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Lily-junjunさんのクチコミ(10ページ)全318件

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  • 一年の無病息災を願う禊祓神事である寒中水浴大会と中央区唯一の富士塚で有名です。

    投稿日 2024年02月04日

    鉄砲洲稲荷神社 築地

    総合評価:4.0

    「鉄砲洲稲荷神社」へのアクセスは、JR京葉線「八丁堀駅」のB4出口を出ると信号があります。横断歩道を渡り、「鉄砲洲通り」を220mほど道なりに進むと信号(表示名「湊一丁目」)の先の右手に「鉄砲洲稲荷神社」があります。
    「鉄砲洲稲荷神社」は、中央区湊にある稲荷神社です。最初に「鉄砲洲稲荷神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「鉄砲洲稲荷神社」の創建は、社伝によると、平安初期の承和8年(841年)に創建と伝わっています。凶作が続く中、住民達が自らの産土神を「生成太神」として祀り、日々の守護を祈願したことが始まりとされています。室町時代になると少しずつ入江の埋め立てが進み、大永年間(1521年-1527年)頃に更に埋め立てが進むと新しく海岸となった新京橋付近へ遷座しました。社名は、地名から「八町堀稲荷神社」と呼ばれていました。江戸時代の寛永元年(1624年)に、南八町堀と地続きになった鉄砲洲の稲荷橋付近に遷座しました。また、寛政2年(1790年)には、富士塚が築造され、「鉄砲洲富士」と呼ばれ人気を博していました。また、「鐵砲洲稲荷」とも「湊神社」とも呼ばれ、地域や船乗りからの崇敬を集めていたそうです。明治時代に入ると、明治元年(1868年)には、外国人居留地に指定されたため境内が接収されてしまい、明治2年(1869年)に、現在の地に移りました。大正12年(1923年)に、関東大震災が発生し湊一帯は焼け野原となり「鉄砲洲稲荷神社」も建物のほとんどを焼失しました。昭和10年(1932年)に、現在の「社殿」を造営しました。昭和12年(1937年)に、「神楽殿」も再建されました。平成28年(2016年)には、御鎮座千百八十年記念事業として「平成の大改修」が開始され、第一期工事として「富士塚」や「社務所」の解体や建築が行われました。
    それでは「鉄砲洲稲荷神社」に参拝したいと思います。「石鳥居」の前には、社号碑と一対の小さめの狛犬があります。この「狛犬」は、昭和15年(1940年)に奉納されてものです。普通の「狛犬」に比べるとかなり小さめのサイズです。「石鳥居」をくぐると右手に大正14年(1925年)に建立された「百度石」がありました。その先の参道の右手には「手水舎」があります。一般的に「手水舎」には、作法が書かれているのですが、ここでは「戒めの言葉」が掲出されていました。反省と題し、「威張る時には 神に捨てられ 欲張る時には 金に背かれ 妬むときには 友を持ち得ず 興るときには 己を失うのだ 正光(中川正光宮司)」と書かれていました。確かにその通りで納得しました。「手水舎」の先の参道の正面には、昭和10年(1932年)に再建された「社殿」があり、その前には、昭和11年(1936年)に奉納された筋肉隆々でたくましい体格をした「狛犬」があります。「社殿」の右手には、「六番組の火桶」や昭和20年(1945年)に境内の松の根元から発見された「力石」があり、中央区の民有形民俗文化財に指定されています。その右手には、「社務所」があります。「社殿」の左手には、平成14年(2002年)に奉納された「二宮金次郎像」があります。そして、「社殿」の右奥には、中央区唯一の「富士塚」があります。この「富士塚」は、平成29年(2017年)3月に、「平成の大改造」の第一期工事として解体されていた「富士塚」が復興・再築されたものです。「富士塚」に上ることはできませんが、富士塚の周囲をぐるりと回れるように舗装されています。そして、「富士塚」の山頂には、高層ビルを背景に末社「鉄砲洲富士浅間神社」がありました。ただし、「富士塚」は普段の登拝はできませんが、富士山の山開きに合わせて7月1日のみ登拝が可能となるそうです。「富士塚」は、中央区の民有形民俗文化財に指定されています。
    「社殿」の左手には、昭和12年(1937年)に、「神楽殿」も再建された「神楽殿」と「八幡神社」、「琴平神社」、「住吉社」、「浅間社」、「三輪社」、「天満社」が合祀されている境内社があります。さらに「社殿」の右奥には、「針塚」等の石碑もありました。

    01_【「鉄砲洲稲荷神社」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒104-0043 東京都中央区湊1丁目6-7
    ⑵ 「鉄砲洲稲荷神社」の概要
    ①社号…鉄砲洲稲荷神社 ②祭神…稚産霊神、宇迦之御魂大神、豊受姫大神
    ③境内社…八幡神社、琴平神社、住吉社、浅間社、三輪社、天満社
    ⑶ 鉄砲洲稲荷神社所蔵の文化財
    ①鐵砲洲稲荷神社社殿(中央区民登録文化財) ②鐵砲洲稲荷神社の富士塚(中央区民登録文化財)
    ③鐵砲洲稲荷神社の力石(中央区民登録文化財) ④鐵砲洲稲荷神社富士塚内の力石(中央区民登録文化財)

    02_【「鉄砲洲稲荷神社」へのアクセス】
    ⑴ JR京葉線「八丁堀駅」B4出口から徒歩4分250m
    ⑵ 東京メトロ日比谷「八丁堀駅」A4出口から徒歩6分400m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    JR京葉線「八丁堀駅」B4出口から徒歩4分250m

  • 船の通行に配慮した橋脚の高い橋が名前の由来です。

    投稿日 2024年02月04日

    高橋 (橋梁) 両国

    総合評価:3.0

    「高橋」へのアクセスは、JR京葉線「八丁堀駅」のB4出口を出ると目の前に「高橋」(西詰)があります。
    「高橋」は、正保年間(1644年-1647年)頃に架けられた橋で、「高橋」の名前の由来は、亀島川の河口近く江戸湊からの船の通行が多いので、橋脚の「高い橋」(太鼓橋)を架けたことによるそうです。明治15年(1882年)鉄製トラス橋に架け替え、大正8年(1919年)に3径間コンクリートアーチ橋に架け替えられましたが、この際約50m上流に移設されています。そして、現在の「高橋」は、老朽化のために、昭和59年(1984年)3月に架け替えられた「鉄製ホイルトラス橋」です。やはり、「赤穂浪士」が引き上げの時に渡った橋の一つです。ちなみに、「高橋」は、管理者である東京都中央区によれば「たかばし」と濁って読むのが正式だそうです。「高橋」で気に入ったことは、アーチ形の欄干から南高橋や下流側の川幅が広いので佃の高層マンションが一望でき、右岸がすぐ道路(鉄砲州通り)となっていることなどもあって、なかなか見晴らしがよいことです。

    01_【「高橋」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒104-0033 東京都中央区新川2丁目9-13
    ※ 西詰…中中央区八丁堀3・八丁堀4 東詰…中央区新川2丁目
    ⑵ 長さ…34.70m 幅…23.80m

    02_【「高橋」へのアクセス】
    ⑴ JR京葉線「八丁堀駅」B4出口すぐ
    ⑵ 東京メトロ日比谷「八丁堀駅」A4出口から徒歩5分350m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ日比谷「八丁堀駅」A4出口から徒歩5分350m

  • 堀部安兵衛は、けんか安兵衛とか大酒呑みのイメージがありますが、実は柔和で小貞実な人物だったそうです。

    投稿日 2024年02月04日

    堀部安兵衛武庸之碑 日本橋

    総合評価:3.5

    「堀部安兵衛武庸の碑」へのアクセスは、東京メトロ日比谷「八丁堀駅」のA4出口を出て、進行方向に直進すると40mほど先に信号(表示名「八丁堀」)があります。横断歩道を渡り右折し、50mほど「八重洲通り」を直進すると、「亀嶋橋」の手前(西詰)の左側に「堀部安兵衛武庸の碑」があります。
    「堀部安兵衛武庸の碑」は、地元の八丁堀一丁目町会が昭和44年(1969年)8月に建立したものです。「堀部安兵衛武庸の碑」を読んでみると、「堀部安兵衛」が京橋水谷町の儒者である「細井次郎大夫家」に居住したという記載があります。これをもとに京橋水谷町に「堀部安兵衛」が住んだことがあるということで、この記念碑を建立したのでしょうね。ただし「京橋水谷町」というのはここではなく、現在の銀座一丁目にありましたが、火事になり、享保4年(1719年)に八丁堀に移転になりました。ということは、「赤穂義士」の討ち入り、切腹後になっていましますが、「八丁堀一丁目町会」の方々は水谷町の故地、京橋水谷町に「堀部安兵衛」が住んだことがあるということで、おそらく「堀部安兵衛武庸の碑」を建立したのでしょう。
    「堀部安兵衛」は、寛文10(1670)年5月に、越後の新発田藩士であった「中山弥次右衛門」の長男として生まれました。「中山安兵衛」は、14歳のときに、父親の「中山弥次右衛門」が浪人の身となってしまい、中山家の再興を志し、江戸へ旅立ちました。牛込町天龍寺(新宿区納戸町)に居住。江戸での「中山安兵衛」は、江戸随一といわれた「堀内道場」で剣術を学び、師範代を勤めるほどになりました。また、堀内道場の同門で、伯父と甥の義を結ぶこととなる「菅野六郎左衛門」や高名な儒者となる「細井広沢」とも親交を深めたそうです。元禄7年(1694年) 2月2月11日には、歴史的にも名高い「高田馬場の決闘」を繰り広げました。元禄7(1694年)6月には、赤穂藩士「堀部弥兵衛」が養子に迎えたいと訪ねて、「堀部弥兵衛」の娘「ほり」と結婚して「堀部安兵衛」がここに誕生したのです。「堀部安兵衛武庸の碑」には安兵衛の略歴と法名が刻まれています。

    01_【「堀部安兵衛武庸の碑」の一口メモ】
    所在地…〒104-0032 東京都中央区八丁堀1丁目14-7

    02_【「堀部安兵衛武庸の碑」アクセス】
    ①JR京葉線「八丁堀駅」B1出口から徒歩4分280m
    ②東京メトロ日比谷「八丁堀駅」A4出口から徒歩2分130m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅

  • よく見ると亀島橋の欄干が甲羅の形をしています。また、遠くにある東京スカイツリーが川の真ん中に見えます。

    投稿日 2024年02月04日

    亀島橋 日本橋

    総合評価:3.0

    「亀嶋橋」へのアクセスは、東京メトロ日比谷「八丁堀駅」のA4出口を出て、進行方向に直進すると40mほど先に信号(表示名「八丁堀」)があります。横断歩道を渡り右折し、50mほど「八重洲通り」を直進すると、「亀嶋橋」の西詰があります。
    「亀島橋」は、「隅田川」に注ぐ小さな「亀島川」にかかる橋です。「亀島橋」は、元禄時代に架橋されたと言われています。その記事が、元禄12年(1699年)の町触に橋普請の記載があるからです。大正12年(1923年)の関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和4年(1929年)に「鋼上路アーチ橋」として復興されましたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出されました。しかし、現在の「亀島橋」をよく見てみると「亀島橋」の橋の欄干が甲羅の形をしています。そして、上流に目を移してみると、川の真ん中の延長線上に東京スカイツリーがそびえ立って見えます。また、「亀島橋」は、赤穂義士が討ち入り凱旋時に通った橋のひとつといわれています。そして、「亀島橋」の名前の由来は、昔、瓶を売る者が多くいたからという説と、かつて亀に似た小島があったからという説があります。下流に目を移してみると、川は90度近く曲がっていました。

    01_【「亀嶋橋」の一口メモ】
    所在地…〒104-0033 東京都中央区八丁堀1丁目
    ※西詰…中央区八丁堀1・八丁堀2 東詰…中央区新川2丁目
    02_【「亀嶋橋」へのアクセス】
    ⑴ JR京葉線「八丁堀駅」B1出口から徒歩4分280m
    ⑵ 東京メトロ日比谷線「八丁堀駅」A4出口から徒歩2分130m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ日比谷線「八丁堀駅」A4出口から徒歩2分130m
    人混みの少なさ:
    3.0
    通行人以外観光客は見受けられません。
    見ごたえ:
    3.5
    西詰北側の川の真ん中に位置したスカイツリーが素晴らしい景観を生み出してくれます。

  • 深川会議の行われた「富岡八幡宮」を訪れてみて初めてその偉大さと深さに触れることができました。

    投稿日 2024年01月27日

    富岡八幡宮 門前仲町

    総合評価:4.5

    江東区富岡にある「富岡八幡宮」についての情報を発信していきます。「富岡八幡宮」へのアクセスは、東京メトロ東西線「門前仲町駅」の1番出口を出て左方向へ進みます。160mほど直進すると一つ目の信号があり、その先すぐ左手に「富岡八幡宮」の白い石畳の参道と色鮮やかな朱色の「大鳥居」が見えます。
    「深川会議」は、元禄15年(1702年)12月2日「富岡八幡宮」付近の茶屋で行われた「赤穂義士」の最終打合せ会議です。「大石内蔵助」は、「頼母子講」の集まりと称して、「富岡八幡宮」の門前の茶屋にて会合しています。この会合は夜まで詳細な打合せが行われ、「吉田忠左衛門」が一人ひとりに指示を出し、どこから討ち入るのか、どういう役割をになうのかを細かく説明しました。そして、この「深川会議」の最後に、討ち入り前日の夜は、三箇所に集まること、合言葉は山と川、それぞれ得意の武器を使うこと、上野介を見つけたら笛をふいて知らせること、引き上げの時はドラを鳴らすこと、検分の役人との応対の仕方までの16箇条からなる「人々心得の覚」が読み上げられたそうです。まさに、武士としての面目を保ち、どんな状況にも対応できるような用意周到な討ち入りの決め事がここで示されたわけです。

    《「富岡八幡宮」のお薦め参拝巡路》
    ①大鳥居⇒②伊能忠敬像⇒③三等三角点の石碑⇒④大関力士碑(釈迦嶽等身碑、巨人力士身長碑)⇒⑤黄金神輿庫⇒⑥鳳凰の手水舎⇒⑦神馬像⇒⑧社殿⇒⑨富岡八幡宮資料館⇒⑩本殿⇒⑪西側末社(富士浅間社・金刀比羅社、鹿島神社・大鳥神社)⇒⑫富士塚跡⇒⑬横綱力士碑⇒⑭巨人力士手形足形碑⇒⑮永昌五社稲荷神社⇒⑯合末社(花本社•祖霊社•天満天神社•聖徳太子社•住吉神社•野見宿祢社•車祈社•客神社)⇒⑰七渡神社⇒⑱木場木遣之碑⇒⑲木場の角乗の碑

    それでは、早速参拝したいと思います。「大鳥居」を潜ると左手に日本を測量し精密な大日本沿海輿地全図を作成した「伊能忠敬像」、その隣に、世界測地系の採用を記念して建立された「三等三角点」の石碑、右手には歴代大関を顕彰するために建立された「大関力士碑」があります。そしてさらに進むと左手に眩いばかりの日本一の「黄金神輿」が二基展示されています。その先には、金色の鳳凰が参拝者の身を清めてくれる「鳳凰の手水舎」があります。身を清めた後に目を右手にやると「神馬像」とその石碑がありました。「神馬」は“しんば”と読むのでなく“しんめ”と読むそうです。日本語は難しいですね。そして、石段を上れば目の前に「富岡八幡宮」の「社殿」が目の前に現れてきます。やはり有名な「富岡八幡宮」なので、平日にかかわらず参拝者は結構沢山いました。「本殿」に参拝する前に、寄っておかなければならない場所があります。それは、「富岡八幡宮資料館」です。有料で大人なら300円かかりますが、「富岡八幡宮」の社殿の変遷と歴史、綿々と受け継がれている「深川八幡祭り」の様子、相撲と「富岡八幡宮」の関わりとそれにより行われていた「勧進相撲」、享和3年(1803年)に造られ江東区指定有形文化財に指定されている「銅造水盤」など「富岡八幡宮」の歴史と変遷、関連する祭事、周辺地域との関わりがあるものが展示されていて「富岡八幡宮」を詳しく知ることのできる格好の場所です。「富岡八幡宮資料館」の参観が終わったらいよいよ「本殿」へ進み、参拝します。ちなみに、「富岡八幡宮」の歴史を紐解いてみると、「富岡八幡宮」は、寛永4年(1627年)に「菅原道眞」の血を引く「長盛法印」が神託により創建したとされています。源氏の氏神である「八幡大神」を崇めた徳川将軍家の手厚い保護を受けて「深川の八幡様」として古くから庶民に親しまれてきた神社です。特に、毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変賑わいます。また、「江戸勧進相撲発祥の地」としても有名で、境内には「横綱力士碑」、「大関力士碑」があり、現在でも新横綱誕生の際には新横綱の土俵入りが奉納されます。そして、毎年8月15日を中心におこなわれる例祭は、「江戸三大祭」の一つで「深川八幡祭り」として有名です。特に、3年に1度の「本祭り」では、「富岡八幡宮」の鳳凰の飾りがある「御鳳輦」が周辺を練り歩きます。なんと、大小あわせて120数基の「町神輿」やその中で50数基の「大神輿」が勢揃いして一斉に練り歩く光景は迫力もあり壮大な時代絵巻そのものです。参拝を終えた後に、境内の散策をすると見るべきものはたくさんあります。「本殿」の右手には、第12代横綱「陣幕久五郎」が発起人になり歴代横綱を顕彰する碑として建立された「横綱力士碑」と力士の手形と比べることができる「巨人力士手形足形碑」があります。境内には「七渡神社」を筆頭に計17社におよぶ末社があり、このことからも昔からの信仰の中心地であったことがうかがわれます。その他にも「角乗りの碑」や「力持ち碑」などもあり、十分楽しむことができると思います。帰りは下町風情溢れる商店街を散策し、帰路に着きたいと思います。赤穂義士討ち入り「人々心覚」16カ条と見どころは下記に取りまとめてあります。

    01_【赤穂義士討ち入り「人々心覚」16カ条】
    ここで、「吉田忠左衛門」が一人ひとりに指示を出して、同志に示されたのが「人々心覚」という討ち入りの集合場所、吉良上野介の首の処理、引き揚げの方法など16カ条にわたる討入りについての用意周到かつ詳細な決め事でした。その内容は次のようです。
    ① 日が決まったら予て定めた3カ所(「堀部安兵衛宅」・「杉野十平次宅」・「前原伊助宅」)に集合する。
    ② 最後の集合は林2丁目の「堀部安兵衛宅」に集合する。
    ※ 後に「前原伊助宅」に変更されました。
    ③ 定刻(12月6日の午前4時)に出発する
    ④ 「吉良上野介」の首を挙げた時は、「吉良上野介」の上着を剥ぎそれに包んで持参する
    ⑤ 幕府からの検分があった場合には、「上野介の首は泉岳寺の墓に供えたい」という。それが認められなければ仕方がないが、「お歴々の首は討ち捨てがたい。お指図次第で吉良家に返してもよいが、泉岳寺の墓所にお供えしたい。」と言う。
    ⑥ 「吉良左兵衛義周」の首を取った場合には、持参する必要はなく打ち捨て屋敷に置いておく。
    ⑦ 負傷者は、肩にかけて引き取れるものは引取り、引取りが難しいほどの重傷者は首を切る。
    ⑧ 「上野介父子」の首をとったら合図の小笛を吹く。
    ⑨ 鉦の合図は全員が引き上げる時に使用する。
    ⑩ 引き上げる場所は「回向院」とする。ここが駄目なときは「両国橋東詰め広場」とする。
    ⑪ 引き上げの途中、押しとどめる者がいたら事情を告げる。「無縁寺に引き上げ、公儀に趣旨を申上げるつもりであるので、寺までついてきて見てもらってもよい、一人も逃げるものはない」という。
    ⑫ 吉良邸からの追っ手には踏みとどまって勝負する
    ⑬ 吉良上野介の首を取る前に検使が来たら、くぐり戸から1人だけ外へ出て挨拶をする。その時、「ただ今 敵を討ちとめている。生き残った者を呼び集め、命令に従うので、しばらく待って頂きたい」と言って、門は開けない
    ⑭ その時、門内にぜひ入りたいと言われても、「討ち入ったものたちは方々で戦っているので、今門内に入られても万一のことがあるかもしれないので、どうでしょうか、追っ付け、門を開いてお目にかかる。」と言って門を開けてはいけない。
    ⑮ 引き上げ出口は裏門とする
    ⑯ 討入りは生きて帰れぬ必死の覚悟で行うものである。

    02_【「富岡八幡宮」の一口メモ】
    ⑴ 所在地 〒135-0047 東京都江東区富岡1丁目20-3 電話:03-3642-1315
    ⑵ 御祭神 応神天皇(誉田別命) 外8柱
    ⑶ 「富岡八幡宮資料館」
    ① 参観料…ア 大人300円 イ 小人(小中学生)150円(1階のみ大人200円 小中学生100円)
     ② 開館日…繁忙期以外随時(社務所にて入館受付)
     ③ 1階展示室のみ撮影可

    03_【「富岡八幡宮」へのアクセス】
    1 電車を利用して
    ⑴ 東京メトロ東西線「門前仲町駅」1番出口から徒歩2分160m
    ⑵ 都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」5番出口から徒歩5分400m
    ⑶ JR京葉線「越中島駅」3番出口から徒歩11分850m
    2 バスを利用して
    ⑴ [東京駅丸の内北口] ⇒[錦糸町駅前]≪都営バス:東22≫
    ・バス乗り場:「東京駅丸の内北口」(東陽町駅前経由): 4番のりば
    ・11停留所目(「不動尊前(東京都)」の次の停留所) 所要時間約20分 
    ・9時から17時の間に1時間平均4~5便 
    ・「富岡一丁目」下車で下車し「富岡八幡宮」入口まで徒歩1分100m
    ⑵ [錦糸町駅前] ⇒[門前仲町]≪都営バス:07系統≫
    ・バス乗り場:「錦糸町駅前南口」(東陽町駅前経由): 2番のりば
    ・18停留所目(「木場二丁目」の次の停留所) 所要時間約27分 
    ・9時から17時の間に1時間平均10~12便 
    ・「富岡一丁目」下車で下車し「富岡八幡宮」入口まで徒歩1分100m

    04_【「富岡八幡宮」の見どころ】
    ⑴ 「大関力士碑」
    表参道の「大鳥居」を潜ってすぐ右手には、歴代大関を顕彰するために建立された「大関力士碑」があります。「大関力士碑」は明治の頃に、歌舞伎役者の9代目「市川団十郎」と5代目「尾上菊五郎」により寄進されていた2基の仙台石を活用し、初代大関「雪見山」から最近では力士の「小錦」、「霧島」まで、104人の歴代大関の四股名が彫り込まれています。またその傍らには「巨人力士碑」、「巨人力士手形足形碑」、「強豪関脇碑」、「釈迦ヶ嶽等身碑」等一群の顕彰碑が立ち並んでおり、境内奥の右手にある「横綱力士碑」とあわせて、相撲名所として相撲ファンに親しまれているそうです。
    ⑵ 「伊能忠敬銅像」
    「伊能忠敬銅像」は、表参道の「大鳥居」を潜ってすぐ左手にあります。「伊能忠敬」は、日本を測量し精密な地図を作成した人物です。「伊能忠敬」は、江戸時代の商人、測量家で、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)までの17年間をかけて、全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させました。歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにし、初めて金星の子午線経過を観測した人物です。「伊能忠敬の墓」は、国指定史跡に指定されています。「伊能忠敬」は寛政7年(1795年)50歳の時に、19歳年下の「高橋至時」の弟子となり、西洋暦学を学びました。なんと「伊能忠敬」の深川の自宅に幕府の天文台に比べても見劣りしない観測機器を揃え、天文台にこもって昼は太陽、夜は恒星を観測し、天体の観測や測量技術にかけては「高橋至時」の門下第一の実力を備えたといわれています。「伊能忠敬銅像」は、平成13年(2001年)10月20日に建立されました。ちなみに、何故「富岡八幡宮」に「伊能忠敬銅像」があるかと言うと測量旅行出発にあたっては必ず当宮を参拝していたことから建てられたそうです。深川周辺には忠敬翁隠宅跡のほかにも、「伊能忠敬」が天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、「伊能忠敬終焉の地」などが点在しています。
    ⑶ 「日本一の黄金神輿」
    「富岡八幡宮」には、元禄時代に「紀伊国屋文左衛門」が寄進した3基の「神輿」がありましたが、大正12年(1923年)に発生した「関東大震災」で焼失してしまいました。それ以来、長い期間、「宮神輿」がありませんでした。佐川急便の会長が平成3年(1991年)に日本最大で神輿で「高さ」が4.4m、「重量」が約4.5トン、純金・宝石が散りばめられた絢爛豪華な「一宮神輿」が奉納されました。ちなみに「一宮神輿」は非常に大きく、重すぎて今まで担がれたことはありません。
    ① 御本社一の宮神輿
    ア 製作年…平成3年(1991年) イ 作者…第十六代浅子周慶 ウ 型…屋根延金地塗神輿 
    エ 台輪幅…5尺(1m51cm) オ 屋根幅…9尺5寸(2m89cm) カ 高さ…14尺5寸(4m39cm)
    キ 重量…約4.5トン 
    ケ 装飾
    鳳凰の胸…ダイヤ7カラット、鳳凰の目…ダイヤ4カラット(1対)、鳳凰の鶏冠…ルビー2,010個
    狛犬の目…ダイヤ3カラット(2対)、隅木の目…ダイヤ1カラット(4対)、
    小鳥の目…ダイヤ1カラット(4対)、屋根…純金24kg、その他プラチナ、銀、宝石多数使用
    ② 御本社二の宮神輿
    ア 製作年…平成9年(1997年) イ 作者…第十六代浅子周慶 ウ 型…屋根延金地塗神輿
    エ 台輪幅…4尺5寸(1m36cm) オ 屋根幅…7尺5寸(2m27cm) カ 高さ…10尺8寸(3m27cm)
    キ 重量…約2トン ケ 装飾…鳳凰の目、ダイヤ2.5カラット(1対)
    ⑷ 「手水舎」
    「富岡八幡宮」の現在の「手水舎」は、昭和8年(1933年)に当時の氏子総代であった「木村徳兵衛」、「関口安五郎」の二人によって奉納されたもので、東京大空襲の災禍を免れて、戦後も使用されてきました。そのため、「手水舎」の老朽化に伴い、屋根の銅板葺き替えと木部の洗い直し、水盤も一新され鳳凰型の吐水口からはセンサーで自動に給水されものにアップグレードしています。なお享和3年(1827年)に奉納された旧水盤は江東区の「指定有形文化財」となっており、「富岡八幡宮資料館」の1Fに収蔵展示されています。
    ⑸ 「富岡八幡宮資料館」
    「富岡八幡宮資料館」は、昭和58年(1983年)に設立されました。「富岡八幡宮資料館」は、地下1階地上2階建ての鉄筋造りで、建築面積は約100㎡あります。「富岡八幡宮資料館」の設立の経緯は、度重なる災害により社宝の多くを失ってしまいましたが、旧深川、京橋、日本橋などの下町の古民具や郷土史料を後世に残す事を目的に設立されたそうです。1Fの展示品は、地域とのつながりを考慮し、船大工が使用する木挽き道具や、深川浜の漁師が使用していた網などの漁具、米問屋で使用していた大福帳などの他、庶民が使用した煙草盆などの古民具およそ数百点余りを展示しています。また、「富岡八幡宮」と相撲興行とのかかわりから、力士をモチーフにした浮世絵も展示されています。2Fは、14世紀~18世紀の中国・朝鮮の陶磁器を展示しています。なぜ、中国・朝鮮の陶磁器を展示しているのかと言うと、実はすごいことに「富岡八幡宮」宮司が東アジア文化史研究者であった経緯からだそうです。
    ① 参観料…ア 大人300円 イ 小人(小中学生)150円(1階のみ大人200円 小中学生100円)
    ② 開館日…繁忙期以外随時(社務所にて入館受付)
    ③ 1階展示室のみ撮影可
    【「富岡八幡宮資料館」の主な展示品】
    ① 「富岡八幡宮」錦絵・古写真 ② 「深川八幡祭り」古写真 ③ 「勧進相撲」
    ③ 太田正義作「銅造水盤」(江東区指定有形文化財) ④ 伊東深水画「獣王」
    ⑤ 森戸國次画「高原放牧」 ⑥ 竹久夢二作「木場の娘」 ⑦ 花柳章太郎作「ろうけつ染め」
    ⑧ 石井柏亭作 短冊 ⑨ 末社「七渡神社」の扁額、奉納絵馬 ⑩ 深浜先代大神輿
    ⑪ 海苔の養殖具 ⑫ 木場の製材用具 ⑬ 火消刺子 ⑭ 伊能図関連資料 奉納渡辺一郎 貞子御夫妻

    ⑹ 相撲と富岡八幡宮そして「横綱力士碑」
    「富岡八幡宮」は、「江戸勧進相撲発祥の地」として有名です。そのルーツは、江戸時代の貞享元年(1684年)まで遡ります。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまりますが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。江戸幕府より「富岡八幡宮」境内で春と秋の2場所の「勧進相撲」が許され、その後、100年間にわたって本場所が「富岡八幡宮」境内でおこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されたのがルーツで、現在の大相撲へと引き継がれてきました。
    「横綱力士碑」は、明治33年(1900年)、第12代横綱「陣幕久五郎」が発起人となり歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。「横綱力士碑」には、初代「明石志賀之助」から72代「稀勢の里」までの四股名が刻まれています。「横綱力士碑」の大きさは、「高さ」が3.5m、「幅」が3m、「重量」が20トンで、まさに横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。また両側には「伊藤博文」、「山県有朋」、「大隈重信」といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っています。
    ⑺ 「末社」
    「富岡八幡宮」の境内には、「本殿」左右隣に、「七渡神社」を代表とする計17社にもおよぶ末社があります。
    ① 「七渡神社」
    御祭神…市木嶋姫命 例祭日… 6月17日
    「七渡弁天」と親しまれる八幡様の「地主神」です。6月17日の例察には遠方からも参拝者が訪れます。
    ② 「粟島神社」
    御祭神…少彦名命 ② 例祭日…10月15日
    「粟島神社」は、「七渡神社」に合祀されています。裁縫上達の神様として信仰を集めており、2月8日には「献針祭」が行われ、参拝者の折れ針や古針が供えられます。
    ③ 「車析社」
    御祭神…清原頼業命 例祭日…5月14日
    「車析社」は、平安後期の儒学者「清原頼業命」を祀っています。「後嵯峨天皇」の牛車が門の前で動かなくなった故事に基づいて「車折大明神」と称されています。
    ④ 「客神社」
    御祭神…宇受売命 ② 例祭日…5月15日
    「客神社」は、「車析神社」に合祀されています。芸能の神である「宇受売命」をお祀りしています。
    ⑤ 「野見宿禰神社」
    御祭神…野見宿禰命 例祭日…4月24日
    「野見宿禰神社」は、相撲の始祖といわれる「野見宿禰」をお祀りする神社です。「江戸勧進相撲発祥の地」にふさわしい末社です。
    ⑥ 「住吉社」
    御祭神…住吉神 例祭日…6月30日
    「住吉社」は、古くより航海安全、和歌、農耕の神様として信仰されています。
    ⑦ 「聖徳太子社」
    御祭神…聖徳太子命  例祭日…4月22日
    「聖徳太子社」は、「憲法十七条」、「冠位十二階の制定」、遣隋使の派遣など、我が国の基礎を固めた「聖徳太子」をお祀りする神社です。
    ⑧ 「天満天神社」
    御祭神…菅原道真命 例祭日…8月25日
    「天満天神社」、学問の神様として受験生の信仰を集める「菅原道真」をお祀りする神社です。ちなみに「冨岡八幡宮」は「菅原道真」の後裔といわれる「長盛法印」により創建されました。
    ⑨ 「祖霊社」
    御祭神…冨岡八幡宮宮歴代祀職命 例祭日…春分の日・秋分の日
    「祖霊社」は、「冨岡八幡宮」の歴代祖霊が祀られている神社です。神道では祖先を崇めることは神様を敬うことと同様に大切なことと考えられています。
    ⑩ 「花本社」
    御祭神…松尾芭蕉命 例祭日…10月12日
    「花本社」は「祖霊社」に合祀されています。「松尾芭蕉」は深川に仮住居を設け、生涯でもっとも長い住まいであった縁から「冨岡八幡宮」境内に祀られています。
    ⑪ 「永昌五社稲荷神社」
    御祭神…倉稲魂命 例祭日…4月9日
    「永昌五社稲荷神社」は、五穀豊饒、商売繁盛の神様として、特に地元の肥料商関係者から絶大な信仰を集めています。近隣の「稲荷社五社」が合祀された神社です。
    ⑫ 「鹿島神社」
    御祭神…武甕槌命 例祭日…9月1日
    「鹿島神社」は、武勇の神様、旅行の神様として信仰を集める神社です。
    ⑬ 「大鳥神社」
    御祭神…天日鷲命 例祭日…11月酉の日
    「大鳥神社」は、江戸時代より「お酉さま」と呼ばれ、家内安全、商売繁盛の神様として多くの信仰を集めています。11月には「酉の」市が開かれ、縁起物の熊手を求めて多くの参拝者で賑わいます。
    ⑭ 「恵比須社」
    御祭神…事代主命 例祭日…10月20日
    「恵比須社」は、航海安全、商売繁盛の神様で七福神の一つに数えられています。「深川七福神巡り」のコースに含まれており、お正月には多くの参拝者で賑わいます。
    ⑮ 「大黒社」
    御祭神…大国主命 例祭日…5月14日
    「大黒社」は、因幡の白ウサギを助けたことで知られ、国土経営に努力した大国主命をお祀りする神社です。
    ⑯ 「富士浅間社」
    御祭神…木花咲耶姫命 例祭日 7月1日
    「富士浅間社」は、以前は境内に「富士山」があり、江戸で山開きと言えば八幡様というほど人気がありました。現在富士山の山開きにあたる7月1日には江戸時代以来続く疫病除けの「大蛇守り」が授与されて、多くの参拝者が求められます。
    ⑰ 「金刀比羅社」
    御祭神…大物主命  例祭日…10月10日
    「金刀比羅社」は、航海・漁業の守護神として江戸時代中頃に香川の金刀比羅宮から勧請され、深川庶民の間で広く信仰を集め現在にいたっています。
    ⑺ 三等三角点「富岡八幡宮」
    「伊能忠敬銅像」の横には新地球座標系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」も設置されています。これはカーナビゲーシヨンなどに使われているGPSの基準点ともなる21世紀にふさわしい生きたモニュメントです。日本では平成13年(2001年)6月の測量法の改正により日本独自の測地系から世界共通の世界測地系に変更することになりました。社団法人「全国測量設計業協会連合会」が、この世界測地系を採用した記念として、社団法人「全国測量設計業協会連合会の創立40周年」にあたり、このモニュメントを平成13年(2001年)10月に建立しました。ピカピカの御影石の保護石に守られるように、中には三等三角点があります。
    ⑻ 「青銅製の神馬像」
    「鳳凰の手水舎」の右手に目やると、「本殿」へ通じる階段から少し離れたところに「神馬像」とその石碑がありました。「神馬」は“しんば”と読むのでなく“しんめ”と読むそうです。日本語は難しいですね。「富岡八幡宮」の境内に置かれ、腹部には、「富岡八幡宮」の社紋が入れられている青銅製の「神馬像」です。古来から馬は神の乗り物とされ、神は馬に乗って降臨されるものとされてきました。神が参拝者の祈願を成就されたり、神が御幸されるのに、神が乗られる馬は欠かせないものです。そこで、それに備えて、多くの神社が境内の神馬舎などに生馬や馬像を収容している訳です。
    ⑼ 「深川八幡祭り」
    「富岡八幡宮」の祭礼は「深川八幡祭り」とも呼ばれ、「江戸三大祭」の一つです。「深川」、「神田」、「山王」で行われるこの「江戸三大祭」は、下町風の勇み肌「わ­っしょい、わっしょい」の伝統の掛声を今なお堅くに守り、沿道の­観衆からは清め水が威勢良く浴びせられ「水掛祭」と別称されています。3年に一度の「本祭」で氏子町内120数基の「神輿」が繰り出し、その内「54基」の大神輿が勢揃いする連合渡御は圧巻で「神輿深川」の名にふさわしいものである。

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    東京メトロ東西線「門前仲町駅」1番出口から徒歩2分160m

  • "江戸時代には悲惨な事故があった橋です。現在の橋はドイツのルーデンドルフ橋をまねて造りました。

    投稿日 2024年01月27日

    永代橋 日本橋

    総合評価:4.0

    江東区佐賀にある「永代橋碑」についての情報を発信していきます。「永代橋碑」へのアクセスは、 東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」3番出口を出て右方向に道なりに700mほど直進します。「福島橋」を渡り、その先には「永代橋」があります。「永代橋」の手前に「地域安全センター」があり、「隅田川」に降りる階段があります。階段を降り隅田川沿いに上流の方向に150mほど歩くと右手に「永代橋碑」があります。
    「永代橋」の歴史を紐解いてみると、「永代橋」はもともと、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の50歳を祝し、元禄11年(1698年)に深川、永代島方面へと渡る「深川の渡し」に架けられたのが、初代の「永代橋」です。関東郡代の「伊奈忠順」が工事を担当し、「上野寛永寺」の「根本中堂」の造営した際の余材を使っています。「永代橋」の名前の由来は、徳川の世が末永く続く」ようにと、実際には「永代寺・富岡八幡宮の鎮座する永代島に渡る橋」という説があるそうです。「隅田川」にかかる「永代橋」は、元禄11年(1698年)に開通し、江戸随一の長さを誇り、富士山をはじめ眺望がよく、錦絵にも描かれる優美な橋でした。そして、現在では、「清洲橋」とともに「隅田川」を代表する美橋として有名な「永代橋」は、大正12年(1923年)の関東大震災後の「帝都復興事業」として、大正15年(1926年)に完成しました。「全長」は185mの「タイド・アーチ橋」で、ドイツのライン川に架かっていた「ルーデンドルフ橋」をモデルに、「隅田川」の入口に「帝都の門」にふさわしい男性的なデザインとして存在感を誇ってきました。ちなみの、上流に位置する「清洲橋」は、優美な下降曲線を描く女性的なイメージで造られたそうです。竣工当時は佃橋方面まで見渡せる眺望が評判でしたが、現在は佃島の高層ビル群がバックにそびえ、夜ともなると夜景が「摩天楼のよう」と話題になっています。日没から21:00まではライトアップされ、また新たな鋼材を使うことで、100.6mという最大スパンを実現した「鋼アーチ橋」として、平成12年(2000年)に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺産」に選定されました。平成19年(2007年)には、「勝鬨橋」、「清洲橋」とともに国の「重要文化財」に指定されています。しかし、「永代橋」には悲しい過去もあります。それは、江戸時代まで遡ります。11年ぶりに催された文化4年(1807年)8月19日の「深川富岡八幡宮」の大祭で多数の死傷者がでたことです。将軍の世子たちの乗った御座船が「永代橋」の下を通過する間の通行止めが解除され、一斉に群衆が橋を渡ったとき、橋の中央付近が崩れ落ちました。多くの人が転落し、一説によると溺死者は480人という江戸始まって以来の大惨事となりました。今のライトアップされた美しい光景から想像することができませんが、そのような悲しい過去もあったのも事実です。そう思って「永代橋」を眺めると違った「永代橋」が見えてきます。

    01_【一口メモ】
    所在地 〒135-0031 東京都江東区佐賀1丁目1

    02_【アクセス】
    東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」3番出口から徒歩12分950m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」3番出口から徒歩12分950m
    見ごたえ:
    4.0
    橋の上から眺める隅田川と両岸の景色が素晴らしかったです。川の流れは変わりませんが、両岸は著しく発展しています。

  • 赤穂義士が勝利の甘酒粥を振る舞ってもらい、心も体もさぞかし暖まったことでしょう。

    投稿日 2024年01月27日

    赤穂義士休息の碑 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.5

    江東区佐賀にある「赤穂義士休息の地碑」についての情報を発信していきます。「赤穂義士休息の地碑」へのアクセスは、 東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」3番出口を出て右方向に道なりに700mほど直進します。「福島橋」を渡り、その先には「永代橋」があります。「永代橋」の一つ手前の角を右折し、100mほど直進するとプラウド門前仲町ディアージュの入口の前に「赤穂義士休息の地碑」があります。
    元禄15年(1702年)12月14日に「本所松坂町」(現墨田区両国3丁目) の「吉良邸」に討ち入って本懐を遂げた赤穂義士の一行が、一ツ目通りを引き上げる途中で「乳熊(ちくま)屋味噌店」に立ち寄りました。甘酒粥の接待を受けて休息したのちに、「永代橋」を渡って高輪泉岳寺へ向かったといわれています。この由来を記した碑が、昭和38年(1963年)に乳熊ビルの入口に建立されました。「赤穂義士休息の地碑」の碑文によると、「ちくま味噌店」の初代「竹口作兵衛」が赤穂義士の「大高源吾」と同じ俳人「室井其角」の門人であったことから、討入り本懐を果たした義士たちに甘酒粥を振舞ってその労をねぎらったと伝えられています。勝利の美酒ならぬ勝利の甘酒粥ですね。当日は、雪も降っていましたし、甘酒粥で赤穂浪士たちの心も体もさぞかし暖まったことでしょうね。それと「赤穂義士休息の地碑」は、「忠臣蔵」のファンにとっては、聖地の内の一つでありたまらない場所ではと思いました。ちなみに、現在でも、赤穂義士討ち入りの12月14日には甘酒を店先でふるまっているそうです。

    01_【「赤穂義士休息の地碑」の一口メモ】
    所在地 〒135-0031 東京都江東区佐賀1丁目7-1

    02_【「赤穂義士休息の地碑」へのアクセス】
    東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」3番出口から徒歩11分800m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」3番出口から徒歩11分800m
    人混みの少なさ:
    3.0
    赤穂義士討ち入りの12月14日に甘酒を店先でふるまう以外空いています。

  • 発祥の地碑の向こうには、今でも大きなセメント工場が稼働しています。

    投稿日 2024年01月27日

    セメント工業発祥の地 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.5

    江東区の「本邦セメント工業発祥の地」についての情報を発信していきます。「本邦セメント工業発祥の地」を訪れたのは2023年2月14日です。「本邦セメント工業発祥の地」へのアクセスは、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」のB1出口を出ると「清洲橋通り」になります。右方向に道なりに進みます。5つ目の信号を左折し、150mほど直進し、最初の角を左折し、50mほど進むと右手に「本邦セメント工業発祥の地」の石碑や創始者の像があります。
    「本邦セメント工業発祥の地」は、日本で初めてのセメントを作り上げた工場があった場所です。「本邦セメント工業発祥の地」敷地には、創始者である「浅野総一郎」の像と海中に沈められた初期に作製した防波堤の基礎部分のコンクリートがそのままの形で展示されています。これが約150年前に作製されたものとは思えないくらい現状を留めています。創始者の「浅野総一郎」の像は、温和な表情で未来を見つめている感じがします。現在の高層ビル群を予見していたのかのような優しい眼差しです。歴史を遡ってみると明治8年(1871年)に、工部省が、ここで本格的なセメント製造に成功しました。それまでは、高価な外国製のコンクリートを輸入していたのですが、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげました。そして、明治16年(1883年)に創業者の一人である「浅野総一郎」が払い下げを受け、その後民間初のセメント工場として発展しました。ちなみに、当時の国産のセメントの製造方法は、すぐそばの隅田川、仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の上、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげました。現在のセメントは、山で採掘した石灰石と粘土類を粉砕し、1400度で焼成し、誕生したクリンカー(焼塊)を再度粉砕して製造していますが、明治時代に官営工場が採用したのは、湿式焼成法。消石灰と周辺の隅田川の河底泥土を原料に、撹擾池と呼ばれる池中で6:4の割合で混合、水を加えて攪拌し、微粒の混じった泥水を沈殿池に送って沈殿させ、スラリー(沈殿した泥)を乾燥させ、レンガ造りの徳利窯で焼成して、ようやくクリンカー(焼塊)が生み出されるという、手間隙かかる方法だったそうです。

    01_【「本邦セメント工業発祥の地」の一口メモ】
    所在地 〒135-0024 東京都江東区清澄1丁目2-8 

    02_【「本邦セメント工業発祥の地」へのアクセス】
    東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」B1出口から徒歩10分750m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    人混みの少なさ:
    3.0
    穴場のスポットです。
    見ごたえ:
    3.5
    石碑の後ろには、巨大なコンビナートのような工場があります。

  • 歴史の教科書にも登場するエレキテルですが、発明されたオランダでも見世物として使われていたそうです。

    投稿日 2024年01月27日

    平賀源内電気実験の地 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.0

    江東区清澄の「平賀源内電気実験の地」についての情報を発信していきます。「平賀源内電気実験の地」へのアクセスは、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」のB1出口を出ると「清洲橋通り」になります。右方向に道なりに進みます。5つ目の信号を左折し、150mほど直進すると左手に「平賀源内電気実験の地」の石碑があります。
    江東区清澄付近を散策していて、あの静電気発生装置エレキテルで有名な「平賀源内」に関する碑を発見しました。「平賀源内」は、「後藤利春」が著作した「紅毛談」(おらんだばなし)を読んで、「エレキテル」に興味を持ったそうです。そして、「平賀源内」は、エレキテルを長崎で入手し、深川清住町の自宅で模造品の製作に取り組みます。まるで、薩摩の島津藩が本を読んで作成した蒸気機関や反射炉と一緒ですね。「エレキテル」の構造は、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電するという単純な仕組みで、「平賀源内」自身は電気の発生する原理をまったく理解していませんでした。日本はもちろん、発明されたオランダでも見世物や医療器具として使われていたそうです。「平賀源内」が製造したと言われる「エレキテル」は2台残っているそうです。墨田区押上にある「郵政博物館」に収蔵される平賀家伝来の「エレキテル」は、国の重要文化財に指定されています。もう一台は、香川県さぬき市にある「平賀源内先生遺品館」に展示されているそうです。ちなみに、「エレキテル」はオランダ語で電気、電流を意味するそうです。しかし、この「平賀源内電気実験の地」の碑をみて、「平賀源内」の自分で極めると言う追求心と自分も何かにチャレンジしなければと思いました。
    「エレキテル」の構造は、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電するという単純な仕組みで、「平賀源内」自身は電気の発生する原理をまったく理解していませんでした。日本はもちろん、発明されたオランダでも見世物や医療器具として使われていたそうです。

    01_【「平賀源内電気実験の地」の一口メモ】
    所在地 〒135-0024 東京都江東区清澄1丁目2-1

    02_【「平賀源内電気実験の地」へのアクセス】
    東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」B1出口から徒歩10分750m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」B1出口から徒歩10分750m

  • 明治時代に外交官、政治家として活躍し、幕末には坂本龍馬の海援隊 にも参加しました。

    投稿日 2024年01月27日

    陸奥宗光宅跡 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.0

    江東区清澄の「陸奥宗光宅跡」についての情報を発信していきます。「陸奥宗光宅跡」へのアクセスは、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」のB1出口を出ると「清洲橋通り」になります。右方向に道なりに進みます。5つ目の信号の手前右手に「陸奥宗光宅跡」があります。そのすぐ先には「清洲橋」が見えます。
    「陸奥宗光宅跡」は、明治時代に外交官、政治家として活躍した「陸奥宗光」の邸宅跡です。「陸奥宗光」は、明治5年(1872年)から明治10年(1877年)まで、ここ深川清住町(現清澄)に住み、明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。特に、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるいました。また、「陸奥宗光」は、「日英通商航海条約締結」を実現し、「日清戦争」の開戦と講和に関わりました。ちなみに、「陸奥宗光」は、あの「坂本龍馬」の海援隊 にも参加しました。幕末の動乱期を乗り越え、明治政府でも活躍した人物なのですね。

    01_【「陸奥宗光宅跡」の一口メモ】
    所在地 〒135-0024 東京都江東区清澄1丁目5 清洲橋通り

    02_【「陸奥宗光宅跡」へのアクセス】
    東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」B1出口から徒歩8分600m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」B1出口から徒歩8分600m

  • 葛飾北斎の富嶽三十六景や安藤広重の名所江戸百景にも描かれた風光明媚な橋だったそうです。

    投稿日 2024年01月27日

    萬年橋 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.5

    江東区清澄にある「萬年橋」についての情報を発信していきます。「萬年橋」へのアクセスは、東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」のA1出口の右側角を曲がり、そのまま350mほど直進すると最初の信号(表示名:「深川万年橋南」)があります。信号を右折すると50m先に「萬年橋」が姿を現します。
    「川船番所」から20mほどのところに「萬年橋」があります。「萬年橋」は、「小名木川」と「隅田川」との合流点に架けられた橋で、架橋された年代は不詳ですが、寛永年間に、猟師町が出来たときに木橋が架けられ、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。江戸時代には、この橋の北岸に「小名木川」を航行する船を取り締る通船改めの番所である「川船番所」が置かれていました。この番所は寛文年間の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれていました。「小名木川」に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。「万年橋」も虹型をした優美な橋で、また、富士山がきれいに見える名所として知られ、「葛飾北斎」の「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として描いています。また、「安藤広重」の「名所江戸百景」には、「深川万年橋」として描かれています。現在の橋は、昭和5年(1930年)に震災復興橋梁として架けられ、長が56.6m、幅が17.2m、架設形式は1径間鋼製アーチ橋として完成いました。この橋の東側には「新小名木川水門」が設置され、西側には「松尾芭蕉」の住居である「深川芭蕉庵」がありました。「赤穂義士」も「泉岳寺」に引き上げる際に、「一之橋」、「萬年橋」、「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」、そして「永代橋」を渡り江戸市中に入りました。

    01_【「萬年橋」へ一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒135-0024 東京都江東区清澄2丁目14-9
    ※ 北詰…江東区常盤1丁目 南詰…江東区清澄1丁目・清澄2丁目
    ⑵ 長さ…56.3 m 幅…17.70m
    ⑶ 架設形式…1径間鋼製アーチ橋

    02_【「萬年橋」へのアクセス】
    ⑴ 都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」A1出口徒歩6分400m
    ⑵ 都営大江戸線・都営新宿線「森下駅」A1出口徒歩9分650m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」A1出口徒歩6分400m
    人混みの少なさ:
    3.0
    観光客の姿は見かけませんでした。

  • 夜間の出船や女性の通行、鉄砲などの武器や武具、物資の出入りなどを取り締まっていたそうです。

    投稿日 2024年01月27日

    川船番所跡 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.0

    「川船番所」は幕府により設けられた番所で、「萬年橋」の北岸に置かれ、川船を利用して「小名木川」を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありません。恐らく正保4年(1647年)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から「小名木川」を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田や日本橋など江戸の中心部へ運ばれました。明暦3年(1657年)の大火後に、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661年)に現在の江東区大島の9丁目付近の「中川口」に移転しました。以後「中川番所」として機能することとなり、「川船番所」は「元番所」と呼ばれたそうです。ちなみに、「中川番所」は、寛文元年(1661年)に、江戸を出入りする船が頻繁に訪れる中川にできたのが「中川番所」です。夜間の出船や女性の通行、鉄砲などの武器や武具、物資の出入りなどを取り締まっていたそうです。江東区と言えば大部分が埋立地ですね。江戸時代からすでに埋め立てられ船舶等の交通の要所になっていたというのを初めて知りました。

    01_【「川船番所跡」の一口メモ】
    所在地 〒135-0006 東京都江東区常盤1丁目2-5

    02_【「川船番所跡」へのアクセス】
    ⑴ 東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A1出口から徒歩6分450m
    ⑵ 都営大江戸線「清澄白河駅」A7出口から徒歩9分700m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅

  • 庭園から眺める隅田川と小名木川の水辺の風景は感動的です。もちろん入場料は無料です。

    投稿日 2024年01月27日

    芭蕉庵史跡展望庭園 両国

    総合評価:4.0

    江東区常盤にある「芭蕉庵史跡展望庭園」についての情報を発信していきます。「芭蕉記念館分館」へのアクセスは、東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」のA1出口の右側角を曲がり、そのまま350mほど直進すると最初の信号(表示名:「深川万年橋南」)があります。その横断歩道を渡り、右方向に進み「万年橋」を渡り最初の十字路を左折し、道なりに直進すると突き当りの堤防の左手に「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」があり、「芭蕉記念館分館」へ入る門があり、階段を上ると「芭蕉庵史跡展望庭園」で、「芭蕉庵史跡展望庭園」は、「芭蕉記念館分館」の上にあります。
    「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)は、隅田川テラス沿いの隅田川が小名木川と合流するところにあります。「芭蕉庵史跡展望庭園」から見る四季折々の水辺の風景は、「松尾芭蕉」が愛した場所です。「芭蕉庵史跡展望庭園」内には、「芭蕉翁像」や「芭蕉庵」のレリーフがありました。何と「芭蕉翁像」は17時に回転するそうです。残念ながら、「芭蕉庵史跡展望庭園」が開園している時間は9:15~16:30なので、像が回転しているところは間近で見ることはできません。「芭蕉記念館分館」は、公民館のように有料で会議室を貸し出す施設なので、見る価値はあまりありません。いずれにせよ「芭蕉翁像」や「芭蕉庵」のレリーフを見ていると、歴史的背景や松尾芭蕉が愛した当時の風景が目の前に浮かんできます。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒135-0006 東京都江東区常盤1丁目1-3 電話番号…03-3631-1448
    ⑵ 営業時間…9:15~16:30
    ⑶ 休業日…第2・第4月曜日(但し祝日の場合は翌日)
    ⑷ 入場料…無料

    02_【アクセス】
    ⑴ 東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A1出口から徒歩8分600m
    ⑵ 都営大江戸線「清澄白河駅」A7出口から徒歩9分700m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A1出口から徒歩8分600m
    人混みの少なさ:
    3.0
    数名の観光客が庭園からの景色と展示物に魅入っていました。
    見ごたえ:
    4.0
    庭園から眺める隅田川と両岸の景色が素晴らしかったです。

  • 数々の名作の舞台となった深川芭蕉庵ですが、今は稲荷神社になっています。

    投稿日 2024年01月27日

    芭蕉稲荷神社 木場・東陽町・清澄

    総合評価:3.0

    江東区常盤にある「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」についての情報を発信していきます。「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」へのアクセスは、東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」のA1出口の右側角を曲がり、そのまま350mほど直進すると最初の信号(表示名:「深川万年橋南」)があります。その横断歩道を渡り、右方向に進み「万年橋」を渡り最初の十字路を左折し、道なりに直進すると右手に「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」があります。
    「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」は、「松尾芭蕉」が江戸深川に居を構えた「深川芭蕉庵跡」です。40mほど先の隅田川沿いには、「芭蕉庵史跡展望庭園」や「江東区芭蕉記念館」があり、この周辺は「松尾芭蕉」ファンにとって必見の歴史散策スポットです。「深川芭蕉庵」は、延宝8年(1680年)に門弟の「杉山杉風」から草庵の提供を受けたもので、元禄2年(1689年)の「奥の細道」も、この「深川芭蕉庵」が旅の起点となっています。ただし、「奥の細道」では、隅田川を遡り、千住で下船し、日光街道を北上するルートをとっているため、千住が「奥の細道 矢立初めの地」ということになっています。また、「奥の細道矢立初めの地」は「千住大橋公園」内にあります。「奥の細道矢立初めの地」は「松尾芭蕉」の「奥の細道」の600里の旅の始まりの句を詠んだといわれている場所です。ちなみに、「松尾芭蕉」が蕉風俳諧を確立した句として有名な「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」も貞享3年(1686年)にこの「深川芭蕉庵」で詠んだ句だそうです。「松尾芭蕉」は全国をまわり色々な所にその足跡を残していますね。足立区と荒川区の「奥の細道 矢立初めの地」論争もおもしろいものですよ。いずれにせよ「隅田川」を遡り、千住で下船し、日光街道を北上したのは間違いありません。
    肝心の「芭蕉稲荷神社」は、江東区常盤1丁目にある稲荷神社です。「芭蕉稲荷神社」は、大正6年(1917年)の台風による高潮が来襲の後に、「松尾芭蕉」が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故「飯田源太郎」等地元の人々の尽力により、ここに石蛙を御神体として稲荷を祀って「芭蕉稲荷」が創建されました。この辺りに芭蕉の住んだ芭蕉庵があったとされ、大正10年(1921年)の東京府により常盤1丁目が旧跡に指定されました。

    01_【一口メモ】
    所在地 〒135-0006 東京都江東区常盤1丁目3-12

    02_【アクセス】
    ⑴ 東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A1出口から徒歩6分500m
    ⑵ 都営大江戸線「清澄白河駅」A7出口から徒歩9分750m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A1出口から徒歩6分500m
    見ごたえ:
    3.0
    芭蕉庵だったことを感じられるものが数点しかありませんでした。

  • 現在の「新大橋」より200m下流、「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。

    投稿日 2024年01月27日

    旧新大橋跡 両国

    総合評価:3.0

    江東区の「旧新大橋跡」についての情報を発信していきます。「旧新大橋跡」へのアクセスは、都営大江戸線「森下駅」のA7出口を出て右方向に進みます。一つ目の十字路を右折し、380mほど直進すると突き当りになります。横断歩道を渡り左方向に50mほど進むと、「表示名:「万年橋北」」の交差点の手前に「旧新大橋跡」の碑があります。
    前述の「新大橋」の説明と同じになりますが、「旧新大橋」は、現在の「新大橋」より200m下流、「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。「旧新大橋」は元禄6年(1693年)12月に、この地先の「墨田川」に架設起工しました。わずか、52日間で完成し、「長さ」が百間、「幅員」が三間七寸ありました。当時、橋名は「両国橋」を「大橋」と称していたので、この橋を「新大橋」といったそうです。また、「松尾芭蕉」は「深川大橋」が建設中に、「深川大橋半ばかかりける頃 初雪や懸けかかりたる橋の上」という句を詠んでいます。また、「松尾芭蕉」は、橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。「松尾芭蕉」も橋の完成が気になっていたのでしょうか。

    01_【一口メモ】
    所在地…〒135-0006 東京都江東区常盤1丁目6-9

    02_【アクセス】
    ⑴ 東京メトロ半蔵門線・都営大江戸線「清澄白河駅」A1出口から徒歩8分600m
    ⑵ 都営大江戸線「森下駅」A7出口から徒歩7分550m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    都営大江戸線「森下駅」A7出口から徒歩7分550m

  • 新大橋は関東大震災と東京大空襲にも耐え、橋の上で多くの人の命が助かったため、別名が人助けの橋です。

    投稿日 2024年01月27日

    新大橋 日本橋

    総合評価:3.5

    「旧新大橋」は、現在の「新大橋」より200m下流の「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。「旧新大橋」は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄6年(1693年)12月に、「墨田川」に架設起工しました。わずか、52日間で完成し、「長さ」が百間、「幅員」が三間七寸ありました。この橋の架設により 江戸市中との交通が便利となり 深川の発展に大きく影響しました。そして、「旧新大橋」のできた経緯は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」が、「隅田川」に橋が少なく不便を強いられていた江戸庶民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられ、西岸には「水戸藩御用邸」、東岸には幕府御用船「安宅丸」の係留地を橋詰としていました。また、当時、橋名は「両国橋」を「大橋」と称していたので、この橋を「新大橋」といったそうです。また、「松尾芭蕉」は「深川大橋」が建設中に、「深川大橋半ばかかりける頃 初雪や懸けかかりたる橋の上」という句を詠んでいます。また、「松尾芭蕉」は、橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。「松尾芭蕉」も橋の完成が気になっていたのでしょうか。その後、「新大橋」は幾度となく架けかえられましたが、明治45年(1912年)7月19日に、現在の位置に鉄橋の「新大橋」が架橋されました。この鉄橋の「新大橋」は、大正12年(1923年)9月1日の午前11:58に発生した「関東大震災」と第二次世界大戦の東京大空襲(1945年)にも耐え、橋の上で多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになりました。そして、昭和52年(1977年)3月27日に現在の橋に架けかえられました。また、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されているそうです。

    01_【一口メモ】
    所在地…〒135-0006 東京都江東区常盤1丁目6-9

    02_【アクセス】
    ⑴ 都営大江戸線「森下駅」A1出口から徒歩5分350m 
    ⑵ 都営新宿線「浜町駅」A2出口から徒歩9分650m

    旅行時期
    2024年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    人混みの少なさ:
    3.5
    車の通行は激しいですが、観光客はほとんどいません。
    見ごたえ:
    4.0
    橋の上から眺める隅田川と両岸の景色が素晴らしかったです。川の流れは変わりませんが、両岸は著しく発展しています。

  • 城壁の上部が白漆喰、下部が黒漆塗りで、黒と白のコントラストのバランスがとれた美しいお城です

    投稿日 2023年11月25日

    国宝松本城 松本

    総合評価:5.0

    「上高地」から「松本城」に向かいました。「上高地帝国ホテル」から「松本城」への所要時間は、バスでほぼ1時間でした。当日は、「松本マラソン2023」が行われているので、渋滞するかと思いましたが、すんなりと松本城近くの「松本城大手門駐車場(大型車専用)」に着きました。ここから「松本城」まで歩いて10分弱でした。「松本城」の「松本城観覧券発売所」付近に「松本城」へ上るには30分待ちと書いたボードがありました。この時点では、すぐ天守閣まで行けるだろうと楽観していましたが、「松本城」の入城口である「渡櫓」まで長蛇の列ができていました。ここからすんなりと行けるかと思いきや甘い考えでした。「松本城」の各階層とも通路が狭く、階段も急で大渋滞です。特に、「天守最上階」とその下の「御座所」は、さらに通路が狭く、階段も一つ一つの間隔が広く、ジェットコースターのような感じで、観光客がすし詰め状態でした。余りにも人が多すぎ、写真に人が写りこんでしまうので、写真を満足に撮ることができませんでした。「松本城」に関して、詳細にここでレポートしていきたいと思います。「松本城」の正面の入口を左手に進むと、「松本城」と「内堀」が見えてきます。「松本城」は起伏のない平らな場所に築かれた「平城」で、「山城」と比べて防御性が低いため、城の周囲にはお堀が造られたそうです。お堀は本丸を囲む「内堀」、「外掘り」と「総掘り」があります。「松本城高麗門」に架かる橋を渡り、「高麗門」をくぐると「松本城観覧券発売所」があります。「本丸庭園」と「天守の観覧」は有料ですので、こちらの「券売所」で入城券を購入します。観覧料は大人700円、小中学生300円です。入場券は松本市立博物館との共通券になっているのでお得です。次に、「本丸」に入る重要な役目を果たした「黒門」をくぐると目の前に「本丸庭園」と「松本城」が目の前に現れます。「黒門」をくぐったすぐ右手には「松本城保存の功労者」が建立されています。左手奥には、「水野忠直奉献灯籠」、さらにその先に進むと日本にある「全国城郭管理者協議会」に加盟している全国49城の写真が展示されています。お城の出口である「月見櫓」付近には、「おもてなし隊」がいて気軽に写真撮影に応じてもらえます。
    「松本城」の歴史等を紐解いてみると、「松本城」は、標高約590mの松本盆地に築城され、築城当時のままの姿が残っている歴史的価値のあるお城で、「姫路城」、「彦根城」、「犬山城」、「松江城」とともに国宝に指定されています。松本藩の城主は年代によって変わり、その数は6家23人にものぼります。松本城の最大の特徴が、戦国時代に作られた大天守、乾小天守、渡櫓と泰平の戦のない江戸時代に作られた辰巳附櫓、月見櫓がひとつの天守群になっていることです。また、「松本城」は、天守の築造年代は文禄2年~3年(1593年~1594年)と考えられ、現存する五重六階の天守としては日本最古の城で、戦国時代の永正年間に造られた「深志城」が始まりです。なお、現存12天守の中でも、5層の天守を持つ城は、日本では松本城と姫路城しかありません。
    「本丸庭園」を散策したあとは、いよいよ「松本城」の内部へ入ります。「松本城」の入城口は「渡櫓」にあります。靴を脱いで上がるので、入城口では警備員の方がビニール袋を渡してくれます。その警備員の方の話だと「松本城」は、フランスで人気があり沢山の観光客が来るそうです。もちろん他国の観光客もいましたが、そう言えば、「上高地」は台湾で人気があり、台湾人の比率が一番多いとネイチャーガイドが言っていたのを思い出しました。「松本城」の「天守」は、入ってみると驚くぐらいシンプルで飾り気がありませんでした。お城と言うと豪華絢爛なイメージがありますが、「松本城」は、戦のために建てられたものなのだからそうです。チェックポイントの一つ目として「松本城」は外から見た時にかなりの数の窓のようなものが確認できました。何かと思ったら、攻撃を受けた時に、敵兵に弓や鉄砲を発射したり、石を落したり反撃するための小窓だそうです。ちなみに、弓矢を放つ「矢狭間」は60カ所、鉄砲を撃つ「鉄砲狭間」は55カ所、城壁を上ってきた敵へ石を落とす「石落」は11カ所もあるそうです。ただし、「松本城」では実戦が行われたことは一度もなかったそうです。次のチェックポイントが刀剣、槍、刀、火縄銃そして合戦時の武士の格好を再現した甲冑です。この甲冑を身につけた武士は、腰に巾着のようなものをぶら下げていました。これは、火縄銃の弾薬を入れるためのものだそうです。甲冑、刀と銃で相当な重さだったそうです。次のチェックポイントは、「大天守最上階」です。約16畳の正方形の部屋になっています。東西南北に窓が配置されていて、それぞれ異なる景色が楽しめます。天気がよければ、北アルプスの山々も見えるそうです。天守の天井が明るかったので、顔をあげ見てみると「二十六夜神」という月の神様が祀られていまました。「松本城」がさまざまな危機を回避できたのは、この神様のおかげと言われているそうです。現在でも、警備員さんが毎朝必ずお祈りをしているそうですよ。次が、「天守」の下の4階の「御座所」です。「御座所」は、城主が「天守」の最上階ではなく、4階に座を構えたと考えられます。ただ、接待の場所ではなく、あくまでも戦闘で最終局面を迎える時に座る場所だったようです。次のチェックポイントは、「辰巳附櫓」です。「辰巳附櫓」は「天守」の2階と繋がっていて、太平の世に造られたものなので、豪華絢爛とはいかないまでも優美な造りになっています。ここで注目して欲しいのが、「花頭窓」という寺院建築で見られる窓が採用されています。最後のチェックポイントは、「月見櫓」です。「辰巳附櫓」から階段をくだった先には、「月見櫓」があります。こちらも「辰巳附櫓」と同じ時代に造られたもので、その名の通り「お月見をするための櫓」で、「本丸庭園」の眺めがすばらしい場所です。「月見櫓」から1階におりて、「松本城天守」の見学は終了です。

    01_【「松本城」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒390-0873 長野県松本市丸の内4-1  電話:0263-32-2902(松本城管理事務所)
    ⑵ 観覧料…大人700円、小中学生300円 ※松本市立博物館と共通入場券
    ⑶ 「本丸庭園・天守」の 開場時間:8:30~17:00 ただし、GW・お盆期間は8:00~18:00
    ※ 最終入場は閉場の30分前
    ⑷ 休園日…年末を除き無休

    02_【「松本城」へのアクセス】
    ⑴ 徒歩…JR篠ノ井線「松本駅」お城口から徒歩15分1500m
    ⑵ バスを利用して
    ★ [松本駅お城口] ⇒[松本城・市役所前バス停]≪松本周遊バス・タウンスニーカー:北コース≫
    ・バス乗り場:JR篠ノ井線「松本駅」お城口(21番のりば)
    ・7停留所目(「上士町」の次の停留所) 所要時間約8分
    ・9時から15時の間に1時間平均2便 休日は平均3便
    ・「松本城・市役所前バス停」で下車し「松本城」まで徒歩1分60m
    ・「松本城・市役所前バス停」で降車後、バスの進行方向とは反対方向に60mほど戻ると「松本城太鼓門桝形二の門(高麗門)」があります。そこから入ります。「太鼓門」をくぐり左方向に進みます。右手にみえる内堀に架かる橋を渡れば、「高麗門」の先の左手に「松本城観覧券発売所」があるので、チケットを買って入城します。

    03_【「松本城」の見どころ】
    ⑴ 「黒門」
    「黒門」は本丸へ入るための重要な入口で、現在は手前に券売所があります。ここから先の「本丸庭園」と「天守」の観覧は有料となっています。「黒門」は、最高色調の黒を使っていることからそう呼ばれました。「一の門」の屋根には、歴代城主の家紋が付いた屋根の縁を飾るための円形の瓦である「軒丸瓦」が見られます。これは、天守解体修理のときに、保存しておいた状態の良い瓦を再利用したためです。さらに内堀を渡ったところに「二の門」である「高麗門」があります。1989年(平成元年)には、この門に続く塀を支える柱を備えた塀である「控塀」と2つの門の間を石垣や土塀で囲う防御様式である「枡形」を復元しました。「控塀」には「狭間」があり、対岸の敵を弓矢や火縄銃で攻撃できるようになっています。
    ⑵ 「太鼓門」
    二の丸御殿の入口にある「太鼓門」は、1文禄4年(1595年)に築かれた門です。名前の由来は、北側門台上に、登城や火急の合図などの役割を果たす太鼓楼があったことからそう呼ばれるようになりました。「太鼓門」は、「松本市役所」側にある門で、二の丸御殿の入口にあたり、文禄4年(1595年)に築かれた門です。名前の由来は、北側門台上に、登城や火急の合図などの役割を果たす太鼓楼があったことからそう呼ばれるようになりました。また、太鼓門のすぐ横にある総量約22.5tの巨石は、「松本城」を築城した「石川玄蕃守康長」が運ばせたことにちなんで、「玄蕃石」と呼ばれています。なお、明治初期に破却された「太鼓門」ですが、平成3~平成11年(1991~1999年)に発掘調査を行い、「太鼓門」の復元が完了しました。
    ⑶ 「大天守」
    「松本城」の天守は5層6階の造りで、1,000tある巨大な「天守」で、約16畳の正方形の部屋になっています。「松本城」の土台となる石垣内部には直径約39cm、長さ約5mの栂の丸太が16本、まるで碁盤の目のように埋め込まれています。その上にそびえ立つ「大天守」は、5層6階の構造です。城壁の上部が白漆喰、下部が黒漆塗りと当時の城郭では珍しい仕上げになっています。「天守1階」の展示ケースには修理の際に切り取られた天守の壁を展示してあります。この壁は厚さが約29cmもあり、火縄銃の弾も貫通しないそうです。「天守2階」には、格子状の「武者窓」があります。これは、3連及び5連の格子窓から火縄銃を発砲するための設計だと考えられています。「天守3階」は構造上、窓が造れなかったため「隠し階」もしくは「暗闇重」と呼ばれていました。「天守4階」には「御座所」があり、戦いにおいて最終局面に追い込まれた際には、城主がここに座を構え、戦況を把握する場所です。最上階である「天守6階」からは、城下町や北アルプスの山々などを眺望することができます。ちなみに、天守の天井には、「二十六夜神」という月の神様が祀られています。「松本城」がさまざまな危機を回避できたのは、この神様のおかげと言われているそうです。現在でも、警備員が毎朝必ずお祈りをしているそうです。また、「松本城」の「天守」内部は、天井が低いことが特徴的です。これは、建物内で抜刀ができないように工夫されたと考えられます。
    ⑷ 「乾子天守」
    「乾子天守」は、「松本城」に向かって右側部分にあり、「大天守」と「渡櫓」で連結され、戦国時代に建立されたものです。「乾子天守」の特徴は「大天守」と比較すると、「大天守」は角柱のみで構成されていますが、「乾子天守」は角柱の他に丸太柱が使用されていることです。何と1階中央にある「菅柱」をはじめ、2階「側柱」はすべて築城当時のもので、実に400年以上も経っているそうです。また、4階にある「火灯窓」は、火を嫌うことから「花頭窓」とも呼ばれ、寺院建築で見られ、天守建築では格式の高い窓とされています。
    ⑸ 「辰巳附櫓」
    「辰巳附櫓」は、「松本城」に向かって左側部分にあり、泰平の世となった江戸時代初期に新たに建立されました。天守の2階は、江戸時代に増築された「辰巳附櫓」とつながっています。「辰巳附櫓」は、平和な時代につくられたもので、戦の備えはほとんどなく、石落を設置する場所は板敷きになっています。「大天守」の隣に増築された「辰巳附櫓」は、天守に「月見櫓」を付けるための役割を持っていました。なお、「辰巳附櫓」の窓にも「乾子天守」と同様に、格式の高い寺院建築で見られる「花頭窓」が付けられています。
    天守の2階は、江戸時代に増築された「辰巳附櫓」とつながっています。こちらは平和な時代につくられたもので、戦仕様ではなく優美な造りになっています。花頭窓という寺院建築で見られる窓が採用されています。
    ⑹ 「月見櫓」
    「月見櫓」は、「松本城」に向かって左側部分にあり、辰巳附櫓から階段をくだった先にあります。「月見櫓」は、「辰巳附櫓」と同じ時代に造られたもので、寛永10年(1633年)に「松平氏」により増築されました。戦の備えはほとんどありません。柱と舞良戸と呼ばれる桟を打った薄い引き戸だけの櫓で、月見の際には、この舞良戸を外し、月を眺められるよう設計されていました。月見櫓の三方は朱色漆で塗られた回縁が巡り、風情があります。また船底の形をした天井には、柿渋が塗られ、優雅な雰囲気を感じられるのが特徴です。「月見櫓」から1階にくだると出口になり、「天守」の見学は終了です。

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR篠ノ井線「松本駅」お城口から徒歩15分1500mほどです。
    人混みの少なさ:
    1.5
    入城者が大変多く天守へ上るまでに一時間以上かかりました。
    見ごたえ:
    5.0
    他の城と違った建築方法が用いられているのが見どころの一つです。

  • 時の流れで景観が少しずつ変化しているそうです。その時の景観を楽しむのがポイントだそうです。

    投稿日 2023年11月25日

    大正池(長野県松本市) 上高地

    総合評価:4.0

    「田代湿原」・「田代池」からは1km、15分ほどで着きました。「大正池」は、大正4年(1915年)「焼岳」の噴火により、噴出した熔岩や泥流によって梓川が堰き止められて一夜にして出現した池です。当時は広大な面積だったことから「梓湖」と言われていたようですが、いつしか「大正池」と呼ばれるようになりました。この池は、昭和の初期以来、発電用の貯水池として利用されていますが、「焼岳」の斜面や、「梓川」の上流から流れ込む土砂によって池は ずいぶん小さくなり、枯れ木も倒れて残りわずかになっています。100年以上経った現在では面積も半分以下にまで小さくなり、立ち枯れの木々もだいぶ減っています。ネイチャーガイドの説明によると枯れ木は4本しか残っておらず、あと何年かすると朽ち果ててしまい、水の中に埋もれてしまうので、貴重な立ち枯れの木を見ることができるということでした。また、「梓川」の上流から流れ来る砂礫や、雨が降るたび「焼岳」の沢から流れ込む土砂が毎年大量に堆積しています。自然のままにしておけば、いずれ大正池は埋まってしまうことが懸念されるので、シーズンも終わりに近づいた11月、大正池に流れ込む土砂を取り除く浚渫作業が行われているそうです。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒390-1520 長野県松本市安曇上高地

    02_【アクセス】
    ⑴ 上高地バスターミナルから大正池まで徒歩45分3000m
    ⑵ 大正池バス停から大正池まで徒歩1分120m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    5.0
    大正池バス停から大正池まで徒歩1分120m
    景観:
    4.0
    滅びゆく立ち枯れの木々があと残すところ4本しかありません。
    人混みの少なさ:
    2.5
    上高地の入口なので人はたくさんいます。

  • 田代池・田代湿原はまるで箱庭のような世界です。ウォルター・ウェストンも田代池を愛し三度訪れました。

    投稿日 2023年11月25日

    田代湿原 上高地

    総合評価:4.0

    樹林帯の中の遊歩道を抜けると突然視界が開け、目の前に「田代湿原」が広がり、右隣りには「田代池」が静かに佇んでいました。「田代湿原」をよく見ると所々に道のような筋が入っていました。ネイチャーガイドに質問したところ、動物が通った跡だそうです。恐らく猿ではないかとのことでした。この湿原を人間が通ると、足がとられ沈み込んでしまうそうです。「田代池」は、原生林のなかに、ぽっかりあいた湿原に広がる池で、「六百山」や「霞沢岳」の伏流水が湧き水となって溜まり、氷点下になる季節も全面結氷しないそうです。また、池の中をよく見てみると多数の魚が泳いでいました。イワナだそうです。ただし、純粋種のイワナでなく、鮎や他の魚の遺伝子が混じっているものだそうです。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒390-1516 長野県松本市安曇上高地

    02_【アクセス】
    ⑴ 上高地バスターミナルから田代池・田代湿原まで徒歩33分2500m
    ⑵ 大正池バス停下車から田代池・田代湿原まで徒歩15分1100m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    大正池バス停下車から田代池・田代湿原まで徒歩15分1100m
    景観:
    4.0
    箱庭のような湿原と池です。穂高の山並みを眺めるには、田代池あたりがもっとも適した場所です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    大正池方面から河童橋・明神池方面に向かう観光客でにぎわっていました。

  • 穂高連峰の最高点である奥穂高岳の頂上には「嶺宮」も造営されているそうです。

    投稿日 2023年11月25日

    穂高神社 上高地明神池 奥宮 上高地

    総合評価:3.0

    「明神橋」を渡れば、「穂高神社奥宮」の参道へと道は続きます。そしてイワナ料理で有名な「嘉門次小屋」、「嘉門次碑」を過ぎた先には「穂高神社奥宮」があります。「穂高神社奥宮」の御祭神は「穂高見命」で、北アルプスの総鎮守、海陸交通の守り神、結びの神として鎮座しています。また、穂高連峰の最高点である奥穂高岳の頂上には「嶺宮」も造営されているそうです。毎年10月8日には、明神池お船祭りである「穂高神社奥宮例大祭」が行われます。神官による祝詞、巫女による舞が奉納された後、平安装束に身を包んだ神官らが「龍頭鷁首」の2艘の御船で「明神池」を周遊します。雅楽の調べの中、荘厳で神秘的な「明神池」で繰り広げられる光景は、さながら平安絵巻のようだそうです。ちなみに、「鷁」とは鵜に似た白い大型の水鳥のことで、中国の想像上の水鳥だそうです。「鷁」は、風波を恐れず逞しく飛ぶところから水難除けとされています。チケット売り場を入った所に「龍頭」と「鷁首」が置かれています。参拝を済ませ、チケット売場で500円の拝観料を支払い、その脇を進むと「明神池」になります。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒390-1520 長野県松本市安曇

    02_【アクセス】
    上高地バスターミナルから
    ①梓川左岸から明神まで徒歩約54分3800m ②梓川右岸から明神まで徒歩約57分4000m

    旅行時期
    2023年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    上高地バスターミナルから左岸ルートで徒歩約54分3800m、右岸ルートで徒歩約57分4000m
    人混みの少なさ:
    2.5
    上高地散策の最終地点なので結構混雑していました。
    見ごたえ:
    3.0
    思ったより小さな神社で見どころは多くありませんが、大自然の中で神聖な雰囲気を感じられる場所でした。

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