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Lily-junjunさんのクチコミ全318件

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  • ヨーロッパの宮殿のようなホテルで快適に過ごすことができました。また、朝食も種類が豊富でした。

    投稿日 2025年03月16日

    ザ ブセナテラス 名護

    総合評価:5.0

    「首里城」から今日の宿泊先である「ザ・ブセナテラス」に向かいます。「首里城」から「ザ・ブセナテラス」までは、距離が55.8km、車で78分ほどです。「県道29号」で「国道58号」と交差する「泊高橋」の交差点まで戻ります。「泊高橋」の交差点を右折し、道なりに51.6kmほど進むと、「喜瀬」の交差点があり、その左手に「ザ・ブセナテラス」があります。帰りの通勤時間帯であったため、浦添、宜野湾、嘉手納で断続的な渋滞にはまってしまいました。順調にいけば車で78分ほどですが、「ザ・ブセナテラス」まで2時間近くかかってしまいました。左折し100mほど進むと守衛所があり、車を止められました。左手に「海中展望塔」専用の駐車場がある関係で一旦停止しなければなりません。「ザ・ブセナテラス」への宿泊客のむね告げるとホテルの正面玄関を親切に案内してくれました。正面玄関に車をつけるとホテルのバレーサービスの係員が2~3名いて、車の鍵を渡せば、駐車と出庫をしてくれました。宿泊の場合、1台につき1泊1,500(税込み)です。長期ご滞在の場合は5泊目までを有料とし、6泊目以降の駐車料金は無料となり、駐車料金はチェックアウト時に支払います。もちろん、「ザ・ブセナテラス」へは、「那覇空港」から「ザ・ブセナテラス」を含む「ザ・テラスホテルズ」の4つのホテル送迎用の無料シャトルバスも運行しています。「那覇空港」の集合場所は、「那覇空港国内線ターミナル1階」の国内線到着口A側の水槽前で、出発時刻の5分前までに集合場所に行っている必要があります。所要時間は1時間50分ほどです。その他、空港リムジンバス利用で、所要時間は約90分、料金は2040円(子ども1020円)となっています。沖縄バス [120]名護西空港線という路線バスもあります。こちらは「那覇空港」から「ブセナリゾート前」まで所要時間は約150分、料金は1980円で、バスを下車し「ブセナリゾート前」停留所からホテルまで徒歩約10分かかります。
    【第一日目】
    さて、「ザ・ブセナテラス」のメインエントランスに足を踏み入れます。目の前には、色鮮やかな花が花瓶にいけられ、天井も高いし、心の中に開放感が満ち溢れてきました。まるでヨーロッパの宮殿にいるような気分になりました。この日は、午後7時過ぎにチェックインしたので、ホテルの中しか暗くて分りませんでしたが、翌日になるとメインエントランスのその先にはテラスがあり、コバルトブルーの海が広がっているのを見て感激しました。ホテルは、平成9年(1997年)7月に開業したということですが、キチンと管理され、きれいに維持され、30年という歳月の古さは全く感じられませんでした。
    チェックインを待つ間、メインエントランスのソファでウエルカムドリンクを飲みながら待ちました。チェックインの手続きは10分ほどで終わり部屋に案内されました。部屋は8階の856号室で、デラックスナチュラルのオーシャンフロントです。テラスがあり二人掛けのソファを設置してあるので、ソファに腰掛けて南国の風景と自然を楽しむことができました。客室全体を見ると、令和7年(2022年)の7月に開業25周年を迎え改装されたばかりで、真新しく、清潔感ある客室でした。大画面のテレビがベッドの正面に設置され。電子機器の充電のためのコンセントやUSBポートも不便を感じることのない数がありました。浴槽も十分広く、伸び伸びと足を延ばすことができました。シャワーは、通常のシャワーの他に、優しく降り注ぐレインシャワーも完備されていました。着いた当日の部屋から眺めることのできるライトアップされたホテルのプールは、暗黒の世界にブルーが浮かび上がりとても印象的でした。翌朝テラスからながめると、夜とは風景が一変し、コバルトブルーの海とその先の水平線までひろがる青を対象にも感動しました。また、ホテルのプールのブルーもコバルトブルーの海を一層引き立てました。ただし、夕食をすませ、部屋に戻りコーヒーを飲もうとしたところ、ネスプレッソが壊れていたようで、ボタンを押してもほんの少ししか抽出されませんでした。途中で止まるためコーヒーカップの量に抽出されるまで、何回も長押ししなくてはなりませんでした。一流のホテルなのですからそのようなことは事前に点検しておくべきですね。この点だけ客室で残念なことでした。
    第一日目の夕食は、沖縄の郷土料理を食べる予定でしたが、時間もだいぶ遅くなったので、「ザ・ブセナテラス」のカフェテラスの「ラ・ティーダ」で食べることにしました。私は、サーロインステーキのセット、家内はハンバーグのセットを注文しました。8時過ぎだったので、お客は私たち以外に一組しかおらず、レストランを貸切り状態でした。また、沖縄に来たので、私は飲み物にオリオンビール、家内はシャンパンを頼みました。乾杯しているときにサラダが運ばれてきました。衝撃的な光景が目の前に現れました。プレートに色々な野菜が大盛りに盛られていました。今までどこのホテルや飲食店でもこんなに沢山の量のサラダは見たことがありません。思わず家内と顔を見合わせ、「これじゃ、サラダだけでお腹が一杯になってしまうね!」と同時に口から言葉が出ました。次に、運ばれてきたのが、サーロインステーキです。これまた値段の割には、ゆうに200g以上あるビックサイズでした。肉も柔らかく、グレービーソースもまろやかでステーキの味を引き立たせてくれました。もちろん家内の頼んだハンバーグもサーロインステーキに負けず劣らずの大きさでした。付け合せの温野菜も種類豊富で美味しくいただきました。そして、親切なことに帰り間際にウエイターの方が来て、二人の記念写真も撮ってくれました。部屋に戻る途中に、セレクトショップがあったので立ち寄ってみると、沖縄土産が沢山あり種類も豊富で、しかも、ホテルのショップというと割高感がありましたが、「ザ・ブセナテラス」のセレクトショップは、値段もリーズナブルで、他のお土産やより安いものもありました。私も他のところで買わずに、ここですべてお土産を購入し、自宅あてに宅配便で送りました。これで安心して眠ることができます。
    【第二日目】
    二日目の天気は、昨日とうって変わって霹靂の晴天です。客室のテラスからの眺めには、海を見ていただけですが心が洗われました。8時に起床して、朝食会場に向かいました。朝食会場は、昨夜夕食を食べた2階にあるカフェテラスの「ラ・ティーダ」です。朝食の時間は、7:00~10:30です。「ラ・ティーダ」の入口で部屋番号を伝えると係員が、室内かテラス席かを訪ねてきました。昨夜は、外は真っ暗だったのでテラス席があるのに気きませんでした。今日は室内で食べ、明日はテラス席で朝食を食べることにしました。席まで案内されるとすぐに料理を取りに行っても良いと言われました。カフェテラスの「ラ・ティーダ」のブッフェの目玉は、「クロッフル」と「フレンチトースト」、栄養バランスに優れ、一般的な食品より栄養価が高く、一部の栄養・健康成分が突出して多く含まれる食品「スーパーフード」コーナーです。「ラ・ティーダ」のブッフェは、「ホットブッフェステーション」、「ブレッドステーション」、「シェフズコーナー」、「スーパーフード」コーナーなどに分かれていました。ちなみに「クロッフル」とは、クロワッサン生地をワッフルメーカーで芳ばしく焼き、生クリームとハチミツ、チーズやハムなどを乗せても美味しく食べられるそうです。
    食事の内容は、ちょっと欲張って、料理を持って来てしまいました。ジュースはマンゴージュースです。これでは、お昼は軽めになってしまいました。食材は地産地消で、新鮮で美味しく食べられました。もちろんコーヒも深煎りでいい味わいでした。メーンは、プレーンオムレツ、フライドポテト、アグーソーセージ、ベーコンです。オムレツは、玉子を2~3個オーダーすればコックさんが作ってくれます。サラダは、プチトマト、ロマネスコカリフラワー、オニオンスライス、キュウリ、海ぶどうを島塩ドレッシングで食べました。しょっぱいと思いましたが、甘く、サラダに合いました。デザートは、パイナップル、ドラゴンフルーツ、紅芋ブリュレとデニッシュです。フルーツも新鮮で、パンも焼き立て、そして、紅芋ブリュレも焦げた部分に甘さがありデザート好きの私にはたまりませんでした。変わり種の料理もありました。それは、名前は忘れましたが、トルコの半熟玉子料理です。ラタトゥーユのようなソースの味わいでした。最後に、お薦めのクロッフルです。シークヮーサー、黒糖、ココナッツの3種類のホテルオリジナルバターがありました。欲張って3種類つけて食べました。
    朝食を済ませこれから本日の第一の目的地である「美ら海水族館」へ向かいます。部屋の鍵はフロントに預け、バレーサービスの係員に部屋番号を告げると、数分でレンタカーがホテルの玄関に横付けされました。待っている間は、昨夜見ることのできなかったテラスから海の景色を満喫しました。ホテルに戻ってきたのは、沖縄の郷土料理店で夕食を食べ、21:00頃になりました。
    【最終日】
    二日目の天気は予報では雨ということでしたが、現在のところ青空と太陽が顔を出しています。少し早めに起床し、ホテル前の砂浜を散歩しました。昨日同様、8:30頃、朝食会場のカフェテラスの「ラ・ティーダ」に向かいました。今日は。テラス席で食べました。寒いかと思いましたが、テーブルとテーブルの間にストーブが配置され、寒くはありませんでした。きのう食べ過ぎたので、少々セーブしてチョイスしました。情けない話ですが、違うものを食べるつもりでいたのですが、きのうと同じ内容になってしまいました。ただし、卵を2個使ったオムレツをコックさんに作ってもらいました。食事の内容ですが、メーンに卵を2個使い、オムレツを作ってもらいました。いささかジャンボなオムレツです。ベーコンとアグーソーセージそしてサラダは、キュウリ、プチトマト、オニオンスライスです。パンは、フレンチトーストとデニッシュ2種をチョイスしました。デザートは、パイナップル、紅芋ブリュレとグレープオレンジです。それにマンゴージュースとコーヒーです。テラス席でちょっとしたハプニングがありました。カラスが飛んできて、お客が料理を取りに行っているすきに、先に持ってきた料理を取って行ったのです。係員が追いかけても悠々と逃げていきました。カラスって本当に頭がいいですね。ヤシの木陰からホテルの係員の隙を狙っている姿も可愛いらしかったです。
    これで、「ザ・ブセナテラス」の美味しかった朝食ともお別れです。部屋に戻り、荷物をまとめ、10:00頃フロントに行きました。チェックアウトもスムーズ、レンタカーの出庫も素早く、今日最初の目的地である「万座毛」に向かいます。

    旅行時期
    2025年02月

  • 各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。

    投稿日 2024年10月23日

    佛願寺 三田・田町・芝浦

    総合評価:3.0

    港区芝大門1丁目にある「東京佛願寺」についての情報を発信していきます。今回、「東京佛願寺」を訪れたのは2024年4月5日です。
    「東京佛願寺」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出てそのまま直進します。「りそな銀行芝支店」の先の二つ目の角を右折し、50mほど進むと道路の右側に「東京佛願寺」があります。
    「東京佛願寺」は、「往生宗舎利山佛願寺」が正式名称です。以前は、「舎利山佛願寺」と言う宗教法人でしたが、平成28年(2016年)に現在の名称に改めました。全国にも何箇所か別院があり本部は札幌にあります。開祖は「弘善大師」ということですが、詳細は不詳です。「佛願寺」では、厄除け、開運、良縁、子宝祈願などの各種祈願を行っているお寺だそうです。外観から見ると一般的な寺院に見えません。また、「東京佛願寺」の中に入りにくそうな雰囲気だったので、外観からだけ眺めることにしました。皆さんにもそれをお薦めします。

    01_【「東京佛願寺」の一口メモ】
    所在地…105-0012 東京都港区芝大門1丁目14-3 電話:03-6459-0707

    02_【「東京佛願寺」へのアクセス】
    ① JR線・東京モノレール「浜松町駅」JR北口から徒歩6分400mほど
    ② 都営地下鉄三田線「御成門駅」A2出口から徒歩7分500mほど
    ③ 都営地下鉄三田線「芝公園駅」エレベータ出口から徒歩10分700mほど
    ④ 都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」A6出口から徒歩1分88mほど
    ⑤ 都営地下鉄大江戸線「赤羽橋駅」赤羽橋口から徒歩18分1200mほど
    ⑥ 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」3番出口から徒歩18分1200mほど

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」A6出口から徒歩1分88mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • この辺りにあった源流院というお寺で、東京の近代教育がはじまりました。

    投稿日 2024年10月23日

    日本近代初等教育発祥の地 三田・田町・芝浦

    総合評価:3.0

    港区芝公園1にある「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」についての情報を発信していきます。今回、「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」を訪れたのは2024年4月5日です。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」へのアクセスは、都営地下鉄三田線「御成門駅」のA3b出口を出て左方向に10mほど進むと、歩道の右手に「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」の石碑と説明板があります。
    明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「源流院」は江戸初期からの「増上寺」の子院で、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。他の5校は第二校が市ヶ谷「洞雲寺」に(現在の番町小学校)、第三校が牛込「万昌院」に(現在の愛日小学校)、第四校が本郷「本妙寺」に(現在の湯島小学校)、第五校が浅草「西福寺」に(現在の育英小学校)、第六校が深川「長慶寺」に(現在の深川小学校)です。この「源流院」と、第三校があった牛込「万昌院」、第四校があった「本妙寺」は移転してしまったそうです。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」は、平成2年(1990年)10月24日に港区の旧跡に指定されました。

    01_【「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」の一口メモ】
    所在地…〒105-0011 東京都港区芝公園1-1

    02_【「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」へのアクセス】
    ⑴ 都営地下鉄三田線「御成門駅」A3b出口から徒歩すぐ
    ⑵ 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」3番出口から徒歩10分650mほど

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄三田線「御成門駅」A3b出口から徒歩すぐ
    人混みの少なさ:
    3.0
    ほとんど足を止める人はいませんでした。
    見ごたえ:
    3.0

  • 慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。

    投稿日 2024年10月23日

    天光院 三田・田町・芝浦

    総合評価:3.0

    港区芝公園1丁目にある「天光院」についての情報を発信していきます。今回、「天光院」を訪れたのは2024年4月5日です。「天光院」へのアクセスは、都営地下鉄三田線「御成門駅」のA2出口を出てそのまま直進(「「増上寺」方面」)します。50mほど進むと、角がありますのでそこを左折し、70mほど進むと左手に「天光院」があります。
    最初に、「天光院」の歴史を紐解いてみる、「天光院」は、浄土宗の寺院です。「天光院」は天正12年(1584)年に、「増上寺」の「11世雲誉円也上人」が隠居寺として草創したといわれています。「円也上人」の出身地は筑後とも周防ともいわれ、そこから諸国修行の旅に出ましたたが、請われて伊勢白子の「悟真寺」の住職となります。その後、関東に出て増上寺9世「貞把」のもとに学び、増上寺10世「存貞」の弟子となります。「円也上人」は「存貞」の住職した鎌倉岩瀬の「大長寺」の2世となり、「存貞」が4年後に「増上寺」を辞した後を受けて増上寺11世となりました。また、「天光院」は、「慈恵医大病院」が仮開業したお寺であるとともに「大正大学の発祥の地」の一つです。学制が近代化の一歩を踏み出た時に、浄土宗でも、その学制として「浄土宗教校の本校」の所在地として「天光院」が明治22年(1889年)から明治23年(1890年)まで使用されました。それらは、各地に発展し、「大正大学」、「仏教大学」、「芝学園」、「東山学園」、「上宮学園」、「東海学園」、「鎮西学園」などとなって、現在30校、約60000人が学び、巣立っていきました。
    「天光院」の「本堂」は2階にあります。境内に入ると「本堂」の1階が「客殿」と「寺務所」になっています。正面には、「詮也不動」と大きな石灯籠があります。「詮也不動」は、「天光院」の9世住職「詮也上人」の墓碑として建立されたものです。さらに奥に進むと多目的ホールの「シュリーホール」があります。主に「天光院」の檀信徒の葬祭・法事等に利用されていますが、地元住民の催しやNPO法人、各種団体の利用に広く開放しているそうです。

    01_【「天光院」の一口メモ】
    所在地…〒105-0011 東京都港区芝公園1丁目3-16 電話:03-3431-1328

    02_【「天光院」へのアクセス】
    ⑴ JR・東京モノレール「浜松町駅」JR北口から徒歩7分450mほど
    ⑵ 都営地下鉄三田線「御成門駅」A2出口から徒歩1分110mほど

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄三田線「御成門駅」A2出口から徒歩1分110mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0
    「詮也不動」と大きな石灯籠があります。

  • 有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。

    投稿日 2024年10月23日

    有章院霊廟二天門 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    港区芝公園3丁目にある「有章院霊廟二天門」についての情報を発信していきます。今回、「有章院霊廟二天門」を訪れたのは2024年4月日5です。「有章院霊廟二天門」へのアクセスは、都営地下鉄三田線「御成門駅」のA1出口を出て右方向に86mほど進むと、歩道の右側に「有章院霊廟二天門」があります。
    「有章院霊廟二天門」は、江戸幕府7代将軍「徳川家継」の霊廟の惣門だった建物で、昭和5年(1930年)5月23日に、国の重要文化財に指定されています。現在の「東京プリンスホテル」の周辺は、戦前は「増上寺」の「北廟」でした。「北廟」には、6代将軍「徳川家宣」と7代将軍「徳川家継」の廟がありました。7代将軍「徳川家継」の廟は、享保2年(1717年)に8代将軍「徳川吉宗」が建立したものです。ちなみに、「有章院」とは7代将軍「徳川家継」の法号で、7代将軍「徳川家継」はわずか5歳で歴代最年少の将軍となり、その4年後には病気のため短い生涯を終えました。「有章院」を祀る霊廟には色とりどりで華やかな装飾があしらわれ、その豪華さは「日光東照宮に劣らない」と称されたほどでした。しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失してしまいましたが、そのような戦禍の中で、「有章院霊廟二天門」だけが残っています。「有章院霊廟二天門」には、仏教の護法神であり、向かって右が北方を守る「多聞天」と左が西方を守る「広目天」が祀られています。現存していませんが、6代将軍「徳川家宣」の「文昭院霊廟」の門には「持国天」と「増長天」が安置され、2門あわせて仏法を守護する「四天王」が祀られていました。昭和20年(1945年)の東京大空襲で霊廟が焼失した後、土葬されていた「徳川家継」の遺体は荼毘に付され、徳川将軍家霊廟に改葬されているそうです。「有章院霊廟二天門」をそばで見るのもいいのですが、「日比谷通り」に架かる歩道橋の上から別のアングルで見ると、建築物の素晴らしさがさらに分かります。是非、歩道橋の上から眺めてください。

    01_【「有章院霊廟二天門」の一口メモ】
    所在地…〒105-0011 東京都港区芝公園3丁目3

    02_【「有章院霊廟二天門」へのアクセス】
    ⑴ 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」3番出口から徒歩12分850mほど
    ⑵ 都営地下鉄三田線「御成門駅」A1出口から徒歩1分86mほど

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    都営地下鉄三田線「御成門駅」A1出口から徒歩1分86mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    門の前で足を止める観光客は結構いました。

  • 関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。

    投稿日 2024年10月23日

    芝大神宮 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    港区芝大門にある「芝大神宮」についての情報を発信していきます。今回、「芝大神宮」を訪れたのは2024年月日です。「芝大神宮」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出ると、「芝大門更科布屋」が右手にありその角を右折します。60mほど進むと十字路があるので、左折すると50m前方に「芝大神宮」の石鳥居が見えます。
    最初に、「芝大神宮」の歴史と概要を紐解いてみると、「芝大神宮」は、「伊勢神宮」の御祭神である「天照大御神」(内宮)と「豊受大神」(外宮)の二柱を主祭神として祀っています。創建は、寛弘2年(1005年)に「一条天皇」のときに創建された約1000年の歴史をもつ由緒ある神社です。鎌倉時代には、「源頼朝」の篤い信仰のもと「飯倉神明宮」、「芝神明宮」といわれ、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に境内や門前には、茶屋、芝居小屋等が並び、相撲や富くじの興業も行われ、賑わいをみせました。関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」ともいわれ、「歌川広重」の錦絵にも描かれました。
    「芝大神宮」の祭礼は期間が長いため「芝神明だらだら祭り」として知られています。祭礼には、生姜市が立ち、土生姜が売られたこと、生姜を神前にお供えしていたこと、生姜は古くから邪気を払う縁起の良い食べ物とされてきたことにより別名「生姜祭」とも呼ばれました。授与品には「千木筥」があり、東京の郷土玩具としても知られています。また、江戸時代に境内でおきた「め組鳶」と「角力」とのいさかいは「め組の喧嘩」として再三歌舞伎で上演せられ、その半鐘は今でも宝物として「芝大神宮」に保存されています。現在は縁結びの御利益がとくに有名で、女性には大人気なパワースポットです。女優の北川景子が歌手のDAIGOとの入籍前に参拝したということが話題になりました。芝大神宮には「千木筥(ちぎばこ)」といわれるお守りがあります。千木は千着と考えられ、「着るものに困らない」ということから「衣裳が増える」「良縁に恵まれる」と考えられるようになり、それが縁結びに繋がったそうです。
    次のような巡路で「芝大神宮」を参拝しました。

    《「芝大神宮」のお薦め参拝巡路》
    ①《鳥居》⇒②《銅燈篭》⇒③《貯金塚》⇒④《生姜塚》⇒⑤《狛犬》⇒⑥《百度石》⇒⑦《神明恵和合取組碑》⇒⑧《力石》⇒⑨《星野立子・椿・高士 三代俳句碑》

    それでは、参拝のスタートです。
    《「芝大神宮」のお薦め参拝巡路》
    ①《鳥居》⇒②《銅燈篭》⇒③《貯金塚》⇒④《生姜塚》⇒⑤《狛犬》⇒⑥《百度石》⇒⑦《神明恵和合取組碑》⇒⑧《力石》⇒⑨《星野立子・椿・高士 三代俳句碑》
    それぞれのポイントについては、見どころとして下記に掲載してあります。

    01_【「芝大神宮」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒105-0012 東京都港区芝大門1丁目12-7 電話:03-3431-4802
    ⑵ 主祭神…①天照大御神 ②豊受大神 ⑶ 例祭日…9月16日
    ⑷ 社務所受付…9時〜17時 ⑸ 御祈祷受付…9時〜16時30分

    02_【「芝大神宮」へのアクセス】
    ⑴ 電車を利用して
    ① JR線・東京モノレール「浜松町駅」JR北口から徒歩7分450mほど
    ② 都営地下鉄三田線「御成門駅」A2出口から徒歩5分400mほど
    ③ 都営地下鉄三田線「芝公園駅」エレベータ出口から徒歩7分550mほど
    ④ 都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」A6出口から徒歩2分130mほど
    ⑤ 都営地下鉄大江戸線「赤羽橋駅」赤羽橋口から徒歩16分1100mほど
    ⑥ 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」3番出口から徒歩16分1100mほど

    03_【「芝大神宮」の見どころ】
    ⑴ 「鳥居」
    「芝大神宮」の「鳥居」は、高さ12.5mある「神明鳥居」です。「神明鳥居」の特徴は、上部の横柱が一直線になっていて歴史的にもっとも古いタイプの鳥居です。「鳥居」の真下には賽銭箱が設置され、階段を上らなくても参拝できるようになっています。
    ⑵ 「銅燈篭」
    参道から「鳥居」に向かうと階段下の「鳥居」の両側に「銅燈籠」があります。また、左側には立派な社号碑があります。「銅燈籠」は、港区の有形文化財に平成9年(1997年)3月11日に指定されています。
    ⑶ 「貯金塚」
    「鳥居」の右手にある植栽の植え込みの中に「貯金塚」とその説明の石碑があります。説明の石碑には、大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京で、「不動貯金銀行」(現在の「りそな銀行」)だけが貯金の全額払い戻しを行ったことが刻まれています。貯金塚の碑文は、「武者小路実篤」の筆です。「貯金塚 根気 根気 何事も根気 篤」と刻まれていました。そして、碑文の最後にある「倉は焼けても貯金は焼けぬ」という言葉が印象的です。
    ⑷ 「生姜塚」
    「鳥居」の左手の植栽の植え込みに「生姜塚」が建っています。碑の上部には、金色に輝く生姜が描かれています。江戸時代には、この付近には生姜畑が広がっていたそうです。ここの生姜は「神明生姜」という名で、食べれば風邪知らずとのことです。生姜には体を温める効果があることは有名ですが、実は邪気を払う効果もあるといわれているそうです。祭礼には、生姜市が立ち、土生姜が売られていたそうです。
    ⑸ 「狛犬」
    「鳥居」をくぐると階段上の左右に「狛犬」があります。「狛犬」の台座には「め組」とあります。
    左側の「狛犬」は吽形像で、興味深いのは山のような太い円錐形の角があることです。また、右側の「狛犬」は阿形像で、宝珠の形をあしらったたんこぶのような頭の形をしています。この「狛犬」の台座の上段には正面に「奉献」と「昭和六年九月 芝石民刻」、台座の中断には正面に「め組」、「芝大神宮 高麗犬修覆 台石奉納 昭和四十年九月吉日」と刻まれていました。文字通りに受け取ると、昭和6年(1931年)に寄進されたものを昭和40年(1965年)に修復したということになりますね。
    ⑹ 「手水舎」
    「手水舎」は、「拝殿」に向かって左手の木々に隠れるようにしてあります。ちょっと分かりにくい場所かもしれません。
    ⑺ 「百度石」
    「百度石」は、手水舎の手前にあります。「百度石」は、神社仏閣の境内で一定の距離を100回往復して参拝し、願いの成就を祈願するために使用される石柱のことですよね。「百度石」は、お百度参りの起点となるもので、ここから「芝大神宮」の「拝殿」まで15mほどあります。つまり走行距離は、3kmほどということになりますね。
    ⑻ 「神明恵和合取組碑」
    「手水舎」の奥には、「神明恵和合取組碑」があります。文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。「神明恵和合取組碑」は、平成22年(2010)に建立されました。この「め組の喧嘩」には、喧嘩両成敗でなく、おもしろいというか粋な裁定が下されました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。後日、寺社奉行や町奉行と勘定奉行が裁きを出しました。その喧嘩の時にならされた「め組」の半鐘が、島流しの刑という珍しいものでした。それが講談や芝居の題材にされて、「芝大神宮」の名が世間に広く知れ渡ることになったそうです。
    ⑼ 「力石」
    「力石」は、境内左手の「手水舎」の奥にあります。「力石」には、「五拾貫余」とともに「川口町 金杉藤吉」の名前が刻まれています。「五拾貫余」はキログラムに換算すると1貫が3.75kgですからなんと187.5kgもあることになります。力持ちとしか言いようがありませんよね、「力石」は、重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石です。石に対する信仰は古くからあり、神の依代である重い石を持ち上げて力を競い、その年の吉凶や稲作の豊凶を占う行事もその一つでした。「力石」は、平成7年(1995年)9月26日に港区の有形民俗文化財に指定されています。
    ⑽ 「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」
    「力石」のさらに奥の方でこれ以上先に進めないところに、「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」があります。この句碑は、「高浜虚子」の娘、孫、曾孫の三代の句碑になります。「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」は、平成15年(2003年) 9月に建立されました。句碑には次のように刻まれていました。
     ①「そよりとも 風はなけれど 夜涼かな」… 立子
     ②「千年の 神燈絶えず 去年今年」…椿
     ③「界隈の たらだら祭 なる人出」…高士
    ⑽ 「め組の半鐘」
    「拝殿」の右手には、「め組の半鐘」が説明板とともに置かれています。説明板には、「め組の半鐘 此の半鐘は文化2年(1805年)2月 当芝大神宮境内において 花角力があった時 力士とめ組の鳶の者との間に些細な事から 血の雨を降らせる大喧嘩となった 其の時打ち鳴らされた め組の半鐘です 当時この喧嘩の裁きに当たった南町奉行は此の鐘が自ら鳴り出した為に大喧嘩となったという情けある裁きにより この半鐘に遠島(三宅島)を申付けた という話はあまりにも有名である。明治初年島より帰って以来芝大神宮で保管している」と書かれていました。粋な計らいですよね。

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄三田線「御成門駅」A2出口から徒歩5分400mほど
    人混みの少なさ:
    2.0
    かなりの観光客がいました。
    見ごたえ:
    4.0
    「貯金塚」、「生姜塚」などの見どころもあります。

  • 御成門は、増上寺の北方馬場にあった裏門の別称"だそうです。

    投稿日 2024年10月17日

    御成門 三田・田町・芝浦

    総合評価:3.0

    港区にある「御成門」についての情報を発信していきます。今回、「御成門」を訪れたのは2024年4月5日です。「御成門」へのアクセスは、都営地下鉄三田線「御成門駅」のA1出口を出て左方向に進むと、すぐに信号(表示名「港区芝公園三丁目」)がありますので、そこを左折し50mほど進むと「御成門」が歩道の左手にあります。
    「御成門」は、「増上寺」の北方馬場にあった「裏門」の別称です。「御成門」の名前の由来は、「増上寺」は徳川家の菩提寺の一つで、将軍が参詣する際に、この裏門がもっぱら用いられましたので、「御成門」と呼ばれるようになりました。「御成門」は、当初は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年(1892年)の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、現在の位置に移築されました。関東大震災や太平洋戦争の戦火をくぐりぬけた貴重な建物です。

    01_【「御成門」の一口メモ】
    所在地…〒105-0011 東京都港区芝公園3丁目2-25

    02_【「御成門」へのアクセス】
    ⑴ 東京メトロ日比谷線「神谷町駅」3番出口から徒歩11分700mほど
    ⑵ 都営地下鉄三田線「御成門駅」A1出口から徒歩1分85mほど

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄三田線「御成門駅」A1出口から徒歩1分85mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0
    将軍が参詣する際に使っていた門なので立派でした。

  • コンパクトな大名庭園ですが、全体を見渡した時に不思議な感覚を覚えた庭園でもありました。

    投稿日 2024年10月03日

    旧芝離宮恩賜庭園 浜松町・竹芝

    総合評価:4.0

    「旧芝離宮恩賜庭園」へのアクセスは、 JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」の北口を出て、右方向に100mほど進むと、歩道の右側に「旧芝離宮恩賜庭園」の出入口があります。目と鼻の先にありアクセスは抜群です。「浜離宮恩賜庭園」は出入り口が二箇所ありましたが、「旧芝離宮恩賜庭園」は一箇所のみです。
    最初に、「旧芝離宮恩賜庭園」の歴史と概要を紐解くと、まず、名称の変遷については、江戸後期に「堀田家」、「清水徳川家」、「紀州徳川家」へと渡りました。そして、明治維新後は「有栖川宮家」の所有となり、明治8年(1875年)に「宮内省」が買い上げ、翌9年(1876年)に「芝離宮」となります。「小石川後楽園」とともに、現在、東京に残る江戸初期の「大名庭園」の一つです。「回遊式泉水庭園」の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦年間の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中「大久保忠朝」が4代将軍「徳川家綱」から拝領しました。「大久保忠朝」は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。「旧芝離宮恩賜庭園」は、最初の主である老中「大久保忠朝」の思いが具現化されているところだそうです。それは池の周囲を固める護岸の石遣いにみられます。他の庭園はなだらかな石で護岸を固めることが多いのですが、旧芝離宮ではゴツゴツとした石で池の周囲を固めているそうです。これらの石は、小田原方面から運んできた富士山噴火時の火山岩がメインで、表面に穴が空いていたり尖っていたりしています。それらの火山岩を整形せずに使用しています。そして、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年(1871年)には有栖川宮家の所有となり、明治8年(1875年)に宮内省が買上げ、明治9年(1876年)に「芝離宮」となりました。「芝離宮」は、大正12年(1923年)の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受け、一面の焼け野原になったそうです。翌年の大正13年(1924年)1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、大正13年(1924年)4月20日に一般公開しました。また、昭和54年(1979年)6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。
    「浜離宮恩賜庭園」と同じように今回も時計回りで見学したいと思います。「旧芝離宮恩賜庭園 サービスセンター」でチケットを購入して入園します。見学順路については次の通りです。

    【「旧芝離宮恩賜庭園」のお薦め見学順路】
    ①《「藤棚」のある広場》⇒②《海水取入口跡》⇒③《九尺台(九盈台)》⇒④《唐津山》⇒⑤《大島》⇒⑥《根府川山》⇒⑦《石柱》⇒⑧《中島》⇒⑨《枯滝》⇒⑩《大山》⇒⑪《雪灯篭》⇒⑫《大泉水》⇒⑬《迎賓館跡》

    ① 「藤棚」のある広場
    「旧芝離宮恩賜庭園サービスセンター」の正面のすぐのところに大きな「藤棚」があります。今日は9月に思えないような暑さで、まるで真夏の照りつけるような陽射だったので、「藤棚」の下で涼んで休んでいる人が結構いました。私も帰りにはここでしばし休息し、水分補給しました。この「藤棚」の見ごろは、4月下旬頃で紫色の大きな花房がさがり、藤の花特有の芳香を放っているそうです。

    ② 「海水取入口跡」
    「藤棚」の次は「海水取入口跡」へ向かいます。右手に「大泉水」を眺めながら「小池」に架かる橋を渡り100mほど進むと石橋があり、石橋の左手に「海水取入口跡」があります。江戸時代に作庭された「旧芝離宮恩賜庭園」は、かつて海水を引き込んだ「潮入りの池」でした。説明板によると貞享3年(1686年)当時の様子を記した「楽壽園記」には、園内に「潮入りの池」があったという記録がありました。かつては、潮の満ち引きによって景色の変化を楽しめるように工夫されていました。しかし、海面の埋め立て等の周辺整備により、現在は「海水取入口跡」のみが残っています。これは、「潮入りの池」であったことを示す重要な遺構だそうです。

    ③ 「九尺台」(九盈台)
    「海水取入口跡」から「大泉水」の「中島」の脇をとおり100mほど進むと「九尺台」があります。「九尺台」の隣にはすり鉢型の築山もありました。「九尺台」は、海の波打際に造られた高台です。「九尺」とは高さで、「盈」とは水や月が満ちるという意味です。かつては、埋立地の庭園は比較的平坦なので、変化をつけるために「築山」を築いたそうです。説明板によると「九尺台」の設置は不明ですが、「明治天皇」が行幸された際に「九尺台」に上り、地元の漁師が網を打つ様子や海の眺望を楽しんだそうです。

    ④ 「唐津山」
    「九尺台」のすぐ先の道は二又になっています。右に進むと「大島」、左に進むと「唐津山」です。最初に「唐津山」を見ることにします。「九尺台」から「唐津山」へは40mほどの距離です。「唐津山」は、庭園の原型を作った「大久保忠朝」が、老中就任の際は肥前国唐津藩2代藩主であったことから、その名を冠して作庭したといわれています。

    ⑤ 「大島」
    「唐津山」から「大島」へ向かいます。道を20mほど戻ると「大島」へ渡る石橋が左手にあります。「大島」は、「大泉水」の南に位置する園内で最大の小島です。「大島」の見どころは鯛の形をした「根府川石」で造られた一枚岩の「鯛橋」です。「鯛橋」は「大島」の南側に架かる橋で、橋長が3.1m、橋幅が1.7mの単径間桁橋です。私には、「大泉水」から飛び跳ねた鯛のようにも見えました。

    ⑥ 「根府川山」
    「大島」の次は、鯛形の「鯛橋」を渡ると右手にすぐのところにある豪壮な築山の「根府川山」です。「根府川山」の見どころは、渓谷のような石組みと大きな「根府川石」です。荒々しさが当てはまる武士の荒ぶる魂を表現したような石組です。この築山の麓にある「根府川石」は、「大久保忠朝」が藩地である相模小田原藩から運んだ石です。ちなみに「大久保忠朝」は、佐賀の肥前国唐津藩2代藩主、千葉の下総国佐倉藩主、小田原の相模小田原藩主の3つの藩主を歴任し、また、老中の首座という重要な役職にも就いていました。

    ⑦ 「石柱」
    「根府川山」から「大泉水」沿いに160mほど進むと四本の「石柱」が見えてきます。この「石柱」は、一体何でしょうか。私には、「旧芝離宮恩賜庭園」のモアイ像蔵、それともヘッジストーンのように見えますが。説明倍によると、この「石柱」は、もともとは小田原北条家の重臣「松田憲秀邸」の門柱だったものをここに運んだものだそうです。そして、小田原藩の上屋敷であった当初には茶室に使われていたといわれています。また、かつては、「石柱」のそばには、馬場と馬見台があったそうですが、今はその面影もありません。

    ⑧ 「中島」
    「石柱」の先には、「西湖の堤」があり、それを渡ると「中島」です。「中島」は、池の中央に浮かぶ島で、中国で仙人が住み不老不死の地といわれる霊山を模した「蓬莱石組」となっています。そして、「中島」へと続く石造りの堤である「西湖の堤」は、中国の浙江省にある西湖の蘇堤の風景を模したもので、風光明媚で数多く詩歌や絵画の題材にもなったそうです。「中島」の反対側にも「八ッ橋」がありましたが、残念ながら工事中で黒い幕のようなもので覆われていて、渡ることができませんでした。

    ⑨ 「枯滝」
    「西湖の堤」の堤を戻り右手に進むと「枯滝」があります。「枯滝」は、山渓を流れ落ちる滝を彷彿とさせる石組みで、流れの河床が園路になっていて、まるで中国の水墨画の世界にいるような景観の変化を楽しむことができます。また、すぐ先にある「大山」から下を見下ろすと枯滝の石組が望めます。両側を切り立った断崖を思わせる石組が壁のように続き、その間を流れる渓谷に大小の滝が流れ落ちる迫力ある石組となっています。

    ⑩ 「大山」
    「枯滝」の石組を抜けると、その先の築山は庭園内で一番高い「大山」があります。眺めが見事で、かつては江戸湾、富士山、筑波山が見えたそうです。しかし、現在は、海は埋め立てられ、周囲には高層ビルが立ち並んでしまい、その眺望は失われてしまいました。ただし、「大山」の頂上からは、大泉水の広々とした景色が楽しむことができました。

    ⑪ 「雪灯篭」
    「大山」から下りて「大泉水」沿いを80mほど進むと、「砂浜」が続き、その先には「州浜」があり、「州浜」の中には、庭園のシンボルともいえる「雪灯篭」が立っています。「州浜」は、花崗岩のゴロタ石を敷き詰められていて、「州浜」の中央に「雪灯篭」が悠然と構えています。「雪灯篭」は、上部を支える3本の脚は安山岩で、火袋や笠は凝灰岩です。よく見ると、風化が激しいのか一部が欠けているように見えます。また、手前の「砂浜」は、庭園では珍しい海岸の砂を入れているそうです。おそらくかつての江戸湾の砂浜を表現しているのでしょうね。

    ⑫ 「大泉水」
    「大泉水」は、「旧芝離宮恩賜庭園」のシンボルといえる大きな池であり、庭園の要をなす施設です。「大泉水」は、約9,000㎡の広さがあり、「中島」、「大島」、「浮島」、「砂浜」、「鯛橋」、「雪灯籠」などが見られます。かつて、「大泉水」は、海水を引き入れた「潮入りの池」でした。驚くべきことは、引き潮の時には「中島」から「浮島」に渡ることができ、潮の干満により州浜や島々の風景が劇的に変化し、見る人の目を楽しませてくれたそうです。今は残念ながら海水の取り入れができなくなり、淡水の池になっています。

    ⑬ 「迎賓館跡」
    「旧芝離宮恩賜庭園」の散策の最後は、出入り口付近の「藤棚」の前にある「迎賓館跡」です。説明板によると、明治、大正期の「芝離宮」には、いまは現存しないわが国初の石造りの「西洋館」がありました。「芝離宮」の「西洋館」は来日した外国の皇族や要人の宿泊所として建てられ、皇室によって外国人貴賓を接待する場として用いられました。皇室の外賓接待では、当初「浜離宮」にあった「延遼館」という建物が主に用いられましたが、やがて老朽化のため取り壊されると、それに代って用いられたのが「芝離宮」の「西洋館」でした。西洋館は明治24年(1891年)に、「宮内省内匠寮」が建設した木造2階建てで、寄棟造り瓦葺の屋根に棟飾りを付し、ベランダが特徴的な洋風建築でした。しかし、大正12(1923)年の関東大震災により「西洋館」も失われてしまい、現在では、その遺構である礎石と植物模様の彫刻が施された大理石の一部のみが残っています。

    01_【「旧芝離宮恩賜庭園」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒105-0022 東京都港区海岸1丁目4-1  電話:03-3434-4029
    ⑵ 開園時間…午前9時~午後5時 ※入園は午後4時30分まで
    ⑶ 休園日…年末・年始 ※12月29日~翌年1月1日まで
    ⑷ 入園料…①一般 150円 ②65歳以上70円 ※小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料

    02_【「旧芝離宮恩賜庭園」へのアクセス】
    ⑴ JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」北口から徒歩1分100mほど
    ⑵ 都営地下鉄大江戸線「大門駅」B2出口から徒歩2分140mほど
    ⑶ 都営地下鉄浅草線「大門駅」B2出口から徒歩2分140mほど
    ⑷ ゆりかもめ「竹芝駅」徒歩7分500mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」北口から徒歩1分100mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    外国の観光客の姿が目立ちました。
    見ごたえ:
    4.0
    ここも見どころ満載です。

  • 高層ビル群と海と川に囲まれた都会のオアシスです。ここにいると都会の喧騒を忘れることができます。

    投稿日 2024年10月03日

    浜離宮恩賜庭園 汐留

    総合評価:4.5

    「浜離宮恩賜庭園」の出入口は、「大手門口」の「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」と「中の御門口」の「中の御門売札所」の二箇所です。今回は、JR「新橋駅」の銀座口から「浜離宮恩賜庭園」を目指したので、「大手門口」から入場しました。JR「新橋駅」の銀座口を出て横断歩道を渡るとすぐ左手が都道405号(外堀通り)です。都道405号(外堀通り)を右折して330mほど進むと「旧新橋停車場鉄道歴史展示場」の先に歩道橋があります。銀座東八丁目歩道橋を上り道路の反対側に渡ります。「銀座東八丁目歩道橋」を降り、そのまま「首都高速八重洲橋線」沿いに300mほど直進すると信号があります。ここまで来ると左斜めに「浜離宮恩賜庭園」が見えてきます。横断歩道を渡り左方向に50mほど進むと「大手門橋」がありますので、それを渡り100mほど進むと「大手門口」の正門があり、その先に「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」があり、入場券を購入します。
    「浜離宮恩賜庭園」の出入口は、「大手門口」の「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」と「中の御門口」の「中の御門売札所」の二箇所です。今回は、「大手門口」から入場しました。「浜離宮前踏切跡」から「首都高速八重洲橋線」沿いに100mほど直進すると信号があります。ここまで来ると左斜めに「浜離宮恩賜庭園」が見えてきます。横断歩道を渡り左方向に50mほど進むと「大手門橋」がありますので、それを渡り100mほど進むと「大手門口」の正門があり、その先に「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」があり、入場券を購入します。

    【「浜離宮恩賜庭園」のお薦め見学順路】
    今回は、「浜離宮恩賜庭園サービスセンター」から時計回りの方向で「浜離宮恩賜庭園」を見学することにしました。
    ①《三百年の松》⇒②《内堀》⇒③《お花畑》⇒④《ボタン園》⇒⑤《旧稲生神社》⇒⑥《梅林》⇒⑦《水上バス発着場》⇒⑧《灯台跡》⇒⑨《将軍お上がり場》⇒⑩《横堀水門》⇒⑪《「樋の口山」と「新樋の口山」》⇒⑫《汐見の御茶屋跡》⇒⑬《富士見山》⇒⑭《潮入の池》⇒⑮《観音堂跡》⇒⑯《馬場跡》⇒⑰《新銭座鴨場》⇒⑱《中島の御茶屋》⇒⑲《お伝い橋》⇒⑳《燕の御茶屋》⇒㉑《鷹の御茶屋》⇒㉒《松の御茶屋》⇒㉓《御亭山》⇒㉔《庚申堂鴨場》⇒㉕《休憩所》⇒㉖《芳梅亭》⇒㉗《明治天皇銀婚式記念可美真手命像》⇒㉘《延遼館跡》

    「浜離宮恩賜庭園」の歴史と概要を紐解いてみると、まず、名称の変遷という観点に着目してみると、江戸時代には「甲府浜屋敷」、「浜御殿」と呼ばれ、明治時代には「浜離宮」と名称を変え、そして、終戦後に、現在の「浜離宮恩賜庭園」となっています。「浜離宮恩賜庭園」は、寛永年間までは、将軍家の鷹狩場で、辺り一面芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、4代将軍「徳川家綱」の弟で甲府宰相 の「松平綱重」です。承応3年(1654年)に、「松平綱重」は将軍から海を埋め立てて「甲府浜屋敷」と呼ばれる別邸を建造しました。その後、6代将軍「徳川家宣」のときに、「甲府浜屋敷」は、将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」と改められました。その後、「徳川家宣」(家宣) が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍「徳川家斉」のとき11代将軍「徳川家斉」のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治時代になると皇室の離宮となり、名称も「浜離宮」と改められました。そして、昭和20年(1945年)11月3日に、東京都に下賜され、「浜離宮恩賜庭園」となり、昭和21年(1946年)4月1日に一般に有料公開されるようになりました。
    「浜離宮恩賜庭園」は、「潮入の池」と二つの「鴨場」をもつ江戸時代の代表的な「大名庭園」で、江戸時代の大名屋敷で数多く作庭された「池泉回遊式庭園」です。広大な池泉の周囲を回遊して鑑賞する形式の庭園で、小島、橋、飛び石、築山。茶亭などの特色が良く残されています。ちなみに、「潮入の池」とは、海水を導き、潮の満ち引きによって創り出される多様な景観の変化が望めるようになっているもので、海辺の大名庭園でよく用いられていた建築様式です。「旧芝離宮恩賜庭園」、「清澄庭園」、「旧安田庭園」なども昔は「潮入の池」でしたが、現在、実際に海水が出入りしているのは、「旧芝離宮恩賜庭園」だけです。「旧浜離宮庭園」は、四方を築地川、汐留川、東京湾で囲まれた約25万㎡の敷地面積を誇る広大な庭園です。また、「浜離宮恩賜庭園」は、国の文化財保護法に 基づき、昭和23年(1948年)12月には「国の名勝及び史跡」に、同27年(1952年)11月には周囲の水面を含め、「国の特別名勝及び特別史跡」に指定されました。ちなみに、「特別名勝」とは、国宝と同格で国から指定を受けている大変価値の高い景観のこと、「特別史跡」とは 国が文化財保護法で指定した史跡のうち、学術上の価値が特に高く、わが国の文化の象徴たるものです。 国宝(建築物、美術工芸品、文書などで使われる概念)と同格のものです。特に、「特別名勝」と「特別史跡」の二重指定を受けている日本庭園については、全国的に見ても9カ所程度で、都内には「浜離宮恩賜庭園」、「小石川後楽園」の2カ所、京都府に3カ所、岩手県、福井県、奈良県、広島県に各1カ所しかありません。

    01_【「浜離宮恩賜庭園」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒104-0046 東京都中央区浜離宮庭園1-1 電話:03-3541-0200
    ⑵ 開園時間…午前9時~午後5時 ※ 「大手門口」及び「中の御門口」の入園は午後4時30分まで
    ⑶ 休園日…年末・年始 ※ 12月29日~翌年1月1日まで
    ⑷ 入場料…①一般300円 ②65歳以上150円 ③小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料
    ※ 小学生以下の場合は保護者の付添が必要
    ⑸ 開園年月日…昭和21年(1946年)4月1日
    ⑹ 開園面積…250,215.72㎡(平成30年4月1日現在)

    02_【「浜離宮恩賜庭園」へのアクセス】
    ⑴ 「大手門口へ」
    ① JR「新橋駅」銀座口から徒歩15分950mほど
    ② 東京メトロ銀座線「新橋駅」1番出口から徒歩13分800mほど
    ③ 都営地下鉄浅草線「新橋駅」1A出口から徒歩11分700mほど
    ④ ゆりかもめ「汐留駅」東出口から徒歩7分450mほど
    ⑤ 都営地下鉄大江戸線「汐留駅」5番出口から徒歩7分450m
    ⑥ 都営地下鉄大江戸線「築地市場駅」A1出口から徒歩8分550mほど
    ⑵ 「中の門口へ」
    ① 都営地下鉄大江戸線「汐留駅」10番出口から徒歩5分350mほど
    ② JR「浜松町駅」北口から徒歩15分1000mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    JR「新橋駅」銀座口から徒歩15分950mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    多からず少なからずでした。
    見ごたえ:
    4.5
    色々見どころは満載です。

  • 踏切もさることながら、「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号」という看板が歴史的重みを感じました。

    投稿日 2024年10月03日

    浜離宮前踏切 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    「浜離宮前踏切跡」へのアクセスは、JR「新橋駅」の銀座口を出て、横断歩道を渡り左方向に進むと、すぐに「都道405号」(外堀通り)になります。右折し「都道405号」(外堀通り)を450mほど道なりに進むと、三つつ目の信号(表示名「蓬莱橋」)があります。交差点には「蓬莱橋歩道橋」と「銀座八丁目歩道橋」の二つの歩道橋が架かっています。横断歩道を渡り「銀座八丁目歩道橋」を上がり、道路の反対側に降ります。「湾岸通り」沿いに220mほど進むと「銀座郵便局」を左折すると横断歩道の左手前に「浜離宮前踏切跡」があります。
    「浜離宮前踏切」は、「汐留貨物駅」と「東京市場駅」(築地市場)を結んでいた長さ1.1kmの貨物線の踏切跡で、通称「東京市場線」と呼ばれるこの路線は、昭和10年(1935)年2月に、「築地市場」の開場と同時に開業しました。「東京市場線」は、広大な「汐留貨物駅」の片隅から線路が延び、「汐留川」(現在の「海岸通り」)を渡り、その先にこの踏切がありました。線路は「築地川」を渡り「築地市場」につながっていました。「東京市場線」は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)まで使用され、鮮魚列車などが運行されて東京の食を支えていましたが、「汐留貨物駅」とともに廃止されました。線路跡は現在、8mほどの道路になっており、交差点に立つ踏切は「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」と書かれた案内板があります。踏切の台座には、「説明書き」と「保存理由」の銘板が設置されています。ただし、踏切自体は、サビが目立ち、歴史を感じますが、せっかく保存したなら手入れをキチンとしてほしいものですね。

    01_【「浜離宮前踏切跡」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒104-0061 東京都中央区銀座8丁目20

    02_【「浜離宮前踏切跡」へのアクセス】
    ⑴ JR「新橋駅」銀座口から徒歩11分760mほど
    ⑵ 東京メトロ銀座線「新橋駅」1番出口徒歩9分610mほど
    ⑶ 都営地下鉄浅草線「新橋駅」A3出口から徒歩9分610mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    JR「新橋駅」銀座口から徒歩11分760mほど
    人混みの少なさ:
    4.0
    私以外誰もいませんでした。
    見ごたえ:
    3.5
    歴史を今にとどめている貴重なものです。

  • 意外や意外!電信の技術は、黒船で有名な「ペリー提督」が日本に持ち込んだそうです。

    投稿日 2024年10月03日

    検査業務開始の地 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.0

    「検査業務開始の地」へのアクセスは、JR「新橋駅」の銀座口を出て、横断歩道を渡り左方向に進むと、すぐに「都道405号」(外堀通り)になります。右折し「都道405号」(外堀通り)を450mほど道なりに進むと、三つつ目の信号(表示名「蓬莱橋」)があります。交差点には「蓬莱橋歩道橋」と「銀座八丁目歩道橋」の二つの歩道橋が架かっています。横断歩道を渡り「銀座八丁目歩道橋」を上がり、道路の反対側に降ります。「湾岸通り」沿いに150mほど進むと「銀座郵便局」の窓口入口の手前に「検査業務開始の地」の碑があります。
    「検査業務開始の地」の碑に刻まれた説明文によると、「明治9年(1876年)6月17日に、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験がおこなわれた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。」と書かれていました。要は、外国から輸入された通信器材である「碍子」などを検査する目的で工部省電信寮の碍子試験所を発足させたということでしょうか。そう言えば、東京と横浜間で電信が行われたのは、明治2年(1869年)だったと思います。これから推測すると、送信網構築に欠かせない「碍子」の検査を行った場所ということですね。ちょっと気になったのでネットで調べてみると、明治の初めは、日本でも輸入品の「ガラス碍子」を用いて電信網を少しずつ広げていったそうです。その後、「碍子」の歴史的転換期となったのが、明治3年(1870年)に佐賀の「八代深川栄左衛門」が日本伝統の技術を活用して「陶器製の碍子」を製造し始めま、これが電信網の普及に大いに貢献したそうです。ちなみに、「碍子」は、電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具のことです。鉄塔、電車の架線、変圧器などに必ず付いている部品であり一般的には白のそろばん状の物で、材質はセラミックスがほとんどです。セラミックス製は、絶縁性、耐候性、強度が優れています。「碍子」は、絶縁性、耐候性、強度に優れているために変電所、電車の架線など強い電流が流れてきても耐えうる力を持っています。できればもう少し詳しい説明文があればよかったと思いました。

    01_【「検査業務開始の地」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒104-0061 東京都中央区銀座8丁目20

    02_【「検査業務開始の地」へのアクセス】
    ⑴ JR「新橋駅」銀座口から徒歩11分700mほど
    ⑵ 東京メトロ銀座線「新橋駅」1番出口徒歩9分550mほど
    ⑶ 都営地下鉄浅草線「新橋駅」A3出口から徒歩9分550mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    JR「新橋駅」銀座口から徒歩11分700mほど
    人混みの少なさ:
    4.0
    私以外誰もいませんでした。
    見ごたえ:
    3.0
    石碑に碑文が刻まれているだけです。

  • 現在の新橋駅はかつて烏森駅と呼ばれ、こちらの場所にあったのが新橋駅です。

    投稿日 2024年10月03日

    旧新橋停車場鉄道歴史展示室 汐留

    総合評価:4.0

    「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」へのアクセスは、JR「新橋駅」の銀座口を出て、横断歩道を渡り左方向に進むと、すぐに「都道405号」(外堀通り)になります。右折して、260mほど道なりに直進すると、「パナソニック東京汐留ビル」の手前右手に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」があります。
    最初に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の歴史と概要をみてみると、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」は、明治5年(1872年)に開業した日本最初の鉄道ターミナル「旧新橋停車場」の駅舎を当時と同じ場所に開業当時の外観と同じように忠実に再現し、平成15年(2003年)にオープンしました。「鉄道歴史展示室」は、一階が「常設展示」、二階が「企画展」に分かれています。日本の鉄道発祥地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展を垣間見ることができます。特に、「常設展示」では、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物や床の一部がガラス張りになっていて、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることもできます。また、二階で行われる「企画展」は、展示替えが3回行われ、今回は、第64回目の企画展で、埼玉県さいたま市にある「鉄道博物館」の所蔵資料約67万点の中から、平成19年(2007年)の開館以来展示される機会のなかった資料や、近年収蔵した様々なコレクション資料を中心に、「驚おどろき・鉄道博物館収蔵展」と題して開催展示しています。期間は、2024年8月6日(火)から11月24日(日)までとなっています。
    それでは、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」に入館します。まず、一階の受付で写真撮影について尋ねてみたところ、1Fの「常設展示」は撮影が可能ですが、2Fの「企画展示」は、撮影が一切できないということでした。受付の係員が、まず2Fの「企画展示」から見て1Fの「常設展示」を見てくださいというアドバイスがありました。「企画展示」では、鉄道の歴史や汐留界隈の郷土史などをテーマとした歴史資料が展示されています。螺旋式の階段を昇り、「企画展示」へ入ると、すぐ左手に「映像の記憶」コーナーがあり、大きなプラズマディスプレイが設置されていて、鉄道開業の歴史的な経緯や往時の「新橋停車場」と「汐留」の活気ある様子などを伝える映像が映し出されていました。そのほか、「鉄道博物館」の前身の「交通博物館」時代の資料や、鉄道以外の交通系資料、あの懐かしい「青春18きっぷ」などのポスターや鉄道をモチーフにしたキャラクターなどもありました。ここで、特に、面白いものが展示されていました。それは、列車に変身するトランスフォーマーのようなロボットの大きな模型が展示されていました。それと注意すべきことが一点あります。2Fの「企画展示」へ通じる螺旋階段の上の天井から垂れ下がるバナーは、いずれも明治時代の新橋停車場が描かれている「港区立郷土歴史館」所蔵の錦絵ですが、残念ながら、これも撮影禁止だと言われました。
    1Fの「常設展示」へ進むと、年表や地図によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介する「汐留の記憶」のパネル、「旧新橋停車場駅舎」の縮尺100分の1の模型、発掘された「旧新橋停車場駅舎」や「プラットホーム」の石積みや基礎の構造を紹介する「駅舎とプラットホーム」のパネル、お雇い外国人が使用した西洋陶磁器、改札鋏や工具類などの金属製品、汽車土瓶など発掘調査で出土した遺物出土物が語る「旧新橋停車場」、
    そして、1Fの「常設展示」の一番の見どころである「遺構見学窓」があります。「遺構見学窓」は、1階展示室の床の一部をガラス張りにして、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることができます。また、同じ建物内に隣接して「お茶の文化創造博物館·お~いお茶ミュージアム」も右手にあります。
    そして、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の建物の裏側には、プラットフォームや0哩標識(ゼロマイルポスト)もありました。こちらは、見学自由となっています。

    01_【「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒105-0021 東京都港区東新橋1丁目5-3 電話:03-3572-1872

    02_【「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」へのアクセス】
    ⑴ JR「新橋駅」銀座口から徒歩5分350mほど
    ⑵ 東京メトロ銀座線「新橋駅」2番出口徒歩3分180mほど
    ⑶ 都営地下鉄浅草線「新橋駅」A3出口から徒歩5分300mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
     JR「新橋駅」銀座口から徒歩5分350mほど
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入場無料です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    数名の見物客だけでした。
    展示内容:
    4.0
    昔を偲ぶことができるものが沢山ありました。

  • 鉄道唱歌は今でも1番だけですが自然と口ずさめます。また、黒い煙を上げて走る機関車が目に浮かびます。

    投稿日 2024年10月03日

    鉄道唱歌の碑 新橋

    総合評価:3.5

    JR「新橋駅」の南改札を出て、左方向に進むと「烏森口」(汐留方面)があります。「烏森口」(汐留方面)を出て、左方向に進むと、左手すぐの所に「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」があります。
    向かって右側にある「鉄道唱歌の碑」は、昭和32年 (1957年)10月4日に、「鉄道開通85周年記念」の作詞家である「大和田建樹の生誕100年」を記念して建立されたパブリックアートです。「鉄道唱歌」は、「大和田建樹」自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録でもあります。「鉄道唱歌の碑」には、1番の歌詞と記念の文が刻まれています。ちなみに、「鉄道唱歌」は、全ての歌詞を載せると全5集、334番にもなる大長編唱歌です。この歌が出来た当時の「新橋駅」は、現在のゆりかもめ「新橋駅」の向こう側に設置されていたことから、その方向に向かって建てられたのだそうです。
    向かって左側にある「D51形蒸気機関車」は、「デゴイチ」の愛称で親しまれた機関車です。昔、相撲界に黒姫山という関取がいて、馬力の強い押し相撲を得意としていたので、「デゴイチ」というのを子供心に覚えています。ちなみに、「D51形蒸気機関車」は、「日本国有鉄道」(国鉄)の前身である「鉄道省」が設計、製造した、単式2気筒で過熱式の「テンダー式蒸気機関車」です。「D51形蒸気機関車」は、主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、「ディーゼル機関車」や「電気機関車」などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録したそうです。「D-51機関車の動輪」は、「新橋駅」への総武快速線・横須賀線乗入を記念して昭和51年(1976年)に現在の地へ設置されました。

    01_【「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒105-0004 東京都港区新橋2丁目17-14 JR「新橋駅」烏森口(汐留方面)

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR「新橋駅」烏森口(汐留方面)出てすぐ左手
    人混みの少なさ:
    2.0
    汐留方面に向かう人の波が絶えずあります。
    見ごたえ:
    3.5
    「鉄道唱歌の碑」と「D-51機関車の動輪」が仲良く並んでいます。

  • 子供の頃の耳の奥の記憶にある汽笛が、目の前鳴りました。迫力満点で、感動がよみがえりました。

    投稿日 2024年10月03日

    SL広場 新橋

    総合評価:3.5

    「新橋駅西口広場」(SL広場)は、サラリーマンなどへのテレビの街頭インタビューなどがよくおこなわれる場所なので、ほとんどの人が一度は見たことのある場所でしょう。当日、私もインタビューをされそうになりました。「新橋駅西口広場」(SL広場)にある蒸気機関車(SL)の静態展示が「蒸気機関車C11形292号機」です。ここに、「蒸気機関車C11形292号機」が展示されたのは、昭和47年(1972年)に、新橋駅(汐留駅)から一番列車が出発した鉄道発足100周年を記念して設置されました。「蒸気機関車C11形292号機」は、昭和20年(1945年)に製造され、姫路機関区へ配属ののち中国地方の播但線・姫新線などで運行されました。昭和47年(1972年)に廃車となり役目を終え、現在の「新橋駅西口広場」(SL広場)に設置されました。当時の国鉄(現JR)から港区へ無償貸与され静態保存されています。「C11形」はローカル線や入換えなどに用いられた小型機関車で資材、熟練工とも不足する戦時中の一両なので煙突後部の蒸気溜や砂箱が細工の容易な角型でできています。ですから、蒸気機関車というと思い浮かぶ「D51形」比較すると、それほどの重厚感はありませんが、戦後の日本の復興に貢献したことには間違いないと思います。12、15、18時には汽笛が鳴らされ、ありし日の面影を垣間見ることができます。「蒸気機関車C11形292号機」は、すっかり駅頭のランドマークとなっています。そして、毎年冬の時期になるとイルミネーションが実施されているようです。機会があれば点灯される時間帯に行ってみたいと思います。

    01_【「蒸気機関車 C11形292号機」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒105-0004 東京都港区新橋2丁目7 新橋駅西口広場(SL広場)

    02_【「蒸気機関車 C11形292号機」へのアクセス】
    ⑴ JR「新橋駅」日比谷口から徒歩1分30mほど
    ⑵ 東京メトロ銀座線「新橋駅」8番出口徒歩1分45mほど
    ⑶ 都営地下鉄浅草線「新橋駅」2B出口から徒歩5分300mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR「新橋駅」日比谷口から徒歩1分30mほど
    人混みの少なさ:
    2.5
    人の流れが絶えずあります。
    見ごたえ:
    4.0
    12、15、18時には汽笛が鳴らされ、ありし日の面影を垣間見ることができます。

  • 細い路地のビルの谷間の参道の奥に烏森神社があります。

    投稿日 2024年10月01日

    烏森神社 新橋

    総合評価:4.0

    最初に、「烏森神社」の歴史と概要について紐解いてみたいと思います。「一の鳥居」をくぐると右手に「烏森神社縁起板」がありました。それによると天慶3年(940年)に、東国で「平将門」が乱を起こしました。むかで退治で有名な時の将軍「藤原秀郷」が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を「藤原秀郷」に与えました。「藤原秀郷」は、その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、「藤原秀郷」はお礼に一社を勧請しようとしたところ、再度、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げました。そこで「桜田村」の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営しました。それが、「烏森稲荷」の起こりだそうです。そして、「烏森神社」が人々に崇敬されているのは、明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」(振袖火事)が起こった際に、江戸市中は焼け野原となり、もちろん「烏森稲荷社」の周辺も大方焼けてしまいました。ところが「烏森稲荷社」だけは不思議にも類焼を免れました。これは神威の致すところと考えられ、以降「烏森稲荷社」に対する信仰は日に日に厚くなっていきました。また、「椙森神社」(日本橋)、「柳森神社」(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されています。明治6年(1873年)にはこれまでの「烏森稲荷社」の社名を「烏森神社」と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ています。そして、昭和46年(1971年)には「社殿」を造営し現在に至っています。
    それでは、さっそく参拝したいと思います。まず驚いたのが「一の鳥居」の形です。今まで見てきた「神明鳥居」や「明神鳥居」などの通常のものと、鳥居の形がまったく違っています。一般的には、二本の柱と柱の上に乗せた「笠木」が広がっているのですが、広がりの部分がありません。大都会の神社なので、スペースの関係でしょうか。「一の鳥居」をくぐると、右手に「縁起板」と一体になったコンパクトな「手水舎」があります。左手には「神輿庫」があり、その先には「狛犬が」が鎮座しています。そして、15~16段の石段があり、それを上ると「拝殿」があります。参拝を終え石段を降りると、左手に「社務所」があります。右手には、「心願色みくじ用の書き処」があり、インスタ映えするフォトスポットとしても人気のスペースです。「心願色みくじ」は、「烏森神社」独自のおみくじで、色で叶える「おみくじ」と「願い札」と「願い玉」がセットになっており、同じ色のペンで願い事を書き入れます。赤色が恋愛・良縁、黄色が金運・幸運・商売、青色が厄祓・仕事学業、緑色が健康家庭
    です。専用書き処にて同色のペンで願い事を書いたあとに、お御籤掛けの結び紐に付けます。この願い札は後日、神職により心願成就祈願が行われるそうです。その他に、「鈴守」や「御恵守」もあります。「鈴守」は「天鈿女命」にあやかった御守で、身体の前で左・右・左と3度振って身を清めます。まるで自分が神職になった気分になれます。「御恵守」は御守袋5色で内符が10種類あり、願い事によって選ぶことができるものです。そして最後に、忘れてはならない、「烏森神社」にしかない特別な御守りを社務所でいただきます。それは癌封じの御守りです。有名な女優さんもここに通い癌を治したと言われています。

    01_【「烏森神社」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒105-0004 東京都港区新橋2丁目15-5 電話:03-3591-7865
    ⑵ 御祭神…倉稲魂命、天鈿女命、瓊々杵尊
    ⑶ 御神徳…商売繁盛、技芸上達、家内安全、諸事円満、福貴繁栄、必勝祈願成就
    ⑷ 例大祭…5月4・5・6日
    ⑸ 授与所開所時間…9:00〜16:00 ※末年始は延長あり
    02_【「烏森神社」へのアクセス】
    ⑴ JR「新橋駅」烏森口から徒歩3分230mほど
    ⑵ 東京メトロ銀座線「新橋駅」8番出口徒歩3分190mほど
    ⑶ 都営地下鉄浅草線「新橋駅」2B出口から徒歩5分350mほど

    旅行時期
    2024年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    JR「新橋駅」烏森口から徒歩3分230mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    人気のスポットなので、老若男女を問わず次から次へ参拝客が来ていました。
    見ごたえ:
    3.5
    境内が狭いのですが見どころがコンパクトに集約されていました。

  • 甚五郎と称される幕末の名匠「熊谷源太郎」の手による拝殿等の彫刻には釘付けになりました。

    投稿日 2024年08月13日

    沼垂白山神社 新潟市

    総合評価:3.5

    新潟県新潟市にある「沼垂白山神社」についての情報を発信していきます。今回、「沼垂白山神社」を訪れたのは2024年7月27日です。JR「新潟駅」から「沼垂白山神社」へのアクセスは、新幹線の改札口を出て左方向に進むとすぐ右手に「新潟市観光案内センター」があります。そこを右折し少し進むと左手に降り口がありますのでそれを降りると「万代広場」方面に出ます。「ロイヤルホスト」、「ローソン新潟花園一丁目店」の先の横断歩道を渡ります。「セブンイレブン新潟明石店」があるのでそこを右折し、900mほど進むと突き当りになります。そこを左折し、50mほど進むと角があるので右折し信号(表示名「長嶺町」)を渡ります。横断歩道を渡ったら右折し110mほど進むと「沼垂白山神社」が左手あります。
    「沼垂白山神社」の創建年月は不詳です。「沼垂白山神社」の御祭神は、男女の仲を取り持つ縁結びの神や事業の商談成立の神といわれる「菊理媛命」とあらゆる願いを聞き届けるとし、所願成就の神様として知られる「天照皇大神」の二柱を祀っています。「沼垂白山神社」は、式内社「美久理神社」の論社の一つで、沼垂郡中の総鎮守です。新潟市中央区一番堀通町にある同名神社と区別するため「沼垂白山神社」と呼ばれています。現在の「社殿」は、名匠として知られる「熊谷源太郎」を棟梁として建てられ、総欅造りの堂々とした姿で細部に手の込んだ彫刻が見られるのが特徴です。栗ノ木バイパスの拡幅工事に伴い、平成28年(2016年)6月に「曳家」工事という手法を使い、人力で社殿を現在の場所に移動しました。それでは、早速「沼垂白山神社」を参拝したいとお思います。「一の鳥居」付近には、右手に「郷社白山神社」と刻まれた「社号標」、左手に「由緒板」、そして両側に阿吽の「狛犬」が睨みを利かせています。また、右手には「手水舎」と「百度石」があります。「二の鳥居」をくぐると、正面に「社殿」、左手に「境内社」が並び右手に「参集殿」があります。境内には、いくつかの境内社があります。参道入口を入ってすぐ、左手に「太子社」、「大宮賣大神」、「伊夜日子大神」を祀る祠があります。また、「菅原大神」、「後藤稲荷大神」、「大山祇大神」、「秋葉大神」、「粟島大神」を祀る祠や、「古峰神社」、「神明社」、「庚申碑」などもありました。そして、最も印象的だったのは、「拝殿」、「本殿」の装飾です。弘化4年(1847年)に総材で再建され、本殿四方を飾る向拝左右獅子頭上り龍下り龍子持龍唐獅子等の彫刻です。制作者は左甚五郎と称される幕末の名匠「熊谷源太郎」の手によるものです。非常に精巧にできていて見ごたえ十分です。

    01_【「沼垂白山神社」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒950-0075 新潟県新潟市中央区沼垂東1丁目1-17 電話:025-244-1821

    02_【「沼垂白山神社」へのアクセス】
    ⑴ 徒歩で
    JR「新潟駅」万代口から徒歩16分1200mほど
    ⑵ バスを利用して「沼垂白山神社」へ
    今代司酒造[新潟駅] ⇒[万代シティ・南部営業所・北高前行]≪新潟交通≫
    ・バス乗り場:「新潟駅」(2、3番のりば)
    ・4停留所目(「蒲原町」の次の停留所) 所要時間約8分
    ・9時から17時の間に1時間平均4~7便 
    ・「沼垂白山」で下車し「☆」まで徒歩2分150m
    ⇒バスは「沼垂白山」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に100mほど進むと左手に「沼垂白山神社」があります。
    ≪新潟駅バスのりば詳細≫
    ① 牡丹山線(2番のりば:E50)②竹 尾線(2番のりば:E60)③ 石山線(3番のりば:E80)
    ④ 京王団地線(3番のりば

    旅行時期
    2024年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR「新潟駅」万代口から徒歩16分1200mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    参拝客が数名程度いました。
    見ごたえ:
    3.5
    境内社が結構ありました。

  • 長崎行きの飛行機で見た「錦鯉」に偶然にも遭遇しました。テイスティングもお土産も充実しています。

    投稿日 2024年08月13日

    今代司酒造 新潟市

    総合評価:4.5

    新潟県新潟市中央区鏡が岡にある「今代司酒造」についての情報を発信していきます。今回、「今代司酒造」を訪れたのは2024年7月27日です。JR「新潟駅」から「今代司酒造」へのアクセスは、新幹線の改札口を出て左方向に進むとすぐ右手に「新潟市観光案内センター」があります。そこを右折し少し進むと左手に降り口がありますのでそれを降りると「万代広場」方面に出ます。「ロイヤルホスト」、「ローソン新潟花園一丁目店」の先の横断歩道を渡ります。「セブンイレブン新潟明石店」があるのでそこを右折し、900mほど進むと突き当りになります。そこを左折し、50mほど進むと角があるので右折し信号(表示名「長嶺町」)を渡ります。横断歩道を渡ったら右折し200mほど進むと「今代司酒造」が左手あります。
    最初に「今代司酒造」の歴史を紐解いてみたいと思います。その前に、「今代司」と書いて「いまよつかさ」と呼ぶそうです。「今代司」とは「今の時代を司る」という意味だそうです。「沼垂(ぬったり)」などこの辺の地名等は難しい呼び名が多いですね。
    「今代司酒造」の創業は明和4年(1767年)です。創業当初は酒の卸し業、旅館業、飲食業を商いにしていたそうです。ちなみに、江戸後期から明治初期の新潟は、「北前船」が頻繁に寄港していたため、驚くなかれ人口が江戸より多かったといわれ、「今代司」も繁盛していたようです。「今代司酒造」が、本格的に酒造りに参入したのは、は明治中期に入ってからだそうです。地理的に見ると、その昔、まちの真ん中を流れていた運河「栗ノ木川」によって酒の原料や製品の運搬に便利だったことから、沼垂地区に蔵が構えられました。また、沼垂地区は、地盤がよく、阿賀野川のきれいな伏流水が出て酒造りに適していました。そして、「今代司酒造」の最大の特徴は、全国的に見ても珍しい、アルコール添加を一切行なわない全量純米仕込みの酒蔵です。「今代司酒造」は、伝統を大切にすると同時に、新しいコンセプトやデザインにもこだわっています。今年の6月に長崎に行ったのですが、行きの飛行機(ANA)の機内誌に錦鯉のデザインの日本酒が掲載されていました。家内がそれを見つけ、斬新的で素敵なデザインと感心していました。その時は、「今代司酒造」のことは何一つ知らずに、私もなかなかいい日本酒だねと言ったのを記憶しています。それが一か月もしないうちに対面できるとは思いませんでした。
    「直売店」は、明治中期の建物をリノベーションした雰囲気のあるスペースです。お酒やお土産はもちろんのこと、お酒が飲めない人にも楽しめるように酒蔵スイーツもありました。私は、直売店で冷たい甘酒を飲みました。甘酒も甘いタイプとヨーグルトタイプがありました。ただ美味しいという表現しか見つかりませんでした。そして何と言っても「直売店」の人気は、「地酒ガチャ」、「おみやげガチャ」です。カプセルの中のコインの色で1等から5等までハズレなしでお酒や甘酒やオリジナルグッズが当たるシステムです。そして、「直売店」の奥には、「無料テイスティング」と1,000円で10種類以上のお酒を一杯ずつ飲める「プレミアムテイスティング」の試飲コーナーもありました。当日、時間がなかったので「酒造見学」には参加できませんでしたが、「酒造見学」の所要時間は約30分で、風情ある建物の中を案内人が丁寧に案内してくれるそうです。

    01_【「今代司酒造」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒950-0074 新潟県新潟市中央区鏡が岡1-1 電話:025-245-0325
    ⑵ 営業時間…9:00~17:00
    ⑶ 定休日…年中無休(年末年始12/31~1/3休業)
    ⑷ 酒蔵見学(予約制)…9:00から1時間刻みで実施、所要時間約30分、見学料無料

    02_【「今代司酒造」へのアクセス】
    ⑴ 徒歩で
    JR「新潟駅」万代口から徒歩16分1200mほど

    2 バスを利用して「今代司酒造」へ
    今代司酒造[新潟駅] ⇒[万代シティ・南部営業所・北高前行]≪新潟交通≫
    ・バス乗り場:「新潟駅」(2、3番のりば)
    ・4停留所目(「蒲原町」の次の停留所) 所要時間約8分
    ・9時から17時の間に1時間平均4~7便 
    ・「沼垂白山」で下車し「☆」まで徒歩2分150m
    ⇒バスは「沼垂白山」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に150mほど進むと左手に「今代司酒造」があります。
    ≪新潟駅バスのりば詳細≫
    ① 牡丹山線(2番のりば:E50)②竹 尾線(2番のりば:E60)③ 石山線(3番のりば:E80)
    ④ 京王団地線(3番のりば

    旅行時期
    2024年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    人混みの少なさ:
    2.0
    酒造見学もあるので混雑していました。
    見ごたえ:
    4.0
    テイスティング、酒造見学、地酒ガチャなどもありました。

  • 碑の前に立つと美川憲一の低温が腹に響くような感じがしました。

    投稿日 2024年08月13日

    新潟ブルースの碑 新潟市

    総合評価:3.0

    「萬代橋」を渡り「下大川前通」、「川端町」側に行くと「新潟ブルースの歌碑」なるものがありました。「新潟ブルース」と言えば、確か歌手の「美川憲一」の持ち歌ですよね。「新潟ブルース」は、新潟県出身の作詞家「山岸一二三」が作詞し、「新潟ブルースの歌碑」は、新潟市市政百周年記念として建てられたものだそうです。「新潟ブルースの歌碑」の前に立って歌詞を読んでいくと「美川憲一」の低温が腹に響くような感じがしました。

    旅行時期
    2024年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    「新潟駅」万代口から徒歩で17分1200mほど
    人混みの少なさ:
    4.0
    通行人ばかりで誰もいませんでした。
    見ごたえ:
    3.0
    石碑が黒く太陽に反射にして歌詞がよく見えませんでした。

  • 現在の萬代橋も長いと思いますが、以前はこの3倍の長さを誇っていました。

    投稿日 2024年08月13日

    萬代橋 新潟市

    総合評価:4.0

    新潟県新潟市万代にある「萬代橋」についての情報を発信していきます。今回、「萬代橋」を訪れたのは2024年7月27日です。
    最初に「萬代橋」の歴史と概要について紐解いてみると、「萬代橋」は、新潟市の「下大川前通」、「川端町」と「万代」を結ぶ、「信濃川」にかかる美しい連続アーチが特徴的の「鉄筋コンクリート造6連アーチ橋」です。現在の「萬代橋」は三代目で、橋の長さは306.9m、幅は22.0m、そして1日約3万台の自動車の往来を支える大動脈となっていてまさに新潟市のシンボル的存在です。「萬代橋」は、アーチの美しさと花崗岩や御影石を使った石づくりの重厚さが調和し、その姿にはゆとりと風格さえ感じられます。また、昭和39年(1964年)に起きた新潟地震に耐え、市民の避難や救助、災害復旧に大きな役割を果たしました。三代目「萬代橋」は、平成16年(2004年)7月6日に国の重要文化財に指定されました。国道にかかる橋梁で重要文化財に指定されたのは、東京の日本橋に次いで2番目となるそうです。
    「萬代橋」の変遷の歴史を見てみると、初代「萬代橋」は、明治19年(1886年)11月から明治41年(1908年)3月まで架けられていました。当初は個人所有の有料橋でしたが、明治33年(1900年)4月に県が買い取り、無料橋となりました。二代目「萬代橋」は、明治42年(1909年)12月から昭和4年(1929年)8月まで架けられていました。実は、明治41年(1908年)3月8日の「新潟大火」により、初代「萬代橋」は半分以上焼け落ちてしまいました。「萬代橋」は多くの人馬車の通行があり、交通上重要な橋としてその通行を一日たりとも止めることが出来なかったため、県は直ちに建設に着手し、明治42年(1909年)12月に二代目萬代橋が完成しました。三代目「萬代橋」は、昭和2年(1927年)7月に起工し、昭和4年(1929年)8月に完成し今日に至っています。三代目「萬代橋」の現橋の架橋75周年を迎えた2004年(平成16年)、国の重要文化財に指定されたのを機に、漢字表記を新字体の「万代橋」から、建設時よりの橋名板表記である「萬代橋」に戻したという経緯があります。
    では、早速「萬代橋」を渡ってみたいと思います。まず、「万代」側の橋の手前には、橋の由来や構造等が紹介されている銘板があります。途中には、テラスもあり通行人を気にすることなく、信濃川の流れ、遠くに見える稜線、下流に架かる柳都大橋、新潟の街並みなどを眺めることができます。「萬代橋」の橋詰は、建設当時には、12本の柱で囲まれていたそうです。そのうち現存するのは4本の親柱と3本の隅柱で、残りの5本は、当時のデザインを忠実に再現し、見事に復元されています。「照明灯」もありました。よく見るとこの「照明灯」には、「電車用架線フック」が付いていました。実は、大正14年(1925年)の新潟県都市計画では、新潟駅前から萬代橋を経て、今の新潟市役所まで路面電車を通す計画があった名残だそうです。「下大川前通」、「川端町」側に行くと「新潟ブルースの歌碑」なるものがありました。「新潟ブルース」と言えば、確か歌手の「美川憲一」の持ち歌ですよね。「新潟ブルース」は、新潟県出身の作詞家「山岸一二三」が作詞し、「新潟ブルースの歌碑」は、新潟市市政百周年記念として建てられたものだそうです。「新潟ブルースの歌碑」の前に立って歌詞を読んでいくと「美川憲一」の低温が腹に響くような感じがしました。少し先にある信号(表示名「礎町」)の横断歩道を渡り道路の反対側に行きます。橋の手前の「ホテルオークラ」の植栽の中には、「高浜虚子の句碑」がありました。「高浜虚子の句碑」には、「千二百七十歩なり 露の橋」と刻まれていました。大正13年(1924年)9月11日に、新潟を訪れた俳人「高浜虚子」が、宿泊していた旅館から「萬代橋」を渡って散歩に出た朝に詠まれた句といわれています。当時は二代目「萬代橋」の時代で、今の3倍も川幅があったそうです。「ホテルオークラ」側の橋詰広場から川沿いに下り、「信濃川やすらぎ緑地」の堤防沿いで「萬代橋」の全景の写真を撮りに行ったときに、「吉野秀雄歌碑」を発見しました。「吉野秀雄歌碑」には、「萬代の橋より夜半の水の面に 涙おとしてわが去るむとす」と刻まれていました。この歌は、昭和31年(1956年)11月23日に師である「會津八一」の葬儀を終え、帰途に就く途中で詠んだ歌だそうです。それでは「萬代橋」に戻り「万代」側に向かいます。途中で「信濃川」を行く水上バスが、「萬代橋」の下を通過する光景も見ることができました。橋を渡り終えると橋の由来や構造等が紹介されている銘板そして国の重要文化財指定の銘板がありました。

    01_【「萬代橋」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒950-0088 新潟県新潟市中央区万代2丁目4

    02_【「萬代橋」へのアクセス】
    ⑴ 徒歩で
    JR「新潟駅」万代口から徒歩で17分1200mほど
    ⑵ バスを利用して「萬代橋」へ
    JR「新潟駅」万代口からバスで約5分

    旅行時期
    2024年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR「新潟駅」万代口から徒歩で17分1200mほど
    人混みの少なさ:
    4.0
    観光客はほとんどいませんでした。
    見ごたえ:
    4.0
    国の重要文化財指定されています。

  • 三社神社の境内には、玄的の青蛙像と小さな5匹のカエルが隠れています。幸せを迎えることができるそうです。

    投稿日 2024年08月13日

    三社神社 新潟市

    総合評価:3.5

    新潟県新潟市中央区三和町にある「三社神社」についての情報を発信していきます。今回、「三社神社」を訪れたのは2024年7月27日です。「三社神社」へのアクセスは、「新潟駅前ターミナル」のバス乗り場の9番のりばからバスに乗り、「宮浦中学前」で下車し「三社神社」まで徒歩2分200mほどです。バスは「宮浦中学前」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と反対方向に90mほど進むと最初の角があるので右折します。そのまま道なりに100mほど進むと右手に「三社神社」があります。
    最初に「三社神社」の歴史を紐解いてみると、延享3年(1746年)8月に「信濃川」によって運ばれてきた土砂の堆積で島嶼の「長岡領附寄島」が誕生しました。「安倍玄的」が中心となって開拓しました。そして、翌年の延享4年(1747年)4月26日に開拓の安全と成功を祈願して、島中に一祠を祀りました。それが「三社神社」の始まりです。当初は、「伊勢皇大神宮」を主祭神にお祀りしたことから神社名を「附寄島大神宮」、「附寄島神明宮」としました。また、開拓者であるに「安倍玄的」因み「玄的のお宮」とも呼ばれていました。その後、弘化元年(1844年)には「流作場大神宮」、「流作場神明宮」と名を変え、明治維新以後に「三社神社」と改称されたそうです。御神徳は、大河の中に新しく生まれた土地に建立された神社であることなどに因み新規事業開拓、会社、店舗などの開業、開運立身出世、家内安全、心願成就のご利益があるといわれています。
    それでは、「三社神社」を参拝します。まず、大きな社号標のある入口から入ると、「狛犬」(石鳥居)の先に「一の鳥居」(石鳥居)、さらにその先に「二の鳥居」が見えます。参道が右手方向に蛇行しているので「一の鳥居」からは「拝殿」は見えません。「二の鳥居」をくぐると「拝殿」がその姿を現します。左手には、立派な神輿が展示してある「神輿庫」があり、右手には「龍の口」と書かれた「手水舎」があります。「手水舎」の先には、これまた立派な真新しい石製の由緒板があります。三柱を祀ってあるので「三社神社」と呼ばれているそうです。反対側には、よほど価値のある「さざれ石」らしく鉄柵で囲まれていいました。説明板によると、「今上天皇御即位」20年を奉祝して奉納されたものです。ちなみに、「さざれ石」とは小さい石のことです。この岩石は土の中で長い年月をかけて小さい小石が寄り付き固まって岩と化した産物です。国歌「君が代」の一節に「さざれ石の巌と成りて」とうたわれているのはこのことです。この意味は、何万年も掛けて小石が巌と成る様に、国土の永久安泰と繁栄を願って詠まれた和歌です。この「さざれ石」は宮城県登米市の山中で発掘されて奉納されました。「さざれ石」の左脇にある「添え碑」の国歌は三社神社所蔵「東郷平八郎」の揮毫によるものです。何となく大切なものだとその理由が理解できました。「拝殿」で参拝を済ませ、拝殿に向かって右手の方向に進むと「玄的の青蛙」がありました。その隣には奉納された可愛らしい蛙の置物が沢山飾られていました。説明板によると「当地流作場は延享3年(1746年)に「安倍玄的」が信濃川の島嶼を開拓して住家15軒にて玄的村を開くに始まります。元来水損地のため、文化4年(1807年)、・文化5年(1808年)3度の大洪水に襲われ壊滅的状況に至り廃村を決意しました。しかし、その惨状の中で沢山の青蛙が力強く生きている姿に村人達は発奮して自らを「玄的の青蛙」と呼び水と戦い水と和して村を再建したと言い伝えられています。今日の繁栄は先祖達「玄的の青蛙」の不屈の努力に依ってもたらされた賜物である。」と記載されていました。事前に調べていかなかったので、見逃してしまいましたが、実は、「三社神社」の境内には、小さな5匹のカエルが隠れていて、「玄的の青蛙像」と合わせると6匹となり、6カエル(むかえる)「幸せを迎える」となるそうです。今後いかれる方は是非6匹のカエルを見つけて、幸せになってください。「玄的の青蛙像」の奥には、「明治天皇聖跡碑」と「江戸時代の道標」がありました。「明治天皇聖跡碑」は、「明治天皇」が明治11年(1878年)9月19日に東海北陸御巡幸中に流作場の開祖安倍邸で小休止したそうです。それを記念して、新潟市は昭和10年(1935年)1月に安倍邸門前に「明治天皇聖跡碑」を建立しました。そして、「明治天皇聖跡碑」を平成21年(2009年)7月27日に「三社神社」境内へ移設したそうです。「江戸時代の道標」は、嘉永7年8月(1854年)に新潟奉行所で建てた道標です。平成8年(1996年)に神社御鎮座及び開村250年を記念して、斎行された流作場250年祭の後、平成10年(1998年)境内に移設しました。歴史的に価値のあるものだそうです。最後が、末社である「石宮神社」です。「石宮神社」の御祭神は、「石宮大神」です。時代の流れと共にすたれてしまったものを「三社神社」の境内の一隅を借地し、昭和54年(1979年)12月に起工式を行い、翌年5月新社殿に遷宮し、「石宮神社」としたそうです。

    01_【「三社神社」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒950-0081 新潟県新潟市中央区三和町1-1 電話:025-244-3541
    ⑵ 御祭神…①大日孁貴命(天照皇大御神) ②誉田別命(八幡神) ③武甕槌命(鹿島ノ神)

    02_【「三社神社」へのアクセス】
    ⑴ 徒歩で
    JR「新潟駅」万代口から徒歩15分1100mほど
    ⑵ バスを利用して
    [新潟駅] ⇒[新潟空港・北部営業所・新潟医療福祉大学行]≪新潟バス:松浜線≫
    ・バス乗り場:「新潟駅前ターミナル」(9番のりば)
    ・4停留所目(「新潟日報メディアシップ」の次の停留所) 所要時間約14分
    ・9時から17時の間に1時間平均3~6便 
    ・「宮浦中学前」で下車し「三社神社」まで徒歩2分200m
    ⇒バスは「宮浦中学前」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と反対方向に90mほど進むと最初の角があるので右折します。そのまま道なりに100mほど進むと右手に「三社神社」があります。

    旅行時期
    2024年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR「新潟駅」万代口から徒歩15分1100mほど
    人混みの少なさ:
    3.0
    朝早い時間に訪れたので、地元の方がお参りにきているくらいでした。
    見ごたえ:
    3.5
    「玄的の青蛙像」の他に5匹のカエルが隠れています。

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