2020/12/12 - 2020/12/12
165位(同エリア4443件中)
+mo2さん
アーティゾン美術館の「石橋財団コレクション選」の続きです。
「Artizon Museum HP」より
アーティゾン美術館では、4階展示室にて「石橋財団コレクション選」と題し、2,800点余りからなる収蔵品の中から作品を選んでご紹介して参りますが、その一角に「特集コーナー展示」を設け、毎回異なるテーマにより収蔵品に新たな光をあてる企画展示を行ないます。2020年11月3日[火]から2021年1月24日[日]までは「青木繁、坂本繁二郎、古賀春江とその時代 久留米をめぐる画家たち」を開催します。本展では、ブリヂストン美術館の創設者・石橋正二郎の故郷である久留米にゆかりのある画家に焦点を当て、永らく非公開だった青木繁「仮面スケッチ」の一部や、坂本繁二郎の絶筆《幽光》など、新たに収蔵した作品も初公開します。
※作品解説は、HPより参照しています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
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坂本繁二郎 「牛」 1920年
馬に魅せられ、多くの馬を描いた坂本繁二郎ですが、若い頃はたびたび牛も描きました。その中で、この作品は、牛も柏の木も背景もすべてがモノクローム調に仕上げられ、他にはないユニークな色彩表現が試みられました。坂本は、この作品を発表したことで、東洋人独自の内的な深みを油絵で表現することを目標に掲げ、画家として生き続けることを宣言した形となり、世間もそう受け取ったようだと、晩年、回想しています。当時住んでいた池袋そばの牧場でスケッチし、それをもとに家で制作されました。2年がかりで完成したこの作品は、フランス留学前の集大成ともいわれています。 -
青木繁 「大穴牟知命」1905年
『古事記』の一場面です。大穴牟知命は大国主命の別名。大穴牟知は兄たちに謀られて焼け死に、それを悲しんだ母の願いを聞き入れた神産巣日神が蚶貝比売と蛤貝比売を遣わします。蚶貝比売が貝殻を削った粉に、蛤貝比売が乳汁を混ぜ合わせ、それを大穴牟知の体に塗りつけると蘇生しました。彼はその後数々の苦難を乗り越えて地上の支配者となります。手前に横たわる裸身の大穴牟知、左に蚶貝比売、右が乳房をつかむ蛤貝比売です。蛤貝比売がこちらを見つめる眼差しが、神話の世界と私たちをつなぐ強い絆になっています。 -
「大穴牟知命」(部分拡大)
蛤貝比売がこちらを見つめる眼差しが、神話の世界と私たちをつなぐ強い絆になっています。 -
青木繁 「わだつみのいろこの宮」1907年
読書家だった青木繁は内外の神話を広く読みあさり、その中から特に日本神話に取材した作品をいくつも残しました。この作品も『古事記』から取られています。兄の海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、それを探し求めて海底に下りていきます。すると「魚鱗のごとく造れる」海神綿津見の宮殿があり、その入り口に井戸を見つけました。水を汲みに宮殿から出て来た侍女が桂樹にすわる山幸彦に気づき、海神の娘、豊玉姫を呼びます。山幸彦と視線を交わす左の赤い衣が豊玉姫、右の白い衣が侍女です。やがて山幸彦と豊玉姫は結ばれて、2人の間に生まれた男児が天皇家の祖となります。
縦に細長い画面に3人の人物を配した構図には、青木が日本に舶載された印刷物などを通じて学んだ、イギリスのラファエル前派の影響が見て取れます。また、ギュスターヴ・モローの色づかいにも感化されていることを青木は語っています。青木は、日本にいて遠く離れた西洋の世紀末美術の特質を鋭敏に感じ取っていました。この作品は1907(明治40)年春に開かれた東京勧業博覧会に出品するために制作され、未完成作品の多い青木の中では完成度の高いものです。会場でこれを見た夏目漱石は、2年後の小説『それから』の中で、「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った」と書いています。 -
坂本繁二郎 「魚を持ってきた海女」1913年
坂本繁二郎31歳の作品です。前年、文展に出品した作品を夏目漱石に評価され、画壇で注目を集めました。漁を終えた海女が一服しているところでしょうか。外房旅行で着想を得た作品と考えられています。たらいや網、柄杓、松の枝、煙管など、円形や直線が巧みに配され、形態のリズムやバランスが熟慮されています。初期の作品には、この作品のように筆触を残した印象派的な表現が用いられました。この翌年、坂本は反官展を標榜する二科会結成に参加したため、これが最後の文展出品作となりました。 -
松田諦晶 「刈跡」1914年
青木、坂本より4歳下の松田諦晶は後続の画家を見守り、ときに彼らを先達と繋ぐ存在でした。 -
松田諦晶 「コンポジション」1922年
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古賀春江 「二階より」1922年
古賀春江は第9回二科展へ《埋葬》(1922年、浄土宗総本山知恩院)とこの作品を出品し、二科賞を受賞、中央画壇にデビューしました。その夏、訪れた筑前鐘崎(福岡県宗像市)にある旅館の2階から描かれた景色です。外の景色だけでなく、窓枠やその内側の室内も画中に収められています。藁葺きの三角屋根とそれを囲う四角の窓枠、また雲ひとつないすっきりとした空、近景に配された丸い果物や急須、たらいなどとの対比によって、形態のリズムを感じさせる斬新な構図となっています。翌年、パリで行われた二科会とサロン・ドートンヌの交流事業の展示でも展観されました。 -
古賀春江 「スケッチブック」1922年
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古賀春江 「海女」1923年
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青木繁 「海の幸」1904年
青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。
1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。アーティゾン美術館 美術館・博物館
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「海の幸」(部分拡大)
図柄は、10人の裸体の男が3尾の鮫を担いで、二列縦隊で砂浜を右から左へと行進する様子です。中ほどの人物を見ると、正面から強い光を浴びているのがわかります。青木は布良の地勢や地誌、風俗を体全体で受け留め、それを荒々しい筆づかいと、若々しさ溢れる題材で再創造しました。こうしたイメージを生み出したきっかけについては、青木自身が何も語っていないことから、パルテノン神殿のフリーズ彫刻、イギリスのラファエル前派、当時の雑誌などに載った医薬品の広告、布良の神社の祭礼など、多くの研究者が様々な可能性を指摘しています。 -
青木繁 「車中風景」1902年
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青木繁 「伎楽面」1900-02年頃
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青木繁 「舞楽面」1900-02年頃
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青木繁 「海景(布良の海)」1904年
「海の幸」と同じ夏に同じ布良で描かれたもの。モネなどの、フランス印象派の作品を見ていないはずの青木が、おそらく印刷物を通じてその表現を学び取っていたことを教えてくれます。 -
高島野十郎 「ベニスの昼」1930-33年頃
高島野十郎は、大正 - 昭和の画家。独学で絵の道に入り、透徹した精神性でひたすら写実を追求。終生家族を持たず、画壇とも一切関わらず隠者のような孤高の人生を送りました。 -
坂本繁二郎 「帽子を持てる女」1923年
坂本繁二郎は、1921(大正10)年、39歳で渡仏しました。当初はシャルル・ゲランの画塾アカデミー・コラロッシへ通いましたが、半年ほどで辞め、1924年帰国の途につくまで制作に専念しました。牛や馬、月や静物を題材とする作品でよく知られますが、滞欧中は人物画も多く手がけました。
この作品のモデルは襟元の広くあいた上衣をまとい、つばの大きな帽子を携え、安定感のある姿に仕上げられています。胸元のボタンと帽子の円形が呼応するリズムとなり、下方より上方へ、帽子、ボタン、左目、さらにはモデルの視線の行先を見る者に意識させ、空間の広がりを感じさせます。髪の毛、衣服、帽子と全体に茶色を基調とした落ち着いた装いですが、衣服に施された色面はその色調により互いにひき立てあっています。その中の一色エメラルドグリーンが背景にも用いられ、画面全体は明るい印象です。
1923年、グラン・パレで開催されたサロン・ドートンヌの会場の一角に二科展十周年事業の展示が特設され、そこにこの作品は展示されました。坂本は下宿先のドアに「面会謝絶」の札を掲げてその準備に励みました。尊敬するカミーユ・コローの《真珠の女》(1868?70年、ルーヴル美術館)に範を求めたともいわれるこの作品は、滞欧期の代表作です。それ以前の作品と比べると、分割された色の面が強調され、画面はより装飾的にまとめられています。坂本にとって作風の転換を図った挑戦作でもありました。 -
坂本繁二郎 「放牧三馬」1932年
生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教え、のちに青木繁の作品収集を勧めた人物でもあります。1921(大正10)年39歳のときにパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化され、淡い色調の色面によって装飾的に表現される作風へと変わりました。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。
その新しいアトリエで描かれたのがこの作品です。3頭の馬がそれぞれ正面、横、後ろに顔を向け、陽光に照らされて輝く体もそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。中央の馬の目に用いられたエメラルドグリーンが、馬の体や脚、空、地面、背景に見える木々のところどころに基調色として用いられ、画面全体を引き締めています。
友人に馬の絵を注文されたのが最初のきっかけとなり、坂本は没するまで数多くの馬を描きました。九州の豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、気に入る馬を求めて放牧場や馬市を訪ね回ったといいます。
この作品は、坂本が創立会員でもある二科展の第19回展へ出品された直後、正二郎によって購入されました。そして石橋美術館(現・久留米市美術館)へ訪れた坂本自身の手によって2度加筆されています。 -
坂本繁二郎 「能面と鼓の胴」1962年
坂本繁二郎が初めて能の舞台を見たのは、1913(大正2)年、31歳の頃です。感動した坂本は、詩人の三木露風と九段の華族会館能楽堂へ通いました。その後、茶道を始めた薫夫人の茶道具集めに付き添い、訪れた骨董屋で小面を求めたのが最初で、機会あるごとに多種の面を手に入れました。月日は経過し、還暦を過ぎた頃から描いた30数点もの能面シリーズは、魅力ある作品群として高く評価されています。能役者が舞台上ですきのない位置に身を置くように、謡本と能面、鼓胴が熟慮された構図で絶妙に配された、静けさの漂う作品です。 -
坂本繁二郎 「幽光」1969年
月を多数描いた画家としても知られる坂本の最晩年の「幽光](絶筆)。初公開の作品です。 -
古賀春江 「素朴な月夜」1929年
古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画会研究所で学びます。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名としました。宗教大学(現・大正大学)にも一時通いましたが、1918年に辞め、その後は画業に専念します。1922年の二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現へと転じました。
1929(昭和4)年、古賀はこの作品と《鳥籠》(cat. no. 161)を含む5点を第16回二科展へ出品しました。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機。卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているかのようです。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない不思議な世界が広がります。脈絡のないモティーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術の新潮流シュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品作とともにその作風は注目を集めました。
1931年に刊行された『古賀春江画集』には、31点の作品図版と自作の詩が解題として付されています。この作品の詩には、唯一共通のモティーフとして「白いまん丸い月」が登場しますが、「私」が水の中の底のほうへ歩いて行き、鉄張りでできた海豚のお腹の中へ入って行くという作品とは関連のない内容が表されています。 -
古賀春江 「遊園地」1926年
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古賀春江 「静物」
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髙田力蔵 「アテネのエレクテイオン」1938年
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