すぶたさんのクチコミ(133ページ)全3,773件
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
明治36年に大阪城内に豊臣秀吉公の銅像が建立されました。
後にが中之島の豊國神社境内に移されました。
大阪市民に「太閤さん」と呼ばれ、慕われて身近に感じられました。
しかし、昭和18年に戦争により、銅像は供出されてしまいました。
ずっと銅像の再設置を望んでいましたが、
やっと平成19年に設置されました。
日本芸術院会員・文化功労者の中村晋也氏が製作しました。
今回の像は旧像の写真を元に大きさや姿を踏襲し、
一部現在の学問的な時代考証に矛盾する部分には修正を加えたそうです。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 割と空いている
- 見ごたえ:
- 4.0
- 表情が見て取れます
-
投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
現在、大阪城と呼ばれているのは徳川幕府が建てたものです。
豊臣秀吉が建てたのは旧城と呼ばれています。
では、もともとこの地には何があったのか知られていません。
本願寺八世法主蓮如が明応五年(1496)に、
山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、
これが石山本願寺の起源となりました。
その経緯を述べた蓮如の御文章は「大坂」という
地名が見られる最初の文献だそうです。
その後、織田信長の軍が攻撃して、豊臣秀吉が大坂城を建てたそうです。
石山本願寺のなごりは、大手門入って右側の修道館あたりのある
石碑や蓮如袈裟掛けの松あたりに残っています。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
大坂城二の丸南面の城壁を固める隅櫓は一番櫓から、
7棟ありましたが、現存するのはこの六番櫓と一番櫓のみです。
六番櫓の創建は寛永5年(1628)です。
一番櫓と共通した形式の二重櫓で、
昭和20年の空襲と同25年のジェーン台風による被害が特にひどく、
同41年の解体修理のさい大幅な木材取り替えなどが実施されました。
1、2階とも、天井が非常に高く、隅櫓の外観を整えるための工夫とされています。
また、石垣斜面を登ってくる敵に石を落すための「石落し」や
隠し銃眼などの軍備があるそうです。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
元和6年(1620)に小堀遠州の設計で造営された二層の隅櫓です。
西の丸庭園の西南隅にあり、多聞櫓のすぐ北側に位置しています。
西の丸庭園西北隅の乾櫓とともに現存最古の建造物です。
もともと、大阪城が造営される前はここには石山本願寺がありました。
織田信長の軍勢が攻撃を繰り返したとき、
この付近にあった隅櫓からの横矢攻撃に悩まされた攻め手の将兵らが
「千貫文払ってでもあの櫓を手に入れたい」
と話し合ったことに由来すると伝えられています。
それが大阪城が築城されてからも使われているようです。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
大阪城東側の青屋門か玉造口から入ると、この辺りの高石垣はかなり見事です。
本丸を取巻く内堀は、西・北・東の三面が水堀ですが、
南面は空堀となっています。
このうち、本丸東側の石垣は南になるほど高くなっていて
、大阪市立博物館裏手付近は水面からの高さが24メートル、
堀底の根石からだと32メートルにも達します。
これは、大阪城南外堀の石垣とともに城内1、2を争う高石垣です。
大阪城公園梅林からみるとよく分かります。
これだけの石を積むのは大変だったろうなと思いました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
- 築城は大変だったろうなと思います
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
大阪城の正門にあたり、古くは追手門とも書きました。
今でも追手門という呼び名は追手門小学校などに残っています。
この小学校の構内には石垣も残っています。
寛永5年(1628)の創建された高麗門様式です。
天明3年(1783)の雷火には焼け残り、
屋根のみ幕末の嘉永元年(1848)に修復されて、
昭和31年(1956)に解体修理されました。
重要文化財に指定されており、ここで記念撮影をする人も多いです。
ちょうと行った時に和服姿の新婚カップルが記念撮影をしており、
特に外国人がさかんにシャッターを押していました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 谷町四丁目駅から徒歩10分
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 正門なので人通りは多い
- 見ごたえ:
- 4.0
- 重要文化財!
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
大手門は大阪城の正門にあたり、それだけに立派な石が使われました。
大手門を入って大手口枡形周辺は、城内巨石4位の大手見付石(47.98・)や、
5位の大手二番石などの巨石がふんだんに使われています。
これらの巨石が見られる塀・多聞櫓に囲まれた大手口枡形は、
大阪城内でも往時の雰囲気を最もよく残しているそうです。
しかし、やはり大きな石ばかりでなく、
巨石と巨石のあいだの隙間を埋めるように小さな石もあります。
それを「笑い積み」とつけたようです。
現代なら、綺麗にカットしてしまうものですが、
あえて間に小さな石を詰めたのが面白いです。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
桜門は本丸の正面入口であり、天守閣を真正面に望むことができます。
もうひとつ、極楽橋からのアクセスもありますが、
その場合は裏側(刻印石広場)から入ることになります。
※こちら側も見所があるので忘れずに見物しましょう!
「桜門」の名由来は、この付近に見事な桜並木があったことからきたそうです。
この桜門枡形を囲む巨石群は城中で最も見事です。
城内第1位の蛸石、第3位の振袖石をはじめ、巨石がめじろ押しに並んでいます。
これらの巨石は、岡山城主池田忠雄が運ばせました。
領内に花崗岩を産出する島を持っていたからだそうです。
なお、第2位の肥後石も池田忠雄が運ばせ、京橋口にあります。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 天守閣正面なので人通りは多い
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
入場料を払って大阪城天守閣に入ると小さな屋根がついた場所があります。
それが「金明水井戸屋形」です。目立ちませんが、重要文化財です。
天守閣と同じ寛永3年(1626)に創建されたことが判明しました。
江戸時代にはこの井戸は「黄金水」と呼ばれていました。
黄金好きの秀吉にふさわしい名前ですね。
昭和44年(1969)の解体修理の際に、
棟木に「寛永三年十月吉日」との墨書が発見されました。
寛文5年(1665)の落雷による天守炎上、
戊辰戦争(1868)の本丸炎上の2度の大火にも
奇跡的に焼け残ったことがわかりました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
よその地方の方は大阪のシンボルといえば、
通天閣だとかミナミのネオンだと思っているでしょうが、
大阪人は実際には大阪城と思っている人が多いんじゃないでしょうか。
歴史でも習いましたが、
大坂城は天下統一をめざす豊臣秀吉によって天正13年(1585)に完成しました。
しかし、元和(げんな)元年(1615)の大坂夏の陣で、
豊臣氏の滅亡とともに天守閣も焼失しました。
徳川時代になって再建されましたが、
寛文5年(1665)に落雷によって再び焼失しました。
以来、大坂城は天守閣のないままでした。
現在の天守閣は昭和6年(1931)、
当時の関市長の呼びかけで市民ら寄付により、
約150万円(現在の約750億円に相当)が集められ建造されたものです。
266年ぶりによみがえったのです。
国に頼らず、市民の寄付によりよみがえったですから、大したものです。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 国内外からの観光客が多い
- 見ごたえ:
- 4.0
- 天守閣に登れば天下をとった気分!?
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投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
大阪城天守閣は、昭和6年(1931)に市民による寄付約150万円
(現在の価値で約750億円に相当)で建て替えられました。
西の丸庭園は豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があった場所とされています。
昭和40年(1965)、総面積約64,000平方メートルの芝生庭園として開園しました。
入場料は200円かかりますが、春はソメイヨシノを中心に約300本の桜が咲きます。
芝生も綺麗に整備されており、入場料がかかるのでそれなりの人がいて安心です。
よく催しをやっており、行った時はJAZZフェスティバルをやっていました。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2014年05月04日
総合評価:4.0
京橋口から入るとすぐに見える巨石が肥後石です。
京橋口枡形の肥後石(54.17・=33畳敷)は城内第2位の巨石です。
昭和52~53年に周辺の修復工事が行われました。
その時に板状に加工された巨石の上部は、
特に薄く下部はやや厚いのですが1メートルにも満たないことに加えて、
板状巨石の裏側に支えの石垣が発見されました。
肥後石の名由来は、肥後(熊本)の加藤清正が置いたからだといわれています。
しかし、実際に京橋口の工事を担当したのは備前(岡山)領主の池田忠雄です。
なぜ、肥後石の名がついたかというと、名古屋城の「清正石」と同じで、
清正の豪快なイメージから生まれた伝説だそうです。
「肥後もっこす」など、熊本は豪快なイメージがありますからね。
人気の撮影スポットになっています。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄谷町線天満駅から徒歩10分
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
- 人を入れて撮影すると大きさが分かりやすい
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投稿日 2014年05月03日













































