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bluejaysさんのクチコミ(34ページ)全1,027件

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  • 基本情報
  • 北海道最西端の駅だった

    投稿日 2015年03月19日

    旧国鉄瀬棚駅跡地記念碑 瀬棚・島牧

    総合評価:3.0

    国鉄瀬棚線の駅で、1987年3月16日に廃駅となった。かつては北海道最西端の駅(現在は鷲ノ巣駅)で、急行「せたな」の発着駅だった。跡地は瀬棚町総合福祉センターやすらぎ館となっており、駅名標や荻野吟子顕彰碑がある。
    長万部駅からバスに乗り、瀬棚本町バス停下車。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    長万部駅からバス
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 弘前の洋館が立ち並ぶ

    投稿日 2015年03月19日

    ミニチュア建造物群 弘前

    総合評価:3.5

    旧市立図書館と旧東奥義塾外人教師館の間にある、明治・大正期の弘前市内の洋館を、10分の1の大きさで再現したもの。14棟が一本の通りに立ち並んでいる。全部廻る時間のない人は、これを見れば全部見たことになる…かもしれない。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 太宰治記念館斜陽館

    投稿日 2015年03月19日

    太宰治記念館「斜陽館」 五所川原

    総合評価:4.5

    太宰治の生家で、彼が生まれる2年前に数億円かけて建てられた。父津島源左衛門は豪商で、衆議院議員・貴族院議員を務めた。
    周囲をレンガの塀で囲まれているのは、小作争議対策である。だが当の太宰治は、小作争議を題材にした小説を書いている。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    3.0

  • 棟方志功生誕の地 

    投稿日 2015年03月18日

    棟方志功 生誕の地  青森市内

    総合評価:3.0

    版画家棟方志功は1903年、刀鍛冶職人棟方幸吉の三男として、青森市安方に生まれた。彼がゴッホの絵を見て「わだはゴッホになる」と言ったのは有名。浄土真宗に影響され、それに関連した作品を多く制作した。
    善知鳥神社のすぐ近く。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 縄文時代の遺跡

    投稿日 2015年03月18日

    特別史跡 三内丸山遺跡 青森市内

    総合評価:3.5

    縄文時代の竪穴式住居や高床式倉庫、シンボルとなっている六本柱建物などが復元されている。柱の間隔は全て4.2メートルとなっており、当時の基準単位だった可能性が指摘されている。
    入場無料。青森駅または新青森駅からバス。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 義経の観音像が始まり

    投稿日 2015年03月18日

    義経寺 津軽半島

    総合評価:2.0

    1667年、円空がこの地を訪れたとき、海岸の奇岩の上に光るものを見た。それは、かつて義経が嵐を静めるためにまつった観音像だった。円空はこのいわれを霊夢で知ると、観音堂を建立した。これが義経寺の始まりだという。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    1.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    2.0

  • 「蟹工船」の原点

    投稿日 2015年03月18日

    小林多喜二住居跡 小樽

    総合評価:4.0

    小林多喜二の伯父は、苦難のすえ小樽で事業を成功させた。その間経済的に世話になった多喜二の両親への恩返しとして、一家を小樽に住まわせ、多喜二を小樽高等商業学校に通わせた。
    小樽築港駅の南に家があり、現在は「小林多喜二邸跡」の碑がある。このすぐ北に作業小屋があり、労務者たちの過酷な状況を見て育ったことが、後の多喜二の作風に影響を与えた。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    小樽築港駅前すぐ
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 八戸の「唯一神」、江戸中期に文化大革命を起こす

    投稿日 2015年03月18日

    安藤昌益思想発祥の地 八戸

    総合評価:5.0

    安藤昌益は、もとは大館市の二井田で農民をやっていたらしい。彼の前半生はよくわかっていないが、1744年八戸に移住して医師になった。ところが江戸中期に八戸で飢饉が頻発し、武士に被害がないのに食糧を生産している農民が餓死することに、昌益は疑問を抱いた。彼は耕作する人だけが尊いとして、為政者・知識階級を搾取階級として糾弾し、儒教や仏教を差別と支配を合理化するものとして「聖人君子とは盗人の俗称なり」と喝破した。そればかりか、現在の世を「法の世」と名づけ、農民が尊ばれる世「自然の世」の到来を予言した。
    1758年頃、天聖寺に彼の門人が集まり、シンポジウムが開かれた。これが「安藤昌益思想発祥の地」の由来である。
    彼は晩年には神を称し、彼の死後門弟たちが神社・仏閣の破壊を始め、所払いになるなど東北の一部で騒動を巻き起こしたため、当然ながら弾圧され、その思想は後代に引き継がれることはなかった。
    この「忘れられた思想家」を発見したのは、同じ大館の狩野享吉だった。江戸中期に文化大革命をやらかした昌益の著作を、彼は「狂人・きちがいの書」と評した。安藤昌益こそ、世界初の共産主義者・アナーキストであり、江戸時代の「唯一神」又吉イエスである。
    八戸には安藤昌益記念館があるほか、彼の居宅跡に碑が建てられるなど、彼は煎餅そばよりもプッシュされているようだが、子供に悪影響はないのだろうかと他人事ながら心配になる。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 戊辰戦争最後の戦い

    投稿日 2015年03月18日

    中島三郎助最後の地 函館

    総合評価:4.5

    中島三郎助は浦賀奉行を務め、ペリーとの交渉に直接当たった。
    蝦夷共和国政権では箱館奉行並となり、千代ヶ岱陣屋の守備を任されるが、彼はこれが最期の地だと言っていた。
    箱館市内を制圧した新政府軍は、千代ヶ岱陣屋にも降伏勧告の使者を送り、五稜郭の共和国政府も降伏したが、中島三郎助は降伏を拒否し、長男恒太郎・次男英次郎とともに討ち死にした。これが戊辰戦争最後の戦いとなった。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 旧幕府軍、蝦夷地に上陸

    投稿日 2015年03月18日

    榎本軍鷲ノ木上陸地跡 大沼・駒ケ岳

    総合評価:5.0

    箱館は新政府軍が警戒しており、外国公使館もあったので、旧幕府軍は直接上陸せず、1868年内浦湾に面する鷲ノ木に3000の兵を上陸させた。
    かつて幕府は諸藩に蝦夷地を警備させていたが、戊辰戦争で諸藩は守備兵を引き揚げていた。新政府はあわてて弘前藩・福山藩・大野藩に命じ箱館を守らせたが、旧幕府軍は土方歳三隊と大島圭介隊に分かれて進軍し、各地で箱館府軍を撃破すると、箱館府は戦わずして五稜郭から逃走した。旧幕府軍は五稜郭に無血入城した。
    桂川駅から500メートル。周囲に商店はない。海風が強いので注意。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    桂川駅から500メートル
    人混みの少なさ:
    5.0
    人はいない
    見ごたえ:
    5.0
    駒ヶ岳が美しい

  • 荻野吟子の理想郷の夢破れた地

    投稿日 2015年03月16日

    インマヌエルの丘 瀬棚・島牧

    総合評価:5.0

    荻野吟子は熊谷に生まれ、最初の結婚で夫から淋病を移され、子を産めない体になり、離縁されるが、婦人科の病気を男性医師に診察されることへの抵抗感から、女医を志す。男性の中に一人混じって医学を学ぶ彼女は、短髪・袴に高下駄を履いていた。女子の医業試験受験が認められなかったのを説得し、ついに合格して最初の女医となる。彼女は後に2番目の夫とともにキリスト教に改宗し、北海道の今金に移住して理想郷を築こうとするが、そこは農耕に適さない土地だったため、村落は破綻した。吟子はこの地を放棄し、夫とともに瀬棚に移住し、そこで医院を開業するが、15歳も年下の夫に先立たれてしまう。
    吟子がかつて暮らした跡地には、現在「今金インマヌエル教会」が建てられている。現在は「神丘」の地名だけが、吟子らの足跡を留めている。今では見渡すかぎりの田畑が広がっているが、この景色は吟子がかつて夢見て、決して見ることのなかったものである。北海道が穀倉地帯になるのは昭和のことであり、寒冷地でも育つ品種改良を待たねばならなかった。
    長万部駅からバスに乗り、神丘バス停下車2キロ。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    1.5
    長万部駅からバスに乗り、神丘バス停下車2キロ
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 箱館戦争終結の地

    投稿日 2015年03月16日

    亀田八幡宮 函館

    総合評価:5.0

    亀田八幡宮は1390年、敦賀郡気比神宮より八幡大神の御分霊を奉遷したのが起源である。
    1869年、旧幕府軍の榎本武揚・大鳥圭介らが、新政府軍の黒田清隆らと降伏の誓書を旧拝殿に奉納した。境内には「箱館戦争終結の地」碑がある。旧拝殿の羽目板には、戦闘でついた弾痕が多数残されている。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 永倉新八、近藤勇の娘と対面?

    投稿日 2015年03月16日

    永倉新八と山田音羽対面の地 小樽

    総合評価:4.5

    大正2年、小樽に暮らす元新選組隊士永倉新八のもとに、山田音羽という女性が訪ねて来た。彼女は実は近藤勇の娘で、永倉が新聞で連載していた「新選組顛末記」を読み、父の写真を持っていると知り訪ねて来たという。
    彼女が本当に近藤の娘かどうかは定かではないが、顔が近藤によく似ていたという。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 宮沢賢治生家跡

    投稿日 2015年03月16日

    宮沢賢治生家 花巻

    総合評価:4.0

    宮沢賢治は母の実家で生まれ、この地で育った。当時の家は、1945年の空襲で焼失している。現在は、彼の弟清六氏の家族が暮らしている。内部非公開。
    隣には蔵があり、賢治にまつわる資料を展示していたが、2011年の東日本大震災により崩壊し、取り壊された。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    見ごたえ:
    4.0
    非公開、外観だけ

  • 宮沢賢治生誕地

    投稿日 2015年03月16日

    宮沢賢治産湯の井戸 花巻

    総合評価:5.0

    「宮沢賢治生家跡」が花巻市豊沢町にあるが、賢治は実際には鍛冶町の宮沢家の実家で生まれている。現在も宮澤商店として営業を続けている邸宅内に、「宮沢賢治産湯の井戸」が残っている。期間限定で一般公開されている。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    花巻駅から1キロ
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 会津藩再興の地

    投稿日 2015年03月16日

    円通寺 (斗南藩庁跡) 下北半島

    総合評価:5.0

    戊辰戦争に敗れた会津藩は所領を没収されたが、松平容保の子容大が陸奥の五戸と下北に3万石を与えられ、斗南藩として藩再興が許された。
    斗南藩は1870年、藩庁を旧五戸代官所に置いたが、翌年藩主容大を迎えるにあたり、藩庁を円通寺に移した。同時に大黒屋文左衛門方にあった藩校日新館も、この地に移された。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 奥州藤原氏の祖・藤原清衡生誕地

    投稿日 2015年03月16日

    藤原清衡 産湯の泉 水沢・江刺

    総合評価:4.5

    奥州藤原氏の祖・藤原清衡は1056年、藤原経清の子として豊田館で生まれた。その際、この泉を産湯に用いたという。この泉は、いかなる旱天にも涸れたことはないと言われている。この泉を祀ったのが、走湯稲荷神社である。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    1.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 極貧に耐えた会津藩士

    投稿日 2015年03月15日

    柴五郎一家居住跡 下北半島

    総合評価:4.5

    後の陸軍大将柴五郎は、会津を追われ、田名部の「落の沢」と呼ばれた地に居を構えた。
    食べ物にも事欠き、草や木の根を食べ、死んだ犬の肉を食するのを躊躇すると、父から「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と叱られたという。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.0
    下北駅から2キロ
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 江戸期の蘭学者

    投稿日 2015年03月15日

    高野長英生誕地 水沢・江刺

    総合評価:5.0

    高野長英は後藤実慶の三男として生まれ、14歳のとき伯父の医師高野玄斉の養子となった。後藤新平の大叔父に当たる。江戸に出て蘭方医杉田伯元に学び、次いで長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾でオランダ語と蘭方医学を学んだ。蛮社の獄で投獄されたが、火災に乗じて脱獄し、硝酸で顔を焼き人相を変えて逃亡を続けたが、1850年江戸に潜伏しているのが見つかり、捕方に捕縛されるとき殴打され死亡した。
    生家は残っていない。

    旅行時期
    2014年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 世界各地の石材で表現された「八紘一宇」

    投稿日 2015年03月15日

    平和台公園 宮崎市

    総合評価:4.5

    平和台公園は、戦前は「八紘台」と呼ばれ、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)(通称八紘一宇の塔)があった。
    1940年の神武天皇即位紀元2600年を祝うにあたり、宮崎県が「八紘一宇の精神を体現した塔」の建設を提案し、日名子実三がデザインした。日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国ドイツの企業DEST、イタリア、さらに日本軍が戦地から持ち帰った様々な石材が使用された。
    1946年、GHQの命により「八紘一宇」の文字が撤去され、名前も「平和の塔」「平和台公園」となった。「八紘一宇」の文字は1965年に復元された。

    旅行時期
    2014年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    2.5
    見ごたえ:
    4.5

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