古城街道周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅》<br />期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅 <br /><br />5月27日(日);曇り時々晴れ間、25℃、139km ・Pfingstsonntag聖霊降臨祭<br /><br />7時起床。8:45~9:15朝食。ヒルシュホルン城を9:35に出発。<br />Die Burgenstrasse古城街道巡り->B37  8km  Neckarsteinachネッカーシュタイナッハ遠望9:50->B37(Neckargemuendネッカーゲミュント)・L? 20km Heidelbergハイデルベルク城址到着・見学10:15~14:50->L? 13km  Schwetzingenシュヴェツィンゲン宮殿到着・見学15:20~16:30->B37・A6・5(Mannheimマンハイム)90km(Frankfurtフランクフルト・Eschbornエッシュボルン)->L? 8km 古城ホテル Kronbergクロンベルク城到着・見学17:45 着。(⑬Schlosshotel Kronberg)<br /><br />写真はハイデルベルク:Cafe-Konditorei Knoeselカフェ・コンディトライ・クネーゼルの名物Heidelberger-Studentenkussチョコレート菓子“ハイデルベルク学生の口づけ”

ドイツ2012年・麗しの5月:ハイデルベルクの町はロマンチックな話が良く似合う。

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2012/05/15 - 2012/05/29

6位(同エリア110件中)

jijidaruma

jijidarumaさん

《Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅》
期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅 

5月27日(日);曇り時々晴れ間、25℃、139km ・Pfingstsonntag聖霊降臨祭

7時起床。8:45~9:15朝食。ヒルシュホルン城を9:35に出発。
Die Burgenstrasse古城街道巡り->B37  8km  Neckarsteinachネッカーシュタイナッハ遠望9:50->B37(Neckargemuendネッカーゲミュント)・L? 20km Heidelbergハイデルベルク城址到着・見学10:15~14:50->L? 13km  Schwetzingenシュヴェツィンゲン宮殿到着・見学15:20~16:30->B37・A6・5(Mannheimマンハイム)90km(Frankfurtフランクフルト・Eschbornエッシュボルン)->L? 8km 古城ホテル Kronbergクロンベルク城到着・見学17:45 着。(⑬Schlosshotel Kronberg)

写真はハイデルベルク:Cafe-Konditorei Knoeselカフェ・コンディトライ・クネーゼルの名物Heidelberger-Studentenkussチョコレート菓子“ハイデルベルク学生の口づけ”

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • *7時起床。8:45~9:15騎士の間での朝食。ヒルシュホルン城を9:35に出発。<br />Die Burgenstrasse古城街道巡りが今日も続く。<br /><br />写真は古城ホテル ヒルシュホルン城:騎士の間の朝食

    *7時起床。8:45~9:15騎士の間での朝食。ヒルシュホルン城を9:35に出発。
    Die Burgenstrasse古城街道巡りが今日も続く。

    写真は古城ホテル ヒルシュホルン城:騎士の間の朝食

    シュロスホテル ヒルシュホルン ホテル

  • 写真はヒルシュホルン城:朝のテラスは静かなもの。

    写真はヒルシュホルン城:朝のテラスは静かなもの。

  • ヒルシュホルンからも近い古城群は8km先(ハイデルベルクから東20km)のネッカー川沿いの小さな村ネッカーシュタイナッハにある。<br />人口3800人と云う細長い街道筋から遠望できるのは3つ古城群だ。<br /><br />尚、今日の旅は多くの番外編・伝説が残り、大変面白かった。<br />ここでは番外編・伝説として、別途掲載したので、ご興味あれば、そちらをご参照ください。<br /><br />写真は古城街道図

    ヒルシュホルンからも近い古城群は8km先(ハイデルベルクから東20km)のネッカー川沿いの小さな村ネッカーシュタイナッハにある。
    人口3800人と云う細長い街道筋から遠望できるのは3つ古城群だ。

    尚、今日の旅は多くの番外編・伝説が残り、大変面白かった。
    ここでは番外編・伝説として、別途掲載したので、ご興味あれば、そちらをご参照ください。

    写真は古城街道図

  • <Neckarsteinachネッカーシュタイナッハ><br />45・46・47  9:50<br /><br />古城街道上の古城の町ネッカーシュタイナッハにはブリッガー家により12世紀頃から築城された4つの城;<br />ハイデルベルクに向かって順に見ると、Hinterburgヒンターブルグ城・*Burg Schadeckシャーデック城(ツバメの巣と称される)、Vorderburgフォアデアブルグ城・Mittelburgミッテルブルグ城(1170年男爵家の所有)がある。<br /><br />先の二つは城跡のみが残り、後の二つは個人所有の城であり、いずれも緑の中に埋まっているように見えた。<br />http://www.neckarsteinach.com/<br /><br />写真はNeckarsteinachネッカーシュタイナッハ:ネッカー川畔のHinterburgヒンターブルグ城とBurg Schadeckシャーデック城<br /><br />番外編:<br />≪Burg Schadeckシャーデック城(ツバメの巣の異名を持つ城)に残る伝説≫<br />https://4travel.jp/travelogue/10985751

    <Neckarsteinachネッカーシュタイナッハ>
    45・46・47  9:50

    古城街道上の古城の町ネッカーシュタイナッハにはブリッガー家により12世紀頃から築城された4つの城;
    ハイデルベルクに向かって順に見ると、Hinterburgヒンターブルグ城・*Burg Schadeckシャーデック城(ツバメの巣と称される)、Vorderburgフォアデアブルグ城・Mittelburgミッテルブルグ城(1170年男爵家の所有)がある。

    先の二つは城跡のみが残り、後の二つは個人所有の城であり、いずれも緑の中に埋まっているように見えた。
    http://www.neckarsteinach.com/

    写真はNeckarsteinachネッカーシュタイナッハ:ネッカー川畔のHinterburgヒンターブルグ城とBurg Schadeckシャーデック城

    番外編:
    ≪Burg Schadeckシャーデック城(ツバメの巣の異名を持つ城)に残る伝説≫
    https://4travel.jp/travelogue/10985751

  • 写真はNeckarsteinachネッカーシュタイナッハ:ネッカー川畔のMittelburgミッテルブルグ城

    写真はNeckarsteinachネッカーシュタイナッハ:ネッカー川畔のMittelburgミッテルブルグ城

  • ディルスベルクの町に伝えられる伝説もこれによく似ていて、そこの城址ではDie Rose von Dilsberg伝説「ディルスベルクの薔薇」と称する野外劇が夏の夜に催されると云う。<br /><br /><Neckargemuendネッカーゲミュント><br /><br />Elsenzエルゼンツ川がネッカー川に注ぐ河口に位置するネッカーゲミュントには古城街道の古城群の一つに数えられる「Burgfeste Dilsbergディルスベルク要塞」の城址がある。人口14千人。<br />ネッカー川の向こう岸にある町は、こちら側の道を走っている内に通り過ぎたようだ。<br /><br />(尚、それで2015年7月に気になっていた、この城址を訪れた)<br /><br />http://www.neckargemuend.de/<br /><br />≪Burgfeste Dilsbergディルスベルク要塞≫<br />12世紀後半、Graf von Lauffenラウフェン伯により、ネッカー川の蛇行を見下ろす、標高333mという高さに冠をかぶせたような城塞都市が建設された。<br />13世紀にGraf von Dilsbergディルスベルク伯爵の領地となり、以来その名が町名になった。<br />14世紀以降はプファルツ選帝侯領に組み込まれている。<br />三十年戦争では、ティリー将軍が率いる旧教派は1621年の秋にネッカーシュタイナッハを占領すると、1622年4月に対岸のディルスベルク城の包囲戦を行った。この戦いにも持ちこたえた城塞都市であったが、17世紀後半、プファルツ継承戦争、18世紀後半のフランス革命などで仏軍の侵攻を受け、ディルスベルク要塞は軍事的な機能を失った。<br /><br />現在、城址は見学することができる。小山の頂に築かれた城塞都市には唯一の入口である城門があり、そこから続く防御壁はマントを広げたような形になっており、“マントの壁”と呼ばれている。<br />中庭に深さ46mの井戸があり、その底にネッカー川近くまで80m程の坑道が造られている。非常時には城主が井戸からネッカー川に逃げ、船で脱出することができたとか・・・。<br />城址の一隅には簡単な野外劇場が設けられ、町の伝説を元にした「ディルスベルクの薔薇」の野外劇(尚、伝説と野外劇は番外編に纏めたが、野外劇の粗筋の方が伝説よりも面白く思えた。)やコンサートも行われている。<br />http://www.burg-dilsberg.de/<br /><br />番外編:≪伝説:ディルスベルクの薔薇Die Rose vom Dilsberg≫<br />https://4travel.jp/travelogue/10986881<br /><br />写真はNeckargemuendネッカーゲミュント・Dilsbergディルスベルク城址の俯瞰<br />

    ディルスベルクの町に伝えられる伝説もこれによく似ていて、そこの城址ではDie Rose von Dilsberg伝説「ディルスベルクの薔薇」と称する野外劇が夏の夜に催されると云う。

    <Neckargemuendネッカーゲミュント>

    Elsenzエルゼンツ川がネッカー川に注ぐ河口に位置するネッカーゲミュントには古城街道の古城群の一つに数えられる「Burgfeste Dilsbergディルスベルク要塞」の城址がある。人口14千人。
    ネッカー川の向こう岸にある町は、こちら側の道を走っている内に通り過ぎたようだ。

    (尚、それで2015年7月に気になっていた、この城址を訪れた)

    http://www.neckargemuend.de/

    ≪Burgfeste Dilsbergディルスベルク要塞≫
    12世紀後半、Graf von Lauffenラウフェン伯により、ネッカー川の蛇行を見下ろす、標高333mという高さに冠をかぶせたような城塞都市が建設された。
    13世紀にGraf von Dilsbergディルスベルク伯爵の領地となり、以来その名が町名になった。
    14世紀以降はプファルツ選帝侯領に組み込まれている。
    三十年戦争では、ティリー将軍が率いる旧教派は1621年の秋にネッカーシュタイナッハを占領すると、1622年4月に対岸のディルスベルク城の包囲戦を行った。この戦いにも持ちこたえた城塞都市であったが、17世紀後半、プファルツ継承戦争、18世紀後半のフランス革命などで仏軍の侵攻を受け、ディルスベルク要塞は軍事的な機能を失った。

    現在、城址は見学することができる。小山の頂に築かれた城塞都市には唯一の入口である城門があり、そこから続く防御壁はマントを広げたような形になっており、“マントの壁”と呼ばれている。
    中庭に深さ46mの井戸があり、その底にネッカー川近くまで80m程の坑道が造られている。非常時には城主が井戸からネッカー川に逃げ、船で脱出することができたとか・・・。
    城址の一隅には簡単な野外劇場が設けられ、町の伝説を元にした「ディルスベルクの薔薇」の野外劇(尚、伝説と野外劇は番外編に纏めたが、野外劇の粗筋の方が伝説よりも面白く思えた。)やコンサートも行われている。
    http://www.burg-dilsberg.de/

    番外編:≪伝説:ディルスベルクの薔薇Die Rose vom Dilsberg≫
    https://4travel.jp/travelogue/10986881

    写真はNeckargemuendネッカーゲミュント・Dilsbergディルスベルク城址の俯瞰

  • ネッカーゲミュントからハイデルベルクは14km、あっという間に着く。<br /><br />ハイデルベルクでは最初に“哲学者の道”に行ってみた。<br />かつてハイデルベルクを訪れているが、歴史的中核部といえる城址や旧市街観光が主で、ネッカー川の対岸にある“哲学者の道”を訪れるのは、実は初めてなのだ。<br /><br />写真はハイデルベルク観光図

    ネッカーゲミュントからハイデルベルクは14km、あっという間に着く。

    ハイデルベルクでは最初に“哲学者の道”に行ってみた。
    かつてハイデルベルクを訪れているが、歴史的中核部といえる城址や旧市街観光が主で、ネッカー川の対岸にある“哲学者の道”を訪れるのは、実は初めてなのだ。

    写真はハイデルベルク観光図

  • 【Heidelbergハイデルベルク観光】<br />10:15~14:50<br /><br />ハイデルベルクの町はバーデン・ヴュルテンベルク州の北西部にあり、ネッカー川沿いに発展した町である。人口は意外に14万7千人と多いが、学生の町でもある。<br /><br />この町はプファルツ選帝侯領の首都でもあった。<br />ハイデルベルク城址、『アルト・ハイデルベルク』のロマンスで名高い古都・・・ドイツ旅行で最も魅力的な町と云われる。<br />そしてこの町を題材にした文学作品や歌も多い。<br /><br />ゲーテやハイネ、ショパン、フリードリヒ・ヘルダーリンなど、多くの芸術家がこの町を訪れ、称えたと云う町であるが、私共はかつて2度程度しか訪れていない。<br />古城街道を逆から走ってくるため、ツィ、100kmの短い距離にあるフランクフルトに急ぐ行程にしてしまう所為である。<br /><br />今回はハイデルベルクにしばしの時間を割いた。<br /><br />写真はハイデルベルク:哲学者の道は急勾配の坂道だ。

    【Heidelbergハイデルベルク観光】
    10:15~14:50

    ハイデルベルクの町はバーデン・ヴュルテンベルク州の北西部にあり、ネッカー川沿いに発展した町である。人口は意外に14万7千人と多いが、学生の町でもある。

    この町はプファルツ選帝侯領の首都でもあった。
    ハイデルベルク城址、『アルト・ハイデルベルク』のロマンスで名高い古都・・・ドイツ旅行で最も魅力的な町と云われる。
    そしてこの町を題材にした文学作品や歌も多い。

    ゲーテやハイネ、ショパン、フリードリヒ・ヘルダーリンなど、多くの芸術家がこの町を訪れ、称えたと云う町であるが、私共はかつて2度程度しか訪れていない。
    古城街道を逆から走ってくるため、ツィ、100kmの短い距離にあるフランクフルトに急ぐ行程にしてしまう所為である。

    今回はハイデルベルクにしばしの時間を割いた。

    写真はハイデルベルク:哲学者の道は急勾配の坂道だ。

    哲学者の道 散歩・街歩き

  • <Philosophenweg哲学者の道><br />10:15~10:55<br /><br />ハイデルベルク城の対岸側の道を走り、ハイデルベルク入りしたので、下流のテオドール・ホイス橋近くの裏道に車を停め、まず、哲学者の道を登った。<br /><br />初めは急坂が続き、立派なお屋敷やハイデルベルク大学の理論物理学研究所の施設(番地12)、1963年にノーベル物理学賞を得たHans Jensenハンス・イェンゼンの家(番地21)もある。<br />ジョギングしている若い人もいたが、私共は息も切れ、結構きついものだった。登り切ると、比較的平坦な散策路が続く。<br /><br />写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址を望む。

    <Philosophenweg哲学者の道>
    10:15~10:55

    ハイデルベルク城の対岸側の道を走り、ハイデルベルク入りしたので、下流のテオドール・ホイス橋近くの裏道に車を停め、まず、哲学者の道を登った。

    初めは急坂が続き、立派なお屋敷やハイデルベルク大学の理論物理学研究所の施設(番地12)、1963年にノーベル物理学賞を得たHans Jensenハンス・イェンゼンの家(番地21)もある。
    ジョギングしている若い人もいたが、私共は息も切れ、結構きついものだった。登り切ると、比較的平坦な散策路が続く。

    写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址を望む。

  • 小さな庭園を過ぎると、視界が一段と開ける。<br /><br />対岸のハイデルベルク城、旧市街、アルテ橋とカールの門などが一体となった景観を欲しい侭にできる。少し曇り空が恨めしい。<br /><br />写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址、アルテ橋などの景観を望む。

    イチオシ

    小さな庭園を過ぎると、視界が一段と開ける。

    対岸のハイデルベルク城、旧市街、アルテ橋とカールの門などが一体となった景観を欲しい侭にできる。少し曇り空が恨めしい。

    写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址、アルテ橋などの景観を望む。

  • 観光客もそこそこ歩いていて、中には2人の子供連れの若い日本人夫婦もいた。かつてはアンナ風にして、私共も娘たちと旅をしたもの・・・。<br /><br />写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址を望む。

    観光客もそこそこ歩いていて、中には2人の子供連れの若い日本人夫婦もいた。かつてはアンナ風にして、私共も娘たちと旅をしたもの・・・。

    写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址を望む。

  • この哲学者の道で気になったのはLiselottensteinリーゼロッテの記念碑である。<br />その記念碑はLiselotte‐Platzリーゼロッテ・プラッツという場所に、不幸な生涯を送ったプファルツ選帝侯の王女リーゼロッテ(1652~1722年)に敬意を表して、1908年に建てられたものだと云う。<br /><br /><ルイ14世のプファルツ継承戦争とリーゼロッテ><br />Kurfuerst Karl I. Ludwig選帝侯カール1世・ルートヴィヒ(1617~1680年、選帝侯在位:1648~1680年)が、1671年に愛娘のElisabeth Charlotte von der Pfalzエリザベート・シャルロッテ・フォン・デア・プファルツ(Liselotteリーゼロッテとも呼ばれた)をフランスの太陽王Louis XIVルイ14世の弟・Philippe d&#39;Orl?・ansオルレアン公フィリップ殿下に嫁がせた。これは政略結婚であり、リーゼロッテの結婚生活は不幸であったと云う。<br /><br />1685年、プファルツ選帝侯カール2世が死去すると、遠縁のプファルツ・ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承したが、ルイ14世が義妹となっていたリーゼロッテ(カール2世の妹)プファルツ継承権を主張し、Pfaelzischer Erbfolgekriegプファルツ継承戦争(1688~1697年)を起こした。<br />ドイツのライン地方に侵攻した仏軍は連戦連勝を続け、1689年3月2日にプファルツ選帝侯領の首都ハイデルベルクに火を放ち、ハイデルベルク城を焼失、破壊したのである。<br />リーゼロッテにとって最愛のハイデルベルクだが、嫁いだフランスによって蹂躙され、被った被害も大きかったにも拘わらず、いまだにプファルツ一帯では、王女リーゼロッテの人気は最も高く、歴史上で最も有名な人物になっている。<br /><br />尚、ハイデルベルクの伝説の中に、王女リーゼロッテの結婚話にからんだ話が出てくる(*後述)のだが、この時は記念碑と伝説が関連するとは、全く考えもしなかった。<br />・・・・・<br /><br />写真はハイデルベルク:Liselottensteinリーゼロッテの記念碑<br /><br />番外編:ハイデルベルクの哲学者の道にあったプファルツでたいへん人気の高い王女リーゼロッテの記念碑<br />https://4travel.jp/travelogue/11520955

    この哲学者の道で気になったのはLiselottensteinリーゼロッテの記念碑である。
    その記念碑はLiselotte‐Platzリーゼロッテ・プラッツという場所に、不幸な生涯を送ったプファルツ選帝侯の王女リーゼロッテ(1652~1722年)に敬意を表して、1908年に建てられたものだと云う。

    <ルイ14世のプファルツ継承戦争とリーゼロッテ>
    Kurfuerst Karl I. Ludwig選帝侯カール1世・ルートヴィヒ(1617~1680年、選帝侯在位:1648~1680年)が、1671年に愛娘のElisabeth Charlotte von der Pfalzエリザベート・シャルロッテ・フォン・デア・プファルツ(Liselotteリーゼロッテとも呼ばれた)をフランスの太陽王Louis XIVルイ14世の弟・Philippe d'Orl?・ansオルレアン公フィリップ殿下に嫁がせた。これは政略結婚であり、リーゼロッテの結婚生活は不幸であったと云う。

    1685年、プファルツ選帝侯カール2世が死去すると、遠縁のプファルツ・ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承したが、ルイ14世が義妹となっていたリーゼロッテ(カール2世の妹)プファルツ継承権を主張し、Pfaelzischer Erbfolgekriegプファルツ継承戦争(1688~1697年)を起こした。
    ドイツのライン地方に侵攻した仏軍は連戦連勝を続け、1689年3月2日にプファルツ選帝侯領の首都ハイデルベルクに火を放ち、ハイデルベルク城を焼失、破壊したのである。
    リーゼロッテにとって最愛のハイデルベルクだが、嫁いだフランスによって蹂躙され、被った被害も大きかったにも拘わらず、いまだにプファルツ一帯では、王女リーゼロッテの人気は最も高く、歴史上で最も有名な人物になっている。

    尚、ハイデルベルクの伝説の中に、王女リーゼロッテの結婚話にからんだ話が出てくる(*後述)のだが、この時は記念碑と伝説が関連するとは、全く考えもしなかった。
    ・・・・・

    写真はハイデルベルク:Liselottensteinリーゼロッテの記念碑

    番外編:ハイデルベルクの哲学者の道にあったプファルツでたいへん人気の高い王女リーゼロッテの記念碑
    https://4travel.jp/travelogue/11520955

  • 小さな庭園に戻り、庭園のベンチで休憩した。庭園には2つの記念碑があった。<br /><br />その中央にJoseph Freiherr von Eichendorffヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ男爵(1788~1857年)の新しい記念碑がある。<br /><br />私は知らないのだが、アイヒェンドルフ男爵はドイツ人小説家、詩人として、当時、大変高名だったらしい。かつてのドイツのSchlesienシュレジェン(現ポーランド)にあったSchloss Lubowitz bei Ratiborラチブシュ近くのルボーヴィッツ城に生まれた。<br />後期ロマン主義の代表作はナポレオン戦争下に書いた『1815年 ・Ahnung und Gegenwart予感と現在』『1826年 ・Aus dem Leben eines Taugenichts (のらくら者の日記)』などである。<br />彼は19歳の時にハイデルベルク大学で2年間、哲学を専攻したとあり、その縁もあって、この公園に記念碑が建てられたのだろうか?<br /><br />実はアイヒェンドルフが学んだ頃の日記に、“K”と頭文字のみで記し、その恋心を書いていたそうです。“K”とはハイデルベルク・ロールバッハの桶屋の親方の娘でKatharina Barbara Foerster カタリーナ・バーバラ・フェルスター(Kaethchenケートヒェンと愛称で呼ばれていた。48歳で独身のままハイデルベルクで死去した)という名でした。<br />彼は娘に失恋した事になっていますが、その事が“In einem kuehlen Grunde (um 1810)涼しげな谷間で(1810年頃)“という詩に結実したと云われている。<br /><br />そうした背景もあって、特別にハイデルベルクの地に記念碑が建てられたようだ。<br /><br />写真はハイデルベルク:ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ男爵の記念碑<br /><br />番外編・伝説:Der Heidelberger Studentenkussハイデルベルク学生の口づけの由来<br />https://4travel.jp/travelogue/10994403

    小さな庭園に戻り、庭園のベンチで休憩した。庭園には2つの記念碑があった。

    その中央にJoseph Freiherr von Eichendorffヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ男爵(1788~1857年)の新しい記念碑がある。

    私は知らないのだが、アイヒェンドルフ男爵はドイツ人小説家、詩人として、当時、大変高名だったらしい。かつてのドイツのSchlesienシュレジェン(現ポーランド)にあったSchloss Lubowitz bei Ratiborラチブシュ近くのルボーヴィッツ城に生まれた。
    後期ロマン主義の代表作はナポレオン戦争下に書いた『1815年 ・Ahnung und Gegenwart予感と現在』『1826年 ・Aus dem Leben eines Taugenichts (のらくら者の日記)』などである。
    彼は19歳の時にハイデルベルク大学で2年間、哲学を専攻したとあり、その縁もあって、この公園に記念碑が建てられたのだろうか?

    実はアイヒェンドルフが学んだ頃の日記に、“K”と頭文字のみで記し、その恋心を書いていたそうです。“K”とはハイデルベルク・ロールバッハの桶屋の親方の娘でKatharina Barbara Foerster カタリーナ・バーバラ・フェルスター(Kaethchenケートヒェンと愛称で呼ばれていた。48歳で独身のままハイデルベルクで死去した)という名でした。
    彼は娘に失恋した事になっていますが、その事が“In einem kuehlen Grunde (um 1810)涼しげな谷間で(1810年頃)“という詩に結実したと云われている。

    そうした背景もあって、特別にハイデルベルクの地に記念碑が建てられたようだ。

    写真はハイデルベルク:ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ男爵の記念碑

    番外編・伝説:Der Heidelberger Studentenkussハイデルベルク学生の口づけの由来
    https://4travel.jp/travelogue/10994403

  • アイヒェンドルフ男爵の記念碑の裏手に30cmほどの丸い、少し上の部分が欠けたような石があり、そこにMasakatsu Tamura 27.11.2007.とあり、一段下にNaniwadaと二つのネームプレートが付けてあった。<br />その石は記念碑というわけではなさそうだが、この時はなんで日本人の名前がここにあるのかと訝しく思った。<br /><br />後で調べて知ったわけだが、この石の後ろに植樹された「合歓の木」の若木が1本立っていた。もう1本は少し離れた右手の方にあったらしい。<br />植樹の時はハイデルベルグ市がネームプレートを付けてくれたようだが、その後、石の方になったのか?<br />何故、ここにこうした形になったのか?誰がどういう趣旨で植樹したのか?調べた限りではよく分からない。ハイデルベルグ市や大学とどんな関係、または功績があったものか?前二者の記念碑と違って、詳細が不明なだけに、ただ、漠然とした違和感だけが残った。<br /><br />写真はハイデルベルク:Masakatsu Tamura 27.11.2007.の石<br /><br />番外編:≪ハイデルベルク:哲学者の道の小公園に日本人の名が残っている≫<br />https://4travel.jp/travelogue/10997198

    アイヒェンドルフ男爵の記念碑の裏手に30cmほどの丸い、少し上の部分が欠けたような石があり、そこにMasakatsu Tamura 27.11.2007.とあり、一段下にNaniwadaと二つのネームプレートが付けてあった。
    その石は記念碑というわけではなさそうだが、この時はなんで日本人の名前がここにあるのかと訝しく思った。

    後で調べて知ったわけだが、この石の後ろに植樹された「合歓の木」の若木が1本立っていた。もう1本は少し離れた右手の方にあったらしい。
    植樹の時はハイデルベルグ市がネームプレートを付けてくれたようだが、その後、石の方になったのか?
    何故、ここにこうした形になったのか?誰がどういう趣旨で植樹したのか?調べた限りではよく分からない。ハイデルベルグ市や大学とどんな関係、または功績があったものか?前二者の記念碑と違って、詳細が不明なだけに、ただ、漠然とした違和感だけが残った。

    写真はハイデルベルク:Masakatsu Tamura 27.11.2007.の石

    番外編:≪ハイデルベルク:哲学者の道の小公園に日本人の名が残っている≫
    https://4travel.jp/travelogue/10997198

  • 写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址、アルテ橋などの景観を望む。

    写真はハイデルベルク:哲学者の道からハイデルベルク城址、アルテ橋などの景観を望む。

  • 写真はハイデルベルク:珍しいことだが、個人住宅などの為に運送用のケーブル設備がある。

    写真はハイデルベルク:珍しいことだが、個人住宅などの為に運送用のケーブル設備がある。

  • 写真はハイデルベルク:ハイデルベルク大学の理論物理学研究所の施設(番地12)

    写真はハイデルベルク:ハイデルベルク大学の理論物理学研究所の施設(番地12)

  • さて、対岸にわたり、Karlstorカールス門から旧市街に入った。ネッカー川の両岸を南北に広がっているハイデルベルクの東門になる。<br /><br />Karlsplatzカールス広場の地下駐車場に車を入れ(11:06~14:41駐車代Euro5)、久しぶりのハイデルベルク城へ、急坂を登った。<br /><br />ここに来るとさすがに観光客が多い。城のテラスも通路も人混みがあるといった感じで、中韓のツアー客が実に多い。日本のツアーは目立たないが、ともあれ私共には一番苦手な混雑状況でした。<br /><br />写真はハイデルベルク:Karlsplatzカールス広場  

    さて、対岸にわたり、Karlstorカールス門から旧市街に入った。ネッカー川の両岸を南北に広がっているハイデルベルクの東門になる。

    Karlsplatzカールス広場の地下駐車場に車を入れ(11:06~14:41駐車代Euro5)、久しぶりのハイデルベルク城へ、急坂を登った。

    ここに来るとさすがに観光客が多い。城のテラスも通路も人混みがあるといった感じで、中韓のツアー客が実に多い。日本のツアーは目立たないが、ともあれ私共には一番苦手な混雑状況でした。

    写真はハイデルベルク:Karlsplatzカールス広場  

  • <Schloss Heidelbergハイデルベルク城址>   <br />この旅48番目の城  11:15~12:25 入場料Euro10。<br /><br />プファルツ選帝侯が13世紀から1720年までの500年間にわたって、Schloss Heidelbergハイデルベルク城にライン宮中伯の宮廷をおいた。 <br />10世紀から11世紀頃に築城された城は200mの小高い丘の斜面にネッカー川を見下ろすように立っている。<br />最初はヴォルムスの大司教の城館であったが、1225年にプファルツ伯ルートヴィヒ1世が城を買い取り、14世紀から17世紀前半の長い年月の間繰り返し改修されたと云う。この為、ゴシック、ルネッサンス、初期バロックなど様々な建築様式となっている。<br /><br />写真はハイデルベルク城:Merian作1645年

    <Schloss Heidelbergハイデルベルク城址>   
    この旅48番目の城  11:15~12:25 入場料Euro10。

    プファルツ選帝侯が13世紀から1720年までの500年間にわたって、Schloss Heidelbergハイデルベルク城にライン宮中伯の宮廷をおいた。 
    10世紀から11世紀頃に築城された城は200mの小高い丘の斜面にネッカー川を見下ろすように立っている。
    最初はヴォルムスの大司教の城館であったが、1225年にプファルツ伯ルートヴィヒ1世が城を買い取り、14世紀から17世紀前半の長い年月の間繰り返し改修されたと云う。この為、ゴシック、ルネッサンス、初期バロックなど様々な建築様式となっている。

    写真はハイデルベルク城:Merian作1645年

  • 17世紀にはいると三十年戦争、プファルツ継承戦争の2度にわたって大規模に破壊された為、プファルツ選帝侯カール・フィリップはこの城を捨て、マンハイムに宮廷を移した。<br /><br />その後、廃墟と化したハイデルベルク城は19世紀の詩人や画家などによるロマン主義の回復運動まで、眠ったように長い時を過ごしていった。<br /><br />写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城址の現在図

    17世紀にはいると三十年戦争、プファルツ継承戦争の2度にわたって大規模に破壊された為、プファルツ選帝侯カール・フィリップはこの城を捨て、マンハイムに宮廷を移した。

    その後、廃墟と化したハイデルベルク城は19世紀の詩人や画家などによるロマン主義の回復運動まで、眠ったように長い時を過ごしていった。

    写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城址の現在図

    ハイデルベルク城 城・宮殿

  • 城門から中庭に出て、正面にフリードリヒ館がある。<br />左下に大樽がある地下蔵があった。<br /><br />写真はハイデルベルク:フリードリヒ館・・・初めてハイデルベルク城の観光した1970年代、この前で集写真を撮った記憶がある。

    城門から中庭に出て、正面にフリードリヒ館がある。
    左下に大樽がある地下蔵があった。

    写真はハイデルベルク:フリードリヒ館・・・初めてハイデルベルク城の観光した1970年代、この前で集写真を撮った記憶がある。

  • まずは、ハイデルベルク城のテラス通称①“Balkon der Fuersten選帝侯のバルコニー”に出ると、この町の誇る景観・・・ネッカー川、旧市街、そして対岸の“哲学者の道”が見える。<br /><br />写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城址から哲学者の道を望む。哲学者の道は完全に緑の中に。

    イチオシ

    まずは、ハイデルベルク城のテラス通称①“Balkon der Fuersten選帝侯のバルコニー”に出ると、この町の誇る景観・・・ネッカー川、旧市街、そして対岸の“哲学者の道”が見える。

    写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城址から哲学者の道を望む。哲学者の道は完全に緑の中に。

  • 哲学者の道は完全に緑の中に埋もれてしまって、そこに道があるようには見えない。<br /><br />振り返れば、右からFriedrichsbauフリードリヒ館(選帝侯フリードリヒ4世の名をつけた)、Glaeserner Saalbauガラスの広間棟(ヴェネツィア・ガラスで飾られた鏡の広間があった)、鐘楼が目に入る。<br /><br />写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城址から聖霊教会の塔が見える旧市街を望む。

    哲学者の道は完全に緑の中に埋もれてしまって、そこに道があるようには見えない。

    振り返れば、右からFriedrichsbauフリードリヒ館(選帝侯フリードリヒ4世の名をつけた)、Glaeserner Saalbauガラスの広間棟(ヴェネツィア・ガラスで飾られた鏡の広間があった)、鐘楼が目に入る。

    写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城址から聖霊教会の塔が見える旧市街を望む。

  • 写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城下の町を望む。バルコニーから見る旧市街にHeiliggeistkirche聖霊教会の塔が見える。    

    写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城下の町を望む。バルコニーから見る旧市街にHeiliggeistkirche聖霊教会の塔が見える。    

  • 写真はハイデルベルク:ネッカー川をバックに

    写真はハイデルベルク:ネッカー川をバックに

  • 次に目指すのはやはりここ②Fassbau大樽棟だろうか! <br /><br />大樽棟を入ると右手に大樽が一つある。更に奥に行くと、一段と大きい黒光りした大樽が鎮座していた。<br /><br />写真はハイデルベルク:Fassbau大樽棟内で       

    次に目指すのはやはりここ②Fassbau大樽棟だろうか!

    大樽棟を入ると右手に大樽が一つある。更に奥に行くと、一段と大きい黒光りした大樽が鎮座していた。

    写真はハイデルベルク:Fassbau大樽棟内で       

  • この樽は130本の樫の幹を使って造られ、長さ9m、幅8m、容量は221,726Lと云われている。樽をぐるりと見て回れる階段が付き、右手の階段を上がると大樽の上は*平場になっていて、催しができる広さがある。<br /><br />*ハイデルベルク城の大樽の背後には、樽上に木製のテラスが接続されている。そこは美しい手すりに周囲を囲まれ、樽の両側には階段が付いていて、テラスに登る事が出来る。<br />以前はここで多くのお祝いの行事が行われたそうです。心地良くなった人々がワインのカップを掲げ、回し飲みして、楽団が愉快な曲を奏し、踊り手が踊りながら回ると、建物内は大きくこだましたと云う。<br /><br />写真はハイデルベルク: 長さ9m、幅8m、容量は221,726Lのワインの大樽の上から家内が手を振っている。 <br /><br />番外編・伝説:<br />①ハイデルベルクのワインの大樽から聞こえる幽霊音楽、<br />②ワイン樽の監視人を務めた道化師・小人ペルケオ<br />https://4travel.jp/travelogue/10990445

    イチオシ

    この樽は130本の樫の幹を使って造られ、長さ9m、幅8m、容量は221,726Lと云われている。樽をぐるりと見て回れる階段が付き、右手の階段を上がると大樽の上は*平場になっていて、催しができる広さがある。

    *ハイデルベルク城の大樽の背後には、樽上に木製のテラスが接続されている。そこは美しい手すりに周囲を囲まれ、樽の両側には階段が付いていて、テラスに登る事が出来る。
    以前はここで多くのお祝いの行事が行われたそうです。心地良くなった人々がワインのカップを掲げ、回し飲みして、楽団が愉快な曲を奏し、踊り手が踊りながら回ると、建物内は大きくこだましたと云う。

    写真はハイデルベルク: 長さ9m、幅8m、容量は221,726Lのワインの大樽の上から家内が手を振っている。 

    番外編・伝説:
    ①ハイデルベルクのワインの大樽から聞こえる幽霊音楽、
    ②ワイン樽の監視人を務めた道化師・小人ペルケオ
    https://4travel.jp/travelogue/10990445

  • 左手の階段を下りると、この大樽の前で18世紀半ばから現在まで、大きなワインの樽を見張っている小人がいる。彼の名は*Perkeoペルケオと言う。<br /><br />プファルツ選帝侯Karl III. Philipp カール3世フィリップ(在位:1716~1742年)の宮廷における道化師で、たいへんな大酒飲みだった。選帝侯がワイン樽の監視を命じたのはワイン好きのペルケオだったのが面白い。<br /><br />ペルケオ像の横に古い木箱があり、そこから輪が出ているので、皆が何かなと、これを引っ張る。すると中から狐のしっぽが飛び出してくるので、皆驚くのだが、このビックリ箱を作ったのが小人ペルケオだそうだ。<br /><br />(前述の伝説を参照)<br /><br />写真はハイデルベルク:Perkeoペルケオ像 

    左手の階段を下りると、この大樽の前で18世紀半ばから現在まで、大きなワインの樽を見張っている小人がいる。彼の名は*Perkeoペルケオと言う。

    プファルツ選帝侯Karl III. Philipp カール3世フィリップ(在位:1716~1742年)の宮廷における道化師で、たいへんな大酒飲みだった。選帝侯がワイン樽の監視を命じたのはワイン好きのペルケオだったのが面白い。

    ペルケオ像の横に古い木箱があり、そこから輪が出ているので、皆が何かなと、これを引っ張る。すると中から狐のしっぽが飛び出してくるので、皆驚くのだが、このビックリ箱を作ったのが小人ペルケオだそうだ。

    (前述の伝説を参照)

    写真はハイデルベルク:Perkeoペルケオ像 

  • 次に行ったのは③Deutschen Apothekenmuseumドイツ薬事博物館である。<br />元々はミュンヘンにあったものを、大戦で疎開していたバンベルクから1957年にここに移したもの。<br /><br />現在はApothekerturm薬局塔とOttoheinrichsbauオットー・ハインリヒ館にドイツ薬事博物館が置かれている。博物館の展示品の中心は鉱物・動物・植物で作られた医薬品コレクション(「マテリア・メディカ」)と云う事だが、中身はさっぱり分からない。<br /><br />写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内

    次に行ったのは③Deutschen Apothekenmuseumドイツ薬事博物館である。
    元々はミュンヘンにあったものを、大戦で疎開していたバンベルクから1957年にここに移したもの。

    現在はApothekerturm薬局塔とOttoheinrichsbauオットー・ハインリヒ館にドイツ薬事博物館が置かれている。博物館の展示品の中心は鉱物・動物・植物で作られた医薬品コレクション(「マテリア・メディカ」)と云う事だが、中身はさっぱり分からない。

    写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内

  • 子供薬局の名前の場所には親子が群がっていた。<br />ぐるりと見て回った博物館内は家庭医薬品や携帯用救急医薬品と、ゴシック時代やルネサンス時代の薬品保管容器や擂り鉢などである。<br /><br />この他に18世紀から19世紀の「オフィツィーネン」とよばれる4つの古い薬局施設を見学することができる(Wiki)・・・そうである。開館;8~18時。<br /><br />写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内・子供薬局

    子供薬局の名前の場所には親子が群がっていた。
    ぐるりと見て回った博物館内は家庭医薬品や携帯用救急医薬品と、ゴシック時代やルネサンス時代の薬品保管容器や擂り鉢などである。

    この他に18世紀から19世紀の「オフィツィーネン」とよばれる4つの古い薬局施設を見学することができる(Wiki)・・・そうである。開館;8~18時。

    写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内・子供薬局

  • 写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内

    写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内

  • 写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内

    写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内

  • 写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内・薬草室

    写真はハイデルベルク:ドイツ薬事博物館内・薬草室

  • ④Torturm城門塔から外に出て、城門塔に残る騎士と獅子像を見て、伝説:Der Hexenbiss 悪魔の一噛みの痕がある城門のリングもあるから面白い。<br /><br />この後は城館庭園やScheffelterrasseシェッフェル・テラス方向にちょっと足を伸ばしたが、歩き疲れと、人ごみの疲れに、さらに空腹も感じて引き返してしまった。城址を下り、旧市街に向かった。<br /><br />写真はハイデルベルク:Torturm城門塔<br /><br />番外編・伝説≪ハイデルベルク城址に残る2つの伝説・悪魔の一噛みと騎士の跳躍≫<br />https://4travel.jp/travelogue/10992145

    ④Torturm城門塔から外に出て、城門塔に残る騎士と獅子像を見て、伝説:Der Hexenbiss 悪魔の一噛みの痕がある城門のリングもあるから面白い。

    この後は城館庭園やScheffelterrasseシェッフェル・テラス方向にちょっと足を伸ばしたが、歩き疲れと、人ごみの疲れに、さらに空腹も感じて引き返してしまった。城址を下り、旧市街に向かった。

    写真はハイデルベルク:Torturm城門塔

    番外編・伝説≪ハイデルベルク城址に残る2つの伝説・悪魔の一噛みと騎士の跳躍≫
    https://4travel.jp/travelogue/10992145

  • <Altstadt旧市街の名所>    <br />12:35~14:40<br /><br />旧市街に向かって階段315段を下りる。登り下りも所要10分であった。<br />街は一段と観光客が増えたようだ。旧市街の中心であるマルクト広場には歴史的な見所も多い。<br /><br />①Rathaus市庁舎・Herkulesbrunnenヘラクレスの噴水:<br />新バロック様式の市庁舎や、ヘラクレスの噴水が見られ、広場ではパラソルの下で市民や観光客が寛いでいた。<br />この市庁舎は30年戦争後に建てられたが、建物自体は火災や戦災で罹災し、何度も再建されている。最終の再建は1961年。<br /><br />写真はハイデルベルク:Rathaus市庁舎・Herkulesbrunnenヘラクレスの噴水  

    <Altstadt旧市街の名所>    
    12:35~14:40

    旧市街に向かって階段315段を下りる。登り下りも所要10分であった。
    街は一段と観光客が増えたようだ。旧市街の中心であるマルクト広場には歴史的な見所も多い。

    ①Rathaus市庁舎・Herkulesbrunnenヘラクレスの噴水:
    新バロック様式の市庁舎や、ヘラクレスの噴水が見られ、広場ではパラソルの下で市民や観光客が寛いでいた。
    この市庁舎は30年戦争後に建てられたが、建物自体は火災や戦災で罹災し、何度も再建されている。最終の再建は1961年。

    写真はハイデルベルク:Rathaus市庁舎・Herkulesbrunnenヘラクレスの噴水  

    市庁舎(ハイデルベルク) 建造物

    ハイデルベルク:マルクト広場に面して、新バロック様式の市庁舎が立ち、広場中央にヘラクレスの噴水が見られる。 by jijidarumaさん
  • ②Das Haus zum Ritter騎士の家(1592年):<br /><br />現在はホテル・レストランとなっているが、赤茶けた、美しいルネサンス風建物である。実はここで昼食を予定していたが、結局中華の魅力に勝てずに、止めてしまった。中に一度入れば良かったと思うが・・・。<br />Romatik-Hotel Zum Ritter St.Georg;Hauptstr. 178 <br />http://www.ritter-heidelberg.de/<br /><br />写真はハイデルベルク:Das Haus zum Ritter騎士の家(ホテル・レストラン「騎士亭」)

    ②Das Haus zum Ritter騎士の家(1592年):

    現在はホテル・レストランとなっているが、赤茶けた、美しいルネサンス風建物である。実はここで昼食を予定していたが、結局中華の魅力に勝てずに、止めてしまった。中に一度入れば良かったと思うが・・・。
    Romatik-Hotel Zum Ritter St.Georg;Hauptstr. 178 
    http://www.ritter-heidelberg.de/

    写真はハイデルベルク:Das Haus zum Ritter騎士の家(ホテル・レストラン「騎士亭」)

    Hotel Zum Ritter St. Georg ホテル

    ハイデルベルク:聖ゲオルクに守られた騎士の家は赤茶けた、美しいルネサンス風建物である。次回は是非泊まってみたい佇まいがある。 by jijidarumaさん
  • ③Heiliggeistkirche聖霊教会(1398年):<br /><br />バロック様式の美しい尖塔をもち、代々のプファルツ選帝侯の墓所がある。<br />1410~1685年の間に、教会内に埋葬された選帝侯とその家族の墓は54を数えると云う。<br /><br />写真はハイデルベルク:Heiliggeistkirche聖霊教会     

    ③Heiliggeistkirche聖霊教会(1398年):

    バロック様式の美しい尖塔をもち、代々のプファルツ選帝侯の墓所がある。
    1410~1685年の間に、教会内に埋葬された選帝侯とその家族の墓は54を数えると云う。

    写真はハイデルベルク:Heiliggeistkirche聖霊教会     

    聖霊教会 寺院・教会

    ハイデルベルク:聖霊教会ではプファルツ選帝侯ループレヒト3世夫妻の寝棺が目立った。 by jijidarumaさん
  • この教会は三十年戦争の際、保管していた手書き本、選帝侯時代の古い印刷本をバイエルン公マクシミリアン1世に収奪されてしまったとある。<br /><br />写真はハイデルベルク:聖霊教会内

    この教会は三十年戦争の際、保管していた手書き本、選帝侯時代の古い印刷本をバイエルン公マクシミリアン1世に収奪されてしまったとある。

    写真はハイデルベルク:聖霊教会内

  • 中は実に飾り立ての無いシンプルなもので、唯一、選帝侯ご夫妻(神聖ローマ皇帝・ドイツ国王・プファルツ選帝侯Ruprecht IIIループレヒト3世;1352~1410年と、妃Elisabeth von Hohenzollern‐Nuernbergホーエンツォレルン・ニュルンベルク家のエリザベート;1358~1411年)の寝棺が目立った。<br /><br />ここからネッカー川畔に出た。<br /><br />写真はハイデルベルク:聖霊教会にある選帝侯ご夫妻の寝棺

    中は実に飾り立ての無いシンプルなもので、唯一、選帝侯ご夫妻(神聖ローマ皇帝・ドイツ国王・プファルツ選帝侯Ruprecht IIIループレヒト3世;1352~1410年と、妃Elisabeth von Hohenzollern‐Nuernbergホーエンツォレルン・ニュルンベルク家のエリザベート;1358~1411年)の寝棺が目立った。

    ここからネッカー川畔に出た。

    写真はハイデルベルク:聖霊教会にある選帝侯ご夫妻の寝棺

  • ④Alte Bruecke&Karlstorアルテ橋と門:<br /><br />現在のものは1788年完工。<br />1248 年の記録にあるアルテ・ブリュッケはハイデルベルクでももっとも古い部類に属する。全長およそ 220 m、古くは木造で屋根もあったが、その後の戦争や洪水で壊れ、18世紀後半、プファルツ選帝候Karl-Theodorカール・テオドールが石橋に建て替えた。<br /><br />従って、正式名称はカール・テオドール橋だ。<br />第二次世界大戦でも撤退するドイツ軍自身によって破壊されたが、1947年に再建された。現在のものは 8番目にあたると云う。<br /><br />門の塔の部分は 13 世紀城壁の一部として当時からあり、牢獄として使用された。夜間は門の落とし格子の柵が降り、他者を入れなかった。<br /><br />写真はハイデルベルク:アルテ橋の門の塔をバックに

    ④Alte Bruecke&Karlstorアルテ橋と門:

    現在のものは1788年完工。
    1248 年の記録にあるアルテ・ブリュッケはハイデルベルクでももっとも古い部類に属する。全長およそ 220 m、古くは木造で屋根もあったが、その後の戦争や洪水で壊れ、18世紀後半、プファルツ選帝候Karl-Theodorカール・テオドールが石橋に建て替えた。

    従って、正式名称はカール・テオドール橋だ。
    第二次世界大戦でも撤退するドイツ軍自身によって破壊されたが、1947年に再建された。現在のものは 8番目にあたると云う。

    門の塔の部分は 13 世紀城壁の一部として当時からあり、牢獄として使用された。夜間は門の落とし格子の柵が降り、他者を入れなかった。

    写真はハイデルベルク:アルテ橋の門の塔をバックに

    橋門 建造物

  • カール・テオドール像:<br /><br />1788 年に建立された。石橋を作ったテオドール候を記念して建てられたが、像の台座に4つの像が囲んでいる。<br />ヴィッテルスバッハ家が統治するライン川・ドナウ川・ネッカー川・モーゼル川を象徴したものだそうだ。<br /><br />ここでヴィッテルスバッハ家が何故出てくるかと云うと、Karl IV. Philipp Theodorカール4世フィリップ・テオドール(1724~1799年)はプファルツ選帝侯(在位:1743~1777年)の後にバイエルン選帝侯(在位:1777~1799年)となっている為である。<br /><br />つまり、ややこしい事に同じ人間にも拘わらず、身分が変わって、バイエルン選帝侯としてはKarl II Theodorカール2世テオドールと称した。<br /><br />バイエルンの名家ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降、ルートヴィヒ4世が家祖であるバイエルン系と、ルドルフ1世が家祖のプファルツ系に分系していたが、プファルツ系のカール・テオドールがバイエルン選帝侯の地位に着いた事で両系が統合された。<br /><br />ここで像が象徴するライン川・ドナウ川・ネッカー川・モーゼル川の意味が分かった。  <br /><br />http://www.heidelberg.de/<br /><br />写真はハイデルベルク:アルテ橋のカール・テオドール像

    カール・テオドール像:

    1788 年に建立された。石橋を作ったテオドール候を記念して建てられたが、像の台座に4つの像が囲んでいる。
    ヴィッテルスバッハ家が統治するライン川・ドナウ川・ネッカー川・モーゼル川を象徴したものだそうだ。

    ここでヴィッテルスバッハ家が何故出てくるかと云うと、Karl IV. Philipp Theodorカール4世フィリップ・テオドール(1724~1799年)はプファルツ選帝侯(在位:1743~1777年)の後にバイエルン選帝侯(在位:1777~1799年)となっている為である。

    つまり、ややこしい事に同じ人間にも拘わらず、身分が変わって、バイエルン選帝侯としてはKarl II Theodorカール2世テオドールと称した。

    バイエルンの名家ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降、ルートヴィヒ4世が家祖であるバイエルン系と、ルドルフ1世が家祖のプファルツ系に分系していたが、プファルツ系のカール・テオドールがバイエルン選帝侯の地位に着いた事で両系が統合された。

    ここで像が象徴するライン川・ドナウ川・ネッカー川・モーゼル川の意味が分かった。  

    http://www.heidelberg.de/

    写真はハイデルベルク:アルテ橋のカール・テオドール像

    カール テオドール橋 建造物

  • かの文豪ゲーテは“ここから(ネッカー川にかかるアルト・ブリュッケ=古橋)望む眺めには世界のいずれの橋も及ぶまい”と、ネッカー川に架かる橋、古城、背景の緑の丘、赤レンガ色の屋根が連なる町並み、この一体化した景観を褒め称えたと云う。<br /><br />写真はハイデルベルク:アルテ橋からネッカー川の遊覧船(以前乗った事がある)を見る。

    かの文豪ゲーテは“ここから(ネッカー川にかかるアルト・ブリュッケ=古橋)望む眺めには世界のいずれの橋も及ぶまい”と、ネッカー川に架かる橋、古城、背景の緑の丘、赤レンガ色の屋根が連なる町並み、この一体化した景観を褒め称えたと云う。

    写真はハイデルベルク:アルテ橋からネッカー川の遊覧船(以前乗った事がある)を見る。

  • 写真はハイデルベルク:アルテ橋にて城址をバックに撮って頂いた。

    写真はハイデルベルク:アルテ橋にて城址をバックに撮って頂いた。

  • この猿 とネズミ像は、かつて訪れた時は無かったと思う。<br />何時の間にか?ハイデルベルクの観光名所の一つになっていて、古い橋のカールの門の左手に、観光客の目を引いていた。<br /><br />観光客が鏡を撫でると、幸福になる。右手から延びた小指を撫でると、ハイデルベルクを再び訪ねる事が出来るのだそうだ。<br />観光客たちは写真を撮り、効験を期待して、撫でまくっている。勿論私共も・・・。<br /><br />15世紀にすでにアルテ・ブリュッケ(古い橋)傍に1匹の橋猿の事が言及されている。<br />ハイデルベルクを訪れる方々には是非、見逃すことなく、橋までおいで頂きたいものです。<br />この猿は憎悪、恥知らず、好色と虚栄心の象徴として作られている。猿の裸の尻は憎悪と好色さを象徴するのだそうです。そして、猿が左手に持つ円形の鏡は虚栄心、左の後足で持つ輪も同じような意味をしているそうだ。<br /><br />写真はハイデルベルク:アルテ・ブリュッケの猿と <br /><br />番外編:≪ハイデルベルク:アルテ・ブリュッケそばにある謎の猿とネズミ像≫<br />https://4travel.jp/travelogue/10992795  

    この猿 とネズミ像は、かつて訪れた時は無かったと思う。
    何時の間にか?ハイデルベルクの観光名所の一つになっていて、古い橋のカールの門の左手に、観光客の目を引いていた。

    観光客が鏡を撫でると、幸福になる。右手から延びた小指を撫でると、ハイデルベルクを再び訪ねる事が出来るのだそうだ。
    観光客たちは写真を撮り、効験を期待して、撫でまくっている。勿論私共も・・・。

    15世紀にすでにアルテ・ブリュッケ(古い橋)傍に1匹の橋猿の事が言及されている。
    ハイデルベルクを訪れる方々には是非、見逃すことなく、橋までおいで頂きたいものです。
    この猿は憎悪、恥知らず、好色と虚栄心の象徴として作られている。猿の裸の尻は憎悪と好色さを象徴するのだそうです。そして、猿が左手に持つ円形の鏡は虚栄心、左の後足で持つ輪も同じような意味をしているそうだ。

    写真はハイデルベルク:アルテ・ブリュッケの猿と 

    番外編:≪ハイデルベルク:アルテ・ブリュッケそばにある謎の猿とネズミ像≫
    https://4travel.jp/travelogue/10992795  

  • 猿は右の前手から、人差し指を伸ばし、小指を見る者に突き出し、邪悪な目は隠している様子に見える。<br />人間が猿を見て、あざ笑うと、それはそのまま嘲笑した人間をあざ笑うように、跳ね返る。<br /><br />写真はハイデルベルク:アルテ・ブリュッケの猿

    イチオシ

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    猿は右の前手から、人差し指を伸ばし、小指を見る者に突き出し、邪悪な目は隠している様子に見える。
    人間が猿を見て、あざ笑うと、それはそのまま嘲笑した人間をあざ笑うように、跳ね返る。

    写真はハイデルベルク:アルテ・ブリュッケの猿

    ハイデルベルクの猿の像 建造物

  • ゲルノート・ルンプフ教授が1979年に、猿の傍に2匹のネズミのブロンズ彫刻を置いた。(注;昔、近くに穀物倉庫があった。ネズミはその象徴と云う)<br />ネズミを撫でると、たくさんの子供を授かるといった意味だと云う。<br /><br />写真はハイデルベルク:訪れる人々をあざ笑う言葉とネズミたち

    ゲルノート・ルンプフ教授が1979年に、猿の傍に2匹のネズミのブロンズ彫刻を置いた。(注;昔、近くに穀物倉庫があった。ネズミはその象徴と云う)
    ネズミを撫でると、たくさんの子供を授かるといった意味だと云う。

    写真はハイデルベルク:訪れる人々をあざ笑う言葉とネズミたち

  • ハイデルベルクの町は多くの芸術家が訪れ、詩を書き、称えたと云う。<br />その事もさることながら、ハイデルベルクの名を世に知らしめ、19世紀の学生生活の象徴ともいえる次の作品群がある。<br /><br />Joseph Victor von Scheffelsヨーゼフ・ヴィクトール・シェッフェル作の詩『アルト・ハイデルベルク、麗しの街』(後に付曲され、ポピュラーな学生歌となった)、<br />Wilhelm Meyer-Froesterヴィルヘルム・マイヤー・フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』、<br />そして、フリードリフ・ライムントが1927年に作曲したオペレッタの曲『Ich hab&#39; mein Herz  in Heidelberg verloren。わが心、ハイデルベルクに失い』がある。<br /><br />写真はハイデルベルク:Alt-Heidelbergアルト・ハイデルベルク・皇太子の初恋<br /><br />番外編:≪Heidelbergハイデルベルグを歌う。≫<br />https://4travel.jp/travelogue/10999048

    ハイデルベルクの町は多くの芸術家が訪れ、詩を書き、称えたと云う。
    その事もさることながら、ハイデルベルクの名を世に知らしめ、19世紀の学生生活の象徴ともいえる次の作品群がある。

    Joseph Victor von Scheffelsヨーゼフ・ヴィクトール・シェッフェル作の詩『アルト・ハイデルベルク、麗しの街』(後に付曲され、ポピュラーな学生歌となった)、
    Wilhelm Meyer-Froesterヴィルヘルム・マイヤー・フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』、
    そして、フリードリフ・ライムントが1927年に作曲したオペレッタの曲『Ich hab' mein Herz in Heidelberg verloren。わが心、ハイデルベルクに失い』がある。

    写真はハイデルベルク:Alt-Heidelbergアルト・ハイデルベルク・皇太子の初恋

    番外編:≪Heidelbergハイデルベルグを歌う。≫
    https://4travel.jp/travelogue/10999048

  • フリードリフ・ライムントが1927年に作曲したオペレッタの曲『Ich hab&#39; mein Herz in Heidelberg verloren。わが心、ハイデルベルクに失い』がある。<br /><br />写真はハイデルベルク:Ich hab&#39; mein Herz in Heidelberg verlorenわが心、ハイデルベルクに失い<br />https://www.youtube.com/watch?v=BY5UBz5JlTw<br />(von Eva Lind, mit Bildern von Heidelberg und Heidelberger Schloss)<br /><br />尚、一番の歌詞とその意訳!は以下に。<br /><br />Es war an einem Abend,<br />Als ich kaum 20 Jahr&#39;.<br />Da kuesst&#39; ich rote Lippen<br />Und gold&#39;nes, blondes Haar.<br />Die Nacht war blau und selig,<br />Der Neckar silberklar,<br />Da wusste ich, da wusste ich,<br />Woran, woran ich war:<br /><br />私が20歳になったばかりの夕べでした。<br />ネッカーの畔で、私は彼女の赤いくちびるに、<br />見事な金髪に口づけしたのです。<br />夜は青く、私は天に昇った心地がし、<br />ネッカーは明るく銀色に輝いていたのを私は覚えている。<br />ネッカーの畔で、私がどんな風だったか、私は覚えている。:<br /><br />In einer lauen Sommernacht.<br />Ich war verliebt bis ueber beide Ohren<br />Und wie ein Roeslein hat ihr Mund gelacht.<br />Und als wir Abschied nahmen vor den Toren<br />Beim letzten Kuss, da hab ich&#39;s klar erkannt:<br />Dass ich mein Herz in Heidelberg verloren.<br />Mein Herz, es schlaegt am Neckarstrand.<br /><br />なま暖かい夏の夜、わが心をハイデルベルクに失う。<br />私は彼女に首ったけだったのに、<br />小さいバラのような彼女の口は笑った。<br />門の前で私たちは別れを告げ、<br />最後の口づけで、私は覚ったのです。<br />わが心をハイデルベルクに失ったことを。<br />わが心はネッカー川畔にあり。<br />

    フリードリフ・ライムントが1927年に作曲したオペレッタの曲『Ich hab' mein Herz in Heidelberg verloren。わが心、ハイデルベルクに失い』がある。

    写真はハイデルベルク:Ich hab' mein Herz in Heidelberg verlorenわが心、ハイデルベルクに失い
    https://www.youtube.com/watch?v=BY5UBz5JlTw
    (von Eva Lind, mit Bildern von Heidelberg und Heidelberger Schloss)

    尚、一番の歌詞とその意訳!は以下に。

    Es war an einem Abend,
    Als ich kaum 20 Jahr'.
    Da kuesst' ich rote Lippen
    Und gold'nes, blondes Haar.
    Die Nacht war blau und selig,
    Der Neckar silberklar,
    Da wusste ich, da wusste ich,
    Woran, woran ich war:

    私が20歳になったばかりの夕べでした。
    ネッカーの畔で、私は彼女の赤いくちびるに、
    見事な金髪に口づけしたのです。
    夜は青く、私は天に昇った心地がし、
    ネッカーは明るく銀色に輝いていたのを私は覚えている。
    ネッカーの畔で、私がどんな風だったか、私は覚えている。:

    In einer lauen Sommernacht.
    Ich war verliebt bis ueber beide Ohren
    Und wie ein Roeslein hat ihr Mund gelacht.
    Und als wir Abschied nahmen vor den Toren
    Beim letzten Kuss, da hab ich's klar erkannt:
    Dass ich mein Herz in Heidelberg verloren.
    Mein Herz, es schlaegt am Neckarstrand.

    なま暖かい夏の夜、わが心をハイデルベルクに失う。
    私は彼女に首ったけだったのに、
    小さいバラのような彼女の口は笑った。
    門の前で私たちは別れを告げ、
    最後の口づけで、私は覚ったのです。
    わが心をハイデルベルクに失ったことを。
    わが心はネッカー川畔にあり。

  • アルテ・ブリュッケ傍に嬉しい事に中華料理店があった。<br />中に入ってみると、私共だけだ。<br />ちょっと気になったが、中華の味をむしょうに欲する旅の後半・・食欲には勝てないのだ。但し、後で観光客らしいドイツ人カップルが1組来客した。<br /><br />写真はハイデルベルク:中華料理店・亜細亜

    アルテ・ブリュッケ傍に嬉しい事に中華料理店があった。
    中に入ってみると、私共だけだ。
    ちょっと気になったが、中華の味をむしょうに欲する旅の後半・・食欲には勝てないのだ。但し、後で観光客らしいドイツ人カップルが1組来客した。

    写真はハイデルベルク:中華料理店・亜細亜

    アジア 中華

  • <昼食:中華料理店・亜細亜で><br />12:50~13:40  Euro27(2,890円)<br />Haspelgasse2<br />飲み物:オレンジジュースX2。<br />料理:ワンタンスープ、北京スープ、春巻き小3個、鶏肉野菜入り炒飯。<br />いつもの注文パターンだが、塩気の強い味が妙にしっくりきた。<br /><br />写真はハイデルベルク:中華料理店・亜細亜

    <昼食:中華料理店・亜細亜で>
    12:50~13:40  Euro27(2,890円)
    Haspelgasse2
    飲み物:オレンジジュースX2。
    料理:ワンタンスープ、北京スープ、春巻き小3個、鶏肉野菜入り炒飯。
    いつもの注文パターンだが、塩気の強い味が妙にしっくりきた。

    写真はハイデルベルク:中華料理店・亜細亜

  • 聖霊教会から、ハウプト通りを西に行くと、大学広場が左手にある。<br />赤色砂岩で造られた大学図書館や有名な学生牢が周辺にある。<br /><br />⑤Alte Universitaetハイデルベルク旧大学とKarzer学生牢:<br /><br />ハイデルベルク大学はドイツ最古の大学(1386年創立)である。<br />Ruprecht-Karls-Universitaet Heidelbergルプレヒト・カール大学ハイデルベルクが大学の正式名称であり、プファルツ選帝侯ループレヒト3世とカール4世フィリップ・テオドールの名を取った。<br /><br />写真はハイデルベルク:Alte Universitaetハイデルベルク旧大学のStudenten Karzer学生牢

    聖霊教会から、ハウプト通りを西に行くと、大学広場が左手にある。
    赤色砂岩で造られた大学図書館や有名な学生牢が周辺にある。

    ⑤Alte Universitaetハイデルベルク旧大学とKarzer学生牢:

    ハイデルベルク大学はドイツ最古の大学(1386年創立)である。
    Ruprecht-Karls-Universitaet Heidelbergルプレヒト・カール大学ハイデルベルクが大学の正式名称であり、プファルツ選帝侯ループレヒト3世とカール4世フィリップ・テオドールの名を取った。

    写真はハイデルベルク:Alte Universitaetハイデルベルク旧大学のStudenten Karzer学生牢

    学生牢 建造物

  • この大学の卒業生でノーベル賞受賞者は10人(物理5・化学3・生理学医学2)。<br />この町は大学町と云っても良い。<br />ここで見るのは大学広場の裏手Augustinergasseアウグスト横丁に入口があるStudenten Karzer学生牢であろう。<br /><br />写真はハイデルベルク:学生牢

    この大学の卒業生でノーベル賞受賞者は10人(物理5・化学3・生理学医学2)。
    この町は大学町と云っても良い。
    ここで見るのは大学広場の裏手Augustinergasseアウグスト横丁に入口があるStudenten Karzer学生牢であろう。

    写真はハイデルベルク:学生牢

  • <Karzer学生牢><br />13:45~14:05  入場料Euro6  開館;10~16時。<br /><br />1712~1914年の間、使用された。<br />見るべきは天井や壁の落書きである。<br />当時の大学内は警察の介入を許さない大学自治が当たり前であったから、学生たちが街で騒ぎや犯罪を起こした場合、自分たちで処分をした。<br />その為の施設として学内に牢をもうけたのである。<br /><br />悪さをした学生を数日間入牢させ、食事は塩とパン、水のみを支給した。<br />入牢中に学生たちは牢の壁や天井などに隙間なく落書きをしたと云う。<br />それら200年間の積み重なった落書きは確かに見る者を驚かせる。<br />落書きは似顔絵・入牢理由・自分の所属する学生団の理想や旗、ユーモア・ウィットにとんだ言葉などだそうた。<br /><br />写真はハイデルベルク:学生牢

    <Karzer学生牢>
    13:45~14:05  入場料Euro6  開館;10~16時。

    1712~1914年の間、使用された。
    見るべきは天井や壁の落書きである。
    当時の大学内は警察の介入を許さない大学自治が当たり前であったから、学生たちが街で騒ぎや犯罪を起こした場合、自分たちで処分をした。
    その為の施設として学内に牢をもうけたのである。

    悪さをした学生を数日間入牢させ、食事は塩とパン、水のみを支給した。
    入牢中に学生たちは牢の壁や天井などに隙間なく落書きをしたと云う。
    それら200年間の積み重なった落書きは確かに見る者を驚かせる。
    落書きは似顔絵・入牢理由・自分の所属する学生団の理想や旗、ユーモア・ウィットにとんだ言葉などだそうた。

    写真はハイデルベルク:学生牢

  • 落書きはとりわけ1901年7月2日から7日まで投獄されていた学生5人が描いた図が目を引いた。<br />図の上部にはEiner fuer Alle, Alle fuer Einen!「一人は皆の為に、皆は一人の為に!」とあり、下部に名前らしきものと、“勿論、無罪だ!”とありました。<br /><br />「一人は皆の為に、皆は一人の為に」の言葉はいろんな場面で今もよく使われていますが、この言葉がフランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説『三銃士』(1844年版)に出典があるとは、知りませんでした。<br />仏語では&quot;un pour tous, tous pour un&quot;と言うそうです。<br />この落書きの言葉を調べて、思わぬ勉強となった次第です。<br /><br />『D&#39;Artagnanダルタニャン物語』は三部作で構成され、第一部が『三銃士』でガスコーニュ出身の田舎貴族ダルタニャンとアトス・ポルトス・アラミス三銃士が活躍する物語で、第2部『二十年後』(1845年刊)、第3部『ブラジュロンヌ子爵』』(1851年刊)と続きます。<br />多分多くの人は、第一部はよく知っているでしょう。<br /><br />写真はハイデルベルク:学生牢、中央の上にEiner fuer Alle, Alle fuer Einen!「一人は皆の為に、皆は一人の為に!」

    イチオシ

    落書きはとりわけ1901年7月2日から7日まで投獄されていた学生5人が描いた図が目を引いた。
    図の上部にはEiner fuer Alle, Alle fuer Einen!「一人は皆の為に、皆は一人の為に!」とあり、下部に名前らしきものと、“勿論、無罪だ!”とありました。

    「一人は皆の為に、皆は一人の為に」の言葉はいろんな場面で今もよく使われていますが、この言葉がフランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説『三銃士』(1844年版)に出典があるとは、知りませんでした。
    仏語では"un pour tous, tous pour un"と言うそうです。
    この落書きの言葉を調べて、思わぬ勉強となった次第です。

    『D'Artagnanダルタニャン物語』は三部作で構成され、第一部が『三銃士』でガスコーニュ出身の田舎貴族ダルタニャンとアトス・ポルトス・アラミス三銃士が活躍する物語で、第2部『二十年後』(1845年刊)、第3部『ブラジュロンヌ子爵』』(1851年刊)と続きます。
    多分多くの人は、第一部はよく知っているでしょう。

    写真はハイデルベルク:学生牢、中央の上にEiner fuer Alle, Alle fuer Einen!「一人は皆の為に、皆は一人の為に!」

  • ハイデルベルクのBurschenschaft学生団にはAlemanneアレマン学生団、Teutoneチュートン学生団、Frankoniaフランコニア学生団など多くの学生団があったと云う。<br />活動の仕方は変ったのでしょうが、今でも学生団は実在しています。<br /><br />写真はハイデルベルク:学生牢

    ハイデルベルクのBurschenschaft学生団にはAlemanneアレマン学生団、Teutoneチュートン学生団、Frankoniaフランコニア学生団など多くの学生団があったと云う。
    活動の仕方は変ったのでしょうが、今でも学生団は実在しています。

    写真はハイデルベルク:学生牢

  • 当時の学生団は学生たちの一種の自治組織であり、中世以来の伝統をもつ。<br />其々の学生団は落書きに見られるような学帽、制服、肩からかけるリボンをつけ、定期的に会合やコンパを開く。コンパでは大ジョッキのビールを呑み、学生歌を斉唱するのだそうです。<br />それは日本での古くはバンカラ旧制高校生、昭和時代の大学運動部の姿を見るようである。  <br /><br />写真はハイデルベルク:学生牢も丹念に見たら、面白いものが見つけられるかもしれない。

    当時の学生団は学生たちの一種の自治組織であり、中世以来の伝統をもつ。
    其々の学生団は落書きに見られるような学帽、制服、肩からかけるリボンをつけ、定期的に会合やコンパを開く。コンパでは大ジョッキのビールを呑み、学生歌を斉唱するのだそうです。
    それは日本での古くはバンカラ旧制高校生、昭和時代の大学運動部の姿を見るようである。  

    写真はハイデルベルク:学生牢も丹念に見たら、面白いものが見つけられるかもしれない。

  • ⑥Hexenturm魔女の塔:<br />1392年に町の西側の保塁(中世の都市防衛施設)として建てられた。<br />かつては魔女や盗賊たちの牢獄に使用された為、この名がある。<br />大学広場の南側にあり、20世紀になって、第一次大戦に倒れた学生の記念の場であり、今は新大学の事務局などがある。<br /><br />写真はハイデルベルク:新大学中庭に面して建つ、中世の都市防衛施設の遺構Hexenturmヘクセントゥルム=魔女の塔

    ⑥Hexenturm魔女の塔:
    1392年に町の西側の保塁(中世の都市防衛施設)として建てられた。
    かつては魔女や盗賊たちの牢獄に使用された為、この名がある。
    大学広場の南側にあり、20世紀になって、第一次大戦に倒れた学生の記念の場であり、今は新大学の事務局などがある。

    写真はハイデルベルク:新大学中庭に面して建つ、中世の都市防衛施設の遺構Hexenturmヘクセントゥルム=魔女の塔

  • 学生牢の落書きに吃驚したまま、リーメンシュナイダーの12人の使徒祭壇や50万年前の原始人ハイデルベルク人の関係資料などがあるプファルツ選帝侯博物館を見忘れてしまい、ハウプト通りを戻ってしまった。<br /><br />写真はハイデルベルク:大学広場    

    学生牢の落書きに吃驚したまま、リーメンシュナイダーの12人の使徒祭壇や50万年前の原始人ハイデルベルク人の関係資料などがあるプファルツ選帝侯博物館を見忘れてしまい、ハウプト通りを戻ってしまった。

    写真はハイデルベルク:大学広場    

  • 聖霊教会からアルテ・ブリュッケに向かう横丁には、途中の左手にハイデルベルクの名物店がある。<br /><br /><Cafe-Konditorei Knoeselカフェ・コンディトライ・クネーゼル><br />14:30~14:45<br />Haspelgasse20(日曜日は12:00~22:00)  <br />Im Parkhaus am Kornmarkt / Schloss (P12).から800m。<br />http://www.cafek-hd.de/<br /><br />*1863年創業。“Heidelberger-Studentenkussハイデルベルク学生の口づけ” という洒落たネーミングの手作りチョコレートが名物。<br /><br />・Heidelberger-Studentenkuss“ハイデルベルク学生の口づけ”という洒落たネーミングの手作りチョコレートを大2・小5を購入。<br /><br />Cafe-Knoeselカフェ・クネーゼルのオリジナル品で、その昔、カフェのオーナーが学生の恋心を思って、その気持ちを伝えるために作ったのが、このチョコレートだと云う。<br />包みの中はメダル型のチョコレートが入っていました。<br />早速二つに割って試食しました。ワッフルにヌガーチョコ、ちょっと甘めのチョコレートで包んだ味は美味しい。<br /><br />それに女店主からお薦めあったHACHEZハッチェス・チョコレート-ココアダリバCocoa D&#39;ARRIBA というカカオ配合77%オレンジ味、ガーナ・チョコレートKuapa Chocolate72%、J.D.GROSS社のEdelschokoladenstaebchen・ARRIBA Superieur 高純度81%などのチョコレート各種5。<br />今まで食べた事のない高純度チョコレートは店主曰く、ワインに合うとのことでしたので、帰国して早速、試してみた。上上の味わいでした。:Euro48.2<br /><br />写真はハイデルベルク:チョコレート菓子“ハイデルベルク学生の口づけ”<br /><br />番外編・伝説:Der Heidelberger Studentenkussハイデルベルク学生の口づけの由来<br />https://4travel.jp/travelogue/10994403

    イチオシ

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    聖霊教会からアルテ・ブリュッケに向かう横丁には、途中の左手にハイデルベルクの名物店がある。

    <Cafe-Konditorei Knoeselカフェ・コンディトライ・クネーゼル>
    14:30~14:45
    Haspelgasse20(日曜日は12:00~22:00)  
    Im Parkhaus am Kornmarkt / Schloss (P12).から800m。
    http://www.cafek-hd.de/

    *1863年創業。“Heidelberger-Studentenkussハイデルベルク学生の口づけ” という洒落たネーミングの手作りチョコレートが名物。

    ・Heidelberger-Studentenkuss“ハイデルベルク学生の口づけ”という洒落たネーミングの手作りチョコレートを大2・小5を購入。

    Cafe-Knoeselカフェ・クネーゼルのオリジナル品で、その昔、カフェのオーナーが学生の恋心を思って、その気持ちを伝えるために作ったのが、このチョコレートだと云う。
    包みの中はメダル型のチョコレートが入っていました。
    早速二つに割って試食しました。ワッフルにヌガーチョコ、ちょっと甘めのチョコレートで包んだ味は美味しい。

    それに女店主からお薦めあったHACHEZハッチェス・チョコレート-ココアダリバCocoa D'ARRIBA というカカオ配合77%オレンジ味、ガーナ・チョコレートKuapa Chocolate72%、J.D.GROSS社のEdelschokoladenstaebchen・ARRIBA Superieur 高純度81%などのチョコレート各種5。
    今まで食べた事のない高純度チョコレートは店主曰く、ワインに合うとのことでしたので、帰国して早速、試してみた。上上の味わいでした。:Euro48.2

    写真はハイデルベルク:チョコレート菓子“ハイデルベルク学生の口づけ”

    番外編・伝説:Der Heidelberger Studentenkussハイデルベルク学生の口づけの由来
    https://4travel.jp/travelogue/10994403

    クネーゼル 専門店

    「ハイデルベルク学生の口づけ」 という洒落たネーミングの手作りチョコレートがクネーゼルの名物、お土産にどうぞ!。 by jijidarumaさん
  • アルト・ハイデルベルク  ;<br />マイヤー・フェルスター  (丸山匠さん訳 岩波文庫)<br /><br />栄光あるわが麗しの町よ <br />ネッカーのほとり <br />ラインのほとりに <br />くらべるものとてなし <br />心楽しき仲間の集う町 <br />知恵にあふれ <br />美酒にあふる <br /><br />・・・<br />≪アルト・ハイデルベルクAlt-Heidelberg≫ マイヤー・フェルスター作は<br />先の番外編:≪Heidelbergハイデルベルグを歌う。≫をご参照。<br />https://4travel.jp/travelogue/10999048<br /><br />『アルト・ハイデルベルク』はドイツの地でも忘れかけている作品と云われているが、日本人の情感に訴えるものがあって、いまだに日本人には忘れがたい作品である。<br />手元の紀行文“馬車よ、ゆっくり走れ(1971年初版)”の中でも、“ドイツ学派”の画家と称される東山魁夷氏は『マイヤー・フェルスター作「アルト・ハイデルベルク」が、感傷的な、見せかけだけの青春劇であるとしても、私はそれを観て涙を流さずにはいられないだろう。』と書かれている。<br /><br />写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城Carl Rottmannカール・ロットマン1815年作<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />この後、13km先のシュパーゲルの産地であるSchwetzingenシュヴェツィンゲンに向かう。

    アルト・ハイデルベルク  ;
    マイヤー・フェルスター  (丸山匠さん訳 岩波文庫)

    栄光あるわが麗しの町よ
    ネッカーのほとり
    ラインのほとりに
    くらべるものとてなし
    心楽しき仲間の集う町
    知恵にあふれ
    美酒にあふる

    ・・・
    ≪アルト・ハイデルベルクAlt-Heidelberg≫ マイヤー・フェルスター作は
    先の番外編:≪Heidelbergハイデルベルグを歌う。≫をご参照。
    https://4travel.jp/travelogue/10999048

    『アルト・ハイデルベルク』はドイツの地でも忘れかけている作品と云われているが、日本人の情感に訴えるものがあって、いまだに日本人には忘れがたい作品である。
    手元の紀行文“馬車よ、ゆっくり走れ(1971年初版)”の中でも、“ドイツ学派”の画家と称される東山魁夷氏は『マイヤー・フェルスター作「アルト・ハイデルベルク」が、感傷的な、見せかけだけの青春劇であるとしても、私はそれを観て涙を流さずにはいられないだろう。』と書かれている。

    写真はハイデルベルク:ハイデルベルク城Carl Rottmannカール・ロットマン1815年作

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    この後、13km先のシュパーゲルの産地であるSchwetzingenシュヴェツィンゲンに向かう。

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