bluejaysさんのクチコミ(35ページ)全1,027件
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投稿日 2015年03月15日
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投稿日 2015年03月14日
総合評価:3.5
現在は江差町郷土資料館となっている。
建物の前に、直角に曲がった松の木があり、「土方歳三嘆きの松」と言われている。箱館戦争で旧幕府軍は、松前藩と戦うため軍艦開陽丸を江差沖に差し向けた。だが松前藩主は戦わずして逃走したので、開陽丸の出番はなかった。土方歳三率いる陸軍は陸路江差に到着したが、その夜暴風となり、開陽丸が座礁してしまう。これを救出するため差し向けた神速丸も座礁してしまい、旧幕府軍は海軍力をほとんど失った。このとき土方歳三は丘の上からこれを見て、悔しさのあまり拳で松を叩くと、松に瘤ができその後直角に曲がって伸びたという。もちろんただの伝承にすぎない。
函館駅からバスに乗り、中歌町下車。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年03月14日
総合評価:5.0
旧幕府軍は、新政府軍も自分たちと同様に東から上陸するものと考えていたので、霧に乗じ西の乙部から上陸されたのには虚を突かれた。そこであわてて兵を差し向けたが、新政府軍は二股・木古内・松前の3ルートに分かれて進軍した。
土方歳三は二股口の突破を防いだが、矢不来が突破されてしまい、退路を断たれる危険があるためやむなく撤退した。
函館駅からバスに乗り、江差病院で乗り換え、元町下車。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月14日
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投稿日 2015年03月14日
総合評価:5.0
1854年、日米和親条約締結により箱館開港が決定すると、幕府は松前藩領であった箱館周辺を上知し、箱館奉行を設置した。だが当時の奉行所は箱館山から見下ろせ、箱館湾から近すぎるため、現在地に城郭を築いて移転することにした。
1866年、武田斐三郎の設計により築城した。独特の星形の城郭は、突端部が敵に包囲されやすく弱点のように見えるが、どの突端部を攻撃しても、反対側の突端部から背後を攻撃される構造になっている。
1868年戊辰戦争で旧幕府軍が鷲ノ木から上陸すると、箱館奉行は逃走した。旧幕府軍は五稜郭に入り、「蝦夷共和国」樹立を宣言する。しかし箱館市内を新政府軍に制圧されると、旧幕府軍は降伏した。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月14日
総合評価:5.0
「蟹工船」で知られるプロレタリア作家小林多喜二は、大館市下川沿の小作農家に生まれた。生家は現在下川沿駅となっており、石碑があるのみである。
1928年の、無産政党を弾圧した三・一五事件を題材に「一九二八年三月十五日」を発表するが、作中にある特高警察の拷問描写が彼らの憤激を買う。非合法である共産党に入党した多喜二は、1933年特高警察に拷問され死亡した。
近年のワーキングプアの増加により、蟹工船ブームが再来し注目されている。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 下川沿駅内、ただしローカル線
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月14日
総合評価:5.0
安藤昌益は「自然真営道」の著者で、江戸中期に身分制度を批判し、無政府主義や農本主義、愛に基づく人間関係を説き、晩年には自ら神となった。彼の死後門弟たちは迫害され、その教えは後代に受け継がれなかったが、1950年ハーバート・ノーマンの著書「忘れられた思想家―安藤昌益のこと」で知られるようになった。
昔安藤与五右衛門という者が人々に農業を教えたが、その子孫は悪逆をなし逃亡したのを、安藤孫左衛門がこの地に帰郷し、絶えていた安藤の家名を継いだのだと石碑には書かれている。安藤昌益は孫左衛門の子孫に当たる。碑の裏には「土地提供者安藤義雄」と刻まれており、この碑は安藤家の農地に建てられている。
道路を挟んで向かいが安藤家で、石碑の後ろで農作業をしていたおばあちゃんが私に気づき、安藤昌益研究会が書いたパンフレットを渡してくれた。碑文は漢文なので、パンフレットの解説があると便利である。
扇田駅から徒歩20分。こんなところに来る人は、はっきり言ってよほどの物好きである。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 扇田駅から徒歩20分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人はいない
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:4.0
藤田豊三郎は造り酒屋の分家で、妻が太宰の遠縁だったことから、太宰は弘前高校時代にここに下宿していた。豊三郎の子本太郎は写真が趣味で、太宰は芥川龍之介に強く憧れていたことから、今日伝わる芥川の真似をしたポーズの写真はほとんどがこの家で撮影されている。
元あった場所から、数百メートル移動している。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 弘前駅から1キロ
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月13日
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:4.5
嫗戸柵は、陸奥話記に「厨川柵から7・8町ほど離れたところ」と記されているとおり、厨川柵と連携した構造で安倍氏の本拠地であった。
前九年の役で1062年、源氏・清原氏連合軍に包囲された柵は、激戦の末に陥落した。安倍貞任は深手で捕らえられ、巨体を楯に乗せられ源頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。彼の首は陣ヶ森に晒された。義兄弟の藤原経清は、苦痛を与えるためわざと刃こぼれさせた刀で鋸引きで斬首され、ここに安倍一族は滅んだ。
後に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、戦功のあった工藤小次郎行光を岩手郡地頭に任じた。現在の安倍館遺跡は、工藤氏が中世に安倍氏居館跡に建てた厨川城跡であることがわかっている。厨川城は1592年、諸城破却令により廃城となった。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 安倍館バス停すぐ
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:5.0
築城時期・築城者ともに不明。平安期に比内を治めた河田氏の居館と伝えられる。
阿津賀志山防塁を突破された藤原泰衡は、防衛困難とみて平泉の館に火を放ち、北方へ逃れた。贄の柵の主河田次郎守継は、一説によると泰衡の縁者とも言われ、泰衡はここに立ち寄った。だが次郎は、泰衡を討ち取った者には百万石を与えるという恩賞に魅力を感じ、また何より泰衡を匿って頼朝の怒りをかうことを恐れた。次郎は泰衡を討とうと考えたが、主君を殺すことをためらった。そこで次郎は、自らの軍勢を頼朝軍に見せかけ、泰衡を襲撃すると、泰衡は観念して自害したとも、また次郎に惨殺されたとも言われる。
次郎は泰衡の首を刎ね、陣ヶ岡にいた頼朝に差し出した。だが頼朝は、父義朝が平治の乱に敗れ長田忠致を頼って逃れたときに背かれ殺されているので、次郎を許す気にはなれなかっただろう。頼朝は「主君の首を刎ねたのは不忠の極み」として、河田一族を処刑した。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 扇田駅徒歩20分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:5.0
この地に伝わる口承によると、自分がいることで迷惑がかかると考えた藤原泰衡は、贄の柵を出て犀川を越え、河原で自害したという。
泰衡の首は頼朝に陵辱されたが、首のない泰衡の死体は、里人が錦の直垂に包んでこの地に懇ろに葬ったという。その墓は「にしき様」と呼ばれ、後に錦神社となり、今に至っている。
泰衡の死から800年以上経った今も、泰衡の命日である旧暦9月3日には祭りが催されている。
江戸時代の学者菅江真澄は1803年にこの地を訪れ、錦神社にまつわる村人たちの心やさしいはからいと、泰衡の命日にちなむ行事を「贄能辞賀楽美(にえのしがらみ)」という紀行文に書き残した。泰衡が頼みにしていた家臣に裏切られ、露のように命を散らせたことを偲び「たのみつるその木のもとも吹風の あらきにつゆの身やけたれけむ」という歌を詠んでいる。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 扇田駅徒歩15分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:4.0
9世紀に胆沢城が築かれたころ、胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域の境に設置された。関は通常国境に設置されるが、衣川の関は陸奥国のまっただ中にある。これは胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域が、それぞれ国に准ずる扱いであったことを反映している。
最初は宝塔谷地にあったが、安倍頼時が胆沢郡司のころ、本拠を上衣川からこの地に移したとき、関所も移したという。この地の西は葭が沢で、北は登攀不可能な絶壁が続き、東は衣川の本流でここから下流は徒渉不可能となる。陸奥話記は「件の関は素より隘路にして険阻なり。崤函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進むあたわず」と記している。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人はいない
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:4.0
平泉を脱出した源義経は、蝦夷地に逃れようとこの地まで来たが、海が荒れていて渡ることができなかった。彼は海岸にあった奇岩の上に座し、観音像を置いて、海上平安の祈願を込めた。こうして三日三晩一心に普門品経を唱え続けると、白衣白髪の老人が現われ義経に告げた。
「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし龍馬を遣わそう。これに乗り海を渡るべし。」
岩から降りると、岩窟の中に三頭の龍馬がつながれていた。ふり返ると、あの荒れ狂っていた海は嘘のように静まっていたという。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 三厩駅からバス
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:4.0
789年、蝦夷平定のため紀古佐美が5万の大軍を率い、衣川に陣を置いた。北上川東岸にある阿弖流為の村落を攻撃するため、朝廷軍は前・中・後軍の三軍に分かれて渡河し、東岸で合流する作戦を取った。すなわち、前軍は西岸を北上して現在の跡呂井で渡河し巣伏(現在の四丑)を目指し、中・後軍4000は生母に上陸し、東岸を北上し巣伏で合流するというものであった。
中・後軍は順調に村々を焼き払いながら北上するが、突如300の蝦夷軍が現われ、攻撃しながら撤退する陽動作戦を取った。ところが中・後軍が巣伏に着いたころ、前軍は800の蝦夷軍に渡河を阻止され、一人も来ていなかった。800の蝦夷軍は、今度は中・後軍の前に立ち塞がった。さらに東山方面から400の蝦夷軍伏兵が現れ、退路を断った。中・後軍は前後から挟撃され、北上川に飛び込むほかはなく、25人が戦死、1036人が溺死した。
蛮族と見下していた蝦夷が、巧みな用兵で寡兵を以って朝廷の大軍を撃破したことは、朝廷に衝撃を与えた。
朝廷の前軍が渡河を試みた地は、現在巣伏古戦場跡公園となっている。やぐらはもちろん当時のものではなく、田んぼアートを見るために造られた。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- 水沢駅から2.5キロ
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
- 刈入れ前は田んぼアートが見られる
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投稿日 2015年03月13日
総合評価:4.0
黒沢尻柵は安倍氏によって築かれ、安倍正任が居館とした。
前九年の役で1062年、衣川柵を落とした源氏・清原氏連合軍は、安倍貞任を追って厨川柵へ向かう途中、黒沢尻柵を包囲した。柵は陥落し、正任は出羽に逃れるが、後に投降し伊予に配流された。
中世には和賀氏家臣の阿部氏が、柵跡に黒沢尻大館を築き居館とした。阿部氏は安倍行任の末裔で、後に黒沢尻氏を称した。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 北上駅前すぐ
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年03月12日
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投稿日 2015年03月12日
総合評価:5.0
標高136メートル、比高20メートル程の独立丘陵で、平地の只中にある。その地勢から、古来より多くの武将がこの地に陣を敷いている。
659年には阿倍比羅夫が蝦夷討伐のため、803年には坂上田村麻呂が紫波城築城のため、1588年には南部信直が高水寺城を攻略するため、1591年には蒲生氏郷が九戸の乱を鎮圧するため宿営したという。
1062年には源頼義・義家父子が、陣ヶ岡に陣を置き安倍氏に勝利している。1189年に源頼朝が奥州征伐で陣ヶ岡に陣を置いたのは、祖先義家を強く意識したものだろう。この地は後に、源氏の聖地とみなされるようになった。
現在は蜂神社周辺が、陣ヶ岡歴史公園となっている。蜂神社の由来は、厨川柵攻略に手こずっていた義家が、柵周辺の藪に蜂の巣があり兵士が刺されて困っているのを見て、蜂の巣を袋に取り、蜂を怒らせてから厨川柵に投げ込み勝利を収めたことに因み、頼義・義家父子が勧進したという。
源頼義は前九年の役の戦後処理で、安倍貞任の首を刎ね、首級に八寸釘を打ち込んでこの地に晒した。その130年後、源頼朝は同じ場所に陣を置き、安倍氏の末裔である藤原泰衡の首級に八寸釘を打ち込み、同じ場所に晒している。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 古館駅から2キロ
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年03月12日
総合評価:5.0
河田次郎が、主君藤原泰衡の首級を持参し、この井戸で洗ったという。
中尊寺には藤原三代のミイラがあるが、藤原秀衡の棺の中にもう一つ首級がある。寺伝では忠衡の首級と言われてきたが、1950年の調査で、眉間に釘を打ちつけた痕跡が認められ、吾妻鏡にある「泰衡の首級は眉間に鉄釘を打ち付けられた」という記述と一致するため、実は泰衡の首級だったものが、特別な事情により忠衡のものにされたと考えられるようになった。
首級は鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡があり、源氏の蝦夷に対する底知れぬ嫌悪感を感じさせる。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 古館駅から2キロ
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人はいない
- 見ごたえ:
- 5.0
- 幽霊目撃談あり
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投稿日 2015年03月12日
総合評価:4.0
斜陽館近くにある。1922年太宰の兄文治が建てたもので、太宰治が戦時中に疎開し23作品を書いた。なお入口となっている建物は、太宰の家ではなく他人の家を購入してつなげたもの。
気軽に入ってみると、受付の男性が「ここは絶対いいですよ!」と強く勧めてくれたが、時間がないので固辞した。受付に売店もある。- 旅行時期
- 2014年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5

























