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法隆寺

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推古天皇と聖徳太子によって開基されました。

  • 5.0
  • 旅行時期:2016/12(約9年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

斑鳩・法隆寺周辺 クチコミ:3件

奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、寺伝によると推古15(607)年に日本最初の女帝である第33代推古天皇と摂政であり甥にあたる聖徳太子によって創建された寺院とされています。第32第崇峻天皇が蘇我馬子によって殺害され、急遽異母姉である額田部皇女が崇峻5(592)年に飛鳥豊浦宮で即位し、第33代推古天皇となります。そして推古元(593)年には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として〝政を摂る〟ことを命じます。摂政となった聖徳太子が推古9(601)年に造営した宮殿が〝斑鳩宮〟であり、推古13(605)年には聖徳太子自らが移り住んだとされています。その後斑鳩宮の西方の伽藍群である法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺が推古帝や聖徳太子の手によって建立されたとの記録が残っているそうです。

推古天皇自身は推古11(603)年に飛鳥小墾田宮を造営し居を移したとされており、公正な女帝である推古天皇の治世のもと、摂政である聖徳太子はその才能を十分に発揮することになります。推古天皇11(603)年〝冠位十二階制〟、推古12(604)年〝十七条憲法〟等次々と制定し法令組織の基盤を整えます。そして推古15(607)年には遣隋使として小野妹子を派遣し、隋に国の独立性を認めさせるための使節派遣を行っています。


推古天皇は聖徳太子とともに〝仏法興隆〟にも熱心であったとされ、その考えによって聖徳太子が斑鳩宮をこの地に造営することになったとする説もあるようです。

推古天皇の命、聖徳太子の摂政としての平和な治世はそう長くは続きませんでした。推古30(620)年には聖徳太子が49歳で薨去、後ろ盾であった叔父の蘇我馬子も推古34(624)年に薨去します。そして推古36(628)年には推古天皇も飛鳥小墾田宮にて75歳で崩御されます。その際後継者の具体的な指名をしなかったこともあり、権力争いの戦いが勃発することになります。斑鳩宮に聖徳太子の薨去後に太子の皇子である山背大兄王一族が居していたものの、皇極2(643)年蘇我入鹿によって斑鳩宮は焼き払われ、その際山背大兄王一族は自害して果て、太子の一族(上宮王家一族)は滅亡します。

その斑鳩宮跡地に建立されたのが現在の東院伽藍とされています。奈良時代に斑鳩宮の荒廃を嘆いた僧によって建立されたとされているようです。日本最古の木造建築物・最古の五重塔等、〝最古〟と名の付くものが非常に多い法隆寺ですが、血が流れた歴史もありました。しかしその中で戦いの場となってしまった斑鳩宮は焼失したものの、法隆寺は大丈夫であった説があります。勿論聖徳太子自身の存在論という問題もあれど、現実には焼失していてもおかしくない状況で免れたことになにか因果めいたものを感じます。

今は世界遺産に指定され平和一色のお寺さんになってはいますが、明治の廃仏毀釈の考えの下では南大門に続く築地塀がマジで取り壊されようとしたことなど考える事柄はごろごろ転がっているように思います。楽しい史跡巡りも良いですが、こうして今何もなく見学できるのは当たり前のことではない事実を考えないといけない時代になっている…そう思えてなりませんでした。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
友人
アクセス:
5.0
駐車場からすぐです。
人混みの少なさ:
3.0
時期と時間によりけりです・
バリアフリー:
3.0
結構きついと思います。
見ごたえ:
5.0
荘厳さを感じます。

クチコミ投稿日:2016/12/24

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