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Lily-junjunさんのトラベラーページ

Lily-junjunさんのクチコミ(16ページ)全318件

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  • 現在、修理中ですが、ライトアップされた興福寺の五重塔が池に写る風景は奈良八景の一つだそうです。

    投稿日 2023年12月11日

    猿沢池 奈良市

    総合評価:3.5

    「さるさわ池」へのアクセスは、近鉄「奈良駅」が便利です。近鉄「奈良駅」の2番出口を出て20mほど進むと、正面に「ローソン近鉄奈良駅前店」、そして右手に「東向商店街」アケードがあります。「東向商店街」アケードを250mほど直進します。すると突き当りになり、右手に「南都銀行」があります。そこを左折して、あの高速餅つきで有名な和菓子屋「中谷堂」の前を通り120mほど進むと道が二又に分かれます。すぐ目の前が「猿沢池」です。
    「猿沢池」は、「興福寺」の「放生池」だったもので、奈良公園にある周囲360メートルの小さな池です。もともと「猿沢池」は、「興福寺」の瓦の材料として粘土が採られた場所が池となったものです。「猿沢池」の外周は、一周を歩けるようになっており南西にはベンチなどが設置されています。現在、修理保存中の「興福寺」の「五重塔」が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、奈良八景のひとつになっています。また、甲羅干しをする亀でも知られています。そして、奈良時代に、帝の寵愛が衰えたことに悲嘆した釆女が身投げをしたとの言い伝えもあり、池畔には祭神を釆女とする「釆女神社」、「悲恋の采女と衣掛柳の伝説碑」、「きぬかけ柳の碑」などがあります。ちなみに「采女」とは、昔、朝廷に仕え主に天皇の食膳の奉仕をした下級の女官のことです。毎年中秋の名月に「采女祭」が行われています。「采女祭」は、平装束をまとった行列が「三条通り」や商店街の通りを巡ったのち、「猿沢池」に管絃船が浮かべられるそうです。また、「きぬかけ柳の碑」は、采女が入水する際にその衣をかけたのがきぬかけ柳の石碑だそうです。その他、「猿沢池」から「興福寺」の「五重塔」へ通じる「五十二段」の階段の下には、采女のはかなさを詠んだ「会津八一歌碑」もあります。歌碑には、「わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり いけをめぐりぬ かささしながら」と刻まれていました。その意味は、「采女が愛を失って入水する前に掛けたと伝えられている衣掛柳を見たいと思って猿沢の池をめぐり歩いた。折からの雨に傘をさしながら。」ということだそうです。「猿沢池」の南東側には、トイレとデッキを越えた先には、コンビニもあります。「西側」の「釆女神社」の隣には「スターバックス奈良猿沢池店」もありました。しかし、私が一番気になったのは、うどん屋の「衣掛茶屋」です。古風というか古民家風の風情ある建物で、「猿沢池」に古の建物が建っているような感じさえしました。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8213 奈良県奈良市元林院町14 問い合わせ先: 0742-22-0375 (奈良公園事務所)

    02_【アクセス】
    ⑴ JR「奈良駅」西口から徒歩18分1200m
    ⑵ 近鉄「奈良駅」から徒歩5分450m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    近鉄「奈良駅」から徒歩5分450mで歩いてすぐです。
    人混みの少なさ:
    3.5
    混雑はしておらず、湖畔でゆっくり過ごすことができました。
    見ごたえ:
    3.5
    奈良八景のひとつで、その他に石碑も湖畔にあり見ごたえはあります。

  • 観光地へアクセスもよく、料理にも舌づつみをうちました。特に、かまどごはんは美味しく、昔の思いでが蘇ってきます。

    投稿日 2023年12月11日

    さるさわ池 よしだや 奈良市

    総合評価:4.0

    奈良での宿泊先は、「猿沢池」東湖畔に佇む、創業が明治元年(1868年)、今年で創業150年を迎える老舗の「さるさわ池よしだや」です。「興福寺」の拝観を終え、「興福寺」の「五十二段」の石段を降りると目の前が「さるさわ池よしだや」でした。
    「さるさわ池よしだや」へのアクセスは、近鉄「奈良駅」が便利です。近鉄「奈良駅」の2番出口を出て20mほど進むと、正面に「ローソン近鉄奈良駅前店」、そして右手に「東向商店街」アケードがあります。「東向商店街」アケードを250mほど直進します。すると突き当りになり、右手に「南都銀行」があります。そこを左折して、あの高速餅つきで有名な和菓子屋「中谷堂」の前を通り120mほど進むと道が二又に分かれます。「猿沢池」沿いの道に入り、150mほど進むと突き当りに4階建ての「さるさわ池よしだや」があります。横断歩道と信号のない道路を渡りますので車に十分注意してください。
    「さるさわ池よしだや」は、和の趣あふれる静かで落ち着いた館内で、平成18年(2006年)3月にリニューアルオープンしました。「さるさわ池よしだや」は、奈良公園にある「東大寺」、「興福寺」、「春日大社」をなどに徒歩20分圏内と観光の拠点としても便利です。もともとは大阪と伊勢を行き来する人たちの宿屋として利用されていたそうです。
    木造りの格子の扉の正面入口を入ると、奈良のマスコットキャラクターである「せんとくん」が出迎えてくれました。フロントは、正面入口を入り右手にあり、コンパクトな造りでした。チェックインはフロントでするのかと思いきや「ロビー・ラウンジ」に案内され、ソファに掛けながらのチェックインです。席に着くと温かい、美味しい柚子茶のウエルカムドリンクが振る舞われ、歩き疲れた体と心を癒してくれ、ホッと一息をつくことができました。チェックインの手続きの後は、客室係が食事処、お風呂や館内についての説明してくれました。それが終わると鍵を受領し、自分たちでエレベーターを使い部屋に行くというシステムです。非常に合理的で、立ってチェックインするより余程楽でした。「客室」は、洋室タイプで綺麗に整理整頓され、清潔に保ってありました。まず、部屋に入って気になったのが、低層のベッドとその横に三畳くらいの畳のレスティングスペースがあるということです。ベッドに横にならなくても畳の上で大の字になれます。マンション暮らしなので、畳の上で寝るということは余りありませんからね。ここでも「さるさわ池よしだや」のこだわりがあるようで、「寝具が変わるとなかなか眠れない」、「眠りが浅くなってしまう」という宿泊客のためにマットレスは、米国高級寝具ブランド「キングスダウン」製のものを使用しているそうです。このマットレスは、通常のマットレスに比べ、寝返り回転数は約5分の1で、水に浮かんだような感覚を与え、体中の血液の循環などを妨げることがないそうです。そして、窮屈なベッドカバーでベッドを包むのではなく、シーツで包んだマットの上に羽毛布団をかけ、旅先でも普段通りの眠りを提供できるデュベスタイルを採用しています。どおりでよく眠れたわけです。
    着いたのが午後4時30分頃で食事の時間が午後7時で時間があるので、お土産探しと付近を散策することにしました。家内が、雑誌で元林院町の鹿猿狐ビルにある「中川政七商店奈良本店」に可愛らしいお土産があるということで行ってみることにしました。その帰りに同じビルにある「猿田彦珈琲奈良鹿猿狐ビルディング店」でお茶をしました。食事の時間ギリギリに宿に戻りました。夕食は、趣ある「寧楽」で用意され、「秋の会席料理」でした。まず、「秋の会席料理」についている食前酒と前菜の七種盛りが出てきました。ほうれん草とエノキのごま和え、柚子風味柿松葉、絞り紫芋きんとん、鮒甘露煮、イチョウ南瓜、サーモン黄味寿司、むかご真丈の盛り合わせで味もさることながら、彩が非常にきれいで食をそそりました。さらに食欲を増すために、奈良の老舗「今西清兵衛商店」の名酒「春鹿」を注文しました。口当たりも香りもいいお酒でした。前菜の次は、鮪、鯛昆布じめ、紋甲イカの盛り合わせのお造りです。新鮮で、魚の臭みもなく、刺身嫌いの私もすんなり食べることができました。お造り次は椀物で「かぼちゃのすり流し」というものが出てきました。裏ごししたかぼちゃが茶碗蒸しのような食感で、プリンのような甘みもありました。椀物の次は蒸物で「蓮根まんじゅうそばの実あんかけ」です。あんこは入っていませんでしたが、出汁が蓮根の旨みを引き出していました。蒸物の次は焼物です。焼物は「秋刀魚の柚香杉板焼」です。焼いた秋刀魚を杉の皮で包みこんだもので、値段が高かったのでたべることができず、今年初めての秋刀魚でした。焼物の次は、揚物の「海老のカダイフ揚げ」です。ちなみに、「カダイフ」は小麦粉で作られた「天使の髪」と呼ばれるとても細い麺です。中東や地中海地域ではデザートとして使われます。これを揚げ物の衣に使うと、サクサクとした食感が楽しめるということです。確かに、サクサクとしていて海老との相性も抜群でした。次は、酢物で「合鴨と林檎のサラダ」でした。合鴨に林檎を添えるとどのような味になるのかとおそるおそる食べましたが、意外や意外、林檎の甘みと酸味で合鴨の肉本来の旨みを引き出していました。次の御飯は「きのこの釜めし」で、固形燃料を使い目の前で調理します。時間が経つにつれ、蓋がゴトゴト音をたて、蒸気を吹き出していました。固形燃料が消えると出来上がりです。アツアツホクホクの釜めしです。海老芋もみじ、三ツ葉の入ったお吸い物と香物で出された奈良漬金山寺味噌と一緒に食べるとまだ一段と美味しく食べられました。最後が「栗のプリンといちじくのコンポート」でした。新鮮な食材を使ってあったので、非常に美味しく頂くこともできましたし、味もあさることながら、何でこんなに沢山出てくるのと言うくらい量もあり申し分ありませんでした。まさに「余は満腹じゃ」の心境です。
    お腹が満腹になったところで「東大寺」の「二月堂」の夜間ライトアップに向かいます。夜になるとさすがに寒くなってきましたが、「二月堂」に着くころには体が温まりました。奈良公園の中を抜けるとそこには、月の光を反射した鹿の目が至る所にあり、無数の星の輝きを見ている感じでした。所々に街路灯が灯りを灯していますが、暗闇の中を歩いているような感じです。また、鹿の鳴き声も暗闇の中では不気味に聞こえました。「二月堂」には、昼間の喧騒が嘘のようにほとんど観光客はいませんでした。行く途中に何組かとすれちがいましたが、私たちを含め2,3組だけでした。ライトアップされた「二月堂」を下から眺めるやはり幻想的な世界が広がっていました。釣灯籠のわずかな光が「二月堂」をくっきり引き立たせています。「二月堂」の急な階段を上り、舞台から見た奈良の町は昼間とは全く違う顔を見せていました。百万ドルの夜景まではいきませんが古の都の輝きを垣間見た気分です。特に、街の光が遠くの山を際立たせていたのが印象的でした。「二月堂」を後にして宿に戻ったときには、午後10時近くなっていました。今日の旅の疲れをとり、明日への鋭気を養うためお風呂に入りに行きます。大浴場を利用できる時間は、15時~23時、翌朝6時30分~9時となっています。お風呂は1階にあります。ロビー・ラウンジを抜け、風情ある中庭のある石畳みの渡り廊下の先にあります。石畳みの渡り廊下の先には暖簾がかかっていて、男性浴場は「あおがき」、女性浴場は「かぎろひ」と描かれていました。お風呂に行く際には、部屋に備え付けのバスタオルとフェイスタオルを持って行きます。お風呂は少々熱めで、庭を眺めながめているとスッカリ今日の旅の疲れがとれました。これで十分な睡眠がとれそうです。大浴場だけでなく、無料で入ることのできる貸切風呂の「塔の湯」もあります。結構混んでいて、利用することはありませんでしたが、貸切風呂の湯船の中から見える景色は空と五重塔だけだそうです。
    翌朝は少し早起きして、一人で早朝の清々しい空気の中、「猿沢池」周辺や「興福寺」境内へのウォーキングに出かけました。途中、「興福寺」の手前の「三条通り」は、日中は交通量が結構ありましたが、早朝は車がほとんど通行していないので、鹿の大群が我が物顔で「三条通り」を占拠していました。かわいらしいので思わずシャッターを切ってしまいました。ホテルに戻ると楽しみにしていた昔ながらのかまどで炊いたおこげが香ばしいホクホクの「かまどごはん」が食べられる朝食です。朝食会場は、夕食と同じ趣ある「寧楽」でした。朝食には、焼魚、ロースハム、ひじきの煮物、温玉、お味噌汁、お漬物の盛り合わせとかまど炊きごはんかほうじ茶粥がチョイスでした。やはり「かまどごはん」は、お米が純白で、ほのかな甘い香りと香ばしいおこげの香りが漂っていました。思わず普段はあまり量を食べない私もお代りしてしまいました。「寧楽」へ来る途中に実際に大きなかまどが3個あり、宿の従業員の方が配膳する姿も目にすることができます。そして、「さるさわ池よしだや」の良いところは、ゆっくり朝食を取った後に、「ロビー・ラウンジ」でコーヒーの無料サービスがあることです。「ロビー・ラウンジ」は、木の温もりが感じられる椅子やテーブルが配置されゆっくりと食後のコーヒーを味わうことができました。また、奈良の書物や中央に大きな液晶テレビがあり奈良の魅力が詰まったDVDも鑑賞することができます。また、趣ある中庭も眺めることができるのでのんびりと過ごすことができます。これで、今日の奈良の旅も充実したものになるはずです。それでは、「さるさわ池よしだや」を後に、本日の最初の目的である「唐招提寺」を目指します。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8301 奈良県奈良市高畑町246  電話…0742-23-2225
    ⑵ 営業時間…10:00~21:00(最終チェックイン:21:00)
    ⑶ 部屋設備・アメニティーグッズ
    ボディソープ、シャンプー、リンス、シャワーキャップ、ハミガキセット、コットン、カミソリ、
    ヘアブラシ、ドライヤー、バスタオル、ハンドタオル、フェイスタオル、スリッパ、日本茶セット、
    コーヒーセット、テレビ(無料)、衛星放送、冷暖房、冷蔵庫(中身空)、電気ポット、電気スタンド、
    金庫、洗面台、洗浄便座付トイレ、洋式トイレ、ハンガー
    02_【アクセス】
    ⑴ JR「奈良駅」西口から徒歩20分1300m
    ⑵ 近鉄「奈良駅」2番出口から徒歩8分600m

    旅行時期
    2023年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    1人1泊予算
    30,000円未満
    アクセス:
    4.0
    近鉄「奈良駅」2番出口から徒歩8分600mの距離のところにあります。奈良公園の観光スポットへはベストな立地条件です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    料理、部屋、雰囲気、接客は、どれをとっても満足のいくものでした。その点を考慮するとコストパーフォーマンスは抜群です。
    客室:
    4.0
    清潔で、綺麗に保たれていました。ローベッドを備えた和風モダンなデザインの洋室には、畳の敷いてあるスペースもあり、ゆっくりくつろげました。
    接客対応:
    4.0
    フロント、食堂など従業員の教育がしっかりできているように思われました。要点をつかんだホテル全体の説明も非常に丁寧でした。
    風呂:
    3.5
    部屋にはお風呂はついていませんでした。浴場は少し狭いと感じましたが、少し熱めの湯でゆっくり疲れをとることができました。貸切風呂です。
    食事・ドリンク:
    4.5
    地産地消の食材、奈良の名酒も取り揃えてあり、料理にも工夫がされて美味しく頂けました。かまど炊きごはんは本当に美味しかった。

  • 元興寺は1300年の歴史がある由緒ある寺院で、国宝や重要文化寺など多数の寺宝があります。

    投稿日 2023年12月09日

    元興寺 奈良市

    総合評価:4.0

    最初に、「元興寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「元興寺」は「蘇我馬子」が建立したといわれる日本最古の寺院で、甥にあたる「崇峻天皇」が即位した際に創建された日本最初の本格的伽藍である「法興寺」(飛鳥寺)がその前身です。この「法興寺」が平城京の遷都に伴い養老2年(718年)に現在の地に移され、「元興寺」と改められました。奈良時代の「元興寺」は、「東大寺」、「興福寺」と並んで隆盛を誇り、「南都七大寺」の一つとして現在「ならまち」と呼ばれる界隈の大半を含む広大な寺院でした。しかし、平安時代以降は衰退・縮小が進み、現在は、僧坊遺構の国宝である「極楽堂」と「禅室」を残すのみとなっています。「極楽堂」と「禅室」には建立以前の柱や瓦が今もなお一部に使われています。「禅室」は天平時代の僧坊の形をとどめる貴重な遺構です。「法輪館」には「五重小塔」(国宝)や「聖徳太子立像」(重要文化財)等を安置しています。また、石塔、石佛群である「浮図田」は、昭和63年(1988年)に整備され、「興福寺大乗院門跡墓所」に関連して祀られた、中世から江戸時代にかかる供養石造物1500基が保存されています。毎年 8月23日、24日には「地蔵会万灯供養」として灯明皿による総供養がなされます。

    「元興寺」への入口は、「ならまちとおり」沿いにあります。白い塀と大きな「元興寺」の看板が目印です。入口を入るとすぐ右手に「世界遺産の碑」が、正面には「東門」、その左手に「拝観受付」がありますので、ここで拝観料を支払います。

    《「元興寺」のお薦め拝観順路》
    ①「東門」⇒②「元興寺極楽堂(本堂)」⇒③「元興寺禅室」⇒④「旧講堂礎石」⇒⑤「法輪館」⇒
    ⑥「「浮図田」」⇒⑦「獅子国型仏足石」⇒⑧「泰楽軒」⇒⑨「小子坊」⇒⑩「影向桜」⇒⑪「かえる石」⇒
    ⑫「万葉歌碑」

    《東門》
    「元興寺」の参拝は、山門である「東門」から入ります。重要文化財に指定されている「東門」は、「元興寺極楽坊」の正門として、鎌倉時代に建立された「東大寺西南院四脚門」を移設したものです。「東門」の建築様式は、伝統的な「四脚門」と呼ばれる6本の柱から成り立ち、切妻造の本瓦葺が使われています。
    《元興寺極楽堂(本堂)》
    「東門」の正面には、国宝である「元興寺極楽堂」(極楽坊本堂・曼荼羅堂)があります。「元興寺極楽堂」は、奈良時代までは僧侶の住居である「僧房」でした。鎌倉時代に入ると、「僧坊」の3房(室)分を4方向に屋根を持つ寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造が行われました。また、一般的な寺院と違うのは、約1,400年前の飛鳥時代から現在まで引き継がれている極楽浄土を描いた「智光曼荼羅」が御本尊がとなっていることです。「元興寺極楽堂」は、南都における浄土教発祥の聖地として、昔から有名な堂宇です。
    《元興寺禅室》
    次は、「元興寺極楽堂」の裏手、西側に位置する細長い建物が国宝の「元興寺禅室」(極楽坊禅室・春日影向堂)です。「元興寺禅室」は、「僧坊」の4房(室)分を寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造したものです。「元興寺禅室」は、中世には、経典を納めていた「影向間」だったので「春日影向堂」とも呼ばれていました。近世には、「客殿」、近代には「学校舎」にも使われてきました。南西1間は「影向間」・「須弥壇」・「宮殿厨子」、北西1間は中世「僧房」として使われています。「元興寺本堂」と同様に屋根の一部に飛鳥時代の瓦が使用されています。ちなみに、「極楽堂」の西南隅、「禅室」の南東隅の屋根瓦は、一般の本瓦と違い古代の軒平瓦である「古式瓦」が残っています。文字通り、日本最古の屋根瓦が今もなお使われているが使われている訳です。「浮図田」の一番奥の付近から見るとよく分かるので、そこでその瓦の色にも注目してください。

    《旧講堂礎石》
    次は、「法輪館」の入口手前にある3基の礎石「旧講堂礎石」です。この「礎石」は、平成10年(1998年)に奈良市教育委員会が中新屋町で発掘調査を行った際に発見したものだそうです。「礎石」は、柱を据えて建物を支持するための石材で、「講堂」に使用されていたものと考えられています。いずれの「礎石」も上面に直径80 cm~90cmほどの「柱座」と呼ぶ造り出し(突出部)を持ちます。「柱座」は、柱を据える都合上、当然柱径より大きくなります。それから考えると、礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、目をつぶりその光景を想像してみると「講堂」がいかに立派なものであったかを分かりますね。

    《法輪館》(第一収蔵庫・第二収蔵庫)
    次は、「旧講堂礎石」のすぐ先の左手にある「法輪館」です。「法輪館」は、「第一収蔵庫」と「第二収蔵庫」からなります。「法輪館」の主な展示は「第一収蔵庫」に、国宝の「五重小塔」、重要文化財の「木造阿弥陀如来坐像」、重要文化財の「木造聖徳太子立像」(十六才孝養像)、重要文化財である「木造弘法大師坐像」、極楽浄土を描いた重要文化財の「智光曼荼羅」(板絵)、奈良県指定文化財の「木造南無佛太子像」(聖徳太子二才像)などがあります。「第二収蔵庫」には、鎌倉・室町時代の重要有形民俗文化財に指定されている「元興寺庶民信仰資料」が収蔵されています。この中でも特に印象に残ったのは、国宝の「五重小塔」です。「五重小塔」は、「光明皇后」の発願により建立された「元興寺西小塔堂」に安置されていました。残念ながら中に入れるサイズではありませんが、手作業によって繊細かつ忠実に表現された彫刻や色彩が美しく、内部まで実際の建築物のように造られていました。そして、現存する奈良時代盛期の五重塔としては唯一のものとして有名です。「極楽堂」の床を落として収蔵していたといわれています。それと重要文化財の「木造聖徳太子立像」(十六才孝養像) は、「聖徳太子」が16歳の時に、父「用明天皇」の病気平癒を祈る姿も献身的な感じがあり印象に残りました。

    《「浮図田」と「獅子国型仏足石」》
    「法輪館」を出ると正面に「浮図田」と「獅子国型仏足石」があります。
    「浮図田」は、境内の南側に並べてある石塔、石佛群のことで、その壮観なさまは否が応でも目に入ってきます。
    「浮図田」は、昭和63年(1988年)に整備され、「興福寺大乗院門跡墓所」に関連して祀られた中世から江戸時代にかかる供養石造物1500基が保存されています。そして、もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」です。実際に私もこのようにたくさん並べられた「五輪塔」を見るのは初めてでした。「五輪塔」は密教の教義をもとに造りだされた塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、「大日如来」と「阿弥陀如来」を塔の形で表したものだそうです。毎年 8月23日、24日には「地蔵会万灯供養」として灯明皿による総供養がなされます。ちなみに「浮図」とは仏陀のことであり、「浮図田」とは、文字通り仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味です。
    「浮図田」の正面には、75㎝四方、厚さが15cmの「庵治石」に刻まれた「佛足石」が据えられています。「庵治石」は、香川県高松市東部の庵治町・牟礼町でのみ産出される高級石材です。「佛足石」は、古代インド仏教圏で仏像がない時代の仏陀そのものを象徴するものでした。「佛足石」、生きた釈迦の両足尊として信仰されたそうです。本来、信者は足跡を両手で仰ぎ、頭を付け礼拝したといいます。手を触れるだけでも有難い功徳があると信じられてきたそうです。その他、「浮図田」の付近には、「家形石棺型手水鉢」、「極楽坊保育園発祥の碑」、「影向桜」などもありました。

    《「泰楽軒」と「小子坊」》
    次に、「家形石棺型手水鉢」の手前を左に曲がると茶室の「泰楽軒」があります。「泰楽軒」四畳半の「茶室」と三畳の「水屋」からなっています。「泰楽軒」は、指物師の「川崎幽玄」によって平成6年(1994年)に建築されたものです。ちなみに、「指物師」とは釘などを使わずに木や板の組み合わせで建物を造る職人のことです。庭には梅・菊・蘭・竹が植えられ、茶道の世界で愛好されている「鞍馬石」など複数の石が配置されているため、見応えがあります。通常は非公開となっており見学には予約が必要になります。残念ながら予約していなかったので見ることができませんでした。
    その先の右手奥には、県指定文化財の「小子坊」(極楽院旧庫裡)もあります。「小子房」は、もと「禅室」の北側にあった、東室南階「小子房」の一部を改築して、「北厨房」あるいは台所と呼ばれていました。寛永3年(1663年)に「極楽院庫裏」として改築されましたが、昭和24年(1949年)に「本堂」の南側に移転増築して「極楽院保育所」建物とし、さらに昭和35年(1960年)に現位置に移動して復旧されました。ともすると見逃してしまいそうな場所にありますので注意してください。私もたまたまトイレを借りるために、行ったところにこの二つの建築物を発見しました。

    《元興寺影向桜》
    「浮図田」から「禅室」の方に向かうと、「元興寺」の隠れた桜の名所である「影向桜」があります。残念ながら今の時期には見ることができませんが、「影向桜」の品種は、「染井吉野」です。「影向桜」は例年4月上旬頃に見ごろを迎え、「影向桜」と「禅室」と「浮図田」などの光景が一層美しく見えるといわれています。また、「元興寺」には「八重桜」も植えられ、例年4月中旬頃に見ごろを迎えます。なお元興寺には「源平しだれ桃」も植えられ、桜と梅の共演を見ることもできるそうです。ちなみに、「染井吉野」は、2月1日以降の日々の最高気温の合計が600度を超えると開花し、800度を超えると満開になるそうです。

    《かえる石》
    「禅室」の裏手を回り「北門」を過ぎたあたりに「かえる石」と「丘本風彦句碑」が並んであります。この「元興寺」の境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で「かえる石」と呼ばれています。この「かえる石」は、もと河内の川縁にあった殺生石を、「豊臣秀吉」が気に入り、大坂城内に移したものだといわれています。また、大阪城落城の際に、亡くなった淀君の遺骸をこの蛙石の下に埋めたとされ、そのために淀君の怨念がこの石に籠もったともいわれています。そして、昭和33年(1958年)に「元興寺」に安置され、「福かえる」や「無事かえる」の語呂合わせで、「元興寺」の縁起物となったそうです。

    《万葉歌碑》
    「かえる石」をさらに進むと突き当りに塀があります。そこに「杉本健吉」の書による「万葉歌碑」があります。白いペンキで見やすいようになっている「万葉歌碑」には、「白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾れし知れらば知らずともよ志」と刻まれています。この歌は天平10年(738年)に詠まれたものです。この歌の訳は、「白玉はその真価を人に知られない。しかし、知らなくてもよい。人知らずとも、自分さえ価値を知っていたら、知らなくてもよい。」ということだそうです。

    急ぎ足になりましたが、これで世界文化遺産に指定されている「東大寺」、「春日大社」、「唐招提寺」、「薬師寺」、「興福寺」そして「元興寺」の参拝を無事に全て済ませました。この6寺を巡って感じたのは、やはり、京都のお寺と比べ、寺社数はそんなにありませんが、その規模の大きさと一つ一つのお寺が所有する文化財の数の多さには驚かされました。とても一泊二日では、自分自身が納得のゆくまで見学することはできませんでした。中学生以来の奈良旅行で、その良さを改めて発見しました。これから帰途につきますが、京都駅までの途中に「平等院鳳凰堂」があるので、ちょっと立ち寄ってみたいと思います。



    01_【「元興寺」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8392 奈良市中院町11 電話:0742-23-1377
    ⑵ 拝観時間…9:00~17:00(入館締切16:30)
    ⑶ 拝観料…大人・大学生500円、高校生・中学生300円、小学生100円
    ※ 秋季特別展期間は大人・大学生の拝観料が変更になります。大人・大学生600円

    02_【「元興寺」へのアクセス】
    ⑴ 電車を利用して
    ① JR「奈良駅」西口から徒歩約20分1400m
     ② 近鉄「奈良駅」2番出口から徒歩約13分950m
    ⑵ バスを利用して
    ① JR「奈良駅」から
     [JR奈良駅)] ⇒[奈良県総合医療センター行]≪奈良交通:50・65他系統≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)
    ・「JR奈良駅」から5停留所目(「奈良ホテル」の次の停留所) 所要時間約8分
    ・9時から15時の間に1時間平均2~3便
    ・「福智院町」停留所で下車して「元興寺」入口まで徒歩5分400m
    ② 近鉄「奈良駅」から
     [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫
    ・バス乗り場:「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
    ・10停留所目(「紀寺町」の次の停留所) 所要時間約15分 
    ・9時から17時の間に1時間平均4便
    ・「田中町」停留所で下車し「元興寺」入口まで徒歩7分500m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    近鉄「奈良駅」2番出口から徒歩約13分950mですが、途中ならまちの素敵なお店が一杯あります。是非、歩いてみてください。
    人混みの少なさ:
    3.0
    他の世界遺産のお寺に比べると空いていました。拝観した時間が少し遅かったせいもあるかもしれません。
    見ごたえ:
    4.5
    お寺自体は小さいものでした、寺宝である仏像などは沢山ありました。

  • 白鳳伽藍の神髄がここ薬師寺に集約されています。まさに荘厳なる建築物が建ち並んでいます。

    投稿日 2023年12月09日

    薬師寺 奈良市

    総合評価:4.5

    「唐招提寺」からあるいても10分もかからない「薬師寺」の拝観です。一方通行の道を直進すると「薬師寺」の「與樂門」があり、その先左手に「北拝観受付」がありますので、そこでチケットを買い求め境内に入ります。今回は、時間の都合上、「金堂」、「大講堂」、「東院堂」、「東塔」、「西塔」の地域を拝観しました。
    では、最初に「薬師寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「薬師寺」は、今からおよそ1300年前の白鳳時代の天武天皇9年(680年)に、「天武天皇」が後の「持統天皇」である皇后の「鵜野讃良皇女」の病気平癒を祈って発願されました。しかし、「天武天皇」は「薬師寺」の完成を待たずに崩御され、「持統天皇」が即位してから藤原京に造営しました。その後「平城遷都」に伴い、養老2年(718年)に平城京右京六條二坊の現在地に移されました。当時の「薬師寺」は、天平時代までは天下の「四大寺」の一つとされ、中央に「本尊」、「薬師三尊像」をまつる「金堂」、東西に2基の塔を配する日本初の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれていました。その大きな特徴は、「金堂」、「東西両塔」、「大講堂」など主要なお堂は裳階がつけられ、 その壮麗な姿は「龍宮造り」と呼ばれていました。しかしその華麗な堂塔は数次の火災にあって次々と焼失し、特に、享禄元年(1528年)の兵火は激しく、「金堂」、「西塔」、「大講堂」などが焼失しました。そのなかで唯一創建当時から現存する建造物は「東塔」(国宝)のみとなりました。その後、昭和43年(1968年)に、管主だった「高田好胤和上」の長年の「お写経勧進」により、昭和51年(1976年)に「金堂」が、昭和56年(1981年)には「西塔」が、その後「中門」、「回廊」、「玄奘三蔵院伽藍」などが復原造営され、平成15年(2003年)には「大講堂」が完成しました。平成29年(2017年)には「食堂」(じきどう)も再建され、創建当時の壮麗な白鳳伽藍が鮮やかに復興されました。ちなみに、「お写経勧進」とは、一巻千円(当時)のご納経料をいただき、百万巻のお写経を勧進して「金堂」の復興を目指したものです。

    《「薬師寺」お薦め拝観順路》
    ①「不動堂」⇒②「東僧坊」⇒③「食堂」⇒④「大講堂」⇒⑤「金堂」⇒⑥「東塔」⇒⑦「西塔」⇒
    ⑧「中門」⇒⑨「薬師寺末社:平木大明神社」⇒⑩「薬師寺末社:弁財天社」⇒⑪「薬師寺末社:若宮社」⇒
    ⑫「薬師寺末社:龍王社」⇒⑬「東院堂」

    《不動堂》
    「北拝観受付」入ると正面に「食堂」、右手奥に「不動堂」があります。「薬師寺」の「不動堂」は白鳳伽藍北西端に建立されています。「不動堂」には本尊である「不動明王」(平安時代作)、「修験道」の祖とされる「役行者」、「神変大菩薩」、山嶽仏教である修験道の本尊である「蔵王権現」などを祀っています。「不動堂」では毎月8日・18日・28日に「南都修験道薬師寺修験咒師本部」の僧侶が護摩祈願、先祖供養を行っています。3月25日の花会式、10月8日の天武忌では柴燈大護摩、火渉三昧も行われます。また、「不動堂」前には新旧の「石造不動明王像」も建立されていました。

    《東僧坊》
    次が、「東僧坊」です。「東僧坊」は、「大講堂」の北東に位置しています。新しい建物で、現在は参拝者の休憩所となっています。「薬師寺」のお土産もここで販売しています。「東僧坊」で有名なのは、国宝「薬師三尊像」の「薬師如来」が座っておられる「台座」の文様のレプリカが見られることです。台座には、異国風の人物像、青龍、白虎、朱雀、玄武などの四神が描かれていました。また、ここには、肉眼では見難い東塔の最上部に付けられた飛天の透かし彫のある水煙の模型もありました。見逃しがちですので是非立ち寄ってください。

    《食堂》
    「東僧坊」の出口を出ると目の前に白鳳伽藍がその全貌を現します。「東僧坊」を出て右手に進むと「食堂」があります。「食堂」は、天平2年(730年)頃に建てられ、文字通り僧侶が定められた時間に食事をとるための建物です。創建当初の「食堂」の規模は「東大寺」、「大安寺」に次ぐ大きさで約300人が一堂に会する規模だったそうです。しかし、その後、天禄4年(973年)に焼失し、寛弘2年(1005年)に再建されるものの再び失われました。そして、平成29年(2017年)に三度目の再建がなされました。完成した「食堂」は、高さ約14m、東西約41m、南北約16mの規模があります。「食堂」内には、故「平山郁夫」画伯の弟子である「田渕俊夫」画伯が描いた高さ、幅6mの御本尊「阿弥陀三尊浄土図」を中心に、周囲を取り巻くように全長50mにわたる美しい14面の壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が内壁全体に描かれています。「仏教伝来の道と薬師寺」は、中国からの仏教伝来が表現され、遣唐使船や藤原京、平城京などが描かれている。

    《大講堂》
    「食堂」の前方には、「薬師寺」最大の建物である「大講堂」があります。奈良時代の寺院では修学道場である「講堂」が建てられ、僧侶は集まって仏教の教義について学びました。「薬師寺」では、その大きさから「大講堂」と呼ばれています。「大講堂」は正面が41m、奥行が20m、高さが約17mあり伽藍最大の建造物です。「大講堂」が「金堂」より大きいのは古代伽藍の通則だということです。「大講堂」は享禄元年(1528年)の兵火によって焼失し、御本尊の「阿弥陀三尊繍仏」も失われてしまいました。 焼失した「大講堂」は、嘉永5年(1852年)に復興しましたが、もとの「大講堂」に比べると小さなお堂でした。平成15年(2003年)に創建当初の規模で「大講堂」は再建されました。現在は、重要文化財である「弥勒三尊像」が御本尊として祀られています。「弥勒三尊像」は、中央に「弥勒如来」、向かって右に「法苑林菩薩」、左に「大妙相菩薩」を従える三尊形式となっています。そして、「大講堂」は、薬師寺の宗派である法相宗の教え「唯識」を学ぶ場所です。そのことから「唯識」の教主である「弥勒如来」が「大講堂」の御本尊です。また、天平勝宝5年(753年)に刻まれたことがわかる日本最古の国宝「仏足石」とその徳と生死を歌った21首(1首は38文字)の国宝「仏足跡歌碑」もあります。ちなみに、「仏足石」は、「お釈迦様」の足跡を彫った石です。現在、寺院では仏像を祀ることは当たり前ですが、「お釈迦様」の滅後から紀元100年頃までは「お釈迦様」の仏像が作られることはありませんでした。仏像のかわりに、菩提樹や法輪、など「お釈迦様」にまつわるモチーフを描いて「お釈迦様」を表現しました。特によく描かれたのが「お釈迦様」の足跡を描いた「仏足跡」です。また、「仏足跡歌碑」は、奈良時代に彫られた歌碑で、「仏足跡」への賛歌や仏教道歌が21首刻まれています。「仏足跡歌」は「五七五七七七」の一首38文字の仏足跡歌体で詠まれています。その他、「大講堂」には、文化勲章受章者の「中村晋也」の作の「阿僧伽菩薩像」、「伐蘇畔度菩薩像」、「釈迦十大弟子」なども安置されています。

    《金堂》
    「大講堂」を出ると目の前に「金堂」があります。「金堂」は、「薬師寺」の「白鳳伽藍」の中心部に東西の塔や大講堂などに囲まれる形でそびえ立つ大規模な仏堂です。大きさこそ「大講堂」には及びませんが、正面の長さが約27m、奥行が約16m、高さは約20mというスケールで「金堂」という名にふさわしい佇まいになっています。「金堂」が建立された歴史は古く、奈良時代に「薬師寺」が創建された時代からあったものだといわれています。その建築様式は、二重二閣、五面四間、瓦葺、そして美しい「裳階」を設け、美麗なその美しい佇まいは「竜宮造り」と呼ばれていました。「金堂」は、室町時代に大風で破損し修理を重ねましたが、享禄元年(1528年)の兵火により焼失してしまいました。 その後、郡山城主「増田長盛」により「仮金堂」が建てられたものの、当初の二層の「金堂」を復興することはできませんでした。昭和43年(1968年)から始まった「百万巻お写経勧進による薬師寺金堂復興」により、「仮金堂」は解体され、昭和51年(1976年)に現在の「金堂」が再建されました。堂内には白鳳期の様式をもつ御本尊の国宝「薬師三尊像」が安置されています。中心の「薬師如来坐像」は、像高が2.5mほどあり、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国の文様を刻んだ国宝の「薬師如来台座」のうえに、威厳に満ちた表情、堂々とした姿で座しています。そして、首や腰をひねって異なる表現を生み出す「三曲法」と言われる姿勢を取る左脇侍(向かって右側)には、像高2.5mほどの「日光菩薩立像」が、そして、右脇侍(向かって左側)には、像高3ほどmの「月光菩薩立像」が安置されています。「薬師如来坐像」が、男性的で重厚感があるのに比べ、「日光菩薩立像」と「月光菩薩立像」は、艶やかさを感じます。そして、上層には、お写経が納められた「納経蔵」があります。その他、国宝である天平時代の「吉祥天女画像」もあります。「吉祥天女」は、仏教を守護し、五穀や財宝などを与えて私たちに幸福をもたらす美しい女神です。「薬師寺」に伝わる「吉祥天女画像」は、「薬師寺」の「修正会」の御本尊として描かれた最古の画像で、また麻布に彩色を施した独立の画像としても日本最古のお姿です。現在は、お正月三ヶ日のみの参拝となっています。

    《東塔》
    「金堂」の次は、右手にそびえ立つ「東塔」です。その前に「東塔」と「西塔」を「金堂」の正面から見た時、若干の違和感を覚えました。何となく高さが違うように見えるのです。新しい「西塔」の方が少し高く感じました。それもそのはず、「西塔」の方が140cmも高く造られているそうです。それは何故かというと、新しい「西塔」は、これから木が縮み、風に吹かれて少しずつ低くなり、200年ぐらいたてば、「東塔」と同じ高さになると計算されて建てられたからなのだそうです。「東塔」に戻りますが、「東塔は」、天平2年(730年)の奈良時代前期に建てられたといわれています。「薬師寺」の1300年の歴史のなかで唯一現存する奈良時代そして平城京最古の建造物です。「東塔」には屋根が6つあり一見すると六重に見えますが「三重塔」で、各階に「裳階」をつけ、大小の屋根のリズム感をつくっています。1、3、5番目の小さな屋根は「裳階」と呼ばれる飾り屋根で、各層に「裳階」がつけられた塔は「薬師寺」だけで、屋根の大小がおりなすバランスはとても美しく、「凍れる音楽」と称されているそうです。また天に伸びる約10メートルの相輪部は、全体の高さの3分の1の大きさがあり、その先の水煙部には、24体の飛天が透かしぼりされています。先ほども説明しましたが、この水煙部の模型が「東僧坊」に展示されています。「東塔」はこれまでに何度も部分的な修理が行われてきましたが、平成21年(2009年)より史上初の全面解体修理に着手し、令和3年(2021年)2月15日に完成しました。「東塔」の内陣には、文化勲章受章者の「中村晋也」作による「釈迦八相像」のうち「因相の四相」が祀られています。ちなみに、「釈迦八相」とは、「お釈迦様」のご生涯の中でとても重要な八つの場面をいいます。「東塔」には、「お釈迦様」が釈迦国の王子として生まれながらも、出家し悟りに至る前半生が表現されています。

    《西塔》
    「東塔」の次は、対をなす反対側にある「西塔」です。「西塔」は、室町時代後期の享禄の兵火(1528年)により焼失し、宮大工「西岡常一」棟梁の指導により、昭和56年(1981年)に再建されたものです。「東塔」が落ち着いたたたずまいに対して、「西塔」は、創建当初とおなじく鮮やかな青丹の色と金色の飾り金具に彩られ、眩いばかりです。また、「東塔」は「裳階」の部分が白壁なのに、「西塔」には連子格子を取付けた「連子窓」が設けられています。そして、「西塔」の内陣には、「中村晋也」作による釈迦八相像のうち残りの果相の四相が安置されています。そして、「西塔」の前面にある芝生の庭には、「佐佐木信綱歌碑」と「会津八一歌碑」もありました。「佐佐木信綱歌碑」には、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」と刻まれていました。「佐佐木信綱歌碑」は、昭和30年(1955年)に建立されたものです。「佐佐木信綱」は、国文学者で明治5年(1872年) 6月3日に三重県鈴鹿市石薬師町で生まれた。明治17年(1884年)に「東京大学文学部古典科」に12歳で入学し、明治21年(1888年)16歳で卒業したそうです。今では考えられないことですね。「会津八一歌碑」には、「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな」と刻まれています。

    《中門》
    「西塔」を出て右方向に進むと、「西回廊」と「東回廊」のある「中門」があります。「薬師寺」の「中門」は、「薬師寺白鳳伽藍」の南端に設けられた門で、「薬師寺」の境内では最大級の門です。現在の「中門」は、昭和59年(1984年) 10月に再建されたもので、門の両側に「回廊」が延びています。平成3年(1991年)には「二天王像」も復元されました。「二天王像」は、享禄元年(1528年)の兵火により「中門」とともに焼失し、その後400年の間造立されませんでしたが、平成3年(1991年)に復元復興された像です。昭和59年(1984年)に「中門」が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の「仁王像」ではなく武装した「二天王像」ということが判明したそうです。「薬師寺」の「二天王像」も、怒りの表情を顕わにした開口の「阿形像」と、怒りを内に秘めた表情の口を結んだ「吽形像」です。「二天王像」の足元に注目してください。ここで見逃してはならないのが、「二天王像」に踏みつけられている邪鬼がいます。そして、「中門」の建築様式は、「東大寺転害門」などでも見られる三角形の棟が三つ設けられた「三棟造」と呼ばれるものとなっており、重厚感を感じさせるものにもなっています。

    《薬師寺末社》
    「中門」をくぐると正面に「南門」そして、右手に「南門拝観受付」と「薬師寺」の末社である「平木大明神社」、「弁財天社」、「若宮社」の三社があります。また、反対側に位置する「東院堂」の前には「龍王社」があります。「若宮社」と「龍王社」は、「大津皇子」の鎮魂の為に建立されたといわれています。「若宮社」は「大津皇子」を御祭神として祀り、「龍王社」は室町時代に造られたとされる「大津皇子坐像」を安置しています。

    《東院堂》
    再び「中門」をくぐり、右手にある「東塔」方向に進むと突き当りに「東院堂」があります。「東院堂」は、「長屋王」の正妃である「吉備内親王」が母の「元明天皇」の冥福のために、養老年間(717年~724年)に建立しました。現在の建物は弘安8年(1285年)に正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、内部は畳敷きで、南向きで再建されましたが、享保18年(1733年)に西向きに変えられました。仏教が日本に伝来した当時は、門は南にあり、建物も南向きでしたが、平安時代以降の阿弥陀仏信仰により、西向きに建てられることが多くなったそうです。御本尊は、白鳳時代に制作された国宝の「聖観世音菩薩像」です。「聖観世音菩薩像」は、右手を静かに下げ、左手は柔らかく挙げ、胸を張り、足を揃えて立つ姿で、どことなく気品にあふれています。その他、鎌倉時代に制作された重要文化財である「四天王立像」などがあります。ちなみに、「四天王」とは、古代インドの神が仏教に守護神として取り入れられたものです。東に「持国天」、南に「増長天」、西に「広目天」、北に「多聞天」が配されます。
    次は、近鉄橿原線「西ノ京駅」から「大和西大寺」へ行き、近鉄奈良線に乗り換え「近鉄奈良駅」で下車して、今回の旅行の最後の古都奈良の世界遺産である「元興寺」へ向かいます。途中の奈良町にある「豆腐庵こんどう」で昼食を食べる予定です。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8563 奈良市西ノ京町457 電話:0742-33-6001
    ⑵ 休業日…なし
    ⑶ 拝観料
    ① 拝観可能場所…金堂、大講堂、東院堂 大人800円・中高生500円・小学生・200円
    ② 拝観可能場所…金堂、大講堂、東院堂、玄奘三蔵院伽藍、西塔初層東面開扉
    ※ お正月(1/1~1/8)、春期(3/1~6/30)、GW(4/29~5/8)、お盆(8/13~8/15)、秋期(9/16~11/30)の期間
    大人1,100円・中高生700円・小学生300円
    ③ 共通拝観券
    ア 拝観可能場所…金堂、大講堂、東院堂、玄奘三蔵院伽藍、西塔初層東面開扉(春・秋のみ)、東塔初層開扉(GW期間のみ)、食堂、西僧坊
    イ 対象期間:お正月(1/1~1/8)、春期(3/1~6/30)、GW(4/29~5/8)、お盆(8/13~8/15)、秋期(9/16~11/30)
    ウ 料金…大人1,600円・中高生1,200円・小学生300円(※大人同伴)

    02_【「薬師寺」へのアクセス】
    ⑴ 電車を利用して
    近鉄橿原線「西ノ京駅」から徒歩2分160m
    ⑵ バスを利用して
    ① [JR奈良駅)] ⇒[奈良県総合医療センター行]≪奈良交通:63・64・65・72・77・78系統≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(6番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(8番のりば:駅前交番前)
    ・ア 「JR奈良駅」から11停留所目(「唐招提寺」の次の停留所) 所要時間約18分
    ・イ 「近鉄奈良駅」から13停留所目(「唐招提寺」の次の停留所) 所要時間約26分
    ・9時から15時の間に1時間平均2~3便:[JR奈良駅)]毎時 28分、58分発
                       :[近鉄奈良駅)]毎時 23分、53分発
    ・「薬師寺」停留所下車し徒歩2分150m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    近鉄橿原線「西ノ京駅」から徒歩2分160mで北拝観受付に着きます。また、唐招提寺からゆっくり歩いても10分くらいです。
    人混みの少なさ:
    3.0
    お寺自体が広いので人ごみはあまり気になりません。
    見ごたえ:
    4.5

  • 東京の大都会の真ん中で、自然を一日中満喫できるお薦めの場所です。~三つの庭園がそれぞれ違った顔を見せてくれます。~

    投稿日 2023年12月06日

    新宿御苑 新宿

    総合評価:4.0

    「新宿御苑」へ入園するには、「新宿門」、「大木戸門」そして「千駄ヶ谷門」の三箇所から入園できます。今回は、東京メトロ丸の内線を利用して「新宿御苑」の「新宿門」から入園することにしました。「新宿御苑」の「新宿門」へのアクセスは、東京メトロ丸の内線「新宿御苑前駅」の1番出口を出て、右方向に進むと「新宿御苑」が視界に入ってきます。突き当りに信号(表示名「新宿一丁目南」)がありますので、横断歩道を渡り右折し240mほど直進すると左手に「新宿門」があります。石柱のゲートを潜ると正面に入園チケットの自動販売機があるので、そこでチケットを購入して入園します。もちろん有人のチケット販売所もあります。また、さらに便利なことに、交通系ICカードなどタッチするだけでの入場も可能です。「新宿御苑」は、昼食などのために一度門の外に出ても、また園内に再入園できます。この場合、交通系ICカードで入場した場合は、窓口に申し出ると再入園用の紙のチケットを発券してもらえるので安心してください。
    もし、時間が許すのならば、「旧門衛所」である「旧新宿門衛所」と「旧大木戸門衛所」は事前に見ておくのがお薦めです。「旧新宿門衛所」は「新宿門」への途中なので、見ることができますが、「旧大木戸門衛所」は、一度園内に入ると、いったん「大木戸門衛所」から外へ出なくてはなりません。園内に再入園できるので問題はありませんが、こちらの方が効率的です。
    最初に「新宿御苑」の概要と歴史について紐解いてみると、「新宿御苑」は、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保と583,000㎡にも及ぶ広大な面積があり、東京ドーム約12個分の広さを誇る広大な庭園です。「新宿御苑」は、ヨーロッパ式の「整形式庭園」と「風景式庭園」、「日本庭園」を巧みに組み合わせた風景庭園が特徴的です。その歴史を紐解いてみると、江戸時代に徳川家康の家臣である高遠藩主の「内藤清成」が賜った大名屋敷が原形になっています。そして、明治維新後に政府は、国営の農事試験場であり、日本の近代農業振興を目的とした「内藤新宿試験場」を設立しました。「内藤新宿試験場」では、果樹や野菜の栽培、牧畜・養蚕の研究など幅広い業務が行われ、海外のものも含め、3,000種の植物を栽培されていたそうです。その後、宮内省の御料地を経て、明治39年(1906年)に「皇室庭園」として誕生し、名称も「新宿植物御苑」に変更されました。そして、日露戦争の祝賀会も兼ねた完成時の開苑式には明治天皇も臨席し、正式に「新宿御苑」と命名されました。昭和25年(1949年)からは一般にも開放されるようになりました。「新宿御苑」を見て回るには、およそ1~2時間をみておかなければなりません。

    《「新宿御苑」のお薦めの見学巡路》
    ※事前に「旧門衛所」の「旧新宿門衛所」と「旧大木戸門衛所」を見学する巡路で設定してあります。
    ①「旧大木戸門衛所」⇒②「旧新宿門衛所」⇒③「旧洋館御休所」⇒④「旧温室の遺構」⑤「温室」⇒
    ⑥「新宿御苑ミュージアム」⇒⑦「玉藻池」⇒⑧「風景式庭園」⇒⑨「整形式庭園」⇒⑩「擬木橋」⇒
    ⑪「旧御涼亭」⇒⑫「日本式庭園」⇒⑬「翔天亭」と「楽羽亭」⇒⑭「母と子の森」

    入園する前に、まずは、「旧大木戸門衛所」と「旧新宿門衛所」を見て回ります。信号(表示名「新宿一丁目南」)を渡り左折し、「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」に入ります。350mほど進むと右手に「旧大木戸門衛所」があります。来た道を500mほど逆戻りすると左手に「旧新宿門衛所」があります。二つの「旧門衛所」を見終えたら、いよいよ「新宿御苑」に入園します。チケットを購入し、「新宿門」から入園します。
    そのまま「四谷方向」へ400mほど直進すると、左手に「旧洋館御休所」があります。「旧洋館御休所」は、「天皇」や「皇族」が「新宿御苑」内の「温室」を鑑賞する際の休憩所として明治29年(1896年)に造られました。しかし、残念ながら「旧洋館御休所」は、改修工事のため、令和5年8月1日より一般公開は休止となっています。
    さらに「旧洋館御休所」から120mほど進むと「温室」が見えてきます。「温室」の入口左手の方には、「旧温室の遺構」があります。「旧温室の遺構」は、明治26年(1893年)から大正3年(1914年)にかけて建てられた初期の「温室の遺構」で、平成22年(2010年)の埋蔵物発掘調査で出土しました。そして、現在の「温室」は、平成24年(2012年)に「絶滅危惧種」の保存・展示を行う環境配慮型の「温室」としてリニューアルオープンしました。熱帯、亜熱帯の植物を中心に約2700種を栽培しています。11月には「洋ラン展」が開催されます。
    「温室」から150ほど進むと「新宿御苑ミュージアム」と「大木戸休憩所」があり、「大木戸休憩所」の階段を下るとその先には「玉藻池」が見えてきます。「玉藻池」は、「内藤家」の庭園として完成した江戸時代の「玉川園」の一部です。
    「玉藻池」の次は、目の前に広がる「風景式庭園」です。「新宿御苑」の代表的な庭園といえば、「イギリス風景式庭園」です。「風景式庭園」は、ゆったりと広がる芝生と、自然のままにのびのび育った巨樹が特徴の庭園です。「新宿門」から「整形式庭園」へまっすぐのびた見通し線の中央には、「新宿御苑」の「シンボルツリー」である高さ30mをこえる「ユリノキ」が高くそびえています。
    「風景式庭園」の隣には、「整形式庭園」があります。「フランス式整形庭園」の最大のポイントは左右対称の形式が特徴的です。そして、ヨーロッパの並木道を彷彿とさせる左右対称に美しい4列の「プラタナス並木」が約160本、200mにわたって続いています。
    「整形式庭園」を進み、「下の池」の左端には、「擬木橋」があります。「擬木橋」は、明治37年(1904年)の「セントルイス万博」で展示されていたものを輸入し、フランス人技師が設営工事を行い、明治38年(1905年)に完成しました。日本初の木を模した欄干といわれています。
    「モミジ山」の脇を通り、「こども広場」を抜けると「旧御涼亭」があります。「旧御凉亭」は、「皇太子」(後「の昭和天皇」)の御成婚記念として、当時の台湾在住邦人の有志により昭和2年(1927年)に献上された建物です。この建物は中国南方地方(福建省)の建築(ビンナン建築)を取り入れた、日本にある数少ない本格的中国風建築です。
    「旧御涼亭」の先に進むと、「日本式庭園」があります。「日本庭園」は、ゆるやかな池の流れに沿った、「池泉回遊式」の庭園で、池を中心に園路が作られていますので、池の周囲を回遊しながら鑑賞できるように造られています。「日本庭園」があるこの場所はかつての皇室庭園時代に、「新宿御猟場」の「鴨場」が新設され、明治13年(1880年)から明治17年(1884年)まで皇室の狩猟場になっていました。昭和のはじめに「新宿植物御苑」の庭園改修に伴い、「鴨場」は、動物園を含めた「日本庭園」に改装されました。11月には皇室ゆかりの「菊花壇展」が開催されます。そして、「新宿御苑」の「日本庭園」には、「翔天亭」と「楽羽亭」の2つの茶室があります。このうち「翔天亭」では、「日本庭園」を眺めながらお茶を楽しむことができます。
    そして、最後が「母と子の森」です。「母と子の森」は、「日本庭園」の右手にあります。「母と子の森」は、都会に住む子どもたちが自然とのふれあいを楽しみ、豊かな感性と自然への関心を育むために、昭和60年(1985年)に造られた自然観察フィールドです。

    「新宿御苑」での散策を楽しんだ後は、新宿の街へ買い物や食事に出かけるのも良いですが、「神宮外苑」の方面へ足を延ばし、「聖徳記念絵画館」を見学したり、晩秋であれば有名な「イチョウ並木」が黄金色に輝く様子を見に行ったりするのもおすすめです。さらに、大都会東京で自然を満喫できる 1 日になるのは間違いなしです。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地 〒160-0014 東京都新宿区内藤町11 電話:03-3350-0151
    ⑵ 開園時間
    ① 10/1〜3/14…9:00~16:00       ※温室利用時間…9:30~15:30
    ② 3/15〜6/30 8/21〜9/30…9:00~17:30 ※温室利用時間…9:30~17:00
    ③ 7/1〜8/20…9:00~18:30  ※温室利用時間…9:30~18:30
    ※ 「閉園時間」は、開園時間終了の30分後
    ⑶ 休園日…①毎週月曜日(月曜日が休日の場合は翌平日) ②年末年始(12月29日~1月3日)
    ⑷ 特別開園期間(期間中無休)…①春:3月25日~4月24日 ②秋:11月1日~11月15日
    ⑸ 入園料…①一般500円 ②65歳以上250円 ③学生(高校生以上)250円 ④小人(中学正以下)無料

    02_【アクセス】
    ⑴ 「新宿門」までのアクセス
    ① JR・京王線・小田急線「新宿駅」南口から徒歩9分700m
    ② 東京メトロ丸の内線「新宿御苑前駅」1番出口から徒歩4分300m
    ③ 都営新宿線「新宿三丁目」C1・C5出口から徒歩5分350m
    ④ 東京メトロ副都心線「新宿三丁目」E5出口から徒歩5分350m
    ⑤ 西武新宿線「西武新宿駅」から徒歩15分1100m
    ⑵ 「大木戸門」までのアクセス
    東京メトロ丸の内線「新宿御苑前駅」2番出口から徒歩5分400m
    ⑶ 「千駄ヶ谷門」までのアクセス
    ① JR総武線「千駄ヶ谷駅」から徒歩3分300m
    ② 東京メトロ副都心線「北参道駅」1番出口から徒歩10分700m

    03_【「新宿御苑」の見どころ】
    ⑴ 「旧洋館御休所」
    「旧洋館御休所」は、「天皇」や「皇族」が「新宿御苑」内の「温室」を鑑賞する際の休憩所として明治29年(1896年)に造られました。そして、大正13年(1924年)に現在の規模になり、「クラブハウス」として使用されました。建物は「宮内省匠寮」により設計され、19世紀後半にアメリカで流行した建築様式である「スティック・スタイル」と呼ばれる建築様式を基調とした木造の洋館です。明治末から大正時代の新宿御苑には皇族がたびたび訪れ休憩所として利用し、大正時代後半には改造し、ゴルフ、テニスなどのクラブハウスとして使用されました。また、御苑で栽培した花々で室内を飾り、国賓を迎えてのパーティが催されたといわれています。「旧洋館御休所」は、明治大正期の皇室関係の庭園休憩施設として唯一の遺構であること、意匠的に優れた建造物であることなどが高く評価され、平成13年(2001年)に「重要文化財(建築)」に指定されています。しかし、残念ながら「旧洋館御休所」は、改修工事のため、令和5年8月1日より一般公開は休止となっています。
    ⑵ 「旧御凉亭」
    「旧御凉亭」は、「皇太子」(後「の昭和天皇」)の御成婚記念として、当時の台湾在住邦人の有志により昭和2年(1927年)に献上された建物です。この建物は中国南方地方(福建省)の建築(ビンナン建築)を取り入れた、日本にある数少ない本格的中国風建築です。屋根の形や瓦の色、内部の装飾などに中国南方地方の建築様式が取り入れられており、建築材料にも台湾杉や台湾桧などが使われています。台湾総督府(今の台湾総統府)を設計した設計者の建築家「森山松之助」は、「水の上に立つ御休息所」、「夏の御散策の際に涼をとる建物」と設計意図を語っています。平成16年(2004)には東京都選定歴史的建造物に指定されています。
    ⑶ 「旧温室の遺構」
    「旧温室の遺構」は、明治26年(1893年)から大正3年(1914年)にかけて建てられた初期の「温室の遺構」で、平成22年(2010年)の埋蔵物発掘調査で出土しました。「温室」の一番東側の基礎部分で、基礎石部分の上に切石、さらに煉瓦が積まれた構造をしていました。そして、現在の「大温室」は、平成24年(2012)11月にリニューアルオープンしました。また、「新宿御苑」は日本の本格的な洋らん栽培の発祥の地です。「新宿御苑」における温室と洋らん栽培の歴史は古く、そのはじまりは御苑が農事試験場だった明治時代にまでさかのぼるそうです。
    ⑷ 「旧門衛所(旧新宿門衛所、旧大木戸門衛所)」
    「旧新宿門衛所」と「旧大木戸門衛所」は、昭和2年(1927年)に建てられた門衛所です。いずれも宮内省匠寮の設計で、初期の鉄筋コンクリート造であることから、当時の独特のデザイン性や、「新宿御苑」の歴史的かつ景観的価値が評価されている建造物です。「大木戸門」の外側に、歴史的な建築であるが「旧大木戸門衛所」あります。チケットがあれば再入場できるので安心です。門衛の詰所であると同時に、休憩・宿直用の施設だったようですが、現在は使われていません。空襲を免れて現存しているは、「旧大木戸門衛所」と「旧新宿門衛所」の2つだけです。
    ⑸ 「擬木橋」
    「擬木橋」は、明治37年(1904年)の「セントルイス万博」で展示されていたものを輸入し、フランス人技師が設営工事を行い、明治38年(1905年)に完成しました。日本初の木を模した欄干といわれています。「新宿御苑」内の巨樹とほぼ同じ時期に導入され、100年以上の歴史があります。ちなみに、「擬木橋」とは、木の枝や幹を模擬した石やコンクリート等で似せて造った橋のことです。「擬木橋」があるのは、「新宿御苑」の「千駄ヶ谷門」寄りのモミジ山そばの水辺です。説明板等もないので見逃さないように注意が必要です。
    ⑹ 「風景式庭園」
    「新宿御苑」の代表的な庭園といえば、「イギリス風景式庭園」です。「風景式庭園」は、ゆったりと広がる芝生と、自然のままにのびのび育った巨樹が特徴の庭園です。「新宿門」から「整形式庭園」へまっすぐのびた見通し線の中央には、「新宿御苑」の「シンボルツリー」である高さ30mをこえる「ユリノキ」が高くそびえています。「シンボルツリー」を遠くから見ると1本の雄大な木のように見えます。実は、「ユリノキ」の木の根元をよく見ると、幹回りが約5mもある巨樹が3本並んで植栽されています。そして、明治40年(1907年)には、街路樹育成用に園内のユリノキの種子が東京府に払い下げられました。「赤坂迎賓館」から外堀通りの「紀伊国坂」をはじめ、現在東京都内の街路樹のユリノキは、「新宿御苑」のユリノキが母なる樹になるわけです。
    ⑺ 「整形式庭園」
    「新宿御苑」の代表的な庭園といえば、「イギリス風景式庭園」もそうですが、この「フランス式整形庭園」も負けていません。「フランス式整形庭園」の最大のポイントは左右対称の形式が特徴的です。そして、ヨーロッパの並木道を彷彿とさせる左右対称に美しい4列の「プラタナス並木」が約160本、200mにわたって続いています。「整形式庭園」は、110種類約500株の特色あふれる花々が咲き誇る「バラ花壇」を中央に、左右対称に計約160本の「プラタナス」を4列の並木にデザインした庭園です。「フランス式整形庭園」は、「新宿門」から入ると一番奥にあります。
    ⑻ 「日本庭園」
    「日本庭園」は、ゆるやかな池の流れに沿った、「池泉回遊式」の庭園で、池を中心に園路が作られていますので、池の周囲を回遊しながら鑑賞できるように造られています。「日本庭園」があるこの場所はかつての皇室庭園時代に、「新宿御猟場」の「鴨場」が新設され、明治13年(1880年)から明治17年(1884年)まで皇室の狩猟場になっていました。昭和のはじめに「新宿植物御苑」の庭園改修に伴い、「鴨場」は、動物園を含めた「日本庭園」に改装されました。池の周りには橋や小道があり、木や花などが植えられています。11月には皇室ゆかりの「菊花壇展」が開催されます。そして、「新宿御苑」の「日本庭園」には、「翔天亭」と「楽羽亭」の2つの茶室があります。このうち「翔天亭」では、「日本庭園」を眺めながらお茶を楽しむことができます。
    ⑼ 「玉藻池」
    「玉藻池」は、「大木戸門」から入ってまっすぐ進むと「大木戸休憩所」が見えてきます。「大木戸休憩所」の階段を上るとその先には「玉藻池」が見えてきます。「玉藻池」は、「内藤家」の庭園として完成したかつての「玉川園」の一部です。「玉藻池」は、江戸時代の「内藤家」の屋敷跡である「玉川園」の面影をとどめ、江戸時代に遡れる庭園です。「玉藻池」はもともと1700年代に作られたもので、「玉川上水」(上水道)の余水を利用していました。現在の「大木戸休憩所」には、「御殿」が建てられ、池、谷、築山をしつらえた景勝地の「玉川園」が造られたといわれています。「日本庭園」に比べると小規模ですが、静かな時間を過ごせるでしょう。
    ⑽ 「母と子の森」
    「母と子の森」は、「日本庭園」の右手にあります。「母と子の森」は、都会に住む子どもたちが自然とのふれあいを楽しみ、豊かな感性と自然への関心を育むために、昭和60年(1985年)に造られた自然観察フィールドです。身近な木々や草花、昆虫などとのふれあいが楽しめます。そして、「母と子の森」では、親子で参加可能な自然について学ぶイベントが定期的に開催され、親子連れにはもってこいの空間です。
    ⑾ 「温室」
    「新宿御苑」の「温室」は、「御休所」のすぐ隣の建物です。「温室」は、明治8年(1875年)に建てられたガラス張りの温室がルーツで、平成24年(2012年)に「絶滅危惧種」の保存・展示を行う環境配慮型の「温室」としてリニューアルオープンしました。熱帯、亜熱帯の植物を中心に約2700種を栽培しています。11月には「洋ラン展」が開催されます。

    04_【「新宿御苑」の年間行事】
    ⑴ 「春の特別開園」
    「春の特別開園」は、毎年3月25日から4月24日にかけて、新宿御苑では「春の特別開園」が開催されます。「新宿御苑」の桜の歴史を紐解いてみると、明治39年(1906年)に日本初の本格的な「西洋庭園」として誕生し、皇室行事「観桜会」の会場として全国から桜を収集した歴史がるそうです。当桜の名所として知られる「新宿御苑」ですが、そのベストシーズンに合わせ、期間中は何と「無休」で開放されます。そして、一番の桜の花の見頃時期は、4月の中旬から下旬にかけてとなります。桜の花もピンクだけでなく、黄色、紅色、緑など色とりどりの桜の花が来園者を楽しませます。日々の移り変わりを楽しみに足を運ぶのも良いかもしれませんね。「新宿御苑」の桜の見頃はこの時期だけに限りません。新宿御苑には65種1100本もの桜が植えられているため、1月下旬の「カンザクラ」に始まり、3月から4月にかけての「ソメイヨシノ」などの一重咲き種、そしてピークを迎える4月末まで、「一葉」などの「八重咲き種」と、いろいろな種類の桜が次々にみごろをむかえ、約1か月の長い期間に渡って桜を楽しむことができます。また一般客は参加することはできませんが、内閣総理大臣主催の「桜を見る会」も毎年「新宿御苑」にて開催されています。桜の季節も終わりにさしかかる4月29日には「みどりフェスタ」が環境庁の主催で毎年開催されます。このイベントでは自然にふれあい、その恩恵に感謝をするため、生物多様性に関する情報の提供や日本各地の国立公園の紹介などが行われます。この日に限って、「新宿御苑」も「無料」で開放されます
    ⑵ 「菊花壇展」
    秋の一大イベントである「菊花壇展」は、毎年11月1日~11月15日で、期間中は「無休」で開催されます。なぜ「菊花壇展」がこのように大々的に開催されるようになった経緯は、明治元年(1868年)に、皇室の紋章が菊に定められたことをきっかけに、「新宿御苑」では菊の栽培に力を入れてきたからですそして、「新宿御苑」の菊は、明治37年(1904年)より皇室行事「観菊会」の展示品種の栽培を開始し、従来は、「赤坂離宮」出開催されていましたが、昭和4年(1929年)より「新宿御苑」がその会場となった歴史があります。大正から昭和にかけては、パレスガーデンとして広く世界に知られるようになりました。回遊式の日本庭園内に「上家」といわれる建物を設け、特色あふれる花々を独自の様式を基調に飾り付けた、皇室の伝統を今に受け継ぐ「菊花壇展」です。
    ⑶ 「洋らん展」
    「新宿御苑」の「洋ラン」は、皇室庭園時代の大正から昭和の初めにかけて栽培研究が行われ、御苑独自の品種を多数作出した歴史があります。現在も「シンジュク」や「フクバ」という名前のついている品種がありますが、これらはすべて「新宿御苑」で作られたオリジナルの品種です。まさに、「新宿御苑」は、日本の本格的な洋らん栽培の発祥の地です。11月に行われる「洋らん展」は、日本の温室園芸の先駆的役割を果たしてきた「温室」で行われ、愛好家からの応募作品や「新宿御苑」で栽培する「洋ラン」を展示します。ちなみに、日本で初めて洋ランが栽培されたのは、明治16年(1883年)に「福羽逸人」が私邸に設けた小さな温室でした。ここではフランスから取り寄せた「シンビジューム」、「オンシジューム」などの栽培が試みられていました。
    ⑷ 「森の薪能」
    「森の薪能」は、かがり火の中で、よりすぐられた演者・演目による格調高い能舞台が作り出す幽玄の世界を楽しむ、毎年秋に開催されている、恒例の伝統芸能のイベントです。本年は、9月25日(月)に行われ、会場は「風景式庭園」です。和泉流の「野村萬斎」による狂言「茸」と観世流の「観世銕之丞」による能「一角仙人」が演じられます。
    《「森の薪能」の概要》
    ①日時…令和5年9月25日(月) ②開場…午後6時00分 ③開演…午後7時00分
    ④入場料…S席9,500円、A席7,500円、B席5,500円

    旅行時期
    2023年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ丸の内線「新宿御苑前駅」1番出口から徒歩4分300mです。
    人混みの少なさ:
    3.0
    平日訪れたので、そほど人ごみは気になりませんでした。
    見ごたえ:
    4.0
    三つつの庭園、温室、史跡、モニュメントなど盛りだくさんの見どころがあります。紅葉も終わりの時期でしたが楽しむことができました。

  • 念願の鑑真和上像とやっと御対面することができました。感激が込み上げてきました。

    投稿日 2023年12月06日

    唐招提寺 奈良市

    総合評価:4.5

    旅行第二日目は、今回の旅行の最大の目的である「唐招提寺」の「鑑真和上来日1270年記念”御影堂”特別公開」へ向かいました。近鉄「奈良駅」から奈良交通の「奈良県総合医療センター行き」のバスに乗りました。近鉄「奈良駅」では、4~5人程度しか乗りませんでしたが、JR「奈良駅」に着くと長蛇の列ができていて、バスに乗車できない観光客が10名程度いました。このバスの路線には、「唐招提寺」、「薬師寺」があるからでしょうか。電車を利用して行くのもいいかもしれません。電車を利用する場合は、近鉄橿原線の「西ノ京」で下車すると「唐招提寺」までは徒歩約10分、「薬師寺」は2~3分の距離です。そして「唐招提寺」前のバス停では、約3分の2の観光客が降車しました。「唐招提寺」の拝観の入口は、バス手直ぐそばにある「南大門」です。まず、「南大門」で拝観のチケットを購入し、20m右手にあった白いテントで特別拝観料を支払い、拝観時間が記載された整理券をもらいます。6月の「特別拝観」の時は、拝観客が多くて長蛇の列ができ2~3時間待ちだったそうですが、運よくあまり待たずに、10時30分からの拝観時間の整理券をゲットできました。
    「鑑真和上来日1270年記念”御影堂”特別公開」は、令和5年(2023年)は「唐招提寺」の開祖である「鑑真大和上」が来日してから1270年であたり、また、没後からは1260年にあたります。そして、令和4年(2022年)に「鑑真和上坐像」(国宝)を奉安する「御影堂」の大修理が完了したこともあり、例年は6月だけの特別公開を令和5年(2023年)は10月と11月にも実施しました。
    最初に「唐招提寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「唐招提寺」は、「聖武天皇」の招きに応じ、幾多の苦難を乗り越え、日本にやってきた唐僧「鑑真和上」によって建立された「南都六宗」の一つである律宗の総本山です。日本に来た「鑑真和上」は、「東大寺」で5年を過ごし、「戒壇院」で授戒の制度を確立するために努力しました。「東大寺」で5年を過ごした後、故「新田部親王」の旧宅地(現在の奈良市五条町)を賜り、天平宝字3年(759年)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。奈良の大きな寺のほとんどが勅願による官寺であるのに対し、「唐招提寺」は鑑真和上発願による私院であることが特徴です。そして、そこを「唐律招提」と名付けました。「鑑真和上」の私寺として始まった当初は、「講堂」や新田部親王の旧宅を改造した「経蔵」、「宝蔵」などがあるだけでしたが、やがて「鑑真和上」を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、「食堂」、「講堂」、「仮金堂」などが建てられました。鑑真和上の没後も金堂や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招提」から「唐招提寺」となりました。また、「金堂」は8世紀後半に「鑑真和上」の弟子の一人であった「如宝」の尽力により、完成したといわれます。現在では、奈良時代に建立された「金堂」、「講堂」が天平の建築様式を伝える貴重な伽藍となっています。

    《「唐招提寺」のお薦め拝観順路》
    ① 「金堂」⇒② 「鼓楼」⇒③ 「講堂」⇒④ 「礼堂」⇒⑤ 「経蔵と宝蔵」⇒⑥ 「新宝蔵」⇒
    ⑦ 「北原白秋歌碑」⇒⑧ 「御影堂」⇒⑨ 「鑑真和上御廟」⇒⑩ 「開山堂」と「松尾芭蕉句碑」⇒
    ⑪ 「戒壇」⇒⑫ 「鐘楼」⇒⑬ 「会津八一歌碑」と「松瀬青々句碑」

    《金堂》
    それでは、早速「唐招提寺」の境内に足を踏み入れたいと思います。「南大門」を入ると左手に「世界遺産記念碑」がありその奥に「金堂」がどっしり構えています。まさに荘厳という言葉がピッタリです。「金堂」は、創建当時の8世紀後半の姿を残す代表的な建築物です。「金堂」の外観で目を奪われるのは、正面に並ぶ8本の柱です。これらの柱により、光と影の美しいコントラストを演出しています。建築様式は、正面間口七間、奥行き四間の寄棟造・本瓦葺です。堂内には、いずれも国宝である中央に本尊の「盧舎那仏坐像」、右に「薬師如来立像」、左に「千手観音立像」が並んでいます。本尊の「盧舎那仏坐像」は、高さが3mを超え、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像です。奈良時代に盛んに用いられた「脱活乾漆造」という方法で造られ、背後の光背の化仏の数は、862体ありますが、本来は1000体であったといわれています。そして、本尊「盧舎那仏坐像」に向かって右側に安置されている「薬師如来立像」は、高さが3.36mあり、平安時代初期に造られたそうです。本尊「盧舎那仏坐像」に向かって左側に安置されているのは、「千手観音立像」で、高さが5.36mの最古最大の立像です。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕があるそうです。その他、「持国天立像」、「増長天立像」、「広目天立像」、「多聞天立像」の「四天王立像」と「梵天・帝釈天立像」もあります。身につけている装飾品や表情をみると興味深いものになります。また、「金堂」の屋根に上げられていた2体の鴟尾のうち、西側が天平時代、東は鎌倉時代の作だそうです。

    《鼓楼》
    次が、「金堂」と「講堂」に挟まれて建つのが国宝に指定されている「鼓楼」です。「鼓楼」は、鎌倉時代の仁治元年(1240年)に建立され、建築様式は入母屋造り、本瓦葺きの2階建ての楼閣です。名称は「鼓楼」ですが、現在は「鑑真和上」将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿」とも呼ばれています。「如来舎利三千粒」(仏舎利)は、「鑑真和上」がわざわざ唐から「仏舎利」を収めるために持参したという中国唐代のペルシャ製ガラス容器の「白瑠璃舎利壺」に収納され、さらにレース状の「方円彩糸花網」に包まれ、南北朝時代に作られた「金亀舎利塔」に入れられて、堂内の厨子に安置されているそうです。この「鼓楼」で5月19日に通称「うちわまき」の「梵網会」では、楼上から縁起物のうちわが撒かます。うちわが宙をユラユラさまよう様が目に浮かびますね。

    《講堂》
    次が、「鼓楼」のすぐ裏手にあるの「講堂」です。「講堂」は、「平城宮」の「東朝集殿」を移築・改造したもので、現在では「講堂」は、平城宮の面影をとどめる唯一の「平城宮」の建物で、開放的な空間となっています。「講堂」は、移築・改造したときに、切妻造から入母屋造・本瓦葺にし、天井を張り、窓や出入口などを設けています。堂内には、重要文化財で、鎌倉時代に制作された御本尊の「弥勒如来坐像」や重要文化財で、奈良時代に制作された「持国天立像」、「増長天立像」などが安置されています。御本尊の「弥勒如来坐像」は、高さが2.84mあり、構造は、寄木造りで、目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情が特徴です。それと屋根の瓦には「唐招提寺」と刻まれていたのが印象的です。

    《礼堂》
    「講堂」の右手にある南北に細長い建物が国の重要文化財に指定されている「礼堂」です。「礼堂」は、鎌倉時代に建立された木造りの入母屋造り、本瓦葺の建物です。「礼堂」は、南北19間の細長い建物の南側8間が「礼堂」です。北側10間が「東室」、その間の1間は、「馬道」と呼ばれる通路になっています。「礼堂」は、隣の「鼓楼」に安置された「仏舎利」を礼拝するための堂で、内部に重要文化財の「釈迦如来立像」、同じく重要文化財の「日供舎利塔」を安置しています。「釈迦如来立像」は、正嘉2年(1258年)に制作され、木造で高さが約1.66mで、礼堂内の厨子に安置されています。「日供舎利塔」は、別名が「火炎宝珠形舎利容器」で、高さ47.8cmの木製で黒漆塗りの金銅金具です。「鑑真和上」が唐から持参し、現在では「鼓楼」に収められた仏舎利「如来舎利三千粒」から分けられた数十粒が収められた容器のことです。つまり、日々の勤行礼拝用ということで、日々供養されるため、「日供」の舎利塔という名が付いています。

    《経蔵と宝蔵》
    「礼堂」をさらに右手に進むと校倉造の建物で、国宝に指定されている「経蔵」と「宝蔵」があります。手前にある小さいほうが「経蔵」です。「経蔵」は、「唐招提寺」ができる前の「新田部親王邸」の米倉を改造したものといわれ、「唐招提寺」で最も古い建造物であり、「東大寺」の「正倉院」より古い日本最古の校倉です。非公開ですが、「経蔵」の中には、14世紀の北朝時代の作品である木造りの「文殊五尊像」が安置されています。ちなみに、「文殊五尊像」は寄木造で、獅子に乗った「文殊菩薩」と「善財童子」、「優でん王」、「仏陀波利」、「最勝老人」の4人の従者からなる菩薩が、仏教を中国から日本へと伝えようとする姿を描いた「渡海文殊」と呼ばれる像です。そして、奥にあるのが「宝蔵」です。「宝蔵」も寄棟造り、本瓦葺きの建物で、「唐招提寺」の創建にあわせて建立されたといわれ、「経蔵」より一回り大きなたてものです。「経蔵」と「宝蔵」は御汝ように見え、区別がつきませんが、大きい方が「宝蔵」と覚えておけば迷うことはありません。

    《新宝蔵》
    「宝蔵」の先に細い道がありその突き当りにあるのが「新宝蔵」です。途中の右手の「滄海池」には、紅葉が見られ、目の保養になりました。通りかかる人は皆カメラのシャッターを切っていました。「新宝蔵」は、「唐招提寺」が伝える多くの文化財を管理・収蔵するために、昭和45年(1970年)に校倉造りを真似て建てられた収蔵殿です。建築様式は鉄筋コンクリート造りです。「金堂」に安置されていた重要文化財の「木造大日如来坐像」のほか、「旧講堂木彫群」と呼ばれる奈良時代末期に制作された多数の木彫像や「鑑真和上」の渡航を描いた「東征絵巻」などが保管されています。
    ① 開館期間…3月1日~6月30日、9月1日~11月30日、12月31日~1月3日
    ※8月10日頃に数日間の臨時開館があります。
    ② 開館時間…9:00~16:00

    《北原白秋歌碑》
    次に、「新宝蔵」へ来た道を戻り「経蔵」のところを右手に曲がり「御影堂」へ行くとその途中の左手に、「北原白秋歌碑」があります。「北原白秋」の歌碑には、「水楢の 柔き嫩葉は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ」と刻まれています。「北原白秋」は、昭和12年(1937年)、52歳の時に、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血で、その視力をほとんど失ってしまいます。この歌は「芭蕉の句」である「若葉して おん目のしずく ぬぐはばや」をもとに、自分の眼のことも詠んでいるのかもしれないということです。

    《御影堂》
    「北原白秋歌碑」の先を右に曲がると、「御影堂」です。念願の「鑑真和上坐像」との御対面です。「御影堂」の正門で整理券と特別拝観券を提示して、「御影堂」に入りました。玄関先で係の方がいて、ビニール袋を渡してくれるので靴を脱いで「御影堂」に入ります。その前に、「鑑真和上」の足跡と「御影堂」の歴史を紐解いておきたいと思います。唐の高僧「鑑真和上」は、度重なる難航海と両目失明という苦難の末に渡来しました。そして、東大寺に到着したのが天平勝宝6年(754年)です。天平宝字3年(759年)に「東大寺戒壇院」を退き、「唐招提寺」を創建しました。その国宝である「鑑真和上像」を安置するのが「御影堂」です。「御影堂」は、境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした建物です。「御影堂」は、元々は興福寺」の別当坊だった「一乗院宸殿」の遺構で、1649(慶安2)年に建立されました。明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964年)に移築復元したものです。「鑑真和上坐像」は、高さが80.1cmで、日本最古の肖像彫刻で、天平時代を代表する彫刻です。そして、「鑑真和上坐像」は、肖像彫刻としては異例の目を閉じた形です。「鑑真和上」の不屈の精神まで感じさせる傑作です。ちなみに、「脱活乾漆」は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞となります。「鑑真和上坐像」は、弟子たちによる集大成で、弟子の「忍基」が制作を指導したとされています。また、御影堂内の襖絵は、日本を代表する画家「東山魁夷」が、10年を超える歳月をかけ、「鑑真和上」に捧げた大作です。日本の風土をテーマとして、「山雲」、「濤声」、それと墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」、「黄山暁雲」、「桂林月宵」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も「東山魁夷」の作によるものです。それと、「御影堂」の文化財指定名称は「旧一乗院宸殿殿上及び玄関」ですのであしからず。また、「御影堂」は、春と秋に公開されています。実際に「鑑真和上坐像」を見て思ったのは、眼を閉じて無の境地に入っているように思えました。そして、その姿は、高僧の雰囲気が十分に表現されています。今思えば、何とも言えない空間に導かれた気がしました。眼を閉じても心の目で、真理を悟りかけているようでした。また、画家「東山魁夷」の襖絵等は、彼独特の青の色遣いで、お寺に新鮮な旋風を吹き起こしているのではないかと思いました。薄暗い空間が鮮やかな世界に変わっているようでした。また、「鑑真和上坐像」の前にある庭園を板の間から眺めていると、「鑑真和上」が荒波を乗り越えてきたように、木々が風に揺られてまるで大海原に旅立つかのように思えました。

    《鑑真和上御廟》
    「鑑真和上坐像」を参拝し、次は、「御影堂」を出て左手に進み、「鑑真和上御廟」へ向かいました。「鑑真和上御廟」は、もちろん字の如く「鑑真和上」の墓所ですが、もう一つ見るべきポイントがあります。それは「鑑真和上御廟」の門を潜ると、目の前にモスグリーンの世界が広がってきます。そのモスグリーンの波は、「鑑真和上御廟」へ続く池のところまであり、その美しさに思わず見とれてしまいました。「鑑真和上御廟」は、小高い方墳上の土壇の上に、鎌倉時代後期の高さ2.5mの宝篋印塔が立っています。「鑑真和上御廟」の前に立つとそこには、「鑑真和上」の故郷である揚州から贈られた、ガクアジサイに似た白い可憐な花を4月から5月頃に咲かせる瓊花が植えられていました。「鑑真和上」は、同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えないそうです。そして、「鑑真和上御廟」の右側には、「趙樸初居士之碑」と書かれた石碑があります。「趙樸初」は、中国の著名な仏教指導者で、日中仏教文化の交流に貢献しました。そして、「唐招提寺」の「鑑真和上」の墓地に石碑を建てた初のケースだそうです。

    《「開山堂」と「松尾芭蕉句碑」》
    「鑑真和上御廟」を出て、「北原白秋歌碑」の先に「開山堂」があります。「開山堂」は元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立されました。その後明治14年(1881年)に「鑑真大和上」の尊像を安置するため現在の位置へ移築されました。国宝の「鑑真和上像」が「御影堂」へ移されたのち、「覚盛上人」、「聖武天皇」、「徳川家康」の坐像を安置した本願殿として参拝されていましたが、御堂の老朽化をうけて改修工事を行い「鑑真和上」が亡くなってから1250年になる平成25年(2013年)に、「鑑真和上」を模写した「御身代わり像」がつくられ、再び「開山堂」として完成しました。ここは、「御身代わり像」は撮影禁止です。そして、「開山堂」に向かって左手に「松尾芭蕉句碑」があります。「松尾芭蕉句碑」には「若葉して おん目のしずく ぬぐはばや」と刻まれています。「松尾芭蕉」は貞享5年(1688年)4月に「笈の小文」の旅の途中で、「唐招提寺」を訪れた時の句です。「開山堂」で「鑑真和上」の像を前に、しみじみと感じ入ったそうです。句意は「ああ和上、幾多の困難を乗り越え、ついに目の光を失われた。お痛ましいことです。せめてこの若葉で、御目のしずくをぬぐってさしあげたいと。」だそうです。

    《戒壇》
    「開山堂」の次は、「開山堂」を出て左方向に直進すると突き当たります。そこを左折し、紅葉がきれいな参道をしばらく歩くと、右手に「戒壇」があります。位置的には、「金堂」の西側になります。「戒壇」は、僧となるための授戒が行われる場所のことです。「戒壇」は創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により「戒壇」は焼失しました。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978年)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。

    《鐘楼》
    「戒壇」から「金堂」方向へ戻ると正面に「鐘楼」があります。「鐘楼」は、「金堂」・「講堂」を結ぶ「唐招提寺」の伽藍中心線から見て「礼堂」と対称の場所に位置しています。「鐘楼」に懸かる「梵鐘」は平安時代のものです。12月31日の大晦日には、人間が持つ108の煩悩を清めるため、除夜の鐘が撞かれる。23時頃より「南大門」にて整理券が配布され、抽選で当選した人は、23時40分頃より「鐘楼」にて108組の人が順番に鐘を撞くことができるそうです。ちょっと寒そうですが除夜の鐘を撞いてみたいものですね。

    《「会津八一歌碑」と「松瀬青々句碑」》
    「鐘楼」を「南大門」の方へ進むと、歌人で美術史家の会津八一が詠んだ「会津八一」の歌碑があります。歌碑には、「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」と刻まれていました。ちなみに、漢字かな交じり文・現代かな使いで表すと「大寺の 円き柱の 月影を 土にふみつつ ものをこそ思え」となります。「会津八一」は、明治14年(1881年)8月1日に新潟市古町通5番町で会津家の次男として生まれました。「会津八一」は、新潟県が生んだ文人・歌人・書家・美術史家で奈良の仏教美術を熱心に研究した人物です。「会津八一歌碑」の脇の小道を入った雑木林の中に「松瀬青々句碑」があります。「松瀬青々」とは昭和初期の俳人で、大阪朝日新聞に入社して朝日俳壇の選者をしていた人物です。句碑には、「門を入れば 両に稲田や 招提寺」です。「招提寺」とは「唐招提寺」のことで、門を入ったら両側が田んぼであるという当時の「唐招提寺」の経済状況の窮状が詠われたものだそうです。

    全部は見ることができませんでしたが、「鑑真和上像」を拝観するという当初の目的は達成です。とにかく、奈良のお寺は、京都のお寺に比べスケールが大きいので、一つのお寺を見るのに時間を費やしてしまいます。次は、「唐招提寺」からあるいても10分もかからない「薬師寺」の拝観です。


    01_【「唐招提寺」一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8032 奈良市五条町13-46 電話番号:0742-33-7900
    ⑵ 拝観料…①大人・大学生1000円 ②中・高校生400円 ③小学生200円
    ⑶ 国宝「鑑真和上坐像」特別公開拝観料…①大人・大学生1000円 ②中・高校生400円 ③小学生200円

    02_【「唐招提寺」へのアクセス】
    ⑴ 電車を利用して
    近鉄「西ノ京駅」東出口から徒歩11分800m
    ⑵ 奈良交通バスを利用して
    ① [JR奈良駅)] ⇒[奈良県総合医療センター行]≪奈良交通:≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(6番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(8番のりば:駅前交番前)
    ・ア 「JR奈良駅」から10停留所目(「唐招提寺東口」の次の停留所) 所要時間約16分
    ・イ 「近鉄奈良駅」から12停留所目(「唐招提寺東口」の次の停留所) 所要時間約21分
    ・9時から15時の間に1時間平均2~3便:[JR奈良駅]毎時 28分、58分発
                       :[近鉄奈良駅]毎時 23分、53分発
    ・「唐招提寺」下車で下車し「唐招提寺南大門拝観受付」入口まで徒歩1分60m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.0
    バスが大混雑で、途中のJR奈良駅から乗れない人もいました。。近鉄を利用していった方がよいかもしれません。西ノ京駅から10分ほどで行けます。
    人混みの少なさ:
    3.0
    鑑真和上来日1270年記念”御影堂”特別公開で結構混んでいましたが、お寺自体が広いので圧迫感は全然感じられませんでした。
    見ごたえ:
    4.5
    見どころはたくさんありますので、事前にウェブ等で調べていった方がいいと思います。そうすると結構楽しく回れます。

  • 念願の阿修羅像を見ることができました。阿修羅像の端正で、優しい顔立ちがとても印象的でした。

    投稿日 2023年12月04日

    興福寺 奈良市

    総合評価:4.5

    「春日大社」の参拝を終え、次の目的地は「興福寺」です。「春日大社」の参道を「一之鳥居」まで戻ります。そして、信号を渡り右方向に進み、「国道169号線」沿いを80mほど進むと、最初の信号があります。そこを右折すると「興福寺」の境内になります。「興福寺」は「奈良公園」の一角にあり、「東大寺」や「春日大社」と並んで奈良市を代表する観光名所のひとつです。「古都奈良の文化財」として世界遺産にも登録され、歴史的・文化的な遺産が多く残る寺院です。途中で、かわいらし鹿がいたので、思わず鹿煎餅を買って与えました。参道の左手には、寺院の風呂場として使われていた「興福寺大湯屋」が見えます。「大湯屋」は、奈良時代から設けられていたと考えられていて、「大湯屋」の中には、通常非公開ですが、奈良県指定文化財の「鉄湯釜」があるそうです。右手には、「興福寺」の寺務を執り行う「本坊」が見えます。通常は非公開ですが、「本坊」北西には明治時代に建てられた「大圓堂」と呼ばれる「持仏堂」があり、国の重要文化財である「木造聖観音菩薩立像」があります。少し進むと右手にある「柳茶屋」の先に、「興福寺」を分断する道路があり、横断歩道があります。横断歩道を渡ると道が二手に分かれます。直進すると「南円堂」そして右斜め方向に入ると「国宝館」の案内板があります。
    「興福寺」は、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。しかし、世界遺産に登録されたという理由だけ「興福寺」を訪れたわけではありません。今回の奈良旅行の世界遺産に指定された6つのお寺を拝観することもそうですが、最大の目的は二つあります。一番の優先事項は「唐招提寺」の「鑑真大和上像」の特別公開、それと二番目は「興福寺」の「阿修羅像」を見るためです。そう言う訳で早速「興福寺」の「国宝館」へ入りました。その前に、「興福寺」の歴史と概要を紐解いてみたいと思います。「興福寺」は、法相宗の大本山です。「興福寺」は、京都山科の「藤原鎌足私邸」に建立された「山階寺」が前身となります。「山階寺」は、天智8年(669年)に「藤原鎌足」が重い病気を患った際に、夫人である「鏡女王」が夫の回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。そして、天武天皇元年(672年)の壬申の乱後に、飛鳥に都が戻った際に、「山階寺」も移され、その地名を取って「厩坂寺」と名付けられます。さらに、和銅3年(710年)の平城遷都の際に、「藤原不比等」よって現在地に移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には「四大寺」、平安時代には「七大寺」の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。特に、藤原氏の氏寺として大いに繁栄し、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めました。治承4年(1180年)の「平重衡」の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げますが、その後、享保2年(1717年)の火災によって、伽藍の西半分を失いました。境内には「光明皇后」創建とされ、室町時代に再建された国宝の「五重塔」、鎌倉時代に再建された国宝の「北円堂」や江戸時代に再建された重要文化財の「南円堂」などが建ち並んでいます。そして、「国宝館」には多くの仏教彫刻の名品を所蔵しています。

    《「興福寺」のお薦め拝観順路》
    ①「国宝館」⇒②「中金堂」⇒③「東金堂」⇒④「五重塔」⇒⑤「南円堂」⇒⑥「南円堂」⇒⑦「三重塔」

    《国宝館》
    まずは、右斜め方向に進み、最大の目的地である「国宝館」に向かいました。「国宝館」は、奈良時代創建当初の僧侶が集団で食事をする「食堂」が建てられていた場所に、「食堂」の外観を復元して、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。建物の大きさは正面が35.3m、側面が31.8mで、本瓦葺の建物です。ちなみに、地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているそうです。この「国宝館」には、日本に数多ある仏像の中でも、特に人気のあり、天平文化を代表する仏像彫刻のとして国宝にも指定されている「阿修羅像」が収蔵されています。「阿修羅像」は、端正な顔立ちとスタイルで美少年との呼び声も高く、私たち家族もそうですが、この彫刻を目当てに「興福寺」を訪れる観光客も多いそうです。この見応えたっぷりの「国宝館」には、「興福寺」の歴史を伝える仏像彫刻や絵画、歴史資料などが収蔵してあり、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。そして、館内には旧食堂の本尊「千手観音菩薩立像」、奈良時代の「阿修羅像」などの「乾漆八部衆像」、「乾漆十大弟子像」、「華原馨」、平安時代の「燈籠」や「板彫十二神将像」、鎌倉時代の「木造金剛力士像」、「木造天燈鬼・龍燈鬼像」などの国宝や、重要文化財の「梵天像・帝釈天像」や厨子入り「弥勒菩薩半跏像」なども安置します。どれもこれも素晴らしいものばかりですが、なかでも「阿修羅像」と以前に上野の東京国立博物館でも公開された「木造天燈鬼・龍燈鬼像」は私の中では一番印象に残り、感銘を受けました。ちなみに、「阿修羅」とは、梵語(古代インド語)の「アスラ」(Asura)で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。例えば、ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。しかし、仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神となったそうです。歴史的価値のある仏像等が所狭しとあり、見ごたえたっぷりの「国宝館」は、毎日9:00から17:00まで観覧できます。
    《中金堂》
    「国宝館」での鑑賞を終え、出口の駐車所を右方向に進むと正面に「中金堂」、そして、左手に「東金堂」、その向こう側奥には「五重塔」があります。まずは、正面にある「中金堂」です。「勧進所・売店」の隣にある「拝観受付」でチケットを購入して中に入ります。「中金堂」は「興福寺」の伽藍の中心になる最も重要な建物で、平成30年(2018年)に301年ぶりに再建され、復元されました。「中金堂」の大きさは、正面が37.0m、側面が23.0mあり、建築様式は寄棟造、単層裳階付き、本瓦葺になっています。「中金堂」の歴史を紐解いてみると、かつて「中金堂」は、「興福寺」にあった金堂3棟の中心となり、創建当時は、その規模においても奈良にある寺院の中でも大きさを誇るものでした。創建者は日本の律令制度をまとめ、藤原氏の繁栄の基礎を築いた「藤原不比等」です。それ以降、創建より6回の焼失、再建を繰り返しました。そして、享保2年(1717)に焼失した後は財政難のために再建することができませんでした。その100年後に町屋の寄進により規模を縮小した「仮堂」を文政2年(1819年)に再建しましたが、あくまで仮設としての建立であったため、長期使用を想定しておらず、材木には不向きなマツが使われるなどしたため、急速に老朽化が進んでしまいました。度重なる火災を乗り越え平成30年(2018年)に復興された堂内には、御本尊の「丈六釈迦如来像」を中心に、「薬王・薬上菩薩像」が脇侍として祀られています。ちなみに、現在安置されている御本尊の「丈六釈迦如来像」は5代目で、像内墨書から文化8年(1811年)に仏師「赤尾右京」が造立したそうです。また、「木造薬王・薬上菩薩立像」は、兄弟の菩薩で、ともに良薬を人々に与え、心と身の病気をなおしたと言われています。普通、「釈迦如来像」は「文殊菩薩像」と「普賢菩薩像」を従えることが多いのですが、「薬王菩薩像」と「薬上菩薩像」を置くのは古い形だそうです。
    《東金堂》
    次が、「東金堂」と「五重塔」ですが、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。仕方なくフェンスのそとから事前に調べていた「東金堂」と「五重塔」の全体像を想像してみました。「東金堂」は、「中金堂」の東側にある「金堂」で、その隣には、「五重塔」が高々とそびえ立っています。「東金堂」は、「聖武天皇」が叔母である「元正太上天皇」の病気平癒を祈念して、神亀3年(726年)に建立したものです。それ以降、5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22年(1415年)に再建されました。創建当初には床に緑色のタイルが敷き詰められ、御本尊「薬師如来」の浄瑠璃光の世界が表現されていたそうです。「東金堂」の建築様式は、前面を吹き放しとした寄棟造です。見どころは、堂内には国の重要文化財に指定されている「本尊薬師如来坐像」を中心に、「日光・月光菩薩立像」、「文殊菩薩坐像」、「維摩居士坐像」、「十二神将立像」、「四天王立像」など貴重な文化財がたくさんあります。
    《五重塔》
    「東金堂」の隣にある「興福寺」の「五重塔」は、天平2年(730年)に「興福寺」の創建者である「藤原不比等」の娘「光明皇后」の発願で建立されました。古都奈良のシンボルといえば、「五重塔」といわれるくらい有名な建築物です。ちなみに、「塔」は釈尊の舎利を納める墓標であり、当時の仏教寺院においては権威の象徴だったそうです。他の堂宇と同様に、その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建された約50mもある木造の「五重塔」で、日本で2番目に高い塔です。ちなみに、日本で一番高い「五重塔」は、東寺(教王護国寺)の五重塔で、 高さは約57メートルあり、現存する日本の木造建築物としては最高の高さです。「興福寺」の「五重塔」には、いずれも室町時代作品である「薬師三尊像」、「釈迦三尊像」、「阿弥陀三尊像」、「弥勒三尊像」が一層目のそれぞれ「須弥壇四方」に安置されています。また、青空の下で見る五重塔も堂々として魅力的ですが、ライトアップされた姿も圧巻だそうです。保存・改修工事が終わったら、再度奈良を訪れ、ぜひライトアップされた「五重塔」を見に来たいものですね。
    《南円堂》
    次が、「五重塔」の塔の反対側に位置している「南円堂」です。途中に「興福寺」の「南大門跡」があり、若干高台になっていて、そこから見下ろす「猿沢池」や古都奈良の街並の風景が絶景でした。「南円堂」は、「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を願って建立した八角円堂であり、また、「西国三十三所」の「第九番札所」として知られ、の参拝者が多い御堂です。「南円堂」は、朱色が際立つ美しい八角円堂で、弘仁4年(813年)に「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を祈るため建立しました。また、発掘調査で判明したことですが、基壇築造の際には地神を鎮めるために、「和同開珎」や「隆平永宝」を撒きながら築き上げたそうです。「南円堂」の御本尊である「不空羂索観音菩薩」は、神に仕える鹿の鹿皮を身にまとっています。現在の内陣には、慶派仏師の「康慶」一門により制作された本尊の「不空羂索観音菩薩坐像」を中心に、「四天王立像」、「法相六祖坐像」が安置されています。現在残っている建物は、創建以来4度目のもので、江戸時代の寛政元年(1789年)に再建されたものです。「南円堂」では、年に1度、10月17日に「特別開扉」が行われ、堂内を拝観することができます。また、当日は僧侶たちが経典を宙で広げながら読む「大般若経転読会」という儀式も行われ、たくさんの参拝客で賑わうそうです。
    《北円堂》
    「南円堂」を右方向に進むと「北円堂」があります。「北円堂」は、「興福寺」の創建者「藤原不比等」の1周忌にあたる養老5年(721年)8月に「元明・元正天皇」が、「長屋王」に命じて建てさせたものです。建物が建っている場所は、「興福寺伽藍」の中では、中心でなく西隅に位置しています。かつては、「北円堂」から平城京を一望の下に見渡すことのできる場所だったそうです。現在の建物は、治承4年(1180年)の被災で焼失し、承元4年(1210年)頃に再建されました。そして、「北円堂」は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいといわれています。堂内には、御本尊である「弥勒如来坐像」を中心に、「無著・世親菩薩立像」をはじめとして、「木心乾漆四天王立像」などが安置されています。これらはいずれも国宝に指定されています。そして、堂内にあるこれらの像は、春・秋一定期間に特別公開されます。
    《三重塔》
    最後が、「三重塔」です。「北円堂」の正面反対側にある道を直進すると右手にが「三重塔」あります。「三重塔」は「北円堂」とともに山内で最古の建物とも言われ、高さが約19.1m、初層の幅は約4.8mあります。「三重塔」は「五重塔」に比べるとあまり知られておらず、見逃されがちです。「三重塔」は、康治2年(1143年)に「崇徳天皇」の皇后の「皇嘉門院聖子」が建て、治承4年(1180年)に焼失しましたが、間もなく再建されたといわれています。堂内には、かつて「興福寺」の子院であった「世尊院」の「弁才天坐像」とその「諸尊」(十五童子)を移して安置されています。これらの像は、毎年7月7日の10時から「弁才天供」が行われ、特別開扉されます。
    《興福寺五十二段》
    余談ですが、この日私たち家族は、「猿沢池」の畔にある「よしだや」に宿泊しましたが、「北円堂」から「三条通」に出て、「よしだや」へ向かいましたが、その途中に「興福寺五十二段」と呼ばれる「五重塔」に続く幅広い石段がありました。菩薩修行の段位五十二位になぞられたものであり、段の上は仏界を意味するといわれているそうです。

    01_【「興福寺」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8213 奈良市登大路町48 電話:0742-22-7755
    ⑵ 拝観時間…9:00~17:00(入堂・入館は16:45まで)
    ⑶ 休業日…年中無休
    ⑷ 拝観料
     ※ 「東金堂」は現在保存・改修のため拝観できません。(2023/11/23現在)
    ① 東金堂単独券…大人・大学生300円、高校生・中学生200円、小学生100円
    ② 国宝館単独券…大人・大学生700円、高校生・中学生600円、小学生300円
    ③ 国宝館・東金堂共通券…大人・大学生900円、高校生・中学生700円、小学生350円
    ④ 中金堂 単独券…大人・大学生500円、中高生300円、小学生100円

    02_【「興福寺」へのアクセス】
    ⑴ 電車を利用して
    近鉄線「奈良駅」2番出口から徒歩5分350m
    ⑵ 奈良交通バスを利用して
    ① [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
    ・3停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約8分 
    ・「県庁前」停留所で下車してすぐ目の前

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    近鉄線奈良駅の2番出口から徒歩5分350mと近いところにあります。
    人混みの少なさ:
    3.0
    東金堂と五重塔を保存・改修しているせいか人ごみはありませんでした。ゆっくり観光できました。ただし、国宝館は混んでいました。
    見ごたえ:
    5.0
    国宝や重要文化財だらけで、歴史好きな人にはたまらないでしょう。好きでなくても十分に楽しむことができます。

  • 世界遺産寺院の二件目は朱色の眩いばかりの春日大社で廻廊を一周する特別参拝しました。

    投稿日 2023年11月30日

    春日大社 奈良市

    総合評価:4.5

    「東大寺」の参拝を終え、次の目的地は「春日大社」です。「東大寺」からは、「奈良国立博物館」の先にあるT字路の信号のところに向かうと、そのすぐ先に「春日大社参道」の石碑が建っています。斜めに参道が続いていますので、あとは道なりに進めば「春日大社」に到着します。
    「春日大社」は、全国に約3000社あるという「春日神社」の総本社で、その歴史を紐解いてみると、奈良時代から始まり、神護景雲2年(768年)に、茨城県鹿島より「武甕槌命」を神山である「御蓋山山頂浮雲峰」に迎えました。そして、現在の地に社殿が造営され、現在のような規模が整ったのは平安時代前期のことです。それ以来、皇族や貴族、有名武将などから庶民にいたるまで幅広く信仰され続けています。境内は古代から神域とされていた御蓋山一帯に広がり、原始林に守られるかのように朱塗りのあでやかな社殿が立ち、境内には「春日大社国宝殿」があり、その数なんと国宝が352点、重要文化財が971点を含む約3000点を収蔵し、公開しています。また、付近には万葉集に登場する草花約300種が植えられている「春日大社神苑萬葉植物園」といった見どころや、レストラン、カフェ、ショップもあり、さまざまな楽しみ方ができます。そして、古来より「砂ずりの藤」として名前が知られている藤の名所としても有名です。私の個人的な見解ですが、「一之鳥居(重要文化財)」から「春日灯籠」が並ぶ参道を歩くと、奈良公園では一番多く鹿が見ることができるポイントだと思います。そのかわいらしさに魅了されカメラのシャッターを思わず押してしまいます。「春日大社」の創建時に、御祭神として迎えた「武甕槌命」は常陸から白鹿に乗ってやって来られたという伝承から、奈良では鹿は神のお使いとして昔から大切にされ、人の暮らしのすぐそばで共存してきました。背後の「春日山」には「春日山原始林」が神秘的な景観と雰囲気を醸し出しています。「春日大社」を囲うように密生している林として、昔の姿を今に伝えています。「春日山原始林」は、国の特別天然記念物に指定され、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されました。
    それでは、「春日大社」を参拝いたいと思います。参拝には、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」を参拝することができる「一般的な参拝」と釣燈籠が並ぶ回廊を通り、「御蓋山浮雲峰遙拝所」や「中門」前まで進み参拝できる「特別参拝」があります。せっかく「春日大社」に来たので、その真髄を知るにはやはり「一般的な参拝」だけでなく「特別参拝」をお薦めします。これから「特別参拝」として話を進めていきます。まず、「春日大社」の「南門」を入るとすぐ目の前にある建物が「特別参拝受付」で初穂料として一人500円を納めて案内看板に沿って進みます。

    《「特別参拝」のお薦め順路》
    ① 「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社(井栗神社、穴栗神社、辛榊神社、青榊神社)⇒
    ② 「林檎の庭」⇒③ 「手力雄・飛来天神社」末社参拝所⇒④ 「桂昌院」奉納の燈籠⇒⑤ 「東回廊」⇒
    ⑥ 「御蓋山浮雲峰遥拝所」⇒⑦ 「中門・御廊」⇒⑧ 「御本殿」⇒⑨ 「岩本神社」⇒⑩ 「大杉・柏槙」
    ⇒⑪ 「内侍殿」⇒⑫ 「捻廊」⇒⑬ 「風宮神社」⇒⑭ 「七種寄木」⇒⑮ 「後殿」⇒⑯ 「椿本神社」⇒
    ⑰ 「藤浪之屋」⇒⑱ 「多賀神社」⇒⑲ 「宝庫」⇒⑳ 「内侍門」⇒㉑ 「御手洗川」⇒㉒ 「清浄門」⇒
    ㉓ 「直会殿」⇒㉔ 「幣殿・舞殿」

    最初のポイントは、「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社です。近い順から「井栗神社」、「穴栗神社」、「辛榊神社」、「青榊神社」が鎮座しています。「井栗神社」の御祭神は「高御産霊」で安産の神様です。「穴栗神社」の御祭神は「穴次」で幸運を導いてくださる神様です。「辛榊神社」の御祭神は「白和幣」で交渉をまとめてくださる神様です。「青榊神社」の御祭神は「青和幣」で争いを解決に導いてくださる神様です。
    次が、「青和幣」の左手にある「林檎の庭」です。「林檎の庭」は、「春日大社」で行われる祭典の際に、神楽や舞楽などの神事芸能が奉納される庭です。名前の由来は、庭の東南隅に林檎の木が植えられているためにこのように呼ばれています。この林檎の木は、平安時代に「高倉天皇」がこの場所に林檎の木を献木されたそうです。このことは、文永10年(1273年)の「中臣祐賢記」に記録されています。
    「林檎の庭」の先にある石段を上ると右手に「御本殿」近くにある「手力雄・飛来天神社」末社参拝所があるので、ここで参拝します。「手力雄神社」の御祭神は「天手力雄」で勇気と力の神様です。「飛来天神社」の御祭神は「天御中主」で空の旅の安全をお守りくださる神様です。
    「手力雄・飛来天神社」末社参拝所を右方向に進むと右手に「桂昌院」奉納の燈籠があり、釣灯籠が多い「春日大社」の中で、この燈籠は、「春日大社」内に3基しかない燈籠の一つとなっています。「桂昌院」奉納の燈籠は鋳銅製で見事な彫金金物があしらわれ、徳川家の「三葉葵紋」と桂昌院の父がたの本庄家の「九つ目結紋」が施されています。「桂昌院」は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母です。「桂昌院」寺社の復興に尽力されており、東京都文京区にある「護国寺」も天和元年2月(1681年)に、「桂昌院」の発願により創建しました。
    「桂昌院」奉納の燈籠の次は、奉納された釣燈籠が沢山吊るされている「東回廊」です。「東回廊」は東御廊と接する所までで約37mあり、ほぼ中央に「影向門」があります。吊るされている燈籠の間を歩くことができ、ふと自分が平安時代の貴族になったような感じがしました。
    「東回廊」を回り込むようにして進むと「御蓋山浮雲峰遥拝所」があります。「春日大社」の第一殿の御祭神である鹿島の「武甕槌命」が白鹿の背にお乗りになり降臨したのが「御蓋山」頂上でその浮雲峰の「遥拝所」です。この「遥拝所」は浮雲峰から「春日大社本殿」を通り「平城京大極殿」まで続く尾根線上にあります。平城京の東端に位置する「御蓋山」より、宮廷の正殿である「大極殿」へと神様の力が伝わる大変尊い場所なのだそうです。入山は厳しく制限されており、ここから遥拝します。ちなみに、「遥拝」とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むことです。私の住んでいる東京では、千代田区富士見にある「東京大神宮」がかの有名な「伊勢神宮」の遥拝所になっています。
    「御蓋山浮雲峰遥拝所」から案内の矢印に沿って戻ると「中門」とその「御廊」になります。「中門」は、「御本殿」と間違いやすい建物で、「御本殿」の建物と間違えておられる参拝客が多いそうです。何故なら「中門」は、「春日大社」の画像で教科書などもそうですが、よく出てくる代表的な建物だからです。念のためですが「御本殿」は「中門」の奥にあります。「御廊」は「中門」から左右に約13mあり、あたかも鳥が翼を広げたように延びています。現在「本殿」の祭典では、神職の座る場所ですが、昔は「興福寺」の僧侶が常に御経をあげる場所であり、その他にも「東大寺」の僧侶も御経をあげていたそうです。
    「御本殿」は、平城京鎮護のために、最初に鹿島(茨城県)から「武甕槌命」を「春日御蓋山頂」に迎え入れ祭られていました。時は過ぎ、それから数十年後経った神護景雲2年(768年)11月9日に藤原氏の血を引く女帝の「称徳天皇」の勅命により、左大臣「藤原永手」らが現在の場所に神殿を創建して、さらに香取(千葉県)の「経津主命」、枚岡神社(大阪府)に祀る藤原氏の遠祖「天児屋根命」と「比売神」の四柱を併祀したのがその始まりとされています。御祭神は、「浮雲峰遥拝所」に近い方から「第一殿」が「武甕槌命」、「第二殿」が「経津主命」、「第三殿」が「天児屋根命」、そして「第四殿」が「比売神」の順になっています。ちなみに、「天児屋根命」と「比売神」は夫婦で、「天押雲根命」が御子神様であり、初めて個人の願いを聞いてくださった神様だそうです。言うまでもありませんが、「御本殿」の正面からの撮影は禁止となっています。
    「御本殿」の次は「中門」の階段を下ります。するとそこには、「大杉・柏槙」と「岩本神社」が並ぶようにしてあります。手前にある「大杉」は、地上1.3mの位置の幹周が7.94m、高さが23mあります。そして「大杉」は、樹齢約1000年ともいわれています。何故ならば鎌倉時代後期(1309年)の「春日権現験記」には幼木の姿で描かれているからです。「柏槙」は、別名で伊吹ともいわれ、「大杉」の根元から斜めにのびています。「柏槙」は、樹齢は約500年といわれており、樹木を大切にされる春日の神様の託宣(古社記)により、何と重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。私も色々な寺社を訪れましたがこのような衝撃的な光景を見るのは初めてでした。「岩本神社」は、かつでは「住吉社」といわれていましたが、明治初年に、同じく「春日大社」の末社で、奈良高畑丹坂町にある「住吉社」と区別するため、「岩本社」と名称を変更しました。御祭神は、「表筒男命」、「中筒男命」、「底筒男命」の住吉三神です。海神信仰、また歌神信仰があり御神徳は受験合格、和歌の神様などです。
    「岩本神社」のすぐ先には「内侍殿」があります。「内侍殿」は、春日祭の際に御神前で奉仕する内侍が控えていた建物です。当初は宮中より藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしていたそうです。最近では、「内侍殿」は20年に一度の式年造替時に、「御本殿」と「若宮」の神様を一時的に移すので、「移殿」(御仮殿)とも呼ばれているそうです。ちなみに、「式年造替」は同じ場所に社を造るので、新しい社ができるまでは別に住む所が必要になるそうです。
    「内侍殿」に沿って進むと木材が歪んだ空間を醸し出している「捻廊」があります。「捻廊」は「内侍殿」から「御廊」をむすぶ渡り階段のことです。かつては「登廊」と呼ばれていていました。この建物は斜めに階段が付けられており、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てられています。江戸初期に活躍した極めて高い技術を持つ伝説の大工「左甚五郎」が、斜めに階段をつけ、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てたといわれています。
    「御廊」を抜けると、神社の中に木が絡まって生い茂っている「風宮神社」が見えてきます。「風宮神社」の御祭神は「級長津彦命」、「級長津姫命」で、生命を司り、罪穢れを清めるお祓いの神様(子授け)です。「春日大社」ではお祓いは「御本殿」の真西に位置する「風の神様」の御力を頂いて吹き祓うものであると伝えられています。「風宮神社」の御垣の中にあり、絡まって生い茂っているのは、母樹の「カゴノキ」、「ヤマザクラ」、「ツバキ」、「ナンテン」、「ニワトコ」、「フジ」、「カエデ」の七種が共生する珍しいやどり木で、「七種寄木」と呼ばれています。ことから、子授けの御神徳があると言われています。古来、風神の威徳をもって種子を集められたといわれ、やどり木であることから、子授けの霊木と崇められ、紙捻に願い事を書いて結びつける信仰があります。
    「風宮神社」の先を左に曲がると「後殿」が右手にあります。実は「後殿御門」は、明治維新以来長く閉ざされていましたが、「第60次式年造替」を機におよそ140年ぶりに開門されました。「御本殿」の真後ろにあるお庭や「後殿」には、災難厄除けの霊験あらたかな神々が鎮座しています。「浮雲峰遥拝所」に近い方から、「八雷神社」で御祭神は「八雷大神」で雷の力で人々に幸せをもたらす神様です。次が、「柄神社」で御祭神は、「火酢芹命」で出入りの門をお守りくださる神様です。次が「海本神社」で御祭神は、「大物主」で食の安全をお守りくださる神様です。その隣が「杉本神社」で御祭神は、「大山咋」で建物の高層階で生活する人々の安全をお守りくださる神様です。そして、最後が「佐軍神社」で御祭神は、「布津之霊大神」で悪縁を断ち平穏をお守りくださる神様が鎮座しています。
    「後殿」の反対側には「椿本神社」があります。「椿本神社」の御祭神は、「角振神」です。「椿本神社」は「春日明神」の眷属の神様で、「隼の明神」ともいい、御神徳は災難をお祓い下さる神様です。「椿本神社」の名前の由来は、椿の木がこの付近にあったことから、それが社名になったとも伝えられています。また、御例祭は、毎年5月2日に行われます。
    さらに奥に進むと、ミステリアスな「藤浪之屋」があります。「藤浪之屋」は江戸時代まで神職の詰所でしたが、現在では「藤波之屋」を開放し、暗い空間に多数の釣燈籠が浮かび上がっています。「藤浪之屋」では、「春日万燈籠」の神事を幽玄の美を体験することができます。「藤浪之屋」は鏡が張り巡らされていてさらに神秘的な空間となっています。ただし、明るい場所から暗い場所に入るので、目が慣れるまでは足元に気をつけて鑑賞をされてください。ちなみに、「春日大社」には燈籠がたくさんあることで有名です。平安時代から現在までに奉納された燈籠がおよそ三千基あります。そして、「春日大社」では、2月の節分、8月14日・15日の年3回、すべての燈籠に浄火をともす「春日万燈籠」が行われます。さぞかし荘厳な世界に豹変することでしょうね。
    「藤波之屋」の正面斜め左手に「多賀神社」があります。「多賀神社」の御祭神は、「伊弉諾命」で生命を司る延命長寿の霊験高い神様です。「俊乗房重源」が、その昔大仏殿を再建するときに寿命を頂いたというお話があります。御神徳は延命長寿の神様で仕事の完遂をお導きになる神様です。その御神徳を求めて延命長寿の「幡」の奉納が絶えないそうです。また、御例祭は、毎年4月22日に行われます。
    「多賀神社」の前付近に校倉造の「宝庫」があります。「宝庫」は、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物です。古くは春日の神々の大切な御神宝の数々を納めていました。そして、国宝の「大鎧」等は、実は近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の「春日祭」の時に、「本殿」をお飾りする「御神宝」である鏡、太刀、鉾、弓矢などが納められ、3月の「春日祭」の時以外は閉ざされています。
    「宝庫」の先は「西回廊」になっていて「内侍門」があります。「内侍門」は「西回廊」にある三つの門の中で北側にある門です。「貞観儀式」によると斎女や内侍等女性が参入すべき「鳥居」の後継が「内侍門」と考えられているそうです。
    そして、「西回廊」に沿って「御手洗川」があります。「御手洗川」は、春日奥山を水源地とした「水谷川」を分水してできたものです。古くは御供用の水として汲み上げられ、また参拝の際の手水としても利用されていたそうです。「春日祭」では、勅使の「手水の儀」が「慶賀門」を入ったこの流れのそばで行われます。
    次は、「西回廊」の3つある門の真ん中に位置している「清浄門」です。「清浄門」は、現在は神職の通用門ですが、かつては「僧正門」と呼ばれ、「興福寺」の僧侶が参入していた門だったそうです。
    先ほど見た重要文化財の屋根を貫いている「柏槙」がある「直会殿」です。「直会殿」は、東を正面とする南北8間、東西4間の広大な建物で、「素木造」です。東の2間が母屋となり、「春日祭」には、勅使・弁以下の直会の儀式が殿上で行なわれます。平安期以降、ここで法華八講が盛大に行なわれたので、「八講屋」の別名もあります。斜めにのびた「柏槙」(別名「伊吹」)を「直会殿」の屋根に穴をあけて生かしています。樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。
    最後が、「南門」をくぐると正面にある「幣殿・舞殿」です。この建物は、東側2間を「幣殿」といい、「幣殿」は天皇陛下のお供え物である御幣物を一旦納める建物で、天井板は格天井で、「舞殿」と区別されています。西側3間を「舞殿」といい、「舞殿」は、宮中伝来の御神楽を行うための建物で、雨天時に神楽や舞楽を奉納する場所になります。ここが出口になり、「特別参拝」は終わりになります。なお、一般的な参拝は、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」から参拝することができます。

    01_【「春日大社」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8212 奈良県奈良市春日野町160 電話:0742-22-7788
    ⑵ 拝観時間
    ① 本社参拝…開門時間 06:30~17:30(11月~2月07:00~17:00)
    ② 国宝殿…10:00~17:00(入館は16:30まで)
    ③ 萬葉植物園…09:00~16:30(12月~2月09:00~16:00)
    ⑶ 休日…①国宝殿 年3回の展示替の時(各2~3日間) ②萬葉植物園 1・2・12月の月曜日
    ⑷ 拝観料
    ① 本社参拝…回廊内特別参拝のみ有料(500円)
    ② 国宝殿…大人…500円、大学生・高校生…300円、中学生・小学生…200円

    02_【「春日大社」へのアクセス】
    JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から
    ① 奈良交通バス(春日大社本殿行) 約11~15分 「春日大社本殿」下車すぐ
    ② 奈良交通バス(市内循環外回り)約9~13分 「春日大社表参道」下車 、徒歩約10分
    ③ 近鉄奈良駅からぐるっとバス大宮通りルート「春日大社本殿」下車すぐ ぐるっとバス(運賃100円)

    03_【「春日大社」の見どころ】
    ⑴ 「本社(大宮)回廊内」(重要文化財)
    「本社(大宮)回廊内」は、重要文化財に指定されています。「回廊」とは、「本殿」やその他主要な建造物の四方を巡る建物です。「南回廊」は「南門」を中心に東西に21mずつ広がり、両端は北折れして東西の回廊につながります。「東回廊」は約37mでほぼ中央に「影向門」があり東御廊と接する所で終ります。「西回廊」は約57mで南から「慶賀門」、「清浄門」、「内侍門」があります。「北回廊」は27mあり、「西回廊」とのみ接していて「御本殿」の後ろに廻り込む前で終ります。東西の御廊の長さが違うのはこのような構造になっているからです。
    ⑵ 「御本殿」
    「御本殿」は、平城京鎮護のために、最初に鹿島(茨城県)から「武甕槌命」を「春日御蓋山頂」に迎え入れ祭られていました。時は過ぎ、それから数十年後経った神護景雲2年(768年)11月9日に藤原氏の血を引く女帝の「称徳天皇」の勅命により、左大臣「藤原永手」らが現在の場所に神殿を創建して、さらに香取(千葉県)の「経津主命」、枚岡神社(大阪府)に祀る藤原氏の遠祖「天児屋根命」と「比売神」の四柱を併祀したのがその始まりとされています。御祭神は、「浮雲峰遥拝所」に近い方から「第一殿」が「武甕槌命」、「第二殿」が「経津主命」、「第三殿」が「天児屋根命」、そして「第四殿」が「比売神」の順になっています。ちなみに、「天児屋根命」と「比売神」は夫婦で、「天押雲根命」が御子神様であり、初めて個人の願いを聞いてくださった神様だそうです。言うまでもありませんが、「御本殿」の正面からの撮影は禁止となっています。
    《御祭神》
    ① 第一殿…武甕槌命 ② 第二殿…経津主命 ③ 第三殿…天児屋根命 ④ 第四殿…比売神
    《創立》:神護景雲2年(768年)11月9日
    鎌倉初期に書かれた現存最古の由緒記「古社記」には、四所神殿の創建を奈良時代、「称徳天皇」の神護景雲2年(768年)11月9日とされています
    ⑶ 「中門・御廊」
    「中門」とその「御廊」になります。「中門」は、「御本殿」と間違いやすい建物で、「御本殿」の建物と間違えておられる参拝客が多いそうです。何故なら「中門」は、「春日大社」の画像で教科書などもそうですた、よく出てくる代表的な建物だからです。念のためですが「御本殿」は「中門」の奥にあります。「御廊」は「中門」から左右に約13mあり、あたかも鳥が翼を広げたように延びています。現在「本殿」の祭典では、神職の座る場所ですが、昔は「興福寺」の僧侶が常に御経をあげる場所であり、その他にも「東大寺」の僧侶も御経をあげていたそうです。
    ⑷ 「内侍殿(移殿)」
    「内侍殿」は、春日祭の際に御神前で奉仕する内侍が控えていた建物です。当初は宮中より藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしていたそうです。最近では、「内侍殿」は20年に一度の式年造替時に、「御本殿」と「若宮」の神様を一時的に移すので、「移殿」(御仮殿)とも呼ばれているそうです。ちなみに、「式年造替」は同じ場所に社を造るので、新しい社ができるまでは別に住む所が必要になるそうです。
    ⑸ 「直会殿」
    「直会殿」は、東を正面とする南北8間、東西4間の広大な建物で、「素木造」です。東の2間が母屋となり、「春日祭」には、勅使・弁以下の直会の儀式が殿上で行なわれます。平安期以降、ここで法華八講が盛大に行なわれたので、「八講屋」の別名もあります。斜めにのびた「柏槙」(別名「伊吹」)を「直会殿」の屋根に穴をあけて生かしています。樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。。
    ⑹ 「幣殿・舞殿」
    「南門」をくぐると正面にある「幣殿・舞殿」です。この建物は、東側2間を「幣殿」といい、「幣殿」は天皇陛下のお供え物である御幣物を一旦納める建物で、天井板は格天井で、「舞殿」と区別されています。西側3間を「舞殿」といい、「舞殿」は、宮中伝来の御神楽を行うための建物で、雨天時に神楽や舞楽を奉納する場所になります。ここが出口になり、「特別参拝」は終わりになります。なお、一般的な参拝は、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」から参拝することができます。
    ⑺ 「御手洗川」(みたらしがわ)
    「西回廊」に沿って「御手洗川」があります。「御手洗川」は、春日奥山を水源地とした「水谷川」を分水してできたものです。古くは御供用の水として汲み上げられ、また参拝の際の手水としても利用されていたそうです。「春日祭」では、勅使の「手水の儀」が「慶賀門」を入ったこの流れのそばで行われます。
    ⑻ 「宝庫」
    「宝庫」は、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物です。古くは春日の神々の大切な御神宝の数々を納めていました。そして、国宝の「大鎧」等は、実は近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の「春日祭」の時に、「本殿」をお飾りする「御神宝」である鏡、太刀、鉾、弓矢などが納められ、3月の「春日祭」の時以外は閉ざされています。
    ⑼ 「捻廊」
    「捻廊」は「内侍殿」から「御廊」をむすぶ渡り階段のことです。かつては「登廊」と呼ばれていていました。この建物は斜めに階段が付けられており、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てられています。江戸初期に活躍した極めて高い技術を持つ伝説の大工「左甚五郎」が、斜めに階段をつけ、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てたといわれています。
    ⑽ 「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社
    ① 井栗神社…御祭神:高御産霊、安産の神様
    ② 穴栗神社…御祭神:穴次、幸運を導いてくださる神様
    ③ 辛榊神社…御祭神:白和幣、交渉をまとめてくださる神様
    ④ 青榊神社…御祭神:青和幣、争いを解決に導いてくださる神様
    ⑾ 「藤浪之屋」
    「藤浪之屋」は江戸時代まで神職の詰所でしたが、現在では「藤波之屋」を開放し、暗い空間に多数の釣燈籠が浮かび上がっています。「藤浪之屋」では、「春日万燈籠」の神事を幽玄の美を体験することができます。「藤浪之屋」は鏡が張り巡らされていてさらに神秘的な空間となっています。ただし、明るい場所から暗い場所に入るので、目が慣れるまでは足元に気をつけて鑑賞をされてください。ちなみに、「春日大社」には燈籠がたくさんあることで有名です。平安時代から現在までに奉納された燈籠がおよそ三千基あります。そして、「春日大社」では、2月の節分、8月14日・15日の年3回、すべての燈籠に浄火をともす「春日万燈籠」が行われます。
    ⑿ 「林檎の庭」
    「林檎の庭」は、「春日大社」で行われる祭典の際に、神楽や舞楽などの神事芸能が奉納される庭です。名前の由来は、庭の東南隅に林檎の木が植えられているためにこのように呼ばれています。この林檎の木は、平安時代に「高倉天皇」がこの場所に林檎の木を献木されたそうです。このことは、文永10年(1273年)の「中臣祐賢記」に記録されています。
    ⒀ 「西回廊・東回廊・南回廊」
    「南回廊」では、御札・御守り含め多くの授与品はここでいただけます。また「春日大社」御朱印もこちらで受付しています。
    ⒁ 南門
    「南門」は春日大社の「南回廊」にあり、表参道を歩いて回廊内に入る時に潜る門で、高さは12mあり「春日大社」最大の「楼門」です。平安時代中期頃藤原氏の長者や摂関による春日詣がはじまり、その際の参向門とされました。廻廊が作られた頃には現在のような2階建ての立派な「楼門」となり、春日大社の正門としての性格を持つようになりました。ちなみに、「楼門」とは社寺建築に用いられる楼形式の門のことで、二重門ともいいます。二階建てで、下層は屋根なし、上層は切妻造りの屋根をかけ、二階の縁には高欄が取り付けてあります。
    ⒂ 「慶賀門」
    「慶賀門」は「西回廊」にある三つの門の中で南側にある門です。「神山御蓋山」を正面に望む門で、古来正式な「参入門」とされていました。宮中よりお出でになる藤原氏の大臣や上卿はこの門を潜り参入していました。現在の「春日祭」では勅使が藤原氏であればこの門より入ってお祭りを奉仕します。「西回廊」の他の二つの門と異なり天井板は格天井で特別仕様なところからも「春日大社」と藤原氏との深い所縁を感じることができます。
    ⒃ 「清浄門」
    「清浄門」は「西回廊」の中央に位置し、現在は神職の通用門ですが、かつては「僧正門」(そうじょうもん)と呼ばれ、「興福寺」の僧侶が参入していた門です。
    ⒄ 「内侍門」
    「内侍門」は「西回廊」にある三つの門の中で北側にある門です。「貞観儀式」によると斎女や内侍等女性が参入すべき「鳥居」の後継が「内侍門」と考えられているそうです。
    ⒅ 「多賀神社」
    ① 御祭神…伊弉諾命
    ② 御例祭…4月22日
    ③ 御由来・御神徳
    「多賀神社」は、廻廊内の北西隅に位置しています。「多賀神社」は、生命を司る延命長寿の霊験高い神様です。「俊乗房重源」が、その昔大仏殿を再建するときに寿命を頂いたというお話があります。その御神徳を求めて延命長寿の「幡」の奉納が絶えません。
    ⒆ 「椿本神社」
    ① 御祭神…角振神(つのふりのかみ)
    ② 御例祭…5月2日
    ③ 御由来・御神徳
    「本殿」の北西に位置するこちらの御社は春日明神の眷属の神様で、「隼の明神」ともいい災難をお祓い下さる神様です。椿の木がこの付近にあったことから、こちらの神社の名前の由来になったと伝えられています。
    ⒇ 「岩本神社」
    ① 御祭神…表筒男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神
    ② 御例祭…12月16日
    ③ 御由来・御神徳
    「岩本神社」は、かつでは「住吉社」といわれていましたが、明治初年に、同じく「春日大社」の末社で、奈良高畑丹坂町にある「住吉社」と区別するため、「岩本社」と名称を変更しました。御祭神は、「表筒男命」、「中筒男命」、「底筒男命」の住吉三神です。海神信仰、また歌神信仰があり御神徳は受験合格、和歌の神様などです。
    ㉑ 「砂ずりの藤」
    「慶賀門」を入った所の棚造りの藤で、5月初旬頃に花房が1m以上にも延び、砂にすれるということからこの呼名が付けられました。「ノダフジ」の変種といわれています。摂関「近衛家」からの献木と伝えられ、「春日権現験記」にも書かれている古い藤であり、樹齢700年以上といわれます。また、境内の萬葉植物園には、「藤の園」があり、20品種、約200本の藤が植栽されています。
    ㉒ 「七種寄木」
    廻廊内北西隅宝庫の東側「風宮神社」の垣の中にあり、イスノキ、ヤマザクラ、ツバキ、ナンテン、ニワトコ、フジ、カエデの七種が共生する珍しい木です。古来、風神の威徳をもって種子を集められたといわれ、やどり木であることから、子授けの霊木と崇められ、紙捻(こより)に願い事を書いて結びつける信仰があります。
    ㉓ 「御蓋山浮雲峰遥拝所」
    「春日大社」の第一殿の御祭神である鹿島の「武甕槌命」が白鹿の背にお乗りになり降臨したのが「御蓋山」頂上でその浮雲峰の「遥拝所」です。この「遥拝所」は浮雲峰から「春日大社本殿」を通り「平城京大極殿」まで続く尾根線上にあります。平城京の東端に位置する「御蓋山」より、宮廷の正殿である「大極殿」へと神様の力が伝わる大変尊い場所なのだそうです。入山は厳しく制限されており、ここから遥拝します。ちなみに、「遥拝」とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むことです。私の住んでいる東京では、千代田区富士見にある「東京大神宮」がかの有名な「伊勢神宮」の遥拝所になっています。
    ㉔ 「末社参拝所」
    「御本殿」近くにある「手力雄・飛来天神社」末社参拝所があるので、ここで参拝します。「手力雄神社」の御祭神は「天手力雄」で勇気と力の神様です。「飛来天神社」の御祭神は「天御中主」で空の旅の安全をお守りくださる神様です。
    ㉕ 後殿
    「後殿御門」は、明治維新以来長く閉ざされていましたが、「第60次式年造替」を機におよそ140年ぶりに開門されました。「御本殿」の真後ろにあるお庭や「後殿」には、災難厄除けの霊験あらたかな神々が鎮座しています。「浮雲峰遥拝所」に近い方から、「八雷神社」で御祭神は「八雷大神」で雷の力で人々に幸せをもたらす神様です。次が、「柄神社」で御祭神は、「火酢芹命」で出入りの門をお守りくださる神様です。次が「海本神社」で御祭神は、「大物主」で食の安全をお守りくださる神様です。その隣が「杉本神社」で御祭神は、「大山咋」で建物の高層階で生活する人々の安全をお守りくださる神様です。そして、最後が「佐軍神社」で御祭神は、「布津之霊大神」で悪縁を断ち平穏をお守りくださる神様が鎮座しています。ちなみに、「後殿」とは、天皇が儀式や謁見を行う場所が「大極殿」で、その控えの場が「後殿」です。
    ㉖ 春日山原始林
    「春日山原始林」は、奈良県奈良市の市街の東方に位置する原始林で約250haの広さがあります。「春日大社」の神域として古より狩猟や伐採が禁止され、積極的な保護により原始性を保全してきました。奈良の景観保全上においても重要な役割を果たしており、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一要素となっています。「春日山」は「春日大社」の山として神聖視され、樹木伐採が承和8年(841年)から禁じられてきたため、森林が極相に達した原生林が広がっています。ちなみに、「極相」とは、遷移が進んだ結果, それ以上大きな変化が見られない状態を極相といいます。要は、群落全体で植物の種類や構造が安定し、大きく変化しなくなった森林のことです。

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から奈良交通バス(春日大社本殿行)で 約11~15分そして「春日大社本殿」下車すぐのところにあります。
    人混みの少なさ:
    2.0
    春日大社自体は狭いので、参拝客で溢れかえっていました。参道もかなり混雑していました。
    見ごたえ:
    4.5
    全国に約3000社あるという「春日神社」の総本社だけあり、見るべきものは沢山あります。ただし、コンパクトなので見やすいかもしれません。

  • 奈良の大仏様とは55年ぶりの御対面です。スケールの大きさと荘厳さは全く不偏でした。

    投稿日 2023年11月29日

    東大寺 奈良市

    総合評価:4.5

    今回の奈良旅行の大きな目的は、「古都奈良の文化財」として世界遺産に指定されている6つの寺院を巡る旅です。急ぎ足になりましたが、一泊二日で「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」、「元興寺」、「薬師寺」、「唐招提寺」を訪ねてみました。当初は、「鑑真和上像」の特別公開があるので、「唐招提寺」だけ行き、奈良市内をブラブラする予定でしたが、せっかく奈良まで来たので、急きょ予定を変更して、欲張って世界遺産に指定されている寺院も訪ねてみることにしました。
    まず、奈良旅行の第一日目の最初の訪問先は、「東大寺」です。その前にJR奈良駅東口にある「奈良市総合観光案内所」へ行き奈良のお寺のお得な巡り方や交通等の情報をゲットするために訪れました。「奈良市総合観光案内所」を見てびっくりしました。まるでお寺そのものの造りになっていて、今まで旅行してその土地の観光案内所に立ち寄りましたが、こんな立派でモダンな建築物はみたことありません。中に入るとパンフレットも沢山あり、観光客が手に取ってみている姿が目に入りました。インフォメーションカウンターも4箇所くらいあったと思います。並んでいるのは日本人より外国の観光客の方が多かった印象です。まず、最初のポイントとして各お寺を巡る拝観料について質問してみました。京都もそうですが、お寺をたくさん回ると拝観料が馬鹿になりません。京都から奈良に向かう電車の中で、5000円で販売している「六社寺共通拝観券」というものがありました。それを買った方が得かということと、バスの一日乗車券を買った方が得かということを聞いてみました。返ってきた答えが、「六社寺共通拝観券」より個別に拝観料を払った方が安いということでした。ただし、各お寺で散華を貰える、期間限定の特別御朱印がいただけるなどの特典があると丁寧に説明してくれました。また、バスの一日乗車券についても、回るお寺や宿泊するホテルなどを聞き、一日目の訪問先である、「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」なら、最初の「東大寺」までバスに乗り、「春日大社」や「興福寺」は隣接しているので、歩いて回れるので買わなくても大丈夫ということでした。二日目は、「薬師寺」、「唐招提寺」に行くと話したところ、こちらの場合は、バスで片道270円かかるので一日乗車券を買った方が得という答えが返ってきました。各お寺付近のバス乗り場の地図などもこちらから欲しいと言う前に親切にくれました。それと「東大寺」までの奈良駅のバス停の乗場も説明してくれました。こんな親切丁寧な観光案内所も初めてです。そして、余談ですが旧JR奈良駅旧駅舎を改築した観光案内所内には、スターバックコーヒーもありました。
    JR奈良駅西口から「ぐるっとバス」の奈良公園ルートの停留所へ向かうと、バスに乗る観光客の長蛇の列でした。こんなに乗れるかと思うくらいギュウギュウ詰のバスに乗り、待っている乗客がいましたが、満員で途中の停留所はやむなくスルーし、「東大寺大仏殿・春日大社前」停留所で下車しました。所要時間は約13分ということでしたが、奈良公園近くまでは順調に進みましたが、祝日のため車が渋滞していて、東大寺大仏殿駐車場まで25分くらいかかりました。バスを降りると1分もかからないところに「東大寺」への入口である「南大門」があります。
    「東大寺」は、誰もがしっているように学校の教科書にも出てくる奈良の大仏さまで知られる「聖武天皇」の勅願によって建立されたお寺です。世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。「東大寺」は、奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の「国分寺」の中心として建立されました。また、「大仏殿」は世界最大級の木造建造物で、天平15年(743年)に「聖武天皇」が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、「盧舎那大仏」造立の詔を発し、延べ260万人もの人々の協力によりすべてのものの幸福を願い造られた大仏様は、天平勝宝4年(752年)に、「開眼供養会」が盛大に営まれました。そして、「東大寺」の境内には、「大仏殿」ばかりでなく、創建当時の遺構を残す「転害門」、「法華堂」をはじめ、鎌倉時代復興の代表作である「南大門」、「鐘楼」、江戸時代再建の「二月堂」といった数多くの国宝建造物がたち並び、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。ちなみに、「東大寺」は、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。その他に。世界遺産に登録されている古都奈良の文化財は、「興福寺」、「春日大社」、「春日山原始林」、「元興寺」、「平城宮跡」、「薬師寺」、「唐招提寺」のなど「「東大寺」」を含め8遺産群が平成10年(1998年)に指定されています。
    まず「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。高さ21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにもなります。「南大門」の下の西側(左側)には「阿形」の「金剛力士像(仁王像)」が東側(右手)には「吽形」の「金剛力士像(仁王像)」が配置されています。もちろん「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝へ指定されています。東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。また、夏になると、「大仏殿」や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立つそうです。そして、「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。「金剛力士(仁王) 像」を撮影しようと思いましたが、太陽の日差しが入り込んでうまく取れませんでした。
    「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。
    少し進むと「東大寺」の「鏡池」があります。そして、「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」で、その紅葉に彩られた姿にはしばし足を止め見とれてしましました。他の観光客も美しい紅葉の風景をカメラにおさめていました。カメラで夢中になっていて、気が付かなかったのですがふと足元をみると鹿が日光浴でもしているのでしょうか、足元に横たわっていました。ちなみに、「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。
    「鏡池」の反対側には、「谷川喜六建立慰霊碑」と「会津八一歌碑」が並ぶようにしてあります。向かって左側にあるのが「谷川喜六建立慰霊碑」、右側にあるのが「会津八一歌碑」です。「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」さんが、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。
    「会津八一歌碑」の少し先の左手に「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれてありました。目の前には、「東大寺」の「中門」がそびえ立っているので、見逃される確率の高い穴場スポットです。参道は坂になっていて途中の左手に「五百立神社」、そして坂を上り切ったところに「鉄道職員殉職者供養塔」の石造十三重塔が建っています。「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。「五百立神社」は、最初なんと読むのかと思い、その場でスマホを検索し調べてみたところ、「五百立」と書いて「イホタチ」と読むそうです。日本語はつくづく難しいですね。「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。
    「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道を下ると左手に「大仏殿」への入口である「中門」があります。「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。
    「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。
    「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。
    「大仏殿」を出て左側に進むと、短い距離ですが目を引く紅葉のトンネルがあり、その奥の突き当りには「手向山八幡宮」があります。「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、本殿の手前右側には「東大寺」から移築された校倉造の「宝庫」(重要文化財)があります。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。
    「手向山八幡宮」を左に折れると正面に「法華堂(三月堂)」があります。「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。
    「法華堂(三月堂)」をさらに奥に進むと右手に「二月堂」があります。勾配の急な石段を上り切ると「手水舎」があり、何と水が飲めると書いてありました。「二月堂」には、もう一か所に「手水舎」がありますがこちらの水は飲めませんと注意がきがありました。「二月堂」の舞台に到着し、そこから眺める風景は素晴らしいものです。急勾配の石段を上り息が切れることさえ忘れさせてくれます。「二月堂」へは、昼間と娘の薦めもあり夜間のライトアップへの計二回訪れてみました。ライトアップされた幻想的な「二月堂」と光がともる奈良の街並みを見ると何とも言えない気分になってきました。「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目〜3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。お見逃しなく!
    次は、「東大寺」裏手にある「正倉院」へ向かいました。「正倉院」へ向かう途中の築地塀のような塀が並んでいる風景がとても印象的でした。また、「大仏殿」を後ろから見るとその大きさには驚かされました。そして「正倉院」へ着いたのですが、残念ながら祝日は開放していないというで見学することができませんでした。
    最後が「戒壇堂」です。「正倉院」の前にあるイチョウ並木を通り「戒壇堂」に到着しました。天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂、講堂、僧坊、鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。

    01_【「東大寺」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒630-8587 奈良市雑司町406-1 電話: 0742-22-5511
    ⑵ 拝観時間
    ① 大仏殿…4月~10月 開門7:30 閉門17:30 11月~3月 開門8:00 閉門17:00
    ② 法華堂(三月堂)・戒壇院千手堂…開門8:30 閉門16:00
    ③ 拝観料…大仏殿、法華堂(三月堂)、戒壇堂…大人(中学生以上)600円、小学生300円
    ※ お堂ごとに入堂料が必要となります。

    02_【「東大寺」へのアクセス】
    ⑴ 奈良交通バスを利用して
    ① [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
    ・5停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約11分 
    ・9時から17時の間に1時間平均4便:[JR奈良駅)]毎時 10分、25分、40分、55分発
    ・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
    ② [JR奈良駅)] ⇒[藤原台・山村町・鹿野園町行き]≪奈良交通:57・58・61・62≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(2番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
    ・4停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約8分 
    ・9時から17時の間に1時間平均3便~6便
    ・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
    ⑵ ぐるっとバスを利用して
    ① [近鉄奈良駅)] ⇒「ぐるっとバス大宮通りルート」または「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
    ・バス乗り場:「近鉄奈良駅(1番出口)」(ぐるっとバスのりば:B5、R7)
    ・2停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約4分 
    ・9時から17時の間に「大宮通りルート」または「奈良公園ルート」1時間平均各4便
    ・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
    ② [JR奈良駅西口)] ⇒「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
    ・バス乗り場:「JR奈良駅西口(ぐるっとばすのりば: R5)
    ・4停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約13分 
    ・9時から17時の間に1時間平均4便
    ・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
    ⑶ 電車を利用して
    近鉄「奈良駅」出口から徒歩約20分、1400m

    03_【「東大寺」の主な見どころ】
    「東大寺」は、国宝や重要文化財に指定されている歴史的価値が高い建造物が多いお寺です。その中でも特に世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。
    ⑴ 「南大門」
    「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにも及びます。門の中は西側に「阿形」、東側に「吽形」の「金剛力士」(仁王)像が配置されています。「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝へ指定されています。建仁3年(1203年)に当時の仏師によって、わずか69日で仕上げられたというから驚きです。夏になると、大仏殿や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立ちます。「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。
    ⑵ 「南大門の金剛力士像」
    東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。
    ⑶ 「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカ
    「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。
    ⑷ 「鏡池」と池に浮かぶ島にある「厳島神社」
    「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」です。ちなみに、「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。池の中央にひっそりと佇むこの神社は思いのほか神秘的な雰囲気を漂わせています。
    ⑸ 「谷川喜六建立慰霊碑」
    「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」さんが、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。
    ⑹ 「会津八一歌碑」
    「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。
    ⑺ 「五百立神社」
    「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。
    ⑻ 「鉄道職員殉職者供養塔」
    「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。
    ⑼ 「中門」
    「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。
    ⑽ 「大仏殿」
    「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。
    「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。
    ⑾ 「手向山八幡宮」
    「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、「宝庫」(重要文化財)は「東大寺」から移築された校倉造の建築物です。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。
    ⑿ 「法華堂(三月堂)」~東大寺最古の建造物~
    「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。
    ⒀ 「二月堂」
    「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目〜3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。
    ① 「修二会」 3月1日~3月14日
    「東大寺二月堂」の「修二会」は、天平勝宝4年(752年)に、東大寺開山良弁僧正の高弟「実忠和尚」が始めたそうです。それ以来、令和5年(2023年)で1272回になり、連綿と歴史を未来に向かい繋いでいます。「修二会」の正式名称は「十一面悔過法要」で、「修二会」は、「二月堂」の本尊「十一面観音」に「東大寺」の僧侶が全ての人の罪過を悔い改めて国家の安泰と人々の豊楽を祈る法要です。一般によく親しまれるのは12日の「お水取り」で、「修二会」の別名ともなった行事です。
    ア たいまつ上堂…1日~13日19:00(12日は19:30、14日は18:30) 毎日10本(12日は11本)
    イ お水取り…12日深夜(13日未明)
    ⒁ 「戒壇院戒壇堂」
    天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂・講堂・僧坊・鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    近鉄奈良駅から徒歩約20分です。バスは大変混雑しています。乗れない可能性があるので、近鉄奈良駅から歩いた方が賢明かもしれません。
    人混みの少なさ:
    2.0
    東大寺はもちろんのこと、奈良公園付近は大混雑でした。ランチを食べようと思ったらどこも人が並んで結構待ちました。
    見ごたえ:
    4.5
    奈良時代創建の代表的な寺院で、その中でも世界最大級の木造建築物である大仏殿の迫力とスケール大きさには驚かされました。

  • 昔ながらの伝統を受け継ぎ、今なお最高の料理とサービスを提供してくれる至福のホテル

    投稿日 2023年11月19日

    上高地帝国ホテル 上高地

    総合評価:5.0

    今回の旅行の宿泊先は、安曇上高地にある「上高地帝国ホテル」で二泊します。「上高地帝国ホテル」は、ひっそりとした木立の中に佇み、いすスイスやアルプスの山小屋を思い起こさせる赤い三角屋根がシンボルの山岳リゾートホテルです。「上高地帝国ホテル」の歴史を紐解いてみると日本初の本格的山岳リゾートホテルとして昭和8年(1933年)に開業しました。メーンエントランスを入ると正面には、ホテルのシンボルマントルピースがあります。フロントは、右手にあり、リゾートホテルなので部屋数も少ないせいかこじんまりとしていますが、昔懐かしいフロントと言う感じがします。今日は小雨が降っていて、残念ながら周囲の散策はできませんでした。また、客室は、穂高連峰の雄大な景色を楽しめるベランダ付きの部屋を期待していたのですが、正面エントランス側で眺めはよくありませんでした。15:00ころホテルに到着したので夕食まで時間があるので、ホテルの館内の探検の旅に出ました。小雨が降っていましたが、正面エントランス側とベランダ側からホテルの外観を撮影しました。ホテルの正面エントランスを入ると右手にあり、入口右手には、宿泊者専用の貸出用の傘、ポンチョ、クマよけ錫が配備してありました。もちろん無料で利用することができます。その左手には、路線バスやシャトルバスの時刻表と料金が載っている「お知らせ」ボードがありました。「お知らせ」ボードの裏側は、今日の天気、最高気温、最低気温、マントルピースの点火式の案内、タクシー予約などのお知らせ事項が掲出してありました。そこを左手に進むと古風で格式あるエレーベータ―があります。その前には、「帝国ホテル」と創始者の一人である「渋沢栄一」の歴史年表が掲出されています。さらに奥に進むと左手に8:00から20:00まで営業している「ギフトショップ」があります。「ギフトショップ」の前には、小暮真望作による上高地、穂高連峰、河童橋、上高地帝国ホテル開業90周年記念作品の「シルクスクリーン版画」が多数展示されています。さらにその奥には、フランス料理のレストランである「ダイニングルーム」があります。正面エントランス方面に戻るとマントルピースがあるロビーラウンジ「グリンデルワルト」の左側に現在の「上高地帝国ホテル」の模型が、右手には開業当時の「上高地帝国ホテル」の模型があります。階段を数段上りロビーラウンジ「グリンデルワルト」に入ると、目の前には「マントルピース」が、左奥には、バー「ホルン」がありました。「グリンデルワルト」の階段を降り左手に進むと、「水汲み場」があります。「水汲み場」では、六百山に降った雪や雨が地面にしみ込み、少しずつろ過され湧き水を引き込んでいます。ペットボトルに入れ翌日散策に持ち歩くことができます。もちろんその場でも飲めます。さらに進むと「読書室」があり、上高地等に関する蔵書や写真が展示されていました。新聞各紙も常備してありました。「読書室」の前には、今夜の夕食会場である日本料理「あずさ庵」がありました。
    そこうするうちに17:00からの「マントルピースの点火式」が始まる時刻が近づいてきました。ツアーコンダクターの説明だと20分くらい前に会場であるロビーラウンジ「グリンデルワルト」に来るといい席が確保できると言うことなので、家内と娘の三人で会場に行きました。もちろん見学するのは無料です。一応、係員が飲み物のオーダーを取りに来ますが、注文しなくても大丈夫です。上高地の湧水で淹れたコーヒーが美味しいということなので、コーヒーを注文しました。コーヒーは滑らかな舌触りで、香りが口の中で広がりました。
    「マントルピースの点火式」は、夏場以外の日中の気温が15℃以下となる寒い時期に、夕方5時からホテルのベルマンによる火入れ式が行われます。会場の照明が落とされ火入れ式が始まりました。ベルマンがマントルピースの槇に火をつけ、フイゴで空気を送ると瞬く間に火が燃え盛りました。一足早いクリスマスといった感じですが、周囲には木の香ばしい香りが漂い、ほんのり温かくなりました。
    「マントルピースの点火式」のイベントが終了したところで、いよいよ夕食です。本日の夕食は、日本料理「あずさ庵」です。「前菜」は柿のクリームチーズ白和え、出汁巻き玉子いくらがけ丸十含め煮、松茸佃煮、モロッコインゲン、揚げ銀杏、小松菜お浸し、天子南蛮漬けです。柿とクリームチーズが合うのかと思いましたが、意外とクリーミーであっさりして美味しいと感じました。次は、「御椀」で、蓮根餅、松茸、紅葉人参、法蓮草、柚子が入った上品な味でした。次の「造り」は、鮪、間八、それと地元で捕れた信州サーモンで、どれも新鮮で、臭みはなく、刺身の苦手な私でも美味しく食べられました。メーンの「焼物」は飛騨牛グリル焼き信州茸味噌ソースです。飛騨牛は非常に柔らかく、口の中で溶けてなくなりました。信州茸味噌ソースとの相性も抜群です。次は、「煮物」です。お椀の中に、ひろうす、南京、法蓮草が入っていて、柚子が味を一層引き立てました。次が、「御飯又は蕎麦」で、私は「信州蕎麦」を、家内と娘は「松茸御飯」をチョイスしました。蕎麦は若干腰がありますが、喉越しは最高でした。「松茸御飯」には、贅沢にも松茸とウニが添えられていました。締めのデーザーとは、あんずプリン、シャインマスカット、長野パープル、栗のおやきで、あんずプリンにはあんずの果肉がたくさん入っていて、プリンの味を引き立ててくれました。アルコール類は、「おすすめ飲み比べセット」をオーダーしました。純米大吟醸山恵錦アルプス正宗、吉乃川みなも大吟醸、純米吟醸中取り原酒アルプス正宗の三種類を堪能できました。翌日は、ネイチャーガイドとホテルから明神池までの3時間の散策になりますので、早めに睡眠をとりました。
    第二日目の朝食は、昨夜に引き続き日本料理「あずさ庵」です。海鮮サラダ(真鯛、ホタテ、スモークサーモンを豆板醤ドレッシング、ミックスサラダをチーズディップドレッシング)、茶碗蒸し、焼物(鮭の塩焼き)、小鉢(ひじきの煮物)、ご飯又はお粥、信州味噌汁、香の物、果物と種類も豊富で地元の食材も沢山使っていました。私は、お粥を頼みました。お粥にかける餡がこれまた美味しかったです。食事を済ませいよいよ上高地の大自然の散策へ出発です。

    第二日目の夕食は、フランス料理「ダイニングルーム」で頂きました。メニューの内容は、「前菜」がビーツでラッケした信州サーモンのミ・キュイ安曇野コシヒカリのクリームとキャビア、「スープ」が栗のスープ ニョッキと市田柿、「魚料理」が平目と海の幸の白ワイン蒸し木曽の御嶽白菜の優しいソース、「肉料理」が国産牛フィレ肉のパイ包み焼き信州産ポテトのグラタンとトリュフソース、「デザート」が信州産林檎入りクレープのフランベヴァニラアイスクリーム添えそして「飲み物」はコーヒー 小菓子添えでした。特に、何が始まるのかと思いきやデザートのクレープでは、レストランの照明を落とし、果物をフランベし青白い炎がレストランを彩るショーもありました。

    最終日の朝食は、昨夜に引き続きフランス料理「ダイニングルーム」で食べました。アメリカンブレックファストでした。残念ながら、昨夜食べすぎたのかお腹の調子が悪く食べることができませんでした。しかし、朝食を抜いたせいかお腹の調子も良くなり、大正池までの散策に出発しました。

    旅行時期
    2023年11月

  • 鹿鳴館時代を思わせる空間が広がり、昔の潤喫茶の思い出がプレイバックしてくるレトロな喫茶店です。

    投稿日 2023年11月01日

    シルビア 西新井店 西新井・舎人・綾瀬

    総合評価:4.0

    「喫茶シルビア西新井店」は、東武スカイツリー線「西新井駅」西口にある1978年創業の老舗レトロ純喫茶です。「喫茶シルビア西新井店」は、テレビドラマや映画のロケ地としても有名で、「下町ロケット」、「相棒」など数えきれないほどの名作がここで撮影されました。「喫茶シルビア西新井店」へのアクセスは、東武スカイツリー線「西新井駅」の改札口を出て東口へ向かいます。階段を降りると、駅前のロータリーに出ます。右手奥に交番(名称「西新井駅前交番」)があります。実は、「喫茶シルビア西新井店」に行く方法は二つあります。まず、近い方法は、交番の右手の道(グリーンロード)の方へ進みます。左手に「日高屋」がすぐあります。その斜め反対側に「パチンコ屋」があり、そこに狭い道がありますので、そこを東武スカイツリー線に沿って直進すると左手に「喫茶シルビア西新井店」の入口の階段を上れば二階が「喫茶シルビア西新井店」です。もう一つの方法は、交番の右手の道(グリーンロード)を直進すると右手に「セブンイレブン(西新井駅西口店)」があります。そこを右折すると隣が「喫茶シルビア西新井店」になっています。今現在一階の「スロット店宇宙センター」は営業していません。建物に向かって右側の階段を上れば二階が「喫茶シルビア西新井店」です。どちらも歩いて1~2分で距離的にはさほど変わりません。お好きな方を選んでください。若干近い方の最初のルートは、工事中ということもありますが、こんな所を行って本当にあるのだろうかと思えるような心細くなるような道です。
    お薦めは2番目のルートからの行った方が、「喫茶シルビア西新井店」を楽しめるかもしれません。おそらくこちらが正面入口であったと思われます。何故なら階段を上がり入口から入るとドリンクや食品のサンプルが沢山飾ってある「ショーウィンドウ」があるからです。それだけではありません。入口を入るとすぐ右手に「三頭の馬」が描かれている絵、「中世の騎士」が鎧兜をつけ出迎えてくれます。もちろん中に人間は入っていませんが。それと反対側には、これもレトロな雰囲気のある喫煙室がありました。そこを通り店内に入る広々とした鹿鳴館を思わせる空間が広がっています。昭和の中期に全盛期を迎えた純喫茶そのものですがその当時のものと比べると内装は豪華です。フロアが広く、テーブルの間隔もあり、隣のお客さんがあまり気にならないので、ゆったりと過ごすことができます。また、窓側は階段3段ほど上に別フロアが設置されていました。照明のシャンデリアやライトも非常に手の込んだものでした。入店すると係員が席まで案内してくれます。ウェイトレスさんが、水とメニューを持って来てくれました。しかし、ここに来る前からオーダーは決めていました。このような純喫茶での王道と言えば昔から決まっています。それは学生時代の経験から言えばケチャップで調理した「スパゲティナポリタン」、「ハンバーク」が美味しいのです。ところがメニューを見ているうちに「天ざる弁当」で天ぷら5種類、豚肉の温しゃぶ、おいなり、うどんかそばのチョイス、コーヒーか紅茶のチョイス(1100円)に心が移ってしまいました。年齢的にも人気メニューである「バーグナポリ」は、ハンバーグ、ナポリタン、目玉焼き、さらにお味噌汁やライス、サラダ、コーヒーor紅茶も付いてくる贅沢なメニューがあっさりしたものが食べたくなりました。隣からも「天ざる弁当」という声が聞こえたので見てみると私と同じくらいの年代の方でした。料理が出てくるまでの時間店内を観察しました。客層は、中・高校生の親子連れ、大学生の男女、サラリーマン、ママ友、我々老人層と種々様々でした。内装はテレビ等の撮影で使われているので言うまでもなく、レトロで優雅なものばかりです。レジは後ろが三面のステンドグラスになっていて金色の大黒様もいました。そうこうするうちに、料理が運ばれてきました。これ全部食べられるかなあと思えるくらい、値段の割には量が半端なくありました。さて味の方はと言えば、美味しくもなく、まずくもないといったところです。うどんはこしがあり、のど越しも良かったのですが、つけ汁が少々しょっぱかったという感じです。豚肉の温しゃぶは肉も柔らかく、ソースも美味しかったという感想です。温かい天ぷらは5種類(海老、かぼちゃ、白身の魚、なす、ピーマン)もあり、抹茶塩が添えられていました。ちょっと油を落とし切っていないのが気になりました。おいなりは、どちらかというと油揚げの味が引き出されずまあまかなあと言う感じでした。コーヒーは喫茶店だけありコクがあり美味しかったと思います。サービスは、ウエイトレスはサービスの基本ができていました。また来よう思っていますが、今度こそ王道の「バーグナポリ」を食べてみたいと思います。

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    一人当たり予算
    1,500円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    東武スカイツリー線「西新井駅」西口から徒歩2分140mのところにあります。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    値段の割には量が多かったという印象です。コヒーが付くのはいいですね。
    サービス:
    3.0
    良くも悪くもなし、普通ですね。
    雰囲気:
    4.5
    テレビによく出ている店なので、調度品、絵画等も素晴らしいものばかりです。内装も重厚感があります。
    料理・味:
    4.0
    昔食べた正統派の喫茶を思わず思い出させるような味付けです。
    観光客向け度:
    4.0
    西新井近辺には、西新井大師しか見るところないので、帰りに立ち寄るのがいいと思います。行ってみる価値は十分あると思います。

  • 至福の時を過ごせるホテル~身も心も安らぐことができます~

    投稿日 2023年10月12日

    SHIROYAMA HOTEL kagoshima 鹿児島市

    総合評価:5.0

    鹿児島旅行で観光の起点として宿泊したホテルが「SHIROYAMA HOTEL kagoshima(城山ホテル鹿児島)」です。わずか一日の滞在でしたが、身も心もリフレッシュでき、ラグジュアリーな至福の時間を楽しめるホテルでした。次回、鹿児島に来たらまた泊まりたいという衝動を起こさせてくれる「城山ホテル鹿児島」でした。

    旅行時期
    2023年01月

  • 歴史ある神社だけあり見どころ満載です。

    投稿日 2023年09月07日

    千住神社 北千住・南千住

    総合評価:4.0

    「千住神社」を訪れまず驚かされたのは、「参道入口左手に「足立郷社千住神社」の看板を見た時です。看板
    には、「御鎮座926年足立の歴史とともに…悠久1100年の御神徳」と書かれていました。なんと千年以上の歴史のある由緒ある古刹だということです。そして、「千住神社」の参道を奥に進むにつれて千年の歴史あるモニュメントをたくさん発見しました。「千住神社」には、「鳥居」が「一之鳥居」から「三之鳥居」まであり、参道の両側には奉納灯籠が多く置かれて、地域の人々の信仰の深さと「千住神社」がこの地域の人々の心の支えになったということを感じます。そして参道の両側には、芭蕉の句碑はもちろんのこと沢山見るべきものが所狭しと並んでいます。「手水舎」では龍の吐水口より水が出て身を清める事ができます。
    その先には、天高くそびえる2本の銀杏の御神木があり、足立区の指定保存樹として指定されています。そして 現在は夫婦銀杏の間に橋が架かっていて、神橋渡りができる形になっています。特に、パワースポットとして人気があるそうです。私もひそかに願い心に秘めて橋を渡りました。次に、本殿へ行く手前に「神狐像」と「狛犬像」が待ち構えていました。「神狐像」は狐山の頂上に、「狛犬像」は子犬を優しく抱きかかえていました。それぞれ一対の像となっています。参道を進むと正面に「千住神社」の「社殿」が見えてきました。東京大空襲によって「夫婦銀杏」以外の建物は焼失したそうです。もちらん「旧社殿」も例外ではありません。そして、「社殿」は、昭和33年(1958年)に再建されたものです。拝殿前には一対の天水桶があります。なんか由緒ある古めかしい桶ですが、これがなんと、安政5年(1858年)に奉納されたものです。幕末の動乱期だけでなく、東京大空襲にも難をのがれたということですね。
    そして、「社殿」の右手奥には「境内社七社」が鎮座しています。この七社の中で特に、興味深かったのが、「願かけ恵比寿像(千住宿千寿七福神)」です。末社恵比寿神社を分霊し「千寿七福神」の恵比寿天として祀られています。とても珍しい「まわる恵比寿様」です。
    また、「境内社七社」の隣には、江戸時代中期に信仰が盛んになった「富士塚・千住富士」があり、7月1日の山開きの日のみ登拝可能です。「富士塚・千住富士」を見て出口に向かうと左手に「神輿庫」があります。「神輿庫」の中では「一之宮大神輿」が有名で、5年に一度の9月大祭では、千住の町を一日かけて巡行するそうです。そして最後に他ではなかなか見られない戦争の爪痕を今に伝える「防空壕」がありました。昭和20年(1945年)の東京大空襲が激しくなり、ここに掘られたそうです。とにかく色々なモニュメントがあり、是非、「千住神社」に足を運んでください。周辺にもいろいろな見学スポットも数多くあります。

    次に、「千住神社」の歴史を遡ってみたいと思います。「千住神社」は、千住(千寿)に集落が形成され始めた、延長4年(962年)丙戌年に、土地鎮護と五穀豊饒を祈って、「伏見稲荷」より分霊を勧請し、「稲荷神社」を創立しました。永承6年(1051年)に源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ッ森(現在の千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと古記録に記載されています。更に、弘安2年己卯年(1279年)に武蔵国の「一の宮氷川神社」の御分霊を勧請し、「氷川神社」を創立しました。このため鎌倉時代より江戸時代には、ここを「二ッ森」と云っており、旧考録には、代々の将軍が「二ッ森」で、鷹狩りを行ったという記事が記録されています。寛永年間には、千住が日光街道の第一宿となり、「千住神社」は、その西方にあるために、「西の森」とも云われました。江戸時代までは、「稲荷神社」と「氷川神社」の二つの神社がありましたが、明治5年(1872年)11月18日に、両社は「村社」と定められ、更に翌明治6年(1873年)6月には、「稲荷神社」を「氷川神社」に合祀し、「西森神社」と名を改めました。明治6年(1873年)7月5日に、足立区内最高唯一の「郷社」と定められ、更に大正4年(1915年)12月15日から「千住神社」と改称しました。昭和20年(1945年)4月に、戦災にあい、全ての建物は焼失してしまいたが、昭和33年(1958年)以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備されました。

    ★01_《千住神社のお薦め参拝順路》
    ①:「千住神社」の社号碑と「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑」⇒②:「一之鳥居」⇒③:「二之鳥居」⇒④:「手水舎」⇒⑤:「納札所」⇒⑥:「御神木」⇒⑦:「三之鳥居」⇒⑧:「神狐像」⇒⑨:「狛犬像」⇒
    ⑩:「社殿」⇒⑪:「境内社…経王稲荷神社」⇒⑫:「境内社…末社(火伏せ三社)」⇒⑭:「天満宮」⇒
    ⑮:「境内社…廻転恵比寿」⇒⑯:「延命稲荷神社」⇒⑰:「富士塚・千住富士」⇒⑱「神輿庫」⇒
    ⑲:「防空壕」 

    ★02_《「千住神社」の見どころ》「
    ⑴ 「千住神社」の社号碑と「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑
      参道入口右手に「千住神社」の社号碑、右隣には「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑があります。永承6年(1051年)に、源義家(八幡太郎)は奥州征伐の際に、荒川(現在の千住大橋付近)を渡り千住神社に陣営して、神前に戦勝祈願したと伝えられています。
    ⑵ 千住神社」の由緒の石碑と「千住神社」の解説板及び「千住神社」の保存樹林(足立区指定第25号)
    ⑶ 「一之鳥居」
    「一之鳥居」は、慶応2年(1866年)に建立されたものが現存しています。
     ⑷ 「防空壕」
    ”平和の大切さを伝える”「防空壕」:昭和20年(1945年)に、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。簡易なものから強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。(千住神社歴史保存会より)
     ⑸ 「二之鳥居」
       「二之鳥居」は大正15年(1926年)に建立されたものです。
     ⑹ 「手水舎」
    「二之鳥居」潜ると参道の左手に「手水舎」があります。龍の吐水口より水が出て身を清めることができます。
    「手水の作法」…手水とは参観前の前儀として心身を清浄にすることをいいます。
    ① 柄杓を右手で取り、まず左手を濯ぎます
    ② 柄杓を左手に持ちかえ、右手を濯ぎます。
    ③ 柄杓を右手に持ちかえ、左手のひらに水を注ぎ、その水で口を濯ぎます。
    ④ 最後にもう一度左手を濯ぎ、柄杓を立て残りの水にて柄杓の柄部分を洗い流し、元に戻します。
     ⑺ 「納札所」
    「納札所」は、「手水舎」の左手奥に「納札所」があります。
    「納札所」の解説文…ここはお護り頂いた御守・御札を納めるところです。(格子戸を手前に開きお納めください。) お気持ちは社殿正面の賽銭箱へ納めて下さい。近年お焚き上げの規則が厳しくなっております。ぬいぐるみやプラスティック製品等の環境上燃やせない物、また陶器類、金属等の不燃物はお持ち帰りいただき、お塩、お酒を少量まき、お清めののちご処分頂くようお願い申し上げます。(千住神社社務所)
     ⑻ 「御神木」(足立区指定保存樹)
    「御神木」は、天高くそびえる2本の銀杏の大木、この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほほ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。 現在は両銀杏の間に橋が架かっていて、神橋渡りができる形になっています。また、パワースポットとして人気を博しています。
     ⑼ 「三之鳥居」
    「三之鳥居」は、「手水舎」の先に「三之鳥居」があります。大正12年(1923年)の関東大震災が起きた年に建立されています。
     ⑽ 「富士塚・千住富士」
    「富士塚・千住富士」は、大正12年(1923年)に富士塚と浅間神社が建立されました。現在の富士塚は昭和11年(1936年)に再築されたものです。千住富士と呼ばれ富士講より崇敬を集めました。「千住富士(御祭神は木花咲耶比売命[このはなさくやひめのみこと])で、7月1日の山開きの日のみ登拝可能です。江戸中期に富士信仰が盛んになり「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚が作られました。宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあり、当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が、脈々と受け継がれていました。現在の富士塚は昭和11年(1936年)に再築されたものです。」
    ⑾ 「神狐像」:
    「神狐像」は、参道を進むと途中に一対の神狐像があります。よく見ると獅子山ならぬ狐山があり、狐が山の山頂にいます。「千住神社」は稲荷様と氷川様が合祀された神社であるため、稲荷信仰の神使である狐が参道を守っています。神狐像は昭和3年(1928)年9月に、御大典記念として造立されました
     ⑿ 「狛犬像」
    「狛犬像」は、江戸末期(文政13年5月)に、氏子有志によって献納されたものですが、その狛犬の姿が“子供を抱える”、“子を護る”とても珍しい姿です。これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繁昌、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)のお恵みが、特にあらたかであったことによることが理由の一つとされています。
     ⒀ 「社殿」
    「社殿」は、参道を進むと正面に「千住神社」の「社殿」があります。東京大空襲によって「旧社殿」は焼失しました。 戦後の昭和33年(1958年)に再建されたものです。鉄筋コンクリート造で朱色の社殿は、状態もよく整備されています。拝殿前には一対の天水桶があり、安政5年(1858年)に奉納されたものです。幕末の動乱期の幕開けである安政の大獄が始まった頃の天水桶が現存しています。
     ⒁ 「境内社は社地の北側に七社」
    ① 番左手から「経王稲荷神社」(宇迦之御魂命)
    ② 「幸福神社(大国主命・事代主命)・八幡神社(品陀別命)・三峯神社(伊邪那岐命・伊邪那美命・倭建命)」の合殿。恵比寿神社の扁額が掲げられているが、おそらくは大国主命を合祀して幸福神社と改号したいわれています。
    ③ 「天満宮」(菅原道真)は片葉天神社とも称されています。
    ④ 廻転恵比寿は「末社恵比寿神社」を分霊し、千寿七福神の恵比寿天として祀られました。とても珍しい「まわる恵比寿様」です。願掛けの作法が決まっており、男願掛け方法の方法は、①実際に恵比寿様をお触りいただきながら男性は左へ三回まわし、女性は右へ三回まわしてください。②祈願箇所をハンカチで、それぞれ願いの言葉を三回念じながら三回なでる。③恵比寿様をなでたハンカチはご自宅へお持ち帰りいただき一日三回、なでた場所と同じ部位にあたる自分の身体をなでます。白いハンカチは持参してもよいが、持っていない場合は社務所で初穂料100円にて頂くことができます。
    ⑤ もう一社の稲荷は、「延命稲荷神社」です。こちらの祭神も宇迦之御魂命です。
    ⒂ 「神輿庫」
    《一之宮大神輿》
    文久3年(1863年)製作。「江戸神輿」としては、都内有数の大きさの神輿で、過去『江戸神輿博覧会』において、都内江戸神輿十基の一つに選出された神輿です。五年に一度の九月大祭にて、千住の町を一日巡行渡御致します。
    《一之宮大神輿》
    明治18年(1885年)製作。毎年の千住神社例祭において渡御を致します。祭礼日は、9月の第2週土曜、日曜となっております。

    ★03_《「千住神社」その周辺紹介》
    ⑴ 「千住市場(やっちゃ場)」
    千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39年(1906年)建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4年(1576年)になりますが、史料によれば、公的に市場の形をなしたのは享保20年(1735年)でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。「やっちゃ、やっちゃ」とは市場の競りのかけ声であったと言われています。
    ⑵「千住宿奥の細道プチテラス」
    千住大橋脇の「東京都卸売市場足立市場」の入口にあるのが、「千住宿奥の細道プチテラス」です。千住循環バス「はるかぜ」の待合所を兼ねたおシャレな作りです。「千住宿奥の細道プチテラス」内には、奥州や北陸など「奥の細道」へここから旅立った高さ1・5メートルの白御影石製の松尾芭蕉像と、「日光道中 千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道 千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがある。
    ⑶ 「奥の細道矢立初めの地」
    奥の細道矢立初めの地 千住大橋の足立側に、奥の細道矢立初めの地の碑があります。俳人松尾芭蕉が奥の細道での紀行最初の一句を詠んだのがこの地なのです。松尾芭蕉「奥の細道」600里の旅の始まりの句を詠んだといわれている場所(矢立初めの地)に建てられた記念碑で、千住大橋公園内にあります。松尾芭蕉は1689年(元禄2)年3月に弟子の曾良を伴って深川(江東区)から船で遡上して千住(足立区)に降り立ち、陸奥へと旅立ちました。芭蕉の俳文紀行「奥の細道」には、「千じゆと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに別離の泪をそゝく」「行春や鳥啼魚の目は泪」と旅立ちの地である千住の情景が記されています。
    ⑷ 「石洞(せきどう)美術館」
    石洞美術館は、美術工藝を通しての国際間の文化交流、相互理解の促進、我が国文化の向上を図るため、2006年4月に公益財団法人美術工芸振興佐藤基金によって設立されました。所蔵品は、佐藤千壽(せんじゅ)の収集したコレクションを核としており、美術館の名称は佐藤の雅号「石洞」からきています。
     ⑸ 茶館「妙好」(1F隣接)
    茶館「妙好(みょうこう)」は石洞美術館に隣接し、石洞美術館の入り口右手にある六角形の建物です。足立区の障がい者団体「友愛会」が運営をし、障がい者の方々の自立訓練および社会参加の場となっているそうです。美味しい手作りのケーキもあり一休みすることができます。
    ⑹ 「千住大橋」
    「千住大橋」は、隅田川の東京都区部にかかる橋で、国道4号が通っています。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目で、「旧橋」(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されています。
    ⑺ 「千住宿歴史プチテラス」
     「千住宿歴史プチテラス」は、江戸時代の蔵を改装した歴史資料館で、純和風の前庭と奥庭を配し、ツツジ、楓、ウメモドキなど四季折々の彩が美しいプチテラスです。千住四丁目の元地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を平成5年(1993年)に移築したものです。

    旅行時期
    2023年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    京成本線「千住大橋駅」を利用して「千住神社」へ徒歩9分700m
    人混みの少なさ:
    3.0
    女性の参拝客の比率が多い神社です。
    見ごたえ:
    4.0
    堂宇はもちろんのこと、石碑、悲しい歴を今に残す防空壕もあります。

  • 子供の頃の電車ごっこをしたあの懐かしい思い出が蘇ります。~電車保存部品スポーク車輪モニュメント~

    投稿日 2023年09月05日

    亀田トレイン公園 西新井・舎人・綾瀬

    総合評価:3.0

    「亀田トレイン公園」の周辺は、かつては東武鉄道の西新井車庫と工場があった場所です。子供の頃、電車の車窓から見る東武鉄道の西新井車庫には、白い煙を上げた蒸気機関車が修理点検のために常時あり、それを見るのが楽しみだったのを覚えています。そして、今、ここには、スポーク車輪が線路の上に2組乗っている「電車保存部品スポーク車輪モニュメント」があります。初期の客車や電車、そして貨車は「スポーク付き車輪」を使っていました。タイヤ(踏面)が減ってくると、取り外し、また焼きハメして繰り返し使用していたそうです。右側にあるトイレの壁面には、あの懐かしい昭和30年代の「西新井工場」、「西新井駅周辺」そして西新井付近を走る急行「じょうもう」の写真が埋め込まれています。また、予想外でしたが、車輪の先に目をやると、なんと線路を模したタイルが敷き詰められていました。思わず電車ごっこがしたいという衝動が湧いてきました。子供の頃に、この車輪を使った電車に乗っていたかと思うと感慨深いものがあります。

    旅行時期
    2023年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東武スカイツリー線「西新井駅」東口から徒歩6分450m 東武スカイツリー線「梅島駅」改札口から徒歩7分600m
    人混みの少なさ:
    3.0
    公園のベンチで休む人や犬の散歩をしている人がチラホラいる程度です。
    見ごたえ:
    3.0
    展示物は一つしかありませんが、思い出はそれ以上にあります。

  • 評判通りの洗練された満足できるホテルでした。身も心も十分にリラックスできました。

    投稿日 2023年09月02日

    SHIROYAMA HOTEL kagoshima 鹿児島市

    総合評価:5.0

    アクセスは、山の上にあって心配していましたが、空港から鹿児島中央駅まで行くと便利です。バスの乗り換えの移動距離もなく、重い荷物もくになりません。市内観光には、ホテルから300mくらいの所に、カゴシマシティビューの城山の停留所があり、市内観光をするのにもとても便利でした。また、ホテルの中にはコンビニもありますので、飲み物やお土産まで買うことができます。写真撮影は、展望台があるのでそこから写真を取るとインスタ映えするいい写真も撮ることができます。

    旅行時期
    2023年01月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    1人1泊予算
    30,000円未満
    アクセス:
    4.5
    鹿児島中央駅のバスターミナルからホテルの送迎バスがあり、重い荷物を運ぶ手間はなく、また、移動なしでホテルの玄関まで行くことができます。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    一流ホテルの割には、リーズナブルな値段で宿泊することができます。
    客室:
    4.0
    部屋に入った瞬間、清掃が行き届いていると感じました。窓の向こうは、錦江湾と桜島の雄大な眺め堪能できます。
    接客対応:
    5.0
    非常に親切丁寧な応対をしてくれました。このホテルなら安心して泊まれるという印象を与えてくれます。
    風呂:
    5.0
    やはり、露天風呂は湯量も豊富で、眺めも抜群でした。
    食事・ドリンク:
    4.5
    朝食しか食べなかったので、他のレストランのことは分かりませんが、品数の豊富さ味も満足のゆくものでした。
    バリアフリー:
    4.5
    ホテルの至る所にはバリアフリーが完備されています。当日も足の不自由なお客がタクシーから降りるとドアボーイがホテルの車いすをだしサポートした。

  • 南半球の楽園でもあるオーストラリアの景色が目の前に広がっています。異国情緒溢れる公園です。

    投稿日 2023年09月01日

    ベルモント公園 西新井・舎人・綾瀬

    総合評価:3.5

    足立区は昭和59年(1984年)10月の区制50周年のときに、西オーストラリア州のベルモント市と姉妹都市を提携しました。ベルモント公園は、足立区と姉妹都市である西オーストラリア州のベルモント市との友好と交流を記念して誕生したということです。この公園に来た第一印象は異国情緒にあふれオーストラリアにいるような雰囲気で、一人でも家族連れでものんびりとした時間を過ごせそうです。公園の敷地面積は特に広いというわけでもありませんが、園内にはオーストラリア原産の常緑樹であるユーカリ、フサアカシア、ブラシノキが植えられ、実際にオーストラリアで使われていた赤い電話ボックスもあり目を楽しませてくれます。日本にいながらにして南半球の楽園でもあるオーストラリア気分を味わえる公園がまさにこのベルモント公園ですね。正門を入るとすぐ左手にある人の目を引く2階建てのレンガ造りの建物である「陳列館」があります。これぞまさにオーストリアそのものです。この中にはオーストラリアの工芸品や日用品のほか、ベルモント市からの贈答品が展示されていそうです。また、公園内にあ池には、カモの赤ちゃんが2匹いて、とても和ませてくれました。

    【ベルモント公園の見学巡路】
    《池》⇒《野外彫刻》⇒《赤い電話ボックス》
    ベルモント公園の門は五か所ありますがどれもこれも目を見張るものがあります。それは、公園の舗装(一部)と外周の壁のタイルには、ベルモント市郊外のミッドランドという所で、 その地の土を用いて作られたレンガを輸入して使用しているからです。レンガの色合いはベージュを基調として、エレガンスな落ち着いた色で心を和ませてくれます。まさにこれぞオーストラリアです。旧日光街道(4号)側の2つ目の門から入ると池が目の前に現れます。噴水あり、南半球を思い起こさせる大木あり、また、多数のカモが水面を気持ちよさそうに泳いでいました。池をあとにして側道を進むとかわいらしい野外彫刻があります。この野外彫刻はオーストラリアの彫刻家、ルウ・ランバートさんの作品で、作品名は「流れの出会う場所」です。1992年の足立区国際野外彫刻展に出品されたそうです。
    次は、「陳列館」ですが、「陳列館」の前にはベルモント公園のシンボルである「赤い電話ボックス」があります。この「赤い電話ボックス」はオーストラリアで実際に使用されていたもので、オーストラリアから直接輸入したものです。また、5月頃に開花するオーストラリア原産の木の「ブラシの木」も正門付近にあります。花の形がビンを洗うブラシに似ていることから、この名がつけられたそうです。
    《陳列館》⇒《バラの小道》⇒《広場》 ★「陳列館」の開館日は、土曜日、日曜日、祝日のみ
    それでは、次は「陳列館」に入ってみます。陳列館は2階建てのレンガ造りの建物で、中にはオーストラリアの工芸品や日用品のほか、ベルモント市からの贈答品が多数展示されています。展示物の中でも、特に子どもたちに人気なのが原住民が使っていたブーメランや槍です。「陳列館」は、毎日開放していません。開館日は土曜日、日曜日、祝日となっています。開館時間は4月から9月までは「午前10時から午後4時まで」、10月から3月までは「午前10時~午後4時」となっている。では、陳列館へ入場します。まず、受付左側の「黒鳥のはく製」が目を引きます。オーストラリアから寄贈された黒鳥で昔は元気に池を泳ぎ回り子供たちの人気者だったそうです。次に、色々な生活用品等の寄贈されたものが陳列されていました。子供が目を輝かせる「ブーメラン」、「槍」や「冷蔵庫」、「バター製造機」、「糸紡ぎ機」、「ストーブ」、「食器類」、「時計」など種々様々なものがあります。次に2階に上がります。階段の右側の壁には、友好都市のベルモント、それに関連する写真が飾られていました。特に、目を引いたのがこのレンガ造りの建物のレンガを実際に作った工場の写真でした。二階に上がると友好都市の締結書や両国の交換学生同士の微笑ましい写真やオーストリアから寄贈されたものがたくさん展示されていました。また、ステンドグラスと吹き抜けも目を見張るものがありました。
    「陳列館」を出ると次は「バラの小道」ですがその間にもバラだけでなく、四季折々の花々が目を楽しませてくれます。「バラの小道」の途中には「池田満寿夫」氏の野外彫刻「旅人」もあります。さりげなく展示してありますので見逃さないように注意してください。「バラの小道」を抜けると「広場」です。ゆるやかな勾配があり、子供が走り回るのには申し分ありません。広場には、オーストラリアの代表的な動物である多数の羊の像が散在しています。また、野外彫刻もあります。オーストラリア気分にひたりながら、ベンチも沢山あるので一日中ボーっとしているのもいいかも知れまね。

    旅行時期
    2023年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東武スカイツリーライン「梅島駅」から徒歩となります。距離にして350m、5分足らずで到着します。
    人混みの少なさ:
    3.0
    平日はお年寄りの憩いの場、週末は家族連れが楽しんでいます。

  • 関東厄除け三大師の1つで、1400年の長きににわたり脈々と地域に受け継がれるお大師さまです。

    投稿日 2023年08月31日

    西新井大師(五智山遍照院總持寺) 西新井・舎人・綾瀬

    総合評価:4.5

    西新井大師(総持寺)は、真言宗豊山派の寺院で正式名称を「五智山遍照院總持寺」(ごちさんへんじょういんそうじじ)といい真言宗豊山派の大規模な寺院で「川崎大師」、「観福寺大師堂」(千葉県香取市)と並ぶ「関東厄除け三大師」の1つです。平安時代の天長3年(西暦826年)に、弘法大師が関東巡錫の折に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人たちを救おうと、自ら十一面観音を造り21日間の祈祷を行ったところ、枯れ井戸から清らかな水が湧き、病はたちどころに平癒したと伝わっています。その井戸がお堂の西側にあったことから、「西新井」の地名となったとされています。
    私が特に注目したのは、「大本堂」で目の前で行われる護摩焚きです。燃え盛る炎を前に、火の粉を全身に受けながら読経する僧侶の姿は圧巻で目を見張るものです。また、祈祷時に仏具の生み出す甲高い神聖な音と力強い読経を聞いていると心がなごみ、自然と身を清めることができます。ただし、参拝者の悩みや願いを込めた厄除けの護摩焚きは1日に6回程度ほど行われます。それともう一つあります。山門をくぐるとすぐ左手に「塩地蔵」の御堂があります。まるで雪だるまのように真っ白に塩で覆われています。ここに安置されている地蔵菩薩は、江戸時代からイボ取りに霊験がありと伝えられています。御堂内の塩をいただき、イボにつけるとイボがとれるとのことです。願をかけて功徳があった場合は塩を倍返しするところから塩地蔵と言われています。塩地蔵に類するものは東京都区部では、西新井大師のほかにも約10社寺にあるそうです。
    【ベストな拝観順路と見どころ】
    ①山門(仁王門)⇒②塩地蔵⇒③六角観音堂⇒④大日如来像⇒⑤水屋⇒⑥鐘楼堂⇒⑦延命水洗い地蔵⇒⑧大本堂⇒⑨三匝堂(さんそうどう)⇒⑩水子地蔵⇒⑪不動堂 ⇒⑫加持水の井戸⇒⑬四国八十八箇所お砂踏み霊場⇒⑭弘法大師立像⇒⑮稚児大師像⇒⑯弁天堂⇒⑰十三重宝塔⇒⑱権現堂⇒⑲如意輪堂(女人堂)⇒⑳奥の院⇒㉑出世稲荷⇒㉒書院⇒㉓光明殿

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    5.0
    東武大師線「大師前駅」は、東武スカイツリーライン「西新井駅」で乗り換えます。「大師前駅」から西新井大師参道経由で徒歩3分240mと便利
    人混みの少なさ:
    3.0
    参拝当日は、8月31日の木曜日の9時頃でしたので、境内も人がまばらでした。参道のお店も木曜日定休が多いのでねらい目かも知れません。
    見ごたえ:
    4.5
    見どころは満載です。山門(仁王門)をくぐると目の前には大本堂が威風堂々と構え、すぐ右側の塩地蔵にはじまり、20箇所以上の見どころがあります。

  • 千住大橋のベストスポットは足立区側からの眺めですね。千住大橋の下には千住小橋もあります。

    投稿日 2023年08月30日

    千住大橋 北千住・南千住

    総合評価:3.5

    千住大橋は、隅田川に架かる橋で、国道4号(日光街道)が通行しています。北側は足立区千住橋戸町、南側は荒川区南千住六丁目で、旧橋(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されています。どちらがいいかと言えば、個人的には橋らしい景観をとどめている旧橋の方が好きですね。橋の上に架かっている看板も「橋大」と現代の日本語の表記とは逆で、何となく威厳を感じます。足立区側から眺めた千住大橋と荒川区側から眺めた千住大橋の姿を捉えてみました。やはり見る角度というか方向の違いによって姿がまるで違って見えます。旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行して走っています。千住大橋のベストスポットは足立区側からの眺めでしょうね。それはどこかと言えば、東京都卸売市場足立市場の信号の横断歩道を半分くらい渡った所が千住大橋の旧橋と新橋を一番きれいに見ることができるスポットですね。

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    京成本線の千住大橋駅から徒歩6分ほど450mの距離にあります。アクセスは便利です。都営バスの停留場も橋の両側の近いところにあります。
    人混みの少なさ:
    3.0
    橋を通行する人は、買い物帰りの主婦やサラリーマンそして学生など様々ですがさほど通っていません。
    見ごたえ:
    4.0
    千住大橋は約430年前に誕生しました。とにかくその歴史の悠久の長さには驚きます。外観は見るからに威厳があります。

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