東山・祇園・北白川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
旅の9日目の午前中は”大人の修学旅行”です。この日は小雨が降っていることもあってタクシーで「三十三間堂」に向かいました。この辺りに来るのは中学校の修学旅行以来でしょうか。この後も清水まで歩く予定なので、妻の足のことも考えてタクシーにして良かったです。45年振りに来た三十三間堂は堂の前に立派な建物が出来て、下駄箱の量の多さには驚きました。この日も朝早くから10くらいの学校の修学旅行生が来ていましたから無理もないのかもしれません。昔の厳かな雰囲気は表には残っていませんでした。ただ、本堂に入って妻手から正面に回り込むと息をのむ千手観音の姿が目に入ってきました。これまで数々の国を旅してたくさんの宗教施設にも行きましたが、これほどインパクトのある所はないだろうなと思います。圧倒的な黄金の千手観音立像の前には、千手観音に従い仏教を守るとされる二十八部衆の立像と、風神と雷神像が並んでいます。これらも全て国宝指定を受けた鎌倉期の彫刻の傑作ですが、個人的にはこちらの方が好きでもあります。薄暗い堂内でも輝く水晶の玉眼に惹かれたのは中学生の頃からでした。上野の国立博物館で開催された鎌倉時代の彫刻展で受けた衝撃と感動は還暦を迎えても衰えていないようです。続く「養源院」も大好きなお寺で、俵屋宗達に傾注したのもこのお寺で杉戸絵と松の障壁画を見てからでした。現在はカセットテープの説明を聞きながら獅子と麒麟と白象の杉戸絵を拝見しました。松の障壁画は数年前から見せていないとのことでした。帰り際に受付の女性に「45年ほど前に何度か伺って、落語家の桂枝雀に似たその時のご住職の説明が好きでした。」と伝えると、その方は現住職の奥様で「主人の父だと思います。松の絵もお見せしたいのですが…。」とほかの見学者の方に目を向けられます。他に誰もいなければと思いましたが、あとから見学者の方が来られるのでお礼を言ってお寺を後にしました。ここまで来て「京都国立博物館」に行けないのも残念でしたし、「智積院」にも同じ45年以上行っていないと思いながらも東山通りを北に進み「河井寛次郎記念館」を目指します。

大阪駅の新梅田食道街の立ち食いたこ焼きから嵐山の吉兆まで大阪と京都12日間の旅(19)45年振りに三十三間堂と養源院を訪ねる。

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2021/11/09 - 2021/11/09

3302位(同エリア6663件中)

旅行記グループ 2021大阪京都の旅

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kojikoji

kojikojiさん

旅の9日目の午前中は”大人の修学旅行”です。この日は小雨が降っていることもあってタクシーで「三十三間堂」に向かいました。この辺りに来るのは中学校の修学旅行以来でしょうか。この後も清水まで歩く予定なので、妻の足のことも考えてタクシーにして良かったです。45年振りに来た三十三間堂は堂の前に立派な建物が出来て、下駄箱の量の多さには驚きました。この日も朝早くから10くらいの学校の修学旅行生が来ていましたから無理もないのかもしれません。昔の厳かな雰囲気は表には残っていませんでした。ただ、本堂に入って妻手から正面に回り込むと息をのむ千手観音の姿が目に入ってきました。これまで数々の国を旅してたくさんの宗教施設にも行きましたが、これほどインパクトのある所はないだろうなと思います。圧倒的な黄金の千手観音立像の前には、千手観音に従い仏教を守るとされる二十八部衆の立像と、風神と雷神像が並んでいます。これらも全て国宝指定を受けた鎌倉期の彫刻の傑作ですが、個人的にはこちらの方が好きでもあります。薄暗い堂内でも輝く水晶の玉眼に惹かれたのは中学生の頃からでした。上野の国立博物館で開催された鎌倉時代の彫刻展で受けた衝撃と感動は還暦を迎えても衰えていないようです。続く「養源院」も大好きなお寺で、俵屋宗達に傾注したのもこのお寺で杉戸絵と松の障壁画を見てからでした。現在はカセットテープの説明を聞きながら獅子と麒麟と白象の杉戸絵を拝見しました。松の障壁画は数年前から見せていないとのことでした。帰り際に受付の女性に「45年ほど前に何度か伺って、落語家の桂枝雀に似たその時のご住職の説明が好きでした。」と伝えると、その方は現住職の奥様で「主人の父だと思います。松の絵もお見せしたいのですが…。」とほかの見学者の方に目を向けられます。他に誰もいなければと思いましたが、あとから見学者の方が来られるのでお礼を言ってお寺を後にしました。ここまで来て「京都国立博物館」に行けないのも残念でしたし、「智積院」にも同じ45年以上行っていないと思いながらも東山通りを北に進み「河井寛次郎記念館」を目指します。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
高速・路線バス タクシー ANAグループ JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • お茶会も終わって気持ちも楽になった9日目の朝です。いつものように朝ご飯を食べにレストランに降りました。妻の表情も少しホッとしたものが感じられます。

    お茶会も終わって気持ちも楽になった9日目の朝です。いつものように朝ご飯を食べにレストランに降りました。妻の表情も少しホッとしたものが感じられます。

  • 4日目の朝は牛しぐれ煮のきんし丼のセットにしてみました。

    4日目の朝は牛しぐれ煮のきんし丼のセットにしてみました。

  • これは量も多いのですが、九条葱と甘辛い牛肉の味が相まって美味しかったです。

    これは量も多いのですが、九条葱と甘辛い牛肉の味が相まって美味しかったです。

  • このレストランの窓は大徳寺の孤篷庵の忘筌(ぼうせん)の間の障子と光悦寺の光悦垣を模したものだと分かります。

    このレストランの窓は大徳寺の孤篷庵の忘筌(ぼうせん)の間の障子と光悦寺の光悦垣を模したものだと分かります。

  • 今日は朝から肌寒く、小雨も降りそうなのでホテルの前からタクシーに乗って「三十三間堂」まで出ました。雨の降りだしたタイミングに着いたので運転手さんが濡れない場所まで車を回してくれました。今回の大阪と京都のタクシーの運転手さんは親切な方ばかりでした。

    今日は朝から肌寒く、小雨も降りそうなのでホテルの前からタクシーに乗って「三十三間堂」まで出ました。雨の降りだしたタイミングに着いたので運転手さんが濡れない場所まで車を回してくれました。今回の大阪と京都のタクシーの運転手さんは親切な方ばかりでした。

  • 拝観券を買い求めて中に入ると大きな下駄箱に驚きました。すぐに小学生や中学生の団体が入ってくるので、これは必要なものだと思いました。何しろ修学旅行でここに来ないことはないでしょう。

    拝観券を買い求めて中に入ると大きな下駄箱に驚きました。すぐに小学生や中学生の団体が入ってくるので、これは必要なものだと思いました。何しろ修学旅行でここに来ないことはないでしょう。

  • 堂の裏側から正面に回り込むと、何回来ても圧倒されます。いろいろな国のすごい風景や自然、建築物や美術品も見てきましたが、この千体の黄金の仏像はすごいと思います。

    堂の裏側から正面に回り込むと、何回来ても圧倒されます。いろいろな国のすごい風景や自然、建築物や美術品も見てきましたが、この千体の黄金の仏像はすごいと思います。

  • 堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊である千手観音坐像を安置しています。本尊の左右には階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体X10段)の千手観音立像が立ち並びます。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体になります。

    堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊である千手観音坐像を安置しています。本尊の左右には階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体X10段)の千手観音立像が立ち並びます。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体になります。

  • 1,001体のうちの一部の像は東京と京都と奈良の国立博物館に寄託されていましたが、平成30年の2018年に国宝指定を記念して博物館に寄託の像が堂に戻り、1,001体が勢ぞろいしたそうです。

    1,001体のうちの一部の像は東京と京都と奈良の国立博物館に寄託されていましたが、平成30年の2018年に国宝指定を記念して博物館に寄託の像が堂に戻り、1,001体が勢ぞろいしたそうです。

  • 昭和48年の1973年から美術院国宝修理所によって全1,001体の修理が開始され、45年後の平成29年の2017年12月に全1,001体の修理が完了したそうです。

    昭和48年の1973年から美術院国宝修理所によって全1,001体の修理が開始され、45年後の平成29年の2017年12月に全1,001体の修理が完了したそうです。

  • 本尊は「木造千手観音坐像 附 木造天蓋」として国宝に指定されています。寄木造に漆箔で玉眼という鎌倉時代の彫刻の特徴を感じます。十一面四十二臂に表す千手観音像の像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超えるそうです。

    本尊は「木造千手観音坐像 附 木造天蓋」として国宝に指定されています。寄木造に漆箔で玉眼という鎌倉時代の彫刻の特徴を感じます。十一面四十二臂に表す千手観音像の像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超えるそうです。

  • 千体仏の手前には二十八部衆像28体が横一列に並び、内陣の左右端には風神と雷神像が安置されています昔の記憶と違って違和感を覚えたのは二十八部衆像のうち4体が本尊の周囲に配置されていることです。平成30年の2018年7月に30体の仏像の配置が変更され、鎌倉時代の版画など古記録の研究に基づいて、創建当時と同じと思われる配置に戻されたそうです。以前はすぐ近くにあった婆藪仙が本尊の近くに移動していたので気が付きました。

    千体仏の手前には二十八部衆像28体が横一列に並び、内陣の左右端には風神と雷神像が安置されています昔の記憶と違って違和感を覚えたのは二十八部衆像のうち4体が本尊の周囲に配置されていることです。平成30年の2018年7月に30体の仏像の配置が変更され、鎌倉時代の版画など古記録の研究に基づいて、創建当時と同じと思われる配置に戻されたそうです。以前はすぐ近くにあった婆藪仙が本尊の近くに移動していたので気が付きました。

  • 1,001体の千手観音立像も素晴らしいのですが、個人的にはこの堂に収められている二十八部衆が好きなので過去に何度も来ています。二十八部衆は千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされています。28体の中には四天王や金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、由来のはっきりしないものとが混在しています。

    1,001体の千手観音立像も素晴らしいのですが、個人的にはこの堂に収められている二十八部衆が好きなので過去に何度も来ています。二十八部衆は千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされています。28体の中には四天王や金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、由来のはっきりしないものとが混在しています。

  • 風神雷神は二十八部衆には含まれません。共にインド最古の聖典とされるリグ・ヴェーダに登場する神で、自然現象を神格化したものです。リグ・ヴェーダについて初めて知ったのは中学生の頃で、諸星大二郎の「暗黒神話」や「孔子暗黒伝」という作品で引用されています。

    風神雷神は二十八部衆には含まれません。共にインド最古の聖典とされるリグ・ヴェーダに登場する神で、自然現象を神格化したものです。リグ・ヴェーダについて初めて知ったのは中学生の頃で、諸星大二郎の「暗黒神話」や「孔子暗黒伝」という作品で引用されています。

  • 雷神はヴァルナという水神とされ、仏教では仏法を守る役目のほかに悪を懲らしめて善を勧めて風雨を調える神とされます。俵屋宗達の風神雷神図はこの三十三間堂の風神像と雷神像に誘発されて描いたとも言われています。

    雷神はヴァルナという水神とされ、仏教では仏法を守る役目のほかに悪を懲らしめて善を勧めて風雨を調える神とされます。俵屋宗達の風神雷神図はこの三十三間堂の風神像と雷神像に誘発されて描いたとも言われています。

  • 風神はヴァーユと呼ばれ数頭立ての馬車で天を駆けて悪心を追い払い、富貴栄達を授ける神とされます。2つの像は古代信仰や伝説的空想によって日本化され、鎌倉時代の再建時に湛慶が深く関わっていたされます。

    風神はヴァーユと呼ばれ数頭立ての馬車で天を駆けて悪心を追い払い、富貴栄達を授ける神とされます。2つの像は古代信仰や伝説的空想によって日本化され、鎌倉時代の再建時に湛慶が深く関わっていたされます。

  • 大弁功徳天は唐装の女神の姿で、両手を胸の辺に上げています。元は右手に剣を持ち左手に宝珠を持つっていたのでではないかと思われます。通常は吉祥天と呼ばれ、ヒンドゥー教の女神であるラクシュミーが仏教に取り入れられたものです。

    大弁功徳天は唐装の女神の姿で、両手を胸の辺に上げています。元は右手に剣を持ち左手に宝珠を持つっていたのでではないかと思われます。通常は吉祥天と呼ばれ、ヒンドゥー教の女神であるラクシュミーが仏教に取り入れられたものです。

  • 吉祥とは繁栄や幸運を意味し、幸福や美や富を顕す神とされ、美女の代名詞として尊敬を集めるためここでも優雅な姿で表されています。婆藪仙と共に千手観音の脇侍として必ず登場します。

    吉祥とは繁栄や幸運を意味し、幸福や美や富を顕す神とされ、美女の代名詞として尊敬を集めるためここでも優雅な姿で表されています。婆藪仙と共に千手観音の脇侍として必ず登場します。

  • 阿修羅は奈良の興福寺の像があまりに無有名ですが、この三十三間堂の像も素晴らしいです。古代インドのアスラが仏教に取り入れられたもので、阿修羅の住む世界を阿修羅道(修羅道)といい、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界である六道のうちの1つでもあります。阿修羅に関する逸話は仏教の諸経の中に多くあり、帝釈天と戦うことがよく記されています。アンコールワットの乳海撹拌のレリーフが思い出されます。

    阿修羅は奈良の興福寺の像があまりに無有名ですが、この三十三間堂の像も素晴らしいです。古代インドのアスラが仏教に取り入れられたもので、阿修羅の住む世界を阿修羅道(修羅道)といい、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界である六道のうちの1つでもあります。阿修羅に関する逸話は仏教の諸経の中に多くあり、帝釈天と戦うことがよく記されています。アンコールワットの乳海撹拌のレリーフが思い出されます。

  • 緊那羅も特徴のあるインド神話に登場する音楽の神です。仏教においては乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、八部衆の1人に数えられます。分かりやすい例としてはタイのバンコックのワット・プラケーオに配された黄金の半人半鳥の黄金色のキンナリも同じものです。

    緊那羅も特徴のあるインド神話に登場する音楽の神です。仏教においては乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、八部衆の1人に数えられます。分かりやすい例としてはタイのバンコックのワット・プラケーオに配された黄金の半人半鳥の黄金色のキンナリも同じものです。

  • 毘楼博叉天は広目天と呼ばれ、仏教における天部とされ、持国天や増長天や多聞天と共に四天王の一尊に数えられます。三昧耶形は三鈷戟と羂索(両端に金具を付けた捕縛縄)を持つ姿で表されます。

    毘楼博叉天は広目天と呼ばれ、仏教における天部とされ、持国天や増長天や多聞天と共に四天王の一尊に数えられます。三昧耶形は三鈷戟と羂索(両端に金具を付けた捕縛縄)を持つ姿で表されます。

  • 毘楼勒叉は増長天と呼ばれる四天王の一尊です。日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表され、三昧耶形は戟の場合が多く、左手は拳にして右腰に置く姿で表されることが多いです。

    毘楼勒叉は増長天と呼ばれる四天王の一尊です。日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表され、三昧耶形は戟の場合が多く、左手は拳にして右腰に置く姿で表されることが多いです。

  • 個人的に一番好きな婆藪仙です。仏教における護法善神で梵名はヴァス(財宝や富の意)で、インド神話の聖仙ヴァシシュタが仏教に取り入れられた姿です。火天の眷属で五仙の一尊とされ、火を尊び火を祀る修行者とされます。

    個人的に一番好きな婆藪仙です。仏教における護法善神で梵名はヴァス(財宝や富の意)で、インド神話の聖仙ヴァシシュタが仏教に取り入れられた姿です。火天の眷属で五仙の一尊とされ、火を尊び火を祀る修行者とされます。

  • 吉祥天の兄といわれますが、先の大弁功徳天と兄妹には見えませんが、共に千手観音の脇侍とされます。

    吉祥天の兄といわれますが、先の大弁功徳天と兄妹には見えませんが、共に千手観音の脇侍とされます。

  • 迦楼羅はインド神話のガルーダを前身とする仏教の守護神です。口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされ、ここでは鳥頭人身有翼の姿で横笛を吹く姿で表されています。

    迦楼羅はインド神話のガルーダを前身とする仏教の守護神です。口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされ、ここでは鳥頭人身有翼の姿で横笛を吹く姿で表されています。

  • また那羅延天の乗り物として背に乗せた姿で描かれますが、これは前身のガルーダが那羅延天(ヴィシュヌ神)の乗り物であった事に由来します。インドネシア航空のガルーダもこの神から取られた名前です。

    また那羅延天の乗り物として背に乗せた姿で描かれますが、これは前身のガルーダが那羅延天(ヴィシュヌ神)の乗り物であった事に由来します。インドネシア航空のガルーダもこの神から取られた名前です。

  • 摩睺羅伽は仏教を守護する護法善神の一尊で、サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味します。ここでは頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれ、八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされます。かっこよいのが水晶の五眼で、肉眼と天眼と慧眼と法眼の4つの悟りを開いた者の眼を意味するのでしょうか。

    摩睺羅伽は仏教を守護する護法善神の一尊で、サンスクリット語名の「マホーラガ」は「偉大なる蛇」を意味します。ここでは頭に蛇冠を戴いた人間の姿で描かれ、八部衆の緊那羅と同じく音楽の神とされます。かっこよいのが水晶の五眼で、肉眼と天眼と慧眼と法眼の4つの悟りを開いた者の眼を意味するのでしょうか。

  • 散支大将(満仙王)はヒンドゥー教ではパーンチカと呼ばれ、毘沙門天の部下にして八大夜叉大将の1人です。妻は鬼子母神(ハーリーティー)で、夫婦は数百人の子どもを抱えていたといわれます。これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていましたが、釈迦に自分の子供を隠されてしまいますが、三宝に帰依すると釈迦は隠していた子を戻したという逸話があります。

    散支大将(満仙王)はヒンドゥー教ではパーンチカと呼ばれ、毘沙門天の部下にして八大夜叉大将の1人です。妻は鬼子母神(ハーリーティー)で、夫婦は数百人の子どもを抱えていたといわれます。これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていましたが、釈迦に自分の子供を隠されてしまいますが、三宝に帰依すると釈迦は隠していた子を戻したという逸話があります。

  • 密迹金剛は金剛力士(仁王)像の内の吽形像に相当します。金剛杵という仏敵を退散させる武器を持つものを意味します。像容は上半身裸形で筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多いです。こうした造形は寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。

    密迹金剛は金剛力士(仁王)像の内の吽形像に相当します。金剛杵という仏敵を退散させる武器を持つものを意味します。像容は上半身裸形で筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多いです。こうした造形は寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。

  • 那羅延堅固は金剛力士(仁王)の阿形に相当します。那羅延天(ならえんてん)はヒンドゥー教の神ヴィシュヌが仏教に取り入れられ護法善神とされたもので、「那羅延」とはヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写です。

    那羅延堅固は金剛力士(仁王)の阿形に相当します。那羅延天(ならえんてん)はヒンドゥー教の神ヴィシュヌが仏教に取り入れられ護法善神とされたもので、「那羅延」とはヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写です。

  • 修学旅行の子供たちに巻き込まれての参観でしたが、自分が最後に来たのと同じくらいの年頃なので懐かしく思えました。最近の修学旅行はタクシーの移動で京都を巡ると聞いたことがありますが、運転手さんは付きっきりで説明をしたり、カメラのシャッターを押したり大変そうです。団体行動でバスで来ている学生も多かったですが、その違いは何なんでしょう。

    修学旅行の子供たちに巻き込まれての参観でしたが、自分が最後に来たのと同じくらいの年頃なので懐かしく思えました。最近の修学旅行はタクシーの移動で京都を巡ると聞いたことがありますが、運転手さんは付きっきりで説明をしたり、カメラのシャッターを押したり大変そうです。団体行動でバスで来ている学生も多かったですが、その違いは何なんでしょう。

  • 現在の本堂は文永3年の1266年に再建されたものですが、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟しかないそうです。軒先が美しいのは二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いているからのようです。

    現在の本堂は文永3年の1266年に再建されたものですが、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟しかないそうです。軒先が美しいのは二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いているからのようです。

  • 側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓になっているので、照明の少ない堂内でも明るく感じます。背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓としています。

    側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓になっているので、照明の少ない堂内でも明るく感じます。背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓としています。

  • 現状では本堂の内外に彩色はみられませんが、昭和5年の1930年の修理の時に虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが分かったそうです。

    現状では本堂の内外に彩色はみられませんが、昭和5年の1930年の修理の時に虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが分かったそうです。

  • そう考えると極彩色の本堂に安置された黄金に輝く1,001体の千手観音立像と本尊と採食された二十八部衆の姿を想像しただけで極楽浄土に行けそうです。宇治の平等院をはるかに凌駕する迫力だったことでしょう。

    そう考えると極彩色の本堂に安置された黄金に輝く1,001体の千手観音立像と本尊と採食された二十八部衆の姿を想像しただけで極楽浄土に行けそうです。宇治の平等院をはるかに凌駕する迫力だったことでしょう。

  • 本堂の参拝の後は堂の周りを1周してみました。12日間の旅行中でこの日の午前中だけが雨が降っていました。しっとりした雨の京都も良いなと思いました。

    本堂の参拝の後は堂の周りを1周してみました。12日間の旅行中でこの日の午前中だけが雨が降っていました。しっとりした雨の京都も良いなと思いました。

  • ただ、思い返してもこの60年で京都で雨に降られた記憶がありません。記憶の無い子供の頃の写真を見ても傘を差しているものがないです。

    ただ、思い返してもこの60年で京都で雨に降られた記憶がありません。記憶の無い子供の頃の写真を見ても傘を差しているものがないです。

  • 三十三間堂と言えば通し矢で、桃山時代に行われ始め、江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121メートル)で矢を射る舞台となり、京の名物行事となりました。縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのですが、強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができないそうです。

    三十三間堂と言えば通し矢で、桃山時代に行われ始め、江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121メートル)で矢を射る舞台となり、京の名物行事となりました。縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのですが、強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができないそうです。

  • 最高記録は江戸時代の18歳の少年の和佐大八郎の総矢13,053本で通し矢8,133本です。計算すると1分間に9本のペースで射ていたことになります。

    最高記録は江戸時代の18歳の少年の和佐大八郎の総矢13,053本で通し矢8,133本です。計算すると1分間に9本のペースで射ていたことになります。

  • 本堂の表と裏では全く雰囲気が違うことに気が付きます。

    本堂の表と裏では全く雰囲気が違うことに気が付きます。

  • 自分だったら絶対に1本も通し矢を射ることが出来ないことを確認して参拝を終えます。

    自分だったら絶対に1本も通し矢を射ることが出来ないことを確認して参拝を終えます。

  • 続いては近くにある「養源院」へ参拝に向かいます。ここへ来るのも46年振りだと思います。その頃はほとんど訪れる人も少ないお寺だったと思います。

    続いては近くにある「養源院」へ参拝に向かいます。ここへ来るのも46年振りだと思います。その頃はほとんど訪れる人も少ないお寺だったと思います。

  • ここへは2年連続で通ったのですが、理由は当時のご住職の説明が非常に面白かったからです。勝手な印象ですが落語家の二代目の桂枝雀さんに似た感じの方でした。俵屋宗達の障壁画と杉戸絵を見に来るのが目的でしたが、その説明を聞くのも楽しかったのです。

    ここへは2年連続で通ったのですが、理由は当時のご住職の説明が非常に面白かったからです。勝手な印象ですが落語家の二代目の桂枝雀さんに似た感じの方でした。俵屋宗達の障壁画と杉戸絵を見に来るのが目的でしたが、その説明を聞くのも楽しかったのです。

  • こんなに参道が長かったかと思いながら雨に濡れたい敷石の上を歩きます。夏休みにしか来たことが無いので、紅葉がきれいだとは知りませんでした。

    こんなに参道が長かったかと思いながら雨に濡れたい敷石の上を歩きます。夏休みにしか来たことが無いので、紅葉がきれいだとは知りませんでした。

  • 「養源院」は豊臣秀吉の側室の淀殿が父の浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に建立されています。開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印で、長政の院号を以って寺号としたのは文禄3年の1594年です。その後火災によって焼失するも、元和7年の1621年に淀殿の妹で2代将軍徳川秀忠公正室のお江により伏見城の遺構を用いて再建されます。

    「養源院」は豊臣秀吉の側室の淀殿が父の浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に建立されています。開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印で、長政の院号を以って寺号としたのは文禄3年の1594年です。その後火災によって焼失するも、元和7年の1621年に淀殿の妹で2代将軍徳川秀忠公正室のお江により伏見城の遺構を用いて再建されます。

  • 子供の頃は俵屋宗達の描いた杉戸絵の八方睨みの唐獅子や白象、本堂松の間の襖絵を見に来ていただけですが、改めて歴史を知ることとなりました。

    子供の頃は俵屋宗達の描いた杉戸絵の八方睨みの唐獅子や白象、本堂松の間の襖絵を見に来ていただけですが、改めて歴史を知ることとなりました。

  • 徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌を祀る寺院ともなるので、豊臣家と両方に関わる寺院なのだと知るとともに、京都に来る前に大阪城の淀殿と秀頼公が自刃した場所の碑に手を合わせておいて良かったと思います。

    徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌を祀る寺院ともなるので、豊臣家と両方に関わる寺院なのだと知るとともに、京都に来る前に大阪城の淀殿と秀頼公が自刃した場所の碑に手を合わせておいて良かったと思います。

  • 本堂の廊下の天井は全て血天井となっています。血天井とは関ケ原の合戦の前哨戦である1600年の伏見城の戦いで豊臣方の軍勢に打ち取られる直前に城内の廊下で自刃した徳川方の兵士らを弔うもので、自刃した兵士らの血で染まった廊下を寺の天井に上げて残されているものです。

    本堂の廊下の天井は全て血天井となっています。血天井とは関ケ原の合戦の前哨戦である1600年の伏見城の戦いで豊臣方の軍勢に打ち取られる直前に城内の廊下で自刃した徳川方の兵士らを弔うもので、自刃した兵士らの血で染まった廊下を寺の天井に上げて残されているものです。

  • 血天井はここ以外にも各地の寺院にも納められて弔われていますが、その規模ではこの養源院が一番大きいそうです。その時の徳川方の大将であった鳥居元忠公御自害の痕については現住職の奥様から細かい説明がありました。よく見ると顔や髷の位置、肩の位置から腰に掛けての血だまり、足の形やひざの折れ曲がったさまが確認できます。  

    血天井はここ以外にも各地の寺院にも納められて弔われていますが、その規模ではこの養源院が一番大きいそうです。その時の徳川方の大将であった鳥居元忠公御自害の痕については現住職の奥様から細かい説明がありました。よく見ると顔や髷の位置、肩の位置から腰に掛けての血だまり、足の形やひざの折れ曲がったさまが確認できます。  

  • 杉戸絵についての説明も今回初めて知りましたが、血天井の廊下を挟んだ左右に杉戸絵があり、土間側の唐獅子の杉戸絵を空けると突き当りに白象が見える効果についても教えていただきました。

    杉戸絵についての説明も今回初めて知りましたが、血天井の廊下を挟んだ左右に杉戸絵があり、土間側の唐獅子の杉戸絵を空けると突き当りに白象が見える効果についても教えていただきました。

  • 目からうろこだったのは唐獅子は文殊菩薩の乗り物だということです。今までいろいろなところを旅して、教会や美術館でキリスト教絵画のアトリビュートを読み解いていながら、仏教の三昧耶形について考えが至っていなかったと気が付きました。

    目からうろこだったのは唐獅子は文殊菩薩の乗り物だということです。今までいろいろなところを旅して、教会や美術館でキリスト教絵画のアトリビュートを読み解いていながら、仏教の三昧耶形について考えが至っていなかったと気が付きました。

  • そして白象は普賢菩薩の乗り物です。動物を左右に配して、本堂の阿弥陀如来と脇侍の普賢菩薩と文殊菩薩を白象と唐獅子で表現していたわけです。

    そして白象は普賢菩薩の乗り物です。動物を左右に配して、本堂の阿弥陀如来と脇侍の普賢菩薩と文殊菩薩を白象と唐獅子で表現していたわけです。

  • 「ダ・ヴィンチ・コード」などのダン・ブラウンの一連の映画や「シックス・センス」などのナイト・シャマラン監督の映画を見ていて、先に謎を読み解いたときのような爽快感がありました。

    「ダ・ヴィンチ・コード」などのダン・ブラウンの一連の映画や「シックス・センス」などのナイト・シャマラン監督の映画を見ていて、先に謎を読み解いたときのような爽快感がありました。

  • 本堂は元和5年の1619年に破却された豊臣秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされ、特に障壁画の美しい「牡丹の間」は秀吉の学問所であったそうです。狩野山楽の筆ですが、かなり傷んでいるのが残念です。ここには秀吉が伏見城に祀っていた大聖歓喜天を安置していますが、秘仏なので見ることは出来ません。ただ、その姿はガネーシャのようです。

    本堂は元和5年の1619年に破却された豊臣秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされ、特に障壁画の美しい「牡丹の間」は秀吉の学問所であったそうです。狩野山楽の筆ですが、かなり傷んでいるのが残念です。ここには秀吉が伏見城に祀っていた大聖歓喜天を安置していますが、秘仏なので見ることは出来ません。ただ、その姿はガネーシャのようです。

  • 牡丹は菩薩を表し、その花は25描かれているとの説明がありましたが、そうすると二十五菩薩という言葉が頭に浮かんできます。子供の頃に行った奈良の當麻寺や妻と行った久米寺の二十五菩薩練り供養の様子が頭に浮かびます。

    牡丹は菩薩を表し、その花は25描かれているとの説明がありましたが、そうすると二十五菩薩という言葉が頭に浮かんできます。子供の頃に行った奈良の當麻寺や妻と行った久米寺の二十五菩薩練り供養の様子が頭に浮かびます。

  • 拝観は順繰りに行われ、カセットテープでの説明と補足がありました。俵屋宗達の松の間の見学が無かったので、絵葉書とパンフレットを買うタイミングで奥様に尋ねてみました。すると3年ほど前から見せていないとのことでした。

    拝観は順繰りに行われ、カセットテープでの説明と補足がありました。俵屋宗達の松の間の見学が無かったので、絵葉書とパンフレットを買うタイミングで奥様に尋ねてみました。すると3年ほど前から見せていないとのことでした。

  • 46年前の中学生の頃に来て思った住職のお話をすると、現住職のお父さんで義父だと教えてくださいました。「拝観される方が多くなって、松の間は見せていないんです。」とおっしゃりながらほかの拝観の方に視線を移され、絵葉書を余分にくださいました。誰もいなかったらなんて想像しながら養源院を後にしました。

    46年前の中学生の頃に来て思った住職のお話をすると、現住職のお父さんで義父だと教えてくださいました。「拝観される方が多くなって、松の間は見せていないんです。」とおっしゃりながらほかの拝観の方に視線を移され、絵葉書を余分にくださいました。誰もいなかったらなんて想像しながら養源院を後にしました。

  • 3日間一緒だった友人夫婦が京都国立博物館で茶室「堪庵(たんあん)」を見てきたというので、行ってみようかと思いましたが、秋の拝観は前日で終わっていました。今回は予定が合わずに大山崎に行きながら妙喜庵の「待庵」にも行けなかったので残念でした。

    3日間一緒だった友人夫婦が京都国立博物館で茶室「堪庵(たんあん)」を見てきたというので、行ってみようかと思いましたが、秋の拝観は前日で終わっていました。今回は予定が合わずに大山崎に行きながら妙喜庵の「待庵」にも行けなかったので残念でした。

  • 智積院にも三十三間堂と同じくらい行っていないと思いながらも時間が無いので通過します。長谷川等伯の障壁画とも46年会っていないわけです。

    智積院にも三十三間堂と同じくらい行っていないと思いながらも時間が無いので通過します。長谷川等伯の障壁画とも46年会っていないわけです。

  • 博物館の脇のバス停に堂本印象美術館のポスターが掲示されていました。大好きな木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が描かれています。富士宮で生まれ育った妻も昔は浅間大社の祀神の木花之佐久夜毘売のようだったのですが。気を取り直して「河井寛次郎記念館」に向かいます。

    博物館の脇のバス停に堂本印象美術館のポスターが掲示されていました。大好きな木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が描かれています。富士宮で生まれ育った妻も昔は浅間大社の祀神の木花之佐久夜毘売のようだったのですが。気を取り直して「河井寛次郎記念館」に向かいます。

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2021大阪京都の旅

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