2021/11/12 - 2021/11/12
3766位(同エリア4001件中)
kojikojiさん
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旅も12日目の最終日になりました。前の晩にお茶会の服やお土産は宅急便で送ってあったのですが、大きなキャリーバック2つはもう満タンになっていました。ホテルをチェックアウトして荷物を預けて身軽になって、地下鉄で丸太町駅で降りて京都御苑に向かいます。どの門から入ろうか考えていると「護王神社」に通りがかりました。ここは京都でも随一の「足腰の病気・けがの平癒」にご利益がある神社として知られています。妻にその話をするとわざわざ大回りしてお祈りするというので参拝しました。お守りは足が700円で腰が700円、足腰が1,200円だったので奮発して足腰を買ってあげました。そして「蛤御門」から御苑に入りました。元治元年の1864年に長州藩が京都に出兵し、会津と薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件の現場です。そんな事件現場では警察車両が停まっていたので、160年経っても現場検証しているのかと思ったら交通違反の自転車の取り締まりでした。京都御所の南側を歩いていると子供の頃に父に連れられて兄弟3人で遊びに来たことが思い出されます。大宮御所の北側で手続きをして仙洞御所の参観に入りました。ここへ来るのも父との旅行以来なので30年以上来ていなかったことになります。町中でありながら紅葉の美しさは一番だったかもしれません。紅葉のピークはこの1週間から2週間後だったと思いますが、混雑具合を鑑みると11月の1周目から2週目に掛けたタイミングで良かったと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 タクシー ANAグループ JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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旅も12日目の最終日になりました。最終日は京都御苑の中にある「仙洞御所」と「京都御所」の見学が残っています。午前11時に予約してあるので午前10時前にホテルをチェックアウトしました。
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ホテルのフロントに荷物を預けて身軽になって京都駅に向かいます。今回宿泊したリッチモンドプレミアムは京都駅まで3分ほどの至近距離だったので移動に便利でした。
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今回初めて地下鉄に乗って丸太町駅まで移動しました。
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丸太町駅からは烏丸通を北に上がることにしていました。この辺りを通るのは数十年振りで、「大丸ヴィラ」の存在も知りませんでした。昭和7年の1932年に建てられた大丸百貨店の第11代社長の下村正太郎の自邸で、ヴォーリズの設計だそうです。先日行った「東華菜館」のスパニッシュ・バロックの美しい建物を見てきたばかりなので、中を見たくなりますが公開はされていなようです。
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京都御苑の西側には下立売御門などいくつも出入り口になる門があります。どこから入るかを考えて、蛤御門まで歩くことにします。蛤御門の変(禁門の変)は元治元年の1864年に長州藩が京都に出兵し、会津と薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件のあったところです。前年8月の政変で失った長州藩の勢力回復を図ったものでしたが、これを機に江戸幕府の第1次長州征伐が行われます。12月には初めて鹿児島に行くので一度見ておこうと思いました。
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下立売御門(しもだちうりごもん)は蛤御門での戦いが激戦を極めたので、その他の御門での戦いがかすんでしまいます。この下立売御門も禁門の変で戦の一端を開いた所です。
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「聖アグネス教会」が見えてきました。平安女学院の敷地内に所在する聖堂は日本聖公会京都教区の中心となる主教座聖堂であるとともに、地域の教会(パリッシュ・チャーチ)、平安女学院の礼拝堂(チャペル)という3つの役割を兼ねています。名称は平安女学院の守護聖人でローマで殉教した聖アグネスにちなんでいます。
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明治31年の1898年に竣工したレンガ造りのゴシック様式の建物は、ジェームズ・ガーディナーによる設計です。ジェームズ・ガーディナーは立教大学の設計をしていて初代の校長も務めています。
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早く御所の中に入りたい気分になりますが、ここから入ってしまうと蛤御門へ戻ると遠回りになってしまいます。
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仙洞御所の「宣秋門」が正面に見え、東山の鹿ケ谷当たりの山が望めます。
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蛤御門を目指す途中に「護王神社」があるのでここにお参りすることにしました。和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神としています。和気清麻呂と姉の和気広虫は宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守り、孝明天皇はその功績を讃え、神護寺の護王善神社に祀られていた和気清麻呂に、護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けています。天皇自らが人臣に対して神階を授けたのはこれが初めてのことです。
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和気清麻呂が宇佐へ配流された際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もあります。
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清麻呂が刺客に襲われた際に足に傷を負いましたが、猪が去った後に足の傷も癒えた故事に由来して、足腰健康の神社としても知られます。手水舎「霊猪手水舎」の猪の鼻を触ると「足腰が良くなる」「再びここに戻って来れる」「幸せが訪れる」等のご利益が有るとされます。
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この半年で50日くらい旅行に連れ出していたせいか、妻の足の調子が悪くなってしまったのでここでお参りしておきます。社務所でお守りを求めようとすると足のお守り700円、腰のお守り700円、足腰守りが1,200円だったので割安感のある足腰守りをいただきました。12月の鹿児島の旅を前にして杖を購入したので、お守りはそこへ付けました。その後の道東の旅ではストックが必要そうです。
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蛤御門到着しました。一番最近のドラマだとNHKの「せごどん」の 第27話「禁門の変」が印象に残っています。この門から禁裏に入らなくても近くの塀を壊せばよいような気もしますが、当時は現在と違った塀があったのでしょうか?
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ここからようやく京都御苑に入ることが出来ます。ちょうど午前11時の参観予約時間にタイミングが合いました。
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蛤御門は少し奥まった位置に建っているので、ここに京都府警の車両が停められていました。交通違反の自転車がどんどん摘発されていました。現在も蛤御門では注意しないとだめですね。最近の自転車の運転の悪さは目に余るので、東京でもやってくれるとよいなと思います。
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正面に「仙洞御所」の塀と借景になった東山が美しいです。
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「清水谷家の椋」
清水谷家は西園寺家の一門で、鎌倉時代に西園寺公経の二男の実有を祖とする公家で、雅楽を家業として天皇に仕えました。その清水谷家の邸内に植えられたものか、屋敷が建てられる前から有ったのか300年も前からこの地にあって幾多の歴史の変遷を見ていたのでしょう。この椋(むくのき)の木の下で禁門の変(蛤御門の変)の時に来島又兵衛が討死したと伝えられています。来島又兵衛は長州藩士で、高杉晋作の奇兵隊に比して遊撃隊を組織し、禁門の変に際して出兵し蛤御門を入ったこの椋の木の辺りで薩摩の銃撃隊に胸を撃ち抜かれ自刃しました。 -
京都御所の南西の角には思い出があります。子供の頃は年に数回は京都の母の実家へ遊びに来ていて、京都御苑までも散歩しました。
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現在はここまで塀に近づいたらセンサーに引っかかって放送で怒られてしまうと思いますが、50年以上前ではそんなこともありませんでした。
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二条城の南側の二条陣屋からここまでよく歩いたと思います。砂利道が歩きにくかったことをよく覚えています。
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そんなことを思い出しながら東に向かって歩きますが、歩いても歩いても景色が変わりません。
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御所の南門正門の「健礼門」が見えてきました。現在も天皇皇后及び外国元首級のみが通ることのできる最も格式の高い門とされます。建礼門は京都御所の南に開く正門で構造としては檜皮葺の切妻屋根を持つ四脚門です。もともと建礼門は平安時代以来内裏の南門の名で、平清盛の娘で安徳天皇の御生母の平徳子は建礼門院と号されましたが、その号(女院号)はこの門の名に由来します。
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「仙洞御所」を参観した後は予約の必要のない「京都御所」の参観ではこの内側に入ることが出来ます。
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京都市内は東と西と北を山々に囲まれた盆地で、南に行くほど標高が低くなります。京都御所北側外と南側外では標高差が2.4メートルあります。その傾斜をなだらかにするため、南側では1.5メートルの石積みが生じます。この築地塀の腰壁は北側に行くと無くなるわけです。
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「仙洞御所」の入り口は北側にある「北門」からになります。
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中に入ると御所内の俯瞰図があります。これは他の離宮にもありましたが、昭和な雰囲気が残っていますがいつ頃作られたのでしょうか。
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手続きを済ませて参観人休憩所でロッカーに荷物を預けて身軽になります。ここへ来るのも3回目ですが35年振りくらいのことです。
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時間になって案内人の宮内庁の職員の方と皇宮警察の方と参観がスタートします。ここでの見学も12人くらいのグループでした。コロナ禍で人数を制限しているのは他の離宮と同じでした。
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大宮御所常盤殿御車寄の前で概略の説明がありました。仙洞御所の建築群は嘉永7年/安政元年の1854年の火災後に再建されず、現在では庭園のみが残っています。慶応3年の1867年以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備されました。
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京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっています。京都大宮御所は御常御殿を改修を行いそれに伴い仙洞御所との塀を除きこれを組み入れています。大正時代には大宮御所の御常御殿の内装などが洋室に改装されるなど住居としての実用性が向上し、仙洞御所の庭園を合わせた邸宅としての装いが整ったそうです。
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大宮御所を含む仙洞御所の地は、かつて聚楽第の後身として太閤秀吉が築いた豊臣家の本邸「京都新城」であり、当時は太閤御所や太閤上京御屋敷などと呼ばれていたそうです。豊臣秀吉が没した翌慶長4年9月に大坂城から秀吉の正室の北政所が移り、居住しました。北政所が寛永元年に没すると、しばらくは甥の木下利房(次男の利次が北政所の養子として羽柴家を継承)が居住しています。
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寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、幕府はこの地を仙洞御所と大宮御所の地として選び、御所建設工事に着手しました。このとき御所の規模構造について大坂城代から「皇居より大きくしないこと」などと細かな指示書が示されています。
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大宮御所表門から車寄せに至る広場の楓の巨木が見事に色づいていました。
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大正年間に内部を洋風に改めたため、周りにガラス戸をはめている。庭には紅梅と白梅、竹林と松が植樹され、「松竹梅の庭」とも伝えられています。
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御殿の建築にガラス戸が嵌められ、カーテンが掛かっているので違和感があります。
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南庭から土塀の門をくぐって庭園に向かいます。
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仙洞御所の池は紅葉谷の掘割を境にして北池と南池とに2分されます。大宮御所御常御殿の南庭から土塀の潜り戸を抜けると一望に見渡せる雄大な眺望が北池の全景です。造営当初は女院御所の庭であった場所です。
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池の東に寄せた中島は西から見る景色に奥行きを与え、対岸の樹木の上に遙か紫に霞む東山の峰が借景として採られています。今回の旅ではこの仙洞御所の庭の紅葉が一番見事でした。
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まずは北池を時計回りに歩き出します。束橋と呼ばれる土橋が見えてきます。京都御苑をの中にある仙洞御所や京都御所を見学していると、その水の豊かさに驚かされます。
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以前NHKの「ブラタモリ」で見て納得した記憶があります。平安京で移動を繰り返した天皇家の住まいが定住化した理由のひとつが「御所用水」と呼ばれる水だということです。鴨川の上流から京都御所まで約3キロにわたって引かれた御所用水により、14世紀以降になり今の京都御所がある場所に定着します。
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「禁裏御用水」は加茂川の上流から2本の水路で分流され、相国寺の北側に沿って境内を横切り、今出川を越えて御所まで引かれていています。敷設されたのは豊臣秀吉により京都が大改造された桃山時代と時期と推定され、この禁裏御用水は庭にも引かれ、御溝水として流れ出て公家屋敷を巡って京都市中に出て行きました。御所の南北で1.5メートルの高低差がある理由も理解できます。
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御所内の井戸の堀削も進み明治以降に敷設された御所水道の鉄管も老朽化したため、この水路は平成4年に廃止され、現在の御所の用水は9本の井戸と雨水の循環水を使用しているそうです。
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阿古瀬淵(あこせがふち)に架かるのは、切石6枚が並べられた「六枚橋」です。これは紀貫之の幼名「阿古久曽」に由来します。
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限られた敷地ではありますが、細い水路にいくつもの橋が架かり、東山までつながっているように思えてきます。
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仙洞御所の庭園は小堀遠州の作庭による池泉回遊式庭園とされ、それぞれの池がいまは北池と南池として連結されるなど一体として改修されています。京都には小堀遠州の作庭といわれる庭園は9つあるようで、今回の旅で「園徳院」に行くことが出来たので、残るは修学院離宮の前にある「禅華院」だけとなりました。
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北池の一番奥の水路にも土橋が架かり、奥行きを感じさせます。
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築山に置かれた2つの岩についての説明もあったのですが失念しました。
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中島への土橋は「束橋」の名前もあり、中島は鷺島とも呼ばれます。西側から望む森も鷺の森と呼ばれます。
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土橋の上からの北池の眺めも美しいです。
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ここでも参観者の一番最後尾を歩いているので他の方を写さずに写真が撮れました。
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先ほどくぐってきた門と、最後に見学する「又新亭」という茶室も見えます。
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三条白川橋の石材を短冊に切り出し、2枚をずらした並べた石橋です。「八つ橋」とも呼ばれましたが、仙洞御所では南井家の藤棚がある長橋を八つ橋と呼び習わしているので普通に「石橋」と呼ばれます。
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少し角度が変わり、太陽光線の具合が変わることでも紅葉した楓の色が違って見えます。
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12人のグループではありますが、最後尾を歩いていると説明は聞けませんが、じっくり景色を楽しむことが出来ます。コロナ禍のせいか皇宮警察の方も少し離れた工法を歩かれているのでプレッシャーもありませんでした。
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南池を2つに分ける藤棚の架かった「八つ橋」が見えました。見学ルートはまだ1/3くらいのようです。
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紅葉橋を越えて南池へ続く砂利敷きの通路に出ます。
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まだ緑色の葉が残った藤棚の下を渡っていきます。
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南池の出島には川鵜が羽を広げてくつろいでいます。名古屋の犬山の鵜飼を見たのももう半年くらい前になるのだと考えると月日の流れの速さを実感します。
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京都市のど真ん中にあるとは思えない壮大な景色です。
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南池には小さな滝もあります。これは「雄滝」と呼ばれる幅80センチ、高さ180センチほどのものです。
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渡ってきた「紅葉橋」が掘割を渡っています。低い竹の手摺まで紅葉の枝が垂れて、深山に分け入ったような風情です。
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南池の畔まで来ました。こちら側は池の周囲の石の形は「州浜」とは違っていることに気が付きます。
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反対側の「州浜」の石については近くに寄ってから見る事にします。
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6月頃の藤の季節にはきれいなのだろうと思います。宇治の藤棚も平安神宮の藤もきれいなので、次は藤の季節に来ても良いと思います。
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南の中島にはかつて「釣殿」が建てられていました。残された「雪見燈籠」は水戸光圀の献上によるものです。
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出島の東に架かる石橋が「土佐橋」で、土佐の山内家が献上したものと伝えています。橋の北は池が入り込んで淵をなし、その上方の小山の上には小さな山神社の祠があります。
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進行方向に「州浜」と「醒花亭」が見えてきました。
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旅の最終日も天気が良くて何よりでした。
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南池の「草屋形燈籠」は他の灯籠と違い、宝珠などなく笠部分が民家の様な形をしているのが特徴です。
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「八つ橋」も藤の花が下がったらさぞきれいなのでしょう。
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中島の東側には「反橋」が渡されて、趣向の異なる橋を渡る工夫がなされています。
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池の中には橋の架からない中島があります。葦島と呼ばれますが、古くは蓬莱山と呼ばれていたそうです。蓬萊(ほうらい)とは古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の1つで、道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものです。
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池の中まで続く石段は舟着き場の名残でしょうか。
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南池の一番南側までやってきました。ここから西側に向かって「州浜」が広がります。
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正面には「八つ橋」が美しく見えます。
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八つ橋と藤棚は別々のものだと分かります。竹を組んだ櫓の上に藤が枝を張っているだけで、石橋を構造体としていません。
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「反橋」の優雅な曲線も橋を渡っているだけでは分かりません。
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「醒花亭」は庭園の最も南の位置に北面している茶亭です。南池を一望する格好の場所にあり、今は失われた「止々斎」や「鑑水亭」とともに回遊式庭園における三店の1つでした。正面の玄関には廂を付け出し、腰高障子を入れ,その右(東側)は奥に4畳半の書院と手前に5畳の入側(縁側)を取り、書院と入側の境に建具を入れないところが特徴です。
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「醒花亭」の「醒花」は李白の詩から取られたもので、入側の東の鴨居の上に拓本の額として掲げられています。額の字は中国明の時代の郭子章の筆です。
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この建物は煎茶でいう三店式(酒店と飯店と茶店)ともいい,いずれの場合でも利用できるように造られています。東の庭には「ふくろう」の銘のある手水鉢を据えて飛石を配し,、型の蹲踞(茶庭の手水鉢)と加藤清正の献上品と言われている朝鮮灯籠が植え込みによく調和しています。
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書院南側の床にある稲妻形の棚が目を引きます。桂離宮の「笑意軒」とも相通じる斬新な意匠だと感じます。
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南池の西側を歩いて行くと「柿本社」という社があります。柿本人麻呂を祀った神社で、1788年の天明の大火で御所が焼けた際に火災を憂えた光格天皇が建立しました。なぜ柿本人麻呂を祀ったかといえば「ひとまろ」が「火止まる」に通じるからだそうです。
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州浜の石は約11万1千個で小田原藩主大久保侯が献上した選りすぐりの綺麗な丸石です。丸石1個につき米一升と交換したことから「一升石」と呼ばれています。月夜の晩にほのかに青白く輝くと言われています。
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よく見ると丸石は形と大きさがほとんど同じに揃っています。
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やはり太陽光線が射し込むと木々の色が鮮明に見えてきます。
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「蓬莱島」には太陽光線が当たって松葉がきれいに輝いています。蓬莱山と名付けた島と西湖堤は日本各地の大名庭園で見ることが出来ます。
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南池を1周して「八つ橋」まで戻ってきました。
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南池の風景もこれが見納めです。
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蘇鉄山の脇に置かれた燈籠。
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「又新亭」の近くにも燈籠が置かれてあります。蹲や飛び石などで侘茶の小世界を形づくり、北池の庭園との境界を区別するために四ツ目角垣で仕切りをつけています。
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御腰掛の間に茅葺屋根の中門があります。
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そして奥に「御腰掛」があります。ここがいわゆる外路地になります。御所らしく貴人用の雪隠が設けられています。
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四ツ目角垣の意味はこの竹から延びる枝を切り取った残りが伸びているからです。
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「又新亭」は明治17年の1884年に近衛家から献上された茶室です。もともとこの場所には修学院離宮から移築した茶室「止々斎」がありましたが火災により焼失しました。茅葺と柿葺の屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門により内露地と外露地に隔てられ、四つ目垣で囲むことにより結界を設けています。ここだけは侘茶の小天地を形づくっているようである。亭の門外に「外腰掛」があり,紅葉山の裾野の蘇鉄山と相対しているようです。
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最後に北池を眺めておきます。足元には舟着場が設けられ、和舟が留め置かれてあります。舟に乗って池に遊んだら楽しいでしょうね。
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参観時間の最後になって日射しが強くなってきました。
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美しい紅葉を目に焼き付けておきます。
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また近い将来に再訪したいものです。春と秋の景色は見ているので新緑と藤の季節が良さそうです。また予定月の3か月前の1日の午前4時に起きなければなりません。
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「仙洞御所」の参観も約1時間で終わりました。休憩したいところではありますが、表に出なければならず、表に出ると座るベンチも近くにはありません。
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この後は「京都御所」の見学が残っていますが、一度どこかで休憩が必要です。
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この門の中に有限な庭園が隠れているとは感じられません。
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息子市で東京に帰れるからと励まし続けています。
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京都御苑の東側の「清和院御門」の先に右大文字がきれいに見えました。ふもとには銀閣寺があります。最後にこの山へ登ったのは40年位前になります。8月16日の朝に登って、護摩木を納めてきた暑かった日のことを思い出します。旅も最後の「京都御所」の参観を残すだけになりました。
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二条・烏丸・河原町(京都) の旅行記
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旅行記グループ 2021大阪京都の旅
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