Lily-junjunさんのクチコミ(9ページ)全318件
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投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.5
「浅野家内匠頭邸跡」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。10mほど進むと「聖路加国際大学」の右手にある植え込みの中に「浅野家内匠頭邸跡」の石碑と説明板があります。
「浅野家内匠頭邸」は、現在の「聖路加国際病院」のところにありました。「聖路加国際病院」の西側に「築地川公園」という公園がありますが、ここには、かつて「築地川」と呼ばれた川が流れており、「浅野家」の屋敷はその川に面して建っていました。「浅野家」の歴史と概要を紐解いてみると、常陸笠間藩主「浅野長直」(現在の茨城県笠間市)は、正保2年(1645年)に、「播磨赤穂」(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3500石を領して「内匠頭」と称しました。そして、「赤穂藩」が築地の地に江戸上屋敷を構えたのは、明暦3年(1657年)のことです。それまでの上屋敷は外桜田にありました。浅野家初代藩主「浅野長直」の治世の時に備中国「高梁藩」との相対替えによって移転してきました。「浅野長矩」が生まれたのもこの屋敷でした。そして、元禄14年(1701年)3月14日に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで、赤穂浅野藩の藩屋敷に使用されていました。
01_【「浅野家内匠頭邸跡」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町10-11
02_【「浅野家内匠頭邸跡」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約3分200m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約5分350m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約3分200m
-
大作家である芥川龍之介はここで生まれ、墨田区本所で養子となり成長していきました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「芥川龍之介生誕の地」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。「聖路加国際大学」を回り込むようにして進むと、「聖ルカ礼拝堂」の手前の歩道の右側に、「芥川龍之介生誕の地」の説明板があります。
「芥川龍之介」は、明治25年(1892年)3月1日に、牛乳販売会社「耕牧舎」を経営する「新原敏三」の長男として、東京市京橋区入船八丁目一番地(現在の中央区明石町十番)で生まれました。辰年辰の日辰の刻の生まれにより「龍之介」と命名されたと言います。生後7ヶ月で母親の「ふく」が病気になったため、「龍之介」は母の実家の「芥川家」に引き取られて成長しました。当時本所区小泉町15番地に住んでいた「ふく」の長兄「芥川道章」に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となりました。「芥川龍之介」は、「夏目漱石」門下で、「鼻」、「羅生門」、「河童」、「或阿呆の一生」などの多くの文学作品を残しました。
01_【「芥川龍之介生誕の地」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町10-11 聖路加病院
02_【「芥川龍之介生誕の地」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分300m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約4分280m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分300m
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レンガ塀遺構とガス街灯が築地外国人居留地の面影をととめています。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「築地外国人居留地跡の碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。「聖路加国際大学」沿いに進み、最初の角を右折します。50mほど進むと「居留地通り」と「居留地中央通り」の交差点の「中央区立明石小学校」の植え込みにある「築地外国人居留地跡の碑」があります。
「築地」というと豊洲に移転した「旧東京都中央卸売市場」や「築地本願寺」が頭に浮かんできますが、「外国人居留地」もありました。明治2年(1869年)に、現在の中央区明石町一帯にあたる「築地鉄砲洲」に、「外国人居留地」が設けられました。その歴史を辿ってみると、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結した「安政5カ国条約」に基づき、函館、横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港し、江戸と大坂では、開市をすることが取り決められました。日本における「外国人居留地」は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港場、開市場の土地に設けられました。江戸の開市は、明治元年(1868年)11月19日、明治新政府になってから実現し、現在の明石町地区に「築地外国人居留地」が設定されました。また、「築地外国人居留地」には、ここを発祥の地とするキリスト教系の学校も数多く設立されました。「築地外国人居留地」の大きな特徴は、商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師、医師、教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。「築地外国人居留地跡の碑」の傍らには、「築地外国人居留地」時代の「レンガ塀遺構」と「ガス街灯」が残っていて、その当時の面影を今に残しています。「レンガ塀遺構」のレンガは、イギリス積みで積まれた築地外国人居留地時代のレンガ塀遺構の一部です。「ガス街灯」の柱は、コリント風の様式で上部にある左右20㎝の腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。
01_【「築地外国人居留地跡の碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町5-26 中央区立明石小学校
02_【「築地外国人居留地跡の碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約6分400m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約5分300m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約6分400m
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「東京中学院発祥の地」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。「聖路加国際大学」沿いに進み、最初の角を右折します。50mほど進むと「居留地通り」と「居留地中央通り」の交差点があるので、左折し100mほど進むと右手に「東京中学院発祥の地」があります。
「東京中学院」は、キリスト教プロテスタントの一教派であるアメリカ北部バプテストが設立した男子校で、明治28年(1895年)に「築地居留地」に開校しました。その後、明治32年(1899年)には、「東京学院」と校名を変更し,新宿区市谷左内町に移転しました。ところが、大正12年(1923年)の関東大震災により大きな被害を受けたため、昭和2年(1927) に横浜の「中学関東学院」と合併して、「財団法人関東学院」が組織されました。戦後の学制改革により「関東学院中学校・高等学校」および「関東学院大学」となって現在に至っています。
ちなみに、「関東学院大学」にはいくつか源流があり、その一番古いものは、明治17年(1884年)に横浜山手にアメリカ北部バプテスト同盟の「アルバート・アーノルド・ベネット」が設立した「横浜バプテスト神学校」です。「横浜バプテスト神学校」は明治43年(1910年)に「福岡バプテスト神学校」と合併して東京文京区小石川に移り、名前も「日本バプテスト神学校」となります。「東京中学院発祥の地碑」は、平成21年(2009年)に学院創立125周年記念事業として築地に建てられました。
01_【「東京中学院発祥の地」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町1-6
02_【「東京中学院発祥の地」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約9分600m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約3分260m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約9分600m
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ハート型に見えるふたば葵の石碑が印象的でした。徳川将軍家の家紋の三つ葉葵の原形だそうです。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「雙葉学園発祥の地」へのアクセスは、東京メトロ有楽町線「新富町駅」の6番出口を出て、180mほど進むと信号があります。そこを右折し、40mほど進むと歩道の左手に「雙葉学園発祥の地」の石碑があります。
明治5年(1872年)にカトリック系の「サンモール修道会」の宣教師5人がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始しました。明治8年(1875年)に築地に、「築地童貞学校」を開校し、さらに隣接して、「築地語学校」を開校しました。明治42年(1909年) 初代校長の「メール・セント・テレーズ」が 私財を投じてJR四谷駅前に フランス風の優雅な木造2階建ての校舎を建造して「雙葉高等女学校」を創立しました。昭和23年(1947年)の学制改革により「雙葉高等学校」となりました。なお, この場所は 中央区立第二中学校があった所で, 今年 平成17年(2005) 跡地に“リハポート明石”という大きなビルが建てられた。ここで何と言っても印象に残ったのは、「ハート形」した石碑です。しかし、よく見るとハートではなく、二枚の葉が重なっているようにも見えます。実は、これは「ふたば葵」で「雙葉学園」の「雙葉」は,「フタバアオイ」という植物の名から採ったということです。碑文には、「徳に於ては純真に 義務に於ては堅実に」と刻まれていました。碑文は「雙葉学園」の校訓で、日本語とフランス語で書かれています。「徳においては純真に」は「まっすぐに明るく生きる心の清さを尊び、品位と礼儀を重んじる美しい心を持つ」ということで、そして、「義務においては堅実に」は「秩序と規律を守り、愛と責任を持って、誠実に事をやり遂げる強い心を持つ」ということだそうです。
01_【「雙葉学園発祥の地」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町1-6
02_【「雙葉学園発祥の地」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分500m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約3分220m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分500m
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文明開化の時代を偲ばせる暖かい街の灯りが今でも夜を照らしています。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
文明開化の時代を偲ばせる街の灯りである「ガス街灯の柱」や「ガス街灯」が、かつて「築地外国人居留地」があった地に今でも大切に保存されています。まず、「ガス街灯の柱」が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。その他、「明石小学校」正面玄関右側に3基、トイスラー記念館前に2基の「ガス街灯」があります。
まず、最初は明石小学校付近にある「ガス街灯の柱」です。「ガス街灯の柱」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。「聖路加国際大学」沿いに進み、最初の角を右折します。50mほど進むと「居留地通り」と「居留地中央通り」の交差点があるので、左折し150mほど進むと左手に「ガス街灯柱」があります。
次が、「明石小学校」の正面玄関右側にある「ガス街灯」は、「居留地中央通り」を100mほど進むと、「明石小学校」の正面玄関右側に3基青色の「ガス街灯」が連なっています。
そこから「居留地中央通り」を60mほど進むと左手に「リハポート明石」があり、入口の右側にクリーム色の「ガス街灯の柱」があります。
そこから250mほど「居留地中央通り」を戻ると右手に「聖路加国際病院」の中庭があり、その中に「聖路加国際病院トイスラー記念館」があります。「聖路加国際病院トイスラー記念館」の玄関両脇に2基の「ガス街灯」があります。
最後が、「明石町区民館」の入口前にある「ガス街灯の柱」です。「聖路加国際病院トイスラー記念館」から「聖ルカ通り」を左方向に130mほど進むと信号があります。横断歩道を渡ると左斜め方向にある道がありますので、そのまま進むと左手に「明石町区民館」があります。
⑴ 明石小学校付近にある「ガス街灯の柱」
① 「築地外国人居留地跡碑」のある「明石小学校」の角地(1基)
〒104-0044 東京都中央区明石町5-26
緑色の「ガス街灯の柱」で、「築地外国人居留地跡碑」のある明石小学校角地にあります。説明板によると「このガス街灯の柱は、コリント風の様式で上部にある左右20㎝の腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。照明ランプ部分は、電気灯として使用されていたランプを修復した上で、後年に取り付けたものです。柱部分は、形状や材質などから判断して、明治末年頃のガス街灯のものであると推定されます。明治情緒を偲ばせるガス街灯の柱からは、文明開化の象徴として輝いていた頃の様子が想像されます。」と書かれていました。
② 「明石小学校」の正面玄関右側(3基)
〒104-0044 東京都中央区明石町1-15
青色の「ガス街灯」で、明石小学校正面玄関右側に3基連なっています。「ガス街灯」に「この外灯のランプの電源は風力発電の電力を利用しています。」という説明板がありました。
⑵ 「リハポート明石」の入口右側(1基)
〒104-0044 東京都中央区明石町1-7
クリーム色の「ガス街灯の柱」で、「ラ・ヴェール明石町」の入口右側にあります。左側には、ハートマークの「雙葉学園発祥の地碑」もあります。説明板によると「これは、ガス灯を点灯するための街灯柱です。高さは3、4mで柱は鋳鉄製コリント風の様式をとり柱頭・柱身・基部の部分からなっています。柱頭のランプ部分は新たに復元しました。この街灯柱は、以前この場所に在った「中央区立第二中学校」に設置されていました。また、基部の台座も 「学校」の階段の石(白御影石)が使われています。」と書かれていました。
⑶ 「明石町区民館」入口前(1基)
〒104-0044 東京都中央区明石町14-2
「明石町区民館」の入口前にも「ガス街灯の柱」が1基あります。ちなみに、「明石町区民館」の照明は、ガス灯のランプを模しています。
⑷ 「聖路加国際病院トイスラー記念館」玄関両脇(2基)
〒104-0044 東京都中央区明石町10 聖路加国際病院中庭
「聖路加国際病院」の中庭にある「聖路加国際病院トイスラー記念館」の玄関の両脇には、2基の「ガス街灯」があります。平成10年(1998年)に、「聖路加国際病院トイスラー記念館」が「聖路加ガーデン」から移築復元されたさいに一緒に設置されました。
01_【「ガス街灯の柱」の一口メモ】
⑴ 「築地外国人居留地跡碑」のある「明石小学校」の角地(1基)
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町5-26
⑵ 「明石小学校」の正面玄関右側(3基)
〒104-0044 東京都中央区明石町1-15
⑶ 「リハポート明石」の入口右側(1基)
〒104-0044 東京都中央区明石町1-7
⑷ 「明石町区民館」入口前(1基)
〒104-0044 東京都中央区明石町14-2
⑸ 「聖路加国際病院トイスラー記念館」玄関両脇(2基)
〒104-0044 東京都中央区明石町10 聖路加国際病院中庭
02_【「ガス街灯の柱」へのアクセス】
⑴ 「築地外国人居留地跡碑」のある「明石小学校」の角地(1基)
① 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約9分650m
② 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約3分210m
⑵ 「明石小学校」の正面玄関右側(3基)
① 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分500m
② 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約4分270m
⑶ 「リハポート明石」の入口右側(1基)
① 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約8分550m
② 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約3分210m
⑷ 「明石町区民館」入口前(1基)
① 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約8分550m
② 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約10分700m
⑸ 「聖路加国際病院トイスラー記念館」玄関両脇(2基)
① 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分350m
② 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分450m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- ガス灯が四箇所あるが、築地駅からどれも歩いて行ける距離です。
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.5
「カトリック築地教会聖堂」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。「聖路加国際大学」沿いに進み、最初の角を右折します。50mほど進むと「居留地通り」と「居留地中央通り」の交差点があるので、左折し20mほど進むと右手に「カトリック築地教会」があります。
「カトリック築地教会」は、明治7年(1874年)11月22日に開かれた東京で最初のカトリック教会です。創設したのはパリから来た宣教師たちでした。「カトリック神田教会」と同じく、東京で比較的早い段階から日本人のために開かれていた教会で、現在の聖堂は、平成11年(1999年)4月に東京都選定歴史的建造物および平成13年(2001年)3月に東京都中央区の区民文化財に指定されています。「カトリック築地教会」の歴史を紐解いてみると、「カトリック築地教会」は、明治4年(1871年)にパリ外国宣教会の「マラン神父」が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて伝導活動を行ったことに始まります。その後、明治7年(1874年)に築地外国人居留地35・36番(現在地)を借り受け、明治11年(1878年)にはゴシック様式の立派な聖堂が建立されました。
現在の「カトリック築地教会」の建築様式は非常に特徴的で、教会としては珍しいギリシャ神殿パルテノン様式を採用しています。現聖堂は、当時の東京大司教であるレイ大司教の希望によりギリシャ建築パルテノン型が採用されたそうです。正面にはドリス式の円柱が6本並びペディメントには、左右にバラと中央にユリの彫刻がなされていました。聖堂の歴史を遡ってみると、古くは、明治11年(1878年)に完成した旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りでしたが、大正12年(1923年)に関東大震災で焼失しました。昭和2年(1927年)に、木造2階建の現聖堂が完成しました。
01_【「カトリック築地教会聖堂」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町5-26
02_【「カトリック築地教会聖堂」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分450m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約5分350m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分450m
-
数多くの外交官や名医を輩出した暁星学園はここから始まりました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「暁星学園発祥の地記念碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに160mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号を左折します。「聖路加国際大学」沿いに進み、最初の角を右折します。50mほど進むと「居留地通り」と「居留地中央通り」の交差点があるので、左折し20mほど進むと「カトリック築地教会」の前の歩道に、「暁星学園発祥の地記念碑」があります。
「カトリック築地教会」は、明治7年(1874年)11月22日に開かれた東京で最初のカトリック教会です。創設したのはパリから来た宣教師たちでした。ここを拠点にし、やはりパリのカトリック教育修道会マリア会の4人の宣教師が、教会の一角に明治11年(1888年)に開いた小規模の学校が日本最古のカトリック男子校である「暁星学園」の始まりです。開校時には特に名前がなく、明治11年(1888年)2月にできてすぐ、そして、明治11年(1888年)7月には麹町区元薗町に移転します。この時に「暁星」という名前が付けられました。「暁星」とは「金星」のことです。碑の裏に彫られた「Ecole de l'Etoile du Matin」は「明けの明星の学校」すなわち「暁星学園」との意味です。麹町の校地は借家で、現在の麹町学園のあたりでした。さらに明治23年(1890年)に麹町区富士見(現在地)に移転しました。それと碑の上には、1冊の本が開かれた形のモニュメントがあり、「あなたがたは地の塩 世の光である(マタイによる福音書)」と刻まれていました。この言葉は、イエスが弟子たちに対して語ったもので、「あなたはかけがえのない存在で、社会の中で活躍していくことのできる賜物・才能を持っているので、それを充分に使っていくように」ということを示したものです。
01_【「暁星学園発祥の地記念碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町5-26
02_【「暁星学園発祥の地記念碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分450m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約5分350m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分450m
-
ヨーロッパの山荘のような建物を聖路加国際病院の中庭で発見しました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.5
「トイスラー記念館」は、昭和8年(1933年)に現在地から約210メートル東の隅田川畔の明石町19番地、現在の「聖路加タワー」辺りに建設されました。そして、解体保存工事を経て平成10年(1998年)に現在の「聖路加国際病院」の中庭へと移築復元されました。建物の建築様式は、鉄筋コンクリート造一部木造2階建で、外観はヨーロッパの山荘を思わせる特徴的な造りで、屋内は木の内装となっています。完成当初は、「トイスラー院長」に看護教育宣教師として招かれた「アリス・C・セントジョン」女史の宿舎として使用されていました。設計は、旧聖路加病院棟、聖ルカ礼拝堂の設計に携わったアメリカ人建築家の「J・V・W・バーガミニィ」で、施工は「清水組」(現在の「清水建設株式会社」)が担当しました。「トイスラー記念館」は、移築復元前までは地下にボイラー設備を有するなど、耐震性と機能性を備えた住宅建築となっていたそうです。残念ながら、「トイスラー記念館」の内部は非公開で、周囲から鑑賞するしかありません。また、「トイスラー記念館」は、平成16年(2004年)4月1日中央区の区民有形文化財に指定されています。
01_【「聖路加国際病院トイスラー記念館」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町10 聖路加国際病院
02_【「聖路加国際病院トイスラー記念館」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分300m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分450m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分300m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 私が訪れたときには、数名の観光客が写真を撮っていました。
- 見ごたえ:
- 3.5
- まるでヨーロッパにいるような感じです。
-
立教大学と聖路加国際大学は、聖公会を通して深いつながりがあるそうです。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「立教学院発祥の地」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに190mほど直進します。「中央区立築地川公園」の先の信号の斜め左手に「聖路加国際大学」があります。横断歩道を渡ると「聖路加国際大学」と「聖路加病院」へ入る小道が二又に分かれています。右の小道を進むと「聖ルカ通り」と「聖路加国際病院トイスラー記念館」の中間あたりに「立教学院発祥の地」の記念碑が設置されています。
「聖路加国際病院」の周辺は多くの学校の発祥の地となっています。「慶應義塾」をはじめとして、「青山学院」、「女子聖学院」、「明治学院」、「雙葉学園」、「関東学院」、「立教女学院」、「立教学院」、「女子学院」などの幕末から明治期にかけて次々と設立されました。
「立教学院」は、明治7年(1874年)に、米国聖公会の宣教師、「チャニング・M・ウィリアムズ」主教によって築地の外国人居留地に開かれた、聖書と英学を教える私塾「立教学校」がそのルーツです。その後、「立教大学校」、「立教専修学校」、「立教中学校」などと名称を変更しています。そして、明治40年(1907年)には「立教大学」を開設し、大正7年(1918年)に豊島区池袋に移転し、現在、「立教大学」は、10学部27学科を擁する総合大学へと発展し、池袋と新座にキャンパスあります。そして、「立教大学」は、世界の約120大学とともに「世界聖公会大学連合」(CUAC)に加盟し、「アングリカン・コミュニオン」(世界の聖公会)の広がりの中でつながっています。「立教学院発祥の地」の記念碑は、立教学院の創立125周年を記念して平成12年(2000年)に建立されました
01_【「立教学院発祥の地」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町5-26
02_【「立教学院発祥の地」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分300m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分450m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約5分300m
-
"A六番館は築地居留地に建てられた初めての洋館で、建設当初は見物人が絶えなかったそうです。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「女子学院発祥の地碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに170mほど直進すると信号があります。信号の先の横断歩道を左折して渡り、「聖ルカ通り」の反対側の歩道を右折します。30mほど進むと左手の「聖路加国際病院」敷地内の植え込みの中に、「女子学院発祥の地碑」があります。
「女子学院」は明治3年(1870年)に、「ジュリア・カロゾルス」によって「築地居留地」に開設されたキリスト教主義の学校です。当初は、「A六番女学校」として発足し、それがルーツで, 後に「新栄女学校」となりました。そして、明治23年(1890年)に、「新栄女学校」と「桜井女学校」が合併して、現在の校舎のある千代田区一番町に移転し, 校名も「女子学院」となりました。「女子学院発祥の地碑」は、平成11年(1999年)に創立130周年を記念して建てられました。ちなみに、「A六番館」は築地居留地に建てられた初めての洋館で、建設当初は、見物人が絶えなかったそうです。しかし、明治5年(1872年)4月4日に全焼し、その後すぐに再建されたそうです。
01_【「女子学院発祥の地碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町11-11 聖路加国際病院
02_【「女子学院発祥の地碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約3分220m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約5分400m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約3分220m
-
福沢諭吉がこの地で蘭学塾の教師にしたことから慶応義塾の歴史は始まります。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.5
「慶應義塾発祥の地記念碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに290mほど道なりに直進すると、「居留地中央通り」と「聖ルカ通り」の交差点のところにある三角州のスペースに「慶應義塾発祥の地記念碑」があります。
「慶應義塾発祥の地記念碑」が何故ここに建立されたかというと、幕末の頃にまで遡ります。実は、現在の地(築地鉄砲洲)に「福沢諭吉」の出身である「中津藩中屋敷」があり、安政5年(1858年)に「中津藩中屋敷」内の蘭学塾に「福沢諭吉」が教師に就任したことが、「慶應義塾」のルーツということで記念碑が建立されました。そして、慶應4年(1868年)に、蘭学塾を芝の新銭座(現在の港区浜松町付近)に移し、イギリスのパブリックスクールにならって近代的学塾として、当時の元号にちなんで、「慶應義塾」と命名しました。そして、明治4年(1871年)3月23日に三田に校舎を移転し、「三田の慶応義塾」の歴史が始まりました。「慶應義塾発祥の地記念碑」は、昭和33年(1958年)4月23日に「慶應義塾創立100周年」を記念して、「聖路加国際病院」敷地内に建立されましたが、中央区の道路整備に伴って現在地に移されました。特徴的な書籍型オブジェには、「学問のすすめ」の初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれています。また、その隣には「蘭学の泉はここに」の碑も立っています。ちなみに、築地鉄砲洲の「中津藩中屋敷」は、藩医であった「前野良沢」が「解体新書」を翻訳した地でもあるそうです。
01_【「慶應義塾発祥の地記念碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町11-11
02_【「慶應義塾発祥の地記念碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約4分290m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分450m- 旅行時期
- 2024年01月
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約4分290m
-
シーボルトは日本の蘭学の発展に貢献しましたが、禁制品等を持ち出そうとしたため国外追放されました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.5
「シーボルトの胸像」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに290mほど直進します。「慶応義塾発祥の地記念碑」の先の横断歩道を渡り右折し、「居留地中央通り」沿いに50mほど進むと右手に「中央区立あかつき公園」の入口があります。公園な中を150mほど直進すると「霧の噴水」があり、その向こう側に「シーボルトの胸像」があります。
ドイツ人医師の「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」は、オランダの陸軍軍医で、文政6年(1823年) 7月に、27歳の若さで長崎の出島の商館医として最初の来日をしました。「シーボルト」は、医者の仕事ばかりでなく日本との貿易のため、日本のことを調べるようにも命じられていました。「シーボルト」は、文政9年(1826年)正月に、オランダ商館長と共に江戸参府に同行し、江戸へ向かい、何と旅の途中で植物や動物を採取、山の高さの測量もしたそうです。江戸に到着したのが文政9年(1826年)3月4日で、文政9年(1826年)4月12日出発するまでの間に、多くの医者や蘭学者を指導し、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかったそうです。特に、「築地本願寺」に墓のある「土生玄碩」は、江戸滞在中の「シーボルト」が治験した瞳孔を散大させる秘薬「散瞳薬」に驚嘆し、施術に有効な新薬の製法を得ようと何度も会見し、手に入れようと懇願したといわれています。最終的には、危険を顧みずに将軍下賜の国禁品と引き換えに製薬教示を得ましたが、数年後にこのことが発覚し文政11年(1828年)の「シーボルト事件」に連座し、改易・禁錮の身となりました。
そして、ここが江戸蘭学発祥の地であり、シーボルトの娘である「いね」も医者になり、築地で産婦人科を開院したことなどのゆかりから「シーボルトの胸像」が建立されました。
01_【「シーボルトの胸像」の一口メモ】
所在地…〒104-0045 東京都中央区明石町13-14
02_【「シーボルトの胸像」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分450m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約9分650m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分450m
-
月島の渡しは、月島の臨海工業地帯の発展に大きく貢献した渡し船です。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「月島の渡し跡碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに450mほど直進します。「聖ルカ通り」の突き当りにある信号を右折し、150mほど直進すると一つ目の信号があるので、横断歩道を渡り、左折し横断歩道を渡ると正面に「月島の渡し跡碑」があります。
「月島の渡し跡」は、明治から昭和にかけて月島と南飯田町を繋いだ渡船跡地です。「月島の渡し」の歴史を紐解いてみると、明治25年(1892年)11月に、土木請負業の「鈴木由三郎」が, 南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。その後、明治34年(1901年)に月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め, 明治35年(1902年)に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し、渡し賃も無料となりました。しかし、約50年間運航された渡船は、昭和15年(1940年)に「勝鬨橋」が完成したことによりその役目を終えて廃止となりました。現在、横断歩道わきの緑地に説明板が設置されています。いずれにしても、「月島の渡し」は,月島工業地帯の発展を支え、日本の近代化に寄与した渡船だそうです。
01_【「月島の渡し跡碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0045 東京都中央区築地7丁目18-2
02_【「月島の渡し跡碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分500m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約10分700m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分500m
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「電信創業之地碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに450mほど直進します。「聖ルカ通り」の突き当りにある信号を右折し、150mほど直進すると一つ目の信号があるので、左折し横断歩道を渡ると正面に「電信創業之地碑」があります。
明治2年(1869年)9月19日に横浜裁判所と東京築地の運上所内に設けられた「電信機役所」を結ぶ 約32㎞の電信線架設工事が開始され、同明治2年(1869年)12月25日に業務を開始しました。これが, 我が国における公衆電気通信の始まりです。この「電信創業之地碑」は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年(1940年)に建立されたもので、 昭和53年(1978年)に南南東約40メートルの地点から 現在の地へ移設されたものです。ちなみに、「運上所」とは、江戸幕府が、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う「運上所」を設置し、これが「東京税関」の始まりとなりました。現在は、料亭「治作」に姿を変えています。
01_【「電信創業之地碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町13-10
02_【「電信創業之地碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約7分500m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約10分700m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」へのアクセスへのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに450mほど直進します。「聖ルカ通り」の突き当りにある信号を右折し、150mほど直進すると一つ目の信号があるので、左折し横断歩道を渡ります。そのまま道なりに、料亭「治作」の前をとおり100mほど進むと右手に「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」の記念碑があります。
「運上所」とは、江戸幕府が、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う「運上所」を設置し、これが「東京税関」の始まりとなりました。そして、「税関」という名になったのは 1872年(明治5年)からで、横浜税関の東京支署となりました。その理由としては、江戸は開港場ではなく開市という位置づけで多くの外国人商人は住もうとせず、さらに国防上の理由から大型船が東京に近づかないようにしたいためです。
「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」の銘板には、「江戸幕府は、慶応3年(1867年)に、江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。これが東京税関の始まりです。」と刻まれていました。
01_【「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町13-10
02_【「東京税関発祥の地碑(運上所跡)」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約8分600m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約11分800m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約8分600m
-
英国の雑誌「ネーチュア」に世界最初の科学的指紋法に関する論文を投稿しました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに450mほど直進する3つ目の信号のところでT字路になります。横断歩道を渡り左折し、100mほど直進すると、信号の手前の歩道の左手の植え込みの中に、「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」があります。
ここには、かつての「築地居留地」の18号地で、英国人医師である「ヘンリー・フォールズ」が明治7年(1874年)から明治19年(1886年)まで12年間にわたり居住した場所です。「ヘンリー・フォールズ」はスコットランド一致長老教会の宣教師として来日し、キリスト教布教のかたわら、「築地病院」を開いて診療に従事しました。「ヘンリー・フォールズ」は、外科、眼科などが専門の医師でした。また、日本人の有志と連携して盲人の保護教育にも尽力しました。
そして、ここは日本のみならず、世界レベルの発祥地です。人間に指紋があることは古くから知られていました。また、その模様にいくつかパターンがあり、人によって違うこともわかっていましたが、個人の識別にまで応用できるとは考えられていませんでした。「ヘンリー・フォールズ」は、日本でおこなわれていた指印の習慣に興味をもち、たまたま発掘された土器に付着していた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行いました。そして、明治13年(1880年)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及しています。「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」は、明治44年(1911年)4月1日わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年目の日に記念碑が建立されました。
01_【「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町7-15
02_【「ヘンリーフォールズ住居の跡碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約9分600m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約7分550m- 旅行時期
- 2024年01月
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約7分550m
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「明治学院発祥の地碑」へのアクセスは、東京メトロ有楽町線「新富町駅」の6番出口を出て、そのまま進行方向に350mほど直進します。途中から側道沿いをあるくと信号(表示名「佃大橋」)がありますので、その横断歩道を渡り右折し、150mほど進むと歩道の左手に「明治学院発祥の地碑」があります。
「明治学院」は、江戸末期の文久2年(1863年)に、米国長老派教会の医療伝道宣教師「ジェームス・カーティス・ヘボン」が「横浜居留地」に私塾(「ヘボン塾」)を開設しました。この「ヘボン塾」は 、明治13年(1880年)に築地に移転し、「東京一致神学校」に人材を送り込む教育機関として「築地大学校」を設立しました。そして、これが母体となって明治20年(1887年)に「明治学院」が発足しました。昭和24年(1949年)に「明治学院大学」が設置され, 現在は 港区白金と横浜市戸塚区にキャンパスがあります。「明治学院発祥の地碑」は、昭和62年(1987年)10月31日に建立されました。
【「明治学院発祥の地碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町7-20
【「明治学院発祥の地碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約8分550m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約7分500m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約7分500m
-
クリスマスシーズンになると、赤や金・銀のクリスマスの飾り付けがされるそうです。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「女子聖学院発祥の地碑」へのアクセスは、東京メトロ有楽町線「新富町駅」の6番出口を出て、そのまま進行方向に350mほど直進します。途中から側道沿いをあるくと信号(表示名「佃大橋」)がありますので、その横断歩道を渡り右折し、100mほど進むと歩道の左手の植え込みの中に「女子聖学院発祥の地碑」があります。
「女子聖学院」は、明治38年(1905年)にアメリカから来日したプロテスタント教会の婦人宣教師「バーサ・F・クローノン」によって、築地外国人居留地14番に設立されたミッションスクールです。当初は神学部で女性宣教師の養成を行いましたが、数年後に普通科を設け一般女子の教育を始め、明治40年(1907年)には現在地の北区中里に移転しました。戦後 昭和22年(1947) の学制変更により中学校・高等学校・小学校となった。現在「学校法人聖学院」は、傘下に「聖学院大学」、「聖学院高校・中学」(男子校)、「女子聖学院高校・中学」(女子校)、小学校、幼稚園がある総合学園に成長しました。この「女子聖学院発祥の地碑」は平成16年(2004年) 10月に設置されましたが、隣接地に新しいビルを建設するため、一時期金属カバーで覆われ見ることができませんでした。平成18年(2006年) 10月になって工事が完了し、ようやく石碑の実物を見ることができるようになりました。
01_【「女子聖学院発祥の地碑」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町6-23
02_【「女子聖学院発祥の地碑」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約9分600m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分450m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
青山学院の源流となっている海岸女学校は明治の女子教育に多大な足跡を残しました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」へのアクセスは、東京メトロ有楽町線「新富町駅」の6番出口を出て、そのまま進行方向に350mほど直進します。途中から側道沿いをあるくと信号(表示名「佃大橋」)がありますので、その横断歩道を渡り右折し50mほど進むと歩道の右手の植え込みの中に「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」があります。
「青山学院」は、多くの源流を持ちますが、いずれも米国メソジスト監督教会の宣教師たちが設立した3つの学校が統合してできたものです。まず、明治7年(1874年)に、麻布新堀町に「ドーラ・E・スクーンメーカー」が「女子小学校」という学校を設立します。「ドーラ・E・スクーンメーカー」はわずか23歳で、アメリカで教師をしていましたが、志願して派遣されました。翌明治8年(1875年)には、芝に移って「救世学校」と校名を改称しました。さらに、明治10年(1877年)に築地居留地明石町10番地に移転し、「海岸女学校」と校名を改称します。それが「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」のある場所です。「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」は、平成20年(2008年)に建立されました。
01_【「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」の一口メモ】
所在地…〒104-0044 東京都中央区明石町6-24
02_【「青山学院記念の地碑(旧海岸女学校跡)」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約10分700m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分400m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅














































































































































