bluejaysさんのクチコミ(45ページ)全1,027件
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:4.5
1614年、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は、忠輝の舅伊達政宗である。
すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかったとされる。天守はなく、1614年に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。その外観は、江戸城富士見櫓に似ていたと伝えられる。
忠輝が1616年に改易されると、高田城には酒井家次が10万石で入った。その後は1618年に松平忠昌、1624年に松平光長が入ったが、1681年の越後騒動により改易され、高田は天領となる。
その後は1685年に稲葉正往、1701年に戸田忠真、1710年に松平定重、1742年に榊原政永が入った。
高田藩は当初は、福井藩とともに大藩前田藩を挟撃する重要な位置づけがされていたが、泰平の世が続き前田家も将軍家と縁戚関係となり、その役割は薄れていった。松平忠輝の改易や越後騒動など、相次ぐ事件の舞台となったことで、高田藩は次第に、不始末を犯した大名の左遷先として扱われるようになった。
明治以降は、陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するため、土塁の撤去と堀の埋め立てが行われたため、東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には、堀や土塁の一部が残されており、現在は公園となっている。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
-
投稿日 2015年02月15日
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:4.5
坂戸城は南北朝期に越後を領国としていた新田氏が築いたとされる。その後越後守護上杉憲顕が家臣の上田長尾氏を配置し、上田庄一帯と関越国境を守らせた。戦国期には長尾政景が勢威を張り、守護代長尾家など同族と反目した。
守護代長尾家は長尾為景の死後、晴景と景虎(のちの上杉謙信)の兄弟が争った。上田長尾家の政景は晴景に味方したが、天文十七(1548)年、守護上杉定実の仲介で景虎が兄晴景から守護代の座を譲り受けることで収拾した。しかし政景はこれに従わず、景虎と小競り合いを繰り返したが、天文二十(1551)年政景討伐のために景虎が出陣し坂戸城包囲を表明すると、政景は降伏した。政景は以後、景虎の重臣として仕え、春日山城の留守を預かるなど重要な役についたが、永禄七(1564)年、野尻池での舟遊び中、宇佐美定満とともに溺死した。政景の死後は上田衆が持ち回りで在番した。
この地は政景の子で謙信の養子となった上杉景勝と直江兼続(樋口与六)の出生地でもある。謙信死後、御館の乱に景勝が勝利し、上杉家中における上田衆優位を確立させた。なお石碑は両者がこの城で生まれたことを指しており、両者の屋敷が城内のどこにあったかは不明で、石碑の立っている地に生まれたことを指しているものではない。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 1.0
-
投稿日 2015年02月15日
総合評価:5.0
かつては多くのテナントが入り、式場も備えた総合ホテルだったようだ。かなり年季の入った建物に見えるが、部屋が非常に(無駄に)広いわりに料金は格安。「シンドラーのリフト」があった。街中にあるが、近くにコンビニはない。
- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 5,000円未満
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 客室:
- 4.5
- 接客対応:
- 3.5
- 風呂:
- 4.5
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:4.5
直江津駅から少し歩くが、遠くからでもよく見えるので迷うことはない。中心街からは外れているが、レンタサイクルがあるのでよい。コンビニ・ラーメン屋が近くにある。
部屋にはパソコンがあり、インターネットができる。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 5,000円未満
- アクセス:
- 4.5
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- 客室:
- 4.5
- 接客対応:
- 5.0
- 風呂:
- 5.0
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:5.0
新潟県上越地方はアメリカプレートとユーラシアプレートがぶつかるフォッサマグナの上にあり、昔から地震・地すべりが多い地域である。
むかしむかしのこと。上越市猿供養寺の住民は、地すべりに悩まされていた。家は傾き、道は変形し、田畑もひどい被害を受けた。人々は地の神をなだめるために、人柱を生贄として捧げることにした。だが誰を人柱にするかで、激しく言い争った。
そこへ旅の僧が通りがかった。彼は村人たちが言い争うのに心を痛め、そういうことなら自分は仏に仕える身だから、喜んで犠牲になろうと申し出た。
僧は身を清め、白装束を着て、経を唱えながら穴に入り、瓶をかぶった。村人たちは泣きながらその上に土をかけた。それからこの地には地すべりは起きなくなった。
猿供養寺の人々は、この尊い僧の話を何世代にもわたって語り継いできた。だが長い月日が流れるうち、人柱のあった場所もわからなくなり、この物語もよくあるフィクションとして受け留められるようになった。
昭和12年、猿供養寺の農民が土を興しているとき、瓶に入った人骨を発見した。新潟大学で鑑定したところ、時代はおよそ800年前、脚の骨が太く腕の骨があまり発達していないことから、旅の僧という伝承と合致した(農民は農具を振るうため腕の骨が発達する)。民話は人から人へと伝えられるうち内容が変わってしまことが普通だが、このように事実を正確に伝えていることは奇跡と言ってよい。これは伝承が考古学的に実証された極めて稀なケースである。
地すべり資料館の人柱供養堂に、この人骨が展示されている。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:5.0
小倉城は、13世紀中頃に築かれたとされる。安土桃山時代か江戸時代に、毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守を建てた。
1837年天守閣と御殿が焼失したため、天守台には「御三階」を建て、天守の代用とした。現在の天守は昭和30年代に、鉄筋コンクリートで復元されたものである。
第二次長州征伐では、小倉藩主で老中の小笠原長行が指揮する幕府軍と、高杉晋作が率いる長州藩が小倉口で戦った。幕府軍は優勢な海軍力を有しながら、渡海侵攻を躊躇している間に長州勢の田野浦上陸と大里上陸を許し、主導権を奪われた。やがて小笠原の消極的態度に業を煮やした諸藩は撤兵し、小倉藩単独での戦闘を余儀なくされると、小笠原も将軍家茂死去を理由に戦線を離脱した。小倉藩は小倉城に火を放ち、香春に撤退した。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:3.5
柳川の殿様立花家の別邸。明治期には伯爵となり、西洋館が建てられた。現在も結婚式場として使用されている。
松濤園は松島を模した庭園で、渡り鳥も飛来するという。
別館に立花家資料館もあり、立花藩の資料が展示されている。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:4.0
水の都「柳川」の地名のとおり、堀に沿って植えられた柳と、ところどころに見える舟、その両側に立ち並ぶ古風な日本建築に独特の風情があり、古き良き日本を偲ばせる。
昭和後期には掘の清掃がなされなくなり、水草が生い茂り、ゴミの不法投棄が横行した。柳川出身の作家檀一雄は「我が故郷はシブタも住まず蚊蚊ばかり」という句を詠み、往時の姿を失ったことを嘆いた。昭和50年代には堀を埋め立てる計画が浮上したが、市長の英断により河川浄化計画が実施され、堀は今も残っている。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:3.0
海鼠塀が印象的。
北原白秋生家は、もとは柳川藩御用達の海産物問屋だったが、父親の代に酒造業となった。生家は1901年の沖端大火で焼け、耐火建築の土蔵造だった母屋だけが残った。
白秋生誕百年にあたる1985年、裏庭に隣接して北原白秋記念館(柳川市歴史民俗資料館)が開館した。
なお白秋が生まれたのは、熊本県南関。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- コストパフォーマンス:
- 1.0
- お金を払ってまで見るものでもない
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 展示内容:
- 1.5
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投稿日 2015年02月15日
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投稿日 2015年02月15日
総合評価:3.0
文亀年間に蒲池治久が築いた。無数の掘に包まれた天然の要害をなし、「柳川三年肥後三月、肥前筑前朝飯前」と歌われた。
1581年に蒲池氏が龍造寺氏に滅ぼされると、城主は鍋島直茂に代わった。1584年には龍造寺家晴が、1587年には立花宗茂が入り、居城とした。
1600年の関ヶ原の戦いに際し、鍋島直茂・黒田如水・加藤清正らに攻められると、立花宗茂は激戦の後降伏した。宗茂は改易となり、田中吉政が32万5千石で柳川城主となったが、子がないため断絶すると、立花宗茂が10万石で再び柳川城主に返り咲き、明治まで続いた。
現在は柳城中学校校内に、天守台や石垣が残っている。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2015年02月15日
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投稿日 2015年02月14日
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投稿日 2015年02月14日
総合評価:4.0
富山城は1543年頃、神保長職が築いたとされる。長職は1560年上杉謙信により富山城を追われ、城はその後上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、1578年神保長職の子長住が、織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。しかし長住は1582年、上杉方に内応した家臣に背かれて幽閉され失脚し、替わって富山城主となったのが佐々成政である。
佐々成政が熊本に移ると、越中一国は前田家のものとなる。1639年前田利常は次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。利次は当初新たに城を築くつもりだったが、藩の財政がそれを許さなかったため、富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、明治まで続いた。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年02月14日
総合評価:4.5
1335年、椎名孫八入道によって築城されたと伝わる。椎名康胤は戦国時代に上杉氏に背いたため、成敗され、以後上杉氏の越中における拠点となった。
魚津城は1582年、織田軍に包囲されたが、織田軍は信濃・上野方面から春日山城を攻撃する態勢を見せたため、上杉景勝は魚津城に援軍を送れなかった。そのため魚津城の上杉軍は6月3日、落城は不可避とみて山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱の守将13人が自刃し、城は落ちた。
ところがその前日、織田信長は本能寺で自刃していた。この知らせを聞いた織田軍はすぐに撤退したため、魚津城は再び上杉軍が奪回した。その後1583年に佐々成政が侵攻すると、城将須田満親は降伏して開城し、上杉氏の支配は終わった。成政の転封後は前田氏のものとなったが、元和の一国一城令により廃城となったとみられる。
現在は大町小学校で、遺構は残っていない。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年02月14日
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投稿日 2015年02月14日
総合評価:5.0
シテ宮として建てられたが、1370年に牢獄となった。もとは門衛を「コンシェルジュ」と呼んでいたが、後に建物自体を「コンシェルジュリー」と呼ぶようになった。
フランス革命時には、ここに入ると必ず死刑になることから「死の牢獄」「ギロチン控えの間」と呼ばれ、マリー・アントワネットも最後にここに移されている。彼女の独房は贖罪礼拝堂のある場所で、別の部屋に再現されている。
時計塔には、現存するフランス最古の壁時計がある。- 旅行時期
- 2013年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年02月14日
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投稿日 2015年02月14日























