さいたまさんのクチコミ(81ページ)全2,813件
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日本における最初の民間の徽章作製工場が創設され、徽章業発祥の地とされました。
投稿日 2018年04月14日
総合評価:3.5
日本における最初の民間の徽章作製工場が創設され、徽章業発祥の地とされました。
目白通りから東京大神宮の参道が別れる三叉路に、徽章業発祥の地の石碑が立てられています。
明治18年、鈴木梅吉により、日本帝国徽章商会が創られました。
民間の徽章業のはじめとして、明治末期、大正の初期における日本で唯一の徽章製作工場として、大きな足跡を残しました。
当時、プレス機等の金属加工の機械を備えた工場は、砲兵工廠等の官営工場のみであり、徽章を作製する民間の工場は、日本帝国徽章商会の他にありませんでした。
明治時代に入り、徽章等の作製を必要とすることが急増したため、主として手作業で作製する日本帝国徽章商会にでも、発注が増えたのです。
従って、品質的にも十分なレベルでなくとも、注文が殺到したようです。
しかるべき品質を保つことは、生産事業の基本的な要因なのでしょう。
生産されたメダルが伝えられています。
健全な産業の発展には、競争原理による、切磋琢磨が不可欠であったとの証左なのかもしれません。
経済社会の発展の基盤に関して、考えさせられた目白通り発祥の地巡りでした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
白菊稲荷神社は、東京大神宮の参道から西側に入り、高台の傾斜地に立てられています。
投稿日 2018年04月15日
総合評価:3.5
白菊稲荷神社は、東京大神宮の参道から西側に入り、高台の傾斜地に立てられています。
傾斜地の上には、富士見児童公園の外縁が見えます。
白菊稲荷神社は、大正15年に、京都の伏見稲荷神社からの分霊を遷座したことから歴史が始まり、地域の守護の役割を果たしてきました。
白菊稲荷神社の南側は、傾斜地からの保護のためのコンクリート壁で守られていまが、全体として、狭い平担部に、ご神殿が置かれています。
明治時代初期の地図からも理解できますが、周辺には建造物が多く建てられていたため、造成に制約があったものと推察しています。
同様に、白菊稲荷神社に入る際の入口が、わかりづらく、東京大神宮の参道から、西に入る通路を見逃しがちです。
白菊稲荷神社を訪れようとする方には、入口に注意とお教えしたいと思います。
入口に、ご注意ください!- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
二合半坂とは、坂から山の姿が、頂上から半分(五合)とさらに半分(二合半)が見えることです。
投稿日 2018年04月15日
総合評価:3.5
二合半とは、飯田橋の目白通りと平行して東京大神宮の参道から、靖国神社に通ずる坂において、日光山の姿が、どこまで見えるかを表す言葉です。
二合半坂とは、坂から山の姿が、頂上から半分(五合)とさらに半分(二合半)が見えることから、二合半と呼ばれていた坂です。
飯田橋富士見町の二合半坂は、日光山ばかりではなく、富士山も見えていたことと思われます。
富士山の見え方は、どうだったか知りたいものです。今後の課題です。
現在の二合半坂の途中には、暁星小学校の校門がありましたが、暁星中学校の標識を探し当てることができませんでした。
坂の頂上には、和洋学園の校舎がありました。
明治時代の地図には、暁星学園と和洋洋裁女学校の文字が記載されており、いずれも長い伝統を有しています。
目白通りと同じように、この付近には、教育関係の施設が多く見られます。
明治維新前後からの教育の重要性を端的に示すものと考えられます。
国家の発展の基礎は、人材の育成にあるとの思いを、さらに強くしています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
富士見児童公園は、飯田橋の大東京神宮への参道から西側に入ってた場所にあります。
投稿日 2018年04月15日
総合評価:3.5
富士見児童公園は、飯田橋の大東京神宮への参道から西側に入った場所にあります。
富士見児童公園の住所としては、富士見町一丁目になり、都市化が進んでいない時期には、名前の通り富士山が見えたものと考えられます。
明治時代中期の地図の等高線を見ますと、やはり、高地にあります。
現在は、周囲の高い建物の間に挟まれていて、富士山は見れません。
富士見児童公園は、高台の縁部にあり、北側は崖になっています。
高台の縁部の傾斜地にある関係上、公園の北側は、一段、低くなっていて階段状を呈しています。
公園は、その地形の傾斜を利用して、滑り台等の傾斜に巧みに活用しています。
傾斜地という弱点を、公園の遊具に、うまく活用している設計には、感心しています。
与えられた環境を嘆くのではなく、その弱点を克服、あるいは逆に巧みに活用する発想が素晴らしいと考えられます。
公園の設計者の前向きな考え方に、大きな示唆を得た感じがしています。
他の方々にも紹介したいと思っています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
歴史のプロムナードとしての石碑は、目白通りの飯田橋第2陸橋の傍にあります。
投稿日 2018年04月14日
総合評価:3.5
歴史のプロムナードとしての石碑は、目白通りの飯田橋第2陸橋の傍にあります。
プロムナードとは、もともと散歩道ですが、歴史の移り変わりを見ていくことを歴史のプロムナードと称しています。
目白通りは、遠い昔は、海の中でしたが、江戸時代の頃には、アシの生える海岸となり、徳川家康の埋め立てにより、大名屋敷に生まれ変わりました。
明治維新により、大名屋敷がなくなり、近代文化が芽吹きだしました。
これらの変遷を見ていますと、歴史上の大きな変革のたびに、その姿を変えていった経緯が見て取れます。
まさに歴史のプロムナードです。
江戸城の開府以前からの幾多の変遷を見ていきますと、大きな歴史のうねりの変化を感じます。
それらの変化を如実に顕している現場を見て廻ると表面的な変化はもとより、それらの根底にある全般的な変化の素地が見えてくるような感じがします。
今回、明治通りを中心とした変遷を見てきましたが、東京のみならず日本各地における活動も大きな意味を持つことでしょう。
大きな収穫を得た思いです。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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新徴組は、幕府により募集された将軍上洛の際の警護組織であり、後に、江戸に駐在しました。
投稿日 2018年04月14日
総合評価:3.5
新徴組は、幕府により募集された将軍上洛の際の警護組織であり、京都に赴いた後、活動目的を、尊王攘夷に転換しようとし、新選組と袂を分かちました。
江戸に帰還後、江戸市中の警護を命ぜられ、市中に屯所を設け、駐在しました。
幕末の混乱期において、庄内藩酒井家預かりとなり、警護任務に活動しましたが、戊辰戦争のさなか、組織が弱体化し、消滅しました。
新徴組の厳しい警備活動により、治安が維持されましたが
「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」との落首に詠まれるようになりました。
ここで御廻りさんとは、江戸時代の巡回警備者を示す言葉であり、新徴組もお巡りさんと呼ばれていたようです。
現在の警察のお巡りさんの語源とも、共通する一端かもしれません。
約200年前後の時代の言い回しと、現在の用語の共通点を計り知ることができ、とても有意義な飯田町巡りでした。
さらに勉強を深め、再度、現地を見て廻りたいと思える訪問となりました。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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国学院大学は、国学を研究する皇典講究所を母体とする国学院から発展しました。
投稿日 2018年04月14日
総合評価:3.5
国学院大学は、国学を研究する皇典講究所を母体とし、明治23年に、国学院が設立され、国学院から國學院大學に発展しました。
西洋文化が急速に導入される中、日本の基盤を評価する面から、明治15年に、皇典講究所が設立されました。
そののち、皇典講究所の敷地内に、日本大学、府立4中等が設置され、国学院も皇典講究所内に創立されました。
飯田町の皇典講究所の地が、日本の教育関連の発祥の一つの地となったのです。
この周辺一帯は、江戸時代以来、江戸城の府内とされ、麹町地区とされていましたが、女子教育を含め教育・医学関連組織の発祥の地として大きな役割を果たしてきました。
今回、この地一帯を訪れ、これら発祥の地とする歩みが、日本の発展に大きな意義を持っていることを知ることができました。
ぜひ、この事実を紹介したいと思っています。誠に有意義な飯田町一体の訪問でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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東京区政会館の前に、日本医科大学付属第一病院記念碑があります。
投稿日 2018年04月13日
総合評価:3.5
日本医科大学第一病院は、1924年(大正13年)に、当時の日本医学専門学校の付属飯田町医院として開院しました。
翌々年、日本医科大学に昇格するとともに、第一医院に改称しました。
日本医科大学は、私立の医科大学ですが、日本全国の医師の半数を占めた時期もあり、医学界における貢献が多大であったと言われ、その教育にあっては、附属病院の役割が大きかったそうです。
当時の病院の外観は、西欧の風情があったと言われています。
1997年(平成9年)に、その役割を終え、閉院されました。
現在は、その跡地に、東京区政会館が建っています。
一時は、日本の医師の半数を輩出した大学の病院が、現在は、一つの石碑に変わっています。
なんとなく、栄枯盛衰、平家物語の一節が思い出され、はかなさを感じてしまいます。
日本医科大学付属第一病院の記念碑は、きっと、野焼きの草原の中から、新しい息吹が萌え出ように、新たなる世代の誕生を待っているのかもしれません。
新たなる活躍を期待しています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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東京府立第4中学校発祥の地の石柱碑が、目白通りの東側に、立てられています。
投稿日 2018年04月13日
総合評価:3.5
東京府立第4中学校発祥の地の石柱碑が、目白通りの東側の歩道に、立てられています。
東京府立第4中学校としての開校は、明治34年(1901年)です。
発祥の地としての石柱碑が、立てられていますが、校舎等の施設は、その以前から、国学研究の機関たる皇典講究所の敷地内にありました。
即ち、施設等は変わりませんでしたが、名称が、補充中学校~共立中学校~東京府城北尋常中学校と、変って、東京府立第4中学校となったものです。
その後, 東京府立第4中学校は、 明治37年(1904年)に、市ヶ谷加賀町に移転し、場所も変わりました。
戦後は、新宿区戸山町に移り、東京都立戸山高等学校となっています。
明治維新の後の近代国家への発展のためには、教育の充実が最も重要であり、東京府立第4中学校の果たした役割は、大きいと思われます。
特に、旧制中学校への進学者が、必ずしも多くなかった時代において、東京府立第4中学校の学生に対する期待は、大きかったものと推測されます。
このため、石柱碑の建設に結びついたものと理解することができます。。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
日本大学開校の地の石碑が目白通りに置かれています。明治22年開校とのことです。
投稿日 2018年04月12日
総合評価:3.5
日本大学開校の地の石碑が目白通りに置かれています。
明治22年に開校したとのことです。
明治22年(1889年)、国学の教育研究機関たる皇典講究所内に、日本法律学校が創立されました。
日本法律学校の開校は、のちの日本大学に発展する前身の学校にあたります。
開校は、吉田松陰門下であり、維新の志士であった、時の司法大臣である山田顕義により進められ、目白通りに校舎が建設されました。
このため、日本大学開校の地とされています。
明治28年(1895年)に、東側の三崎町に移りました。
現在の日本大学の隆盛からすると、想像もつかないことかもしれませんが、経済的に困窮の時期もあったようです。
しかしながら、日本法律学校そして日本大学の果たした役割は、計り知れないものがあります。
特に、日本帝国憲法の発布を前にして、憲法そして法律の知見の修得及び蓄積は、日本全体として焦眉の課題でした。
今回の日本大学開校の地の石碑を訪れ、当時の黎明の時期に、日本法律学校の誕生の持つ意義が、極めて大きかったことを理解することができました。- 旅行時期
- 2018年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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東京農業大学の前身の育英黌農業科が、飯田橋の地に創設されました。
投稿日 2018年04月08日
総合評価:3.5
明治政府の逓信、農商務、文部、外務大臣等、数々の大臣を歴任した幕臣榎本武揚が、徳川育英会の育英黌農業科を、飯田橋の地において創設しました。
爾来、農業分野に関連する動植物等の全てに関わる総合科学を扱う大学として、実学主義を重んじる校風を発展させてきたそうです。
大根踊りに象徴されるバンカラ的な雰囲気が、親しみを感じさせてくれます。
IT化された現代社会においても、食に係る分野は、生活の基盤であり、AIやセキュリティの副作用に悩む現代社会に基本を教えてくれているような皮肉な感じを受けています。
例えは、やや主旨が異なりますが、青木昆陽がサツマイモの栽培を推奨し、飢饉に苦しむ日本を救ったこと思い出しております。
種々の思いが、脳裏を駆け巡った飯田橋の東京農業大学開校の地の石碑巡りでした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
日本赤十字社跡の碑が、目白通りの南側の歩道に立てられています。飯田橋の近くです。
投稿日 2018年04月07日
総合評価:3.5
飯田橋から、目白通りの西側の歩道を、九段下方向に歩いて、2~3分ほど進むと、日本赤十字社跡との文字が刻まれた石碑を見ることができます。
西南戦争の頃、傷病者の治療ため博愛社を設立した佐野常民は、飯田橋の地に病院を建設しました。
鉄道の開通のため等の理由で、移転しつつも、病院の機能を逐次拡充し、日本の国際十字条約加盟に伴い、名称を日本赤十字社に改め、今日に至っています。
数多くの戦いの中、赤十字社の博愛の精神は、脈々として続き、今日の確固たる役割を評価される段階となっていますが、その原点は、目白通りにある赤十字社跡の石碑に見ることが出来ます。
奇しくも、赤十字社発祥の地の石碑が、同じ飯田橋の近傍にあるとのことですので、ぜひとも、その地にも訪れ、同じ赤十字社にゆかりのある場所にて、赤十字社共通の博愛の精神に想いを致したいと考えています。
傷つき、救いを求める者にとっての赤十字社が、いかなる想いで見られ、期待されていたかを深く考えるべきかと痛感しています。
そのような気持ちにさせてくれた、赤十字社跡の石碑でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
先代市川団十郎が篤く信仰したと伝えられる飯富稲荷神社が、飯田橋の富士見町にあります。
投稿日 2018年04月07日
総合評価:3.5
先代市川團十郎が篤く信仰したと伝えられる飯富稲荷神社が、飯田橋の富士見町にあります。
飯富稲荷神社の歴史は、古いようで、解説板によると飯富稲荷神社の歴史は、明治初年に日比谷大神宮の一角に創設されたことから始まるようです。
不世出の名優と謳われた先代の市川團十郎が篤く信仰していたことから、芸能神様と言われる反面、衣食住の神様とも言われています。
現在は、日比谷大神宮と称せられていた東京大神宮の入口に、遷座しています。
ごく狭い敷地の中にあり、あまり目立たない場所ですが、多くの参拝客の足が絶えない有名なスポットのようです。
特に、若い女性の参拝が目につきます。
何の願いか、図り知ることはできませんが、熱心な願いに真摯な気持ちとして伝わってきます。
いずれにしましても、信じるところに道が開かれるとの言葉がある通り、願いある所にEが通ずる原点があるのでしょう。
気持ちが大事であることに、強く思いを致したところです。
再度訪れたい場所の一つです。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
-
旗本屋敷跡の石碑、手水、解説板は、日本歯科大学附属病院の横に置かれています。
投稿日 2018年04月07日
総合評価:3.5
旗本屋敷跡の石碑、手水、解説板は、日本歯科大学附属病院の横に置かれています。
現在の飯田橋駅周辺から番町の周辺には、旗本の屋敷が多かったとの記録があります。
旗本屋敷跡の解説板の地図に記載されている富永家は、当主の名前は、時代とともに変わりますが、江戸時代の絵地図にも、描かれていますので、代々、引き続いていたようです。
絵図には、その他、禄高が500石、屋敷の広さが591坪との記載があります。
富永家は、石高及び屋敷の広さからすれば、比較的、大きな旗本だったものと推測されます。
千代田区教育委員会の解説によると、当時の旗本の生活が理解できるものとの評価であり、江戸時代の社会・文化解明の糸口とのことです。
旗本屋敷跡を訪れることにより、さらに関係資料、文献等を読む動機づけとなり、興味や疑問が、次々と、湧き出て、さらなる進展のきっかけとなるようです。
これらは、歴史探訪のとても良い面と思われます。
引き続き、現地に赴き、永い歴史の一端に触れていきたいものです。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
富士見町教会は、飯田橋駅西口の牛込橋の傍にある近代的なキリスト教の教会です。
投稿日 2018年04月07日
総合評価:3.5
富士見町教会は、日本基督教団に属し、改革長老教会の教えを守っているプロテスタントのキリスト教の教会です。
植村正久により、明治20年に創設された伝統のある教会のようです。
永い教会の伝統に対して、現在の教会の建物は、現代的な新しい建物で、端正な感じがします。
明るい教会の中で、敬虔な祈りが続いています。
お教えの内容については、良く解りませんが、清々しい感じを受けます。
日本においては、仏教等いろいろな宗教の施設がありますが、キリスト教の施設も多く見られます。その中で、キリスト教は、明治初期から、居留地における学校教育と布教が融合した形態の活動が始められました。
それら地道な活動により、日本においても、キリスト教が広く認められるようになりました。
その結果、富士見町教会のような立派な教会施設が造られるようになりました。
各種の苦難を克服して、日本においてもキリスト教の真摯な活動が抵抗なく受け入れられるようになったことに、感慨の念と敬意を感じています。
より良き面に目を向ける寛容性が重要だと再確認した次第です。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
錦糸町のカユ デ ロワで、美味しいお粥を食べてきました。コーヒーも美味しかったです。
投稿日 2018年04月06日
総合評価:3.5
錦糸町のカユ デ ロワで、美味しいお粥を食べてきました。
コーヒーも美味しかったです。
地下鉄の情報誌に載っていたお店です。
情報誌にて紹介されていたためか、混んでいました。
昼時のピーク時間を過ぎていましたが、混んでいて、15分程度、待ちました。
入口の待機リストに名前と人数を記入し、傍の椅子に腰かけて待ちました。
しばらく待ちますと、案内があり、窓際の席に座りました。
店内は、広くなくテーブルが7個程度ですので、20~30人程度の収容能力ですが、比較的ゆったりとした感じがしました。
お粥が主体なせいか、女性客が圧倒的に多かったです。
今回は、ビーフのお粥とポパイのお粥を注文しましたが、案外早く、お粥が提供されました。コーヒーも同時に注文しましたが、お匙が、陶器製のものと金属製のものが、2種類ついてきました。
その理由は、すぐわかりました。熱々なのです。大きなボール状の器から、小さな器に移して、少しづつ味合うのです。
とても美味しかったです。味が濃くなく、優しい味がしました。幸せです。
あまりにも、美味しかったので、写真を撮るのを忘れてしまいました。
食べかけの途中、気が付きました。
食べかけの写真で恐縮ですが、紹介します。お赦しください。
コーヒーも美味しくて、至福のひと時でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 一人当たり予算
- 500円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 2.5
- サービス:
- 3.5
- 雰囲気:
- 3.5
- 料理・味:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 観光客向け度:
- 2.5
-
豪州の北部戦域において没せられた方々の慰霊碑が靖国神社傍にあります。
投稿日 2018年03月20日
総合評価:3.5
豪州の北部方面戦域において、戦没せられた方々の慰霊碑が靖国神社傍にあります。
南十字星の下、戦没せられた方々の御霊を慰霊するため、靖国神社入口の傍に慰霊碑が設けられています。
時を経て、同じ南十字星の輝く、豪州の北部戦域の島国に赴く機会があり、灼熱の陽射しの下、想いの一端を共にしました。
帰国後、靖国神社とともに濠北方面戦没者慰霊碑を訪れました。
御製の詞をはじめとして、魂の文字が刻された石碑、慰霊の詞等が慰霊の誠として捧げられていました。
九段坂を越え、早稲田通りに沿って奥に入った場所に、英霊が祀られていました。
緑の樹々に囲まれ、静かな環境の中、数多くの英霊が眠っています。
遠く、豪州の北部において散華された方々の安らかなる眠りを願うばかりです。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
牛込見附跡(御門跡)は、早稲田通りの外堀を渡る付近にあります。
投稿日 2018年04月05日
総合評価:3.5
牛込見附跡(御門跡)は、早稲田通りから外堀を渡る際、牛込橋の手前付近にあります。
牛込見附跡は、日露戦争前の明治35年に撤去されましたが、一部の石垣が残されています。
牛込見附跡の解説文によりますと、江戸城の見附(御門)が、逐次、撤去されていく中で、この牛込見附は、比較的、江戸時代の見附の状態を残していると言われています。
現存している牛込見附跡は、石垣が主体になっています。
牛込見附(御門)に関する江戸時代の絵図等を見ると、複郭式の櫓郭構造になっていたようですので、現存の石垣と見比べて見ると、興味が湧いてきて、想像を巡らせてしまいます。
歴史的な建造物を見ると、歴史が身近に感じられ、世界が広くなるような感じがします。
そのような面を考えると、歴史的な建造物・資料等は、できるだけ保存すべきかと思っています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
牛込橋は、江戸時代に、田安門からの道が、外堀を越える際に渡る、重要な橋でした。
投稿日 2018年04月05日
総合評価:3.5
牛込橋は、江戸時代に、田安御門からの道が牛込御門に続き、さらに外堀を越える際に、渡る重要な橋でした。
牛込橋は、外堀が開削された寛永13年(1636年)に設置されて以来、何回も架けなおされています。
現在の牛込橋も、牛込御門の間を通り、外堀を渡る地点に、架けられています。
江戸時代の牛込橋は、牛込御門と一体として構成され、防御の観点から、木製の橋でした。
牛込御門は、明治35年に撤去され、現在は、石垣の一部のみが、残されています。
現在の牛込橋は、鋼鉄とコンクリート製ですが、親柱の形は、牛込御門の櫓の形を残した親柱になっています。
また、現在の舗装路面には、牛込御門の石垣の形や紋様が残されています。
石垣ばかりでなく、歴史は、我々の財産です。歴史を大事にすべきと考えています。
江戸城の御門や石垣等が、逐次、撤去されていく中、牛込橋周辺の石垣等が残されている現状を永く保存し、歴史の重みを感じ取る機会にしたいものと考えています。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
日本橋とやま館は、日本橋における富山県のアンテナショップです。明るくきれいな店です。
投稿日 2018年04月05日
総合評価:3.5
日本橋とやま館は、日本橋における富山県のアンテナショップです。
日本橋の北側にあり、道路沿いにあり、かつガラス部分が多いため、明るく感じられる、きれいな店です。
道路沿いに、2ケ所の入口があり、ガラス越しに内部が見えるため、入りやすい雰囲気になっています。
店内の係員も、笑顔で対応してくれるため、安心して店内を見て廻れます。
質問に対しても、親切にして、丁寧な回答があり、安心できます。
売り上げを気にしていないとは思われませんが、第一義的に、アンテナショップとしての役割を果たそうとしているとの思いが伝わってきます。
観光客の多いという場所的な特性から、適切な考え方かと推察しています。
狙いの神髄に触れることができた日本橋とやま間の訪問でした。- 旅行時期
- 2018年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- お買い得度:
- 3.0
- サービス:
- 4.0
- 品揃え:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5











































































































































































































