2012/05/15 - 2012/05/29
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jijidarumaさん
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Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間 :2012年05月15日(火)〜05月29日(火)15日間の旅
5月27日(日);曇り時々晴れ間、25℃、139km ・Pfingstsonntag聖霊降臨祭
さて、聖霊教会からアルテ・ブリュッケに向かう横丁には、途中の左手にハイデルベルクの名物店がある。
≪チョコレート「Der Heidelberger Studentenkussデアー・ハイデルベルガー・シュトゥデンテンクス(ハイデルベルク学生の口づけ)」の由来≫
ハイデルベルクの旧市街の中心に、町で最も古いカフェがある。
写真はハイデルベルク学生の口づけ
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
Cafe Knoeselカフェ・クネーゼルは1863年に設立されましたが、町の主だった市民たちや、ハイデルベルク大学の教授、あるいは学生たちにすぐ支持され、カフェは人気の待ち合わせ場所となりました。
彼らはカフェ創立者・経営者のFridolin Knoeselフリドリン・クネーゼルのユーモアあふれる、暖かな人柄に魅了されて、そこで気持ちの良い時間を過ごす事を楽しみにしたそうです。
写真はクネーゼルのチョコレート販売所 -
とりわけ、勉学の合間にここを訪れる多くの学生達の憩いの場でもありました。
そして、男子学生たちに気になる存在がありました。カフェの常連になっていた名門ハイデルベルク女子寄宿舎学校の生徒達です。
若き彼女たちにはいつも、寄宿舎の監督官である先生たちが同伴し、その厳しい監視のもとにいたのですが、その周りには陽気な男子学生たちが集まってきました。
魅力的な彼女たちにも男子学生が同様に気になる存在でした。
写真はクネーゼルのチョコレート販売所 -
しかし、このカフェに通う男子学生と交際する機会も無く、お互いに密かな眼差しを投げかけるだけでした。
この事を見知っていたカフェ店主、フリドリン・クネーゼルはとても不憫に思っていました。
写真はCafe Knoeselカフェ・クネーゼル -
そしてある日、アイデアが湧いたクネーゼルは彼女たちの願いがいつか叶いますように!との願いをこめて、一日かけて上品なチョコレート菓子を作ったのです。
クネーゼルはそれに「Der Heidelberger Studentenkussデアー・ハイデルベルガー・シュトゥデンテンクス(ハイデルベルク学生の口づけ)」と洒落た名前を付けました。
XXX
写真はDer Heidelberger Studentenkuss -
ハイデルベルクの町は多くの芸術家が訪れ、詩を書き、称えたと云う。
その事もさることながら、ハイデルベルクの名を世に知らしめ、19世紀の学生生活の象徴ともいえる、次の作品群がある。
Joseph Victor von Scheffelsヨーゼフ・ヴィクトール・シェッフェル作の詩『アルト・ハイデルベルク、麗しの街』(後に付曲され、ポピュラーな学生歌となった)、
Wilhelm Meyer-Froesterヴィルヘルム・マイヤー・フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』、
そして、フリードリフ・ライムントが1927年に作曲したオペレッタの曲『Ich hab' mein Herz in Heidelberg verloren。わが心、ハイデルベルクに失い』がある。
写真はJoseph Victor von Scheffel as student18501850年、学生時代のシェッフェル -
『アルト・ハイデルベルク』はドイツの地でも忘れかけている作品と云われているが、日本人の情感に訴えるものがあって、いまだに日本人には忘れがたい作品である。(後述)
手元の紀行文“馬車よ、ゆっくり走れ(1971年初版)”の中でも、“ドイツ学派”の画家と称される東山魁夷氏は『マイヤー・フェルスター作「アルト・ハイデルベルク」が、感傷的な、見せかけだけの青春劇であるとしても、私はそれを観て涙を流さずにはいられないだろう。』と書かれている。
写真は学生時代のシェッフェル -
また、オーストリア皇妃エリザベートもハイデルベルクの町が大好きだったらしい。
『1885年春のハイデルベルク行きは特筆に値する。エリザベートはこの古い大学町が大好きで、彼女の詩日記でも「アルト・ハイデルベルク、立派な町、素晴しい町、おまえはなぜそう慎ましやかで人懐かしいの」と、讃えているからだ。
来訪時、町では男性合唱団“Concordiaコンコルディア”がユニークな歓迎をしてくれた。
三女Marie Valerieマリー・ヴァレリーが作った詩「春の歌」に曲をつけ、いわば初演を捧げてくれたわけである。』
(“皇妃エリザベートの真実”G・プラシュル・ビッヒラー/西川賢一訳)
写真は“皇妃エリザベートの真実”G・プラシュル・ビッヒラー -
ドイツに詳しいある方は以下にこう述べています。
【”Kuss”、訳せば「接吻」となりますが、ドイツでは日本のように深い意味の「接吻」ばかりとは言えないようです。
家族、親類、友人、知人で異性の場合、訪問や再会の際には必ずといってよいほど頬に軽く接吻を受けますし。それがまた礼儀かと。
生活習慣、また感覚の相違があり、こういった”Kuss"のようにひとつの言葉でも日本語に正確に訳すのは難しいものだと思います。】
私にとっての”Kuss"は日本語的感覚に”口づけ”がぴったりで、”接吻=キス”は深い意味はなくても、妙に生々しく思えてしまいます。
が、この“ハイデルベルクのチョコレート”の場合、初々しい若い人たちには”口づけ”がふさわしいかと思いますので、その様に訳しています。
私の狭い体験では儀礼であっても、日本人企業に勤めるドイツ人や下宿先のドイツ夫人も、ドイツ人の友人夫妻も日本人に対して親しくなっても殆ど握手で、ハグもせず、頬にも軽いキスもしなかったです。
身近に、日本人に接していて、そうしたことをしないものと、知っていた所為なのでしょうが・・・。
写真はScheffel シェッフェルの自画像 -
さて、やはりハイデルベルクに相応しいと云えば、この2つを抜かせません。
ハイデルベルクの町はバーデン・ヴュルテンベルク州の北西部にあり、ネッカー川沿いに発展した町である。人口14万7千人。何故か?熊本市とは姉妹都市になっている。
この町はプファルツ選帝侯領の首都でもあった。ハイデルベルク城址、『アルト・ハイデルベルク』のロマンスで名高い古都・・・ドイツ旅行で最も魅力的な町と云われる。
ゲーテやショパンなど、多くの芸術家がこの町を訪れ、称えたと云う町であるが、私共は2度程度しか訪れていない。古城街道を逆から走ってくるため、ツィ、100kmの短い距離にあるフランクフルトに急ぐ行程にしてしまう所為である。
今回はハイデルベルクでしばしの時間を割く事としている。
Wilhelm Meyer-Froesterヴィルヘルム・マイヤー・フェルスター(1862〜1934年)はドイツの小説家・劇作家。自作の小説「カール・ハインリヒ」を脚色した戯曲「アルト・ハイデルベルク」で知られる。
この戯曲は5幕。1901年ベルリンで初演。学生皇太子ハインリッヒと給仕女ケティとの恋の哀歓をうたった青春恋愛劇。1913年には日本でも上演された。
さて、私共の年代やハイデルベルクを旅した人たち、あるいは留学生としてこの町の大学で過ごした方はとりわけ、王子カール・ハインリッヒとケティの青春の悲恋を思い起こすことでしょう。
写真はAlt-Heidelberg・皇太子の初恋 -
≪アルト・ハイデルベルクAlt-Heidelberg≫ マイヤー・フェルスター作
東ドイツ・ザクセン地方のカールスブルグ公国の王子、Karl Heinrichカール・ハインリッヒは、早くから両親を亡くし、伯父、大公の手で世継ぎとして育てられた。王子の生活は哲学博士を家庭教師とした、規則に縛られた厳格な毎日だった。王子は学齢に達すると、当時の習わしに従って、他の貴族の息子達と同様に、大学へ行くことになった。入学試験を受け、めでたくハイデルベルク大学に入学が決まる。
いよいよハイデルベルク行きの列車に乗り込んだ王子は、まだ見ぬ学生の町、古城の町に胸を踊らせている。王子にしてみれば初めての城外生活である。王子の下宿はネッカー川の畔にある、リューダー夫妻の経営する宿で、いつも若い学生達で賑わっていた。この宿にKaethieケティと言うウィーン生まれの娘が働いていた。ケティは宿屋の主人の親戚筋にあたり、故郷には小さい時からのいいなづけが、牛飼いをしながら待っていたが、ケティはどうもこの男との結婚に気が進まなかった。
いよいよ王子の乗った列車が到着する。王子を歓迎するため、ケティは花束を用意し、詩を暗唱した。
「遠き国よりはるばると、
ネッカー川のなつかしき、
岸に来ませる我が君に、
いまぞ捧げんこの春の、
いと麗しき装飾、
いざや入りませ我が家に、
いずれ去ります日もあらば、
しのび賜れ若き日の、
ハイデルベルクの学びやの、
幸多き日の思い出を」
写真はAlt-Heidelberg_1907 -
王子の前でこのような詩を暗唱したケティは、美しい王子を目の前にして夢中だった。そしてどちらも親を早く亡くしているという境遇から、共通の寂しさも手伝って、二人は身分の違いを越え、急速に親しくなっていった。学生達も日夜おきなく、王子の宿を訪れ、王子は歌とワインと歓声に包まれて、幸せな学生時代を過ごしていた。学生達ばかりでなく宿に出入りする使用人達とも仲良くなった。61歳の洗濯男、ケラーマンには、自分が大公になったら給仕長にしてやるなどと気さくに話をするのだった。
4ヶ月ほど過ぎたある日のこと、カールスブルグ公国より使いの者がやってくる。大公が病気にかかり治りそうもないので、すぐに帰国するようにと伝える。一年間の大学生活をわずか4ヶ月で終えなければならない苦しさに、王子は悩むが、国政の重要性を考えると、帰国を決意しないわけにはいかなかった。王子はケティとも悲しい別れを交わし、ハイデルベルクの町を後にする。
写真はScheffelterrasseシェッフェルのテラス(ハイデルベルク城址) -
2年が経ち、カール・ハインリッヒはカールスブルグ大公となった。カール・ハインリッヒは、気の進まぬ政略結婚をあと2週間後に控えて、ますます深い悲しみに沈んでいた。そんな時、ハイデルベルクから一人の老人が訪れてきた。洗濯男のケラーマンだった。久々に懐かしい顔を見て、カール・ハインリッヒは胸が一杯になる。ケラーマンに温かい飲み物を勧めながら、彼は次々と昔の友人の消息を尋ねていく。懐かしいケティはまだ宿にいて、王子が去ったあとよく泣いていた事などを聞くと、大公はいてもたってもいられなくなり、その夜すぐにハイデルベルクを訪れることにする。青春のわずかな時を過ごした、懐かしい町ハイデルベルクへ。
しかし、時は移り、世の中は変わっていた。大公を再び迎えたハイデルベルクは、昔の学生王子を迎えた町とは違っていた。大公が泊まっていた宿も、昔ほど学生が寄りつかなくなっていた。学生達も、打ち解けた昔の姿を失い、大公に会見するというので皆緊張し、おどおどしている。大公のために歌った懐かしい学生歌も、精彩がなく、彼はわざわざハイデルベルクにやってきたことを後悔しそうになっていた。
「青春の時とはなんと、うつろいやすいものであろうか」
そんな中で変わらぬものがあった。それはケティの愛だった。
「みんな昔のままだったよ、ケティ。マイン川も、ネッカー川もそれからハイデルベルクも。ただ人間だけが変わってしまった。昔のままの人は一人も見つからなかった。」
大公はケティを抱き寄せ「変わらないのは君だけだ。ケティ君一人だ」
そのケティもウィーンに帰り、結婚することが決まっていた。そして大公自身も、2週間後には結婚式を控えているのだった。
「私たち二人は、どうしようもなかったのよ。そうでしょう。私たちはいつもそのことを知っていたわね」
ハイデルベルクを去ってゆく大公の脳裏に、過ぎ去った短い美しい青春の思い出が浮かんでは、消えてゆく。
「ぼくのハイデルベルクへの憧れは、君への憧れだった」ケティにそう言って、別れを告げた大公は、新しい人生に向かって歩いていくのであった。
XXX
写真はハイデルクの歌 -
写真はHeidelberg:Ich hab' mein Herz in Heidelberg verlorenわが心、ハイデルベルクに失い
-
≪哲学者の道にある小庭園に立つアイヒェンドルフ男爵の記念碑≫
哲学者の道にある小庭園には1つの記念碑がある。
小庭園の中央にJoseph Freiherr von Eichendorffヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ男爵(1788〜1857年)の新しい記念碑が立っている。
私は知らないのだが、アイヒェンドルフ男爵はドイツ人小説家、詩人として、当時、大変高名だったらしい。かつてのドイツのSchlesienシュレジェン(現ポーランド)にあったSchloss Lubowitz bei Ratiborラチブシュ近くのルボーヴィッツ城に生まれた。
後期ロマン主義の代表作はナポレオン戦争下に書いた『1815年 ・Ahnung und Gegenwart予感と現在』『1826年 ・Aus dem Leben eines Taugenichts (のらくら者の日記)』などである。
彼は19歳の時にハイデルベルク大学で2年間、哲学を専攻したとあり、その縁もあって、この公園に記念碑が建てられたのだろうか?
実はアイヒェンドルフ男爵がハイデルベルク大学で学んだ頃の日記に、“K”と頭文字のみで記し、その恋心を書いていたそうです。
“K”とはハイデルベルク・ロールバッハの桶屋の親方の娘でKatharina Barbara Foerster カタリーナ・バーバラ・フェルスター(Kaethchenケートヒェンと愛称で呼ばれていた。)という名でした。
彼は娘に失恋した事になっていますが、その事が“In einem kuehlen Grunde (um 1810)涼しげな谷間で(1810年頃)“という詩に結実したと云われている。
そうした背景もあって、特別にハイデルベルクの地に記念碑が建てられたようだ。
K嬢は48歳で独身のままハイデルベルクで死去した。
写真はアイヒェンドルフ男爵の碑 -
王女リーゼロッテの記念碑には1908年と建立日が書いてあるのが写真で見て取れましたが、アイヒェンドルフの碑は表側には無く確かめようがありませんでした。碑その物の色合いも新しく、苔むしてもいないし、傷もありませんから、多分、2000年代に建立されたのでしょう。
アイヒェンドルフについてはドイツなどの各地に十余の碑が建立されていますが、古くは1911年、死後100年を記念した記念切手も1957年に発行され、同時に碑も建立されています。
ともあれ、プファルツの人々が愛した王女 リーゼロッテの碑の方が、高名なアイヒェンドルフ男爵よりも早かったようです。
(注)ハイデルベルクの哲学者の道・王女リーゼロッテの記念碑については≪伝説・ハイデルベルクの大樽から聞こえる幽霊音楽と小人ペルケオ≫を参照ください。
http://4travel.jp/travelogue/10990445
XXX
写真はHeidelberg:Carl_Philipp_Fohr_1815
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この旅行記へのコメント (2)
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- のまどさん 2015/03/27 20:28:00
- ハイデルベルク
- jijidarumaさん、こんにちは。
私事で恐縮ですが、今日連れ合いがハイデルベルクから帰ってきます。今はイースター前で春めいてきてアスパラが出回り始める良い季節です。と言っても目的は出張なので堪能することはできないと思いますが。
私は行ったことがないので旅行記を興味深く拝見しました。古城のある学園都市とロマンチックな伝説。多くの芸術家が称えた街だけあって風情がありますね。
挨拶のキスについては国によって色々流儀が違います。ベルギーでは1回もしくは3回、オランダでは2回、モロッコなどでは4回と回数が違います。あと通常は右の頬から始めますがイタリアでは左からだったり、戸惑いますね。ドイツではキスの習慣がないと聞きましたが、またこれも地方によって異なるのでしょう。EUで統一規則を作るべきだとよく冗談で言っています。
ではまた。
- jijidarumaさん からの返信 2015/03/28 00:31:45
- ハイデルベルク
- のまどさん
こんばんは。
イースターとか、アスパラなどと聞くと、ドイツの旅にまた出かけたくなります。もう出張などという言葉に縁が無い身分になりましたが、なんであれ旅は良いものです。お土産楽しみですね。
ハイデルベルクの景観は確かに魅力的ですが、この町に泊まってじっくりとしたことが無いのですよ。古城街道はどこも素敵な所為か、あれもこれもと思うためで・・・。
それにしてもこの町には紹介したい話がたくさんありました。
> 挨拶のキスについては国によって色々流儀が違います。・・・ドイツではキスの習慣がないと聞きましたが・・・<
ドイツに詳しいある方はハイデルベルク大学の留学生であった由で、ドイツの方と結婚し、三十年ぐらいドイツに住んでいましたが、
【家族、親類、友人、知人で異性の場合、訪問や再会の際には必ずといってよいほど頬に軽く接吻を受けますし。それがまた礼儀かと。】と言っていますから、彼が属した共同体ではキスの習慣はあるのでしょう。
私の狭い体験ではドイツ人は対日本人にはしませんでしたが、彼らどうしではもちろんしていましたし・・・。
jijidaruma
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