すぶたさんのクチコミ(136ページ)全3,773件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
投稿日 2014年05月03日
総合評価:3.0
緒方洪庵の墓がある龍海寺の近くに池上雪枝感化院跡の石碑がありました。
感化院とは現在の児童自立支援施設のことです。
池上雪枝は画家の村上華岳の祖母でした。
神道教導職にあった雪枝は、
明治16年(1883年)に、ここでわが国最初の感化院を開きました。
また同時に、授産場も設けました。
ここで当時流行しはじめたステッキや洋傘の柄、
石鹸などの製造を行いながら少年補導に尽力しました。
しかし、雪枝没後の明治26年閉鎖しました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 2.5
- 住宅地の角に石碑だけありました
-
投稿日 2014年05月03日
総合評価:3.0
現在の大阪大学の前身にあたる適塾を開設し、天然痘治療に貢献した、
日本の近代医学の祖といわれている緒方洪庵の墓が龍海寺にあります。
緒方洪庵の功績は、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、
長与専斎、佐野常民、高松凌雲などの
幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことです。
残念ながら、行った時は龍海寺の門が閉まっており、
内部の見学は出来ませんでした。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 地下鉄南森町駅から徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
- 残念ながら閉まっていた
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:3.0
下大和橋がある島之内は、道頓堀界隈は庶民の生活の場でした。
近松門左衛門の戯曲、生玉心中の舞台にもなりました。
こころこころの 商いも みな世渡りの大和橋
下いく水の泡よりも 色にそ銀は消えやすく
−生玉心中 中巻 大和橋出見世の場
東横堀川も道頓堀川に名前が変わり、西へと流れていきます。
- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:3.0
天正13年(1585)に、東横堀川は大坂城外堀として豊臣秀吉により、
開削されたものといわれています。
江戸時代初期の慶安~万治年間(1648~1660)の絵図には、
既に九ノ介橋として記載されていることから、
最初の橋は東横堀川の開削後しばらくのちに架橋されたものと考えられています。
橋名の由来は不明です。関係者かもしれませんが。
この橋の西詰北側には、住友家の銅吹所(銅の精錬所)があり、
鋳物屋、鍛冶屋などの工業の町でした。
また、対岸の東詰は幕府御用瓦師、寺島家の請地でした
多くの瓦ふき職人や瓦仲仕が住んでいました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:3.0
稲畑勝太郎は明治時代の実業家で稲畑産業の開業者です。
また、大阪商工会議所の第10代会頭で、
約12年間の在任中には中小企業対策や産業の合理化や、
実務教育に取り組んだそうです。
女学校の制服に用いられた袴の海老茶色は、稲畑染めと呼ばれました。
また、、日露戦争の際には軍服用のカーキ染を考案して国家に貢献しました。
また、フランスから帰国するときには
リュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」を持って帰り、
大阪ミナミで日本初の映画興行を行ったそうです。
同じ敷地には他に2体の像があります。
道路側から初代会頭の五代友厚、七代会頭の土居通夫、稲畑勝太郎と並んでいます。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 松屋町筋に面しているので人通りはある
- 見ごたえ:
- 4.0
- 他の2つの像とあわせてみるといい
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:3.0
寛永十一年(1634年)徳川三代将軍家光が三号郷の地子銀を永代免除された記念に、
惣年寄り等が評議して釣鐘をつくることが決定したのが由来だそうです。
そして、釣鐘屋敷が作られました。
あの近松門左衛門で有名な浄瑠璃「曽根崎心中」の場面でも、
遊女お初と醤油屋手代の徳兵衛も、この鐘を聞いています。
しかし、四度の消失を経て明治時代に「時の鐘」は廃止になりました。
時報は大阪城から打ち出す号砲にとって代わりました。
長光寺に預けられましたが、江畔小学校に移動、府立大阪博物館へ移動と
渡りました。そして、1985年には釣鐘屋敷跡へ里帰りしました。
現在は朝8時、12時、日没の3回が、コンピューター制御で自動的に打鐘しています。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 地下鉄天満橋駅・京阪天満駅から徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:4.0
平安~鎌倉時代にこの付近一帯は「渡辺津」と呼ばれていました。
京から舟で下った熊野詣の一行はこの地から陸路を歩んだそうです。
現在はこの付近は整備されて気持ちのよい散歩コースになっています。
八軒家浜から観光船に乗る人も多く、
近所のサラリーマンが休憩したりのんびりと過ごしています。
また、熊野街道の始点を示す石碑は、船着場のすぐ西を南に延びる道に建っています。
かつては大勢の人々が列をつくってここを出発点に、熊野詣でへ出かけていました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄天満橋駅・京阪天満駅すぐ
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
- 石碑自体よりこの辺りの景色がよい
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:3.5
地下鉄天満橋駅、京阪天満駅を下りると土佐堀通りという大きな通りがあります。
その南側に永田屋昆布本店があります。
その店の前に「八軒家船着場跡」の石碑があります。
この辺りは江戸時代には「八軒家浜」と呼ばれていました。
三十石船や淀川の荷客輸送にあたった過書船の発着場として賑わっていたそうです。
「八軒家」という地名の由来は、昔ここに八軒の船宿があったという説と、
八軒の民家があったという説などがあります。
このお店の西側の筋に階段があり、公園へとつながっています。
これは、もともと川に降りる階段の名残です。
お店の前には「八軒家の今昔」という、パンフレットが置いてあります。
安藤広重や、歌川國員の浮世絵が載っています。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄天満橋駅・京阪天満橋駅すぐ
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 土佐堀通り沿いなので通行人は多い
- 見ごたえ:
- 3.5
- お店の前にあります
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:4.0
ABC朝日放送は関西では人気の番組を多く作っています。
それというのも在阪のテレビ局は予算がないので、
経費を節約して番組を作らないといけないです。
素人を使う番組が多いのもそのせいですね。
このビル外での撮影も多いのでなじみがあります。
この辺りは「ほたるまち」として開発され、
おしゃれな街並みになっています。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 阪神福島駅、京阪中之島駅から徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
- きれいなビルです
-
投稿日 2014年05月02日
-
投稿日 2014年05月02日
総合評価:3.5
住友家二代の友以(とももち)によって寛永年間(1640ころ)開かれた銅精練所跡です。
当時大坂は銅精練業の中心地でした。
両横堀・長堀など川沿いの舟運の便利な場所に多くの銅吹所がありました。
輸出用の銅はすべて大坂でつくられ長崎へ送られたそうです。
その中でも住友銅吹所が最も有名だったそうです。
なお、住友家は別子の銅山から銅を採掘していました。
これが住友金属鉱山の会社となり、証券業界では別子銅山と呼ばれていました。
現在はポケットパークとなっており、
銅を吹いていた跡もプラスチックケースで保管されています。
敷地は住友家の邸宅としても利用されていましたが、
空襲で焼けてしまいました。
ビリヤード場が再建されています。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5





























































