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該区間は、明治22年(1889年)2月1日開業である。<br />該区間途中停車場として、鈴川(すずかわ)(現 吉原)驛が設置された。<br /><br />然るに、沼津-富士間路線設定は意外にも困難を極め設置決定に至るまで紆余曲折する。<br />即ち、該問題点として、<br /> Ⅰ)現在の東田子の浦-吉原間に於ける浮島沼の存在、及び、通過地点設定。<br /> Ⅰ)富士川渡河架橋地点の確定。<br />の2点である。<br /><br />現在の東田子の浦駅裏手側付近に存在した浮島沼(うきしまぬま)は富士山の扇状地で地盤が泥炭軟弱にして表面が浮地状態の大沢沼地帯であり富士川氾濫源だった。<br />古くは鎌倉時代に、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安4年(1147年)5月9日~建久10年(1198年)2月9日)主宰の富士の巻狩りの際に、父の無念を晴らすべく曽我兄弟仇討(建久4年(1193年)6月28日)の舞台ともなった場であり、明治初期ですら度々氾濫発生する厄介な地域だった。<br />此の様な軟弱地帯に重量物たる鉄道車輌を安全大量に通過可能せしめる為に、何処に路線設定を成すべきかに就いて当時の技術力では未知の分野であり設定に対し慎重にならざるを得なかった。<br /><br />静岡大務(しずおか たいむ)新聞(現 静岡新聞社)明治20年(1885年)3月17日附記事から此の辺の事情が推定される。<br />即ち、<br />去ル十三日当地ヲ発足セシ人ヨリ沼津江尻間ノ鐵道工事ノ模様ヲ見聞ヲセシトテ其報知ヲ得タレバ記載センニ江尻岩淵間ハ路盤工事進行セリ富士川ハ風説ニ関シ如ク未タ鐵橋架設ノ場所確定セサル為カ少シモ工事ニ着手セシト云フ処ヲ見ス富士川以東モ右ノ如クナレトモ些少ノ土盛アルノミ原宿迄ハ別ニ記スル工事ナシ原宿ヨリ沼津迄ハ線路工事出来上リノ様ニ見受ケラレタリ(以下略)<br />因みに、江尻は清水駅 岩淵は富士川駅 原宿は原駅である。<br /><br />該記事発表の時点で2月28日に蛇松港-沼津停車場間に於いて試運転も完了し資材運搬が開始されていたにも拘らず路線設置位置が未確定だった。<br />因みに、当時の新聞記者とは後に著名作家や評論家に発展した者も若干存在し得たが、一般社会からは概ね正業堅気職とは認識されがたくゴロツキ屋の類と見られて居た者も少なからず存在し、本来であれば直接取材が当然にも拘らず当時の新聞業界は朝鮮動乱中まで仄聞記事が当然の如く記述掲載された内容にはし事実無根な内容デマ類も散見された。<br /><br /><br />明治26年(1893年)4月25日14時00分頃、現場を通過中の上り貨物列車牽引蒸気機関車煙突排出火粉が、昌原寺本道茅葺屋根に着火炎上し、火は西念寺に延焼、寺院2、民家、及び、物置計14棟を全焼させた。<br />被災者一同は連名で逓信省鐵道作業局に対し被害救済金下付を申請したが、此れに対し当局側は該火災が該牽引機関車原因とは判断困難として該申請を却下した。<br />後年、明治44年(1911年)3月31日の神奈川縣橘樹郡生見尾大火時は当局の初動対応の稚拙から被害住民が激怒暴徒化し、東海道線上に座込みをする等などした騒ぎとなったが、本事件は有耶無耶にされ被害者は泣寝入だった。附<br /><br /><br />開通当時は途中区間に鈴川(現 吉原)驛が設置されたが、明治維新以降、関所が撤廃され横濱-神戸間に汽船航路が開設された事で旧東海道利用者は激減した事で鉄道開通後は徒歩移動者は皆無に均しい状態となり、旧東海道筋で停車場設置の恩恵が及ばなかった地の寂れ方は尋常では無かった。<br />且つ、4月1日附施行町村法に拠り 原宿東町 原宿西町 大塚町 三新田村が合併し原町が成立した事も、将来に対する危機感を抱かせるに充分な状況であり該町に鉄道停車場設置誘致運動が発生したのも自然の成り行きと言えた。<br /><br />原町は鉄道当局に対し停車場設置陳情を反復したが、当時の鉄道当局の相容れる内容とはされなかった。<br />日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)に於ける戦時軍事輸送に鑑み、当時、沼津-鈴川間が15.1キロの距離を有していた事から、殆どの区間が単線だった東海道線に於ける列車交換の必要性と、地元の停車場設置要求の利害の一致が原町に於ける停車場設置を必要とさせた事で明治29年(1896年)に原町から逓信省鐵道作業局に対し請願された停車場設置に関する請願書が当局に受け容れられる事になり決定事項となった。<br /><br />因みに、沼津-鈴川間は明治32年(1899年)2月24日に複線化されたが、原停車場設置に鑑み鐵道当局から建設用地6470坪を必要とする旨、回答を得た為に地元では 徳源寺 西念寺 乗運寺各所有地他に4645坪を献納するとの出願が行われ、此れを受け明治31年(1898年)9月に第9代第Ⅱ次 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保8年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日内閣(明治31年(1898年)11月18日~明治33年(1900年)10月9日組閣)の第9代逓信大臣 芳川顕正(よしかわ あきまさ)(天保12年(1842年)1月21日~大正9年(1920年)1月21日(明治31年(1898年)11月18日~明治33年(1900年)10月9日在任)連名で原停車場設置許可が下り沼津-鈴川間に明治33年(1900年)2月25日に 原(はら)驛 が開業した。<br /><br /><br />明治35年(1902年)12月25日に、地震を原因とする駿河湾内に於いて津波が反復発生し、原-岩淵(現 富士川)間は数日間、運転休止を余儀無くされる。<br /><br /><br />昭和17年(1942年)5月6日13時28分頃、鈴川(現 吉原)-富士間東京起点143Km050m地点に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、上り貨物第63列車D51型蒸気機関車D51 31(濱松機関區配置)牽引65両編成は該地点通過中、該地点が速度制限45Kmだった事から機関士は通常制動に依り減速と同時に激動を感知した為に機関士は非常制動を動作させ停止し後方確認した処、機関車全軸脱線 1~23両目貨車脱線転覆 24~27両目貨車脱線傾斜し上下本線を支障。<br />復旧<br /> 下り線 当日20時15分<br /> 上り線 7日13時37分<br />事故原因は気温上昇に依る軌条変状と推定。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は記録上は存在しない。<br /><br /><br />初代駅本屋は明治33年(1900年)2月25日開業以来、関東大震災や大東亜戦争空襲等々に被災せず無事だったが、昭和22年(1947年)9月14日に貨物入換作業中に足踏制動担当職員を乗せぬまま突放状態で停止せず相当速度で駅本屋に激突大破全壊したが、上り旅客列車出発直後だった為に待合室は閑散としており、旅客駅職員計6名以上が重軽傷を負う事故が発生。<br />因みに、同時期に和歌山線五條駅でも同例事故が発生している。<br />現駅本屋は第2代目として翌昭和23年(1948年)3月6日附で再建。<br /><br /><br />東海道本線電化区間は昭和9年(1934年)12月1日以来、長らく沼津駅止まりだったが、昭和24年(1949年)2月1日に沼津-静岡間が電化延長された。<br /><br /><br />日本国有鉄道は昭和24年(1949年)6月1日に成立したが、翌昭和25年(1950年)8月1日附を以って、名古屋鉄道局、及び、静岡管理部が廃止され、静岡鉄道管理局が成立し、同時に、東京鉄道局新橋管理部に代り東京鉄道管理局Ⅱとの境界点が従来の沼津-原間から熱海-函南(丹那隧道西口)間に変更になった。<br /><br /><br />昭和30年(1955年)5月17日2時19分頃、原-東田子の浦間東京起点136Km364m地点に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、上り京都発品川行臨時第3138列車EF58型直流電気機関車EF5866<br />(浜松機関区配置)牽引11両編成は、該地点150m手前に於いて踏切内を無謀横断せんとした米陸軍トレーラーを発見し非常制動を動作させるも該トレーラ該と衝突し、該トレーラー積荷の揮発性塗料が引火炎上した。<br /> EF58 668(浜松機関区)  全焼 → 復旧<br /> スハフ32  257(大キト)  全焼 → オハフ33  627<br /> スハ 42   63(大キト)  全焼 → 復旧<br /> スハフ32  266(大ミハソ) 全焼 → オハ 35 1314<br /> オハ 35  342(大キト)     半焼 → 復旧<br /> オハ 35 1108(大キト)  天井焼損 → 復旧<br /> スハフ32  229(大キト)    以下車輛無被災<br /> スハ 32  229(大キト)<br /> スハ 32  540(大キト)<br /> スハ 32  750(大キト)<br /> スハフ32  246(大キト)<br /><br />乗客2名が重傷、31名が軽傷を負う大事故発生現場。<br /><br /><br />東海道本線函南-沼津間、御殿場線全線各駅に於ける駅本屋やホーム上屋構造に当時の東京鉄道局Ⅱ様式が残存するが、現在でも、沼津以東ではホーム有効長が300m以上を有し15両編成が停車可能なのに対し、沼津以西では大駅を除き中間駅ホーム有効長は概ね220m10両停車分しか存在せず鐵道省時代に於ける鉄道局境界点の名残が残る。<br /><br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />明治33年(1900年)3月建築の原駅オランダ式積煉瓦建築危険品保管倉庫。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />東海道本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-濱松町間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10701644<br />~東京驛編~<br /><br />~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10797199<br />~品川-川崎間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10502858<br />~川崎-横濱間編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10711843<br />~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~<br />http://4travel.jp/travelogue/10316826<br />~横濱-大船間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/10713813<br />~大船-平塚間編 明治頌歌~<br 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東海道本線歴史的痕跡探訪記 ~沼津-富士間編 明治頌歌~

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2009/05/14 - 2009/05/14

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
該区間途中停車場として、鈴川(すずかわ)(現 吉原)驛が設置された。

然るに、沼津-富士間路線設定は意外にも困難を極め設置決定に至るまで紆余曲折する。
即ち、該問題点として、
 Ⅰ)現在の東田子の浦-吉原間に於ける浮島沼の存在、及び、通過地点設定。
 Ⅰ)富士川渡河架橋地点の確定。
の2点である。

現在の東田子の浦駅裏手側付近に存在した浮島沼(うきしまぬま)は富士山の扇状地で地盤が泥炭軟弱にして表面が浮地状態の大沢沼地帯であり富士川氾濫源だった。
古くは鎌倉時代に、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安4年(1147年)5月9日~建久10年(1198年)2月9日)主宰の富士の巻狩りの際に、父の無念を晴らすべく曽我兄弟仇討(建久4年(1193年)6月28日)の舞台ともなった場であり、明治初期ですら度々氾濫発生する厄介な地域だった。
此の様な軟弱地帯に重量物たる鉄道車輌を安全大量に通過可能せしめる為に、何処に路線設定を成すべきかに就いて当時の技術力では未知の分野であり設定に対し慎重にならざるを得なかった。

静岡大務(しずおか たいむ)新聞(現 静岡新聞社)明治20年(1885年)3月17日附記事から此の辺の事情が推定される。
即ち、
去ル十三日当地ヲ発足セシ人ヨリ沼津江尻間ノ鐵道工事ノ模様ヲ見聞ヲセシトテ其報知ヲ得タレバ記載センニ江尻岩淵間ハ路盤工事進行セリ富士川ハ風説ニ関シ如ク未タ鐵橋架設ノ場所確定セサル為カ少シモ工事ニ着手セシト云フ処ヲ見ス富士川以東モ右ノ如クナレトモ些少ノ土盛アルノミ原宿迄ハ別ニ記スル工事ナシ原宿ヨリ沼津迄ハ線路工事出来上リノ様ニ見受ケラレタリ(以下略)
因みに、江尻は清水駅 岩淵は富士川駅 原宿は原駅である。

該記事発表の時点で2月28日に蛇松港-沼津停車場間に於いて試運転も完了し資材運搬が開始されていたにも拘らず路線設置位置が未確定だった。
因みに、当時の新聞記者とは後に著名作家や評論家に発展した者も若干存在し得たが、一般社会からは概ね正業堅気職とは認識されがたくゴロツキ屋の類と見られて居た者も少なからず存在し、本来であれば直接取材が当然にも拘らず当時の新聞業界は朝鮮動乱中まで仄聞記事が当然の如く記述掲載された内容にはし事実無根な内容デマ類も散見された。


明治26年(1893年)4月25日14時00分頃、現場を通過中の上り貨物列車牽引蒸気機関車煙突排出火粉が、昌原寺本道茅葺屋根に着火炎上し、火は西念寺に延焼、寺院2、民家、及び、物置計14棟を全焼させた。
被災者一同は連名で逓信省鐵道作業局に対し被害救済金下付を申請したが、此れに対し当局側は該火災が該牽引機関車原因とは判断困難として該申請を却下した。
後年、明治44年(1911年)3月31日の神奈川縣橘樹郡生見尾大火時は当局の初動対応の稚拙から被害住民が激怒暴徒化し、東海道線上に座込みをする等などした騒ぎとなったが、本事件は有耶無耶にされ被害者は泣寝入だった。附


開通当時は途中区間に鈴川(現 吉原)驛が設置されたが、明治維新以降、関所が撤廃され横濱-神戸間に汽船航路が開設された事で旧東海道利用者は激減した事で鉄道開通後は徒歩移動者は皆無に均しい状態となり、旧東海道筋で停車場設置の恩恵が及ばなかった地の寂れ方は尋常では無かった。
且つ、4月1日附施行町村法に拠り 原宿東町 原宿西町 大塚町 三新田村が合併し原町が成立した事も、将来に対する危機感を抱かせるに充分な状況であり該町に鉄道停車場設置誘致運動が発生したのも自然の成り行きと言えた。

原町は鉄道当局に対し停車場設置陳情を反復したが、当時の鉄道当局の相容れる内容とはされなかった。
日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)に於ける戦時軍事輸送に鑑み、当時、沼津-鈴川間が15.1キロの距離を有していた事から、殆どの区間が単線だった東海道線に於ける列車交換の必要性と、地元の停車場設置要求の利害の一致が原町に於ける停車場設置を必要とさせた事で明治29年(1896年)に原町から逓信省鐵道作業局に対し請願された停車場設置に関する請願書が当局に受け容れられる事になり決定事項となった。

因みに、沼津-鈴川間は明治32年(1899年)2月24日に複線化されたが、原停車場設置に鑑み鐵道当局から建設用地6470坪を必要とする旨、回答を得た為に地元では 徳源寺 西念寺 乗運寺各所有地他に4645坪を献納するとの出願が行われ、此れを受け明治31年(1898年)9月に第9代第Ⅱ次 山縣有朋(やまがた ありとも)(天保8年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日内閣(明治31年(1898年)11月18日~明治33年(1900年)10月9日組閣)の第9代逓信大臣 芳川顕正(よしかわ あきまさ)(天保12年(1842年)1月21日~大正9年(1920年)1月21日(明治31年(1898年)11月18日~明治33年(1900年)10月9日在任)連名で原停車場設置許可が下り沼津-鈴川間に明治33年(1900年)2月25日に 原(はら)驛 が開業した。


明治35年(1902年)12月25日に、地震を原因とする駿河湾内に於いて津波が反復発生し、原-岩淵(現 富士川)間は数日間、運転休止を余儀無くされる。


昭和17年(1942年)5月6日13時28分頃、鈴川(現 吉原)-富士間東京起点143Km050m地点に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り貨物第63列車D51型蒸気機関車D51 31(濱松機関區配置)牽引65両編成は該地点通過中、該地点が速度制限45Kmだった事から機関士は通常制動に依り減速と同時に激動を感知した為に機関士は非常制動を動作させ停止し後方確認した処、機関車全軸脱線 1~23両目貨車脱線転覆 24~27両目貨車脱線傾斜し上下本線を支障。
復旧
 下り線 当日20時15分
 上り線 7日13時37分
事故原因は気温上昇に依る軌条変状と推定。


大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は記録上は存在しない。


初代駅本屋は明治33年(1900年)2月25日開業以来、関東大震災や大東亜戦争空襲等々に被災せず無事だったが、昭和22年(1947年)9月14日に貨物入換作業中に足踏制動担当職員を乗せぬまま突放状態で停止せず相当速度で駅本屋に激突大破全壊したが、上り旅客列車出発直後だった為に待合室は閑散としており、旅客駅職員計6名以上が重軽傷を負う事故が発生。
因みに、同時期に和歌山線五條駅でも同例事故が発生している。
現駅本屋は第2代目として翌昭和23年(1948年)3月6日附で再建。


東海道本線電化区間は昭和9年(1934年)12月1日以来、長らく沼津駅止まりだったが、昭和24年(1949年)2月1日に沼津-静岡間が電化延長された。


日本国有鉄道は昭和24年(1949年)6月1日に成立したが、翌昭和25年(1950年)8月1日附を以って、名古屋鉄道局、及び、静岡管理部が廃止され、静岡鉄道管理局が成立し、同時に、東京鉄道局新橋管理部に代り東京鉄道管理局Ⅱとの境界点が従来の沼津-原間から熱海-函南(丹那隧道西口)間に変更になった。


昭和30年(1955年)5月17日2時19分頃、原-東田子の浦間東京起点136Km364m地点に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り京都発品川行臨時第3138列車EF58型直流電気機関車EF5866
(浜松機関区配置)牽引11両編成は、該地点150m手前に於いて踏切内を無謀横断せんとした米陸軍トレーラーを発見し非常制動を動作させるも該トレーラ該と衝突し、該トレーラー積荷の揮発性塗料が引火炎上した。
 EF58 668(浜松機関区)  全焼 → 復旧
 スハフ32  257(大キト)  全焼 → オハフ33  627
 スハ 42   63(大キト)  全焼 → 復旧
 スハフ32  266(大ミハソ) 全焼 → オハ 35 1314
 オハ 35  342(大キト)   半焼 → 復旧
 オハ 35 1108(大キト)  天井焼損 → 復旧
 スハフ32  229(大キト)   以下車輛無被災
 スハ 32  229(大キト)
 スハ 32  540(大キト)
 スハ 32  750(大キト)
 スハフ32  246(大キト)

乗客2名が重傷、31名が軽傷を負う大事故発生現場。


東海道本線函南-沼津間、御殿場線全線各駅に於ける駅本屋やホーム上屋構造に当時の東京鉄道局Ⅱ様式が残存するが、現在でも、沼津以東ではホーム有効長が300m以上を有し15両編成が停車可能なのに対し、沼津以西では大駅を除き中間駅ホーム有効長は概ね220m10両停車分しか存在せず鐵道省時代に於ける鉄道局境界点の名残が残る。





表紙写真は、
明治33年(1900年)3月建築の原駅オランダ式積煉瓦建築危険品保管倉庫。







東海道本線歴史的痕跡探訪記
~東京-濱松町間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10701644
~東京驛編~

~汐留-濱松町-品川間編 明治頌歌~
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~品川-川崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10502858
~川崎-横濱間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10711843
~横濱駅移設変転史編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10316826
~横濱-大船間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10713813
~大船-平塚間編 明治頌歌~
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~平塚-國府津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10715768
~國府津-真鶴間 大正浪漫編~
http://4travel.jp/travelogue/10298330
~真鶴-熱海 大正浪漫編~
http://4travel.jp/travelogue/10310352
~丹那隧道完成秘話 丹那隧道碑文から読み取れし或る歴史的事実~
http://4travel.jp/travelogue/10291350
~丹那隧道完成秘話 三島口建設工事鉄道線探訪記~
http://4travel.jp/travelogue/10575630
~熱海-沼津間編~

~沼津駅驛編~
http://4travel.jp/travelogue/10294787
~沼津港線編~
http://4travel.jp/travelogue/10621891
~沼津-富士間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10623829
~富士-興津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10625542
~興津-静岡間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10859308
~静岡-島田間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10855589
~島田-掛川間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858139
~掛川-濱松間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858815
~濱松-豊橋間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10858508
~豊橋-岡崎間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10870287
~岡崎-大府間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10898135
~大府-名古屋-尾張一宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10898177
~名古屋驛編~

~尾張一宮-岐阜-大垣間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/10990946
~美濃赤坂支線編~
https://4travel.jp/travelogue/10992335
~大垣-垂井-関ケ原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11095931
~大垣-新垂井-関ケ原間編~
https://4travel.jp/travelogue/11200178
~関ケ原-米原間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099834
~関ケ原-深谷-長濱間(廃止線)編 明治頌歌~

~米原-近江八幡間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11099568
~近江八幡-草津間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11214049
~草津-膳所間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11102339
~膳所-濱大津間(廃止線)編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/11157145
~膳所-稲荷-京都間(廃止線)編 明治頌歌~

~膳所-山科-京都間(現行線)編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/11157106
~京都驛編 明治頌歌~

~京都-向日町間編 明治頌歌~

~向日町-高槻間編 明治頌歌~

~高槻-茨木間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11634036
~茨木-吹田間編 明治頌歌~

~吹田-淡路-大阪間(廃止線)編 明治頌歌~

~吹田-新大阪-大阪間(現行線)編 大正浪漫~

~大阪駅周辺編~

~大阪-西宮間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11366806
~西宮-灘間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11321266
~灘-神戸間編 大正浪漫~
https://4travel.jp/travelogue/11245946

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 沼津(ぬまづ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />初代駅本屋は鉄道開通と共に建設されたが、沼津島郷地区に御用邸が設置され皇族や政府高官等々の貴賓接受に不便を生じ、現場の要求を受け明治35年(1902年)3月1日に第2代目駅本屋に改築された。<br />2代目駅本屋は貴賓室は勿論、貴賓専用口が設置されていた。<br />沼津市は、大正2年(1913年)3月3日、に1339戸を全焼、更に、大正15年(1926年)12月10日に、2度大火を受け、殊に、後者は沼津駅構内も一部類焼被災し第1番ホーム上屋は半焼したが駅本屋自体は被災せず無事だった。<br />その後、手狭になり老朽化が進行した事から改築が決定し、昭和12年(1937年)3月14日に着工し同年7月13日に鉄骨鉄筋2階建で第3代目駅本屋が竣工した。<br />沼津市には、大東亜戦争勃発以降、次々と海軍関係施設が開設され、市内大岡に沼津海軍工廠が設置された事から連合国側の攻撃対象都市に指定され、昭和20年(1945年)7月16日22時40分から米空軍から空襲攻撃を受け該駅本屋に直撃爆弾被害をはじめ、焼夷弾に拠り下りホーム上屋や主要施設が全焼し職員1名が殉職する被害が発生した。<br />戦後は緊急に構築されたバラック建築を経て、昭和28年(1953年)3月30日に竣工したのが第5代目現駅本屋である。<br /><br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/numazu/

    沼津(ぬまづ)駅



    駅本屋
    初代駅本屋は鉄道開通と共に建設されたが、沼津島郷地区に御用邸が設置され皇族や政府高官等々の貴賓接受に不便を生じ、現場の要求を受け明治35年(1902年)3月1日に第2代目駅本屋に改築された。
    2代目駅本屋は貴賓室は勿論、貴賓専用口が設置されていた。
    沼津市は、大正2年(1913年)3月3日、に1339戸を全焼、更に、大正15年(1926年)12月10日に、2度大火を受け、殊に、後者は沼津駅構内も一部類焼被災し第1番ホーム上屋は半焼したが駅本屋自体は被災せず無事だった。
    その後、手狭になり老朽化が進行した事から改築が決定し、昭和12年(1937年)3月14日に着工し同年7月13日に鉄骨鉄筋2階建で第3代目駅本屋が竣工した。
    沼津市には、大東亜戦争勃発以降、次々と海軍関係施設が開設され、市内大岡に沼津海軍工廠が設置された事から連合国側の攻撃対象都市に指定され、昭和20年(1945年)7月16日22時40分から米空軍から空襲攻撃を受け該駅本屋に直撃爆弾被害をはじめ、焼夷弾に拠り下りホーム上屋や主要施設が全焼し職員1名が殉職する被害が発生した。
    戦後は緊急に構築されたバラック建築を経て、昭和28年(1953年)3月30日に竣工したのが第5代目現駅本屋である。

    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/numazu/

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />平成24年(2012年)3月17日附ダイヤ改正で沼津駅停車優等列車は、寝台特急列車サンライズ出雲、サンライズ高松の上下1本になり、該駅自体も影が薄くなる一方である。<br /><br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/numazu/

    沼津駅



    駅本屋
    平成24年(2012年)3月17日附ダイヤ改正で沼津駅停車優等列車は、寝台特急列車サンライズ出雲、サンライズ高松の上下1本になり、該駅自体も影が薄くなる一方である。

    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/numazu/

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />ホーム上屋古軌条柱<br />該ホームは開業以来、大正2年(1913年)3月3日、及び、大正15年(1926年)12月10日の2度に亘る沼津大火、更に、昭和20年(1945年)7月16日の沼津大空襲での際に類焼し上屋は全滅した。<br />現上屋は戦後再建され、鉄骨組等々に当時の東京鉄道局建築様式が残る。

    沼津駅



    第1番ホーム
    ホーム上屋古軌条柱
    該ホームは開業以来、大正2年(1913年)3月3日、及び、大正15年(1926年)12月10日の2度に亘る沼津大火、更に、昭和20年(1945年)7月16日の沼津大空襲での際に類焼し上屋は全滅した。
    現上屋は戦後再建され、鉄骨組等々に当時の東京鉄道局建築様式が残る。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />旅客地下道ホーム入口。

    沼津駅



    第1番ホーム
    旅客地下道ホーム入口。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />全景

    沼津駅



    第1番ホーム
    全景

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />大東亜戦争中の昭和20年(1945年)7月16日の沼津大空襲でホーム神戸方に焼夷弾落下命中に拠り上屋が一部焼失し戦後復旧再建。<br />焼失を免れ残存した昭和2年(1927年)建築の後部上屋屋根と構造が完全に異なる。

    沼津駅



    第1番ホーム
    大東亜戦争中の昭和20年(1945年)7月16日の沼津大空襲でホーム神戸方に焼夷弾落下命中に拠り上屋が一部焼失し戦後復旧再建。
    焼失を免れ残存した昭和2年(1927年)建築の後部上屋屋根と構造が完全に異なる。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />上屋軒装飾<br />2度の沼津大火、及び、沼津大空襲で被災せず当時の貴重な建築物。

    沼津駅



    第2番ホーム
    上屋軒装飾
    2度の沼津大火、及び、沼津大空襲で被災せず当時の貴重な建築物。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />軒装飾

    沼津駅



    第2番ホーム
    軒装飾

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />軒装飾<br />ホーム上屋建設期が異なる為に、車両間を境に前後の軒装飾形状が異なる。

    沼津駅



    第2番ホーム
    軒装飾
    ホーム上屋建設期が異なる為に、車両間を境に前後の軒装飾形状が異なる。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />ホーム上屋<br />第1次、及び、第2次建設。

    沼津駅



    第2番ホーム
    ホーム上屋
    第1次、及び、第2次建設。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2ホーム<br />軒装飾

    沼津駅



    第2ホーム
    軒装飾

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />軒装飾<br />第1次、及び、第2次では建築時期に拠り軒装飾様式が異なる。

    沼津駅



    第2番ホーム
    軒装飾
    第1次、及び、第2次では建築時期に拠り軒装飾様式が異なる。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />軒装飾

    沼津駅



    第2番ホーム
    軒装飾

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />内部全景

    沼津駅



    第2番ホーム
    内部全景

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />旅客地下通路

    沼津駅



    旅客地下通路

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />沼津機関區ノ碑<br />C58型蒸気機関車正面煙室扉とナンバープレート。<br />該機関区は、明治19年(1886年)12月に工部省鐵道作業局沼津機関車事務所として開設されたのが嚆矢。<br />開設当時は、東海道連絡鉄道國府津-静岡間が建設中であり、実際に沼津に蒸気機関車が到着したのは、翌明治20年(1887年)2月15日頃とされる。<br />此の時は京濱間で使用した該蒸気機関車を分解し、横濱港から汽船で駿河湾江ノ浦まで輸送し、江ノ浦で艀に積替え、沼津蛇松に陸揚した。<br />此の輸送を兼ね、蛇松-沼津停車場間3.2kmが路線敷設され、工事完成後は貨物線として昭和49年(1974年)9月1日附で廃止されるまで残存し、現在は沼津市に払下げられた後、蛇松緑道として地元で利用されている。<br />沼津に於いて最初に組立てられたのは5号機関車で、該機関車は後に6号に改番後、明治34年(1901年)9月に台湾総督府鐵道増強の為に日本郵船鶴彦丸で送付途中、長崎県五島列島沖に於いて座礁沈没した。<br />該区開設当時に於ける沼津の水事情は甚だ悪く、機関庫に対する余配水が困難な為に、已む無く機関庫では隣接する子持川から取水し貯蔵池に蓄積したが、該河川域は汽水域の為に塩分が強く、塩分分離に苦労させられたが、且つ、該貯水池には浅蜊大の蜆が繁殖し、職員、及び、職員家族の栄養補給に活用された。<br />

    沼津駅



    駅前広場
    沼津機関區ノ碑
    C58型蒸気機関車正面煙室扉とナンバープレート。
    該機関区は、明治19年(1886年)12月に工部省鐵道作業局沼津機関車事務所として開設されたのが嚆矢。
    開設当時は、東海道連絡鉄道國府津-静岡間が建設中であり、実際に沼津に蒸気機関車が到着したのは、翌明治20年(1887年)2月15日頃とされる。
    此の時は京濱間で使用した該蒸気機関車を分解し、横濱港から汽船で駿河湾江ノ浦まで輸送し、江ノ浦で艀に積替え、沼津蛇松に陸揚した。
    此の輸送を兼ね、蛇松-沼津停車場間3.2kmが路線敷設され、工事完成後は貨物線として昭和49年(1974年)9月1日附で廃止されるまで残存し、現在は沼津市に払下げられた後、蛇松緑道として地元で利用されている。
    沼津に於いて最初に組立てられたのは5号機関車で、該機関車は後に6号に改番後、明治34年(1901年)9月に台湾総督府鐵道増強の為に日本郵船鶴彦丸で送付途中、長崎県五島列島沖に於いて座礁沈没した。
    該区開設当時に於ける沼津の水事情は甚だ悪く、機関庫に対する余配水が困難な為に、已む無く機関庫では隣接する子持川から取水し貯蔵池に蓄積したが、該河川域は汽水域の為に塩分が強く、塩分分離に苦労させられたが、且つ、該貯水池には浅蜊大の蜆が繁殖し、職員、及び、職員家族の栄養補給に活用された。

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />旧沼津機関区跡地<br />民営分割時に国鉄清算事業団所有地となり、民間払下後、再開発が進行中。<br />該機関区は昭和5年(1930年)10月1日より昭和9年(1934年)9月30日まで、特別急行 燕 号 牽引用蒸気機関車C51型、及び、下り國府津-御殿場間、及び、上り沼津-御殿場間登り勾配後押用蒸気機関車C53型が配置運用され、同時に東京-沼津間に於ける運転乗務を担当した。<br />昭和9年(1934年)12月1日に熱海線國府津-熱海-沼津間が全通し該線が東海道本線に編入した事に拠り、沼津機関庫は蒸気機関車配置機関庫から電気機関車配置区に変貌を遂げ、蒸気機関車運用は廃止まで、三島駅、沼津駅構内入換、及び、御殿場線に限定される。<br />戦後は日本国有鉄道法施行に伴う官制改正に拠り、昭和25年(1950年)8月1日附で、それ迄の、沼津地区は東京鉄道局新橋管理部管理下に在ったが、以後は中部支社静岡鉄道管理局管理に変更された。<br />国鉄末期車輌配置合理化に拠り沼津機関区は車輌配置が無となり、沼津運転区に変更された。<br />写真は、旧沼津機関区電気機関車庫跡地。

    沼津駅



    旧沼津機関区跡地
    民営分割時に国鉄清算事業団所有地となり、民間払下後、再開発が進行中。
    該機関区は昭和5年(1930年)10月1日より昭和9年(1934年)9月30日まで、特別急行 燕 号 牽引用蒸気機関車C51型、及び、下り國府津-御殿場間、及び、上り沼津-御殿場間登り勾配後押用蒸気機関車C53型が配置運用され、同時に東京-沼津間に於ける運転乗務を担当した。
    昭和9年(1934年)12月1日に熱海線國府津-熱海-沼津間が全通し該線が東海道本線に編入した事に拠り、沼津機関庫は蒸気機関車配置機関庫から電気機関車配置区に変貌を遂げ、蒸気機関車運用は廃止まで、三島駅、沼津駅構内入換、及び、御殿場線に限定される。
    戦後は日本国有鉄道法施行に伴う官制改正に拠り、昭和25年(1950年)8月1日附で、それ迄の、沼津地区は東京鉄道局新橋管理部管理下に在ったが、以後は中部支社静岡鉄道管理局管理に変更された。
    国鉄末期車輌配置合理化に拠り沼津機関区は車輌配置が無となり、沼津運転区に変更された。
    写真は、旧沼津機関区電気機関車庫跡地。

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />桃中軒<br />弁当販売は南口改札口横のみ。<br />http://www.tochuken.co.jp/

    沼津駅



    桃中軒
    弁当販売は南口改札口横のみ。
    http://www.tochuken.co.jp/

  • 桃中軒<br /><br /><br /><br />本社工場<br />沼津駅、三島駅、及び、御殿場駅に於いて駅弁販売を展開する桃中軒は、明治維新の際に静岡藩に移住させられた旧徳川家幕臣 宇野三千三が、鉄道開業2年後たる明治24年(1891年)に当時の沼津停車場構内に於ける弁当販売を行うべく鐵道作業局に販売許可を求め、同年4月9日に許可された事が嚆矢である。<br />販売当時は、幕の内弁当13銭、ひとよ寿司8銭、まんじゅう5銭で販売された、<br />戦前の東海道本線長距離利用者は沼津駅弁が美味い事を熟知しており、「東海道に乗ったら飲まず食わずで沼津で飯食おう」なる駄洒落が存在した程であった。<br />戦前は幕の内弁当以外に、素焼きの丼に入った鰻丼、戦後は鯖の押寿司が美味とされていたが、近年の駿河湾に於ける良質な鯖の不漁から入手困難を理由に鯖寿司は販売中止になり残念である。<br />桃中軒創業当初は沼津停車場に隣接していたが、大正2年(1913年)3月3日、及び、大正15年(1926年)12月10日に於ける2度の沼津大火、及び、昭和20年(1945年)7月16日の沼津大空襲で全焼したが現位置で復旧している。<br />その後、沼津駅隣接地での弁当製造が手狭になった事から、平成元年(1989年)6月に現在地に移転し、更に、本社機能も平成5年(1993年)7月に工場隣接地に移転。<br /><br />桃中軒(とうちゅうけん)<br />http://www.tochuken.co.jp/

    桃中軒



    本社工場
    沼津駅、三島駅、及び、御殿場駅に於いて駅弁販売を展開する桃中軒は、明治維新の際に静岡藩に移住させられた旧徳川家幕臣 宇野三千三が、鉄道開業2年後たる明治24年(1891年)に当時の沼津停車場構内に於ける弁当販売を行うべく鐵道作業局に販売許可を求め、同年4月9日に許可された事が嚆矢である。
    販売当時は、幕の内弁当13銭、ひとよ寿司8銭、まんじゅう5銭で販売された、
    戦前の東海道本線長距離利用者は沼津駅弁が美味い事を熟知しており、「東海道に乗ったら飲まず食わずで沼津で飯食おう」なる駄洒落が存在した程であった。
    戦前は幕の内弁当以外に、素焼きの丼に入った鰻丼、戦後は鯖の押寿司が美味とされていたが、近年の駿河湾に於ける良質な鯖の不漁から入手困難を理由に鯖寿司は販売中止になり残念である。
    桃中軒創業当初は沼津停車場に隣接していたが、大正2年(1913年)3月3日、及び、大正15年(1926年)12月10日に於ける2度の沼津大火、及び、昭和20年(1945年)7月16日の沼津大空襲で全焼したが現位置で復旧している。
    その後、沼津駅隣接地での弁当製造が手狭になった事から、平成元年(1989年)6月に現在地に移転し、更に、本社機能も平成5年(1993年)7月に工場隣接地に移転。

    桃中軒(とうちゅうけん)
    http://www.tochuken.co.jp/

    桃中軒 グルメ・レストラン

  • 桃中軒<br /><br /><br /><br />本社工場<br /><br />桃中軒<br />http://www.tochuken.co.jp/

    桃中軒



    本社工場

    桃中軒
    http://www.tochuken.co.jp/

    桃中軒 グルメ・レストラン

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱所<br />該駅は民営分割以前から貨客取扱所が完全分離されていた。<br /><br />沼津市下中溝601?4<br />東海道本線沼津駅南口 沼津登山東海バス丸子橋停留所降車 徒歩2分

    沼津駅



    貨物取扱所
    該駅は民営分割以前から貨客取扱所が完全分離されていた。

    沼津市下中溝601?4
    東海道本線沼津駅南口 沼津登山東海バス丸子橋停留所降車 徒歩2分

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />明電舎沼津事業所貨物専用線<br />工場生産品の関係で超大型機器搭載貨車シキも入線。<br /><br />沼津市東間門585<br />東海道本線沼津駅南口 沼津登山東海バス丸子橋停留所降車 徒歩6分<br /><br />

    沼津駅



    明電舎沼津事業所貨物専用線
    工場生産品の関係で超大型機器搭載貨車シキも入線。

    沼津市東間門585
    東海道本線沼津駅南口 沼津登山東海バス丸子橋停留所降車 徒歩6分

    沼津駅

  • 沼津駅<br /><br /><br /><br />明電舎沼津事業所貨物専用線<br />該構内貨物入換で使用される小型蓄電池機関車。<br /><br />沼津市東間門585<br />東海道本線沼津駅南口 沼津登山東海バス丸子橋停留場降車 徒歩6分

    沼津駅



    明電舎沼津事業所貨物専用線
    該構内貨物入換で使用される小型蓄電池機関車。

    沼津市東間門585
    東海道本線沼津駅南口 沼津登山東海バス丸子橋停留場降車 徒歩6分

    沼津駅

  • 沼津-片浜間<br /><br /><br /><br />小諏訪(こずわ)避溢橋

    沼津-片浜間



    小諏訪(こずわ)避溢橋

  • 沼津-片浜間<br /><br /><br /><br />小諏訪避溢橋

    沼津-片浜間



    小諏訪避溢橋

  • 沼津-片浜間<br /><br /><br /><br />小諏訪避溢橋<br />避溢橋(ひいつきょう)とは、河川氾濫時等にのみ流水し築堤破壊を防止する構造橋。<br />橋台使用の石材は駿河國江梨村産使用。<br />江梨村は後に町村合併に依り西浦村から沼津市に合併、現在の西浦江梨町。

    沼津-片浜間



    小諏訪避溢橋
    避溢橋(ひいつきょう)とは、河川氾濫時等にのみ流水し築堤破壊を防止する構造橋。
    橋台使用の石材は駿河國江梨村産使用。
    江梨村は後に町村合併に依り西浦村から沼津市に合併、現在の西浦江梨町。

  • 片浜(かたはま)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />昭和62年(1987年)2月1日開業。

    片浜(かたはま)駅



    駅本屋
    昭和62年(1987年)2月1日開業。

    片浜駅

  • 片浜-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />JR貨物沼津貨物ターミナル駅建設予定地。<br />沼津駅附近連続高架化工事の為に現沼津車輌区が使用不可能になる為に該地点に移転予定。<br />但し、付近一帯で大規模古代遺跡が発見され建設工事は中断。

    片浜-東田子の浦間



    JR貨物沼津貨物ターミナル駅建設予定地。
    沼津駅附近連続高架化工事の為に現沼津車輌区が使用不可能になる為に該地点に移転予定。
    但し、付近一帯で大規模古代遺跡が発見され建設工事は中断。

  • 清梵寺(せいぼんじ)<br /><br /><br /><br />該寺の願王閣扁額は、白隠慧鶴(はくげん えかく)(貞享2年(1686年)1月19日?明和5年(1768年)1月18日)。<br />願王殿扁額は、 山岡鐵舟(やまおか てっしゅう)(天保7年(1836年)7月23日?明治21年(1888年)7月19日)。<br />である。<br />各々佛教用語で、願王閣とは地蔵を称し、願王殿とは地蔵を安置する館を称する。<br /><br />清梵寺(せいぼんじ)<br />沼津市原町大塚278<br />?: 055?966?0372<br />東海道本線原駅 富士急シティバス大塚停留所降車 徒歩2分<br />http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/seibon.htm

    清梵寺(せいぼんじ)



    該寺の願王閣扁額は、白隠慧鶴(はくげん えかく)(貞享2年(1686年)1月19日?明和5年(1768年)1月18日)。
    願王殿扁額は、 山岡鐵舟(やまおか てっしゅう)(天保7年(1836年)7月23日?明治21年(1888年)7月19日)。
    である。
    各々佛教用語で、願王閣とは地蔵を称し、願王殿とは地蔵を安置する館を称する。

    清梵寺(せいぼんじ)
    沼津市原町大塚278
    ?: 055?966?0372
    東海道本線原駅 富士急シティバス大塚停留所降車 徒歩2分
    http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/seibon.htm

  • 清梵寺<br /><br /><br /><br />該区間建設工事担当の工夫長 岡周吉は元徳川幕府彰義隊出身の士族で、山岡鐵舟と親交が在った事から、該区間工事に鑑み、清梵寺境内を通過せざるを得ない事情と地蔵に対する敬愛から扁額寄進に際し書を依頼したものと推定される。<br />明治23年(1890年)8月奉納<br /><br />清梵寺(せいぼんじ)<br />沼津市原町大塚278<br />?: 055?966?0372<br />東海道本線原駅 富士急シティバス大塚停留所降車 徒歩2分<br />http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/seibon.htm

    清梵寺



    該区間建設工事担当の工夫長 岡周吉は元徳川幕府彰義隊出身の士族で、山岡鐵舟と親交が在った事から、該区間工事に鑑み、清梵寺境内を通過せざるを得ない事情と地蔵に対する敬愛から扁額寄進に際し書を依頼したものと推定される。
    明治23年(1890年)8月奉納

    清梵寺(せいぼんじ)
    沼津市原町大塚278
    ?: 055?966?0372
    東海道本線原駅 富士急シティバス大塚停留所降車 徒歩2分
    http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/seibon.htm

    清梵寺 寺・神社・教会

    清梵寺〔寺院〕 by 横浜臨海公園さん
  • 片浜-原間<br /><br /><br /><br />列車排出火粉火災疑惑事件現場<br />明治26年(1893年)4月25日14時頃、現場を通過中の上り貨物列車牽引蒸気機関車煙突から排出された火粉が、昌原寺本道茅葺屋根に着火炎上し、火は西念寺に延焼、寺院2、民家、及び、物置14棟を全焼させた。<br />被災者一同は連名で逓信省鐵道作業局に対し被害救済金下付を申請したが、此れに対し、当局側は該火災が該牽引機関車が原因と断定困難として申請を却下した。<br />後年、明治44年(1911年)3月31日の神奈川縣橘樹郡生見尾大火の際は、当局の初動対応の稚拙から被害住民が激怒暴徒化し、東海道線上に座込みをする等などした騒ぎとなったが、本事件は、そのまま有耶無耶にされ被害者は泣寝入だった。<br />該火災事件発生当時は原駅は未設置。<br /><br />沼津市東畑185<br />東海道本線原駅 徒歩4分

    片浜-原間



    列車排出火粉火災疑惑事件現場
    明治26年(1893年)4月25日14時頃、現場を通過中の上り貨物列車牽引蒸気機関車煙突から排出された火粉が、昌原寺本道茅葺屋根に着火炎上し、火は西念寺に延焼、寺院2、民家、及び、物置14棟を全焼させた。
    被災者一同は連名で逓信省鐵道作業局に対し被害救済金下付を申請したが、此れに対し、当局側は該火災が該牽引機関車が原因と断定困難として申請を却下した。
    後年、明治44年(1911年)3月31日の神奈川縣橘樹郡生見尾大火の際は、当局の初動対応の稚拙から被害住民が激怒暴徒化し、東海道線上に座込みをする等などした騒ぎとなったが、本事件は、そのまま有耶無耶にされ被害者は泣寝入だった。
    該火災事件発生当時は原駅は未設置。

    沼津市東畑185
    東海道本線原駅 徒歩4分

  • 片浜-原間<br /><br /><br /><br />図書出版社沼津原工場専用線跡<br />該工場は原駅から遠隔地に存在した為に、貨物専用引込線として昭和28年(1953年)5月に新設された。<br />然るに、時代の趨勢から貨物輸送は鉄道貨車からトラックへと主体の変遷を遂げ、且つ、原駅に於ける貨車取扱が昭和59年(1984年)1月16日附で廃止された事から、該貨物専用引込線も翌昭和60年(1985年)6月19日附で廃止され踏切箇所の線路は直ちに撤去完了したが、引込線廃止後27年を経過し、原駅から工場までの大部分の区間で線路未撤去で路盤跡が残存する。<br /><br />沼津市原町東畑185<br />東海道本線原駅 徒歩5分

    片浜-原間



    図書出版社沼津原工場専用線跡
    該工場は原駅から遠隔地に存在した為に、貨物専用引込線として昭和28年(1953年)5月に新設された。
    然るに、時代の趨勢から貨物輸送は鉄道貨車からトラックへと主体の変遷を遂げ、且つ、原駅に於ける貨車取扱が昭和59年(1984年)1月16日附で廃止された事から、該貨物専用引込線も翌昭和60年(1985年)6月19日附で廃止され踏切箇所の線路は直ちに撤去完了したが、引込線廃止後27年を経過し、原駅から工場までの大部分の区間で線路未撤去で路盤跡が残存する。

    沼津市原町東畑185
    東海道本線原駅 徒歩5分

  • 片浜-原間<br /><br /><br /><br />原駅構内<br />東京方を俯瞰。<br /><br />沼津市植田95<br />東海道本線原駅 徒歩4分

    片浜-原間



    原駅構内
    東京方を俯瞰。

    沼津市植田95
    東海道本線原駅 徒歩4分

  • 片浜-原間<br /><br /><br /><br />原駅構内<br />東京方から俯瞰。<br />右手は旧貨物取扱跡。<br />昭和22年(1947年)9月14日の原駅構内貨車暴走事故は該線で発生。<br /><br />沼津市植田95<br />東海道本線原駅 徒歩4分

    片浜-原間



    原駅構内
    東京方から俯瞰。
    右手は旧貨物取扱跡。
    昭和22年(1947年)9月14日の原駅構内貨車暴走事故は該線で発生。

    沼津市植田95
    東海道本線原駅 徒歩4分

  • 原(はら)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />初代駅本屋は明治33年(1900年)2月25日開業以来、関東大震災や大東亜戦争空襲等々に被災せず無事だったが、昭和22年(1947年)9月14日に貨物入換作業中に担当職員が乗車せぬまま突放状態で駅本屋に激突大破全壊し、上り列車出発直後だった為に待合室は閑散としており、乗客、及び、駅職員計6名が重軽傷を負う事故が発生。<br />因みに、同時期に和歌山線五条駅でも同例事故が発生している。<br />現駅本屋は第2代目として翌昭和23年(1948年)3月6日附で再建。<br />平成9年(1997年)に旧東海道宿場町に相応しく改装。<br />http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/hara/index.html

    原(はら)駅



    駅本屋
    初代駅本屋は明治33年(1900年)2月25日開業以来、関東大震災や大東亜戦争空襲等々に被災せず無事だったが、昭和22年(1947年)9月14日に貨物入換作業中に担当職員が乗車せぬまま突放状態で駅本屋に激突大破全壊し、上り列車出発直後だった為に待合室は閑散としており、乗客、及び、駅職員計6名が重軽傷を負う事故が発生。
    因みに、同時期に和歌山線五条駅でも同例事故が発生している。
    現駅本屋は第2代目として翌昭和23年(1948年)3月6日附で再建。
    平成9年(1997年)に旧東海道宿場町に相応しく改装。
    http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/hara/index.html

  • 原駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />出改札口付近。

    原駅



    駅本屋
    出改札口付近。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム

    原駅



    第2番ホーム

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム上屋柱古軌条<br />但し、該軌条表面ペイント厚塗の為に解読不能。<br />軌条形状から、明治10年代の英国キャムメル社製造品と推定。

    原駅



    第2番ホーム上屋柱古軌条
    但し、該軌条表面ペイント厚塗の為に解読不能。
    軌条形状から、明治10年代の英国キャムメル社製造品と推定。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />第1番ホーム側

    原駅



    駅本屋
    第1番ホーム側

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />危険品保管倉庫<br />煉瓦建築<br />該駅開業直後たる明治33年(1900年)3月建築。

    原駅



    危険品保管倉庫
    煉瓦建築
    該駅開業直後たる明治33年(1900年)3月建築。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />危険物管理倉庫<br />煉瓦建築<br />建築後112年経過した歴史的建築物。<br />該倉庫前にゴミ箱を設置するJR東海の鈍感、且つ、無神経ぶりに横浜臨海公園はJR東海本社にゴミ箱移転を提言し、該本社は理解を示すも現場は黙殺。<br />地域性なのか、煉瓦への飲料水残り溢しや日焼け染み被害に就いて理解せず、相変わらず同位置にゴミ箱設置継続する地域民度の低さに少なからず侮蔑軽蔑感を抱く。

    原駅



    危険物管理倉庫
    煉瓦建築
    建築後112年経過した歴史的建築物。
    該倉庫前にゴミ箱を設置するJR東海の鈍感、且つ、無神経ぶりに横浜臨海公園はJR東海本社にゴミ箱移転を提言し、該本社は理解を示すも現場は黙殺。
    地域性なのか、煉瓦への飲料水残り溢しや日焼け染み被害に就いて理解せず、相変わらず同位置にゴミ箱設置継続する地域民度の低さに少なからず侮蔑軽蔑感を抱く。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />危険品保管倉庫<br />煉瓦建築<br />裏側(駅前広場側)<br />落書を消す為にペイント施工の荒療治。<br />歴史的記念物に対する価値観理解力の欠如明白。

    原駅



    危険品保管倉庫
    煉瓦建築
    裏側(駅前広場側)
    落書を消す為にペイント施工の荒療治。
    歴史的記念物に対する価値観理解力の欠如明白。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />危険品保管倉庫<br />煉瓦建築<br />阿蘭陀積工法<br />建築当時は煉瓦積工法は英國積が主流になりつつある時代であったが、阿蘭陀積は現存する藤枝駅危険品保管倉庫と共に珍しい存在である。

    原駅



    危険品保管倉庫
    煉瓦建築
    阿蘭陀積工法
    建築当時は煉瓦積工法は英國積が主流になりつつある時代であったが、阿蘭陀積は現存する藤枝駅危険品保管倉庫と共に珍しい存在である。

  • 原駅<br /><br /><br /><br />危険物管理倉庫<br />煉瓦建築<br />昭和22年(1947年)9月14日の駅本屋貨車突撃大破事故では、該事故車両が倉庫直前で停車し無事。

    原駅



    危険物管理倉庫
    煉瓦建築
    昭和22年(1947年)9月14日の駅本屋貨車突撃大破事故では、該事故車両が倉庫直前で停車し無事。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />第2番線<br />ホーム段差痕

    原駅



    第2番線
    ホーム段差痕

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />第1番線ホーム<br />神戸方を望見。<br />第1番線に向かい直線状だったものが第2番線に付替えら第1番線が退避線化された。<br />元来、旅客は線路横断様式だったが、列車本数増加に拠る危険防止の為に、初代跨線橋が昭和3年(1928年)10月25日に竣工し古軌条を組合せた存在だったが、老朽化と耐震性に難がある事から、平成9年(1997年)7月に駅改装と同時に鉄筋コンクリート製に改築された第2代目。

    原駅



    第1番線ホーム
    神戸方を望見。
    第1番線に向かい直線状だったものが第2番線に付替えら第1番線が退避線化された。
    元来、旅客は線路横断様式だったが、列車本数増加に拠る危険防止の為に、初代跨線橋が昭和3年(1928年)10月25日に竣工し古軌条を組合せた存在だったが、老朽化と耐震性に難がある事から、平成9年(1997年)7月に駅改装と同時に鉄筋コンクリート製に改築された第2代目。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />神戸方を俯瞰

    原駅



    第1番ホーム
    神戸方を俯瞰

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />神戸方から俯瞰<br />右手線路が上り本線。<br />本来は1番線に入線していたが列車本数増加に拠り列車待避線が必要となり、現在の如く線路が付け替えられた。<br />分岐器が大きく屈曲。<br />後世の改装たる事が明白。

    原駅



    駅構内
    神戸方から俯瞰
    右手線路が上り本線。
    本来は1番線に入線していたが列車本数増加に拠り列車待避線が必要となり、現在の如く線路が付け替えられた。
    分岐器が大きく屈曲。
    後世の改装たる事が明白。

    原駅

    原駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 原-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />天王社(てんおうしゃ)<br />停車場設置記念碑<br />東海道本線開業以来、停車場開設に漕ぎ着けた地元住民の悲願達成を記念して境内に碑が存在。<br /><br />沼津市原577<br />東海道本線原駅 徒歩4分

    原-東田子の浦間



    天王社(てんおうしゃ)
    停車場設置記念碑
    東海道本線開業以来、停車場開設に漕ぎ着けた地元住民の悲願達成を記念して境内に碑が存在。

    沼津市原577
    東海道本線原駅 徒歩4分

  • 原-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />天王社<br />停車場設置記念碑<br />背後は東海道本線。<br /><br />沼津市原577<br />東海道本線原駅 徒歩4分

    原-東田子の浦間



    天王社
    停車場設置記念碑
    背後は東海道本線。

    沼津市原577
    東海道本線原駅 徒歩4分

  • 原-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />JR貨物沼津貨物ターミナル駅移転予定地<br />沼津駅付近連続高架化工事の為に現行沼津駅貨物取扱が不可能になる事から該地点に移転予定。<br /><br />富士市一本松中原396<br />東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス一本松停留所降車 徒歩1分

    原-東田子の浦間



    JR貨物沼津貨物ターミナル駅移転予定地
    沼津駅付近連続高架化工事の為に現行沼津駅貨物取扱が不可能になる事から該地点に移転予定。

    富士市一本松中原396
    東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス一本松停留所降車 徒歩1分

  • 原-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />JR貨物沼津貨物ターミナル駅移転予定地<br />現地住民は貨物新駅設置に対し反対運動を展開。<br /><br />富士市一本松中原396<br />東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス一本松停留所降車 徒歩1分

    原-東田子の浦間



    JR貨物沼津貨物ターミナル駅移転予定地
    現地住民は貨物新駅設置に対し反対運動を展開。

    富士市一本松中原396
    東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス一本松停留所降車 徒歩1分

    東田子の浦駅

  • 原-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />植田踏切(うえだ ふみきり)<br />昭和30年(1955年)5月17日2時19分頃、該踏切内を無謀横断せんとした米陸軍トレーラーが踏切内で脱輪し、走行中の京都発東京行第3138臨時団体専用列車と衝突し、該トレーラー積荷の揮発性塗料が引火炎上し、客車5輌全焼、牽引EF58型電気機関車1輌、及び、客車2輌が半焼、職員、及び、乗客2名が重傷、31名が軽傷を負う大事故発生現場。<br /><br />沼津市植田95<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩5分

    原-東田子の浦間



    植田踏切(うえだ ふみきり)
    昭和30年(1955年)5月17日2時19分頃、該踏切内を無謀横断せんとした米陸軍トレーラーが踏切内で脱輪し、走行中の京都発東京行第3138臨時団体専用列車と衝突し、該トレーラー積荷の揮発性塗料が引火炎上し、客車5輌全焼、牽引EF58型電気機関車1輌、及び、客車2輌が半焼、職員、及び、乗客2名が重傷、31名が軽傷を負う大事故発生現場。

    沼津市植田95
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩5分

    東田子の浦駅

  • 原-東田子の浦間<br /><br /><br /><br />植田踏切<br />該事故被災車輌は損壊状況が著しく現代ならば廃車になる処、全車輌修復の上再用。<br /><br />沼津市植田95<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩5分

    原-東田子の浦間



    植田踏切
    該事故被災車輌は損壊状況が著しく現代ならば廃車になる処、全車輌修復の上再用。

    沼津市植田95
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩5分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦(ひがしたごのうら)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />東海道本線原-鈴川(現 吉原)間8.5キロ途中に駅が存在せず、駅間在住者で鉄道利用者は、原、若しくは、鈴川まで徒歩で移動しなければ鉄道利用の手段が存在しなかった。<br />早くも、大正9年(1920年)に富士郡大野新田村を中心とした近隣所村が連名で該区間内駅設置に関する陳情書を当時の鐵道省に提出したが、提出当時は、第1次世界大戦終結に伴う国際的大不況下に在るのみならず、該年はスペイン風邪が世界的大流行の真最中で、昨今の研究で我が国に於いてですら乳幼児を含め54万人弱もの死者を出す被害が発生している最中、労働人口に関し緊急土木建築工事事業にすら影響支障を来たしている実態から、とても新規事業に手を出す程の余裕は無い実情から該陳情は半ば黙殺される。<br />次の駅設置運動は、日華事変勃発翌年の昭和13年(1938年)に起きたが、事変拡大に拠る国民総動員体制時代に於ける準戦時下では不要不急工事とされ日の目を見る事は無かった。<br />駅設置が現実的になったのは、大東亜戦争終結後の昭和23年(1948年)7月1日附で「柏原駅新設期同盟会」が設立された事で一気に具体化し、駅設置に関する費用を全額地元負担とする事で運輸省鉄道総局の許可が下りた。<br />工事は、翌昭和24年(1949年)1月2日に着工し、同年同月30日にホームが完成し、取敢えず、名古屋鉄道局静岡管理部限定で同年7月10日より、元吉原仮乗降場(もとよしわら かりじょうこうじょう)として、地元住民で通勤通学定期券所持者の為に上下旅客列車6本が停車した。<br />その後、正式開業にあたり、静岡管理部は地元に対し正式駅名の是非を問い合せて来た為に、地元では村名たる 柏原(かしわばら)を希望したが、東海道本線関ヶ原-柏原-近江長岡間に同一駅名が存在する事から門前払いされる。<br />その内、田子の浦を推挙する声が挙がり、異論も生じた為に検討した結果、駿河新風土記に「田子浦ハ庵原郡江尻ヨリ駿河郡沼津ノ濱ニ至ルマデ総テ田子ノ浦ト称ス」との記述が根拠となり、静岡県東部地区に存在する事から、東を付け、東田子の浦を命名希望とし当局も了承した事から、正式名称に決定し、同年9月15日に仮開業状態から格上され正式開業した。<br />

    東田子の浦(ひがしたごのうら)駅



    駅本屋
    全景
    東海道本線原-鈴川(現 吉原)間8.5キロ途中に駅が存在せず、駅間在住者で鉄道利用者は、原、若しくは、鈴川まで徒歩で移動しなければ鉄道利用の手段が存在しなかった。
    早くも、大正9年(1920年)に富士郡大野新田村を中心とした近隣所村が連名で該区間内駅設置に関する陳情書を当時の鐵道省に提出したが、提出当時は、第1次世界大戦終結に伴う国際的大不況下に在るのみならず、該年はスペイン風邪が世界的大流行の真最中で、昨今の研究で我が国に於いてですら乳幼児を含め54万人弱もの死者を出す被害が発生している最中、労働人口に関し緊急土木建築工事事業にすら影響支障を来たしている実態から、とても新規事業に手を出す程の余裕は無い実情から該陳情は半ば黙殺される。
    次の駅設置運動は、日華事変勃発翌年の昭和13年(1938年)に起きたが、事変拡大に拠る国民総動員体制時代に於ける準戦時下では不要不急工事とされ日の目を見る事は無かった。
    駅設置が現実的になったのは、大東亜戦争終結後の昭和23年(1948年)7月1日附で「柏原駅新設期同盟会」が設立された事で一気に具体化し、駅設置に関する費用を全額地元負担とする事で運輸省鉄道総局の許可が下りた。
    工事は、翌昭和24年(1949年)1月2日に着工し、同年同月30日にホームが完成し、取敢えず、名古屋鉄道局静岡管理部限定で同年7月10日より、元吉原仮乗降場(もとよしわら かりじょうこうじょう)として、地元住民で通勤通学定期券所持者の為に上下旅客列車6本が停車した。
    その後、正式開業にあたり、静岡管理部は地元に対し正式駅名の是非を問い合せて来た為に、地元では村名たる 柏原(かしわばら)を希望したが、東海道本線関ヶ原-柏原-近江長岡間に同一駅名が存在する事から門前払いされる。
    その内、田子の浦を推挙する声が挙がり、異論も生じた為に検討した結果、駿河新風土記に「田子浦ハ庵原郡江尻ヨリ駿河郡沼津ノ濱ニ至ルマデ総テ田子ノ浦ト称ス」との記述が根拠となり、静岡県東部地区に存在する事から、東を付け、東田子の浦を命名希望とし当局も了承した事から、正式名称に決定し、同年9月15日に仮開業状態から格上され正式開業した。

  • 東田子の浦駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />正面装飾<br />

    東田子の浦駅



    駅本屋
    正面装飾

  • 東田子の浦駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />出改札口<br />開設当時の建築。<br />地元建築業者に依り無償建築設置。

    東田子の浦駅



    駅本屋
    出改札口
    開設当時の建築。
    地元建築業者に依り無償建築設置。

  • 東田子の浦駅<br /><br /><br /><br />六王子神社<br />益田定造(ますだ ていぞう) 頌徳碑<br />全景<br /><br />富士市中柏原新田173<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩30秒

    東田子の浦駅



    六王子神社
    益田定造(ますだ ていぞう) 頌徳碑
    全景

    富士市中柏原新田173
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩30秒

  • 東田子の浦駅<br /><br /><br /><br />六王子神社<br />益田定造 頌徳碑<br />該駅設置の為に尽力し私財をも提供した。<br />該駅六王子神社境内一角に所在。<br /><br />富士市中柏原新田173<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩30秒

    東田子の浦駅



    六王子神社
    益田定造 頌徳碑
    該駅設置の為に尽力し私財をも提供した。
    該駅六王子神社境内一角に所在。

    富士市中柏原新田173
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩30秒

  • 東田子の浦駅<br /><br /><br /><br />六王子神社<br />益田定造 頌徳碑<br />田子の浦駅を日夜見守っている。<br /><br />富士市中柏原新田173<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩30秒

    東田子の浦駅



    六王子神社
    益田定造 頌徳碑
    田子の浦駅を日夜見守っている。

    富士市中柏原新田173
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩30秒

  • 東田子の浦駅<br /><br /><br /><br />東田子の浦(ひがしたごのうら)踏切<br />神戸方から構内俯瞰。<br /><br />富士市西柏原新田168<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩2分

    東田子の浦駅



    東田子の浦(ひがしたごのうら)踏切
    神戸方から構内俯瞰。

    富士市西柏原新田168
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩2分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />東田子の浦踏切<br />直線区間<br />鐵道省は、昭和5年(1930年)10月1日開始を目途に、東京-神戸間に9時間と云う従来では存在し得なかった高速度の特別急行列車運転の為に、当時の蒸気機関車運転に於いて、動力源として必要不可欠たるボイラーへの給水問題を如何にして可能克服するかが成功の重要課題とされた。<br />即ち、当時存在した大型旅客用蒸気機関車、C51型、及び、C53型に於ける炭水車の水積容量での連続運転で概ね3時間弱が限度とされ、該問題解決の為に途中給水の為の停車駅増加は運転時間の増大を招き、短時間到達の利点を減退させる事から、研究試案として、原-鈴川(現 吉原)間が平坦で直線区間たる線形から、当時の英国に於いて、線路軌条間に給水用ピットを連続設置し、走行しながら該施設から給水する方式に着目され、新鶴見操車場構内に該施設試験線を設置して実験したが、英国の如き標準軌なら兎も角、我が国の如き狭軌では走行中の機関車への吸水は困難であり、結論で不可能と判定され該案は不採用となった。<br />代案として浮上したのは、牽引蒸気機関車炭水車次位に水槽車を連結して可能と判断され結果的に該案が採用され、下り列車は國府津-名古屋間、上り列車は名古屋-沼津間無停車運転を可能ならしめた。<br /><br />富士市西柏原新田168<br />東海道本線東田子の浦駅 徒歩2分

    東田子の浦-吉原間



    東田子の浦踏切
    直線区間
    鐵道省は、昭和5年(1930年)10月1日開始を目途に、東京-神戸間に9時間と云う従来では存在し得なかった高速度の特別急行列車運転の為に、当時の蒸気機関車運転に於いて、動力源として必要不可欠たるボイラーへの給水問題を如何にして可能克服するかが成功の重要課題とされた。
    即ち、当時存在した大型旅客用蒸気機関車、C51型、及び、C53型に於ける炭水車の水積容量での連続運転で概ね3時間弱が限度とされ、該問題解決の為に途中給水の為の停車駅増加は運転時間の増大を招き、短時間到達の利点を減退させる事から、研究試案として、原-鈴川(現 吉原)間が平坦で直線区間たる線形から、当時の英国に於いて、線路軌条間に給水用ピットを連続設置し、走行しながら該施設から給水する方式に着目され、新鶴見操車場構内に該施設試験線を設置して実験したが、英国の如き標準軌なら兎も角、我が国の如き狭軌では走行中の機関車への吸水は困難であり、結論で不可能と判定され該案は不採用となった。
    代案として浮上したのは、牽引蒸気機関車炭水車次位に水槽車を連結して可能と判断され結果的に該案が採用され、下り列車は國府津-名古屋間、上り列車は名古屋-沼津間無停車運転を可能ならしめた。

    富士市西柏原新田168
    東海道本線東田子の浦駅 徒歩2分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />昭和放水路(しょうわ ほうすいろ)橋梁<br />浮島沼逸水防止の為に設置。<br /><br />富士市大野新田259?1<br />東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス広沼橋停留所 徒歩2分

    東田子の浦-吉原間



    昭和放水路(しょうわ ほうすいろ)橋梁
    浮島沼逸水防止の為に設置。

    富士市大野新田259?1
    東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス広沼橋停留所 徒歩2分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />昭和放水路橋梁<br /><br />富士市大野新田259?1<br />東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス広沼橋停留所 徒歩2分

    東田子の浦-吉原間



    昭和放水路橋梁

    富士市大野新田259?1
    東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス広沼橋停留所 徒歩2分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />浮島沼跡<br />現在の東田子の浦駅裏側付近に存在した浮島沼(うきしまぬま)は、富士山の扇状地で、地盤が軟弱にして表面が浮地状態の大沢沼地帯であり、河川氾濫源の原型とも称するべき存在だった。<br />古くは、鎌倉時代に、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安4年(1147年)5月9日?建久10年(1193年)2月9日)が主宰した富士の巻狩りの際に、父の無念を晴らすべく曽我兄弟仇討(建久4年(1193年)6月28日)の舞台ともなった現場であり、明治初期ですら度々逸水氾濫が発生した厄介な地域である。<br />此の様な地に重量物たる鉄道車輌を、安全、且つ、大量に通過可能せしめる為に、何処に路線設定を成すべきかに就いて当時の技術力では未知の分野であり設定に慎重にならざるを得なかった。<br />明治19年(1886年)に干拓事業が開始され最終的には大東亜戦争勃発後たる昭和17年(1942年)7月31日附で昭和放水路完成を以って事業一切が竣工し一帯地目は田畑に変更された。<br /><br />富士市三新田無番地<br />東海道本線東田子の浦駅富士急シティバス広沼橋停留所 徒歩5分

    東田子の浦-吉原間



    浮島沼跡
    現在の東田子の浦駅裏側付近に存在した浮島沼(うきしまぬま)は、富士山の扇状地で、地盤が軟弱にして表面が浮地状態の大沢沼地帯であり、河川氾濫源の原型とも称するべき存在だった。
    古くは、鎌倉時代に、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安4年(1147年)5月9日?建久10年(1193年)2月9日)が主宰した富士の巻狩りの際に、父の無念を晴らすべく曽我兄弟仇討(建久4年(1193年)6月28日)の舞台ともなった現場であり、明治初期ですら度々逸水氾濫が発生した厄介な地域である。
    此の様な地に重量物たる鉄道車輌を、安全、且つ、大量に通過可能せしめる為に、何処に路線設定を成すべきかに就いて当時の技術力では未知の分野であり設定に慎重にならざるを得なかった。
    明治19年(1886年)に干拓事業が開始され最終的には大東亜戦争勃発後たる昭和17年(1942年)7月31日附で昭和放水路完成を以って事業一切が竣工し一帯地目は田畑に変更された。

    富士市三新田無番地
    東海道本線東田子の浦駅富士急シティバス広沼橋停留所 徒歩5分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />田中新田架道橋(たなか しんでん かどうきょう)<br />橋桁はPCコンクリート製に架替られたが石積橋台は開通当時の物。<br /><br />富士市大野新田2<br />東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス田中新田停留所降車 徒歩4分

    東田子の浦-吉原間



    田中新田架道橋(たなか しんでん かどうきょう)
    橋桁はPCコンクリート製に架替られたが石積橋台は開通当時の物。

    富士市大野新田2
    東海道本線東田子の浦駅 富士急シティバス田中新田停留所降車 徒歩4分

    東田子の浦駅

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />根方(ねかた)踏切<br />右2本は東海道本線<br />左1本は日本製紙富士工場鈴川専用線<br /><br />富士市今井4?26<br />東海道本線吉原駅北口 富士急シティバス毘沙門天前停留所降車 徒歩4分

    東田子の浦-吉原間



    根方(ねかた)踏切
    右2本は東海道本線
    左1本は日本製紙富士工場鈴川専用線

    富士市今井4?26
    東海道本線吉原駅北口 富士急シティバス毘沙門天前停留所降車 徒歩4分

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />鈴川(すずかわ)踏切<br />吉原駅は開業当時は鈴川’すずかわ)と称し、吉原市制導入に因み、昭和31年(1956年)4月1日附で現駅名に改称された。<br /><br />富士市今井4?1<br />東海道本線吉原駅北口 徒歩4分

    東田子の浦-吉原間



    鈴川(すずかわ)踏切
    吉原駅は開業当時は鈴川’すずかわ)と称し、吉原市制導入に因み、昭和31年(1956年)4月1日附で現駅名に改称された。

    富士市今井4?1
    東海道本線吉原駅北口 徒歩4分

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />鈴川踏切<br />旧駅名を偲ぶ数少ない現存例。<br /><br />富士市今井4?1<br />東海道本線吉原駅北口 徒歩4分

    東田子の浦-吉原間



    鈴川踏切
    旧駅名を偲ぶ数少ない現存例。

    富士市今井4?1
    東海道本線吉原駅北口 徒歩4分

  • 東田子の浦-吉原間<br /><br /><br /><br />鈴川踏切<br />東京方より構内俯瞰<br /><br />富士市今井4?1<br />東海道本線吉原駅北口 徒歩4分

    東田子の浦-吉原間



    鈴川踏切
    東京方より構内俯瞰

    富士市今井4?1
    東海道本線吉原駅北口 徒歩4分

  • 吉原(よしわら)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />吉原駅は、明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間と同時に開業した。<br />但し、駅開業当時は村名から命名され 鈴川(すずかわ)と称した。<br />旧東海道吉原宿中心地に存在し、且つ、身延方面への道路が存在した事も該地に駅が設置された有力根拠になったものと推定される。<br />該駅開業に呼応した形で、翌明治23年(1890年)1月に富士馬車鐵道が設立され、同年同月に工事起工後、同年6月23日に竣工し、鈴川-大宮町間14.1kmに鉄道馬車が運行された。<br />然るに、製紙工業発達と共に該鉄道馬車に拠る輸送では自ずから限界が生じ、各製糸工場では生産に対し発送が遅れ滞貨の山が生じる様になる事態が現出した結果、富士駅の開業に繋がる。<br />大正期に入り富士身延鐵道開業に拠り、輸送ルートが従来の鈴川では無く富士駅経由となり、貨物物流経路に変化が生じ鈴川に衰退の兆しが見られた。<br />然し、昭和12年(1937年)に日産自動車が本吉原地区にエンジン製造工場を設置し、特に、大東亜戦争直前に、帝國陸軍航空機ハ47型搭載エンジン指定製造工場になり、貨物輸送量が増加に転じた。<br />戦後は、昭和23年(1948年)4月1日に、従来の富士郡吉原町が格上げされ旧吉原市が成立した事を受け市内からも駅名改称を望む声が高まり、此れを受け、昭和31年(1956年)4月10日に現駅名変更が実施されたが、昭和41年(1966年)11月1日附を以って、吉原市、富士市、及び、富士郡鹿岡町が合体し新生富士市が成立し吉原市の名称は消滅する。<br />現駅本屋は、昭和45年(1970年)10月0日附竣工 第2代目橋上様式。

    吉原(よしわら)駅



    駅本屋
    吉原駅は、明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間と同時に開業した。
    但し、駅開業当時は村名から命名され 鈴川(すずかわ)と称した。
    旧東海道吉原宿中心地に存在し、且つ、身延方面への道路が存在した事も該地に駅が設置された有力根拠になったものと推定される。
    該駅開業に呼応した形で、翌明治23年(1890年)1月に富士馬車鐵道が設立され、同年同月に工事起工後、同年6月23日に竣工し、鈴川-大宮町間14.1kmに鉄道馬車が運行された。
    然るに、製紙工業発達と共に該鉄道馬車に拠る輸送では自ずから限界が生じ、各製糸工場では生産に対し発送が遅れ滞貨の山が生じる様になる事態が現出した結果、富士駅の開業に繋がる。
    大正期に入り富士身延鐵道開業に拠り、輸送ルートが従来の鈴川では無く富士駅経由となり、貨物物流経路に変化が生じ鈴川に衰退の兆しが見られた。
    然し、昭和12年(1937年)に日産自動車が本吉原地区にエンジン製造工場を設置し、特に、大東亜戦争直前に、帝國陸軍航空機ハ47型搭載エンジン指定製造工場になり、貨物輸送量が増加に転じた。
    戦後は、昭和23年(1948年)4月1日に、従来の富士郡吉原町が格上げされ旧吉原市が成立した事を受け市内からも駅名改称を望む声が高まり、此れを受け、昭和31年(1956年)4月10日に現駅名変更が実施されたが、昭和41年(1966年)11月1日附を以って、吉原市、富士市、及び、富士郡鹿岡町が合体し新生富士市が成立し吉原市の名称は消滅する。
    現駅本屋は、昭和45年(1970年)10月0日附竣工 第2代目橋上様式。

  • 吉原駅<br /><br /><br /><br />旅客用ホーム<br />構内貨物取扱線は平成24年(2012年)3月17日附で廃止。<br />廃止後、使用中止の線路は錆色状態。

    吉原駅



    旅客用ホーム
    構内貨物取扱線は平成24年(2012年)3月17日附で廃止。
    廃止後、使用中止の線路は錆色状態。

    吉原駅

  • 吉原駅<br /><br /><br /><br />駅前広場<br />該駅開業当時、駅前は活気を呈していたが、富士駅開業後、旧富士郡中心部は徐々に西へと移動し、昭和43年(1968年)に吉原市と富士市が合併し新制富士市が誕生し、官公庁関連は全部旧富士市域側に移転し該駅前付近は寂れ現在では店舗も存在せず。

    吉原駅



    駅前広場
    該駅開業当時、駅前は活気を呈していたが、富士駅開業後、旧富士郡中心部は徐々に西へと移動し、昭和43年(1968年)に吉原市と富士市が合併し新制富士市が誕生し、官公庁関連は全部旧富士市域側に移転し該駅前付近は寂れ現在では店舗も存在せず。

  • 吉原駅<br /><br /><br /><br />岳南鉄道連絡跨線橋<br />昭和31年(1956年)1月27日使用開始。<br />岳南鉄道(がくなん てつどう)は、鈴川駅から分岐した日産自動車専用線を活用し、昭和24年(1949年)3月17日に鈴川-本吉原間が開通し、その後、岳南江尾まで全通した貨物輸送主体の鉄道会社だったが、平成24年(2012年)3月17日附で吉原駅貨物取扱業務廃止に拠り、今後は鉄道営業継続が予断許さぬ現状下に在る。

    吉原駅



    岳南鉄道連絡跨線橋
    昭和31年(1956年)1月27日使用開始。
    岳南鉄道(がくなん てつどう)は、鈴川駅から分岐した日産自動車専用線を活用し、昭和24年(1949年)3月17日に鈴川-本吉原間が開通し、その後、岳南江尾まで全通した貨物輸送主体の鉄道会社だったが、平成24年(2012年)3月17日附で吉原駅貨物取扱業務廃止に拠り、今後は鉄道営業継続が予断許さぬ現状下に在る。

  • 吉原駅<br /><br /><br /><br />岳南鉄道連絡跨線橋<br />古軌条支柱<br />H.WENDEL I.1921. 30 LBS エ<br />(仏ド・ヴァンデル社 1921年1月製造 30ポンド 鐵道省発注品)

    吉原駅



    岳南鉄道連絡跨線橋
    古軌条支柱
    H.WENDEL I.1921. 30 LBS エ
    (仏ド・ヴァンデル社 1921年1月製造 30ポンド 鐵道省発注品)

    吉原駅

  • 吉原駅<br /><br /><br /><br />岳南鉄道連絡跨線橋<br />古軌条支柱<br />30 1929 IIIIIIIIIII<br />(商工省八幡製鐵所 30ポンド 1929年11月製造 鐵道省発注品)

    吉原駅



    岳南鉄道連絡跨線橋
    古軌条支柱
    30 1929 IIIIIIIIIII
    (商工省八幡製鐵所 30ポンド 1929年11月製造 鐵道省発注品)

    吉原駅

  • 吉原駅<br /><br /><br /><br />南口<br />港湾施設以外目立った物が無く文字通り裏口。

    吉原駅



    南口
    港湾施設以外目立った物が無く文字通り裏口。

    吉原駅

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />沼川信号所(ぬまかわ しんごうじょ)跡<br />浮島ヶ沼干拓事業に関連し放水路設置の為に、大正6年(1917年)10月9日に鈴川(現 吉原)-富士間に設置、工事中は鈴川-沼川間を単線運転した。<br />同年12月1日附廃止。<br /><br />富士市鈴川無番地<br />東海道本線吉原駅北口 徒歩6分

    吉原-富士間



    沼川信号所(ぬまかわ しんごうじょ)跡
    浮島ヶ沼干拓事業に関連し放水路設置の為に、大正6年(1917年)10月9日に鈴川(現 吉原)-富士間に設置、工事中は鈴川-沼川間を単線運転した。
    同年12月1日附廃止。

    富士市鈴川無番地
    東海道本線吉原駅北口 徒歩6分

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />潤井川(うるいがわ)<br />該河川は、富士宮市上井出地区を主水源とし、途中、芝川、足取川、風祭川、神田川等々を合流させ、田子の浦港を河口とする全長25.5kmの富士川水系の一級河川である。<br /><br />富士市蓼原767<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩8分

    吉原-富士間



    潤井川(うるいがわ)
    該河川は、富士宮市上井出地区を主水源とし、途中、芝川、足取川、風祭川、神田川等々を合流させ、田子の浦港を河口とする全長25.5kmの富士川水系の一級河川である。

    富士市蓼原767
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩8分

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />潤井川(うるいがわ)橋梁<br />該河川は天井川の為に海抜標準値より水位が高い。<br /><br />富士市蓼原726<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩10分

    吉原-富士間



    潤井川(うるいがわ)橋梁
    該河川は天井川の為に海抜標準値より水位が高い。

    富士市蓼原726
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩10分

    富士駅

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />潤井川橋梁<br />橋桁こそ交換されたが、石積橋台や橋脚は開通当時の物。<br /><br />富士市蓼原726<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩10分

    吉原-富士間



    潤井川橋梁
    橋桁こそ交換されたが、石積橋台や橋脚は開通当時の物。

    富士市蓼原726
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩10分

    富士駅

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />蓼原避溢橋(たてはら ひいつきょう)<br /><br />富士市蓼原744<br />東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩10分

    吉原-富士間



    蓼原避溢橋(たてはら ひいつきょう)

    富士市蓼原744
    東海道本線富士駅北口 富士急静岡バス蓮心寺停留所降車 徒歩10分

    富士駅

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />藤間避溢橋(ふじま ひいつきょう)<br /><br />富士市蓼原719<br />東海道本線富士駅北口 徒歩20分

    吉原-富士間



    藤間避溢橋(ふじま ひいつきょう)

    富士市蓼原719
    東海道本線富士駅北口 徒歩20分

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />藤間避溢橋<br /><br />富士市蓼原719<br />東海道本線富士駅北口 徒歩20分

    吉原-富士間



    藤間避溢橋

    富士市蓼原719
    東海道本線富士駅北口 徒歩20分

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />蓼原(たてはら)踏切<br />右2線 東海道本線<br />左1線 富士製紙富士工場専用線<br /><br />富士市下横割306<br />東海道本線富士駅北口 徒歩12分

    吉原-富士間



    蓼原(たてはら)踏切
    右2線 東海道本線
    左1線 富士製紙富士工場専用線

    富士市下横割306
    東海道本線富士駅北口 徒歩12分

  • 吉原-富士間<br /><br /><br /><br />蓼原踏切<br />東京方から富士駅構内俯瞰。<br /><br />富士市下横割306<br />東海道本線富士駅北口 徒歩12分

    吉原-富士間



    蓼原踏切
    東京方から富士駅構内俯瞰。

    富士市下横割306
    東海道本線富士駅北口 徒歩12分

    富士駅

  • 富士(ふじ)駅<br /><br /><br /><br />明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間開通時に該駅は未設置。<br />即ち、富士川を挟み両岸陣営から停車場設置誘致運動が盛んに行われたが、結果的に西岸側に軍配が上がり、此れに基き 岩淵(いわぶち)(現 富士川)駅が設置された。<br />他方、資本金20万円を以って明治21年(1888年)1月に富士製紙株式会社が設立され富士郡原田村に工場設置が内定した事で富士郡南部地域に産業構造変化が到来したかに思えた。<br />然し、当初計画案では、藁(わら)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、ボロ布を原材料にした前近代的製紙産業だったが、欧米に製紙機器買付に派遣した担当者報告に拠り、欧米に於ける製紙産業は木材を原料加工とするパルプを活用した大規模製紙産業が主流を占めているとの情報から、原田村に於ける工場建設予定地を検討した結果、該地に於ける能力は河川水量と段差が過小であり不適当と判定された為に、改めて他所を検討した結果、潤井川流域たる同郡入山瀬村が適当との報告が為され、かくて明治23年(1990年)に該地に建設が決定し第1工場が設置された。<br />第1工場では藁を原料にザラ紙生産を開始したが、販路が国内から東南アジア地域に拡大し、該社業績は順調に伸びたが、他方、富士川の水運活用でイカダ流しで原木入手が容易になった事から、明治30年(1897年)10月に同郡富士根村に第2工場、同郡源道寺村に第3工場が起業稼動開始した事から、旧来の富士鐵道馬車線路を利用し鈴川(現 吉原)駅での積替えの現状では自ずから限界を生じせしめ、生産品輸送は逼迫状態となり完成品が工場で滞貨の山を成す状況になった。<br />それ故に、富士製紙は監督官庁たる逓信省鐵道作業局に対し再三に亙り同郡加島村に停車場設置を請願する次第となった。<br />更に、加島村に富士製紙が第8工場を設置する事となり駅設置は不可欠となった。<br />富士駅正式開業は明治42年(1909年)4月21日だが、然し、実際には全額地元出資負担に拠り、前年たる明治41年(1908年)7月3日附で臨時仮乗降場が設置され、製紙産業品以外に現地名産の梨果出荷に利用された。<br />作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月25日?昭和46年(1971年)4月20日)は、自身の作品に於いて、開業間も無い富士駅が未だ貨物専用駅だった時代に、自身が乗車した急行列車の窓を開け前方を注視していたが、富士駅構内で入換小型機関車が牽引機関車にぶつかり跳ね飛ばされる描写が存在するが、横浜臨海公園は高校生の時に該作品を読み、富士駅は貨物専用駅として開業し、後に旅客扱する様になったものと信じていたが、富士駅が貨物専用だったと云う資料が発見されず長年疑問を抱いていた処、該資料に遭遇し謎が氷解した次第であった。<br />該駅正式開業を前に、地元では所在地名たる加島(かしま)を推挙する声が多数を占めたが、富士川河口地に属し、且つ、富士製紙の膝元に所在する事から富士驛と命名された。

    富士(ふじ)駅



    明治22年(1889年)2月1日に國府津-静岡間開通時に該駅は未設置。
    即ち、富士川を挟み両岸陣営から停車場設置誘致運動が盛んに行われたが、結果的に西岸側に軍配が上がり、此れに基き 岩淵(いわぶち)(現 富士川)駅が設置された。
    他方、資本金20万円を以って明治21年(1888年)1月に富士製紙株式会社が設立され富士郡原田村に工場設置が内定した事で富士郡南部地域に産業構造変化が到来したかに思えた。
    然し、当初計画案では、藁(わら)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、ボロ布を原材料にした前近代的製紙産業だったが、欧米に製紙機器買付に派遣した担当者報告に拠り、欧米に於ける製紙産業は木材を原料加工とするパルプを活用した大規模製紙産業が主流を占めているとの情報から、原田村に於ける工場建設予定地を検討した結果、該地に於ける能力は河川水量と段差が過小であり不適当と判定された為に、改めて他所を検討した結果、潤井川流域たる同郡入山瀬村が適当との報告が為され、かくて明治23年(1990年)に該地に建設が決定し第1工場が設置された。
    第1工場では藁を原料にザラ紙生産を開始したが、販路が国内から東南アジア地域に拡大し、該社業績は順調に伸びたが、他方、富士川の水運活用でイカダ流しで原木入手が容易になった事から、明治30年(1897年)10月に同郡富士根村に第2工場、同郡源道寺村に第3工場が起業稼動開始した事から、旧来の富士鐵道馬車線路を利用し鈴川(現 吉原)駅での積替えの現状では自ずから限界を生じせしめ、生産品輸送は逼迫状態となり完成品が工場で滞貨の山を成す状況になった。
    それ故に、富士製紙は監督官庁たる逓信省鐵道作業局に対し再三に亙り同郡加島村に停車場設置を請願する次第となった。
    更に、加島村に富士製紙が第8工場を設置する事となり駅設置は不可欠となった。
    富士駅正式開業は明治42年(1909年)4月21日だが、然し、実際には全額地元出資負担に拠り、前年たる明治41年(1908年)7月3日附で臨時仮乗降場が設置され、製紙産業品以外に現地名産の梨果出荷に利用された。
    作家 内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月25日?昭和46年(1971年)4月20日)は、自身の作品に於いて、開業間も無い富士駅が未だ貨物専用駅だった時代に、自身が乗車した急行列車の窓を開け前方を注視していたが、富士駅構内で入換小型機関車が牽引機関車にぶつかり跳ね飛ばされる描写が存在するが、横浜臨海公園は高校生の時に該作品を読み、富士駅は貨物専用駅として開業し、後に旅客扱する様になったものと信じていたが、富士駅が貨物専用だったと云う資料が発見されず長年疑問を抱いていた処、該資料に遭遇し謎が氷解した次第であった。
    該駅正式開業を前に、地元では所在地名たる加島(かしま)を推挙する声が多数を占めたが、富士川河口地に属し、且つ、富士製紙の膝元に所在する事から富士驛と命名された。

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />JR貨物コンテナ踏切<br />交通信号<br />踏切に於ける交通信号とは青点燈時は道路進行優先。<br />東京都内では環状7号線世田谷線若林踏切が有名。<br />但し、工場への貨車貨物取扱が廃止され今後、該踏切で信号機が赤を点燈する事は無い。<br /><br />富士市十兵衛218<br />東海道本線富士駅北口 徒歩4分

    富士駅



    JR貨物コンテナ踏切
    交通信号
    踏切に於ける交通信号とは青点燈時は道路進行優先。
    東京都内では環状7号線世田谷線若林踏切が有名。
    但し、工場への貨車貨物取扱が廃止され今後、該踏切で信号機が赤を点燈する事は無い。

    富士市十兵衛218
    東海道本線富士駅北口 徒歩4分

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第2ホーム<br />神戸方

    富士駅



    第2ホーム
    神戸方

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第2ホーム<br />東京方俯瞰<br />煉瓦積側壁

    富士駅



    第2ホーム
    東京方俯瞰
    煉瓦積側壁

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第2ホーム

    富士駅



    第2ホーム

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第2ホーム<br />煉瓦積側壁<br />典型的英國積様式。

    富士駅



    第2ホーム
    煉瓦積側壁
    典型的英國積様式。

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />東京方俯瞰<br />煉瓦積側壁

    富士駅



    第3ホーム
    東京方俯瞰
    煉瓦積側壁

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />東京方俯瞰

    富士駅



    第3ホーム
    東京方俯瞰

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />煉瓦積側壁<br />英国式積

    富士駅



    第3ホーム
    煉瓦積側壁
    英国式積

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />ホーム上屋支柱古軌条群

    富士駅



    第3ホーム
    ホーム上屋支柱古軌条群

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />ホーム上屋支柱古軌条

    富士駅



    第3ホーム
    ホーム上屋支柱古軌条

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />ホーム上屋支柱古軌条<br /><br />H.WENDEL X 1927 L.B.S. ASCE TB エ<br />(仏ド・ヴァンデル社 1927年10月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)<br /><br />支柱番号第13号

    富士駅



    第3ホーム
    ホーム上屋支柱古軌条

    H.WENDEL X 1927 L.B.S. ASCE TB エ
    (仏ド・ヴァンデル社 1927年10月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)

    支柱番号第13号

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />ホーム上屋支柱古軌条<br /><br />H.WENDEL II 1929 L.B.S. ASCE TB エ<br />(仏ド・ヴァンデル社 1929年2月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)<br /><br />支柱番号第14号

    富士駅



    第3ホーム
    ホーム上屋支柱古軌条

    H.WENDEL II 1929 L.B.S. ASCE TB エ
    (仏ド・ヴァンデル社 1929年2月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)

    支柱番号第14号

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />ホーム上屋支柱古軌条<br /><br />H.WENDEL IX 1929 L.B.S. ASCE TB エ<br />(仏ド・ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)<br /><br />支柱番号第16号

    富士駅



    第3ホーム
    ホーム上屋支柱古軌条

    H.WENDEL IX 1929 L.B.S. ASCE TB エ
    (仏ド・ヴァンデル社 1929年9月製造 鐵道省発注品 米土木学会統一規格仕様)

    支柱番号第16号

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />第3ホーム<br />旧ブルートレイン停車位置目標跡<br />左から、<br />みずほ<br />さくら<br />はやぶさ<br />富士<br />ブルートレイン全盛期の列車出発順。

    富士駅



    第3ホーム
    旧ブルートレイン停車位置目標跡
    左から、
    みずほ
    さくら
    はやぶさ
    富士
    ブルートレイン全盛期の列車出発順。

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />正式開業に先達ち、明治41年(1908年)7月3日に富士駅仮開業時の貴重な資産だったが、コンテナ取扱トラック入場支障を理由に本年3月に大部分が破壊撤去。

    富士駅



    貨物取扱ホーム跡
    正式開業に先達ち、明治41年(1908年)7月3日に富士駅仮開業時の貴重な資産だったが、コンテナ取扱トラック入場支障を理由に本年3月に大部分が破壊撤去。

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />該部分のみ何故か残滓。

    富士駅



    貨物取扱ホーム跡
    該部分のみ何故か残滓。

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />破壊撤去されながらも残存する旧ホーム横壁痕。

    富士駅



    貨物取扱ホーム跡
    破壊撤去されながらも残存する旧ホーム横壁痕。

    富士駅

  • 富士駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱ホーム跡<br />煉瓦横壁<br />煉瓦囲壁内部は土盛されていた為に煉瓦の表面劣化が僅少で製造当時の光沢が残存。

    富士駅



    貨物取扱ホーム跡
    煉瓦横壁
    煉瓦囲壁内部は土盛されていた為に煉瓦の表面劣化が僅少で製造当時の光沢が残存。

    富士駅

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この旅行記へのコメント (12)

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  • あーななちゃんさん 2016/01/18 00:38:45
    はじめまして。
    とても詳細な情報をありがとうございます。
    私は富士市出身ですので、懐かしい景色をいろいろなことを思い出しながら、拝見させていただきました。
    また、他の旅行記も拝見させていただきます。
    ありがとうございました(*^^*)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/21 11:20:10
    拝復
    あーななちゃんさま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    富士市内に関しては身延線複線化の際に路線が付け替えられており、何れ時間が出来ましたらトライしてみたいと考えております。

    今後とも宜敷くお願いします。



    横浜臨海公園

    あーななちゃん

    あーななちゃんさん からの返信 2016/01/21 11:34:57
    身延線
    ご返信ありがとうございます。
    私は身延線の入山瀬駅という小さな駅が最寄り駅でした。甘酸っぱい思い出がたくさんです。
    身延線は、富士山がキレイに見えます。もし、機会があれば、ぜひ訪ねてみてください。
    ただ、本当に何もないのですが。。。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/01/22 11:44:01
    続身延線
    あーななちゃんさま、こんにちは。


    小生、身延線車窓から見た富士山では、富士根付近と西富士宮から沼久保にかけて、富士山をダイナミックにみながら反転して行く地点での眺めが好きです。
    そう言えば、昔の身延線では身延駅で駅弁も売っていたのですが、何時の間にか無くなってしまい残念に思ってます


    横浜臨海公園
  • おかチャンさん 2015/02/08 11:31:15
    目の付け所が凄いです!
    横浜臨海公園様

    すごく良く調べられたのですね。
    また、写真の内容が濃いですね。
    普段気が付かないような部分に目が行き、
    すごく感動ものです。

    大船から三島までは直通で行けるので、たまに
    行きますが、そこから先は中々機会に恵まれません。
    昔は、急行「東海」や静岡までの直通があったので、
    チョクチョク出掛けていたのですがね。
    昨年、久し振りに富士駅まで行きました。
    身延へ行くのに、特急乗換の為です。
    その時、待ち時間がありましたので、駅ホームの
    H鋼を何気に見ていたのを、今回の写真に照らし合わせて
    しまいました。

    楽しい、興味深い内容、ありがとうございました。


                       おかチャンより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2015/02/08 13:58:29
    拝復
    おかチャンさま、こんにちは。


    拙稿旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    旅行記を作成するにあたり、鉄道編では、
    国立国会図書館憲政資料室資料
    国立公文書館保管資料
    大宮鉄道博物館所蔵資料
    地元図書館
    を回りながら資料を収集しなければならず、最近では資料収集と精査に2、3年が当たり前の様になってしまっております。
    実に通説と事実が異なっているのを痛感しております。

    原資料を読み下すと、実にウィキペディアが嘘ばかり羅列しているかが良く解ります。
    尤も、小生が旅行記を上程して概ね1ヶ月以内に、ウィキのデータが小生の旅行記を基にしているらしく、改竄されているのを見ると笑えます。



    横浜臨海公園
  • norisaさん 2012/07/20 08:31:51
    おはようございます!
    横浜臨海公園さん、

    いつもお世話になります。

    現在旅先のため横浜臨海公園さんの最新作を拝見するのが遅れました。

    小型のPCでは完全に理解するのが困難なほど詳細な内容に驚きました。

    沼津や富士は子供の頃に伯母やいとこに会うためにしばしば利用した東海道線の中核駅でしたが御記載のような歴史やいきさつがあったとは全く知りませんでした。

    いつもながらの博覧強記、素晴らしいものです。

    今後もこうした観点で列車に乗れば興味倍増です。

    ありがとうございました。

    noris

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/07/20 09:07:44
    拝復
    norisaさま、おはようございます。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    また、旅行記へのお立寄りと投票を賜り深謝しております。

    > 沼津や富士は子供の頃に伯母やいとこに会うためにしばしば利用した東海道線の中核駅でしたが御記載のような歴史やいきさつがあったとは全く知りませんでした。
    →今回の旅行記に記述した事例は、旅行雑誌や鉄道雑誌にすら掲載された事すら無い様です。

    またお気軽にお立ち寄り下さいませ。



    横浜臨海公園
  • DANAさん 2012/07/19 21:45:45
    タイトルの付け方が大好き!
     語り口は堅めなのに、いつも感じております。
    鉄道が好きだから、厳密にあらねばと真摯に書き込む姿勢。
    周辺まで徹底して踏査する情熱、資料へのこだわり。

    とりわけ可愛がってくれた祖母が明治生まれでしたので、いつも嬉しい気持ちです。

    これからも益々!
    大崩海岸、今度は伺います。どんな妄想が暴走するのか、我ながら楽しみです。

    DANA

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/07/20 05:22:29
    拝復
    DANAさま、おはようございます。


    過分なるお褒めのお言葉を賜りまして赤面しております。

    兎に角、日本の近代現代史は嘘が何時の間にか事実の如く大手を振って罷り通ってしまっております。
    小生、旅行記作成には可能な限りオリジナル資料を精査吟味しており、文章に反映させて頂いております。
    それにしても、何時からコンナになってしまったのでしょうか。
    本当に史実検討とは大変な作業です。



    横浜臨海公園
  • ムロろ~んさん 2012/07/17 15:36:32
    東田子の浦駅の富士山の絵
    横浜臨海公園様

    お久しぶりです、ムロろ〜んです。
    この度は北信州ドライブ旅行記に投票をして下さいましてありがとうございます。シーズンオフの時でしたが、自分たちのペースで旅をすることができました。

    東田子の浦駅の正面玄関にある富士山の絵が印象に残りました。富士山を誇りに思っているのだなぁと感じられました。

    沼津駅もブルートレインが走っていた頃にはそれなりに駅も栄えていたでしょうが、今はあさぎりもなくなり、ブルートレイン自体も本数が少なくなったので、すっかり静かになりましたね。

    駅弁も販売しているのですね。どんなものか興味あります。


    ムロろ〜ん(-人-)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/07/17 17:07:51
    拝復
    ムロろ〜んさま、こんにちは。


    旅行記への投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。

    > 東田子の浦駅の正面玄関にある富士山の絵が印象に残りました。富士山を誇りに思っているのだなぁと感じられました。
    →該駅本屋は駅開業時の建築で、地元建築業者が資材を提供し、更に、建築も手弁当で行ったもので、如何に地元が駅を欲していたかを今に残す物でしょう。
    それだけに、愛着も他駅を圧倒しており、レリーフも寄贈との話でした。

    > 沼津駅もブルートレインが走っていた頃にはそれなりに駅も栄えていたでしょうが、今はあさぎりもなくなり、ブルートレイン自体も本数が少なくなったので、すっかり静かになりましたね。
    →ブルートレインは沼津での乗降客が元々少なかったでしたが、やはり廃止されてしまうと駅の貫禄が凋落した印象が否めません。

    > 駅弁も販売しているのですね。どんなものか興味あります。
    →東海道新幹線車内でも販売している事がありますので、一度、試してみると良いと思います。



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