故障もありうるのだが・・・。
折角、朝早くスタートしたのに、出だしをくじかれた思いだったが、先に進まなくてはならない。
=>ナムール(ベルギー・Namur)=>*モンス(ベルギー・Mons)=>ヴァランシエンヌ(フランス・Valenciennes・・ベルギーとフランスの国境の町)
*モンスの手前で渋滞し、う回路を探して1時間うろうろしてしまった。
因みにモンスはベルギーのワロン地域の都市、現在はエノー州の州都で、首都ブリュッセルから南西に50km、ベルギーとフランスの国境の町ヴァランシエンヌには30km、パリから北東に約200km、ドイツのアーヘンから西に約150kmの場所に位置する。
この日、パリまで80kmの所で休憩(午後1時20分から2時)をとった。
=>E42 ・A1 モンスから160kmのコンピエーニュ (フランス・Compiegne・・・帰途にピエールフォン城を訪問する予定)を経由、
写真はフランスの古城ホテル1978年版・一覧図・・・フランス・イースター旅行の際に古城ホテル リガード城で頂いたものだ。 -
コンピエーニュからA1のアウトバーンはサンリス (Senlis)の町近くを通る。24kmの距離にある、サンリスの町には*サンリス大聖堂があるので、アウトバーンを降りて、午後3時頃に到着した。初めて訪れた大聖堂でした。
勿論、サンリスの西10㎞の距離にシャンティイ宮殿があり、しかも3泊予定のChateau de Regard古城ホテル リガード城とも、いずれも同じオワーズ県内にあり、お互いが近いのだ。
<サンリス (Senlis)の*サンリス大聖堂>
1 pl Notre Dame, 60300 Senlis
金曜日は午後4時半まで、見学可だった。
美しい『マリアの生涯』の扉口彫刻をもつ西正面や聖堂内のステンドグラスに感嘆した。
サンリス大聖堂(La Cathédrale Notre-Dame, Senlis)はフランス北部・オワーズ県のサンリスにあるノートル・ダム大聖堂である。
1155年に起工、内陣は 1180年に、袖廊(そでろう=翼廊)は 1240年頃に完成と云う。『マリアの生涯』の扉口彫刻をもつ西正面は 12世紀末、南袖廊は 16世紀の改修によりフランボアイヤン様式のファサードを示している。
写真は1978.03.24.サンリス大聖堂、ステンドグラスと、Chateau de Regard古城ホテル リガード 城の暖炉の間ノートルダム大聖堂 (サンリス) 城・宮殿
-
訪れた事はないのだが、「フランス王家の墓所」と呼ばれる、サン・ドニ修道院聖堂(Basilique Saint-Denis、パリ北側の郊外サン・ドニ)が知られていると云うが、サンリス大聖堂はサン・ドニ修道院聖堂に次ぐ聖堂で、それを模して作られたらしい。
どちらもフランスのゴシック様式最初期の建築として貴重なものであると云う。
写真はフランスの切手:1958年サンリス大聖堂 -
サンリス大聖堂の見学後、シャンティイに向かった。
サンリスから西に10㎞国道を走ると、シャンティイ宮殿があるのだ。
<Chateau de Chantillyシャンティイ宮殿>
7 Rue du Connétable、F-60500 Chantilly
見学は毎日午前10時から午後18時までOK。
入場料FRF14、駐車料FRF1.5.
この日は遅めの4時半ごろに見学をスタートしたので、宮殿内だけを凡そ1時間半ぐらい見て回った。外観も素晴らしいが、内部の豪華なことに目をみはった。
絶対王政のフランス国王の富の集中にはこの国を巡る度に驚く。
コンデ美術館も興味あったが、次回にと思ったものの、もうその機会も無かった。
ともあれ、雲行きの怪しくなった空だったが、雨は降らず済んだ1日になった。
シャンティイ宮殿についていえば、
パリから北に約40kmの郊外にあるシャンティイ市(人口1万人)に見事なChateau de Chantillyシャンティイ宮殿がある。
元々は中世の14世紀に軍事上の要塞として建設され、その後、ルネサンス時代に大規模な改築がなされた。
400年以上の歴史を持ち、ルイ13世やブルボン公(duc de Bourbon フランス の 公爵位の一つ)が代々城主でもあった。
32万坪の敷地を持つ宮殿は大きく分けて「グラン・シャトー」と「プチ・シャトー」の2つから成る。
「グラン・シャトー」はフランス革命期に最初の建物が破壊された後、1870年代に国王ルイ・フィリップの5男オマール公アンリ・ドルレアンにより再建された。
「プチ・シャトー」は1560年頃、Anne de Montmorencyアンヌ・ド・モンモランシー(ヴァロワ朝時代のフランスの元帥)のために建てられたものである。
1772年から1774年にかけて、第8代コンデ公ルイ5世ジョゼフ(1736年~1818年、ルイ4世アンリの子である。
(意外なことに、6年後、1984年に宿泊したChateau de Chaumontel 古城ホテル ショーモンテル城を再建したのは第7代コンデ公であるが城内に造らせた「Le hameau de Chantillyル・アモー・ドゥ・シャンティイ」はイギリス式庭園であることを知った。1984年春、ドイツに戻る際に、シャンティイ宮殿を訪れたが、この時は時間が無くて外観のみだった)
城内にはコンデ美術館(収蔵作品数: 約20,000点、延床面積: 2,559 m?)、そして世界的に知られたシャンティイ競馬場がある。
写真は1978.03.24.Chateau de Chantillyシャンティイ宮殿で。シャンティイ城 城・宮殿
-
イチオシ
シャンティイ宮殿を見学後、古城ホテル「Chateau de Regard古城ホテル リガード城」には朝方のトラブルの所為で、遅れ遅れとなり、夕方頃に到着した。
小さな城門が迎えてくれて、舗装されていない、でこぼこ道を奥に進むと、美しい佇まいの城館が見えてきた。宿泊者の車が何台か停まっていた。
周辺の木々の新緑もまだ少なく、7haの庭園には冬枯れの景観が広がる。
城館の外観はまずまずだが、邸内に入ると、少々歴史を感じたものだ。
今晩は邸内のレストランで、夕食を予定している。
フランスの古城ホテルだけに、当然フランス語のメニューだろうなと思い、今から、注文が何とかなるのか!?気になった。
写真は1978年フランス・イースター旅行:03.24.Chateau de Chantillyシャンティイ宮殿(上段)とChateau de Regard古城ホテル リガード城の外観と小さな城門(下段) -
写真はCoye la foretコイ・ラ・フォレ (Oiseオワーズ県)のMap
-
さて、1973年ルレー・シャトー仏語版・仏全図で見ると、中央の上部に纏まって3つの古城ホテルがあった。
思えば、N0.45のフランスの古城ホテル ベルティシェール城が古城ホテル好きのきっかけになった。
其の後、旅と言えば、好んで古城ホテルを宿泊先に選び、今日まで楽しんできた。
左から右に、
3星のN0.45(Chateau Hotel de Berticheres古城ホテル ベルティシェール城)、
2星のNo.72(Chateau de Chaumontel 古城ホテル ショーモンテル城)、
3星のNo.46(Hotel Le Chateau du Regard古城ホテル リガード城)
の三つの古城ホテルはパリから30~40km程の位置にあったので、ドイツからパリに向かって南下してくる行程上、たいへん利用しやすかった。
しかも、ドイツ人が「Chaosカオス(混乱、無秩序)」と表現するパリ市内なので、このくらいの距離にある古城ホテルを選んで泊まるのが、一番と思っていた。
尚、N0.45とNo.72は其々、以下のように投稿済みで、No.46は今回の旅である。
20160527:セピア色の思い出・1974年4月、生まれて初めてフランスの古城ホテルに泊まる。
20210422:セピア色の思い出:1984年4月の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行。
写真は1973年ルレー・シャトー仏語版・仏全図 -
1974年4月、この時初めて前任者たちとフランス・パリの北西(車で50分)にある【古城ホテル ベルティシェール城Chateau Hotel de Berticheres(F-60240 ‐Chaumont-En-Vexinショーモン アン ヴェキシン)】に泊った。
ベルティシェール城は16世紀にルネサンス様式で建設された。その後度々改装を加えられたが、1999年歴史的建造物として登録されている。
かつてブルボン家の支流・コンデ公爵(ルイ14世の兄弟)の住居であった。
当時のパンフレットを見ると、3星の古城ホテルで、1968年にホテル開業とあるが、ゴルフ場の表記は無い。
http://www.golf-de-chaumont.com/index.php/fr/
写真はデュッセルドルフ1月 -
今は様々な情報が自由に取得できるが、この当時はこれらのガイドブックが大変便利だった。
最初のルレー・シャトー古城ホテルのガイドブックは1973年版(左)で、以降古城ホテルに宿泊するたびに、新しい版を取得した。
また、滞在ホテルにはドイツを主とする、他系統のガイドブック(例えば、Romantikhotel&Restaurant)も置かれていたので、チェックアウト時にそれらも入手するようにしていた。
写真は1973年版(左)及び1984年版(右)ルレー・シャトー古城ホテルのガイドブックも当時、よく利用させてもらった。 -
【Chateau de Chaumontelショーモンテル城】
1984年4月20日(金)~22日(日)2泊朝・夕食込み、
(宿泊料などはFRF仏フラン1,435@2.88=DM498、凡そ5万円でした)
村の人口は2300人と云う小さな村にあったショーモンテル城(別名Herrenhaus von Preslayプレスレイの館とも呼ぶ)。
城を囲む水堀や池、橋、ロマンチックな庭園に囲まれた古城は現在、ホテルとレストランとなっている。
パリの北、約25kmの近距離にある村に、この美しいショーモンテル城、古城ホテルは全20室と小規模なもので、4ヘクタールの広い、美しい庭園があった。
ショーモンテル城は中世の城址の上に、18世紀になって再建された城である。
元来は中世時代の14世紀に築城されたもので、当時の砲塔と堀が残っていた。
1560年に城址となってしまっていたのを、*第7代コンデ公(prince de Conde=Prince of Condeルイ4世アンリ(1692年~1740年)・・・ルイ3世の子、フランスのブルボン家の支流になる公爵・宰相)が再建し、1707年から1737年の間、自らの狩猟の館として使用した。
・・・・・
写真はデュッセルドルフ1月 -
【Hotel Le Chateau du Regard 古城ホテル シャトー・ド・リガード城】
60580 Coye la foretコイ・ラ・フォレ (Oiseオワーズ県)、France
Tel:0033-4-458-6016
1978年3月24日~27日、3泊4日したのはリガード城である。
1泊の室料FRF186仏フラン、朝食代(25日、26日、27日の3回)が1日当たり32仏フラン、夕食代(24日、26日の2回利用した)は1日当たり240仏フランであった。ホテル全費用FRF1,219仏フラン(ホテルの領収書参照)。
3星・全18室は浴室・WC付き、7haの庭園に囲まれた貴族の邸宅風ホテルで、子供たち(8歳と6歳)も大喜びでしたが、私共は夕食時、フランス語のメニューに苦戦したものだ。何を食べたか記録がないが、夕食代はFRF260でした。
Coye la foret (Oise)コイ・ラ・フォレはフランス北部オー=ド=フランス地域のオワーズ県にある村で、人口は3,972人(2020年)である。
ドイツ・ベルギーなどから南下する場合はアウトバーンA1を利用する。
A1傍を走る国道16若しくは17号線がある。
コイ・ラ・フォレの位置関係はサンリス(サンリス大聖堂)の南西16 kmに位置し、シャンティイ(シャンティイ宮殿)の南7 km、パリ=シャルル・ド・ゴール空港 ( Aéroport de Paris-Charles-de-Gaulle )の北西24km、パリの北37kmにある。
写真は1978.03.24.Chateau de Regard古城ホテル リガード城 (左上から時計回りに、夕食の間で娘達、ホテルのカード、3階建ての城館の横手、小さな城門から奥に至る道) -
尚、検索してみると、45年も経ってしまったリガード城はもうホテルを廃業しているらしく、ヒットせず、建物だけは残り、何かの別の施設になったようだ。
写真は検索して見つけた、現在のリガード城の様子 -
<1978年3月25日(土)>
この時期のパリは曇りの日が多い。100km。
翌日の25日は国道16号を南下し、パリ市内に至る。
イール・ド・フランス(パリ近郊図)を利用して巡る。
写真はデュッセルドルフ1月 -
<パリ見物>
リガード城からパリに向かう。30km弱の距離である。
国道N16の道を走り、パリを訪れると、パリ北東のPortede la Chapelleラシャペルの門から入る。
最初はパリを訪れると、必ず訪れるパリの中心・Concordeコンコルド(調和の意味)広場だ。東西南北の市内の主要な通りを広場で十字に交わらせるパリの要がこの広場になる。
オベリクス(エジプトのルクソール神殿のものを王から贈られた)の立つコンコルド広場をバックに、写真を撮った。
左上から時計回りに、
①遠くコンコルド広場を背にして、マドレーヌ寺院より写す。奥中央にブルボン宮、アンバリッドの円塔が見える。
②フランスのデパートで娘たちの服や、家内のスカーフなど土産を購入。
③目玉のPalais du Louvreルーブル宮・ルーブル美術館の印象派の画家たちの作品を見学してから、やって来たコンコルド広場で、エッフェル塔が遠く見える。
④コンコルド広場に面した建物をバックに次女が写真を撮ってくれた。ちょっとぼけています。
懐かしい当時の写真はセピア色になってしまった。
写真は1978.03.25.パリ市内・コンコルド広場周辺で。 -
この日の昼食(FRF69)、夕食(FRF100)はパリ市内で食べた。
さて何を食べたのか?今のような詳細な記録を残す事をしていなかった所為で、全く記録が無い。
其々の食事代から推測すると、適当な店に入り、軽い食事で済ませたのだろう。
写真はデュッセルドルフ6月 -
<1978年3月26日(日)>
この日も曇り、午後晴れる。150km。
この日はまず、ヴェルサイユ宮殿、そしてマリー・アントワネットのトリアノン離宮を目的地にした。
娘達は≪ヴェルサイユのバラ(池田理代子による漫画作品)≫の漫画本を読んでいたから、どちらも是非行きたいと言っていた。
ヴェルサイユ宮殿はパリの南西、約20kmの場所に位置している。
写真は1978.03.26.Chateau de Regard古城ホテル リガード城を出発し、ヴェルサイユ宮殿とトリアノン離宮に。 -
また、ヴェルサイユ宮殿とトリアノン離宮は2.5kmほどの距離にあり、車はヴェルサイユに置いて、徒歩で行く事が出来た。
但し、ヴェルサイユ宮殿からトリアノン離宮へ行くには庭園内を横切る最短距離を通っても徒歩30~45分ほどかかると云うが、こちらは子供連れでもあり、途中適当に休みながら、往復した。
写真は1978.03.26.Chateau de Versaillesヴェルサイユ宮殿への道は日曜日の所為か、車は少ない。 -
<Palais de Versaillesヴェルサイユ宮殿>
Place d'Armes 78000 Versailles France
世界遺産(1979年登録だから、訪れた翌年に登録されたのだが)であるヴェルサイユ宮殿は、1682年、フランス王ルイ14世(1638年~1715年、在位1643年~1715年)が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。
広大な面積1,070 haの敷地に宮殿がある。
有名な「太陽神アポロンの噴水」、「ラトナの噴水」が宮殿前にあって、見事なものだ。
これを見ると、バイエルン王ルートヴィヒ2世によって建設された南ドイツのPrienプリーンにあるSchloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー宮殿を思い出す。
写真は1978.03.26.ヴェルサイユ宮殿と庭園、水堀・・・下段の写真は広い草原上の娘たちを撮ったものだが、中央奥にヴェルサイユ宮殿が見える。宮殿から結構遠い所まで来ている。ヴェルサイユの宮殿と庭園 城・宮殿
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ヴェルサイユ宮殿からマリー・アントワネット王妃(1755年~1793年:18世紀のハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアの娘、フランス王ルイ16世の妃、フランス革命で処刑された)の建てたトリアノン離宮に向かって歩く。
左上から時計回りに、
①湖のように大きな池=水堀である。
②ヴェルサイユ宮殿と庭園。
③気持ちの良い散策路をトリアノン離宮に向かう。
マリー・アントワネット王妃が村里と呼んだ「プチ・トリアノンの庭園」は王妃の為に作られた田舎風田園だと云う。
窮屈なフランス様式の庭園を自然あふれるイギリス様式の庭園に改造してしまったというから、世上何かと云われた王妃とは違っている。
写真は1978.03.26.ヴェルサイユ宮殿とトリアノン離宮 -
左上から時計回りに、
①18世紀に流行した、自然あふれるイギリス様式の庭園。
②アントワネット王妃が好んだと云うプチ・トリアノンの田舎家。
③愛の殿堂と呼ばれる神殿。
④漸く晴れてきた散歩道で。
トリアノン離宮には風車小屋や鶏小屋、池や水車なども建てられ、煌びやかな宮殿生活とは正反対の生活がそこにあった。
写真は1978.03.26.トリアノン離宮村里 史跡・遺跡
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プチ・トリアノンから大トリアノンにやってきたが、
こちらはさすがに絶対王権の主の離宮である。
左上から時計回りに、
①目を見張るばかりの豪華な寝所。
②赤大理石の列柱が囲む大トリアノン。
③向こう側の道からずっと堀を廻って来ました。
④大トリアノンの内部。
写真は1978.03.26.トリアノン離宮大トリアノン宮殿 城・宮殿
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左上から時計回りに、
①マルメゾン城Château de Malmaison :ナポレオン皇帝の妃ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネが離婚後の晩年を過ごした地。
②晴れ後曇り、重く垂れこめた3月の空、右手はるか遠くにエッフェル塔が見える。
③マルメゾン城:ナポレオン皇帝の記念館があり、ジョゼフィーヌ妃の思い出に繋がり品々が展示されていた。
④増水しているセーヌ川で、中央に自由の女神とエッフェル塔。
写真は1978.03.26.マルメゾンとエッフェル塔・セーヌ川・自由の女神像 -
左上から時計回りに、
①リュクサンブール公園Jardin du Luxembourgのマリー・ド・メディシスの泉。
②リュクサンブール公園の『ドラクロワへのオマージュ』像。
③リュクサンブール公園で、もう夕暮れ時。
④セーヌ川で、エッフェル塔、自由の女神、日航ホテル(右手)。
写真は1978.03.26.リュクサンブール公園とエッフェル塔・セーヌ河・自由の女神像 -
イチオシ
ヴェルサイユ宮殿からマリー・アントワネット王妃の建てたトリアノン離宮など、今日はよく歩き、暗くなる前にホテルに戻った。
まだ娘達も元気でちょっと明るい広い庭を散策した。
レストランでは燭台に5本の蝋燭の火が灯り、春の花が添えられていた。
注文に時間がかかったが、
オニオンスープ、鼻を突くような匂いのエスカルゴをふうふう冷ましながら食べる、レモン汁がかかったマス料理、パスタを添えたチキンのコルドンブルーなどを食べ、そしてデザートでしめた。
子供たちはジュース、私共はシェリー酒、ボルドーワインを飲む。
今夜は私共だけで、気楽に夕食の一時を過ごせた。
この夕食代も24日とほぼ同じで、夕食代はFRF261でした。
写真は1978.03.26.古城ホテル リガード城での楽しい夕食 -
<1978年3月27日(月)>
曇り、500km。
古城ホテル リガード城のレセプションで、ホテル全費用FRF1,219仏フランの支払いを済ませて、出発した。
写真は1978.03.27.Chateau de Regard古城ホテル リガード城の城門前 と宿泊料明細 -
イチオシ
古城ホテル リガード城を出発し、まず近くのシャンティイの森の右手にある*エルムノンヴィル(Ermenonville)の森に向かった。
左上から時計回りに、
①大変立派なピエールフォン城(château de Pierrefonds)の入口近くで。
②ピエールフォン城の絵葉書。
③エルムノンヴィルに向かう途中で見た、静まり返った古城。
④エルムノンヴィル(Ermenonville)のルソー思索の池畔。
*ピカルディ地方のエルムノンヴィルという小さな村に哲人ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 、1712年~1778年) を記念する公園がある。
元々はRené de Girardinルネ・ルイ・ド・ジラルダン、ヴォーヴォーの侯爵が造園させた18世紀のイギリス風景式庭園である。
ルソーは1778年5月、菩提樹や楡の木立に囲まれた池のほとりで思索の6週間を過ごして逝ったと云う。
尚、ルソーの最後の弟子であったジラルダン侯爵(1735年~1808年)はルソーのイデーに触発され、エルムノンヴィルにフランス最初の風景式庭園を造ったと云われている。フランスの近代的な庭園の様式に影響を与えたそうだ。
・・・・
それから、コンピエーニュ(Compiègne)に向かうA1のアウトバーンを走った。
写真は1978.03.27.上二枚はピエールフォン城(château de Pierrefonds)で、下二枚はエルムノンヴィレ(Ermenonville)関係のもの。 -
・・・・・
*オワーズ県エルムノンヴィルと言えば、【トルコ航空DC-10パリ墜落事故】を思い出してしまった。
Turkish Airlines Flight 981便が1974年3月3日、フランス・パリの北東約37kmのオワーズ県・サンリス近郊のエルムノンヴィルの森に機首をわずかに下に向けた状態で墜落し、当時の最大の飛行機事故が起きたと云われた。
搭乗者全員(346名 )が死亡した大惨事であったが、とりわけ悲しいことに、犠牲者の中に48名の日本人がおり、その多くが今春から就職する若者たちでした。
それら内定者38名の団体ツアーは欧州への研修旅行の途中で、飛行機事故に遭遇してしまったのでした。
この年の1月19日に、私はデュッセルドルフに赴任し、2月から3月まで南ドイツのPrienプリーンにあったゲーテ語学校でドイツ語の学習中でした。
飛行機事故の死者の中に、当社の内定者も十数人含まれていたことで、当時のドイツ現地法人の先輩駐在員は現地支援などに行き、大変な体験をしたそうである。
・・・・・
写真は:トルコ航空DC10:パリ・エルムノンヴィルの森墜落事故現場に建てられた犠牲者の慰霊碑(Wiki引用) -
パリの北西76km、コンピエーニュの森の南東に見事なピエールフォン城(château de Pierrefonds)がある。この城はヨーロッパ中世城郭のほとんどの特徴を兼ね備えていると云う。 11時半に到着。
左上から時計回りに、
①ピエールフォン城(château de Pierrefonds)の城門を入って暫く行くと。
②ピエールフォン城の絵葉書。
③堂々たるピエールフォン城の双塔。
④ピエールフォン城の双塔前で。
入場料を支払った記録が無く、写した写真から推測するに、ピエールフォン城内には入らなかったようだ。
<ピエールフォン城の歴史>
ピエールフォン城が築城されたのは12世紀。
1392年にはフランス王シャルル6世によってヴァロア家所領とされ、弟のルイがオルレアン公として封じられた(ルイ・ドルレアン)。
1407年に城郭が完成。
1617年3月、ルイ13世の宰相リシュリュー公爵に派遣された軍により城は包囲され、破城された。その後2世紀の間、城は廃墟のままであった。
1810年に皇帝ナポレオン・ボナパルトが城を購入し、好んで滞在したと云う。
1857年にナポレオン3世もこの古典的様式の古城を好み、一部未完成ながらも城の改装に努めた。1862年以降、城は歴史的記念物として保護されている。
1918年11月11日(第一次世界大戦)、コンピエーニュの森においてドイツ帝国と連合国との休戦協定が締結された。
1940年5月10日(第二次世界大戦)、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランスを占領した。
1940年6月22日、ヒトラー・ドイツ軍は第一次世界大戦の休戦協定が結ばれた同じコンピエーニュの森にて、フランスにとり屈辱的な独仏休戦協定を結んだ。
写真は1978.03.24.~27.フランス・イースター旅行:03.27.ピエールフォン城にて
・・・・・・・・・・・
この旅の総走行距離1,250km、
全費用DM換算で1,400=約14万円。
内訳:
ガソリン代DM換算で218、
子供たちの洋服など土産DM450、
宿泊・食事他DM732。
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以上、1978年のイースター(復活祭)の旅、もうセピア色となった旅を纏めてみました。
尚、1977年4月8日~11日のイースター休みでは、フランス・モンサンミッシェル(1,000km)やロワールの古城群、パリのジャンヌ・ダルク像も訪れた記憶があるが、それはまた気力が出てくる次回に。
(2023年7月26日Wiki・HP参考、訳・編集・追記)コンピエーニュ宮殿 城・宮殿
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セピア色の思い出
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この旅行記へのコメント (2)
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- M-koku1さん 2023/07/27 12:43:41
- 交通事故
- jijidarumaさん
酷暑の夏、お元気でお過ごしでしょうか。
ちょっと、さすがにバテテおります。
さて、前半の思い出に書かれていたオランダを車で回って、取引先の社長さんを事故によって亡くしてしまった駐在員さん、お気の毒でしたね。その後の人生、すっかり変わってしまったことでしょう。
私達駐在員には常にそんな危険が付いて回っていたんだなあと感慨深く思いました。
自社の「社長と部長をインディアナポリスからシカゴ迄、乗せていきなさい」と部長に言われたことがあったのですが、断って正解でした。「私は荷物だけ運びますから、飛行機で移動なさってください。」と主張して、それが認められたので良かったのですが、事故でも起こしたら、くびだったでしょうね。
部長は運転が得意だったのに、私に押し付けようとしたんですから、ずるいです。まあ、こちらは平社員ですから、当然押し付けられる立場ではあったのですが。
なんていう昔を、つい思い出しました。
夏は実働よりも、思い出を振り返るだけの方が、体力的にもいいですね。
かわいらしかったお嬢様たちとも、ぜひそんな懐かしいお話をしながら、この暑い夏を乗り越えてください。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2023/07/28 14:56:14
- Re: 交通事故
- M-koku1さん 、
今日は。御立ちよりとコメントありがとうございました。
猛暑、酷暑続きの毎日、次は何と形容したらよいのでしょうね。
パソコンが熱くなって、時々異常反応を起こします。もう古いPCなので仕方がないものの、昨夜は折角書いたものを投稿したら、画面が急にメンバー登録してくださいに変わり、書いたものが消失してしまいました。
がっくりして、本日改めて再トライです。
私暑さにめげず、元気です。が、動かぬ分体重が1kg増えました。
先日、九州・小倉から大学運動部の後輩(芥川の出た、両国高校の出身で、頭は良いが、猛烈にまくしたてるのが玉に瑕?)が、久方ぶりに我が家にやって来まして、私がちょっと席を外した際に家内に「先輩お腹が出て太っていますが、ご健康なんですか?」と聞いたそうです。家内答えて「私共は病気も無く、元気にしております。唯、歯医者通いは度々で、大きな献身(献金)をしています」と。彼は50代で胃がんを手術し、今は脊椎湾曲症になっている所為か、他人の健康は気になるらしい。
私共は運動部育ちで、小さい頃から暑さの中で運動してきましたから、今の暑さにもそこそこ耐えて行けるようです(笑)。
さて、交通事故のエピソードですが、Mさんの対処は正解でしたね。
サラリーマンは長く務めた間に、様々な場面で「もらい事故(自動車事故だけであに、比喩ですが)」を受けることがあります。私もそうしたことが(気が強かった為か)、人さまより数多くあった気がします。
30代、40代はまだリカバリーが出来ますが、50代となると、その責も高くなり、足も引っ張られるので、逃げられないものですね。
ともあれ、とりわけ海外だと、本社側の意向で接待、観光案内、社有車を運転しての送り迎えも普通にありますから、(本社にいれば皆で相互にカバーしやすい)自分で判断して行う事も多く、VIPの御機嫌を損じると云う、いわゆる予期せぬ「もらい事故」を受ける事も多くなりますね。
セピア色の思い出は、もう大変な数のファイルに収まっています。アルバムの写真も良いですが、それらに説明を加えるような旅行記などは、興味も引きやすいだろうと思います。時々、50代となった娘達に、興味が湧きそうなものを見て、読んでもらっています。それに孫たちまで加わってくれると良いのですがね。
本日も暑さは半端でなく、ただただ、【大谷さんが初完封、ホームラン2本を打った画面】を何度も見ながら、気分よく過ごしています。
Mさんもご機嫌麗しく、お過ごしくださいます様に。
それではまた。
jijidaruma
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