1982/06/13 - 1982/06/13
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jijidarumaさん
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≪セピア色の思い出:お金を貸してください!≫
スリに狙われるとか、クレジットカード・VISAが無くなっていたとか、海外での旅には
いろいろあって、驚き、困った事がありました。
皆さんにもママあることでしょう。
次の話は私が被害者ではありませんけど、こんな事がありました。
写真は1975.08.15.Lutzernルツェルン・カルレ橋、テルの像、瀕死のライオン像
- 旅行の満足度
- 5.0
-
お金を貸してください!
もうあれから40年も過ぎてしまった。
ある日、スイスのチューリッヒから、デュッセルドルフの事務所に電話があった。某都銀デュッセルドルフ支店の当社担当に私の名前を聞いて電話したという。相手は某都銀のチューリッヒ支店である。
写真はZuerichチューリッヒ 地方図 -
「実はお宅の社員と称する方が、今当店の窓口に御出でになっています。スリに財布を盗られたそうで、DM500(5万円相当)の借用を依頼されているのですが・・・。当方もお宅の社員であれば、事情も事情なので何とかお力になりたいと考えています。ただ、お宅の社員なのか判断できないので、そちらにお電話を差上げた次第です。」
写真は1975.08.15.Zuerichチューリッヒの絵葉書集 -
某都銀のチューリッヒ支店を一度、訪ねたことがあった。
二度目のデュッセルドルフ駐在で、赴任して3ヶ月経った1982年初夏の頃だったか、当社ドイツ法人の前社長から国際電話があって、「以前同店に口座を設けて、確か残高も数千ドルあった事を思い出した。手間をかけて申し訳ないが、口座を解約して残額をドイツ法人勘定に戻してくれ」という依頼だった。
どういう経緯で口座があったのか、あえて聞かずに口座を解約するために、委任状をもらって、チューリッヒ支店を訪ねた。一日の出張で依頼通りに処理したが、同店のイメージは記憶に残っていた。
写真は1975.08.15.Zuerichチューリッヒ訪問:湖と大聖堂 -
「ともあれ、当人を電話口に出してもらえないでしょうか?!当方にてまず本人を確認しますから・・。」
幸い、手元に全男性社員の名簿があるので、当人以外は知らないだろう社員番号で確認することにした。
写真は1975.08.15.Zuerichチューリッヒ訪問:湖と大噴水 -
「誠に恥ずかしい限りで、恐縮です。XXXX部のOOOです。出張中ですので、帰りにそちらに立ち寄って帰国します。借入の件は宜しくお願いします。」
「事情は分かりました。念のためで申し訳ないのですが、貴方の社員番号を言ってください。」
写真はチューリッヒ訪問:ギルドハウス -
間違いなく、私よりは数年上の課長クラスだ。海外出張にも慣れていても、こんなことがある。
それにしても知恵を働かせてよく某都銀の店に依頼したものだ。当時の海外では邦銀といえば、某都銀である。
また、その頃は今のようにクレジットカードもない時代なので、旅行小切手或いは現金が支払い手段であり、これを失うと面倒なことになる。
写真はGrossmuenster_Wasserkirche大聖堂 -
チューリッヒ支店の担当者に代わってもらって、「私が個人的に保証しますので、DM500(5万円相当)をお支払いいただけますか。本日中に御行のデュッセルドルフ支店に行って、当社担当に事情を説明し、同時に私がデュッセルドルフ支店に同額を支払っておきます。後は支店間で決済するようにお願いしておきますので、どうぞ宜しくお願いします。」と。
2、3日して、ご当人がデュッセルドルフのドイツ法人本社に顔を出し、お礼を言われた。ご当人の帰国後、返金があったのは言うまでもない。
写真はLimmat-Quaibruecke -
写真は1975.08.16.アルトドルフAltdorfに向かう景色
-
イチオシ
ただ、自分のチョンボが恥ずかしかったのか、当方が若かった所為か、その後はハガキ一枚の礼状も無かった。
写真は1975.08.15.Lutzernルツェルン・カルレ橋、テルの像、瀕死のライオン像 -
私がこの事を別に吹聴するわけではないものの、なんとなく敬遠したい気持ちがあったのでしょう。
もう古い話ですが、私にしてもちょっと残念だなと、時々思い出す。
写真は1982.08.14.ルツェルン・カルレ橋 -
世に様々な組織、業態がありますが、商社マンは結構自意識過剰な方が多い!・・・俺が、俺がのタイプなので、この先輩(といっても面識もなく、他部門ではほとんど接点がない)も「俺としたことが・・・」と内心、舌打ちをしていたことでしょう。とりわけ仕事上のミスでないのが悔しい・・・と。
・・・・・
写真は1982.08.14.Zuerichチューリッヒ訪問:湖と船争い -
さて、どのような銀行内処理をしたのか?詳細は分かりませんが、多分、私の保証を得て、窓口の邦人行員が『個人的に』融通したと思う。
もちろんその際は口頭ですが、事前にデュッセルドルフ支店の当社担当に私の事も確認済みでしょうし、当社担当には時間差ですが、現金で充当している。
私もこのお金は個人的に貸した形にした。会社の口座、お金を使ったものではありません。記録に残さないためでもある。
遠隔地の支店どうしなので、現金の入出金などは彼らのやり方に任せた。
写真は1982年デュッセルドルフ市内・絵葉書集 -
イチオシ
今はこうしたケースは門前払いになるのか、よく分かりませんが、「当時」、某都銀は当社にとり、ドイツでのメインバンク(日本でもサブメイン)でした。
大手商社と銀行は持ちつ持たれつの親密な関係もあり、人間関係もすこぶる良い頃であったから、好意的に対処してくれたのでしょう。
写真は1982.04.04.第二回のDuesseldorfデュッセルドルフ市内で -
もう退職してから相当な月日が経ちましたが、昔、お世話になった、あるいはお世話をした、付き合いのあった銀行の方々から、御挨拶状をいただく。
6月の株主総会が過ぎた7月は特に役員退任などのご挨拶が多い。現役時代のお互いの印象も薄れてきたが、皆さん忘れることもなく、大変ご丁寧です。
ご丁寧ですと、やはりこれに応えるべく、私もこちらの近況を交えながら、今までのご活躍に感謝と慰労の言葉を書くことにしている。
写真は1982年デュッセルドルフ市内・絵葉書集 -
私の書く近況は主にドイツ旅行がらみ、家族の出来事などで、御関心がもたれるかどうかは別にして、こちらもしっかり生きていますと書いている。
彼らが昇進し、退任し、さらに関係先に転身する都度の御挨拶状は、サラリーマンの一つの成功例を見ているようなもので、その流れにいつも納得しています。
中には漸く故郷に戻って晴耕雨読の生活に入るのを喜び、そのことを知らせてくれる方もいる。
いまは便利な世の中になりました。
それでも、気持ちの伝達手段は手紙や葉書が一番ですね。
写真はデュッセルドルフ市内・Schadowplatzシャドー広場
・・・・・・・・・・・・・・・
(2022年1月23日編集・追記)
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この旅行記へのコメント (4)
-
- Rolleiguyさん 2022/01/23 22:40:38
- お立て替え
- jijidarumaさん、こんばんは。
チューリッヒでそんなことがあったのですね。その時の対応は私だったかもしれません。個々の記憶にはありませんが、そうしたことはしばしばあり、よく個人的に立て替えたことがあります。ウィーンでも何度もあり、某大学の教授がすりに会い、持病の薬まで盗られて立て替えて感謝されたことがあります。盗られたのが自分だったらと思うとお貸ししたいと思ったものです。今は当時よりもよほど便利になり、現金を盗られても別の手段があるでしょうから問題ないでしょう。時代を感じるエピソードですね。
- jijidarumaさん からの返信 2022/01/24 02:00:02
- Re: お立て替え
- Rolleiguyさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
驚きましたね!
某都銀のチューリッヒ支店に御勤務されていたという事ですね。
チューリッヒ、ウィーンといろいろな人たちが同じようなケースに
お困りになり、それらをお世話されたとの事・・・、こうした
文章を書いた事に御反応頂き、ほんとにビックリしました。
個々の記憶はともあれ、そうしたお世話をされたのであれば、
多分、その一つに私共の件が入っていると思います。
遅ればせながら、大変お世話になりましたと申上げねばなりません。
私は当社担当のデュッセルドルフ支店にはご挨拶したものの、窓口で
あったチューリッヒ支店には1件落着後、ご挨拶をしなかったかと
思います。失礼しました。
Rolleiguyさんはウィーンのイメージが強く、チューリッヒ支店
は考えていなかったですね。ドイツ語圏ですから、同じ頃に欧州に
駐在していれば、何処かでお世話になるのもあり得たはずでした。
やはり、個人的にお立替になったのですね。こればかりは、支店の
勘定を通す事はできません。Rolleiguyさんのような方に、
ご対応して頂けたのは幸いでした。
若い人にはもう分からないエピソードになったようですが、
自分史の一つに付け加える事にしています。
それではまた。ありがとうございました。
jijidaruma
-
- jijidarumaさん 2022/01/23 20:00:38
- 昭和41年(1966年)のロンドン
- 横浜臨海公園さん、
今晩は。いつもありがとうございます。
昭和41年(1966年)のロンドンと言えば、私はまだ学生で
したが、御尊父は既に金融のメッカでご活躍されていた由。
しかも同じような話を体験されたと、横浜臨海公園さんにも
語られていたのですね。
こうしたお話でお父上の人物像が推測できて、家族史と云うと
大げさですが、結構な事と思います。
横浜臨海公園さんもロンドン生活をされ、様々な事象を見聞きされ、
<当時の日本人男性のロンドン駐在員は、例外なく蝶ネクタイ姿>・・
紳士然とした姿であったこと思い出された様子、当時はそんな
ものだったとは知りませんでした。
そういえばNY帰りの上司が日本に戻ってもしばらくの間、カッコの
良い帽子を被って出社していた事もつい思い出しました。
思えば、日本の企業は其々の企業グループが結束しつつ、競い合って、
世界市場に進出していた時代でした。
ロンドンの事例をご紹介頂きありがとうございました。
それではまた。
jijidaruma
-
- 横浜臨海公園さん 2022/01/23 19:15:41
- 似たような事が!
- jijidarumaさま、こんばんは。
何時も旅行記を興味深く拝見させて頂いております。
同じ様な事が、昭和41年(1966年)のロンドンでもあった様です。
当時、父は澁澤翁も関係し現在では統合された某都市銀行ロンソン支店で幹部を勤めていたおり、ロンドン市内でジプシーとおぼしき連中からスリに遭ったと、同じ財閥系企業の方から救済を申し出られたそうです。
本当に当時はクレジットカードは未だ存在せず、チェックと称する小切手のみ、父は本人の身なりを見て貸したそうです。
もちろん、後で礼状方々返金があったそうです。
当時の日本人男性のロンドン駐在員は、例外なく蝶ネクタイ姿だったのを今でも覚えております。
横浜臨海公園
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