2012/05/15 - 2012/05/29
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- #アイヒャッハ
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《Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅》
期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅
5月22日(火); 晴、25℃、245km 5月22日(火); 晴、25℃、245km
7時起床。8時10分~8時40分朝食・散策。ハールブルク城内のガイド見学に参加した。10:00~11:00。
ハールブルク城を11時10分に出発。->B25 15km (Donauwoerthドナウヴェルト)->B2(Meitingenマイティンゲン)・L? 21km Thierhauptenティエルハウプテンで給油->L? 26km Aichachアイヒャッハ・Sisi Schlossに到着・見学 12:10~13:10->L?・B300 24km Friedbergフリートベルクに到着・見学 13:30~13:50 ->L?・A8 51km Jettingen-Scheppachイェッティンゲン・シェップパッハ・Schloss Jettingenイェッティンゲン城に到着・見学 14:40~14:50->A8・B19 48km Ulmウルムに到着・見学 15:45~16:30->B19・A7(Langenau-Albeck)・B466(Nattheim)・L? 60km Katzensteinカッツェンシュタインに17:40着。(⑧Burg Katzenstein)
写真はアイヒャッハのSisi Schlossシシーの城の小冊子
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
ハールブルク城から、Donauwoerthドナウヴェルトを経由し、MeitingenマイティンゲンでB2に分かれ、36kmにある Thierhauptenティエルハウプテン・Agipスタンドで第2回目(Euro65.95=41.77L)の給油を行う。
さらに、26kmを行くと、 Aichachアイヒャッハ・Sisi Schlossシシーの城の裏手にある駐車場に到着した。
写真は Wittelsbacher Landヴィッテルスバッハ地方・ Aichachアイヒャッハ・Sisi-Schloss Unterwittelsbachシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城の地図 -
写真はWappen_von_Aichachアイヒャッハの紋章
図柄は 銀地に根を張った緑のオークの木、金色の実をつけている。
アイヒャッハの紋章は、オーク (Eiche = アイヒェ) の木が描かれ、町の名を示しているが、名前はもともと「オークの森の近くにある定住地」を意味している。 -
<Aichachアイヒャッハ>
アイヒャッハはWittelsbacher Landヴィッテルスバッハ地方の中心に位置し、凡そ1000年の歴史を有する人口2万人の町だ。
Paarパール川(ドナウの支流・全長134km)沿いにあり、アウクスブルクからレーゲンスブルクを結ぶ街道沿いにある
アイヒャッハは1384年までドイツ騎士団の司令部所在地であった。
三十年戦争の1634年、アイヒャッハは包囲戦の後、町は焼失した。
市庁舎、市壁や市門が一部残っている旧市街、ウンターヴィッテルスバッハの水城が見所だが、今日はともかく、この水城を見たい。
http://www.aichach.de/
写真は Wittelsbacher Landヴィッテルスバッハ地方のAichachアイヒャッハの位置 -
ウンターヴィッテルスバッハ城はアイヒャッハの北部ウンターヴィッテルスバッ地区に位置する。
アイヒャッハの旧市街からも数キロとそれほど離れていないが、ドイツは町を離れると森があり、ここも前述の紋章に書いた「オークの森の近くにある定住地」の意味がよく分かる、森の中にあった。
写真は「オークの森の近くにある定住地」の意味がよく分かる、森の中のSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城・・・俯瞰 -
≪絶世の美女・皇妃エリザベートの城;Sisi-Wasserschlossシシーの水城≫
Sisi-Wasserschlossシシーの水城は≪"Sisi-Schloss"Wasserschloss in Unterwittelsbach ウンターヴィッテルスバッハの水城≫といった表現もする。
正式にはSchloss Unterwittelsbachウンターヴィッテルスバッハ城というようだ。
文中では短い「シシーの水城」を使った。
旅行前に地図を見ながら、ヒトラー暗殺未遂事件を起こしたシュタウフェンベルク伯爵の生まれた城と、バイエルン公爵家の幼少期の王女・後のオーストリア皇妃エリザベート(Sisiシシー)が一家で過ごした城をこの地域に見つけて、是非訪れてみたいと思った。
しかも2011年の春に行った旧東独の旅で、皇妃の母ルドヴィカの伯母であるプロイセン王妃・Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカの名を皇妃エリザベート(Sisiシシー)に与えられたと知っていたからでした。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城・・・イメージ -
シシーの水城は写真で見ていましたが、かつてのJagtschlossヤークトシュロス(狩猟館)も館風なもので、もちろん古城といったイメージはありません。
濠を渡ると右に礼拝堂、その先に本館がある。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:側面から -
その点は残念でしたが、ここは「シシーの水城」が大事ですから、自ら納得して橋を渡り、右に礼拝堂、中央にかつての狩猟の館であった本館に至りました。
今も本館は周囲を濠に囲まれていたが、水藻で汚れた水濠はいささかシシーには似合わない思いがした。
1838年から1958年まで一族が居住したそうである。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:本館、礼拝堂城館横に美しい礼拝堂、 -
「シシーの水城」
12:10~13:10 入場券Euro7
ウンターヴィッテルスバッハの水城は1126年の歴史文書に記録が残っているが、1838年にオーストリア皇妃エリザベートの父・マクシミリアン・ヨーゼフ・バイエルン公爵が購入した事で後の世にその名が残った。
水城を中心にした周辺一帯は3つの池を含み、56千㎡の自然公園になっている。
案内書にはKaiserin von Oesterreich Elisabethオーストリア皇妃エリザベート(1837~1898)・愛称Sisiシシーの城として良く知られていると書かれていたが、私共には初めての訪れである。
ここは誠に小さな城館であり、シシーがかつてここで過ごした事が無ければ、歴史のかなたに忘れられていたでしょう。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:小さな本館正面 -
ここで小さなシシーが、父Maxマックス公と母Ludowikaルドヴィカ公妃(1808~1892年)、姉のHelene.ヘレーネ王女や兄弟姉妹と共に滞在したこと、小さなシシーが、城内の庭園をお気に入りのポニーに乗って、乗馬の練習をして過ごしたのだと・・・。
シシーはウンターヴィッテルスバッハの頃から馬好きで、オーストリア皇妃となった後も旅先に愛馬を伴っている。皇妃の颯爽とした乗馬姿は絵画や写真に多く残されているのを良く見ることでしょう。
小さなシシーの幼年期の間、何一つの心配も無く、静かな夏の日をこの城に過ごしたようである。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:かつての城の模型 -
3階建てのかつてのJagdschloss狩猟の館内は特別展・『Sisi und die starken Frauenシシーとたくましき女性たち』(5月12日~11月4日)が開かれていた。
勿論シシーを中心としたもので、シシーと同じパプスブルク家の実力者女帝マリア・テレジア、女王クレオパトラ、アレクサンドリアの聖カタリナ(287~305年・殉教者)、アンゲリカ・カウフマン(1741~1807年・画家)など、そこには良く知らない名前もあったが・・・。
彼女らは単に男勝りで、男を従えていただけでなく、ファッション、文化、時代の好尚に大いに影響を与えたと云う。
シシーのダイエットプログラムは今も時代と共にあり、乗馬・運動(散歩)などのスポーツ好きは伝説的でもある。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:ヴィッテルスバッハ家の歴代の像 -
ヴィッテルスバッハ家の歴代の像、シシーの玉座、シシーが特別にあつらえたと云う食器、過剰な模様の椅子、マクシミリアン・ヨーゼフ公爵一家の写真、シシーの若い頃の絵、宝石類、ファッショナブルな皇妃の衣装、ローマの木彫りの兵士が2体等を順に見た。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:シシーの玉座 -
イチオシ
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:シシーが特別にあつらえたと云う食器
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イチオシ
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:なかなか見たことが無い模様の椅子
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≪マクシミリアン・ヨーゼフ公爵一家≫
1837 年12 月24 日、バイエルン王国の首都ミュンヘンでヴィッテルスバッハ公家に女の子が誕生した。父Herzog Max in Bayern (正式にはHerzog Maximilian Joseph in Bayernマクシミリアン・ヨーゼフ・バイエルン公爵はヴィッテルスバッハ分家の長。母ルドヴィカはバイエルン王マクシミリアン1世の王女である。
クリスマス・イブに生まれた、この第4子は母ルドヴィカの伯母であるプロイセン王妃Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカ(1801~1873年)から名前をもらいエリザベートと名づけられた。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:マクシミリアン・ヨーゼフ公爵一家の写真 -
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:シシーの若い頃の絵、宝石類、
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イチオシ
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:ファッショナブルな皇妃の衣装・・・すごくウエストが細いドレス。現代女性に通ずるものがありますが、ウィーンの王宮にあるシシーの体操器具を見てみると、納得します。
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写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:ローマの木彫りの兵士が2体
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イチオシ
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:St. Ulrich, Afra und Maria 聖ウルリヒ、アフラ、マリア礼拝堂正面
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小さな礼拝堂ですが、礼拝堂内は美しい。シシーの一族の歴史にとっては大事なものだったでしょう。
写真はSisiシシー・ウンターヴィッテルスバッハの水城:St. Ulrich, Afra und Maria 聖ウルリヒ、アフラ、マリア礼拝堂内 -
さて、そのシシーの父マクシミリアン・ヨーゼフ・バイエルン公爵・1808~1888年)、バイエルンのマックス公爵が夏の離宮のウンターヴィッテルスバッハの水城で過ごした1838~1888年が、彼の最も輝ける時代であったと云う。
マクシミリアン公夫妻は男4人女5人=9人の子供をもうけた。
長男Ludwig Wilhelmルートヴィヒ・ヴィルヘルム(女優と貴賤結婚をし、公爵位を放棄)、
次男Wilhelm Karlヴィルヘルム・カール(早逝)、
長女Helene Karoline Thereseヘレーネ・カロリーネ・テレーゼ(トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人)、
次女エリザベート(オーストリア皇妃)、
3男Carl Theodorカール・テオドール(バイエルン公:眼科医)、
3女Maria Sophie Amalieマリー・ゾフィー・アマリエ(両シチリア;南イタリアのシチリア王国とナポリ王国の総称;王フランチェスコ2世の王妃・イタリア統一戦争時において「ガエータ城塞の戦士女王」と呼ばれた)、
4女Mathilde Ludovikaマチルダ・ルドヴィカ(両シチリア王フランチェスコ2世の最年長の異母弟にあたり、相続位第一の王子であるトラーニ伯ルイジの妻)、
4男Maximilian Emanuelマクシミリア・エマヌエル(バイエルン王家傍系出身の騎兵軍人、バイエルン王国議会議員、バイエルン公)。
5女Sophie Charlotte Auguste in Bayernゾフィー・シャルロッテ・アウグステ・イン・バイエルン(仏・アランソン公爵妃)
XXX
写真はバイエルンのマックス公爵と家族・1854年 -
アイヒャッハの町の人たちはこんな素敵なエピソードを言い伝えている。
『ある時、小さなシシーが父マックス公と、街中の酒場にやって来て、マックス公がZitherチター(弦楽器)を奏で、曲に合わせてシシーが踊ったと。
踊った後に、シシーは小さな帽子をもって皆の前を回りお金を集めたと云う。
そして、シシーは帰城した後、彼女の侍女にお金の入ったバッグを見せて、嬉しそうに、これまで彼女が得た唯一のお金であると云ったそうです』
写真はバイエルンのマックス公爵(Sisiシシーの父)のチター演奏 -
写真はZitherチター(弦楽器)
-
シシーが長じてのち、その美貌を謳われたが、皇紀エリザベートについて作家の塚本哲也さん曰く、シシーの美しさを表して
「典雅、崇高、気品、威厳、端麗、魅惑、孤高、ロマンチシズムと、いかなる言葉を並べても表現できない存在感を持って、見る者を金縛りにした」と書かれている。
シシーの最も美しい写真と云われています。正面の写真でない所にとりわけ美意識が感じられるものですが、ドレスは現代でも十分通用します。
写真はオーストリア皇妃エリザベート(Sisiシシー)の有名な絵・Winterhalterヴィンターハルター作品 -
写真は皇妃エリザベートの有名な絵
ご参考:
『エリザベートの愛称はなぜシシー?』について書かれたプログ
http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/sissi-episode10.htm -
写真は皇妃エリザベートと女優Romy Schneiderロミー・シュナイダー
ロミー・シュナイダーの代表作と言うと、『Sissiプリンセス・シシー』(1955年)制作の映画が上がりますが、いささか不思議な気がする。
明らかにシシーの気品の方に軍配を上げます。 -
写真はStarnberger Fuenf-See-Land・この地方の地図
Oberbayernのこの辺りは湖水地方でもある。
Starnberger Fuenf-Seen-Landと称されている。(シュタルンベルグの5つの湖地方;即ちStarnbergersee、Ammersee・Der Bauernsee農民の湖の異名あり、湖面47平方kmと二番目の大きな湖、Woerthsee、Pilsensee、Wesslingerseeの5つである。)大都会のミュンヘンと独逸アルプスの中間に位置している。
その三分の二が自然保護地区になっていて、陽光あふれる湖畔は夢のような休暇を過ごすことができる。
シュタルンベルグ湖はDer Fuerstensee(領主の湖)とも称されて、これから訪れるChiemseeに次ぐ、バイエルンで2番目に大きい湖(周囲50km、長さ21km、幅2~5km、最深127m、湖面57平方km)である。ヨット、ボート、水泳、釣り、観光船での周遊、Roseninsel Woerthのバラ園・カジノを楽しむことができる。また、周辺には見所も多く、バイエルン王国のル-ドヴィヒ2世(1886年6月13日、Bergでの不慮の死)を悼む湖畔の十字架、車で20分と近い州都ミュンヘン、1時間でドイツ最高峰・Zugspitze(2962m)のドイツアルプス山麓の町Garmisch-Partenkirchenに至るといった、ドイツ屈指のリゾート地である。 -
写真は バイエルン・シュタルンベルク湖畔に立つSchloss Possenhofenポッセンホーフェン城:皇妃エリザベートの誕生地
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子供時代をこの近くのSchloss Possenhofenポッセンホーフェン城で過ごしたエリザベ-トはこの地を愛して、オーストリア皇妃になってからも、しばしばバイエルン・シュタルンベルガーゼー湖(ミュンヘンから西に凡そ30km)の地を多数の随行員と愛馬と共に訪れた由です。
故郷に皇妃エリザベートが愛したホテル、お気に入りのGolfhotel Kaiserin Elisabethゴルフホテル皇妃エリザベート(Feldafingフェルダフィング)があります。
このゴルフホテル皇妃エリザベートで24回の夏を過ごし、それは都度、数週間も滞在したとのことです。皇妃のまた従兄弟に当たるバイエルン王国のル-ドヴィヒ2世ともこの地でよくお会いになり、1886年6月13日、王のBergベルク(Feldafingフェルダフィングの対岸:先の地図参照)での不慮の死には、この地から皇妃は駆けつけたとの話も残っています。
皇妃が最後の夏を過ごされたのは1894年ですが、ホテルのその長い歴史の中で、もっとも著名なお客様と言えましょう。
写真はKaiserin Elisabeth皇妃エリザベートの乗馬姿 -
ホテル近くにある散策道も湖畔(今はゴルフ場にもなっています)に沿った起伏のある道ですが、皇妃はお供が付いていけないような速足で歩いたとか・・・。
写真はエリザベートゆかりのスイス風ホテルGolfhotel Kaiserin Elisabethゴルフホテル皇妃エリザベートの前景・Fedafing 、Tutzingerstr.2ゴルフホテル カイザリン エリザベス ホテル
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このホテルの庭からも、ドイツアルプスが湖の先に白く遠望できます。
この庭にはオーストリア・ハンガリー帝国の皇妃エリザベ-トの座像があり、ホテルの正面テラスレストランから良く見える小高くなった場所に置かれています。
ここで皇妃は座りながら、物思いにふけっていたそうです。
写真はゴルフホテル皇妃エリザベートの庭に置かれた皇妃エリザベートの座像 -
以下は皇妃エリザベートの家系が美形の家系であることがよくわかる。
写真はカロリーネ・フォン・バーデン・・・シシーの祖母
バイエルン王マクシミリアン1世の2番目の妻で最初のバイエルン王妃。
バーデン大公子カール・ルートヴィヒと妃アマーリエ(ヘッセン・ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の娘)の娘として、カールスルーエで生まれた。
バイエルン王との間で、2組の双子を含め8子が生まれた。 -
写真はシシーの母ルドヴィカ妃の伯母プロイセン王妃Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカとプロイセン王Friedrich Wilhelm IVフリードリヒ・ヴィルヘルム4世・・・シシーは伯母のエリザベートの名を付けたと云う。
バイエルン王妃カロリーネ・フォン・バーデンの娘・双子の姉。
プロイセン王妃Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・ルドヴィカについては以下に旅行記で書いた。
≪プロイセン王の一目ぼれDie Liebe auf den ersten Blick≫
http://4travel.jp/travelogue/10861035
≪バウムクーヘン発祥の地とプロイセン王ヴィルヘルム4世≫
http://4travel.jp/travelogue/10862303 -
写真はPotsdamポツダム≪Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウス・・・この2階にはミシュラン1星のグルメレストランがある。
ROMANTIK Hotel Bayrisches Haus Potsdam ホテル
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写真はオーストリア大公妃ゾフィー (シシーの伯母であり義母でもあった)
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写真はマリア・アンナ・フォン・バイエル(ザクセン王妃)
・・・シシーの伯母オーストリア大公妃ゾフィー と双子 -
写真はヘレーネ・イン・バイエルン(シシーの姉・トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人)・・・郵便侯爵として知られるFuersten von Thurn und Taxis トゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)は郵便事業をヨーロッパで独占的に行っていた。また、皇妃エリザベートの姉ヘレーネとの結婚で、オーストリア皇帝の縁戚になっていた。
そのヘレーネはかつてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にと、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大后妃(ヘレーネの伯母になる)に望まれていて、有力な花嫁候補であった。
しかし、フランツ・ヨーゼフはヘレーネの妹エリザベートに心を奪われており、いくら母がヘレーネを推しても聞かず、エリザベートとの結婚を果たした。 -
写真はマリーア・ソフィア・シチリア王妃(シシーの妹に相応しく、勇猛さやたくましさをもった女性だったようだ)
<イタリア統一と両シチリア王国の滅亡>
1860年9月、ジュゼッペ・ガリバルディの軍勢が首都ナポリに押し寄せると、王はカプアで体勢を立て直そうと逃走した。
しかし、カプアはヴォルチュルヌスの戦いでガリバルディ軍に陥落させられ、王と王妃はナポリ北80キロにある強固な要塞ガエータへ立てこもった。
1860年暮れから1861年初めまで行われたガエータ攻略で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の勢力は砲撃され、すぐに後退を余儀なくされた。
この時からマリーア・ソフィアは『ブルボン家最後の砦』を守った『戦う王妃』という高い名声を得ることになった。
彼女は精力的に働いて兵士の志気を挙げ、要塞を陥落させようとする敵との死闘の間、傷病者を運び、自身の食物まで分け与えた。(Wik) -
写真はマティルデ・イン・バイエルン(トラーニ伯爵夫人・シシーの妹でよく似ている)
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写真は仏・アランソン公爵妃Sophie Charlotte Auguste in Bayernゾフィー・シャルロッテ・アウグステ・イン・バイエルン(シシーの妹=マクシミリアン公夫妻の5女)・・・
シシーの勧めもあって、1867年1月に母方の従兄の息子であるバイエルン王ルートヴィヒ2世と婚約したが、王は結婚の日取りを何度も延期した後、結局10月に婚約は破棄された。
翌1868年9月、ゾフィーはフランス王ルイ・フィリップの次男ヌムール公ルイの息子アランソン公とポッセンホーフェン城で結婚した。
夫妻は1男1女をもうけた。
ルイーズ(1869年 - 1952年) - 1891年、バイエルン王子アルフォンスと結婚。
エマニュエル(1872年 - 1931年)・・・仏・ ヴァンドーム公。1894年、ベルギー国王アルベール1世の妹アンリエットと結婚。 -
この項の終わりに;
愛称シシーで呼ばれた皇妃エリザベートの人気は当時から、今に至るまで衰えません。この水城の存在は小さいものながら、確かにシシーの人気を示していました。
シシーについての先の塚本さんの表現も納得するものですが、意外なのは、父から受け継いだ詩的精神、野性味、放浪性などです。バイエルンの風土がそれを培ったとすれば、シシーにとって良かったのかどうか・・・。
日本では宝塚での上演もあって、皇妃エリザベートが若い世代にも知られたようですし、バイエルンの旅や、中欧の旅で皇妃を身近に感じる人が多いのも結構な事と思います。
写真はゾフィー・シャルロッテの婚約者だった母方の従兄の息子バイエルン王国・ルートヴィヒ2世
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ドイツ2012年・麗しの5月:ドイツ7名窯(めいよう)の一つヘキスト陶磁器工房に興味があったが・・・。
2012/05/15~
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この旅行記へのコメント (2)
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- みちるさん 2022/03/26 20:32:39
- シシー
- jijidarumaさん、こんばんは
シシーの事、詳しく紹介してくださって、ありがとうございます。
私は、15年くらい前に図書館で、シシーの本にたまたま巡りあって、関連の本を読み漁りました。
今は、もう忘れかけてますが、当時シシーに関しては、詳しくなっていました。
名古屋で、エリザベート展が、高島屋であって、飛んで行ったものでした。
オーストリアの、シェーンブルン宮殿に行った時、気分相当ハイになってましたよ。
同じくシシーを好きだった友人と二つマグネットを買い求めたのは、星形の髪飾りをつけ、扇子を手に持った美しいシシーの姿のでした。
今も冷蔵庫の一番上に、飾ってあります、大好きなシシーの姿です。
暗殺されたシシーの最後は、悲しく涙を誘われました。
ロミーシュナイダーのシシー、シェーンブルン宮殿近くに立て看板が出てましたが、こんな笑顔なんてシシーにあったのか、似合わないですね。
- jijidarumaさん からの返信 2022/03/27 00:36:52
- Re: シシー
- みちるさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
シシー、皇妃エリザベートを最も良く描いたと云われる
ヴィンターハルター作品、お気に入りでしたか!
皇妃の完璧な美しさを作家の塚本哲也さんが的確に表現された
ことに私も納得したものです。
美貌以上に、皇妃のドラマチックな人生もまた興味深いものです。
ドイツの旅では興味をもって、訪ねたのはヒトラー暗殺未遂事件
を起こしたシュタウフェンベルク伯爵の生まれた城と、
バイエルン公爵家の王女・後のオーストリア皇妃エリザベートが
一家で過ごした城、それにザクセン強王に愛妾コーゼル伯爵夫人が
その死までの49年間、幽囚されたシュトルペン城でした。
特に脈絡のない探し物をしたような旅でしたが、とりわけ
シシーに興味を持ったのは2004年にシュタルンベルグ湖畔にある
Golfhotel Kaiserin Elisabeth 、*ゴルフホテル 皇妃エリザベート
に3泊し、このホテルと皇妃の関係などを知ったからでもあります。
2011年の春に行った旧東独の旅で、皇妃の母ルドヴィカの伯母である
プロイセン王妃・Elisabeth Ludovika von Bayernエリザベート・
ルドヴィカの名を皇妃エリザベート(Sisiシシー)に与えられたと
知ったこともあります。
本章の写真で見られたように、この一族の女性は皆さん美しい。
ロミーシュナイダーのシシーの映画は人気があったようですが、
私もピンと来ないです。
*ご参考:
≪皇妃エリザベートのお気に入り:ホテル・カイザリン・エリザベート≫
https://4travel.jp/travelogue/11003358
それではまた。
jijidaruma
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