さいたまさんのクチコミ(80ページ)全2,813件
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戦中、戦後の国民生活の状況を伝える国立の博物館が昭和館です。
投稿日 2018年05月03日
総合評価:3.5
戦中、戦後の国民生活の状況を伝える国立の博物館が昭和館です。
昭和館は、江戸末期に設立された蕃書調所の跡地である九段坂下交差点の皇居側に、建てられています。
国民が経験した戦中、戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていく目的をもって、設立されました。
戦中、戦後の姿を紹介しているため、その厳しい苦労がそまま伝わってきます。
できれば、それら苦労の原因や時代的背景、厳しい環境に至った要因等についての紹介が必要かと思われます。
後世の世代は、厳しい状況を目にすれば、それらの現実を忌避したい気持ちになるのは当然なのですが、それら表面的な事象のみならず、それら現実に至った原因や苦渋の選択等の遠因を理解することが最も重要なことと考えられます。
それらを踏まえ、次の世代としての英知の手段と発想が創り出されるものと期待できるからです。
いろいろな面で考えさせられた昭和館の展示内容でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.5
-
靖国神社の参道の北側に、慰霊之泉があります。戦没者の母と水への思いの泉です。
投稿日 2018年05月03日
総合評価:3.5
靖国神社の参道の北側に、慰霊之泉があります。
戦没者の母と水への思いの泉です。
異国の地において返らぬ人となった戦没者は、喉の渇きの中において、母親に思いを馳せらせたことでしょう。
慰霊之泉は、忘れることの無い慈しみに満ちた母の愛と喉の渇きをいやす水をもって、戦没者を慰霊しようとするものです。
慰霊之泉の建設の中には、戦没者の求める母親の慈愛と清涼な水への思いを顕すことにより、慰霊としたいとの思いが込められているそうです。
最期の時を迎えようとする戦没者の胸には、母国において帰りを待つ垂乳根の母への思いが満ちていました。
また、最期の時の喉の渇きは、清新な水を求める悲痛な望みであったことでしょう。
慰霊之泉は、それら戦没者の思いに沿って造られました。
国のため散華された戦没者の思いを考えると、涙無くして慰霊之泉を見ることはできませんでした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
-
靖国神社の拝殿の前に、中門鳥居があります。檜造りの鳥居です。
投稿日 2018年05月02日
総合評価:3.5
靖国神社の拝殿の前に、中門鳥居があります。
檜造りの鳥居です。
大鳥居が鉄製、第二鳥居が青銅製なのに対して、中門鳥居は、檜造りであると聞きました。
樹齢なん百年の檜で造られていると聞きましたが、檜の柱は、直径約1mは越えている太い鳥居ですので、柱や笠木等が、それぞれ一本の檜から造られているとすると、なかなか材料の原木が入手できないのではないかと心配になりました。
鉄や青銅の柱は、何とか作れるでしょうが、檜の一本造りの場合は、どうなるのでしょうか。
現在の中門鳥居は、平成18年(2006年)に、建て替えられたようですが、次の建て替えの際のことが気になります。
次の靖国神社訪問の折、再度質問して、お聞きしたいと思います。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
靖国神社の奥の方に、伝統的な日本式庭園の神池庭園があります。
投稿日 2018年05月01日
総合評価:3.5
靖国神社の奥の方に、伝統的な日本式庭園の神池庭園があります。
回遊式の庭園として、典型的な形態の庭園です。
現在の神池庭園は、平成11年(1999年)に改修を終えているようです。
神池庭園の周囲には、滝、石橋、茶室(亭)及び通路等が整備されています。
小石川の六義園を訪れた経験から見ますと、多くの共通点を有しています。
まず、池を中心として、日本の代表的な自然環境の縮図として、築山と水流を組み合わせて、各種の施設を巡らせています。
特に、石を橋や通路、階段等に多用し、周囲の緑や樹々と対比させています。
池の周囲には、東屋的な茶室(亭)を置き、池や庭園を眺める場としています。
今回は、春の時期のもえいずる緑と桜花の特色が強調されていましたが、秋、そして冬の時期の神池庭園が見てみたいと感じました。
きっと、落葉から雪への移り変わりが、環境変化としてどのように映るかが興味をそそるものと推測しています。
今年の秋と冬が待ち遠しい感じがします。- 旅行時期
- 2018年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2018年04月28日
総合評価:3.5
靖国神社の北側の奥に、参拝者のための無料休憩所があります。
靖国神社の敷地内には、同じく、無料の休憩所が多くありますが、それぞれ特性を持っています。
ここで記述する無料休憩所は、石造りの建物で、天井も高く、重厚な趣きのある休憩所です。(手前にも、Wifi完備との掲示が多数ある現代風の無料休憩所があります。)
手前の休憩所は、無料のようですが、多数の参拝者が利用していて、座ることができませんでした。(気楽に利用できる雰囲気があるのかもしれません。)
参拝者無料休憩所の標識のある休憩所は、格調が高い感じのせいか、比較的余席がありました。
参拝客への案内が足らないのか、誤解があるのか不明ですが、紹介の必要性を感じています。
参拝者無料休憩所の標識のある休憩所は、休憩所と言うよりも、資料館としての価値が高く、格調の高い掛け軸等が展示されているとともに、偕行社文庫等もあり、永い伝統を感じさせるなかなか立派な施設です。
入口には、しゃちほこの像が置かれていて、石の階段を踏みしめながら入る正面は、やや肩に力が入る感じがします。
施設の中は、石造りの床面が続き、歴史の重みが感じられ、気分が引き締まる思いです。
無料休憩所と言う名称とは、ややかけ離れた格調高い施設でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
靖国神社の能楽堂の北側に、遊就館と呼ばれる施設があります。本館と新館からなります。
投稿日 2018年04月28日
総合評価:3.5
靖靖国神社の能楽堂の北側に、遊就館と呼ばれる施設があります。本館と新館からなります。
遊就館の名称は、荀子の勧学編から名付けられたようです。
遊就館は、明治11年(1878年)に建築に着手し、3年後、開館しました。
終戦後、遊就館は、GHQに接収された富国生命の施設として活用されていたようですが、2回の改修・増築のもと、2002年に現在の施設になっています。
新館の展示フロアーには、ゼロ戦の機体や大砲が展示されていて、軍事分野の展示・説明が多く見られます。
訪問した際、施設全体が白色を基調とし、新館はガラス張り主体であり、明るくそして施設が新しいこともあり、とても綺麗でびっくりしました。
また、遊就館本館の建物の規模が大きく、迫力があり、かつ前の広場は、広く、米国議会の前広場と共通している感じがしました。
久しぶりに気宇広大な感じを受けました。- 旅行時期
- 2018年03月
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
-
靖国神社の能楽堂は、神門を潜るとすぐ右側にあります。伝統を感ずる建物です。
投稿日 2018年04月28日
総合評価:3.5
靖国神社の能楽堂は、神門を潜るとすぐ右側にあります。伝統を感ずる建物です。
明治14年(1881年)に、東京・芝公園に建てられたものだそうで、24年後の明治36年(1905年)に、靖国神社に奉納、移築されたとのことです。
この能楽堂の舞台では、神霊を慰めるための能や日本舞踊などの芸能が行われると聞いています。
靖国神社の能楽堂は、東京都内で、最古といわれているようです。
約140年余の伝統を有し、震災や戦火の災難の中で、現在も健在にて、能楽の分野で活用されていることに、頼もしく感じています。
訪問した時は、桜花爛漫の時期だったこともあったでしょうが、能楽の演に、多くの人が集まっていて、歩くのもやっとという状態で、能楽堂の素晴らしさに共感する人たちが多いことを知らされました。
また、能楽堂の横には、サクラの樹があり、東京における開花の時期を推測する判断基準となると聞き、これまた、能楽堂の認識を新たにしました。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
靖国神社の神門は、第二鳥居の傍にあり、拝殿の手前の参道上に、あります。
投稿日 2018年04月27日
総合評価:3.5
靖国神社の神門は、第二鳥居の傍にあり、拝殿の手前の参道上にあります。
神門は、靖国神社の正門に当たる門で、毎朝6時に開門されるようです。
開門の時間は、毎朝6時と定められていますが、閉門の時間は、日没の時間に応じて、午後5時から7時のの間で、季節により変わるとのことです。
神門は、檜造りの木造の門であり、伝統的な建築様式であり、金色の菊のご紋が付けられている重々しい感じのする門です。
靖国神社の神門の開門に際しては、本殿の太鼓が、21回打たれるとのことです。
21回との回数を聞くと、元首等に対する礼砲の数を思い出しました。
礼砲は奇数回、弔砲は偶数回であり、国家元首等に対する礼砲の発射回数が21回であることを考えますと、その例に因んだ回数なのかもしれないと、推測しています。
再度、靖国神社を訪れ、神門の開門に際する太鼓21回の由縁を聞いてみたいと感じています。
次なる靖国神社訪問が楽しみになった、今回の神門訪問でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
靖国神社の大鳥居と大村益次郎の像をさらに進むと、第二鳥居に至ります。
投稿日 2018年04月27日
総合評価:3.5
靖国神社の大鳥居と大村益次郎の像を過ぎ、参道をさらに進むと、第二鳥居に至ります。
第二鳥居の傍には、大きな燈籠があり、歴史的な節目に際するレリーフが刻されています。
第二鳥居は、青銅製であり、他の鳥居とは異なり、緑青色(青色)をしています。
青銅製の鳥居としては、日本一の高さだそうです。
第二鳥居の北側の柱には、大阪砲兵工廠の文字が確認されますので、陸軍の大阪砲兵工廠で製作されたものでしょう。
南側の柱の文字は、良く解らず、今後の課題になっています。
いずれにしましても、靖国神社の鳥居は、みな大きく高いので、どのようにして制作したのか、大変興味が湧いてきます。
また、どのようにして高い鳥居を設置したのでしょうか。素朴な疑問が、次から次へと頭の中を巡ります。
第二鳥居の規模はもとより、靖国神社の規模は、とても大きく、敷地内の配置やお賽銭等の経済的な問題、政治的な話題、観光的な側面等、靖国神社への疑問は、広範な分野に及びます。
第二鳥居への参拝を終えますと、また、次なる疑問が起きてきます。
第二鳥居は、新たなる発見の起点なのかもしれません。
疑問は、勉強の母でしょう。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
九段の靖国神社入口の北側に、キリスト教の九段教会があります。
投稿日 2018年04月27日
総合評価:3.5
九段の靖国神社入口の北側に、キリスト教の九段教会があります。
プロテスタント系の教会のようですが、あまり深くは、聞いていません。
明治初期に、神田において活動を開始し、その後、九段に移転してきたようです。
靖国神社の入口から、早稲田通りを少し、北に進むと二股に別れるようになりますが、その分かれ道を右側に進むと、九段教会の入口につきます。
九段教会への入口は、階段になっていますので、手すりを利用することになるでしょう。日曜日の午前中は、教会が開かれていない場合がありますので、事前に調べたうえで、訪問されると良いと思います。
地図上の場所も、誤って記載されている地図もあります。ご確認を。
その他にも、初老のご婦人が、礼拝中です、ご自由にお入りくださいとの案内があるにも関わらず、教会に入れずに、不思議そうな顔をされていたのを思い出しています。
教会として、訪れる方が入れないということは、予想していないものと考えられますので、お互いに、確認が必要なのかもしれません。
世の中には、何かの間違い、行き違いということが多いものです。
事前の確認というものが、必要だと痛感した次第です。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
明治中期の文学界を主導した硯友社の社屋の跡が、九段にあります。
投稿日 2018年04月24日
総合評価:3.5
明治中期の文学界を主導した硯友社の社屋の跡が、九段にあります。
靖国神社の入口の北側で、九段下から、中坂を昇りきった付近にあります。
硯友社は、尾崎紅葉を始めとする4名の文学を愛する同人たちが中心となり、文芸活動に打込むための団体でした。
我楽多文庫と名づけられた文庫本を基に、交流が深まり、文学家の糾合の核となっていきました。
明治20年代の文学活動の中心的な役割を果たしていましたが、その後の紆余曲折を経て、尾崎紅葉の死の後、急速に勢いが衰えました。
硯友社の活動は、尾崎紅葉の働きにより支えられていたようで、尾崎紅葉亡き後の硯友会の見るべき活動は無くなったようです。
今回、硯友会跡を訪れて印象に残ったことは、現在にも共通することですが、組織体の核心は、一握りの人物に集約されるという現実です。
もう1点としては、和洋洋裁女学校との関連です。硯友社跡は、現在、和洋洋裁女学校の校舎となっています。今後、明治の中期に黎明の時期を持つ和洋洋裁学校とのつながりを解き明かしたいと思っています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
蕃書調所は、開成所→大学南校→開成学校と名前を変えつつも、東京大学となったようです。
投稿日 2018年04月23日
総合評価:3.5
蕃書調所は、開成所→大学南校→開成学校と名前を変えつつも、東京大学となっていったようです。
一時期、洋書調所とも称されたように、西洋、特にオランダ関連の文物の調査翻訳を担当した役所でした。時期を経るに従い、幕府や各藩の家臣を教育するようになったとのことです。
場所も、九段下から、雉子橋御門、そして一ツ橋河岸交差点の地に移転していったようです。
当初の蕃書和解御用という名称が、洋書調所、開成所、大学南校、開成学校、そして東京大学となった経緯から、時代の変転に翻弄された数奇な運命と見ることもできるでしょう。
しかしながら、幕末から明治維新に至る大きな政治・外交、経済面の変革の中で、時代の要求の変化に柔軟に対応し、近代化の方向のもと、姿を変えつつも、大きな貢献・役割を果たしてきた部分を積極的に評価すべきと考えています。
他国の侵略を受けずに、現在の日本国の発展の基礎を創ってきたことには、変わりないのですから。
近代日本の幕開けを務めた蕃書調所でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
元の飯田町跡の碑と解説が、目白通りと九段坂の交差点付近に、置かれています。
投稿日 2018年04月21日
総合評価:3.5
元飯田町跡の碑と解説が、目白通りと九段坂の交差点付近に、置かれています。
飯田町は、目白通りの外堀以南と九段坂と俎板橋以北の地域を総称して言っております。
江戸城以東の埋め立てに伴い、武家屋敷地域として整備し、発展してきましたが、明治初期の廃藩置県により、飯田町として、新たなる発展を模索してきました。
現在は、飯田橋と九段北と言う町名になっています。
歴史的な経緯等がある他、史蹟等が多くある関係上、元飯田町の名称を残す碑と解説が設置されています。
歴史的な文物、施設が現存する中で、地名の整理が進められ、現実の文物・施設との断絶が生じているのが現実かもしれません。
今回、たまたま、元飯田町の碑と解説を見る機会を得て、江戸時代以前及び江戸時代~明治時代の変遷を知ることができました。
元飯田町の碑と解説は、大変、貴重な資料です。
ある意味、幸運と思うべきかもしれません。
勉強の機会を得て、大変有意義な飯田橋~九段下行脚でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
滝沢馬琴の硯を洗った井戸の跡の碑が、目白通りに立てられています。
投稿日 2018年04月21日
総合評価:3.5
滝沢馬琴の硯を洗った井戸の跡の碑が、目白通りに立てられています。
南総里見八犬伝や椿説弓張月などの名作が生れたのは、滝沢馬琴の筆と硯からでした。
滝沢馬琴が、硯を洗った井戸の跡の碑が、目白通りと九段の中坂の交差点の近くに立てられています。
井戸の現物や住居の跡が、同じ元飯田町の周辺に残されているようです。
江戸時代の文芸の華の時代に活躍した滝沢馬琴ゆかりの地です。
滝沢馬琴は、下級武士の子供として生まれ、下駄屋の手代として婿入りしつつも、筆の道に進む夢を捨てず、努力を続けたそうです。
滝沢馬琴の硯の井戸跡の碑の薄くなった文字を見ると、自らの終生の望みを捨てず、永く努力を続け、その成果の華が咲くことを見ることができたか否かは、解りませんが、永く努力を続けた姿が、浮かび上がってきます。
滝沢馬琴の硯の井戸跡の碑の訪問により、人生永遠に希望を持ち続け、それに向かい努力を傾注することの重要性を強く感じた次第です。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
筑土神社は、当初、江戸城の大手門付近、その後、田安門付近、現在は九段にあります。
投稿日 2018年04月20日
総合評価:3.5
筑土神社は、当初、江戸城の大手門付近、その後、田安門付近にありました。
江戸城拡幅により牛込に移転し、その後、戦火のため焼失したため、現在の九段の世継稲荷神社の地に遷座しました。
武勇長久の神社として信仰の対象とされていて、北の丸公園にある日本武道館の氏神として尊重されていました。
日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つにも数えられる時期もありました。
当初、平将門を主神としていましたが、教部省の命により、天津彦火邇々杵尊が主祭神とされ、平将門が相殿神となった他、所在地が移転する等の数奇な運命を経験しています。
歴史の変遷の中に、栄枯盛衰の例を多数見ることができますが、信仰の中においても、大きな移り変わりがありました。
神仏習合から神仏分離令(廃仏毀釈)等の変転をも経験してきました。
筑土神社の移転や、それを受けての同一敷地内での世継稲荷神社配置等、歴史上の移り変わりについて、見てきました。
今回、筑土神社を訪問し、初めて、現実のみを見るだけではなく、現実に至る前の時代的背景の変転に目を向けないといけないと、深く認識させられました。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
世継稲荷神社は、580年前(嘉吉元年)に創設された、歴史の古い稲荷神社です。
投稿日 2018年04月19日
総合評価:3.5
世継稲荷神社は、580年前(嘉吉元年)に創設された、歴史の古い稲荷神社です。
田安郷にあったため田安稲荷と呼ばれていましたが、徳川家康が江戸幕府開府の巡視の際、境内に橙の木があったことから、橙を「代々」と掛けて、縁起が良いとされ、世継稲荷と呼ばれたと伝えられています。
江戸城改修に伴い牛込に移転していた築土神社が、戦火に見舞われため、世継稲荷が境内に筑土神社を受け入れ、現在に至っています。
江戸時代の切絵図を見ても、世継稲荷神社の敷地でありましたし、世継稲荷神社の方の歴史が古いのですが、現在の施設・敷地の形態上は、筑土神社が主体になっている感じを受けます。
あたかも、筑土神社の敷地の奥の隅に、世継稲荷神社が間借りしているような感覚です。
まさに、軒下を貸して、母屋を取られたような感じです。
因みに、江戸時代の絵地図における世継稲荷神社の配置は、現在の敷地の配置に似ています。
つまり、筑土神社が後から入ってきた配置になっています。
歴史の変遷の力を感じます。
その歴史の裏は、九段の現地に来ないと解らない経緯です。
現場確認が、いかに大事かを物語っています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
筑土神社の狛犬は、筑土神社の鳥居を潜り、参道を進むと、社殿の前に置かれています。
投稿日 2018年04月19日
総合評価:3.5
筑土神社の狛犬は、筑土神社の鳥居を潜り、参道を進むと、社殿の前に置かれています。
狛犬は、千代田区内に現存する狛犬の中では、最も古く約240年前の狛犬で、平成8年に千代田区有形文化財に指定されています。
筑土神社の狛犬の台座には、安永年間の築土神社の別当の銘が刻まれています。
鳥居前には、もう一対狛犬がありますが、平成6年の新社殿起工に伴い作製され、新しいです。
名所旧蹟を訪れた際、名所旧蹟の現物を見ても、客観的な評価を理解することは、現実的に困難です。
その場で、解説板とか説明を聞くことができれば、それらの客観的な価値を知ることが可能となります。
それら解説や説明により、次なる疑問や次なる興味が湧いてくるのが一般的です。
このため、名所旧蹟の場所には、解説板を設置して頂ければ、訪れる者が正しい評価をすることができます。
今回、狛犬を見ただけでは、頭上の角や宝珠も、作製された年代も、台座に刻された銘を見ても、何の感動も生まれなかったでしょう。解説や説明を聞いて、注目すべき焦点に気づき、初めて、その歴史や経緯が理解できました。
解説板や、インターネットの説明により、狛犬の現物の価値が倍増して、受け止めることができました。
本当に、有り難いと感じた次第です。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
筑土神社の力石は、九段の靖国神社と目白通りとの中間にある筑土神社の境内にあります。
投稿日 2018年04月19日
総合評価:3.5
筑土神社の力石は、九段の靖国神社と目白通りとの中間にある筑土神社の境内にあります。
筑土神社は、目白通りから中坂を登って、皇居側に入った場所にあります。
力石自体は、筑土神社の東側にあり、それほど大きくはありません。
また、筑土神社の社殿の陰になっていて、とても暗く、見にくくなっています。
神社にある力石としては、他の神社にも見られ、近くは市ヶ谷の亀岡八幡宮の力石もそれらの一例です。亀岡八幡宮の力石は、かなり大きな力石ですが。
筑土神社の力石は、見たところ、あまり大きくないので、力石の一般的な目的の若者の力量を競い合うという面よりも、神様を信仰するという信仰的な対象とする面に使われていたものと、個人的に推測しています。
筑土神社の力石には、元飯田町との文字が刻されていることから、氏子が神社に寄贈したとも推測できます。
いずれにしましても、筑土神社が、江戸城との由縁が強く残っていて、田安門や田安家の関係を考慮すると、筑土神社に対する信仰心の象徴と理解できます。
この力石を、見学される祭には、筑土神社の由来について、予めご一読されると一段と理解が容易になるものと思い、お勧めいたします。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2018年04月18日
総合評価:3.5
台所町跡の石碑は、目白通りの東側に立てられている石碑です。
台所組は、江戸城内の食事等を担当する組織であり、組み頭は、四百石の役職でした。
台所衆と称せられる役人が居住していた場所に、石碑が立てられています。
元禄年間に、台所町衆の居住場所は移転しましたが、台所町の名称は残されました。
江戸時代中期頃まで、飯田町は、旗本が多く居住する場所で、旗本屋敷地域を形成していましたが、台所町は、台所衆の居住する職域居住区域のような感じです。
当然、勤務場所は、江戸城内でしょうから、本丸、二の丸、三の丸周辺からは、やや距離があり、早朝から夜半までの勤務には、距離的に、やや難点があったのではないかと推測しています。
元禄時代以降、場所が変わった理由も、そこにあるのではないかと推測しています。
加えて、食材の調達等の観点からは、日本橋等の河岸に近い方が便利であり、移転先としては、江戸城の東南方向の、日本橋近傍ではないかとの素朴な感じを受けています。
次回の江戸城周辺の訪問に際しては、その点を含めて計画し、重点的に見て廻りたいと考えています。
次なる課題を得た台所町訪問でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2018年04月18日
総合評価:3.5
北辰社牧場跡碑が、目白通りの西側の歩道に立てられています。
明治維新となり、目白通り沿いにあった旗本屋敷等は、殆どが空き家となりました。
廃藩置県により藩主、江戸在住を義務付けられていた領主の家族及び江戸勤務の家臣が国元に帰って行ったためでした。
その結果、130万人いた江戸在住者が、58万人に激減し、治安面を含め、大きな社会問題になりました。
このため、維新政府は、新たな経済活動の育成振興に努力しました。
その中において、幕臣であった榎本武揚は、酪農の本場、オランダに3年間留学した経験を活かし、北辰社を設立し、牧場を開き、乳業工場を運営しました。
戊辰戦争の際の蝦夷地の開発をイメージしていたのかもしれません。
最盛期には、周辺に約3,500頭の牛が飼われていたそうです。
周辺には、牧場が多数あったようです。
明治初期の地図を見ると、茶畑や草地が諸処に見られ、一国の首都らしからぬ田園的な状況です。
現在の目白通りの高層建築物が林立する姿とは、全く異なっていたものと思われます。
明治初期における北辰社牧場が果たした役割は、極めて大きかったものと想像できます。
そういう目で見ると、単なる石碑も、別の意味合いが感じられます。
ぜひ、酪農の場面を思い浮かべながら、北辰社牧場跡の石碑を見ると、明治時代初期の殖産振興の息吹が伝わってくるものと思います。- 旅行時期
- 2018年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0











































































































































































































