Lily-junjunさんのクチコミ(8ページ)全318件
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大都会の真ん中にある都会のオアシスです。赤穂義士、乃木希典、ニッカウヰスキーなどでも知られています。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.5
最初に「毛利庭園」の概要と歴史を遡ってみると、「毛利庭園」は、およそ350年前の江戸時代の。慶安3年(1650年)に、「毛利元就」の孫である「毛利秀元」が甲斐守となり、「麻布日ヶ窪」 (現在の六本木六丁目付近)に上屋敷を設け、その大名屋敷の庭園として誕生しました。元禄15年(1702年)の「赤穂義士」による吉良邸討ち入り後に、「岡島八十右衛門」ら10人が毛利家に預けられ、翌年の元禄16年(1703年)2月4日に10名全員が、ここで切腹しで武士の本懐を遂げた場所としても有名です。そして、日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも有名なる明治時代の陸軍大将「乃木希典」が、「長府藩上屋敷」の侍屋敷に「乃木希次」の三男として、嘉永12年(1849年)生まれた場所でもあります。「乃木希典」は、幼年期9年をこの「日ヶ窪屋敷」で過ごしました。元治2年(1865年)には「堀田相模守」がこの「日ヶ窪屋敷」を拝領します。明治時代に入ると、中央大学の創始者であり、弁護士、法学者、法学博士でもあった「増島六一郎」が、明治20年(1887年)に自邸として取得し、その庭園を「芳暉園」と名付けました。大正時代には、大正8年(1919年)4月に「乃木大将誕生地」として、旧跡(現東京都旧跡)に指定されました。昭和時代になると「毛利庭園」は、昭和18年(1943年)3月に「毛利甲斐守邸跡」として旧跡(現東京都旧跡)に指定されました。昭和27年(1952年)3月には「ニッカウヰスキー」の東京工場となり、昭和52年(1982年)には、「テレビ朝日」が当地を取得しました。池は「ニッカ池」と通称されていました。ちなみに、「ニッカ池」は現在の「毛利池」の下に隠れているそうです。平成15年(2003年)4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」として誕生しました。
「六本木ヒルズ」の「毛利庭園」は、六本木という大都会の賑わいの中で、心が休まる都会のオアシスのような場所です。「毛利庭園」は、面積が4,300㎡の広大な敷地を誇り、池を中心に滝や渓流、川などを配した回遊式の日本庭園です。都心にいながら、本格的な回遊式日本庭園を散策することができます。園内には、高さ25mのシンボルツリー「大銀杏」をはじめサクラやモミジなども配置され、春には桜、秋には紅葉と、季節ごとの風情が楽しめます。また、園内には、「六本木ヒルズ」と「森美術館」の10周年を記念して設置されたジャン=ミシェル・オトニエル作の恋人たちに人気のあるハート型のパブリックアート「Kin no Kokoro」や平成6年(1994年)にスペースシャトル「コロンビア」内で「向井千秋」が行なった実験で誕生した「宇宙メダカ」が放流されていたり、毎年やってくる「カルガモ親子」などもおり、見どころ満載で、心も休まります。
01_【「毛利庭園」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒106-6108 東京都港区六本木6丁目10-1 六本木ヒルズ 電話:03-6406-6000
⑵ 営業時間…通年7:00~23:00(無休)
⑶ 面積…4300平米
⑷ 池の周囲…約160m
02_【「毛利庭園」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「六本木駅」1C出口より徒歩すぐ(六本木駅連絡通路)
⑵ 都営地下鉄大江戸線「六本木駅」5番出口より徒歩9分650m
03_【「毛利庭園」の見どころ】
⑴ 「毛利甲斐守邸跡」
「毛利甲斐守邸跡」は、東京都港区六本木六丁目の「六本木ヒルズ」の「毛利庭園」にある史跡です。現在の山口県下関市長府にあった長門長府藩主の「毛利秀元」の麻布上屋敷の跡地でした。現在は六本木ヒルズ内の「毛利庭園」となっており、「ひょうたん池」の傍に跡地であっことを示す説明板が建てられています。ここには「毛利綱元」が長門長府藩主であった「元禄15年(1702年)の「赤穂義士」による吉良邸討ち入り後に、「岡島八十右衛門」ら10人が毛利家に預けられ、翌年の元禄16年(1703年)2月4日に10名全員が、ここで切腹しで武士の本懐を遂げた場所としても有名です。「長門長府藩」は長州藩毛利家の支藩で、赤穂義士たち対し、なかなか厳格に対処し、 犯罪人を遇するようであったそうです。ちなみに、毛利家に預けられた赤穂義士は、「岡島八十右衛門」、「吉田沢右衛門」、「小野寺幸右衛門」、「間 新六」、「武林唯七」、「倉橋伝助」、「村松喜兵衛」、「杉野十平次」、「前原伊助」、「勝田新左衛門」の10名です。
⑵ 「ニッカ池」
「毛利庭園」の池は「ニッカ池」と通称されていました。ちなみに、「ニッカ池」は現在の「毛利池」の下に隠れているそうです。六本木六丁目の再開発にあたって、新たに緑地の「毛利庭園」を整備することになりました。将来のさらなる発掘調査などの可能性を残すため、「ニッカ池」の池底を固めるとともに周辺の地盤改良を行い、防護シートで覆い、埋土保存を行いました。この「埋土保存」によって、六本木ヒルズに水と緑を提供するとともに、歴史的遺産としての将来性を担保することが可能になったのです。
⑶ 「Kin no Kokoro」
「Kin no Kokoro」は、平成25年(2013年)の「六本木ヒルズ」と「森美術館」の10周年を記念して設置された「ジャン=ミシェル・オトニエル」作の恋人たちに人気のあるハート型のパブリックアートです。ちなみに、「ジャン=ミシェル・オトニエル」は 、パリを拠点とするガラスや蝋、硫黄など様々な素材、メディアを用いた作品を制作しているフランスのアーティストです。「ジャン=ミシェル・オトニエル」は、1964年フランスのサン・テティエンヌに生まれ、セルジーポントワーズ国立高等芸術学校で学びました。
⑷ 「宇宙メダカ」
「宇宙メダカ」は、東京大学の「井尻憲一」博士が提案し、平成6年(1994年)にスペースシャトル「コロンビア」内で「向井千秋」らが行なった実験で、脊椎動物として初めて宇宙で誕生したメダカの子孫です。「宇宙メダカ」を一般の河川に放流することや、野生のメダカと交配をすることは禁止されているそうです。この「毛利池」は外部河川とつながっていないことから、「宇宙メダカ」の放流が可能だったということです。
⑸ 「カルガモ親子」
平成16年(2004年)以降、「毛利池」には「カルガモ親子」も毎年やってきます。飛来地は、どこから来たのかはわかっていませんが、「毛利庭園」の名物で人々を魅了する存在となっています。平成16年(2004年)5月29日、テレビで初めてカルガモが発見されました。やがて、つがいのカルガモからヒナが誕生し、急遽設置した小屋からエサをつっつき、人々を楽しませていたのも束の間で、2ヵ月後には家族みんなで「毛利庭園」を去っていきました。しかし、毎年春はカルガモはやって来るそうです。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「六本木駅」1C出口より徒歩すぐ(六本木駅連絡通路)
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 平日でしたが結構人はいました。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 恋人たちに人気のあるハート型のパブリックアート「Kin no Kokoro」もあります。
-
赤穂義士の墓所にいると、雪の中を泉岳寺に向かう光景と勝どきの雄叫びが聞こえてきそうです。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:4.5
最初に「泉岳寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「泉岳寺」は、慶長17年(1612年)に、「徳川家康」が、「門庵宗関和尚」を迎え外桜田(桜田門周辺)に創建された曹洞宗寺院で、福井県の「永平寺」と横浜鶴見の「総持寺」を大本山としているお寺です。しかし、寛永18年(1641年)に発生した「寛永の大火」で焼失してしまいました。その後、3代将軍「徳川家光」の命を受けて毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の5大名の手で現在の地である高輪に再建されました。そして、元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城中で旗本「吉良義央」に切りつけ、即日切腹処分となった播磨赤穂藩の藩主「浅野長矩」と翌元禄15年(1702年)12月14日に江戸本所の吉良邸に押し入って主君の仇を討った「47人の赤穂義士」の墓があり、現在もなお多くの参拝客が訪れています。私が「泉岳寺」を訪れたのは、12月初旬でしたが、かなりの「赤穂義士四十七士」のお墓参りの参拝客がいました。また、日本人だけでなく外国のツアーできた団体の旅行者もいました。一般的に「赤穂浪士」は、「赤穂義士四十七士」といわれていますが、「泉岳寺」には討ち入り前に自害した浅野氏の家臣「萱野重実」の供養塔を含めて48基の墓があります。「赤穂義士」たちの墓の特徴は、討ち入り後の預け先である「細川家」、「松平家」、「水野家」、「毛利家」によってそれぞれ分けられていることです。そして、討入りに参加した「赤穂義士」の中で、「間新六」の遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に葬り、また、唯一人切腹をまぬがれた「寺坂吉右衛門」、この二人の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔で、「寺坂吉右衛門」以外の「赤穂義士」の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっています。
そして、「泉岳寺」の境内には、討ち入り300年に因み平成13年(2001年)に建設された「赤穂四十七士」の遺品などを納めた「赤穂義士記念館」や義士47名の木像を納めた「義士木像館」が建てられ、「主税梅」、「首洗い井戸」、「血染めの梅と血染めの石」など「赤穂義士」ゆかりのものも点在し、忠臣蔵のファンが絶えず訪れる寺院となっています。そして、討ち入り日の12月14日の「義士祭」は、全国から多くの参拝者が訪れて忠義を尽くした義士一人一人に線香をあげていく歳末の風物詩となっています。また、4月1日から7日までには「春の義士祭」も行われます。
《「泉岳寺のお薦め参拝巡路」》
①「中門」⇒②「義士堂小泉商店」⇒③「大石内蔵助吉雄銅像」⇒④「山門」⇒⑤「本堂」⇒⑥「梵鐘」⇒
⑦「講堂」⇒⑧「主税梅」⇒⑨「遥池梅」⇒⑩「血染めの梅と血染めの石」⇒⑪「赤穂義士記念館」⇒
⑫「義士木像館」⇒⑬「首洗い井戸」⇒⑭「赤穂義士墓入口の門」⇒⑮「浅野長矩」と「赤穂義士の墓」
それでは、早速、「泉岳寺」を参拝したいと思います。
《「中門」》
まずは、「中門」をくぐります。「中門」の扁額「萬松山」は、中国明時代の禅僧「為霖堂」の書によるものです。初代の「中門」はは焼失したので、「中門」は天保7年(1836年)に「35世大龐梅庭和尚」によって再建されたものです。「中門」は、昭和7年(1932年)に大修理を行いました。「中門」は、平成11年(1999年)2月1日に港区登録有形文化財に指定されています。
《「義士堂小泉商店」》
「中門」から「山門」に向かう参道の途中に、門前町風のお土産店、飲食店が右手に数件ほど建ち並んでいます。その中で、印象に残ったのは「義士堂小泉商店」です。赤穂義士の羽織を着た店の主人や店の看板の上にある太鼓の飾りが印象的でした。お店のお土産も赤穂義士に関するものが沢山ありました。
《「大石内蔵助吉雄銅像」》
参道を進むと「山門」の手前の右手に「大石内蔵助吉雄銅像」があります。「大石内蔵助吉雄」が元禄袴を身につけ、連判状を手に江戸のある東の空をじっと睨んでいる姿を表した銅像です。明治から大正にかけて活躍した浪曲師の「桃中軒雲右衛門」の発願で鋳造されたものが「泉岳寺」に大正10年(1921年)12月14日に寄贈されました。
《「山門」》
「大石内蔵助吉雄銅像」の左手に、「山門」があります。「山門」はくぐることができないので、正面から鑑賞した後に、右側にある「泉岳寺本堂入口」から入ります。「泉岳寺」には、もともと「総門」、「中門」、「山門」の3つの門「三門」がありましたが、現存しているのは「山門」と「中門」の二つのみです。しかし、どちらも初代のものは焼失しています。「山門」は天保3年(1832年)に「34世大道貞鈞和尚」によって再建されたものです。「山門」の2階部分には、「十六羅漢」と「釈迦三尊像」が安置され、1階天井には「江戸三龍」のひとつ「銅彫大蟠龍」がはめこまれています。「銅彫大蟠龍」は、「日本彫金の祖」と呼ばれる「関義則」の手になる龍の彫り物で、蟠龍とは、とぐろを巻いた龍のことです。「山門」の「泉岳寺」の扁額は、晋唐の墨跡研究者であった「大野約庵」による書です。平成11年(1999年)2月1日に港区の登録有形文化財に指定されています。
《「本堂」》
「山門」の次は「本堂」です。「本堂」の右手には「授与所・寺務所」があります。本堂の手前には、「御柱」と「香炉台」があります。「本堂」は、東京大空襲で焼失した「旧本堂」に代わり、現在の本堂は昭和28年(1953年)12月14日に完成した鎌倉様式の建築です。「本堂」の正面に掲げられている「獅子吼」の扁額は「ししく」と読むそうです。お釈迦様が説法する様子を獅子が吼える様子に例えたもので、何事にも動じず大衆に向かって心理を説く釈迦の姿勢を表しています。御本尊は「釈迦如来座像」、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師「瑩山禅師像」、また「大石内蔵助」の守り本尊である「摩利支天」(秘仏)などが納められています。
《「梵鐘」》
「本堂」の左手には「梵鐘」があります。朝の坐禅時と夕方の閉門時に撞かれている「梵鐘」は、大正2年(1913年)に、「41世普天霊明和尚」によって造られたものです。江戸から明治まで使われていた「梵鐘」は、現在ウィーンの「国立民族博物館」に所蔵されているそうです。
《「講堂」》
「梵鐘」から引き返すと右手に「講堂」があります。「講堂」は、関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられました。1階では毎週土曜日に学寮講座が開かれています。2階は「赤穂義士」47名の木像を納めた「義士木像館」になっています。
《「主税梅」、「遥池梅」、「血染めの梅と血染めの石」》
「講堂」を右折すると「赤穂義士墓所」へ通じる参道があります。そこには、「主税梅」、「遥池梅」、「血染めの梅と血染めの石」が並ぶようにしてあります。
「主税梅」は、「赤穂義士」で最年少だった「大石主税」が切腹した伊予松山藩松平隠岐守三田屋敷(現在の三田にあるイタリア大使館内)に植えられていた梅と伝えられています。
「遥池梅」は、義士の墓守をしていた「堀妙海法尼」が「遥泉院」から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。
「血染めの梅と血染めの石」は、浅野内匠頭が、現在の新橋4 丁目付近にった「田村右京大夫」の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。「田村右京太夫」邸の庭から移されたとされています。
《「赤穂義士記念館」と「義士木像館」》
「赤穂義士墓所」へ通じる参道を少し進むと、右側の「赤穂義士記念館」へ降りる石段があり、先に進むと「赤穂義士記念館」があります。チケット売り場で入館券を購入します。入場料は、2施設共通の料金で、大人500円、中高生400円、小人250円となっています。「赤穂義士記念館」及び「義士木像館」は残念ながら撮影禁止です。まず、「赤穂義士記念館」入口では討ち入りで使った陣笠があります。最初に映像コーナーで仇討ちの様子をビデオで鑑賞できます。展示室内には赤穂義士たち所縁の道具が展示されています。また、仇討ちのために資金を援助した商人の「天野屋利兵衛」の木造もあります。「天野屋利兵衛」の墓も「首洗い井戸」の付近にあります。そして、「鷲屋石欒」作と云われる大石父子の木像もあるほか、赤穂事件絵巻や土佐光成による四十七士の絵もあり、ファンにとってはたまらないものでしょう。「赤穂義士記念館」の向かい側にある「義士木像館」には、江戸時代から明治初めまでに造られた義士の木像が納めてあります。これらの木像は、「鷲屋石欒」やその弟子たちによるものです。
《「首洗い井戸」》
「義士木像館」を出て、参道を右方向に進むと右手に、「首洗い井戸」があります。「首洗い井戸」は、「赤穂義士」が本懐成就後に「吉良上野介」の首級をこの井戸水で洗い、主君「浅野長矩」の墓前に供え報告したことから「首洗い井戸」と呼ばれています。「首洗い井戸」は、鉄製のネットで覆われていて中がよく見えませんでした。「首洗の井戸」の「玉垣」は、「オッペケペー節」で一世を風靡した「川上音二郎」の寄進によるものです。「川上音二郎」は、明治24年(1891年)に「泉岳寺」にある「赤穂浪士の墓」が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付を行ないました。「泉岳寺」はこの寄付で、「首洗の井戸」を整備したそうです。
《「赤穂義士墓入口の門」》
「首洗の井戸」の先には、「赤穂義士墓入口の門」があります。「赤穂義士墓入口の門」は、浅野家の「鉄砲州上屋敷」(現在の聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。平成11年(1999年)2月1日に港区の登録有形文化財に指定されています。
《「赤穂義士の墓」》
「赤穂義士墓入口の門」をくぐると「赤穂義士の墓」です。「授与所」が右手にあり、その反対側で、焼香用のお線香を300円で買います。お寺のお坊さんが100本くらいあるので、一つのお墓に2本ずつおいても足りるという説明がありました。順番に思いを込めて回りたいと思います。元禄15年(1703年)12月14日に、「吉良上野介」邸に押し入り仇討ちを果たした「大石内蔵助」を筆頭とした「赤穂義士」47名は事件後、熊本藩「細川家」、伊予松山藩「松平家」、長府藩「毛利家」、岡崎藩「水野家」の各大名の下屋敷に預けられました。そして、元禄16年(1703年年)2月4日のほぼ同時刻に切腹し、主君「浅野内匠頭」(長矩)の眠る泉岳寺に葬られました。だだし、「寺坂吉右衛門」は関係者に討ち入りの成功を報告した後、江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布の「曹渓寺」で83歳まで生き、「曹渓寺」に埋葬されました。現在、「泉岳寺」にある「寺坂吉右衛門」の供養塔は、慶応4年(1868年)に建てられたものです。また、「間新六」は他の浪士と同時に墓は造られましたが、遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に埋葬されたそうです。さらに明和四年(1767年)には討ち入りへの参加を希望したが周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した「萱野三平」の供養塔も建てられたため、現在墓碑は48基あります。大正11年(1922年)3月8日に国指定史跡に指定されています。最後まで、自分たちの信念と義を貫いた赤穂義士全員にお参りできました。
01_【「泉岳寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒108-0074 東京都港区高輪2丁目11-1 電話:03-3441-5560
⑵ 「泉岳寺」の概要 ①山号…萬松山 ②寺号…泉岳寺 ③宗派…曹洞宗
⑶ 開閉門時間…通年、7:00~17:00
⑷ 赤穂義士記念館…拝観時間は通年、9:00~16:00
「赤穂義士記念館」と「義士木像館」の入館には料金がかかります。2施設共通の料金で、大人500円、中学生と高校生400円、10歳以上の子どもが250円です。
⑸ 赤穂義士祭(義士祭は年2回12月と4月に開催)
①夏…4月1日~7日 ②冬…毎年12月14日
③スケジュール
11時…墓前供養 浅野長矩公之墓所
12時…献茶式 東阿部流献茶式(本堂)
献茶式引き続き…義士追善供養(本堂)
⑹ 「泉岳寺」の主な文化財等
① 浅野長矩および赤穂義士墓(国指定史跡)指定年月日:大正11年(1922年)3月8日
② 泉岳寺中門(港区登録有形文化財)指定年月日:平成11年(1999年)2月1日
③ 泉岳寺山門(港区登録有形文化財)指定年月日:平成11年(1999年)2月1日
④ 浅野長矩及び赤穂義士墓所門(港区登録有形文化財)指定年月日:平成11年(1999年)2月1日
⑤ 赤穂事件絵巻(港区登録有形文化財)指定年月日:平成14年(2002年)3月25日
02_【「泉岳寺」へのアクセス】
⑴ 電車を利用する場合
① 都営浅草線「泉岳寺駅」A2出口から徒歩3分約200m
② JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩10分600m
⑵ バスを利用する場合
① [五反田駅] ⇒[六本木ヒルズ]≪都営バス:反96≫
・バス乗り場:「五反田駅」東口(6番のりば)
・8停留所目(「高輪北町」の次の停留所) 所要時間約12分
・9時から17時の間に1時間平均3便~5便
・「泉岳寺前」停留所で下車し「泉岳寺」まで徒歩2分180m
※「品川駅高輪口」で乗車可
② [六本木ヒルズ] ⇒[五反田駅]≪都営バス:反96≫
・バス乗り場:「六本木ヒルズ」森タワービル1階構内(1番のりば)
・10停留所目(「高輪一丁目」の次の停留所) 所要時間約18分
・9時から17時の間に1時間平均2便~4便
・「泉岳寺前」停留所で下車し「泉岳寺」まで徒歩7分400m
※「六本木駅前」で乗車可
03_【「泉岳寺」の見どころ】
⑴ 「本堂」
「本堂」は、東京大空襲で焼失した「旧本堂」に代わり、現在の本堂は昭和28年(1953年)12月14日に完成した鎌倉様式の建築です。「本堂」の正面に掲げられている「獅子吼」の扁額は「ししく」と読むそうです。お釈迦様が説法する様子を獅子が吼える様子に例えたもので、何事にも動じず大衆に向かって心理を説く釈迦の姿勢を表しています。御本尊は「釈迦如来座像」、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師「瑩山禅師像」、また「大石内蔵助」の守り本尊である「摩利支天」(秘仏)などが納められています。
⑵ 「梵鐘」
朝の坐禅時と夕方の閉門時に撞かれている「梵鐘」は、大正2年(1913年)に、「41世普天霊明和尚」によって造られたものです。江戸から明治まで使われていた「梵鐘」は、現在ウィーンの「国立民族博物館」に所蔵されています。
⑶ 「山門」と「中門」
「泉岳寺」には、もともと「総門」、「中門」、「山門」の3つの門「三門」がありましたが、現存しているのは「山門」と「中門」の二つのみです。しかし、どちらも初代のものは焼失しています。「山門」は天保3年(1832年)に「34世大道貞鈞和尚」、「中門」は天保7年(1836年)に「35世大龐梅庭和尚」によって再建されたものです。
「山門」の2階部分には、「十六羅漢」と「釈迦三尊像」が安置され、1階天井には「江戸三龍」のひとつ「銅彫大蟠龍」がはめこまれています。「銅彫大蟠龍」は、「日本彫金の祖」と呼ばれる「関義則」の手になる龍の彫り物で、蟠龍とは、とぐろを巻いた龍のことです。「山門」の「泉岳寺」の扁額は、晋唐の墨跡研究者であった「大野約庵」による書です。
「中門」の扁額「萬松山」は、中国明時代の禅僧「為霖堂」の書によるものです。「中門」は、昭和7年(1932年)に大修理を行いました。
⑷ 「大石内蔵助吉雄銅像」
「中門」から「「山門」」に続く参道の右手に「大石内蔵助吉雄銅像」があります。「忠臣蔵」の主役ともいえる赤穂藩筆頭家老「大石内蔵助吉雄」が元禄袴を身につけ、連判状を手に江戸のある東の空をじっと睨んでいる姿を表した銅像です。明治から大正にかけて活躍した浪曲師の「桃中軒雲右衛門」の発願で鋳造されたものが「泉岳寺」に大正10年(1921年)12月14日に寄贈されました。
⑸ 「講堂」(2階は義士木像館)
「講堂」は、関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられました。1階では毎週土曜日に学寮講座が開かれています。2階は「赤穂義士」47名の木像を納めた「義士木像館」になっています。
⑹ 「赤穂義士記念館」と「義士木像館」(撮影禁止)
「赤穂義士記念館」は、「赤穂義士」ゆかりの品々や関連資料を展示し、「忠臣蔵」についてのビデオも上映している施設です。まず、「赤穂義士記念館」入口では討ち入りで使った陣笠があります。最初に映像コーナーで仇討ちの様子をビデオで鑑賞できます。展示室内には赤穂義士たち所縁の道具が展示されています。また、仇討ちのために資金を援助した商人の「天野屋利兵衛」の木造もあります。「天野屋利兵衛」の墓も「首洗い井戸」の付近にあります。そして、「鷲屋石欒」作と云われる大石父子の木像もあるほか、赤穂事件絵巻や土佐光成による四十七士の絵もあり、ファンにとってはたまらないものでしょう。
「赤穂義士記念館」の向かい側にある「義士木像館」には、江戸時代から明治初めまでに造られた義士の木像が納めてあります。これらの木像は、「鷲屋石欒」やその弟子たちによるものです。入場料は、2施設共通の料金で、大人500円、中高生400円、小人250円となっています。「赤穂義士記念館」及び「義士木像館」は残念ながら撮影禁止です。
⑺ 「首洗い井戸」
「首洗い井戸」は、「赤穂義士」が本懐成就後に「吉良上野介」の首級をこの井戸水で洗い、主君「浅野長矩」の墓前に供え報告したことから「首洗い井戸」と呼ばれています。「首洗い井戸」は、鉄製のネットで覆われていて中がよく見えませんでした。「首洗の井戸」の「玉垣」は、「オッペケペー節」で一世を風靡した「川上音二郎」の寄進によるものです。「川上音二郎」は、明治24年(1891年)に「泉岳寺」にある「赤穂浪士の墓」が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付を行ないました。「泉岳寺」はこの寄付で、「首洗の井戸」を整備したそうです。
⑻ 「主税梅」
「赤穂義士」で最年少だった「大石主税」が切腹した伊予松山藩松平隠岐守三田屋敷(現在の三田にあるイタリア大使館内)に植えられていた梅と伝えられています。
⑼ 「遥池梅」
義士の墓守をしていた「堀妙海法尼」が「遥泉院」から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。
⑽「血染めの梅と血染めの石」
浅野内匠頭が、現在の新橋4 丁目付近にった「田村右京大夫」の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。「田村右京太夫」邸の庭から移されたとされています。
⑾_① 「赤穂義士の墓」
元禄15年(1703年)12月14日に、「吉良上野介」邸に押し入り仇討ちを果たした「大石内蔵助」を筆頭とした「赤穂義士」47名は事件後、熊本藩「細川家」、伊予松山藩「松平家」、長府藩「毛利家」、岡崎藩「水野家」の各大名の下屋敷に預けられました。そして、元禄16年(1703年年)2月4日のほぼ同時刻に切腹し、主君「浅野内匠頭」(長矩)の眠る泉岳寺に葬られました。だだし、「寺坂吉右衛門」は関係者に討ち入りの成功を報告した後、江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布の「曹渓寺」で83歳まで生き、「曹渓寺」に埋葬されました。現在、「泉岳寺」にある「寺坂吉右衛門」の供養塔は、慶応4年(1868年)に建てられたものです。また、「間新六」は他の浪士と同時に墓は造られましたが、遺体は遺族が引き取り「築地本願寺」に埋葬されたそうです。さらに明和四年(1767年)には討ち入りへの参加を希望したが周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した「萱野三平」の供養塔も建てられたため、現在墓碑は48基あります。
⑾_② 「赤穂義士墓入口の門」
「赤穂義士墓入口の門」は、浅野家の「鉄砲州上屋敷」(現在の聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。
⑿ 「赤穂義士祭」
「泉岳寺」では、毎年、4月1日から4月7日までと12月14日に義士を供養する「赤穂義士祭」を開催されています。この日は全国から多くの参拝者が訪れ、忠義を尽くした義士一人一人に線香をあげていく姿が見受けられます。当日は「浅野長矩」墓所にて墓前供養をおこない、東阿部流献茶式(本堂)で献茶式、そして義士追善供養がおこなわれます。町を練り歩いていた「財界二世学院」主催による「義士行列」が築地から日比谷通りを抜け、泉岳寺に到着する14時30分頃に祭りはピークを迎えます。参道にも多数の露店が出ており、祭りは閉門の22時まで賑わうそうです。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 都営浅草線「泉岳寺駅」A2出口から徒歩3分約200m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 団体客など結構混んでいました。
- 見ごたえ:
- 4.5
- 見るべきものは沢山あり、興味がつきません。
-
偶然に東京で三大豆大福のお店を発見しました。他の二つは明治神宮前の瑞穂と護国寺の郡林堂です。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:4.0
「大石良雄外十六人忠烈の跡」へ向かう細い坂道の途中で行列ができている店がありました。それが、老舗和菓子店の「松島屋」です。とりあえず目的地である「大石良雄外十六人忠烈の跡」を見た帰りに「松島屋」に立ち寄りました。赤地に白字の暖簾が目印です。私が行ったときは、前に5人くらいで、そんなに待たずに店に入ることができました。二人の店員の方が手際よく対応してくれました。「松島屋」の人気は、「きび大福」、「草大福」、「豆大福」などの大福類です。その中で一番人気なのは、十勝産の赤えんどう豆を入れたお餅で、石狩産小豆で作るコクのある餡をくるんだ「豆大福」です。私は、「豆大福」と醤油味の「御団子」を買って帰りました。その他、「桜餅」や「くず餅」「栗むし羊羹」などもありました。家に帰って食べてみると、「豆大福」の皮は、薄皮で弾力がある赤えんどう豆を入れたお餅なので今までと違う味と食感でした。餡も甘さ控えめで、さっぱりしていて、これなら何個も食べられそうな気になりました。もちろん御団子のお餅と醤油の餡もバランスがとれていて美味しくいただきました。
01_【「松島屋」の一口メモ】
所在地…〒108-0074 東京都港区高輪1丁目5-25 電話:03-3441-0539
営業時間…8:30~18:30
定休日…日曜日(月曜は月2回不定休)
02_【「松島屋」へのアクセス】
⑴ 電車を利用する場合
① 都営浅草線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩7分約400m
② JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩14分900m
③ 都営三田線・東京メトロ南北線「白金高輪駅」1番出口から徒歩8分550m
⑵ バスを利用する場合
① [品川駅高輪口] ⇒[新宿駅西口]≪都営バス:品97≫
・バス乗り場:「品川駅高輪口」 (7番のりば)
・3停留所目(「泉岳寺前」の次の停留所) 所要時間約4分
・9時から17時の間に1時間平均2便~3便
・「高輪一丁目」停留所で下車し「松島屋」まで徒歩2分120m
② [新宿駅西口] ⇒[新宿駅西口]≪都営バス:品97≫
・バス乗り場:「新宿駅西口」 (2番のりば)
・25停留所目(「魚籃坂下」の次の停留所) 所要時間約42分
・9時から17時の間に1時間平均2便~3便
・「高輪一丁目」停留所で下車し「松島屋」まで徒歩2分120m
③ [品川駅港南口:循環バス]≪高輪ルート:ちいばす≫
・バス乗り場:「品川駅港南口」東口(6番のりば)
・8停留所目(「高輪台小学校」の次の停留所) 所要時間約18分
・9時から17時の間に1時間平均3便
・「高輪二丁目」停留所で下車し「松島屋」まで徒歩4分290m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩7分約400m
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- リーズナブルな値段です。
- サービス:
- 3.0
- てきぱきと応対してくれました。
- 雰囲気:
- 3.5
- レトロな店構えと雰囲気です
- 料理・味:
- 4.0
- 「豆大福」の皮は、薄皮で弾力がある赤えんどう豆を入れたお餅なので今までと違う味と食感でした。
-
「高山紀齋」は歯科学において、先進的な医療知識と治療技術の移入に力を注いだ人物です。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
「高山紀齋」は明治8年(1875年)に、わが国最初の歯科医師免許をとった人物です。その後はアメリカに渡り、米国の歯科医師の免許を取得しました。当時日本では、まだ西洋歯科技術は全く理解されていない時代でした。アメリカ留学を終えた明治11年(1875年)6月に、京橋区銀座3丁目14番地第3戸に「高山歯科診療所」を開設し、明治17年(1881年)9月には東京医術開業試験委員に就任しています。そして、明治23年(1990年)にこの伊皿子の付近の芝区伊皿子町70番地に歯科医学院を開設し、これが「東京歯科大学」の前身です。それを記念して建立されたのが、黒御影石の「歯科医学教育発祥之地」碑です。「高山紀齋」は、明治29年(1893年)11月28日、日本歯科医会を設立、明治35年1月20日にはその初代会長にも就任しています。
01_【「歯科医学教育発祥之地」の一口メモ】
所在地…〒108-0073 東京都港区三田4丁目18-20
02_【「歯科医学教育発祥之地」へのアクセス】
⑴ 電車を利用する場合
① 都営浅草線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩6分約350m
② JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩13分850m
③ 都営三田線・東京メトロ南北線「白金高輪駅」1番出口から徒歩9分550m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩6分約350m
-
伊能忠敬の日本地図編纂のための起点となったのが高輪の大木戸です。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
江戸時代は町ごとに「町木戸」を設け、自身番において警固させました。高輪の「大木戸」は、江戸の治安維持のため、宝永7年(1710年)に東海道の両側に石垣を築き、設置されました。各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから、「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわいました。旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのも高輪の「大木戸」まででした。高輪の「大木戸」の木戸の幅は約10mあり、初めは柵門が設置されて、明六ツ、暮六ツに開閉していましたが、後に廃止されました。現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されています。「伊能忠敬」は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。「伊能忠敬」は寛政12年(1800年)4月19日55歳で亡くなりましたが、その3年後に、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。この地図を国外に持ち出そうとして発覚し、国外追放となったのが「シーボルト」です。
01_【「高輪大木戸跡」の一口メモ】
所在地…〒108-0074 東京都港区高輪2丁目19
02_【「高輪大木戸跡」へのアクセス】
⑴ 電車を利用する場合
① 都営浅草線「泉岳寺駅」A4出口から徒歩1分約55m
② JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩7分550m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 都営浅草線「泉岳寺駅」A4出口から徒歩1分約55m
-
規模的には、小さな神社ですが、都会の中の安らぎの空間というような感じがしました。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.5
初めに「御田八幡神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「御田八幡神社」は、和銅2年(709牟)東国鎮護の神として鎮祀され「延喜式内稗田神社」と伝えられています。「御田八幡神社」は、1300年を超える歴史と伝統ある神社です。何度かの遷座を経て、元和5年(1619年)に、僧「快尊」によって社殿の造営が開始され、寛永五年(1628)、社殿が竣工し現在地へ遷座しました。しかし、寛文8年(1668年)の大火によって社殿が全焼しましたが、寛文12年(1672年)に「細川越中守」によって社殿が再建されました。明治2年(1869年)に、延喜式記載の「稗田神社」に改称し、さらに明治30年(1897年)に現在の名称である「御田八幡神社」と改称しました。そして、昭和20年(1945年)には、東京大空襲で社殿が焼失しまいましたが、昭和29年(1954年)に、社殿を再建しました。ちなみに、「延喜式神名帳」は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧で、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを「論社」、「比定社」などと呼びます。
では、早速「御田八幡神社」を参拝したいと思います。「鳥居」の先には急勾配の石段が控えています。ただし、右手にはやや勾配の緩やかな石段があります。参道から続く急勾配の石段の方が男坂、緩やかな石段が女坂ということになりますかね。石段を上る手前には、金網で囲まれ、保護されている一対の「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」の奉納された年代は不詳ですが、おそらく江戸時代のものかと思われます。狛犬は、阿吽の両方とも子持ちで、特に、阿形の子は乳飲みの姿で愛くるしい姿です。急勾配の石段を上り切ると、右手に「手水舎」、左手には「神楽殿」があります。さらに進むと、「社殿」前にずんぐりむっくりとした体型の非常に古い「狛犬」が鎮座しています。この「狛犬」は、元禄9年(1696年)に奉納されたものだそうです。その他「社殿」の付近には、大きな絵馬やこれまた古い「天水桶」もありました。現在の「社殿」は、東京大空襲にて焼失し、昭和29年(1954年)に再建されたものです。「社殿」は、木々に囲まれた緑の中にひっそりと佇み、都会の喧騒を忘れさせてくれます。「社殿」の左手には、合殿の境内社である「五光稲荷神社」と「御嶽神社」があります。興味深いのは、「五光稲荷神社」と「御嶽神社」は、合殿にもかかわらず、別々の鳥居が建立されているということです。さらに、その奥にも小さな祠がありました。鳥居の扁額は、劣化していて読みにくいのですが、「稲荷社」と書かれていました。規模的には、小さな神社ですが、都会の中の安らぎの空間というような感じがしました。
01_【「御田八幡神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒108-0073 東京都港区三田3丁目7-16 電話:03-3451-4687
⑵ 受付時間:9:00~17:00 ※ 正月は7:00-18:00
⑶ 休業日…年中無休
⑷ 「御田八幡神社」の概要
①社号…八幡神社 ②御祭神…誉田別尊 ③相殿…天児屋根命 、武内宿禰命
④境内社…五光稲荷神社、御嶽神社
02_【「御田八幡神社」へのアクセス】
⑴ JR「田町駅」三田口西口から徒歩13分800m
⑵ 都営浅草線・三田線「三田駅」A3出口から徒歩10分650m
⑶ 都営浅草線・三田線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩7分500m
《赤穂義士関連》
「赤穂浪士」一行が、「吉良上野介」の首級をとって「泉岳寺」に向かう途中にあるのが、「御田八幡神社」です。「御田八幡神社」の前で、「高田郡兵衛」が現れ、お祝いを述べたと言われています。しかし、「高田郡兵衛」は江戸急進派の一人でありながら、討ち入りから脱落したため、「赤穂浪士」一行は無視したそうです。ただし、「堀部弥兵衛」だけが討入りが成功し「吉良上野介」の首を「泉岳寺」に持っていくところだと話したそうです。その後、「高田郡兵衛」は「泉岳寺」に祝い酒を持参して来ましたが、「赤穂義士」たちから罵声を受けて追い返された、酒樽を受け取ってもらえなかったそうです。また、別の話として、「御田八幡神社」で討入り後の「赤穂義士」に酒樽を振舞ったという説もあります。いずれにせよ「御田八幡神社」も「赤穂義士」の物語の有名な一コマです。
ちなみに、「高田郡兵衛」は、高田派槍術開祖の「高田又兵衛」の孫の1人と云われ、「高田郡兵衛」も槍の達人といわれています。元禄14年3月14日に、主君「浅野内匠頭」が「江戸城本丸御殿松之大廊下」で「吉良上野介」に刃傷におよび、「浅野内匠頭」は即日切腹になりました。赤穂浅野家は断絶となった年の4月に、「高田郡兵衛」は「堀部安兵衛」、「奥田孫太夫」とともに江戸から赤穂へ赴き、「大石内蔵助」に篭城を主張しています。赤穂城明け渡し後に、「高田郡兵衛」は江戸に戻り、「堀部安兵衛」らとともに「江戸急進派」と呼ばれる派を浅野家中に作り、仇討ちを強硬に主張しました。しかし、同年12月頃に「高田郡兵衛」は突然脱盟してしまった。この脱盟については、「高田郡兵衛」の伯父にあたるといわれる旗本「内田三郎衛門元知」から養子になるようとの申し出を受けましたが、「高田郡兵衛」は「存じ寄りある」といって断わりました。しかし「内田三郎衛門元知」は「高田郡兵衛」の「存じ寄りのこととは敵討のことではないか。養子に来れば口を閉ざすが、来なければ「村越伊代守」に訴え出る。」と言い出し、ついに「高田郡兵衛」は、討ち入り計画を口外しない条件でそれを受け入れたとされています。いずれにしても江戸急進派リーダー格の一人「高田郡兵衛」の突然の脱盟は「江戸急進派」の顔に泥を塗ることになりました。討ち入り後、「赤穂義士」が英雄されるのに対して、脱盟した「高田郡兵衛」の評価は地に堕ちてしまい、「高田郡兵衛」のその後の消息は不明だそうです。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線・三田線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩7分500m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 時期的に会社関係者がかなり来ていました。
-
江戸時代には東が江戸湾に接し、海を隔ててはるか遠くには房総の山を望む、一日眺めても飽きない景色だったそうです。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
「札の辻」は、かつて江戸の入り口でした。現在は、「芝地区」の南西の端に第一京浜の交差点名として残っている「札の辻」は、平行してJR山手線、京浜東北線、新幹線、東海道線の線路が走り、芝浦方面には「札の辻橋」が架けられています。「札の辻」という名称の由来は、江戸時代に三辻(三差路)の一角を利用して、ここにきまりや注意などを多くの人々に知らせる「高札場」が設置され、「布告法令」などが掲示されていたことによります。
江戸初期の元和2年(1616年)に、この「札の辻」に「芝口門」が建てられ、江戸の町の正面の入り口としての役割を担い、東が江戸湾に接し、海を隔ててはるか遠くには房総の山を望む、一日眺めても飽きない景色であったため、別名「日暮御門」とも呼ばれていました。
また、「吉良上野介」を討ち取った「赤穂義士」たちは、「吉良上野介」の首を亡き主君「浅野内匠頭」の墓前に供えるため、「浅野内匠頭」の眠る泉岳寺へ向かいました。そして、この「札の辻」を経て、「泉岳寺」に到着した。そして、ここでもひとつエピソードがあります。「赤穂義士」義士たちは、午前4時ごろから約2時間の死闘を終え、「両国」から「泉岳寺」まで約11kmの雪道を3時間弱という驚異的なスピードで歩いた。それも鎖帷子等着込み、その他武器、武具で 約12kg以上あったといわれています。 「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。
01_【「札の辻」の一口メモ】
所在地…〒108-0073 東京都港区三田3丁目5
02_【「札の辻」へのアクセス】
⑴ JR「田町駅」三田口西口から徒歩8分500m
⑵ 都営浅草線・三田線「三田駅」A3出口から徒歩5分300m
⑶ 都営浅草線・三田線「泉岳寺駅」A3出口から徒歩10分750m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線・三田線「三田駅」A3出口から徒歩5分300m
-
イタリア大使館の敷地内に切腹の地の記念碑があるそうですが、残念ながら見ることはできません。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
「伊予松山藩中屋敷」は現在、「イタリア大使館」になっています。寛永12年(1635年)「徳川家康」の異父弟「松平定勝」の子である「松平定行」が桑名より15万石で松山城主なりました。この屋敷に「大石主税」ら10名が預けられました。 対応は、「熊本藩細川家」や「岡崎藩水野家」と比べると悪かったということです。ちなみに、預けられた10名は、「大石主税」、「堀部安兵衛」、「中村勘助」、「不破数右衛門」、「千馬三郎兵衛」、「木村岡右衛門」、「岡野金右衛門」、「菅谷半之丞」、「貝賀弥左衛門」、「大高源五」です。切腹した場所を掘って池とし、その土を築山に盛って庭園の小丘にしたと伝えられています。松山藩の御屋敷は、明治維新後は「松方正義」の手を経た後、昭和9年(1934年)に「イタリア政府」が土地を取得したそうです。「松山藩」の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていませんが、昭和14年(1939年)に、当時のイタリア大使により建立された「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の記念碑があるそうです。残念ながら「イタリア大使館」敷地内のため見学できません。「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑は、日本語とイタリア語で刻まれていて、日本語の方の揮毫は「徳富蘇峰」によるものだそうです。そして、「赤穂民報」によると数年に一度は、赤穂義士の命日には、歴代イタリア大使が供養をおこなっているそうです。
01_【「伊予松山藩松平家中屋敷跡」(現イタリア大使館)の一口メモ】
所在地…〒〒108-0073 東京都港区三田2丁目5-4
02_【「伊予松山藩松平家中屋敷跡」(現イタリア大使館)へのアクセス】
① JR山手線「田町駅」三田口(西口)から徒歩15分950m
② 都営浅草線「三田駅」A3出口から徒歩13分800m
③ 都営大江戸線「赤羽橋駅」赤羽橋出口から徒歩9分600m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営大江戸線「赤羽橋駅」赤羽橋出口から徒歩9分600m
-
実際に義士9名が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所です。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
「水野監物邸跡」は、三河岡崎藩水野家下屋敷跡です。岡崎は「徳川家康」誕生の地であり、水野家は徳川家と親密な関係にありました。「水野監物」(忠之)が藩主の時、この屋敷には、元禄15年(1702年)12月14日に「吉良義央」(上野介)の屋敷に討ち入った「赤穂義士」の「奥田貞右衛門」、「神崎与五郎」ら9名が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日にこの屋敷で切腹し、本懐を遂げました。「赤穂義士」の中では、身分が低いものが預けられ、そのため「熊本藩細川家」ほど待遇は良くなかったそうでが、「水野忠之」は義士を丁重に待遇したと伝えられています。ただし、水野氏は、江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に義士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所だそうです。そして、現在は二か国語の案内板が、狭い路地に寂しそうに設置されているだけです。
ちなみに、「水野家」に預けられたのは、「奥田貞右衛門」、「神崎与五郎」、「間瀬孫九郎」、「間 十次郎」、「村松三太夫」、「矢頭右衛門七」、「茅野和助」、「横川勘平」、「三村次郎左衛門」の9名です。
01_【「水野監物邸跡(岡崎藩水野家下屋敷跡)」の一口メモ】
所在地…〒108-0014 東京都港区芝5丁目26-11
02_【「水野監物邸跡(岡崎藩水野家下屋敷跡)」へのアクセス】
①JR山手線「田町駅」三田口(西口)から徒歩4分230m
②都営浅草線「三田駅」A3出口から徒歩3分190m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
無血開城というだけでなく、江戸120万人の命が救われた会談です。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
新政府軍による江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868年)3月13日、14日の両日に薩摩屋敷において「勝海舟」と「西郷隆盛」の会見が行われました。両者による講和が結ばれ、新政府軍による江戸総攻撃は回避され、歴史的な無血開城がなされました。そして両者の会談から約1ヶ月後の慶應4年(1868年)4月11日に江戸城は新政府側に引き渡され、一滴の血も流さない世界史上でも稀な「無血開城」が実現しました。
「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の石碑は、昭和27年(1952年)に建立され、石碑は「西郷隆盛」の孫である「西郷吉之助」の筆によるものです。石碑の案内文には「この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ更に埋め立てられ海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。」と刻まれており、当時は、まだこのあたりが海の近くだったということを物語っています。
01_【「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」の一口メモ】
所在地…〒108-0014 東京都港区芝5丁目33
02_【「薩摩藩蔵屋敷跡(江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地)」へのアクセス】
⑴ JR山手線・京浜東北線「田町」三田口(西口)から徒歩4分290m
⑵ 都営浅草線「三田駅」A6出口から徒歩1分70m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営浅草線「三田駅」A6出口から徒歩1分70m
-
赤穂義士や池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」にも登場する歴史ある橋です。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
「金杉橋」は、赤穂義士たちが討ち入り後、泉岳寺に向かう道中に渡ったとされる橋の一つです。「金杉橋」は、現在の港区浜松町2丁目・芝大門2丁目と芝1、2丁目を結ぶ、金杉川(古川)に架かる橋です。江戸後期の資料によると、当時の大きさは橋長が11間(約20m)、橋幅が4間(約7.3m)あったそうです。橋のほんの数十m先には海が広がっていました。そして、大正8年(1919年)に橋長が18.182m、橋幅が36.606mの鉄筋コンクリート橋になりました。また、現在の橋は、昭和46年(1971年)に架替えられたもので橋長が19m、橋幅が42mの単純活荷重合成プレートガーダー橋となりました。また、「金杉橋」は、明治7年(1874年)に、京橋との間で、東京で初めてガス灯がともった場所として有名です。そして、「金杉橋」の下は、付近で営業を行う屋形船の係留場所となっており、一面に様々な船が浮かぶ光景が見られます。
ちなみに、「金杉橋」の名前の由来は、江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されており、近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから名づけられたそうです。また、この国道15号(第一京浜)架かる「金杉橋」は、昭和時代には、橋の上を都電金杉線が走っており、橋の南側に金杉橋停留所がありました。昭和42年(1967年)に都電金杉線が廃止された以降は、都営バスの金杉橋停留所になりました。
01_【「金杉橋」の一口メモ】
⑴ 所在地…港区浜松町2丁目・芝大門2丁目と芝1、2丁目
※北詰/西詰…港区芝大門2・浜松町2、南詰/東詰…港区芝1丁目港区芝2・芝1
⑵ 建築形式…単純活荷重合成プレートガーダー橋
⑶ 大きさ…①橋長19m ②橋幅42m
02_【「金杉橋」へのアクセス】
①都営浅草線・大江戸線「大門駅」A3出口から徒歩7分450m
②都営三田線「芝公園駅」A1出口から徒歩8分500m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線・大江戸線「大門駅」A3出口から徒歩7分450m
- 見ごたえ:
- 3.0
- 橋の川の屋形船が見ものです。
-
「浅野内匠頭終焉之地碑」が建てられたのは、四半世紀後の昭和15年(1940年)のことです。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.0
江戸時代には、この辺りは奥州一之関藩(現在の岩手県)「田村右京太夫」の上屋敷がありました。元禄14年(1701年)3月14日に、江戸城松之大廊下で「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」(浅野内匠頭)は、この田村邸に預けられます。当日は、江戸幕府の1年間の行事の中でも最も格式高い儀式の行なわれる日に、江戸城内で殺傷に及んだのですから、幕府の権威を著しく傷つけたことにもなり、即日切腹が申し渡され、「磯田武大夫」(幕府徒目付)の介錯で切腹しています。浅野家家臣の「片岡高房」、「糟谷勘左衛門」、「建部喜六」、「田中貞四郎」、「礒貝正久」、「中村清右衛門」が田村邸へと出向いて遺体を引き取り、「泉岳寺」に埋葬したそうです。「吉良義央」を打ち取れなかった無念の思いを辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に残しました。「日比谷通り」に面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。「浅野内匠頭終焉之地碑」が建てられたのは、四半世紀後の昭和15年(1940年)のことで、青山の石材店「石勝」が建立しました。
ちなみに、赤穂藩の第3代藩主「浅野長矩」が江戸城松之大廊下「吉良上野介」(吉良義央)を切りつけた当日は、朝廷は答礼として朝廷と幕府との間の取次役をする公卿(武家伝奏)が江戸へ下向して、将軍に拝謁し、叡旨(天皇のお言葉)、院旨(上皇のお言葉)を伝えるのが慣例でした。この慣例は朝廷と幕府の関係を密接に保つための重要な儀式であり朝廷、幕府の双方とも最大級の饗応をもって対応していました。
01_【「浅野内匠頭終焉の地」の一口メモ】
所在地…〒105-0004 東京都港区新橋4丁目31
02_【「浅野内匠頭終焉の地」へのアクセス】
⑴ JR「新橋駅」烏森口から徒歩11分700m
⑵ 都営浅草線「新橋駅」A1出口から徒歩9分600m- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営浅草線「新橋駅」A1出口から徒歩9分600m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 観光客はだれもいませんでした。
-
大都会東京の景色に溶け込んだ現代的な神社です。社殿の左手にあるお稲荷さんだけが歴史を感じるものでした。
投稿日 2024年02月09日
総合評価:3.5
最初に、「日比谷神社」の歴史と概要を紐解いてみる、「日比谷神社」は、現在の「日比谷公園」である「旧麹町区日比谷公園」の「大塚山」という場所にありました。また、別名で「日比谷稲荷明神旅泊稲荷明神」と呼ばれていました。残念ながら「日比谷神社」の創建年代は不明です。「日比谷神社」は、数々の遷座を繰り返している歴史があります。まず、安土桃山時代末期の慶長11年(1606年)に、江戸城築城に際し「日比谷御門」の造営のため、芝口に遷座しました。明治5年(1872年)に村社に列せられ、その後、大正12年(1923年)に発生した関東大震災の影響で昭和3年(1928年)の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋4丁目に「日比谷神社」の社殿が造営されました。鎮座している地は日比谷から新橋へと移っていますが、社名の「日比谷」は当初より残されている形です。また、何故「日比谷神社」が「旅泊稲荷」と呼ばれているのかというとその由来は、「日比谷神社」が「日比谷公園」の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに「日比谷神社」の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、御利益があったので、旅人や周囲の人々は「旅泊稲荷」と呼ぶようになったそうです。そして、新橋に遷座した後に「魚の鯖」に変わるようになり、「鯖稲荷」と呼ばれるようになりました。特に昔、虫歯に苦しむ人が鯖を断って祈誓をすると治るといわれ、それ以降、治った人々が「日比谷神社」に鯖を奉納するようになったそうです。大祭は、同じく新橋にある烏森神社と、隔年で交互に行われています。新橋や汐留の鎮守として、古くから人々に厚く崇敬されている神社です。
それでは早速、「日比谷神社」に参拝したいと思います。交差点を渡ると正面に朱色の鳥居とその左手に「日比谷神社」社柱碑があります。「社殿」は鳥居をくぐり石段を上った先にあります。一礼して鳥居を見上げると、今まで訪れた神社と違い奥に高層ビルがその奥に見えます。意外とこれがマッチしていて絵になりインスタ映えします。私は、写真を撮るのがあまり上手ではないので、上手く撮ることができませんでしたが、まさに大都会の真ん中にある神聖な場所と行った感じです。鳥居をくぐり石段を上がると、左手に「洗心台」、正面に「社殿」、右手に「授与所・社務所」があります。そして、社殿の左側には、境内社の「稲荷社」がありまました。「社殿」は、平成21年(2002年)に造営されたばかりの真新しい、都会的で、洗練された感じがしました。見どころはあまりありませんが、境内から眺める風景は、今までに見たことないような大都会の景色に囲まれていて、とても不思議な感じがしました。
01_【「日比谷神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒105-0021 東京都港区東新橋2丁目1-1 電話:03-3433-2034
⑵ 社務所受付時間…10:00〜17:00 休務日…毎週水曜日
⑶ 御祭神…伊勢の神宮外宮の神様「豊受大神」と穢れを祓う「祓戸四柱大神」
①瀬織津比賣大神 ②速開都比賣大神 ③気吹戸主大神 ④速佐須良比賣大神
02_【「日比谷神社」へのアクセス】
⑴ JR「新橋駅」烏森口から徒歩5分300m
⑵ 都営浅草線「新橋駅」A1出口から徒歩4分190m
⑶ 都営大江戸線「新橋駅」5番出口から徒歩8分550m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営浅草線「新橋駅」A1出口から徒歩4分190m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 参拝客は数名いました。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 境内から眺める風景は、今までに見たことないような大都会の景色に囲まれていて、とても不思議な感じがしました。
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「采女橋の碑」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」の6番出口を出て、右方向に道なり140mほど直進すると横断歩道があります。横断歩道を渡り左折すると30m先の「中央区立築地川采女橋公園」の中、右手の道路沿いにあります。
「采女橋」の由来は、江戸時代に「松平采女正」の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、「采女が原」と呼ばれていました。橋名の名前の由来はここからきたものと言われています。関東大震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また、橋の下は昭和37年(1962年)に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。また、「采女橋」の高欄は「築地ホテル館」と「銀座の柳」をモチーフとしています。日本最初の西洋式ホテル第一号である素晴らしい建造物と銀座の名物が形を変えて伝えているわけですね。
01_【一口メモ】
所在地 〒104-0061 東京都中央区銀座6丁目18
02_【アクセス】
都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」6番出口から徒歩2分160m- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」6番出口から徒歩2分160m
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「東京商工会議所発祥の地」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」の6番出口を出て、右方向に道なり140mほど直進すると「日産自動車の本社ビル」があります。「日産自動車の本社ビル」の前に植え込みがあり、その中に「東京商工会議所発祥の地碑」があります。道路の歩道の植込みに埋まるように 赤い大理石の碑が建っています。
「東京商工会議所」の初代の会頭は、NHKの大河ドラマでも有名な「渋澤榮一」です。明治維新後に富国強兵策等が取られ、特に外国貿易振興のための商工業者の組織が必要とされた際に誕生したのが「東京商法会議所」です、「伊藤博文」、「大隈重信」、「渋澤榮」一らが中心となり明治11年(1878年)に設立されました。そうそうたるメンバーが日本の未来のために立ち上がったのですね。
01_【一口メモ】
所在地 〒104-0061 東京都中央区銀座6丁目17―1
02_【アクセス】
都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」6番出口から徒歩2分150m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」6番出口から徒歩2分150m
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「歌舞伎稲荷神社」は、2013年に竣工される以前は、劇場の敷地内に設けられていました。そのため、歌舞伎座の関係者や観劇者のみしか参拝できなかったのですが、歌舞伎座の建替えを経て今の場所に遷座され、現在は誰もが参拝できる神社となっています。「歌舞伎稲荷神社」は、歌舞伎興行の大入りや安全、お客様や舞台関係者の平穏無事、また、近隣の平安、火伏の守護などを祈願して祀られています。そして、歌舞伎興行の初日と千穐楽には「奉告祭」が執り行われています。いわば、舞台がうまくいくように願う歌舞伎役者達の守護神の神社のようなものですね。小さい神社ですが、朱色の鳥居が印象的で、近代的な中にもこのような古式なものがあると一層目を引きますよね。
01_【一口メモ】
所在地 〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目12―15 歌舞伎座タワー
02_【アクセス】
都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」3番出口右手すぐ- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」3番出口右手すぐ
-
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「名犬チロリ記念碑」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」の5番出口出て、そのまま直進すると左手に「中央区立築地川銀座公園」があり、公園に入ると正面に「名犬チロリ記念碑」があります。
「チロリ」は、捨て犬です。そして、名誉セラピードッグ認定1号の名犬です。「チロリ」は、後にセラビードッグの代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に心の安らぎ、そして生きる勇気と病気回復への希望を与えてきました。子犬たちと共に殺生処分寸前を免れ、この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響を及ぼしました。我が家にもチワワがいますが、何気ないしぐさを見ているだけで、心に安らぎと楽しさが生まれてきます。
01_【一口メモ】
所在地 〒104-0045 東京都中央区築地1丁目13 中央区立築地川銀座公園内
02_【アクセス】
都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」5番出口から徒歩1分80m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 都営地下鉄浅草線・東京メトロ日比谷線「東銀座駅」5番出口から徒歩1分80m
-
独創的な建築様式でまるイスラムのモスクを見ているようです。そして古代と現代が混在しています。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:4.0
「築地本願寺」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の1番出口を出ると正面が「築地本願寺」に直結しています。「正門」から入りたい場合は、「築地市場」方面へ50mほど進むと左手が「築地本願寺」の「正門」になります。ちなみに、入口は東京メトロ日比谷線「築地駅」直結しているもの、正門、南門、北門があります。
「築地本願寺」は、浄土真宗本願寺派の寺院です。本山は、京都下京区にある「龍谷山本願寺」(西本願寺)で、「築地本願寺」は、その直轄の寺院になります。「築地本願寺」の正門から入ると、その建築様式に驚かされるというか、感激します。誰もが、まず、お寺というと頭に浮かぶのは和風の建築ですが、「築地本願寺」は古代インドやアジアの古代仏教建築のデザインが取り入れられた、非常に珍しいお寺です。
「築地本願寺」の歴史を紐解いてみると、「築地本願寺」は、元和3年(1617年)に浅草近くに「龍谷山本願寺」(西本願寺)の別院として建立されましたが、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」と呼ばれる大火事で焼失してしまいました。その後、再建のため江戸幕府から与えられた土地が現在の場所ですが、その当時は海上だったので埋め立て工事と造成をしなければなりませんでした。そして、そこに海を埋め立てて土地を築き「本堂」を建立しました。意外にもそのことが「築地」という名称の由来になったそうです。そして、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。この時の「本堂」の正面は西(現在の「築地市場」)を向いて建てられ、築地場外市場のあたりには58カ所の寺院からなる寺内町だったそうです。
また、大正12年(1923年)には「関東大震災」に伴う火災により再度本堂を焼失しましたが、昭和9年(1934年)に再建し、現在の「本堂」の姿となりました。「本堂」は、東京帝国大学工学部(現東京大学)教授で建築家の「伊東忠太」博士の設計による古代インド・アジア仏教様式を模した独特の外観が独創的かつ特徴的です。インドにある「アジャンター石窟寺院」などがモデルになっているそうです。「伊東忠太」は、建築家初の文化勲章を受章するなど、建築界に大きな足跡を残した人物です。
しかし、「本堂」内に入ると幻想的な浄土真宗の造りとなっています。そして、「本堂」でも何よりも目を引くのが、巨大な「パイプオルガン」です。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、毎月最終金曜日に行われる「ランチタイムコンサート」で楽しむことができます。
また、建物の細部には、インドのみならず和洋中と世界の建築要素が取り入れられていることも有名です。「本堂」正面にある「有翼の獅子」や「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」など様々な霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これを探すのにチャレンジするのも「築地本願寺」の建築様式を楽しむ一つの方法です。平成26年(204年)には、「本堂」、「門柱(正門・北門・南門)」、「石塀」が国の重要文化財に指定されました。
《「築地本願寺」のお薦め参拝巡路》
「石塀」(重要文化財)⇒「門柱(正門)」(重要文化財)⇒「手水舎」⇒「酒井抱一墓」⇒「九条武子様歌碑」⇒「土生玄碩墓」⇒「大瀛師之塔」⇒「間新六之塔」⇒「陸上交通殉難者追悼の碑」⇒「台湾物故者遺骨安置所」⇒「親鸞聖人の像」⇒「門柱(南門)」(重要文化財)⇒「本堂」⇒「」⇒「」⇒「」
それでは「築地本願寺」を参拝します。まず、「正門」から入る前に国の重要文化財に指定されている「石塀」と正門「門柱」の外観を鑑賞するのをお薦めします。「正門」から入るとすぐ右手に「手水舎」があります。ちなみに、浄土真宗では、参拝の際に身を清める儀式をする必要はありません。「手水舎」は参拝者が遠路はるばる歩いてきた時代に、本堂を汚さないように足を洗うためのものだったそうです。次に「手水舎」の手前の道を右方向に進むと、「酒井抱一墓」、「九条武子様歌碑」、「土生玄碩墓」、「大瀛師之塔」、「間新六之塔」、「陸上交通殉難者追悼の碑」、「台湾物故者遺骨安置所」、「親鸞聖人の像」などの旧跡等が連続して並んでいます。「親鸞聖人の像」を見学し終えたら、重要文化財に指定されている「南門」です。さて、いよいよ「本堂」の参拝です。「本堂」は、建物中央の階段を利用しますが、バリアフリールートや「本堂」内にはエレベーターもありますので、ベビーカーや車椅子の方はそちらを利用すると良いと思います。「本堂」の中央には、中央には浄土真宗の御本尊である「阿弥陀如来像」が安置されています。「築地本願寺」での参拝方法は、まず御本尊に一礼します。香をつまみ、香炉に入れます。複数回行うのでなく1回のみです。それから合掌して、「なもあみだぶつ」と称えてから礼拝し、一礼して退出するのが正式な参拝方法です。ここでの注意点ですが、お香はつまんだ後、額に寄せないで香炉に入れるようにしまます。そして、「本堂」を参拝すると「参拝記念カード」があり、参拝後に持ち帰ることができます。何故「参拝記念カード」とかというと、「築地本願寺」には、御朱印やお守りはありません。御朱印は追善供養(故人に対する供養)の受取印が起源なので、追善供養を行わない浄土真宗には御朱印がないそうだらだそうです。そして、「参拝記念カード」に書いてある言葉や色は毎月変わります。ちなみに、12カ月分の「参拝記念カード」集めると記念品などがもらえるそうです。
参拝後は、「築地本願寺」の「本堂」の素晴らしい建築様式やモニュメント等を見学します。「本堂」への入口の上部には、蓮の花が描かれた色鮮やか「ステンドグラス」があります。外からの日が「ステンドグラス」に当たる時間帯に見るのがベストだそうです。そして、「ステンドグラス」を背景にその両脇には、「本堂」で最も目を引く、巨大な「パイプオルガン」が目に入ってきます。この「パイプオルガン」は、昭和45年(1970年)に、仏教音楽の普及を願い寄贈されたもので、2mから2cmまで、大小約2,000本ものパイプで構成されています。毎月最終金曜日に行われる参加無料の「ランチタイムコンサート」で「パイプオルガン」の音色を楽しむことができます。
次は、「本堂」をはじめあらゆるところにある「動物像」探しです。「本堂」正面にある「有翼の獅子」をはじめ、「牛」、「獅子」、「馬」、「象」、「孔雀」、「猿」等の霊獣など全13種の動物像が寺の各所に隠れています。これらの像を設置したのは、動物好きで知られる「築地本願寺」の設計者「伊東忠太」です。「伊東忠太」は、もともと動物や妖怪が好きで、建築にも摩訶不思議な動物の彫刻、彫像を取り入れています。通称「幻獣建築」とも呼ばれています。そして、晩年には毎日のように風刺画を描き、おびただしい数の動物や妖怪の絵を描くなど、漫画家、イラストレーターとしての側面もあったそうです。
本堂に続く階段の入り口にある「有翼の獅子」は、左側の像は口が閉じていて右側の像が口を空けており、阿吽になっています。また、階段の上に上半身だけ彫刻されている「獅子像」は、この「あ」「うん」が、階段下の像と逆になっています。「本堂」内部の広間の階段の手すりや壁には、大理石で造られた像や「牛」、「馬」、「ライオン」などの像があります。1階の窓と天井の間には、「ヤモリ」の像がありました。いずれも表情豊かで、胴体はムクムクと膨らんでいる愛嬌たっぷりな動物たちでした。
【築地本願寺に棲む動物たち】
①「有翼の獅子」、②「牛」、③「馬」、④「獅子」、⑤「象」、⑥「孔雀」、⑦「猿」、⑧「鳳凰」、⑨「グロテスク(珍獣)」、⑩「青龍」、⑪「朱雀」、⑫「白虎」、⑬「玄武」
もう少し詳しく見てみると、扉から本堂へ入ると右手の階段手すりの支柱部分に「牛」の像があります。そして、「牛」の像の向こうには、「孔雀」を発見しました。キョトンとした顔をしていますが、実は、こちらの「孔雀」像は阿弥陀経に説かれている鳥の一種だそうです。その生態から、物事を包み隠さず、自分の心をさらけ出すものの例えとされているようです。そして、中央の扉の付近に、「獅子」と「馬」の像がありました。「馬」の像は見るからに、飛び出してきそうな躍動感を感じます。また、「獅子」は、神聖な動物であると共に、仏教では、仏の知恵の象徴とされているそうです。そして、堂内に入ると、白い梁と柱があり、そこに「朱雀」、「青龍」、「玄武」、「白虎」のが装飾として施されていました。この四聖獣の起源は中国で、世界の四方向を守る神獣といわれています。ちなみに、北は「玄武」、南は「朱雀」、東は「青龍」、西は「白虎」が守護する役目を担っています。また、「講堂」の付近に階段があり、その手すりに「グロテスク」といわれている彫像を発見しました。「本堂」から外出ると、外壁に半鐘がありその上に「鳳凰」像がありました。次から次へと動物像を見つけていくと、子供時代にやった宝探しを思い出すような、何となく満足感が心の中に芽生え、楽しくなりました。
「本堂」を出ると右手には「インフォメーションセンター」があります。「インフォメーションセンター」には、数量限定の人気メニューの「18品の朝ごはん」で有名な「築地本願寺カフェ Tsumugi」があります。私も食べてみたいと思い、自分の都合のいい日時に何回かネットで予約をトライしたのですが、連日予約が一杯で、いまだに食べていません。「Tsumugi」は、年中無休で、営業時間は8:00~18:00、朝食は8:00〜10:30となっています。ちなみに、「18品の朝ごはん」は、16種類のおかずとお粥、お味噌汁からなり、湯葉いくら、海苔明太、里芋田楽、タコの塩麹和え、鴨の山椒焼きなど少しずつ色々なものが食べることができます。その他「つきぢ松露」の卵焼きや「築地江戸一」の甘口昆布の佃煮などの築地の名物も味わうことができます。そしてお粥はなんとおかわり自由だそうです。お茶もこだわっていて、温かい三重県産や福岡八乙女産のかぶせ茶か冷たい鹿児島産の深蒸し茶のどちらかを選ぶことができます。
また、「インフォメーションセンター」内には、仏事関連の商品、文具雑貨等を取り揃えた「オフィシャルショップ」があります。営業時間は、9:00~17:00で年中無休となっています。そして、「インフォメーションセンター」には、「築地本願寺」が一望できる「屋上テラス」があり、誰でも自由に入ることができます。「屋上テラス」から「築地本願寺」の眺めは、また違った趣があります。その他、「第一伝道会館」の1階には、本格的な日本料理が食べられる「紫水」や気軽に休むことのできる「ティーラウンジ」もあります。
最後に忘れてはならないのは、「築地本願寺」は、「X JAPAN」の「hide」の葬儀・告別式が執り行われた場所です。そして、5月2日は「X JAPAN」の「hide」の命日です。当時、葬儀が行われた「築地本願寺」には、約5万人のファンの方が献花に訪れ、その列は、2、3キロにも及んだそうです。いまでも多くのファンが、「築地本願寺」に訪れています。「本堂」は、お葬儀の時に、「Toshi」が「hide」を偲んで、「Yoshiki」のピアノと共に「Forever Love」を歌った場所になります。「本堂」への階段を上り、扉からラウンジに入ると左側に階段があります。その階段を降りると、この奥に「hide」の「追悼コーナー」が設置されています。
01_【「築地本願寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒104-8435 東京都中央区築地3丁目15-1 電話:0120-792-048(コンタクトセンター)
⑵ 本堂参拝時間…6:00〜16:00 ※夕方のお勤め終了後
⑶ 「築地本願寺」の概要
①宗祖…親鸞聖人 ②宗派…浄土真宗本願寺派 ③本山…龍谷山本願寺(西本願寺)
④御本尊…阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
02_【「築地本願寺」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」1番出口から徒歩1分50m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」4番出口から徒歩6分400m
⑶ 都営地下鉄浅草線「東銀座駅」5番出口から徒歩6分400m
⑷ 都営地下鉄大江戸線「築地市場駅」A1出口から徒歩6分450m
03_【「築地本願寺」の見どころ】
⑴ 「酒井抱一墓」
「酒井抱一」は、江戸後期に活躍した画家です。「酒井抱一」は、播磨国(兵庫県)姫路藩主「酒井忠仰」の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺「文如」上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、「抱一」と号しました。江戸時代の日本画では、幕府御用絵師の「狩野派」や宮廷画家で絵所預の「土佐派」が二大流派として有名です。この他にも、両派とは様式・画法を異にして純日本的な装飾美を絵師の解釈で構成させた「琳派」などがありました。「酒井抱一」は、「琳派」の「尾形光琳」に傾倒し、その画風を受け継ぎながらいっそうの洒脱さを加味し、四季の花鳥風月を詩情豊かに描き出す独自の作風を確立し、いわゆる「江戸琳派」の創始者となりました。「酒井抱一墓」は、昭和30年(1955年)3月28日に東京都の旧跡に指定されています。
⑵ 「九条武子歌碑」
「九条武子」は「柳原白蓮」、「江木欣々」とともに「大正三美人」と称された歌人です。「武子」は西本願寺第21代法主「大谷光尊」の次女として、明治20年(1887年)に京都に生まれました。明治42年(1909年)には公爵家出身で正金銀行に勤務する「九条良致」と結婚しました。そして「佐々木信綱」の門下になり和歌を学ぶようになりました。明治44年(1911年)に義姉「大谷籌子」裏方の早世に伴い、30歳の若さで「仏教婦人会本部長」に就任し、仏教に基づく教育との視点から、現在の「京都女子学園」・「京都女子大」の設立にも参画しました。大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、社会救済活動にも奔走しました。「九条武子様歌碑」には、「おほいなるものゝちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや」と刻まれていました。
⑶ 「土生玄碩墓」
「土生玄碩」は、シーボルトから教えを受けた門人の一人である眼科医です。「土生玄碩」は、安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)の眼科医・土生家に生まれ、「和田東郭」に学び、のち西洋眼科を修め、享和3年(1803年)に広島藩医となりました。さらに、文化7年(1810年)には幕府の奥医師となり、文化13年(1816年)には「法眼」を授けられました。しかし、江戸滞在中のシーボルトが治験した瞳孔を散大させる秘薬「散瞳薬」に驚嘆し、施術に有効な新薬の製法を得ようと何度も会見・懇願したといわれています。最終的には、危険を顧みずに将軍下賜の国禁品と引き換えに製薬教示を得ましたが、数年後にこのことが発覚し文政11年(1828年)のシーボルト事件に連座し、改易・禁錮の身となりました。その後、子の玄昌による第12代将軍「徳川家慶」への眼病治療の功で天保8年(1837年)に解かれたそうです。「土生玄碩墓」は、昭和30年(1955年)3月28日に東京都の旧跡に指定されています。
⑷ 「大瀛師之塔」
「大瀛師」は広島県の生まれで、浄土真宗本願寺派の学僧です。石見津和野藩の御典医「森養哲」の子として生まれ、11歳で得度し、安芸報専坊の「慧雲」に師事し宗学を学びました。 安永5年(1776年)に西本願寺の学林に入り、のち河内の「法性寺」に逗留し各地で聖教を講じました。その後、各地の寺に転住しましたが勉学のため住職を辞して広島城西に学寮を設立し、子弟を育成しました。
⑸ 「間新六之塔」
「泉岳寺」には仇討ちに関係した48人の墓があります。この内、三つの墓には遺体が無いと言われています。まず、討ち入りに参加を希望しながら参加出来ず義を全うして切腹して果てた「萱野三平」、「吉田忠左衛門」の家来である足軽の「寺坂吉右衛門」、そして築地本願寺に墓のある「間新六」の三人です。間家からは「堀部弥兵衛」についで高齢の69歳の父、「間喜兵衛」と「吉良上野介」に初鎗を付け、「大石内蔵助」の命によりその首級を上げた兄の「間十次郎」と次男の「間新六」の三人が討ち入りに参加しています。父と兄は「泉岳寺」に葬られていますが、「間新六」の墓だけは「築地本願寺」にあります。しかし、その真相はいまだ不明だそうです。ただし、本懐を遂げて「泉岳寺」へ引き揚げる途中で、携えた槍に金子を結び付け、自身の供養料として「築地本願寺」の塀の中へ投げ入れたという言い伝えが残っています。ただし、この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)の火災にあって焼失したため、「羽佐間宗玄」が再建したものだそうです。
⑹ 「陸上交通殉難者追悼の碑」
「陸上交通殉難者追悼之碑」は、昭和44年(1969年)に「三笠宮」を名誉総裁とした「陸上交通殉難者追悼建設会」が交通事故の犠牲者を悼み、交通事故の絶滅を願って建てられたものです。
⑺ 「台湾物故者遺骨安置所」
「台湾物故者遺骨安置所」は、太平洋戦争敗戦の後に台湾の日本人遺骨安置所から分骨して持ち帰った遺骨などが納められた安置所です。
⑻ 「親鸞聖人の像」
浄土真宗の宗祖である「親鸞聖人の像」は南門付近にあります。「親鸞聖人」は、承安3年(1173年)に京都の日野の里で生まれました。9歳から比叡山で学ばれましたが、29歳で師である「法然聖人」と出遇い、本願念仏の道に入られ、念仏停止による越後流罪を経て、関東の地で主著『教行信証』の執筆を始めました。「煩悩に満ちた私たちは、阿弥陀如来のみ教えを仰ぐことこそ、苦しみの世を生き抜く道である」と90年の生涯をかけて説き、弘長2年(1263年)に他界しました。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」1番出口から徒歩1分50m
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 人気のスポットだけあって参拝者が絶えません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 本堂はもちろん記念碑、動物像、ショップなど見どころ沢山です。
-
歩道の左側にあり、立派な柵に囲まれているのですぐに分かります。築地本願寺の門跡を表す橋でした。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「門跡橋親柱」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の1番出口を出て、150mほど左方向に進み、一つ目の信号(表示名「築地四丁目」)を左折します。140mほど「晴海通り」沿いに直進すると左手に「門跡橋親柱」があります。
「門跡橋」は、昭和3年(1928)6月に「築地川南支川」に架橋された関東大震災後の鉄筋コンクリート造りの震災復興橋梁です。「門跡橋」は、築地3丁目(現在の築地3・4丁目)と南小田原町1・2丁目(現在の築地6丁目)との間に架けられた橋です。そして、昭和3年(1928年)の架設時には、「小田原橋」の俗称から取った「築南橋」と橋名が付けられましたが、「築地本願寺」の門徒代表以下59人による名称変更の陳情があり、新しく架橋された橋に「築地本願寺」(西本願寺)を意味する「門跡」をつけて、「門跡橋」と改称された橋でもありました。
「門跡橋親柱」には、「門跡橋」の一部である高さ約122cm、幅約119cm、奥行約118cmの「親柱」1基が正方形の基壇上にあります。その他に花崗岩製の親柱には橋梁の名称を示す「門跡橋」の橋名板と竣工年月を記した「昭和三年六月 復興局建造」と刻まれた銅板も設置されています。戦後まであった「築地川」は、東京オリンピックに向けた道路整備の一環で首都高速道路の用地となり、昭和から平成と段階的に埋め立てが進められて現在に至っています。「門跡橋親柱」は、令和2年(2021年)4月1日に中央区の区民有形文化財(建造物)に指定されました。
01_【「門跡橋親柱」の一口メモ】
所在地…〒104-0045 東京都中央区築地3丁目17
02_【「門跡橋親柱」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」1番出口から徒歩約4分290m
⑵ 都営大江戸線「築地市場駅」A1番出口から徒歩約7分500m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」1番出口から徒歩約4分290m
-
富国強兵策の中で現場の工場を支える熟練工や現場監督が不足しているために設立されました。
投稿日 2024年02月04日
総合評価:3.0
「工学院大学学園発祥之地」へのアクセスは、東京メトロ日比谷線「築地駅」の3b出口を出て、右折し、「聖ルカ通り」沿いに170mほど直進すると信号があります。横断歩道を渡り右折します。60mほど進むと左手に「あかつき公園冒険広場」があり、「工学院大学学園発祥之地」の碑はその入口にあります。
「工学院大学」の歴史は 明治20年(1887年)に、築地に創設された「工手学校」に始まります。昭和3年(1928年) に新宿区に移転して戦後の昭和24年(1949年) に「工学院大学」となりました。時代の背景として、明治初期における富国強兵策のなかで、高等教育の学校は整備されつつあって人材も育ってきていましたが、現場の工場を支える熟練工や現場監督が不足していたそうです。こうした中堅層の職工育成を目的に作られたのが「工学院大学」の前身である「工手学校」だそうです。また、創立にあたっては、東京帝国大学初代総長の「渡辺洪基」らが中心となり、「工手学校」創立協議会を組織しました。現在は、新宿副都心の 28階建ての超高層ビルと八王子市に校舎があります。「工学院大学学園発祥之地」碑は、昭和31年(1956年)に中央区小田原町に建立されました。
【一口メモ】
所在地…〒104-0045 東京都中央区築地7丁目3-1 あかつき公園冒険広場
【アクセス】
⑴ 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約4分250m
⑵ 東京メトロ有楽町線「新富町駅」6番出口から徒歩約6分450m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ日比谷線「築地駅」3b出口から徒歩約4分250m





















































































































































