2021/10/09 - 2021/10/09
193位(同エリア4681件中)
+mo2さん
アーティゾン美術館2021年10月2日~2022年1月10日 石橋財団コレクション選です。ピカソ、ブラック、ジョアン・ミロなどの20世紀の作品から始まり、抽象画、至極の日本の西洋画コレクションと続きます。
※作品解説は、HPより参照しています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 新幹線
-
4階展示室です。こちらはピカソ、ルソーなどの作品が並びます。
-
ギュスターヴ・モロー「化粧」1885-90年頃
マティスやルオーらの師としても知られるモローは、サロンで成功を収め、エコール・デ・ボザール教授、美術アカデミーの要職に就きました。神話や聖書、文学作品を主題にした、華麗な色彩と精緻な線の作品により、1860年代に独自の世界を確立しました。この作品には、華やかに着飾って立つひとりの女性が描かれています。彼女は左肘をついた憂いのポーズをしていますが、作品の画題は曖昧です。左下に「化粧」という書き込みがあることから、このタイトルがついています。装いを終えたばかりの女性の装身具や衣装は艶やかで、水彩絵具のにじみやたまりを利用した手法が使われています。 -
オディロン・ルドン「神秘の語らい」
幻想的な内面世界を描いたルドンは、19世紀末フランスの象徴主義を代表する画家のひとりです。この作品は神秘的で厳粛な雰囲気の中で、円柱のかたわらに立って語りかける女性と、うつむいて耳を傾ける女性が描かれています。これはルドンが好んだモティーフのひとつで、版画やパステル、油彩など異なる技法で繰り返し描かれました。主題はキリスト教の聖書にある「聖母のエリサベツ訪問」とも、神秘主義的なものともいわれ、様々な解釈がなされています。ルドンの支援者で文芸保護者であったアルチュール・フォンテーヌの旧蔵作品です。 -
アンリ・ルソー 「牧場」1910年
パリ市の税関職員だった素朴派の画家ルソーは、40歳を過ぎてから独学で絵を描き始めました。この作品はルソーの最晩年、注文によって描かれたものです。牧歌的な田園風景の中に大きな樹と2頭の牛、牧童が描かれています。木の葉一枚一枚が細密に描写される一方、遠近法やモティーフの前後関係を無視した構図は、一見稚拙でもあります。しかし雲ひとつない真っ青な空や、不自然なほど平たく広がる緑の牧草地は、平凡な風景を幻想的に見せ、独特の魅力をたたえています。この作品は、ルソーに魅せられた日本画家土田麦の旧蔵品でした。 -
アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年
画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。 -
ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」 1929年
ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。 -
ジョルジュ・ブラック「円卓」1911年
ブラックはフォーヴィスムへの傾倒を経て、セザンヌの影響のもと、1909年頃にピカソとともにキュビスム絵画を創出します。「ザイルで繋がれた2人」と自ら表現した、キュビスムの発展をめぐるピカソとの切磋?磨は、セザンヌ以後の絵画の可能性に先鞭をつけた、モダニズム初期の金字塔といえます。自ら出征した第一次大戦後はキュビスムを離れ、主に卓上の静物を主題にして、触覚に基づく独自の絵画空間の構築に取り組み続けました。
この作品は1911年春、ブラックがル・アーヴルでの兵役から戻ったパリのアトリエで完成されたと考えられます。画面の下から3分の2ほどを円卓が占め、縦長の画面に呼応するように、中央の瓶を頂点にピラミッド形の構図がつくり出されています。卓上に絵具と絵筆、パレットと思しきものが見られるとすれば、大小様々な円柱は、油彩に用いるテレピン油入れや筆を洗う器と見ることができるでしょう。
安定した構図に基づいて幾何学的な円柱や切り子面が並ぶ画面構成は、外界の再現によることなく、その内部で自律した絵画のあり方を物語っています。署名が裏面になされているのもそれが理由でしょう。一方で、細やかな筆あとを残した描写、円卓の随所を彩る黄土色は、モティーフの触覚的な感覚を喚起します。再現的な要素を徹底して排除しつつ、空間の触知可能性を絵画で探求しようとした、ブラックの分析的キュビスムの盛期にあたる作品です。 -
ジーノ・セヴェリーニ「金管奏者(路上演奏者)」 1916年頃
セヴェリーニはイタリアの画家。未来派運動の中心的メンバーのひとりです。1906年11月にパリに移住。モンマルトルに居を構え、画業に専念するようになりました。路上で楽器を演奏する辻楽士が主題となっています。彼が持つ楽器はトロンボーンと言われてきましたが、その形体はむしろユーフォニアムのように見えます。ピカソ、ブラックに通じるキュビスム的造形が顕著で、一部には点描も用いられています。未来派の仲間の中でもいち早くキュビスムの手法を取り入れたセヴェリーニは、フランスの同時代の動向をイタリアに橋渡しした重要な役割を担っています。 -
パウル・クレー「ストロベリーハウスの建築工事」1921年
-
ヴァシリー・カンディンスキー「自らが輝く」1924年
カンディンスキーは、20世紀前半の抽象絵画の創出と発展に大きな役割を果たした画家です。絵画を精神活動として見なし、色彩や線の自律的な運動によるコンポジションの探求に取り組みました。ベルリンの分離派展やパリのサロン・ドートンヌ、ドレスデンのブリュッケ展などへの出品を経て、1911年にフランツ・マルクらと「青騎士」を結成。ロシア革命後には祖国の美術行政や教育において要職を務めるも、1922年、建築家グロピウスの招聘を受けて、ヴァイマールのバウハウスに加わりました。
この作品は、カンディンスキーがバウハウスに加わって2年後の1924年に制作されたものです。左下に画家のイニシャルと年記が確認できます。裏面には画家のモノグラムと題名、272番のハンドリストの番号、年記が確認されています。なお、画家自身によるハンドリストによると、この作品はこの年の3月から7月の間、すなわちヴァイマールのバウハウスの閉校前に制作されたようです。 -
パブロ・ピカソ「道化師」1905年
-
パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年ピカソは、第一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けました。結果として1918年から描かれる対象が、古代彫刻のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入りました。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持っています。
-
ジョアン・ミロ「夜の女と鳥」1944年
第2次大戦の勃発後、1941年にグワッシュによるシリーズ「星座」を制作して以降、夜と星のモティーフはミロの作品においてより大きな役割を担うようになりますが、本作品においてもその舞台設定がとられています。星の煌めきを表す記号とその他の天体の散りばめられた画面の中心を占めるのは、タイトルの示すとおり女性でしょう。両腕を大きく広げ、片足を跳ね上げるポーズは大らかにして活気に満ち、ミロのフリーハンドによる的確かつ効果的な描線が際立っています。 -
ジャン・フォートリエ「人質の頭部 」1945年
深緑色の画面に、目が何層にも連なったゆがんだ顔が厚塗りの絵具で描かれています。第二次大戦中、フォートリエはレジスタンス活動に参加し拘禁されました。「人質」の連作は、この不幸な出来事をきっかけに、占領下に虐殺された人々を悼んで制作されたものです -
アルベルト・ジャコメッティ「ディエゴの胸像」1954-55年
スイスの彫刻家・画家ジャコメッティは、若くしてシュルレアリスムの周辺で高い評価を受けた後、1940年代以降は主題を一変させ、人物の姿を見えるままに再現する試みに専心しました。この作品は、1951年から約4年間にわたって制作された、弟ディエゴをモデルとする肖像群の中の1点です。胸部の安定感と対照的に、首から上は頂部をなす鼻筋と唇、顎を残して肉が削ぎ落とされ、頭部の形態を把握する難しさを物語ります。結果として彫像の獲得した正面性は、見る者をおのずと正対させ、それはモデルを凝視する作家の視線をなぞることになるのです。 -
アルベルト・ジャコメッティ「矢内原」 1958年
実存主義哲学の研究員であった矢内原伊作がアルベルト・ジャコメッティと出会ったのは、フランス国立科学研究センターの研究員としてパリに滞在していた1955年のことですが、矢内原の顔のデッサンを試みたのを皮切りにモデルと画家の対峙がはじまります。その後も彼を描くことに拘り、彼を1957年から1961年にかけて、4回もモデルとして日本からパリに招聘しています。 -
マリア=エレナ・ヴィエラ・ダ・シルヴァ「入口、1961」1961年
ヴィエラ・ダ・シルヴァはポルトガル出身の抽象画家です。19歳でパリに出て、彫刻をブールデルとデスピオ、絵画をレジェに学びました。第二次大戦中は戦禍を避けてブラジルに逃れていましたが、1947年にパリに戻り、以後フランスの抽象画を代表する画家として活躍しました。彼女の作品は、街景を具体的なイメージとして描写することから始まり、次第にそれらを抽象化していく手法に特徴があります。この作品は、紙にグワッシュとテンペラで描かれており、繊細な線描と細かな色面により都市風景にも見える画面が展開されています。 -
ジョルジュ・マチュー「10番街」 1957年
マチューはフランスの画家。ヴォルスらによる戦後の新しい抽象絵画に触発されて、色彩豊かな動感溢れるイメージによって、人々の感情に訴えかける叙情的な抽象画を実践しました。この作品は、マチューが1957年にニューヨークで行ったパフォーマンス「ニューヨーク、10月9日の3時間」で制作した14点のうちの1点です。マディソン・アヴェニューのリッツ・ホテルとして使われていた廃墟の地下において、画家は10月9日のたった3時間で一気に描き上げたといいます。赤を地に、黒を主体とした生気に満ちた筆致で描かれ、画面いっぱいに緊張感がみなぎっています。 -
アンス・アルトゥング「T1989-H35」 1989年アルトゥングは、ドイツ出身のフランスで活動した抽象画家。戦後にパリに居を定めてのち、その制作は油彩画のすべてが多数の中から選ばれた1枚の素描に基づき、忠実にカンヴァスに写し取られる方法がとられていました。しかし1960年代以降は素描による準備段階を経ず、直接カンヴァスに大きな刷毛、ローラー、枝、スプレーなどの多様な道具を用いて描いた大型の作品が生み出されました。特に生涯最後の3年間は、スケールの大きく劇的な画面構成を試み、最後の創造的時代をつくりました。この作品は最晩年に制作されたもののひとつです。
-
ピエール・スーラージュ 「絵画 2007年3月26日」2007年
スーラージュは戦後フランスの抽象画家です。その作品は黒で統一された画面と、筆触による材質感を特色としています。この作品においては、水平方向の複数の筆触のテクスチャーにより、光の当たり具合によって画面の表情が多様に変化するイメージを見る者に提示しています。画家自身は「私は常に黒を使って、大きな絵画を描いています。反射の表面のようです。そして、反射でありながらただの反射ではないのです。というのもある色に衝突した光は変化します。そういう反射を、どう組み立てていくかが私の絵画なのです」と語っています。 -
堂本尚郎「集中する力」 1958年
1952年に伯父である堂本印象に随行した欧州滞在を機にパリへと渡った堂本は、油彩画へ転向。日本人画家の今井俊満や菅井汲とも親交を結んだ。1956年、ミシェル・タピエが主導する“アンフォルメル”運動に身を投じる。厚塗りの油絵とうねり渦巻く躍動的な形態という新たな画面を生み出し、非定型の抽象表現を目指すアンフォルメル運動の中心人物として脚光を浴びました。 -
ザオ・ウーキー「07.06.85」 1985年
ウーキーは、中国で東西の絵画を学んだのち、1948年にパリに渡り、同時代の叙情的抽象の動向に交わる中で、東洋的な宇宙観の息づく独自の画境を切り開きました。画題は作品が完成した日・月・年を示し、画面は言葉による規定を免れています。色彩の厚みと濃淡を伴って荒波のように立ち上がる青の色面、その下で白がつくる水平方向の流れは、緊張に満ちた力の均衡が視覚化されているかのようです。自然を形づくる力学を大胆につかみ出し、自在な筆致にその感性の働きを表出させているところに、ウーキー円熟期の魅力がうかがえます。 -
川端実「作品」1963年
日本画の芸術家一家に育った川端実は、東京美術学校の西洋画科に進み、藤島武二に学びました。1939(昭和14)年、川端は28歳で渡仏しますが、戦況の悪化により2年後には帰国を余儀なくされます。1958年、抽象表現主義の最盛期にあったアメリカに渡り、以後ニューヨークを拠点に活動し、独自の抽象表現を確立していきました。この作品は、黒を基調とする大画面を、斜めに走る白線が緊張感を生み、緑、青、赤などの鮮やかな色彩が重なり合いながら微妙な表情を見せています。第7回日本国際美術展に出品され、ブリヂストン美術館賞を受賞しました。 -
野見山暁治「あしたの場所」2008年
この絵にかぎらず、一旦手を離れてしまった絵について、それらを制作したときのことはあまり覚えていないと野見山暁治は語ります。ただ、この絵は手こずることなくササッと描けたと、その印象は残っているようです。左上部、カンヴァスの地塗りの上に斜めに引かれた黒線や、中央から水平に引かれた黒線は、悠々とした伸びを見せています。本格的に絵を志して以来、油絵具での表現を基本としてきた野見山ですが、版画や絵本、本の執筆など、その活動は広範囲に及びます。そしてこの年、ステンドグラスの壁画制作に取り組み、新たな表現に挑んだのです。 -
田中敦子「1985 B」1985年
色とりどりに点滅する電球を身にまとった作品《電気服》(オリジナルは現存せず)で知られる田中敦子は、戦後日本の前衛芸術を代表する存在です。大阪で金山明、白髪一雄、村上三郎らが結成した「0会」に参加し、1955(昭和30)年、具体美術協会に入会します。様々なパフォーマンスを発表し注目を集める一方、《電気服》を展開させた平面作品を制作し、フランスの美術批評家ミシェル・タピエにも高く評価されました。この作品のように色鮮やかな大小の円と、電気コードを思わせる線が複雑に絡み合い構成された作品は、生涯を通じて多彩なヴァリエーションを見せています。 -
白髪一雄「白い扇」1965年
城下町の歴史を持ち商工業が栄える尼崎の呉服商の家に生まれた白髪一雄は、京都で日本画を学びました
油彩画に転向した後、次第に前衛的な表現に惹かれるようになり、1955(昭和30)年、吉原治良が率いる具体美術協会に加わります
吉原の指導のもと、だれも試みなかった方法を追求し、カンヴァスを床に広げて天上からロープを吊るし、それにつかまりながら足で抽象絵画を描くことを始めました
足の裏が画面に残す痕跡は、画家の肉体と精神の存在を強く私たちに訴えます
大きなヘラ状の器具を手で動かして描いた作品も、同様に画家の物理的行為を雄弁に物語ります -
こちらは照明をおとし暗くした展示室になります。
-
アンリ・リヴィエール「ル・ベシェ、サン=ブリアックの港(『ブルターニュ風景』より)」1890年 木版
-
アンリ・リヴィエール「波(マルティ版『レスタンプ・オリジナル』第4号所収)」1893年刊 8色刷りリトグラフ
-
アンリ・リヴィエール「ノートルダム楼上より」1900年 リトグラフ
-
フェリックス・ヴァロットン《街頭デモ(マルティ版『レスタンプ・オリジナル』第1号所収)》1893年刊 木版
-
フェリックス・ヴァロットン《入浴(マルティ版『レスタンプ・オリジナル』第8号所収)》1894年刊 木版
-
フェリックス・ヴァロットン「信頼する人」1895年 木版
-
エミール・ガレ「蜻蛉草花文花瓶」1880-1900年頃
-
エミール・ガレ「クレマチス文耳付花瓶」
-
エミール・ガレ「野草文花瓶」
-
エミール・ガレ「野草文花瓶」
-
関根正二 「子供」1919年
貧しい職人の家に生まれた関根正二は、印刷会社などで働きながらほぼ独学で絵を学びました。早くも16歳で画壇にデビューしますが、20歳2カ月で病気により亡くなるまで、画家としての生活は4年間しか与えられませんでした。画材に恵まれなかった上に、震災や戦災で失われた作品も多く、現在、油彩画は約30点しか残されていません。この作品は、亡くなる数カ月前に描かれた、現存する最後のもの。描かれているのは14歳下の末弟武男だと考えられます。遠くを見つめる少年の眼差しには、死を前にした画家の生命への希求が感じられます。 -
小出楢重 「帽子をかぶった自画像」1924年
1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。 -
松本竣介「運河風景」1943年
松本竣介は1930年代から第二次大戦後にかけて、知的な操作による抒情豊かな風景画や人物画を数多く残しました。東西の古典美術を学習し、考え抜かれた静謐な画面を透明感のある描法でつくり出します。また妻禎子とともに月刊誌『雑記帳』を刊行し、様々な文章を意欲的に発表するなど、時代に翻弄されがちな画家のあるべき姿を世に問い続けました。
1930年代初めからジョルジュ・ルオーやアメデオ・モディリアーニ、ゲオルゲ・グロスなどの影響を受けて、青や茶色のモンタージュ風の都市風景に取り組みますが、戦火が激しくなる1940年代には、東京や?浜の気に入った風景を暗く静かな色調で繰り返し描きました。
この作品は、東京の新橋近くのゴミ処理場とそこを流れる汐留川にかかる蓬莱橋だと考えられています。この堀り割りは1960年代に埋め立てられてしまいましたが、「蓬莱橋」は地名として今も残っています。運河風景は、この時期の松本が最も好んで取り上げた主題のひとつでした。橋桁や建物、電柱などによる水平線、垂直線の精緻な組み合わせが画面に奥行きを与え、戦争末期の重苦しい空気と社会の置かれた状況を、私たちへ雄弁に語りかけます。人間がほとんど描かれていませんが、まさしくこの時代の人間生活や、あるいは生命を表しているともいえるでしょう。この作品は1943(昭和18)年4月に、靉光、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎らと結成した新人画会の第1回展で発表されました。 -
古賀春江 「素朴な月夜」1929年
古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画会研究所で学びます。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名としました。宗教大学(現・大正大学)にも一時通いましたが、1918年に辞め、その後は画業に専念します。1922年の二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現へと転じました。
1929(昭和4)年、古賀はこの作品と《鳥籠》(cat. no. 161)を含む5点を第16回二科展へ出品しました。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機。卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているかのようです。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない不思議な世界が広がります。脈絡のないモティーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術の新潮流シュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品作とともにその作風は注目を集めました。
1931年に刊行された『古賀春江画集』には、31点の作品図版と自作の詩が解題として付されています。この作品の詩には、唯一共通のモティーフとして「白いまん丸い月」が登場しますが、「私」が水の中の底のほうへ歩いて行き、鉄張りでできた海豚のお腹の中へ入って行くという作品とは関連のない内容が表されています。 -
岸田劉生 「麗子像」1922年
岸田劉生は1918年の《麗子肖像(麗子五歳之像)》(東京国立近代美術館)に始まり、娘をモデルにした作品を繰り返し描きました。この作品は、左上の署名と年記から1922年、麗子が7歳のときのものであることがわかります。モデルをつとめていたときにちょうど風邪をひいていたため、麗子の首には白い布が巻かれています。この作品はテンペラを使って描かれており、水彩とも油彩とも違った独特の風合いが感じられます。劉生自身も仕上がりに満足したようで、当時の日記にも「一寸面白く出来た」と記しています。白樺派の詩人木下利玄の旧蔵作品です。 -
黒田清輝 「針仕事」1890年
法律を学ぶためにパリへ留学した黒田清輝は、画家山本芳翠らに勧められて洋画家に転向します。伝統的なアカデミズムと新しい外光表現を合わせ持つラファエル・コランに師事し、サロンに入選するまでの技量を身につけました。28歳で帰国した後は、洋画壇に新風を吹き込み、有力な旧薩摩藩士の嫡男という出自もあって、招かれて東京美術学校に新設された西洋画科を率いることとなります。西洋の絵画学習法や主題の選び方など美術にかかわる基本的枠組みを日本に移入しようと心がけ、明治期後半の美術界に大きな役割を果たしました。
この作品は、留学中のフランスで描かれました。黒田はパリの南東70kmにある小村グレー=シュル= ロワンを愛してしばしば滞在し、都会から離れ自然と人間生活が調和し、多くの外国人美術家を惹きつけたこの村で、肩肘の張らないのびのびとした作品を数多く残しています。窓辺で無心に針仕事にいそしむ女性は、黒田が部屋を借りていた農家の娘、当時19歳のマリア・ビヨーです。マリアはたびたび黒田のモデルをつとめ、画家に様々なインスピレーションを与えました。窓から差し込む光がマリアの体を包み込み、画面全体をやわらかくほぐしていて、当時の黒田が光の扱い方に取り組んでいたことを教えてくれます。また、後年まで黒田が好んだ、労働する女性という主題の萌芽を見つけることもできるでしょう。 -
藤田嗣治「猫のいる静物」1939-40年
この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれました。テーブルの上に描かれた様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもあります。しかし、飛び立つ鳥や獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い背景はバロック的な明暗表現というよりも、画面の平面性を強調する役割を果たしています。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場します。 -
岡鹿之助「雪の発電所」1956年
岡鹿之助が描いた風景の多くはアトリエの中でつくり上げられた架空の情景でしたが、この雪景色のきっかけは珍しく実在のものです。1956(昭和31)年2月に主治医の米山弥平博士に連れられて、志賀高原西麓にある中部電力平穏第一発電所を岡は訪れます。今も現役の水路式水力発電所です。空想の中にあった風景と同じだったので岡は驚いたと伝えられます。しかし、その年5月の展覧会に出品されるまで、画面は手前の平地を水平に持ち上げたり、水圧鉄管の位置をずらしたり、電柱の数を調整したり、様々な造形上の工夫が施されました。 -
安井曾太郎 「F夫人像」1939年
1934(昭和9)年の《玉蟲先生像》(東北大学)、《金蓉》(東京国立近代美術館)によって、肖像画の名手という評価を得た安井曾太郎には、その後、生涯にわたって肖像画の注文が途絶えることがありませんでした。この女性は、コレクターである福島繁太郎の妻で、随筆家として知られた慶子です。2人は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、パブロ・ピカソなどの同時代の画家から数多くの作品を購入して日本に持ち帰りました。
パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました -
藤島武二「天平の面影」1902年
藤島武二は、明治30年代から昭和10年代まで日本の洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家です。日本人による油彩画のあり方を突き詰めて追求し、その技法と材料の特性を生かし切った画面をつくり出しました。
30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。白馬会展に発表されると、ただちに象徴派詩人蒲原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げました。 -
藤島武二「黒扇」 1908-09年
現在、藤島武二のローマ時代の代表作として広く知られた作品ですが、発表されたのは画家の最晩年のことです。画室の奥深く、中二階へ上がる階段の裏にカンヴァスのまま長く鋲で留められていたといいます。病床にあった藤島の代わりに弟子の小堀四郎が取り出し、木枠に張ってニスを塗ったところきれいな画面が蘇って、藤島がとても喜んだという逸話が伝えられます。なぜ人に見せようとしなかったのかは、モデルと画家の特別なかかわりなど、私たちに様々な想像をかき立てさせますが、その理由はよくわかりません。
まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。 -
藤島武二「東洋振り」1924(大正13)年
西洋の肖像画のようでありながら、人物と衣装は中国風。エキゾチックな魅力に溢れた作品です。
イタリア・ルネサンス期の横顔肖像の構図を借りて、中国服を着た日本人女性の横顔を描いた「東洋振り」は、藤島の留学後10年にしてあらたな躍進の契機となった作品です。その後、横顔のシリーズは1927年まで同様の作品を集中的に制作されており、ポーラ美術館の「女の横顔」などがあります。 -
坂本繁二郎 「帽子を持てる女」1923年
坂本繁二郎は、1921(大正10)年、39歳で渡仏しました。当初はシャルル・ゲランの画塾アカデミー・コラロッシへ通いましたが、半年ほどで辞め、1924年帰国の途につくまで制作に専念しました。牛や馬、月や静物を題材とする作品でよく知られますが、滞欧中は人物画も多く手がけました。
この作品のモデルは襟元の広くあいた上衣をまとい、つばの大きな帽子を携え、安定感のある姿に仕上げられています。胸元のボタンと帽子の円形が呼応するリズムとなり、下方より上方へ、帽子、ボタン、左目、さらにはモデルの視線の行先を見る者に意識させ、空間の広がりを感じさせます。髪の毛、衣服、帽子と全体に茶色を基調とした落ち着いた装いですが、衣服に施された色面はその色調により互いにひき立てあっています。その中の一色エメラルドグリーンが背景にも用いられ、画面全体は明るい印象です。
1923年、グラン・パレで開催されたサロン・ドートンヌの会場の一角に二科展十周年事業の展示が特設され、そこにこの作品は展示されました。坂本は下宿先のドアに「面会謝絶」の札を掲げてその準備に励みました。尊敬するカミーユ・コローの《真珠の女》(1868?70年、ルーヴル美術館)に範を求めたともいわれるこの作品は、滞欧期の代表作です。それ以前の作品と比べると、分割された色の面が強調され、画面はより装飾的にまとめられています。坂本にとって作風の転換を図った挑戦作でもありました。 -
坂本繁二郎 「放牧三馬」1932年
生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教え、のちに青木繁の作品収集を勧めた人物でもあります。1921(大正10)年39歳のときにパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化され、淡い色調の色面によって装飾的に表現される作風へと変わりました。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。
その新しいアトリエで描かれたのがこの作品です。3頭の馬がそれぞれ正面、横、後ろに顔を向け、陽光に照らされて輝く体もそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。中央の馬の目に用いられたエメラルドグリーンが、馬の体や脚、空、地面、背景に見える木々のところどころに基調色として用いられ、画面全体を引き締めています。
友人に馬の絵を注文されたのが最初のきっかけとなり、坂本は没するまで数多くの馬を描きました。九州の豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、気に入る馬を求めて放牧場や馬市を訪ね回ったといいます。
この作品は、坂本が創立会員でもある二科展の第19回展へ出品された直後、正二郎によって購入されました。そして石橋美術館(現・久留米市美術館)へ訪れた坂本自身の手によって2度加筆されています。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
アーティゾン美術館
-
前の旅行記
石橋財団コレクション選 「印象派ー画家たちの友情物語」
2021/10/02~
丸の内・大手町・八重洲
-
次の旅行記
Artizon Museum はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡(1)アーテ...
2022/02/11~
東京
-
Artizon Museum 開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地(1)アートをひろげる-Unf...
2020/02/08~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地(2)アートをひろげる-Unf...
2020/02/08~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地(3)アートをさぐる-Expl...
2020/02/08~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地(4)アートをさぐる-Expl...
2020/02/08~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地(5)アートをさぐる-Expl...
2020/02/08~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 琳派と印象派 東西都市文化が生んだ美術(1)
2020/12/12~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 琳派と印象派 東西都市文化が生んだ美術(2)
2020/12/12~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 石橋財団コレクション選(1)
2020/12/12~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 石橋財団コレクション選(2)青木繁、坂本繁二郎、古賀春江とその時代 久留米をめ...
2020/12/12~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展...
2021/03/06~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展...
2021/03/06~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展...
2021/03/06~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展...
2021/03/06~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展...
2021/03/06~
丸の内・大手町・八重洲
-
石橋財団コレクション選 「印象派ー画家たちの友情物語」
2021/10/02~
丸の内・大手町・八重洲
-
石橋財団コレクション選 2021年10月2日~2022年1月10日
2021/10/09~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡(1)アーテ...
2022/02/11~
東京
-
Artizon Museum はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡(2)新地平...
2022/02/11~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡(3)ブリヂ...
2022/02/11~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡(4)ブリヂ...
2022/02/11~
丸の内・大手町・八重洲
-
アーティゾン美術館・写真と絵画-セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策(1)
2022/04/30~
丸の内・大手町・八重洲
-
アーティゾン美術館・写真と絵画-セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策(2)
2022/04/30~
丸の内・大手町・八重洲
-
アーティゾン美術館・写真と絵画-セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策(3)
2022/04/30~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎(1)
2022/09/11~
丸の内・大手町・八重洲
-
Artizon Museum 生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎(2)
2022/09/11~
丸の内・大手町・八重洲
-
アーティゾン美術館:アートを楽しむ ー見る、感じる、学ぶ
2023/05/03~
丸の内・大手町・八重洲
-
石橋財団コレクション選 2023年2月25日- 5月14日 特集コーナー展示 画家の手紙
2023/05/03~
丸の内・大手町・八重洲
-
2024.2 石橋財団コレクション選
2024/02/18~
丸の内・大手町・八重洲
-
2024.2 石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 野見山暁治
2024/02/18~
丸の内・大手町・八重洲
-
2024.6 石橋財団コレクション選
2024/06/15~
丸の内・大手町・八重洲
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (2)
-
- チーママ散歩さん 2021/10/13 08:10:39
- おはようございます。
- おはようございます。
美術にお詳しいのですね。
度々美術館にお出かけですが、ご自身も描かれるのでしょうか^_^
あれだけ解説できるなんて。
絵よりも+mo2さんに関心あります(o^^o)
裸婦像を書く学生さんの気持ちは?
純粋な美術の世界にそぐわない私です(≧∀≦)
ただ、見て心に響くものはありますが、なかなか表現できません。
非常に勉強になりました。
- +mo2さん からの返信 2021/10/14 07:04:20
- RE: おはようございます。
チーママ散歩さんおはようございます。
私の旅行記にコメント頂きありがとうございます。
美術館は大好きで、展覧会へは度々出かけている
のは事実なんですが、私自身は美術には全くくわしく
なく自分で絵を描くなどということもありません。
単なる絵画が好きなおじさんです(笑)
解説も旅行記にも記したとおり、HPから参照
しているのが大部分です。
美術館で絵画等を直接見て感動し、家に帰ってから
HPや図録で作者のことやその背景を知ってもう一度
楽しむという感じでしょうか。
ですから解説に対しお褒めのコメント頂くと
恥ずかしい限りです。
今後とも宜しくお願いします。
+mo2
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
丸の内・大手町・八重洲(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ アーティゾン美術館
2
51