Lily-junjunさんのクチコミ(12ページ)全318件
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上には首都高速、西側には竪川水門、そして「赤穂義士」が吉良邸討ち入りの後に最初に渡った橋です。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.5
墨田区両国と墨田区千歳に架かる「一之橋」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の西口を出て、左方向に進むと140m先に「国道14号」(京葉道路)があります。横断歩道を渡り右折し、左手に見える「回向院」を通り過ぎ、最初の角を左折し250mほど進むと「一之橋」の北詰になります。
「一之橋」は、両国二丁目と千歳一丁目を結ぶ橋で、「隅田川」と「中川」を東西につなぐ「堅川」に架かり、「隅田川」から一番目の橋なので、「一之橋」と呼ばれています。「赤穂義士」が吉良邸討ち入りの後、「泉岳寺」に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。「両国橋」の東詰で休息した「赤穂義士」一行は、「泉岳寺」に向かって引き揚げを開始しました。また、火付盗賊改「長谷川平蔵」が活躍する「池波正太郎」の人気時代小説「鬼平犯科帳」にも「一ツ目橋」として登場する由緒正しき、歴史的には価値のある名橋です。
「一之橋」の歴史を紐解いてみると、江戸幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削しました。そして、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。また、排水路は「隅田川」に対し縦・横に開削されました。「一之橋」は、万治2年(1659年)に、「堅川」の開削と同時に架けられ、「隅田川」から入って「一ツ目の橋」と呼ばれ、長さ十三間、幅二間半ほどありました。この当時は、「堅川」の両岸には全国から江戸に水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び「一之橋」を行き交う人々も大変多く、大いに賑わったそうです。そして、大正12年(1923年)の関東大震災により被災し、震災復興事業橋として昭和4年(1929年)に鋼製桁橋として新たに架橋されました。現在の「一之橋」は、昭和54年(1979年)に完成し、長さが36.90m、幅が15.00mあります。「一之橋」の上部を首都高速7号小松川線が横切り、すぐ西側に「竪川水門」があります。
01_【「一之橋」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒130-0026 東京都墨田区1
※北詰…墨田区両国1丁目・両国2丁目 南詰…墨田区千歳1丁目
⑵ 長さ…36.90m 幅…15.00m
⑶ 竣工…昭和54年(1979年)
02_【「一之橋」へのアクセス】
⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩8分500m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5出口から徒歩14分950m
⑶ 都営新宿線「森下駅」A2番出口から徒歩10分700m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- JR総武本線「両国駅」西口から徒歩8分500m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 通行で行き交う人と車しかありませんでした。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の状況や様子を想像するしかありませんでしたが、いろいろ歴史の勉強になり、知識を蓄積できます。
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杉山和一は視覚障害者の生活の安定や地位の向上に多大な影響を与えた人物で、ここに祀られています。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:4.0
「江島杉山神社」は、墨田区千歳1丁目にあります。。「江島杉山神社」へのアクセスは、都営新宿線「森下駅」のA2出口を出て、右方向に190mほど直進します。二つ目の信号(表示名「新大橋」)を右折し、460mほど道なりに直進すると右手に「江島杉山神社」の石鳥居があります。
「江島杉山神社」は、墨田区千歳にある神社で、神奈川県藤沢市「江島神社」の「弁財天」の御分霊を祀っています。また、その弁財天を深く信仰した「杉山和一」を併せて祀っています。「江島杉山神社」の歴史を紐解いてみると、「杉山和一」は三重県津市の武家の生まれでしたが、幼少期に病により失明し、身を立てるために鍼術を志しました。江戸の「山瀬琢一」に入門しましたが、技術が向上せず師の下を破門されてしまいます。しかし、目の不自由な自分が生きるために何かを成さねばならぬと江ノ島弁天の岩屋に籠り、七日七夜の参籠をしました。満願の日に、外に出ると大きな石に躓いてしまいましたが、何か手に刺さる物があり探ってみると、筒状になった椎の葉に松葉が包まれていました。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」と開眼しました。こうして、現在の鍼治療の主流である管鍼術が誕生しました。躓いた石は「福石」として本社「江島神社」に祀られています。その後京都の「入江豊明」の下で更に鍼術を学び、江戸で開業すると、その噂は瞬く間に広まり、鍼の名人として有名になりました。この「杉山和一」の名声を聞いた5代将軍「徳川綱吉」が、「杉山和一」を「扶持検校」として召し抱え、日夜自身の治療にあたらせました。「杉山和一」は、寛文10年(1670年)1月に、61歳で盲人最高位の役職に就き「鍼治講習所」を開きました。「鍼治講習所」においては、「杉山和一」は、多くの弟子に鍼・按摩技術を教育し職業の確立を進めた世界初の盲人教育の場でした。元禄5年(1692年)5月9日に5代将軍「徳川綱吉」から総検校に任ぜられました。元禄6年(1693年)6月18日に5代将軍「徳川綱吉」から、本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり、翌元禄7年(1694年)には荘厳な「社殿」が建立されました。震災戦災により二つの社殿は焼失しましたが、昭和27年(1952年)に合祀し「江島杉山神社」となりました。「杉山検校」の墓は立川の「弥勒寺」にあります。ちなみに、「検校」とは、盲人の役職である盲官の最高位の名称で、また、盲人の自治的互助組織を当道座と呼び、その最高位は「総検校」と呼ばれました。「総検校」は、音楽の演奏や作曲で活躍する者、鍼灸・按摩の技術が優れたものが選ばれることが多かったそうです。
それでは、さっそく参拝したいと思います。ここで、注意しておきたいのが、西側の「石鳥居」からが正式な「表参道」です。私も当日に最初に「安兵衛公園」へ行ったので、間違えて南側の「石鳥居」の参道から入ってしまいました。どうりで正面に「社殿」がなかったはずです。それなので、西側の「石鳥居」から入りなおしました。「江島杉山神社」と記された社号碑が「石鳥居」の前にあります。その手前には、手前には「杉山和一記念館」と「杉山鍼按治療所」かかれた看板があります。「杉山和一記念館」は、平成28年(2016年)に、「社務所」があった場所に「社務所」兼「杉山和一資料館」が完成したものです。
そして、「参道」を進むと、「参道」が交差するあたりに「二之鳥居」があり、右手に「杉山検校」の石碑があります。私も初めてみましたが、大変めずらしい点字の石碑で、一説には、世界に一つしかない「点字の石碑」だといわれています。この石碑は、大正15年(1926年)に、「杉山和一」に正五位が追贈されたことを記念して建立されたものです。
次に、「二之鳥居」を潜ると右手に「手水舎」があります。さらに、「手水舎」の裏手には、「銭洗所」と「銭洗弁財天」、「美玉洗」があります。まず、手前にあるのが、「銭洗所」で、その奥には平成26年(2014年)に安置された「銭洗弁財天像」があります。さらに奥には、「授与所」で授与される「勾玉」を洗う「美玉洗」もありました。「美玉洗」のところには、説明板があり、「美玉洗 授与所でお頒している 勾玉をお水で清め 美と長命を祈り 御守りにしてお持ちください」と書かれていました。
また、後戻りして、南側の「石鳥居」をくぐると「弁天池」があり「太鼓橋」を架かっていました。「太鼓橋」の手前から見る「社殿」は、なかなか風情があって印象的でした。「弁天池」と「太鼓橋」は綺麗に整備されていて、何と「太鼓橋」は渡ることもできます。本当に小さな池ですが、「太鼓橋」から見る風景は、心と目を癒されました。「弁天池」の一画には墨田区内最重量の「力石」もありました。文化12年(1815年)に奉納された「力石」で、九拾三貫(約349kg)と刻まれていました。
そして、「太鼓橋」を渡ると正面には、「社殿」があります。昭和27年(1952年)の再建の際に、「江島神社」と境内社「杉山神社」が合祀されました。「社殿」の前の右手には、説明板があり、御神徳として、福徳円満、芸能上達、学業成就、そして、「杉山和一」を祀るせいか、他の寺社では見られない「鍼灸按学術上達」の御利益があるのが興味深かったです。
「社殿」の右手奥には境内社である「杉多稲荷神社」があります。朱色の「鳥居」の奥には小さな祠と小さな神狐像がありました。
「弁天池」の奥にあるのが、ミステリーゾーンの「岩屋」です。ただの洞窟かと思いきやこれが予想外でした。まず、奥に続くのが「岩屋」への道の入口に、寛政8年(1796年)の銘が刻まれた「いわやみちの碑」がありました。現在の「岩屋」は、慶応2年(1866年)に造立され、昭和39年(1964年)に破損していた「岩屋」を修復整備したものです。「岩屋」の内部には「杉山検校像」、「宗像三女神」、「人頭蛇身の宇賀神像」が祀られていました。まず、正面に祀られているのが、柔和で優しい表情をしている「杉山和一検校」の石像です。「杉山和一検校」の石像の右手には、「宗像三女神」の像があります。「宗像三女神」は、「宗像大社」(福岡県宗像市)を総本社として各地に祀られている女神たちのことです。向かって右にあるのが「多紀理比売命」、中央にあるのが「市杵島比売命」、左にあるが「多岐津比売命」です。「岩屋」内は薄暗く、「宗像三女神」も少々劣化しているので見分けにくいかもしれません。「杉山和一検校」の石像の右手には、人頭蛇身となった「宇賀神」の石像があります。そして、それぞれの像の前には、最初はこよりかお線香化と思いましたが、小さな蛇の置物が多数置かれていました。帰り際に「社務所」に立ち寄ってみると、「社務所」で頒布しているもので、参拝者が願い事を込めて「岩屋」に奉納するものだということでした。
01_【「江島杉山神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒130-0025 東京都墨田区千歳1丁目8-2 電話:03-3863-1308
⑵ 「江島杉山神社」の概要
①社号…江島杉山神社 ②御祭神…江の島弁財天(市杵島比売命)、杉山和一総検校
02_【「江島杉山神社」へのアクセス】
⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩10分700m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5出口から徒歩13分900m
⑶ 都営新宿線「森下駅」A2出口から徒歩9分650m
⑷ 区内循環バス「すみだ百景すみまるくん・すみりんちゃん」で「江島杉山神社入口」下車し徒歩3分- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営新宿線「森下駅」A2出口から徒歩9分650m
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 参拝客は少しいましたが、混雑してはいません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 岩屋など洞窟探検できるおもしろい旧跡もあります。
-
堀部安兵衛の道場を出発した赤穂義士は、この橋を渡って吉良邸へ向かったと言われています。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「二之橋跡」は、墨田区両国4丁目付近にあります。「二之橋跡」へのアクセスは、都営地下鉄大江戸線「両国駅」のA5番出口出て、左方向に進みます。「京葉道路」を渡り、200mほど直進すると「首都高速7号小松川線」があり、その下の「二之橋」の袂の右側に「二之橋跡」の高札あります。
「二之橋」の歴史を遡ると、万治二年(1659年)に「竪川」が開削されると五つの橋が架けられました。隅田川に近いほうから「一之橋」から「五之橋」と名付けられました。「二之橋」は、そのニツ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどあったそうです。そして、関東大震災により被災した震災復興事業橋として昭和4年(1929年)に鋼製アーチ橋として架橋され、現在の「二之橋」が架けられたのは平成10年(1998年)です。古くは江戸時代からその名は知られています。火付盗賊改「長谷川平蔵」が活躍する「池波正太郎」の人気時代小説「鬼平犯科帳」には、「二つ目橋」という名前でたびたび登場します。
また、「堀部安兵衛」の道場を出発した「赤穂義士」は、この橋を渡って「吉良邸」へ向かったと言われています。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国4丁目1
※ 北詰…墨田区両国4丁目・緑1丁目、南詰…墨田区千歳3丁目・立川1丁目
02_【アクセス】
⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩12分850m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分350m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分350m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 赤穂浪士関連の名所・旧跡ですが、観光客はいませんでした。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の討ち入りの状況や様子を想像するしかありませんでした。
-
一茶の句は、高校時代に教科書でよく目にしました。とても分かりやすい俳句だったのを記憶しています。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「小林一茶旧居跡」は、墨田区緑1丁目の二之橋北詰にあります。「小林一茶旧居跡」へのアクセスは、都営地下鉄大江戸線「両国駅」のA5番出口出て、左方向に進みます。「京葉道路」を渡り、200mほど直進すると「首都高速7号小松川線」があり、その下の「二之橋」の袂に「小林一茶旧居跡」の説明板あります。
「小林一茶」は文化元年(1804年)に、それまで住んでいた「本所五ッ目大島」(現在の江東区大島)から「本所相生町」の借家に転居してきました。そして、足掛け5年住んだこの借家は一番安定したすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は再び弟子や後援者の家を転々と泊まり歩くことになってしまいました。ちなみに、「小林一茶」は、宝暦13 年(1763年)年5月に、柏原宿(現在の長野県信濃町)で農家の長男として生まれた。「小林一茶」は、15歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となりました。私の高校時代の教科書にも掲載された「我と来て 遊べや親の ない雀」の句など人々に愛される独特な句風でした。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0021 東京都墨田区緑1丁目1
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩12分850m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分350m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分350m
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 赤穂浪士関連の名所・旧跡と少し離れているので、観光客はいませんでした。のびのび、ゆっくり鑑賞できます。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の状況や様子を想像するしかありませんでしたが、いろいろ歴史の勉強になり、知識を蓄積できます。
-
江戸城無血開城に多大な貢献し、江戸市民を戦禍から救った人物で、咸臨丸の艦長でもありました。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.5
「勝海舟生誕の地記念碑」東京都墨田区両国4丁目の両国公園内にあります。「勝海舟生誕の地記念碑」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、左手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り左方向にすすむとすぐ一つ目の角がありますので、それを右折し道なりに80mほど進むと、左手に「両国公園」があり、その中に、「勝海舟生誕の地記念碑」があります。
「勝海舟」は、文政6年(1823年)1月30日、ここ本所亀沢の父の実家である男谷家に生まれ、「山岡鉄舟」、「高橋泥舟」とともに「幕末の三舟」と呼ばれていました。「勝海舟」は、「佐久間象山」に師事し、蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法などを学びました。ちなみに、「佐久間象山」は、信濃国(現在の長野県)松代藩士で、幕末の天才と呼ばれた人物です。洋学、蘭学、砲術、造艦、天文、医術、あらゆる分野に最先端の深い知識をもち、当時の日本最高の知識人と言われていました。「佐久間象山」は、神田お玉ヶ池付近に塾を開き、松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務め、嘉永4年(1851年)に、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に「佐久間象山塾」を開きました。何と門下生には、「吉田松陰」、「勝海舟」、「坂本龍馬」、「橋本佐内」、「山本覚馬」ら明治維新に貢献した俊才たちがずらりと並んでいます。そして、「海舟」は号で、佐久間象山直筆の書『海舟書屋』からとったものです。「勝海舟」は、安政7年(1860年)1月に、咸臨丸艦長として邦人の手による初の太平洋横断の快挙をなしとげました。慶応4年(1868年)3月には、高輪の薩摩藩邸において「西郷隆盛」と会見し、江戸城無血開城に成功し、江戸市民を戦禍から救いました。明治政府にも重用され、参謀兼海軍卿・元老院議官などになり伯爵となりました。もし、「勝海舟」がいなかったら江戸の街は戦場と化し、今の東京はなかったかもしれませんね。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国4丁目25-12 両国公園内
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分400m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分400m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- R総武本線「両国駅」東口から徒歩5分400m
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 赤穂浪士関連の名所・旧跡と少し離れているので、観光客はいませんでした。のびのび、ゆっくり鑑賞できます。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の状況や様子を想像するしかありませんでしたが、いろいろ歴史の勉強になり、知識を蓄積できます。
-
尺振八は幕末から明治にかけて活躍した英学者で、中浜万次郎らから英語を学んだそうです。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「尺振八の共立学舎跡」は、墨田区両国4丁目にあります。「尺振八の共立学舎跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、左手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り左方向にすすむとすぐ一つ目の角がありますので、それを右折し道なりに120mほど進むと、両国小学校の敷地内に、「尺振八の共立学舎跡」の説明板があります。
「尺振八」は、下総高岡藩の医師の子として生まれ、「中浜万次郎」や英学者「西吉十郎」らから英語を学び、文久元年(1861年)からは「福沢諭吉」もいた幕府外国方に通弁(通訳)として勤めました。3年間にわたり幕府の遣外使節に通訳として、幕府の文久3年(1863年)の遣欧、慶応3年(1867年)の遣米と二度の使節団に随行しました。明治に入り大蔵省翻訳局に出仕し、明治5年(1872)年には、大蔵省翻訳局長となりました。しかし、明治8年(1869年)に退官し、明治3年(1870年)7月に相生町に設立した英語塾「共立学舎」の教育に専念しました。アメリカへ一緒に同行した「福沢諭吉」は、「慶応義塾」を開設しました。「共立学舎」は寄宿制英語塾でしたが、英語だけにとどまらず、漢字教育も行った洋漢兼学のバランスのとれた私塾であったために開塾後わずか半年で100名を越える生徒数を誇りました。やはり、ヨーロッパとアメリカに行き、西洋文明を自分の目で見て、体験したのが後の人生を大きく変えたのでしょうね。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国4丁目26
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分400m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分400m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分400m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 赤穂浪士関連の名所・旧跡と少し離れているので、観光客はありませんでした。のびのび、ゆっくり鑑賞できます。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の状況や様子を想像するしかありませんでしたが、いろいろ歴史の勉強になり、知識を蓄積できます。
-
夏目漱石ゆかりの地の一つで、学生時代に私立学校江東義塾で一年間教師していました。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「江東義塾跡」は、墨田区両国3丁目にあります。「江東義塾跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに110mほど進みます。3つ目の角がありますので、その角を右折します。「吉良邸跡」の前を通り150mほど直進します。突き当りを左折し、20mほど直進すると一つ目の角のところに「江東義塾跡」の説明板があります。すぐそばに、「吉良邸裏門跡」の説明板もあります。
文豪「夏目漱石」は、明治19年(1886年)から約1年間教師をしていた「私立学校江東義塾」は、この辺りにあり、併設の宿舎に住んでいました。今は居酒屋の壁に「江東義塾跡」の説明板が設置されており、面影は全くありません。当時「夏目漱石」は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師していたので、「漱石ゆかりの地」の一つのようです。ここで教師をするようになってから、「夏目漱石」はさらに学業に励み、ほとんどの教科で首席をとりました。説明板に、次のようなことも書かれていました。「夏目漱石」は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は5円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後2時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目9-1
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」にし東口から徒歩5分400m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩9分650m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」にし東口から徒歩5分400m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 赤穂浪士関連の名所・旧跡を見るガイドツアーや個人の観光客は周辺にいましたが、この高札にはあまり興味がなさそうでした。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の状況や様子を想像するしかありませんでしたが、いろいろ歴史の勉強になり、知識を蓄積できます。
-
裏門の大将は大石主税良金です。また、赤穂浪士の討ち入りで重要な役割を果たしたのは裏門だそうです。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「吉良邸裏門跡」は、墨田区両国3丁目にあります。「吉良邸裏門跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに100mほど進むと3つ目の角がありますので、それを右折します。150mほど進むと3つ目の十字路があるのでそこを左折するとマンションの前に「吉良邸裏門跡」の説明板があります。
「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸裏門跡」があります。「吉良邸裏門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「吉良邸」の「裏門」は、「吉良邸」の西側、回向院側にありました。赤穂浪士の吉良邸討入りでは、「裏門」が重要な舞台となりました。というのは、「裏門」は「表門」とくらべて頑丈ではなかったため、大槌を使い、門を壊して討ち入ったといわれています。「大石良雄内蔵助」を総大将とした47士の中で、裏門攻撃の大将を務めたのは「大石良雄内蔵助」の嫡男、「大石主税良金」でした。「裏門」から24名の義士が突入を図りました。赤穂浪士は協力して、気づかれないように情報収集し、「裏門」から攻略するのがベストの選択をした訳ですね。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目10-1
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩7分500m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩9分650m
03_【表門の赤穂義士】24名
大石主税、吉田忠左衛門、間瀬孫九郎、小野寺十内、間 喜兵衛、間 新六、堀部安兵衛、礒貝十郎左衛門
潮田又之丞、奥田貞右衛門、菅谷半之丞、大石瀬左衛門、赤埴源蔵、千馬三郎兵衛、中村勘助、木村岡右衛門
不破数右衛門、倉橋伝助、村松三太夫、杉野十平次、前原伊助、茅野和助、三村次郎左衛門、寺坂吉右衛門
「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸裏門跡」があります。「吉良邸裏門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「吉良邸」の「裏門」は、「吉良邸」の西側、回向院側にありました。赤穂浪士の吉良邸討入りでは、「裏門」が重要な舞台となりました。というのは、「裏門」は「表門」とくらべて頑丈ではなかったため、大槌を使い、門を壊して討ち入ったといわれています。「大石良雄内蔵助」を総大将とした47士の中で、裏門攻撃の大将を務めたのは「大石良雄内蔵助」の嫡男、「大石主税良金」でした。「裏門」から24名の義士が突入を図りました。赤穂浪士は協力して、気づかれないように情報収集し、「裏門」から攻略するのがベストの選択をした訳ですね。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩7分500m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- ガイドツアーや個人で赤穂浪士関連の名所・旧跡を見る観光客が結構いました。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の討ち入りの状況や様子を想像するしかありませんでした。
-
米屋五兵衛として店を構えた前原伊助宅跡は、赤穂義士討入りの最終集合場所跡です。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「前原伊助宅跡」は墨田区両国3丁目にあります。「前原伊助宅跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに200mほど進むと「馬車通り」になります。「馬車通り」の横断歩道を渡り右折し、100ほど直進すると信号の手前のマンションの前に「前原伊助宅跡」があります。
「吉良邸」に向かい吉良邸敷地の南側にあるのが「前原伊助宅跡」です赤穂浪士47士の1人である「前原伊助」が「米屋五兵衛」と称して本所相生町の吉良邸裏門脇に店を開業していました。同居の神崎与五郎とともに「吉良邸」への出入りなどの「吉良邸」の動向を探っていたそうです。ちなみに「前原伊助」は、浪人直後から吉良邸に程近い日本橋富沢町で古着屋を開業し、「吉良上野介」が屋敷替えを命じられ本所に移ったときには店を吉良邸裏門そばの本所相生町に移し、呉服店を開き探索すします。のちに、「神崎与五郎」が麻布谷町で開いていた店(米穀商)と合同して探索を続け情報の収集に大いに貢献しました。そして、「前原宅」は討入りの最終集合場所となったそうです。現在でいう諜報部員の役割を果たしていたのですね。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目2-4
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩7分500m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩9分650m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩7分500m
-
囲碁の名門の屋敷跡で、開祖の日海は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えたそうです。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「本因坊屋敷跡」は墨田区両国3丁目にあります。「本因坊屋敷跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに200mほど進むと「馬車通り」になります。「馬車通り」の横断歩道を渡るとパイオニアINNビルがありその前に「本因坊屋敷跡」の説明板があります。
「本因坊屋敷跡」の説明板は、「パイオニアINN」ビルの角にあり、ここに「本因坊家」の屋敷があった場所です。囲碁の名門の「本因坊家」の開祖は、「日海」(一世本因坊算砂)で、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の三人に仕えました。そして、「本因坊家」は、「道策」、「丈和」、「秀和」、「秀策」など数々の名棋手を輩出してきました。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667年)この場所が屋敷となりました。江戸時代には、「本因坊家」、「安井家」、「井上家」、「林家」の「囲碁四家元」がありましたが、「本因坊家」は、筆頭の地位にあったそうです。現在は、実力制で争われるタイトルの1つとしてその名が残っています。「本因坊家」の墓は、3世の「道悦」までは京都の「寂光寺」に葬られていますが、四世の「道策」から21世の「秀哉」まで歴代本因坊は「本妙寺」に葬られています。「本妙寺」は、豊島区巣鴨にあるので、一度訪れてみたいと思います。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目5-7
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩8分550m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 赤穂浪士関連の名所・旧跡を見るガイドツアーや個人の観光客は周辺にいましたが、この高札にはあまり興味がなさそうでした。
-
赤穂義士の討ち入りの雄叫びが、太鼓の音と一緒に聞こえてきそうです。
投稿日 2024年01月19日
総合評価:3.0
「吉良邸正門跡」は、墨田区両国3丁目にあります。「吉良邸正門跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに130mほど進むと3つ目の角の先右手のマンションの前に「吉良邸正門跡」があります。
「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸正門跡」があります。「吉良邸正門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「赤穂浪士の討ち入り」は、元禄15年(1702年)12月14日、寅の刻(午前4時)の7つ鐘を聞いた後、「大石内蔵助」以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。赤穂浪士は「正門」、「裏門」の二手に分かれて、大声を上げながら、百人以上の大勢で討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水富士左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し出口を固めたため、飛び出すことも出来なかったといわれています。「吉良邸」の「正門」は、「吉良邸」の東側、両国小学校側にありました。「正門」は、「裏門」に比べてかなり頑丈にできていたので、梯子を門の屋根にかけてのぼり、その後、屋敷内に縄梯子を利用して降りて門を開けたといわれています。大石内蔵助が指揮をとり、23人が「正門」から斬りこみました。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目6-7 ラフィーネ510
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分350m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩7分500m
03_【表門の赤穂義士】23名
大石内蔵助、吉田沢右衛門、原 惣右衛門、片岡源五右衛門、間瀬久太夫、小野寺幸右衛門、間 十次郎
堀部弥兵衛、近松勘六、冨森助右衛門、早水藤左衛門、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、岡野金右衛門
岡島八十右衛門、武林唯七、貝賀弥左衛門、大高源五、村松喜兵衛、勝田新左衛門、矢頭右衛門七
神崎与五郎、横川勘平- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分350m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- ガイドツアーや個人で赤穂浪士関連の名所・旧跡を見る観光客が結構いました。
- 見ごたえ:
- 2.5
- 観光用の高札なので、説明文を読んで当時の様子を想像するしかありません。
-
飯澄稲荷は吉良邸の屋敷神で、鏡師中島伊勢はあの天才絵師の北斎を養子としたそうです
投稿日 2024年01月18日
総合評価:3.0
「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」は、墨田区両国3丁目にあります。「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに110mほど進みます。3つ目の角がありますので、その角を右折し、50mほど進むと右手に「本所松坂町公園」があり「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板はその向かい側にあります。
「飯澄稲荷」は、本所松坂町と吉良邸の屋敷神・地域神として祀られているそうです。説明板等はありませんでしたので、残念ながら詳しく分かりませんでした。
「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板によると、「中島伊勢」の住居は、「赤穂事件」の後に、町人に払い下げられた「本所松坂町」となったこの辺りにありました。「中島伊勢」は、幕府用達の鏡師で、宝暦13年(1763年)にのちに「葛飾北斎」となる「時太郎」を養子とします。「葛飾北斎」の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も「北斎」は中島姓を名乗っていることから、「中島伊勢」の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、「北斎」の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、「鏡師中島伊勢」に嫁いでいるとしています。ちなみに、「鏡師」とは、鏡をつくる人、また、鏡をみがく人のことを言います。「中島伊勢」も芸術家でしょうから「葛飾北斎」の作品に影響を与えているのでしょうか。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目7
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩7分500m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 吉良邸の屋敷神と知らない人が多く素通りしていました。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」が隣接しているので効率的に見ることができました。
-
深々と雪の降る中、討ち入り装束を着た赤穂義士の行列が吉良邸に迫ってきます。
投稿日 2024年01月18日
総合評価:4.0
「吉良邸跡」は、墨田区両国3丁目の「本所松坂町公園」にあります。「吉良邸跡」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに110mほど進みます。3つ目の角がありますので、その角を右折し、50mほど進むと右手に「本所松坂町公園」があり「吉良邸跡」はその中にあります
「吉良邸跡」は、「忠臣蔵」で知られる「吉良上野介義央」の江戸上屋敷跡です。かつて「吉良上野介」はこの一帯に、東西に「733間」(約134m)、「南北」に34間(約63m)、坪数2,550坪(約8,400㎡)もある広大な屋敷を構えていたそうです。現在の「本所松坂町公園」の面積は、97.56㎡なので、86分の1の規模しかありません。それを考えるといかに広大であったか想像できます。「吉良上野介」が「近藤登之介」の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701年)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703年)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。「吉良邸」は、最初は「鍛冶橋」にありましたが、元禄11年(1698年)の「元禄の大火」で焼失し、その後呉服橋で再建しました。そして、江戸城「松の廊下」での殺傷事件の後で、呉服橋の吉良邸を召し上げられて、江戸郊外の「本所松坂町」に移っていたのです。「吉良邸跡」の往時を偲ぶ高家を表す海鼠壁長屋門を模した塀と門に囲まれ、「吉良上野介」の首を洗ったとされる「首洗いの井戸」や「供養碑」が残されています。また、公園内にある「松坂稲荷大明神」は、江戸時代はじめに「御竹蔵」の水門内に鎮座した「兼春稲荷」で、討ち入り以後に「吉良邸跡」へ地所清めのために遷座したものだそうです。「本所松坂町公園」、は昭和9年(1935年)に、当地で赤穂義士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入し、同昭和9年(1935年)3月に、京都に寄付しました。当時ここは「本所松坂町」と呼ばれていたので、現在は「本所松坂町公園」という名称になっています。
01_【吉良邸跡(本所松坂町公園)の一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目13-9 本所松坂町公園
02_【吉良邸跡(本所松坂町公園)へのアクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩7分500m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩6分400m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 赤穂義士のガイドツアーや個人の観光客が結構いました。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 小さいながらも内容が凝縮され、赤穂事件のことがよく理解できます。
-
芥川龍之介は、文才だけでなく容姿端麗で、まさに文学界のプリンスでした。
投稿日 2024年01月18日
総合評価:3.0
「芥川龍之介文学碑」は、墨田区両国4丁目の「両国小学校」の植え込みの中にあります。「芥川龍之介文学碑」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の東口を出て左方向に進みます。70mほど直進すると横断歩道があるのでそれを渡り道路の反対側に行きます。左方向に90mほど直進すると「国道14号」(京葉道路)があり、右手すぐに横断歩道がありますので、それを渡り道なりに80mほど進むと2つ目の角左手に「芥川龍之介文学碑」があります。
「芥川龍之介文学碑」は、両国小学校の創立百十五周年を記念して平成2年(1990年)に、文化都市づくりの一環として建立されました。場所は、出身校である両国小学校(当時は江東尋常小学校と呼ばれてました)の敷地の角です。「芥川龍之介文学碑」には、「芥川龍之介」の自署と設置場所が両国小学校ということから児童文学の「杜子春」の一節が刻まれています。「芥川龍之介」は、東京の下町で育ち、江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校)に通い、回向院の境内で遊んだそうです。子供時代の愛読書は「西遊記」や「水滸伝」だったといわれています。私も子供の頃に、映画館で見た「西遊記」や「水滸伝」は、ワクワクさせ想像をかきたてるものでした。「杜子春」は「鈴木三重吉」が創刊した童話・童謡雑誌「赤い鳥」の20年7月号に発表された中国・唐代の伝奇小説を下敷きにし、仙人になろうとしてなり得なかった男の数奇な運命を平易な文章で描かれています。現在でも中学校の国語教科書によく採用されているそうです。大学在学中に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され、翌年、短編集「羅生門」を刊行し、若くして文壇に華々しく登場しましたが、35歳で自ら命を絶ってしまいました。確か、「羅生門」も国語の教科書に載っていた記憶があります。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国4丁目27-1
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分300m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分400m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- JR総武本線「両国駅」東口から徒歩5分300m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 吉良邸があるのでそちらの方に人の流れが行ってしまい人ごみは、ほとんどありません。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 両国小学校出身ということで、敷地の一部に立派な碑が建立されています。
-
早くして母を亡くし、芥川家の養子に出された芥川龍之介が、19歳までこの地で育ちました。
投稿日 2024年01月18日
総合評価:3.0
「芥川龍之介」は、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。「芥川龍之介」は、明治25年(1892年)3月1日に、現在の中央区明石町である東京市京橋区入船町8丁目1番地に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む「新原敏三」と「ふく」の長男として生まれました。辰年辰の刻に生まれたので「龍之介」と命名されたと言われます。生後7ヶ月で生母「ふく」の病のため、当時本所区小泉町15番地に住んでいた「ふく」の長兄、「芥川道章」に引き取られ、その後13歳の時、芥川家の養子となりました。明治43年(1910年)に19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、「芥川龍之介生育の地」として、「芥川龍之介」の作家人生に大きな影響を与えました。「芥川龍之介」は、大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して「夏目漱石」に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」、「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。「芥川龍之介」の死後の昭和10年(1935年)に、当時文芸春秋社長であった「菊池寛」が、亡友「芥川龍之介」の名を記念し文学の発展をねらい「芥川龍之介賞」を創設したのは有名な話です。また、「芥川龍之介生誕の地」である東京都中央区明石町10-11(聖路加国際大学付近)には、「芥川龍之介生誕の地」の説明板があります。「聖ルカ通り」から「聖路加国際大学」を回り込むようにして進むと、「聖ルカ礼拝堂」の手前の歩道の右側にあります。これも何かの縁かもしれませんが、赤穂藩の上屋敷であった場所に「浅野家内匠頭邸跡」の碑も建立されていました。
01_【一口メモ】
所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目21-18
02_【アクセス】
1 電車を利用して
⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩3分270m
⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩6分450m- 旅行時期
- 2023年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR総武本線「両国駅」西口から徒歩3分270m
- 見ごたえ:
- 3.0
- 横綱横丁を通り抜けて京葉道路沿いのビルの谷間にあるので、分かりにくかった。
-
他の武家屋敷と比べると質素で下級武士の生活様式がよく分かります。~映画「たそがれ清兵衛」のロケ地~
投稿日 2023年10月19日
総合評価:3.5
「武家屋敷松本家」は、「角館武家屋敷通り」にある江戸末期の歴史的建造物で、平成14年(2002年)に秋田県指定有形文化財(建造物)に指定されています。「松本家」は、学者の家系で、郷校「弘道書院」の教授を勤め「烏帽子於也」(角館町文化財指定)の筆者として知られる「須藤半五郎」を輩出しています。「烏帽子於也」は、藩政期の寺子屋向けの教科書で二冊からなっています。郷校(ごうこう)とは江戸時代,藩や代官によって設けられた教育機関で、藩校の分校的な性格のものと庶民教育を目的としたものとがあったそうです。「松本家」の建築様式は、現在では下級武士の生活を知ることのできる貴重なもので、母屋は茅葺き屋根で、正面の庇は杉皮葺きで石置き屋根になっています。門柱を二本立て、柴垣で屋敷を囲んだ簡素な町家の形式で、離れは寝室になっていた。以前に、どこかで見たことのあるような屋敷だと思ったら案の定、映画「たそがれ清兵衛」撮影場所でした。入館は無料で、春から秋には伝統工芸「イタヤ細工」の実演も行われています。華やかさはありませんが、当時の下級武士はつつましやかな生活をしていたのが、「武家屋敷松本家」を見るとよく分かりました。
- 旅行時期
- 2023年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- JR「角館駅」から徒歩17分、途中にいろいろ見るべき史跡等があるので気になりません。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 他の武家屋敷から少し離れた分かりにくい場所にあるので意外と空いていました。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 映画「たそがれ清兵衛」撮影場所で、入館は無料で、春から秋には伝統工芸「イタヤ細工」の実演も行われています。
-
江戸時代の中級武士の住宅として、無料で一般公開されています。シンボルのカシワの木にパワーをもらいました。
投稿日 2023年10月19日
総合評価:4.0
「武家屋敷通り」に入り、300mほど道なりに進むと、右手に三箇所目の「武家屋敷 岩橋家」があります。「武家屋敷 岩橋家」は、江戸時代の中級武士の住宅として、無料で一般公開され、秋田県の文化財に指定されています。「武家屋敷 岩橋家」は、屋敷は江戸時代末期に改造、屋根も茅葺きから木羽葺きに変えられ現在の形になりました。明治33年(1900年)に発生した火災により、この辺りは焼き尽くされましたが、その時、焼失を逃れました。母屋の部屋数は4室で、木羽葺きの屋根に切妻造りで、質素で実用本位の生活ぶりを伺い知ることができます。特に、板張りに小さな囲炉裏や桶を降ろして水をくむつるべ井戸には生活感が溢れ、印象に残りました。そして、庭にはしだれ桜、松、栗などが植栽されていますが、なかでも推定樹齢300年余りの「カシワの木」は内陸部では非常に珍しいとされ、パワーをもらいました。「武家屋敷 岩橋家」は、建物だけでなく木々の織り成す自然の雰囲気も満点の武家屋敷となっています。また、映画「たそがれ清兵衛」撮影場所としても有名で、今では、映画から情報番組まで幅広くロケに利用されているそうです。「岩橋家」の歴史を遡ると、「岩橋家」は「芦名家」の重臣で、禄高は75石でした。「芦名氏」が「伊達政宗」に敗れた後には常陸「江戸崎城」(現在の茨城県稲敷市江戸崎)へと移り、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602年)に、「佐竹氏」の出羽移封による「芦名氏」角館城入城に伴って角館へ入っています。「芦名氏」断絶後角館支配となった「佐竹北家」に召抱えられその後廃藩になるまで仕えました。
- 旅行時期
- 2023年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 桜の時期、そして武家屋敷通りということで比較的混雑していました。
-
風格のある書院造と庭園の苔が水の流れに見えるように造られているのが特徴の武家屋敷です。
投稿日 2023年10月19日
総合評価:4.0
「武家屋敷 小野田家」に隣接しているのが「武家屋敷 河原田家」です。「河原田家」は、「芦名氏」の会津時代からの譜代の家柄で、関ヶ原の戦い後に、角館に移り、その後は「佐竹北家」に仕えました。屋敷は江戸時代の武家屋敷建築様式をそのまま受け継いでおり、「表座敷」にはこの地方の「書院造り」の様式が残されています。現在の家屋は明治24年(1891年)に建てられ、四室で構成された主屋は角館武家住宅の典型的な造りとなっています。建物内に入って見学することはできませんが、縁側から室内を見ることはできます。また、母屋の前には、美しい庭があり、シダレザクラ、モミ、カツラ、マツ、イチョウなどの大きな樹木が植えられ、地表を覆う苔を水流に見立てると、庭全体が山水画として楽しめるように造られていて、小道を歩きながら庭園を眺められます。
- 旅行時期
- 2023年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- JR「角館駅」から徒歩14分で「小野田家」の隣にあります。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 桜の時期と重なり、武家屋敷通りはさすがに人がたくさんいました。
-
美しい庭園と樹齢数百年の見事な樹木を備えた中級武士の武家屋敷です。
投稿日 2023年10月19日
総合評価:4.0
「武家屋敷通り」に入り、100mほど道なりに進むと、右手に「武家屋敷 小野田家」があります。さて、桜の花見もさることながら、これから今回の旅の最大の目的である武家屋敷の点在する角館の武家屋敷のメーンストリートに入ります。この「みちのくの小京都」と称される角館の武家屋敷通りの入口に位置するのが「小野田家」で、仙北市指定史跡となっています。建物はもちろんのことですが、「武家屋敷 小野田家」の最大の見どころは、京都庭園作法の伝統植栽法を取り入れた樅、紅葉等の樹木にクマザサ等の植物を配し、ゆるい築山に石組の埋め込まれた庭園です。主屋は、明治33年(1900年)の大火後に、再建され、幕末期武家屋敷の様式を今に伝えています。「小田野家」の歴史を遡ると、初代秋田藩主「佐竹義宣」とともに常陸国より共に移ってきました。もともと武術によって仕えていたため、かつては門を入った右側に道場があったそうです。芸にも優れた家系であり、一家からは「平賀源内」から洋画を学び「秋田蘭画」という一派で名を馳せた「小田野直武」を輩出しています。後に、「小田野直武」は、「平賀源内」、「前野良沢」らの監修した「解体新書」の挿絵を描いています。このことからも文武両道の家柄と言うことがわかりますね。
- 旅行時期
- 2023年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- JR「角館駅」から徒歩14分のところにあります。武家屋敷通りの最初の武家屋敷です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- さすがに武家屋敷通り周辺は人ごみが目につくようになります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 最大の見どころは、京都庭園作法の伝統植栽法を取り入れた樅、紅葉等の樹木にクマザサ等の植物を配し、ゆるい築山に石組の埋め込まれた庭園です。
-
田鉄家という江戸時代から代々続く商家で蔵座敷の史料館です。元総理大臣の宮沢喜一の書もありました。
投稿日 2023年10月19日
総合評価:4.0
「たてつ家」は、商家の風情を現代に伝える江戸末期に建てられた蔵で、「外町資料館たてつ」として公開しています。「たてつ家」(田鉄家)で使用されていた商家の生活用品、所蔵品を入場料は無料で公開していて、狭いながらも散策できる庭もあります。「角館桜皮細工センター本店」に隣接し、「角館桜皮細工センター本店」の店内に入り、奥に進むと江戸末期に建てられた「蔵」があります。また、「角館桜皮細工センター本店」では、桜皮細工を中心に「大館曲げわっぱ」、楢岡焼など秋田の工芸品や「稲庭うどん」、地酒などの特産品をお土産用に買うこともできます。ということで、私もお弁当箱用に「大館曲げわっぱ」を一つ購入しました。ちなみに、「角館桜皮細工センター本店」の建物は、こもせ(現代でいうアーケード)を配した外町の商家を見事に再現し、優れた景観を形成したということで「角館町ふるさと景観賞」を平成16年に受賞したそうです。元総理大臣の宮沢喜一の書もありました。
- 旅行時期
- 2023年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- JR「角館駅」から徒歩8分のところにあります。近くには、「新潮社記念文学館」や「あきた角館西宮家」があります。
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 年中無休で、入場無料です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 建物自体狭いので、少し人がいると混んでいるように感じてしまいます。
- 展示内容:
- 3.5
- 「たてつ家」(田鉄家)で使用されていた商家の生活用品、所蔵品が展示してあります。
































































































































