2021/11/09 - 2021/11/09
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kojikojiさん
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妻とは十数年前に日本橋三越で開催された河井寛次郎展に行ったことがありました。今回の旅の予定を組みながら尋ねてみると「河井寛次郎記念館」には行ったことが無いというので行くことにしました。以前は訪れる人も少ない印象でしたが、着いたときは10人くらいの方が先に見学されていました。すぐに皆さん帰られたので見学するときはほかに2名くらいだったのでじっくり見学することが出来ました。河井寛次郎さんは外祖父やその友人の高山泰造さんと時代の重なる方で、叔母は河井寛次郎さんの釉薬で焼いた高山泰造さんの富士山の茶碗なるものを持っていたりします。その当時は裏にある登り窯も共同窯だったのでそんなことも出来たのだと思います。ここへ来るとそんな外祖父の時代を感じられる空気が残っているように思います。しかしここへ来るたびに思うのは河井寛次郎という人の陶芸にしても木彫や家具調度品までものすごい美意識を持った方だったのだと思います。何1つ見てもものすごいパワーを持っているようで気を抜いて見学できないなと思いながら写真を撮らせていただきました。十数年前に中国を旅していた頃に湖南省の鳳凰という町で竹製の椅子が欲しいと思ったことがあります。どうしようか迷った挙句に諦めましたが、同じものが素焼き窯の近くに置いてあって、またその時の悔しい思いが蘇りました。この家のその椅子は竹が飴色になってさらに美しく育っていました。その後は叔母と待ち合わせていたので清水の茶碗坂を久し振りに登りましたが、こんなに坂が長かったかと思いました。いつまでたっても伯母の店に着かない気がしてきました。東哉の店の奥が新しく直したので見たかったのですが、コロナのせいでこの日は休みで、従伯叔父には会えませんでした。伯母の店でお昼をいただいて、もう1軒の陶哉に顔を出して澤村の従伯叔父には会えて久しぶりに話が出来ました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 タクシー ANAグループ JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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「養源院」からぶらぶら歩いて「河井寛次郎記念館」に着きました。十数年前に日本橋の三越で開催されていた「河井寛次郎展」を妻と見て以来、いつかここへ連れて行きたいと思っていました。
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ようやくのその願いが叶いました。「河井寛次郎記念館」は大正から昭和にかけて京都を拠点に活動した河井寛次郎の住まい兼仕事場を公開したものです。
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河井寛次郎は明治23年の1890年に生まれ、昭和41年の1966年に亡くなった日本の陶芸家です。陶芸のほか彫刻やデザイン、書や詩、詞や随筆などの分野でも作品を残しているすごい方です。
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昭和9年の1934年に室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して3年後の1937年に完成させたのがこの記念館です。
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大正15年の1926年に柳宗悦や濱田庄司とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表して、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになります。
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第2次世界大戦後に世界の民族芸術に関心を深めた寛次郎は木彫の制作も開始する。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げ、材料の入手が困難であった戦時中より詩や詞の創作も始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作しています。
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この囲炉裏周辺を見ても自在鉤や鉄瓶、下に敷いた金物や道具のすべてに河井寛次郎のデザインを感じます。
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この鉄瓶などは霰(あられ)と呼ばれる鉄瓶の表面がぶつぶつとした模様が大きくデザインされ、まるで雹(ひょう)のようです。木瓜紋(もっこうもん)は河井家の門なのでしょうか。まるでスキのない衣装で埋め尽くされた空間に畏敬の念を感じます。
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また、餅花や注連縄などの設えは家族の方が忠実に踏襲されているのではないだろうかと感じました。
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囲炉裏の設けられた部屋は2階まで吹き抜けになっています。暖房効果をよく考えていると思うと同時に、生まれ育った島根県の安来町も寒いのだろうと感じました。1月に冬の足立美術館を観に行きますが、少し心配になってきました。
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何気なく置かれた白地花絵扁壷にしても軽く車が買えるほどの値段だと思います。
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部屋の中のある程度までは入ることが出来るのもうれしい限りです。
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方形の李朝小盤(ソバン) は根来のような手ずれの馴染みが美しいです。照明スタンドも寛次郎のデザインでしょうか。
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欅の木目の美しい棚もデザインしたのでしょうね。犬張り子は肘を置く脇息(きょうそく)だったのでしょうか。小物入れにもなっているようです。5体の色違いの伏見人形は菅原道真でしょうか。
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国立民族学博物館でたくさんの鬼の面を見てきたばかりですが、材質の質感と言い素晴らしい面です。目や眉に河井寛次郎のデザインを感じます。
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窓際に置かれたこけしを見ても驚かされます。東北の地方にこのようなデザインがあるのかと思いましたが、胴体に描かれた花のデザインは寛次郎のものです。
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青森県の南部八戸地方に古くからある玩具の八幡馬」が飾られています。その何気ない置台の朱と艶の無い漆の具合も良いです。
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受付の裏の座敷のテーブルは掘りごたつになっているようです。長押(なげし)に掛けられた木刀の鍔までもがデザインされているようです。
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真鍮の燭台や立てられた蝋燭の底までもがデザインされています。玉と遊ぶ獅子の置物はかなり古いもののようです。
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生けられたグロリオサの赤い花さえ河井寛次郎のデザインに見えてきました。
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作り付けの家具も重厚でありながら、細工を施した引き戸や引手に目が行っていしまいます。オープンになった棚板も分厚いですが、河井寛次郎の力強い陶器や木彫りの達磨などとバランスを取るには必要に思えます。
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記念館の看板が影になってやぼったい雰囲気を感じますが、表から見るより内側は明るいのだと思います。
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座面がお尻と腿の形に彫り込まれたのが面白いです。かなり低い座面の高さですが、背もたれの高さも相まって椅子に包み込まれた気分になります。寛次郎は同じ陶芸家の楠部彌弌を介して黒田辰秋を知ります。この家の椅子や家具にその作品が残っているのではないかと感じました。
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1階の奥には展示コーナーがあり、ガラスケースの中に魅力的なものが並んでいます。真鍮製のキセルも寛次郎のデザインしたものなのだと分かります。その奥には小さな水滴や盒子が並んでいます。
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「何もない 見ればある」「すべてのものは 自分の表現」これは呉須の陶板に書かれたものを見たことがあります。
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迷いのない筆致で何かの造形が描かれています。大阪の万博記念公園で見てきた岡本太郎のスケッチを思い出しました。岡本太郎もすごいと思いましたが、河井寛次郎もすごい人だと思います。
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左は扁壺に描く草絵の下絵でしょうか。右側は鉄釉抜蝋を用いた作品のようです。
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下絵の筆致だけを見ても河井寛次郎らしさを感じます。宇治の平等院のミュージアムに展示されていた東山魁夷の鳳凰堂の下絵のパースの狂いの無さにも驚きましたが、このスケッチを見ても見る目の確かさを感じます。
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大阪中之島の東洋陶磁美術館に収蔵されている「鉄砂 竹文 壺」を思い出します。今回の旅の前半で中国や韓国の素晴らしい陶磁器を見ておいて良かったと思います。
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口に2頭の動物を配し、胴には道祖神のようなレリーフが施され、海鼠釉が掛けられた高取焼きか信楽焼のような作品です。外祖父の友人だった陶芸家の高山泰造さんが河井寛次郎さんの釉薬を使って焼いた富士山の茶盌を叔母が持っているのを思い出しました。ここの登り窯は共同で使われていたので、そんなこともあったのかもしれません。
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青磁紅「寿桃」の床置きは辰砂の赤い色が桃の熟れ具合を感じさせます。これを見た時に楠部彌弌の作品かと思ったほどですが、友人だったので影響はあったのかもしれません。もちろんどちらも本家の中国の青磁があってのことです。
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「寿山福海」は非常によく使われる縁起の言葉の1つで、寿が山のように高く福が海のように深いという意味です。
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一見すると職人が一気呵成に熟練した筆致で描いたようにも見えますが、先の下絵を見ると完成されたデザインなのだと思えます。モチーフは17世紀のフランスの詩人のラ・フォンテーヌの寓話の一挿話「狐と葡萄」から想を得て制作されたのでしょうか。「狐と葡萄」は葡萄棚にぶら下がったよく熟れた葡萄を取るため、狐があらゆる手段を講じる話です。結局狐は葡萄を取ることができず、「あの葡萄は酸っぱいから」と諦めます。
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四耳壺と瓶に描かれたのは梅と椿でしょうか?これだけでも1枚の絵として成立しているように思えます。
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「辰砂丸文扁壺」
初期の作品は中国古陶磁に倣った技巧的で華麗な作品となっています。初個展当時より高い技術力と完成度が評価され絶賛されることとなります。 -
「三彩果虫陶筥」など中国の古陶磁を倣った作品は大阪市立東洋陶磁美術館で学んで来た甲斐がありました。
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「流描角瓶」と「呉洲辰砂七宝文三段重」などの作品も並びます。
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大正末期より民藝運動の中心メンバーとしても活躍すると人気を博した中国古陶磁のスタイルを捨て、「用の美」を意識した暮らしの中に溶け込む品々を生み出します。
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「辰砂筒描盒子」
民芸運動に至るまでの柳宗悦との出会いはなかなか刺激的な話が残っているようで、当初は2人は反目していたようで、寛次郎の初個展を「技巧は素晴らしいが何の価値もない」と柳が批判し、それに対して雑誌上で反論もしたそうです。 -
「鉄釉筒描菱型面取扁壷」
柳宗悦が開いた朝鮮陶磁の展覧会を観て感激するのですが、会場でお互いに気づいても言葉を交わさなかったそうです。 -
「呉須筒描花文碗」
関東大震災で柳が京都に疎開して、イギリスから帰国し河井家に滞在中だった陶芸家の濱田庄司が2人を合わせます。すると木喰仏を介して関係は氷塊して共に民藝運動にのめりこみ、生涯の友になっていきます。 -
母屋から洗面所と展示室を越えた先にある小さな部屋も魅力的です。土壁のせいか韓国の安東河回村辺りの昔の農家のような設えに思えました。実際この家を建てるときは飛騨高山と朝鮮の農家のイメージを取り入れたそうです。
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開放的な窓といい床の敷物といい夏に気持ちが良さそうです。床に敷かれた麻紐を編んだような敷物が寝ころんだら気持ちよさそうです。夏に外祖父母の家に遊びに行くと床に籐網代を敷いたり、夏の設えにする手伝いをしたのを思い出します。
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小さな天窓と滑車を見ていたら外祖父の生まれた二条陣屋の台所を思い出しました。
壁の高いところに大黒様と恵比寿様が置かれ、逆光になってその姿が浮かび上がり怖かった思い出があります。 -
高山泰造さんと河井寛次郎さんが登り窯を通じての交流があったのか、清水で絵付けの仕事をしていた外祖父と交流があったのか、生前にちゃんと聞いておけば良かったと思います。
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見学してきた母屋を眺めてみます。まだ2階の見学はしていません。風が通って気持ちの良い庭ですが、表から見たらそんな風情は感じられません。この辺りは昔はたくさんの窯元があって賑やかでしたが、現在はショップになっていたりカフェになっていたり。五条通りの窯元も変わりはないのでしょうか。そういえば夏の陶器市にも行っていません。若宮八幡宮社の石鳥居の脇にいつも出ていた平安吉兆の出店に朝一番に行って、買い物していたらご主人に「あんた、ええもんばかり選っていくなぁ。」といわれたことがあります。褒められたのか分かりませんが。
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屋根の付いた下に素焼き用の窯がありました。注連縄と窯の神様を祀ってあり、今でも使えそうな状態です。
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成形された粘土の作品はこの窯に入れられ、600℃から700℃で8時間ほど焼かれます。松の割り木で焼かれますが、数物とかだとこの時点で割れたり歪んだり、その後の作業に使えないものが出てきます。現在では灰が飛んだり、鉄粉が飛んでいたら弾かれますが、この当時はそこまで厳密ではなかったようです。
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釉薬の入った甕がたくさん並んでいます。現在も入っているのかは蓋を開けていないので分かりません。この窯に火が入らなくなって数十年経っているのによく昔の状態を維持していると感心します。多くの窯元は五条坂での焼成は煙害などの公害問題で昭和40年ころに清水焼団地に移っています。
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母方の親戚も清水の茶わん坂に店を構えていますが、電気釜を使ったり別の場所に登り窯を築いています。昔は絵場に遊びに行って絵付けをしましたが、才能の無さに筆を折ったままです。五代の清風与平の作品が好きで集めているのでずいぶん真似したものです。
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昔は作業場だったであろう土間には椅子がたくさん置かれてありました。このベンチは松本民芸家具のウインザーチェアのデザインを感じさせます。円座との組み合わせも素敵です。
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素材もデザインも全く違う椅子が置かれてありますが、無垢材の素材の良さを感じさせます。手前のラッシュ編みのスツールなども松本民芸家具のようです。松本民芸家具も好きなので妻と見学しに行ったことがありますが、辿っていくと柳宗悦や濱田庄司に河井寛次郎など民芸運動の先達も幾度となく松本を訪れているそうです。
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この椅子を見てびっくりしました。色は寛次郎の好みに拭き漆が施されているようですが、欲しかった椅子と再会しました。
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これは中国の湖南省の鳳凰という町で撮った写真です。この椅子が欲しくて買おうとしたのですが、家での置く場所を考えて買えませんでした。それが河井寛次郎の審美眼にかなっていたのだと思うと、また後悔の念がふつふつと蘇ってきます。
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この椅子は河井寛次郎がデザインしたのではないかと思えました。無垢材の良い素材と仕上げのものは長く使うことが出来ます。夏の名古屋の旅の終わりにノリタケの森で買ったスツールも良いものだったと思い出しました。
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こちらにもたくさんの作品が並んでいました。スリップウェアはヨーロッパをはじめ世界各地で作られていた泥状の化粧土(スリップ)で装飾した陶器全般のことで、 なかでもイギリスのスリップウェアは17世紀から作られはじめ、18世紀から19世紀には日用雑器として独自の発展を遂げます。
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その日常の素朴な雑器を再発見したのは民芸運動の人々で、柳宗悦と富本憲吉が洋書で知り、バーナード・リーチや濱田庄司や河井寛次郎らも続いたといわれます。バーナード・リーチのスリップウェアの作品をロッテルダムの美術館で見た時は非常に日本的だと思いました。
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「三色打薬扁壺」は晩年の代表作です。1950年代にジャクソン・ポロックが展開したアクションペインティングに刺激を受け、自らの陶芸に巧みに取り入れた名作シリーズ「三色打薬」は、赤・緑・黒の3色の釉薬を通常のように掛けるのではなく、太筆を使って打ち付けることで作品に彩りを加えた手法を用いて制作されました。
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生涯を通じて膨大な作品を残した寛次郎は陶器以外にも木彫やデザインなど数多の仕事を手掛け、同時に詩人や随筆家として多くの言葉も残しています。多くの作品を残すも、その解釈はすべて受け手に委ねていたようです。四字造語に関してもどれも読み方をつけていないそうです。
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「花手像陶像」の人差し指が花に添えられて、天を向いているところに答えがあるのでしょうか。
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「呉須筒描花扁壺」
イッチンという絞り袋に溶いた粘土を入れて模様を描いた作品も寛次郎らしさが現れていると思います。イッチンの名称は友禅染などで用いる一珍(一陳)糊に由来すると聞いたこともあります。中国の明時代の法花と呼ばれる焼き物にイッチンの技法が見られるのは大阪で見てきたばかりです。 -
辰砂の発色が美しい、不思議な形をした器です。足の部分が鈴みたいで面白いです。
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「白地草花絵扁壺」
このタイプの作品で1957年にミラノ・トリエンナーレ国際芸術展でグランプリを受賞しています。同じ年に東哉の大叔父が金賞を受賞しているので何か縁があったのかもしれません。 -
轆轤場は展示室になっていました。ここで一番気になったのは釉薬の見本ですが、ちゃんと写真を撮ってこなかったのが残念です。
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昭和20年の1945年の毛筆の日記です。驚いたのが訪れた日と同じ11月9日のページが開かれていました。この日は小雨が降っていましたが、寒い日ではありませんでした。日記には「炬燵」という文字が何度も出てくるのでよほど寒かったのでしょう。子供の頃に比べて天候はずいぶん変わったと感じます。
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轆轤場は道具もそろえられて、粘土と水があればいつでも作業が出来そうです。轆轤を足で蹴りながら手で造形していくのは絶対に無理な気がします。外祖父が轆轤の挽き方には2つの流れがあって、元々の京都の職人と瀬戸から京都に来た職人に分かれると教えてくれたことがあります。
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そんな轆轤場に壁には「手考足思」なんて洒落のようです。手で考え足で思うとは頭脳だけでさかしげに思考するのではなく、手で土をこね足で轆轤を蹴って作品を作っていく陶工のありようを述べているようなものでもあり、「無私」の境地を意味するのかもしれません。
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古い写真を見ていたら清水で陶器を造っていた祖父や澤村の大叔父や山田の大叔父、絵付けのデザインのアイディアを考えていた曾祖母の顔が浮かんできました。
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登り窯は鐘鋳町という地名にちなんで「鐘溪窯(しょうけいよう)」と命名されています。この登り窯は「共同窯」で多くの陶工が一緒に使っていたそうです。寛次郎が30歳の時に五代の清水六兵衛から譲り受けたものだそうです。寛次郎は個人作家ですが、窯焚きは地域の専門職の方が行っていたそうです。6連房式登り窯の焚口から2段目を使っていたそうです。
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中に陶器を入れて焼く「さや鉢」が造作なく置かれたままになっています。またすぐに使うかのように。
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登り窯の中もきれいに掃除されていて、すぐに使えそうな状態です。「エブタ」と呼ばれる陶器を積み上げるときに使う陶板の棚板もそのまま置かれてあります。叔父に聞いた話ではこれを欲しがる人がいるそうで、庭の敷石にするそうです。
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薪が積み上げられた状態はとてもリアルでよいと思います。ロワール渓谷の古城を回った時に、生花が生けられ、本物の野菜やパンが置かれ、暖炉に火が入っているのを見て感激したことがあります。ただこれだけの薪では焼成は出来いないですね。昔は大勢の人で窯入れしたであろう往時を想像してみます。窯の火は3昼夜にわたり、約2000束の松割木が使用されたそうです。
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2階へ上がる箱階段は友人でもあった濱田庄司からの寄贈だそうです。
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2階の床の板張りも美しい光沢を見せた無垢材です。何千回も何万回も雑巾がけした賜物だと思います。
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2階の廊下から吹き抜け部分を見下ろします。囲炉裏で暖められた空気は2階へ循環したことでしょう。
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2階にもショーケースがあり、小さな盒子がならんでいます。
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小さなものでよいので1つくらい欲しいなと思います。
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案内には「寛次郎の玉手箱」と書かれ、盒子と蓋物と喰籠が展示してあります。河井家では来客が多く、食事の人数も間際でないと定まらないため、いつも大皿料理だったそうです。その中でも特徴的だったのが茶碗蒸しで、蒸し器に入る最大サイズの喰籠に作って取り分けたそうです。
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その話を読んでいたら我が家でも風邪をひいて食欲が無いときは大きな丼に茶碗蒸しを作ってもらえたことを思い出しました。河井寛次郎の器で茶碗蒸しもすごい話ですが、我が家も陶哉の鉢で作っていました。
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2階の座敷もとても気持ちの良い空間です。この家に3世代が同居していたと聞いたことがあるので、その当時はもっと生活をする場だったのだと思います。
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京間の10畳なのでとても広く感じます。陶器はもちろん置かれた招き猫や人差し指が女の子になった彫刻も寛次郎の作品です。
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それ以外の脇息(きょうそく)や手焙りなどにも目が止まってしまいます。
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壁に掛けられた土偶のような面に見えますが、よく見ると熨斗(のし)になっています。
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「兎」
玉に乗ったかわいらしい兎が向かい合っています。1階には木製の彫刻が置かれてありましたが、これはブロンズ製のようです。月の兎は、「月に兎がいる」という伝承に見られる想像上のウサギで中国や日本では玉兔(ぎょくと)と呼ばれます。 -
「三人娘」
寛次郎は木彫にも取り組み、不思議な彫刻を作り出しました。これは3人の孫娘の方をモチーフにした可愛らしい作品です。 -
「花に手」彫刻の本格的な取り組みは60歳になってからで「手」は重要なモチーフだったようです。仕事をする手に対する尊敬や感謝があったのだろうといわれています。
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「樂在其中」の軸は柳宗悦から娘の須也子さんの結婚祝い品として贈られたものだそうです。引用は論語からで、
子曰 飯疏食飮水
曲肱而枕之 樂亦在其中矣
不義而富且貴 於我如浮雲
子し曰いわく、疏食そしを飯くらい水みずを飲のみ、
肱ひじを曲まげて之これを枕まくらとす。
楽たのしみ亦また其その中うちに在あり。
不義ふぎにして富とみ且かつ貴たっときは、
我われに於おいて浮雲ふうんの如ごとし。 -
「丸まげ」
これもお孫さんがモチーフでしょうか。 -
「金魚」
モチーフの出どころは青森の金魚ねぷたではないかと思いました。津軽地方に伝承されている民俗行事である「ねぶた祭」に欠くことが出来ないものに「金魚ねぶた」があります。 -
柳宗悦との出会いが朝鮮陶磁の展覧会だったこともあるのか、李朝の家具の良いものがたくさんあります。地方によって形は異なりますが、食事を運び食べる合理的な道具です。床暖房のオンドルの熱から食べ物を守るために足が付いています。足同士が繋げられているのは、オンドルの熱を逃がさないように床に貼られた油紙を破かないためです。軽くて乾燥による反りも少ない銀杏の木で作られています。
-
同じく床の間に飾られた「非草非人非木」の軸です。これは茶道の言葉で草冠と人と木を重ね合わせると「茶」という文字になります。
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この障子窓を囲むように組み込まれた壁面の収納も素晴らしいです。建物を建てた後もいろいろ手を加えたのではないでしょうか。
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引き戸のデザインにも凝ったデザインが施されています。この辺りは黒田辰秋の存在を感じてしまいます。黒田辰秋は20歳の頃に寛次郎の講演に感銘を受け、民藝運動に加わっています。
-
この椅子とテーブルで河井寛次郎は作業をしていたようです。
-
「仕事のうた」
仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう -
今年の7月に還暦を迎えて早々に仕事をリタイアしましたが、振り返ってみると大変なことはありましたが好きなことが出来て楽しかったと思います。「仕事のうた」を読んでいて、まぁまぁよい人生だったのかなと思いました。
-
現在の生活だとここにパソコンだのプリンターが必要になってきてしまいますね。
-
吹き抜けの障子の前に見事な滑車が置かれてありました。元々は吹き抜けのロープにところで使われたのでしょうか。
-
無垢の床材に無垢材の椅子が置かれ、テーブルに至っては輪切りにした皮を剥いた丸太です。この丸太は吹き抜けの滑車で吊り上げたのでしょうね。
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干菓子の抜型のような板にはキセルのデザインが彫り込まれています。これは何に使うものだったのでしょう。
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出石(いずし)の城下町の魔よけの唐辛子のようなものがりました。赤い唐辛子を赤米の稲藁で編み込んだものです。白川郷でも見たことがあるので、山陰から北陸辺りに伝わるものかもしれません。
-
最後に絵葉書をたくさん買って記念館を後にしました。ここに妻を連れてくることが出来て1つのミッションが終わった気がします。
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風情の無い五条通りの高架の下を通って大谷本廟の前までたどり着きました。茶わん坂の伯母の店に行くのですが、だいぶ予定時間を過ぎてしまいました。子供の頃に夏休みに京都へ預けられていた頃はこの辺りから清水寺の境内一帯が遊び場でした。
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清水坂を歩いていてこんなに坂が長かったかと思いました。久しぶりに親戚を訪ねたのですが、東哉のお店はコロナのために火曜日が休みになっていて叔父には会えず、直した奥の座敷も見ることが出来ずでした。陶哉では叔父と叔母とお茶会の話しで盛り上がり、伯母の店でも楽しい時間が過ごせました。
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旅行記グループ 2021大阪京都の旅
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